ぼんやりとした違和感というか、
不快感というか、
その対象と自身との居心地の悪い差異を感じることが
けっこうあります。
理解できないまではいかずとも、
いまいち納得できねーみたいな。
非常に説明しにくい感覚ですが、
その対象を目の当たりにすると
なんかグズっとしたシコリがプックリできるんですな。
例えば、
びしょ濡れの人間に毛布。
ビールかけ。
タッチパネルを指で触れるiPhone。
「かわいそう」と思う側の立場。
冷し中華のダシに使った鶏骨のササミ部分をそのまま具にも使用。
身内を事件で失った肉親が見せる様々な反応。
世界にひとつだけの花の歌詞。
大統領候補の演説を聞く聴衆、
等々。
びしょ濡れの人間に毛布。
ビールかけ。
タッチパネルを指で触れるiPhone。
「かわいそう」と思う側の立場。
冷し中華のダシに使った鶏骨のササミ部分をそのまま具にも使用。
身内を事件で失った肉親が見せる様々な反応。
世界にひとつだけの花の歌詞。
大統領候補の演説を聞く聴衆、
等々。
毛布は温かく寝る為のモノであり水とは対極に位置すべきでニュースなどで見る水難被害者などにはまずびしょ濡れの身体をタオルで拭いてあげてから毛布でくるんで保温してあげてほしいし、本来美味しく飲むモノであるビールを巨額を投下した球打ち娯楽で優勝して嬉しくてテンションが上がったからといって決してかけあうべきではなく1本でいいからちょうだいと毎年思うし、つねに清潔に美しくクリアに保たれるべきである精密機器の画面をポテチを食べた後に代表される汚い指で触れるリスクは可能な限り避けたいし、「かわいそう」と思ったり発言できるのは自分の立場や安全などが保証された側のみが発することが出来る言葉であるという自覚がない限りはその対象との間に見えない優越の差が存在し続けるだろうし、冷し中華のダシに使った鶏骨のササミを削いでそのまま具の一つにのっけられてもオカンそこはダシをとる材料として割り切ってくれよとテンション下がるし、ニュースなどで身内を事件で失った直後に肉親が稀に淡々とインタビューに答えている姿を見ると自分ならこんなに冷静に語れるだろうかと悲しみという感情の表層への露出度の差異に衝撃をうけるし、No.1にならなくてもいいもともと特別なオンリーワンだから大丈夫と歌われてもそれをただの逃げ口上にとらえて安心するのは避けたいしNO.1を目指すからこそオンリーワンになるんじゃないのかなんて思ったりするし、大統領候補者の演説にロックコンサート並の喝采を贈る世界のリーダー国の国民と独裁者に対する某近隣社会主義国の過剰な反応に差異はなく独裁国家などと一緒にするなと世界のリーダー自負国側が言うのならそれは「お腹が痛いけどウンコの痛さとはちゃうねん」と訳の解らないとこにプライドを持った小学生の発言と同じだと思うんですな。
人が持つ既成概念とか価値観の類いってやつは、
それぞれの感覚の尺度やら、
能力やら、
文化や宗教も含めた育ってきた環境やら、
いろんな現実的利害やら、
都合によって、
それぞれに取捨選択され、
規定され、
系統だてて切り取られ、
ライン引きされていくものなんでしょうが、
そういったものに振り回されたり怯えたり凹まされたりして、
オイラも生きているんだなぁ。
・・・・ってことを締め切り前の編集室で
鼻をほじりながら1.7秒くらいの間にふと思ったので、
ここに発表してみました。
ご静読ありがとうございました。
ご静読ありがとうございました。