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済州島4・3事件60年慰霊祭

2008年04月09日 | 活動
4月2日~4日 済州島に出かけました。
4・3事件60年慰霊祭に参加してきたのです。
写真は始まる前の、慰霊祭のステージです。ドーム型の建物には、4・3事件の犠牲者の名前(位牌)が掲げられています。お線香をあげてきました。
大阪の遺族代表の金さんのおつれあいのお父さんは行方不明だったそうですが、名前を見つけることができた、とおっしゃっていました。
「お父さん、来たよ」と名前を撫でてきたと聞いて、「良かったですね」と…
60年の歳月は長いですよね。

済州島4・3事件とは…
 1948年4月3日に現在の大韓民国南部、済州島で起こった人民遊撃隊の武装蜂起にともなうとされる虐殺事件。南朝鮮労働党が関わっているとされ、政府軍・警察による粛清と鎮圧によって、多くの島民が虐殺された。(フリー百科事典「ウィキペディア」

私たちは、村民のほとんどが虐殺された北村里や、百祖一孫之地(120~30人の人が一堂に集められ虐殺され、7年間はその場所に近づくこともできず、その後訪れることができたときには、犠牲者は骨になっていて、誰が誰かわからずになったので全員がみんな祖先ということで、お墓をつくられた)などを訪れました。
この事件は済州島民が"アカ"に仕立て上げられ、大量虐殺されたという悲劇だったわけですが、韓国史の中では、記憶されない歴史となっていました。
韓国社会の民主化とともに2000年に「済州4・3特別法」が制定され、これを通じて真相究明の作業が成されることになったそうです。
2006年の夏に済州島を訪れましたが、そのときになかった慰霊碑などが建てられたりしていました。
慰霊祭には、日本から多くの遺族やその関係者が参加していたようです。
特に、大阪には済州島出身の方が多いです。
また、済州島は、第二次世界大戦末期に、日本が米軍の攻勢におされるようになると、沖縄に続く日本本土死守のための「対米決戦に向けた最後の砦」として位置づけられていました。その作戦計画の跡が、まだたくさん残っているのです。
平和博物館や、アルトル飛行場、抗日記念館なども見学してきました。
歴史というのは、つくられていくものだということがよくわかります。
私たちは、とにかく過去にしっかり学んで、前進していかなければならないと強く思いました。

慰霊祭の前夜祭に、沖縄から、ということで、海勢頭豊さん、那良伊千鳥さんが参加され歌われました。

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