6月3日、カウンセリング Iのスクーリング修了試験の下書き原稿を仕上げ、加えて学習障害概論の自主追加レポートをほぼ完成した。引用したWISC-IIIのデータとK-ABCのデータの解釈について、再考しようと考えたが、K-ABCの詳細データを新潟において来てしまったので、完成は見送った。
6月5日、K-ABCのデータを再レビューし、追加レポートを完成。西永先生に送付。今回は横浜情報センターを通す必要がないので、表紙を割愛し、メールで直送した。
6月6日、驚いたことにもうレポートにコメントが付いて返送されてきた。
師曰く
「2度目のレポートお疲れ様でした.コンパクトにまとめられていまして,第三者が読んでもわかりやすいと思います.長期的な視点として調理師免許の取得というプラクティカルな選択はとてもいいと思います.また,読みが苦手であるけれども,音声による理解は得意であり,読み上げる支援があれば,学習を進めていくことができるのは素晴らしいことであると思います(読み上げ支援は容易な支援ではありませんが,コンピューターによるエイドがつかえるといいなぁと思います).
検査結果は,やはり学習障害でしょうね.学習障害とADHDは相反するものではないので,お医者さんの診断も間違っているとは思いませんが...お子さんを見たわけではないので,はっきりしたことは言えませんが,不注意による視覚弁別が弱くて,字が読みにくいかもしれません.視覚弁別練習も有効だったかもしれませんね.」
レポートには中学生になる対象児の学習障害による困り感、現状の支援方法、就労に向けてのビジョンの組み立てと、長期支援の展望について記載した。あくまでも教科書のつまみ食い的な内容は避けたつもりである。対象児は実は医療的にはADHDの診断を受けてはいるが、学習面においての困り感は学習障害と何ら変わるところはない。医療判断はあくまで一つの切り口であり、金科玉条のごとく、ADHDだからと、縛られる必要はないのである。
さて、今週末は優しい子倶楽部、ポーテージ新潟教室。翌週末はカウンセリング Iのスクーリング後半戦、そしてその次は言語発達学…当分週末は忙しい。ぼちぼちカウンセリング Iのレポートの準備に取り掛かることにしよう。
私は そう聞かれたときに「診断された年齢は同じ年齢の時ですか?」と聞くことにしています。
子供の発達とともに その時点で強調してみえる状態は 違ってくることも少なくありません。
カウンセラーと医療と学校の先生 そして親の考え方とらえ方がそれぞれ違うというよりは 発達の段階によって カードがかわっていくのだということは「みんな知っていると思っていました」という 知っている人と 知らない人の意識の差はとても大きいと感じています。
ADHDの子どもの約80%はASPを中心とした自閉傾向をもつと言われ、幼児期には特に多動が目立つために、その、印象からADHDと診断され、小学校高学年になって実はASPでしたという話は、身近でもよく耳にします。
一方で、ADHDは高学年になると治るという誤解がよくあります。確かに多動性、特に離席行動が治まることは、しばしば観察されるところですが、本質的には成人になっても、不注意傾向は継続され、大人のADHDというのも間違いなく存在します。
多動傾向が治まるにつれ、相対的にそれまであまり目立たなかった自閉性の特性が、だんだん目立つようになり、ASPの診断が下るというケースも多くあります。この場合、医学的にはASPの方がADHDの上位診断基準であるため、診断名はASPとなり、たとえADHDの特性が濃厚であっても、医療上はASPとして分類されます。
理屈はそうなのですが、実際に小学校低学年のお子さんを見ていると、ASPとADHDのお子さんはかなり違いがあるように思えます。これは一般論なのですが、ADHDのお子さんの方が攻撃的なお子さんが多いように思えます。とは言っても、ADHDのお子さん同士は意外と友達関係が相互に築きやすいようにも思えます。まるで、仲間の匂いが分かるかの様に。これに対して、ASPのお子さんは、やはり我が道を行く的ですが、メンタル的に傷付き易い様にも感じます。
また、ADHDの症状は薬物によってかなりのケースにおいて症状が緩和できるので、医療判断を受けるのは大切と考えられます。
LDは医療と教育では定義が違い、医療上の定義の方が非常に狭くなっています。医師に言わせれば文科省の定義は広すぎて、なんでも含むようになってしまうとの見方もあります。教育現場では学業不振の一因として、LDを疑うことは大切なことでありますが、その定義に当てはまるか否かという分類上の議論の前に、如何にその子に合った教育が具現でき、その子の困り感を低減できるかということこそ、大切な問題と考えます。