ヤッちゃんパパ奮戦記

HFAの息子に啓発されて、化学を専攻した小父さんが畑違いの自閉症療育の世界へ。50の手習い、子育て奮戦記…

水泳教室・・・って!

2007-04-30 09:40:14 | 子どものこと


4月28日 39回目の優しい子倶楽部。今回から武蔵先生に習って「Navigating the Social World」に紹介されたエモーション・メーターのアイディアを取り入れた「優しい子メーター」の使用を開始した。自分の感情の強さについて定量的な感覚を学ばせ、人の気持ちを推し量る時に同様に定量的に判断できる様にする訓練である。今回は初回なので、「優しい子メーターというのをこれから使うよ」程度のほんの触りの段階であった。

夜、このことを書こうかと思ってPCに向かいメールのチェック等行っていて、ちょっと気になるブログ記載に出会った。「星に願いを」、マドさんのブログである。「障害児プール=なんだよ〜!と思ったこと 」という題であった。そちらにコメントを書こうかとも思ったのだが、この場で少し考えてみたいと思った。で、優しい子メーターの話は次の機会に譲ることにした。

詳細は分からないので、民間か公営かすら不明であるが、東京に「障害者プール」なる催しを行っている施設があり、マコちゃんは2回目の参加(1回目は面接だけで、このプールに入ったのは初めてであったらしい)。指導員が自閉系のお子さんの特性を理解しておらず、思わぬいやな思いをしたことが綴られていた。詳しく知りたい方は
http://blog.so-net.ne.jp/MADONNA-DREAM/2007-04-28
をご覧あれ。

いろいろ、思うことがある。
この「障害者プール」がどの範囲のハンディーキャップをもったお子さんを対象にしているのかは不明であるが、少なくとも面接を受けたうえで参加している以上は自閉系のお子さんを包括する活動であることは確からしい。専門性を持たない専門家?が大手を振って指導している、運動系の活動に有りがちと言えば、語弊があるかも知れないが、珍しいケースとは言い難い事例である。

基本的にはこういったケースの指導者はハンディーキャップを持っている人を見下している場合が多く(従って、命令口調になる)、その個性などには全く目をやらず、同じ色合いを持った人たちとして捉えがちである。加えて言葉多く説明して上げているのだからという、妙な押し付けがましさを持ち、自分がその分野の専門家気取りでいるから、敵わない(「正に馬鹿に付ける薬はありゃしない。」ということを絵にかいたような存在だ。)。悪口はともかくとして、マコちゃんにとっては、とんだ災難であったに違いない。

こういった運動系の活動は、例えばリトミックや感覚統合運動も含めて、自閉症児には「nice  to have~あったら良いかも」程度のものであり、療育活動の根幹となり得るものではない。本質はあくまでも、楽しみを増やし、生活に豊かさを加える補助的なものである。であるからこそ、大切なことは、何よりも子ども達がその活動を楽しめることが第一である。主役はあくまでも子ども達。「勘違いした指導者のためにあるのではない。」ということが前提である。一般の療育活動と言えどもそれは例外ではない。

ヤッちゃんは年中児の時から上越市にある民間の水泳教室に通っている。この教室は一般向けのもので、特に障害者対象を謳っている訳ではないが、クラス等級の設定がスモールスッテプであり、強化刺激の設定も適切である。何よりも指導員をはじめ職員の対応が良いところが気に入っている。この企業は英会話教室や小学生向けの塾も経営しているが、障害者療育とは無縁である。では何故? そんなに上手く運営されているのだろうか? 私は子どもを主役に置いているからに他ならないと思える。だからこそ、ヤスはこれを楽しみに通っていける。これが一番大事なポイントだ。人としての優しさがあるかどうかと言ってもよい。

さて、問題の障害者プールの場合は、そう簡単に方向転換することは、難しいかも知れない。暫くは自己支援ツールを持たせてあげて、補って行くのが良いかも知れない、等と思う。
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男らしさ について

2007-04-24 13:16:51 | 星槎大学


予定から二日遅れで、「共生科学概論 I」のレポート2通を完成させ、発送した。この講座はレポートに字数制限がないところが助かる。命題が大きいためにとても1,600時程度ではまとめることが難しい。このレポートが完成したことにより、あとはスクーリング後に出すレポートのみが残った。GWはRDIと優しい子倶楽部に集中できそうである。5月はポーテージ協会の支部長会議と星槎大学のスクーリングが重なるために、家人に教室を任せることになるが、下準備は何れにしてもしなければならない。

さて、共生科学概論Iの教科書である「多文化世界」は通読してみると、なかなか面白い本であった。レポート課題の一つに、『考察対象を自由に設定して、「男性らしさ・女性らしさ」という視点を用いて論ずる。』というのがあった。この点だけは、教科書の記載が自分の考えとは視点が大分違うように思えた。前提になる概念に疑義がある場合、どうしたものであろう?ちょっと頭を痛めたが、結局「考察対象を自由に設定して」という文言を頼りに自分の考えをまとめてみた。果たしてどんな評価が返ってくるか、逆に担当の先生を評価するような不遜な気持ちもどこかにあり、良ろしくないのだが、ちょっと楽しみである。レポートの内容を公開するのは、基本的には良くないと思うが、三つある課題の一つの部分だけなので、引用してみる。

*****
「男性らしさ・女性らしさ」とは何か?という根本的なことに就いて論じてみる。教科書100頁、表4-2に「女性らしさの強い社会と男性らしさの強い社会の基本的な違い」として、基本的な定義がまとめられている。この定義に従えば「男性らしさ」とは、権力志向が強く、現実的かつ好戦的な特徴を持つとされる。この定義は教科書の著者による、彼の価値観に基づいた一つの定義であり、また同時に社会や文化を評価する一つの尺度の提案と解釈されるが、果してそれが普遍的かつ絶対的定義であるのかという点については、個人的には疑問が持たれるところである。

 「男性らしさ、女性らしさの」の概念は、そもそも時代によっても異なるし、国家、民族、文化あるいは個人によっても異なるべきものであって、それぞれの時代的背景、文化的背景あるいは個人的な考え、価値観の基に本来は定義されるべきものである。これを例えば「男性的な時代であった。」あるいは「女性的な文化である。」等と論じることは、一つの背景の中で捻出された概念に基づく一評価であって、その概念背景について考察すれば、循環論に陥ることになる。

 「男らしくなれ!」ということは、私にとっては父の教えであり、自分の子どもに対する教えでもある。「男らしさ」とは何か?その本質は漢字で表現すれば「漢(おとこ)」である。日本語には「無頼漢」、「暴漢」等余り良い意味を持たない語も多数あるが、「漢(おとこ)」は、本来は理想的な男の姿を示すものであって、漢王朝や漢民族の「漢」はその意味に由来する。「男性らしさ」とは節、誠実さ、あるいは愛等の言葉で表わされる、漠然とした概念である。家族を守る強さと内面へ向かう優しさ(愛)、同様に仲間、会社、社会、国家などに向けられる同質の感情、困難に直面した時それに向かっていく強さ、例え「瘦せ我慢」であっても、個人的な利益を第一とするのではなく、集団として取り決めた規範や法に従う勇気(節あるいは誠実さ)といったものを強い信念として持つことが、私自身が持つ「男性らしさ」の定義である。したがって、表4-2で「女性らしさの強い社会」として述べられている「人間そのものと温かな人間関係を大切にする」行為は、私の考えでは「男性らしい」行為でもあると言える。

私の定義の「男性らしさ」の反意後に当たる例えば卑怯、不誠実、変節といった言葉が意味するものが「女性らしさ」を意味することにはならないことに注意願いたい。それは「男らしくない」あるいは「ヒトとしての未熟さ」という言葉で表わされるべきものである。一方、「女性らしい」とは、一言で言えば「母の愛」であり、「心の癒し」を与えるものである。その「癒し」があるからこそ、男性は「男性らしさ」を信念として保てる、と言っても過言ではない。少なくとも私たち夫婦の間はそのような関係の上に成り立っている。

 即ち、「男性らしさ、女性らしさ」は対局の言葉であるが、必ずしも反意語という位置付けにはならないと考えられる。そしてそれは、個人、文化、国家、民族あるいは時代に亘ってそれぞれの価値観の中でバランスをもって存在する概念と考えられる。
*****
例によってハードコピーを郵送。郵便代は15円であった。とにかく安い。

今日は全国一斉学力テスト。次兄とヤスは共に受けている筈である。加えて、ヤスの申し入れていた『算数授業参観』の日でもある。仕事の都合上、これは家人に任せた。夕方結果を聞くことになる。
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桜去り・・・本格始動 !?

2007-04-21 09:07:17 | 子どものこと


東京では桜が散り、桜のみならず銀杏の木などに若葉が吹いて久しい。上越高田もようやく桜も峠を越えたようだ。4月生まれの私は、また一つ歳を重ねてしまった。

6時起床。天気予報が外れ雨は今のところ降っていない。…ということで、次兄は8時からクラブ活動の野球の練習がある。起こしてやると、日頃の寝起きの悪さとは裏腹に、今日は目覚めが良いようだ。ヤスは隣のベッドでまだ眠っている。

メールをチェックし、もうそろそろ結果が出た頃合いと思い、星槎大学のHPで成績照会をみる。来ていた。先回提出した「特別支援教育 I」と「学習障害概論」のレポートが「A」で通過。大学の方はほぼ計画通りの進行状況である。今日明日はRDIをひとまず休み、「共生科学 I」のレポートを仕上げることにした。昨日届いた「硫黄島からの手紙」も見にゃいかんし、そこそこ忙しい。

ところで、昨日はヤッちゃんの授業参観日。担任が替わったこともあり、どんな具合か見学に行った。科目は家庭科。通常の学科と趣が異なるが、授業の方法などはそれでもある程度判断ができる。

家庭での家族の仕事の分担について、表にまとめようという内容の授業であった。表の一番上に家族の名称、例えば「お母さん」とかを書き込む。最左のカラムに家庭での仕事の内容を書く。誰が主にその仕事をやっているか、自分はどの仕事を手伝っているか印を付け、最後にその表を見て気付いたことをまとめる。といった内容である。課題自体は特に難しい訳でもなく、手順を追えばコナセル内容である。担任は熱心であり、綺麗な楷書で適度に板書もしてくれているので、一般論でいえば、授業方法にさして問題がある訳ではない。

ヤスは一番前の席に座り、じっと授業を聞いている様に見えるが、手は全く動いている様子がない。最後尾にヤスより遙かに自閉が重いMちゃんが情緒級から交流学級で来ている。目をやると加配の教師が付き切りではあるが、本人は自分のプリントを両手に持ち、突如クシャクシャ…。慌てて加配の教師が皺を伸ばす。
「お家でご飯作っているのは誰?」
「バイキンマン」
なかなかの会話が飛び交っているのが聞こえる。他人のお子さんはさて置き、教室の横から前へ進み、ヤスの状況を観察。案の定プリントは白紙、まったくのお客さん状態。

担任の先生は各自の机の周りを歩きながら、授業を進める。各自のプリントを覗いたりはするが、格別何か手助けをする様子は見られない。気になるのは説明を分かって貰おうという熱意の余り、とにかく言葉が多い。言葉の海だね! 見かねてヤスのそばに近づき介入する。

言葉を少なく、ゆっくり、何をするのかプリントを指差ししながら指示すれば、すぐにプリントが仕上がってゆく。う~む。

現在過剰適応している息子は、全く無意味な時間を過ごしていくことになりかねない。特性に合った支援が望めそうもないという不安がよぎる。過剰適合がいつまでも続く訳もなく、カタストロフィーはやがて来る。

たまたま家庭科だったからという可能性もあるが、一部でもこの種の時間を学校で過ごすこと、褒められもせず、学びもせず、充実感も持てない時間を持つということは、家庭科だから良いということではない。こういうアブノーマルな体験は必ず、他にも影響を及ぼす。だから、特別支援級に移籍しないという前提では、状況改善を図らなければならないのは明らかである。教師を傷付けずに自覚を促す、難しい仕事がこの先ありそうである。

ともかく、特別支援コーディネーターに連絡を取り、算数の授業の参観を申し入れた。算数も同様の状況であれば、一先ずは校内通級に移す算段を講じなければならない。暫くは目を離せそうもない。
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ゴット先生

2007-04-17 09:33:48 | 星槎大学


4月16日。今日はどうもJRとの相性が悪い。東京へ向かうMaxとき302が大宮の手前で完全に停車してしまった。2列車先行する「あさま」が大宮駅で車両故障を起こしたため、点検中とのアナウンスが流れる。10分ほど遅れて大宮駅に到着すると、「あさま」は隣のホームで運転打ち切りになっていた。15分遅れで出社。

10時45分会社を出る。外は小雨。目的地の御茶ノ水へ向かうべく浜松町から京浜東北線北行きの快速に乗る。東京駅で中央線快速に乗り換えるつもりでいたが、東京駅到着の直前に車内放送で、人身事故が発生し中央線快速がストップしていることを聞かされ、秋葉原経由で御茶ノ水へ。11時20分目的地のExcelsior Cafeに到着。約束の時間より10分早かった。

店内を見回すが、ゴット先生は見当たらない。カプチーノを注文し、取り合えず席を確保。定刻にゴット先生が到着。予め写真を頂いてたこともあり、直ぐにそれと分かった。席を替え相席用の大きなカウンター様の四角いテーブルの一角を90°の角度を持って二人で座る。この方がテーブルを広く使える。自己紹介をし、まずはいろいろとお話をする。かなりの資料を頂いた。
星槎大学紀要2006年版
RDIの2006年版Two-Day Seminarのスライドコピー
同じくRDIの過去のセミナーのスライドが入ったフロッピー
実践交渉学の授業用に作ったRDIレベル4~6のチェキングリストの訳

自閉症療育に関する話題、個人のこと、今年のゼミの話、交渉術と国際関係論(少し大げさに聞こえるかもしれないが…会社間の交渉や果ては靖国問題と中国外交の話等)、翻訳の仕方。話題は尽きない。

流石に国連で20年もの仕事の経験がおありになるだけの事はある。私の翻訳の仕方の弱点、構文の捉え方の弱さなどが浮き彫りになる。訳語としての日本語が十分に練れていない。私自身がこの訳文を、共に療育活動をする人たち向けに訳しているのか、一般の親を対象に訳しているのかと言う点が定まっていないために専門用語の扱いが不安定な点が問題であることに、気付かされた。専門用語を平易な言葉にしなければ、親には読み辛い。平易にすれば療育家には、レベルの低い内容と見られるといジレンマをどこか引きずっていたようだ。反省。

一部の翻訳を添削して頂き、何となくコツが分かったような気がする。中華料理のレストランに場所を替え、すっかり昼食までご馳走にってしまった。気付けば5時半過ぎ、時の経つのは早いものだ。新御茶ノ水駅で別れて帰宅。

一つ大きなことに気付いた。私には、30数年前非常にお世話になった恩師が居た。中村正男教授。界面化学では、世界的にも知れた先生で、日本の界面化学の祖である鮫島實三郎先生の直系の弟子である佐々木恒孝先生のお弟子(つまり、鮫島先生の孫弟子)である(ということは、私は曾孫?)。私は佐々木先生に教えを受けたことはないが―実は家人はあるのだが、それは余談―、彼のの兄弟子に当たる越山季一郎先生にも直に学ぶことが出来た。存外幸せ者である、この分野では。

ともあれ、私は中村先生の人柄に惹かれて、研究室の門戸を叩いた。同期の西野宣雄君と共に、大学院に残り博士課程を極めなさいと勧められた。西野君はその勧めに従い、理学博士となった。中途半端な私は、個人的な事情もあり、社会へ出たいと言う気持ちを伝えてこの勧めを袖にしてしまった。中村先生は結構執拗で、私が30過ぎになるまで、進学や共同研究をベースにした博士号の取得を盛んに勧めて下さった。こちらも少しゆとりが出来、その気にだんだん成りかけた矢先、57歳の若さで、先生は他界された。膵臓癌であった。5月半ばに大学の付属病院で受けた健康診断では異常が見つからず、7月に背中が妙に痛いと言う理由で診察を受け、癌が発見され、8月半ばに急逝。何と言って妙もなかった。

中村先生は、その専門分野においては、何をしても敵わなかった存在である。ある命題について熟考に熟考を重ねて自論を発表する、あるいは些細なことで意見を求められて意見を述べる、こういった多くの場面で、先生はニコニコしながら私の意見を良くきってくださった。そして、「うん、○○君、それはね、こういうことと、こういうことを考えに入れなかった場合に出て来る、考え方じゃないかな?こういう場合はどう?」と投げかけて、私の視野を広げてくれた。

なかなか社会にでて、これだけ絶対的に優れた方にはお目にかかれない。世の中を舐めてるわけではないが、世の中ってそんなものだと何時しか思うようになっていた。今日ゴット先生にお会いして、懐かしい匂いがした。昔の恩師に会っているような錯覚に陥った。くしくも中村先生とゴット先生は同い年であられる。不思議な出会いであった…。

(因みに本日の画像は、ゴット先生のご意見を基に自己添削をしたものである。)
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春♪

2007-04-14 10:32:05 | 子どものこと


昨年よりは早いのだけど、東京に比べれば例年通り一足遅い桜が、高田城址公園では満開である。「日本三大夜桜」の一つだとかで、JR東日本では首都圏からの花見客の誘致に余念がなく、キャンペーンを展開している。10年程前、高田駅では「日本三大夜桜」というキャッチフレーズを誤って「日本三大夜景」とぶち上げた看板を作り驚かされた! 「日本三大夜景?函館と六甲と…高田?嘘だろう!」と誰しも驚かされた。昨年は大雪の影響で開花が遅れ、桜祭りが終了しても開花はしなかった。おかげで、寒さの中、一向に現れぬ花見客を待ち、ダボシャツのお兄さん方(言わずと知れた的屋家業の若い衆の方々である)は、震えていた。花見シーズンの契約で日程が決まっており、寅さんのように気の向くままとはいかぬ様子であった。今年はどうやらon scheduleとなった様子である。

私の肋間神経痛と思しき胸の鈍痛はまだしっかりと自覚を残すものの、我が家も春である。長兄は高2となったが、相も変わらず勉強嫌いを通している。次兄は今年受験の中三となり、始業式の余韻も抜けぬうちに、修学旅行で関西へ。加藤茶の水戸黄門が印籠を振りかざす妙なストライプと「誠」の旗印のストライプ(NHKの大河ドラマのブームが去って早2年、おそらくは二足三文で売られていたのではと想像に難くないのだが)を土産に頂戴した。仕方がないので小銭入れと携帯電話に付け、暫くは感謝の意を示さなければならない。

12日夕刻、ヤッちゃんについての今年度初の校内委員会。クラス替えがあり、担任も代わった。前任者が異例中の異例で3年間担任したので、久々の新しい環境である。緊張感からか過剰適応の兆候が若干気になるが、まずまずの出だしの様子だ。図書委員になった。ルーチンワークが殆どの仕事なので、彼の性格には向いているように思える。クラスに仲の良い友達も数人出来、何時もつるんでいるらしい。

通級指導の方は、校外通級を二枠(月4時間)の集団指導。校内通級は当面国語のみ(週4時間)。 算数は単元によって通級個別指導にしたり、通常級指導にしたり、使い分けることで合意した。ぼちぼち家庭での英会話指導でも始めるかとも思っている。

さて今日は優しい子倶楽部。準備はできたし、ボチボチRDIを先に進めるか…!
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春と冬…季節の狭間を旅して

2007-04-06 09:00:29 | 書籍

 4月5日(木)
朝、東京は雲ひとつないない快晴。桜ももう峠を越し、後は散り行くばかり。上越新幹線の大清水トンネルを越えると…川端康成が「国境<くにざかい>の長いトンネルを越えると、そこは雪国であった。…」と語ったごとく、越後湯沢は雪が舞い、家々の軒には、うっすら積雪があった。ひょっとすると、典型的な冬型の気圧配置?そう言えば今朝は天気予報を見てなかったナと思い出したりした。

上越に戻ると、Conectcenterから頼んであった書籍3冊が届いていた。送料が高いのが一寸…とは思うが、さすがFedex、到着が速い。早速開封。

一冊目は
Creative Home Schooling - Aresource guide for smart families
軽度発達障害児に対する家庭での療育方法のHow-to本である。ざっと目を通すと、これはこれで面白い。レターサイズ400頁。これじゃいくら時間が有っても足りやしない。豊富にある移動時間の車中では、もっぱら教科書を読み明かす昨今である。今は共生科学 I だ。しかし買った以上は読まねば…!

二冊目
The Outreageous Outdoor Gams Book
幅広い分野から、133種の遊びを、豊富なイラストともに紹介してある。これはすごく面白い。RDIのいわゆるアドリブやその他の子どもたちの活動に使えそう。これはちょっとしたお宝本だ。昔懐かしい遊びも含まれていた。どちらかと言えば頭から読む本ではなく、字引的に必要に応じて参照する本といえる。これは掘り出し物と判定。

三冊目
Awaking Children's Mind
親と教師のための日常生活の介入方法に関する参考書。読むのは少し後回しにならざるを得ない。字も小さいし、内容が濃さそうという印象に今は留める。

さて、予定より早くRDIのAppendiix A、いわゆるチェックリストの下訳完了。誤字、脱字、言い回しのチェックを済ませ、必要な修正をした後、家人に最終チェックを依頼。完了後ゴッド先生に送付。10頁足らずの表であるが、この表を眺めるとレベルIIIまでの範囲で、RDIが何を狙っているのかが良く見える。一般論として言うならば、子どもたちに対してはレベルII位までが最も重要で、ここを掘り下げることに全力投球だと思える。レベルIIIは他人にたいする気遣いがメインテーマであって、「Nice to Have」であろう。レベルIV以降は、別本だし、暫くは触れないでおくべし。

更にもう一冊。別便で定期購読誌「そだちの科学」(こころの科学別冊)も、届いていた。杉山登志郎医師、佐々木正美先生、田中康雄先生など著名な方に混じって、H療育センターのT医師の名前が!? 結構もっともらしいお話を書かれていて、その内容は評価できるのだが、日頃とのギャップが…。「ますます臨床離れが進んだか」か等と勝手な印象を持ったりもする。

春と冬の狭間を覗いた様な一日であった。
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RDIと心の理論

2007-04-01 08:36:39 | RDI


3月31日(土)一日遅れの記載が続く。午前10時から木工教室。NPOの木に親しむ会とか言うのがあって、場所を貸切で提供してもらい、(参加費一名当たり300円、別途貸切料6,000円―一人当たり300円検討)、工具、木材の材料は無償提供。2時間ほど工作をし、みんなで昼食を摂って、解散。結構楽しめたようで、またやりたいという子どもが2/3以上であった。ヤッちゃんは時間割を入れるフレームで猫をデザインしたものを作り、楽しかったそうである。

さて、RDI。 訳文の最後のチェックは、岡目八目ではないが、家人に任せ、末尾のProgress Tracking Formの下訳に取り掛かる。いわゆる、チェックリストである。ゼミナールMU06(今日からは07になるのかも知れないが)で、太田ステージとの比較論なども出たりしたが、レベル1のステージ1で既にある程度の「心の理論」の獲得が必要なことが、ここで明確になって来る。心の理論にも段階論はあるが、有名な「アンとスージーの課題」の様な第一水準のレベルに達していないと、通過は難しい。

一方、これは乱暴な見方をすれば、太田ステージのステージIII-2レベルに相当する。このこと一つとってみても、単純な太田ステージとの比較論は無意味であることは明確であり、いろいろなレベルの未就学児が混在する通園施設での無条件な使用においては、なかなか成果が見え難いだろうと推察される。また、他の基盤となる療育プログラムの代替プログラムとしてRDIを位置付けてはいけないと過去に私が言ってきたことの裏付けともいえる。

では、RDIを未就学児童に対して実施することが無意味であるのか?と問われれば、それも明らかに間違いである。「心の理論」を全く獲得していない子どもに対しては、確かに苦労することであろうが、RDIが提供する働きかけは、子どもの発達過程において、極めて重要な要素を含んでいる。自己矛盾的に聞こえるかも知れないが、「心の理論」の獲得がRDIのレベルI、ステージ1の絶対必要条件ということではなく、同時並行的にこの発達は進むのであって、RDIのこのステージ通過は、自動的に「心の理論」の第一水準を通過するということ、特別な心の理論のトレーニングを実施しなくても、そういう状態になると言うことを意味する。要は「鶏と卵」の関係であると言えよう。

そういった意味では、RDIのもつポテンシャルは凄い。しかし社会性領域に特化した発展的プログラムであることは、常に忘れてはならない。

自分の療育活動において考えるのであれば、RDIのレベルI~IIの重要度は高い。自分の翻訳速度(これは優しい子倶楽部の他の親御さんと共有した意識を育むためには重要である)を考えるとRDI with Young Children(2002)をテキストに選んだのは大正解と思えるが、より深く知るためには貪欲になるべきだと、改めて思った。 そこで、RDI With Young Children(2003)を参考書として発注した。同じ題名であるが、こちらはレベルI~IIIについて更に豊富な(本自体は約倍の厚みがあるが、9,000円ほどするので高いと思い、買うのを躊躇していた)内容である。 4月末の到着見込みである。Amazonを利用したが、直接Conectcenterに注文すればよかったと、後で反省。

Conectcenterで
Creative Home Schooling: A Resource Guide for Smart Families
(家庭でのRDI実施におけるリソースキット)なるものを見つけ、こちらも手配$29++、衝動買いで今日も一万数千円使用…。家人には金額はヒ・ミ・ツ。
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