ヤッちゃんパパ奮戦記

HFAの息子に啓発されて、化学を専攻した小父さんが畑違いの自閉症療育の世界へ。50の手習い、子育て奮戦記…

RDI・・・新しい和書のさわり

2008-03-27 23:05:11 | RDI


RDIのアクティビティー集の和訳本が、そう遠くない時期に発刊される。
2002年に発刊された
Relationship Development Intervention with Children, Adolescents and Adults: Social and Emotional Development Activities for Asperger Syndrome, Autism

by Steven Gutstein, PhD and Rachelle K. Sheely, PhD
Copyright © 2002

邦題:「関係性発達支援―アスペルガー・自閉症・広汎性発達障害・その他非言語的障害を持つ子ども・若者および成人の社会的情動的発達のためのアクティビティー」(仮称)

の校正原稿のコピーをゴット先生のご厚意で頂戴した。レベルIV VOYAGERのパート、ステージ13から16の28課題の訳文である。レベルIVのVOYAGERは1970年代から打ち上げられた太陽系無人探査衛星ボイジャーとして私には親しみがある。「航海する者たち」と言う意味合いで、頂戴した訳文は「航海者」となっている。訳語としては間違いはないが、いま一つ日本人の感覚には馴染みにくいかな?とも思う。私なら「旅立つ人々」とでもするところであろうか。

RDIのこのアクティビティー集はレベル6まであるが、一般的にRDIが注目しているのはレベル1~2であることが多い。それだけASD児については、最初が重要であり、加えて難しいと言うことを意味している。

SSTは積み上げである。初歩ができていない子ども達に年齢だけを基準に中程度レベルのものを試行しても、上手くいかないのが普通である。レベル4はRDIではかなり高レベルであると認識されており、健常児でもどうか?というむきがある。その意味では応用が難しい様にも想像していた。しかしながら、英文の原著はあえて参照せず、和書として原稿を読んでみると、これがなかなか面白いし、優しい子倶楽部に応用できそうなものが豊富にある。レベルIVがピア・グループによる小集団指導を念頭に置いたレベルであるからということかも知れない。

ステージ13: 他者の視点を受け入れる。
ステージ14: 知覚に想像を加える。
ステージ15: 集団自我を認識する。
ステージ16: いざこざや他人の拒否に対処する。

表題だけを見てもピンと来にくいが、具体的なアクティビティーとして、散歩に出かけ他人と話題にしたい事柄をデジカメに撮ってきて、それを友達に紹介する。あるいは自分の行動を自己ナレーションする…これから何をしようとしているか、今何をしつつあるか、その結果がどうなったか、といったことを言語表現することを時間をかけて訓練する。こういった内容は、ASDの子どもには重要な訓練であり、そのよう指導のヒントが豊富に盛られている。決してこの初期バージョンのRDIテキストも色褪せてはいないようだ。

あと2カ月ぐらいであろうか?出版が待ち遠しい!
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一つの終焉

2008-03-17 07:48:50 | 子どものこと


おじいちゃんへ

おじいちゃんは やさしくて やさしくてよかったと 思っていました。
でも、おじいちゃんが死んでしまって 悲しかったです。
(ぼくは)きっと元気でいられるからね
ぼくは わすれないように がんばるからね。
さようなら おじいちゃん。
やす○○ より


3月14日金曜日。 朝7時8分に自宅の電話が鳴った。私の卓上の子機で見る限り、家人が階下で応答したようであるが、僅か5秒~10秒の短い通話であった。間を置かず階下から家人の声。一月末から再入院した岳父の容体が急変したので、すぐ病院へ向かうと言う。

「俺も行こう」と声かけし、子ども達を起こす。長兄には、何か必要が生じるかも知れないという配慮から留守番を頼み、次兄とヤスを伴って、車で病院へ向かう。家人は一足先に自分の車で病院へ向かっていた。

いろいろ問題の多い県立病院ではあったが、車で5分位の距離は有難い。6階の病室に向かうと入口辺りで、
「お祖父ちゃん、頑張って!」
という家人の声が聞こえた。

7時20分頃。つながれた計器に目をやると血圧が80/60程度。2~3日前からこんな調子である。血中酸素濃度70%台(かなり低い)、心拍数30前後(通常の人の40%程度か)。子ども達も懸命に声掛けをする。目はもう開かないが、子ども達が来たことを告げると、肉親の欲目か、僅かに頷き、口を少し動かした様に見えた。

計器盤を注視していると心拍数が徐々に減っていくと言うのではなく、突然0を指した。突然の死の訪れであった。7時35分。合掌。長兄のみは、臨終に間に合わなかったのが、心残りではあるが、二人の孫は末期の水を摂らせることが出来た。

岳父は享年75歳。旧頸木郡新道村稲田に生を受け、そこで育ち、事業を興し、高田市、上越市と行政区の名称は変化していったが、地域の人に支えられ、故郷で一生を全うした人生であった。ヒトの一生である、つれあいを20年前に亡くし、悲しみも多かったかも知れないが、私は結構幸せな人生であったのではないかと思う。家人も私も一人っ子であり、家を継ぐ者が無くなるという現実から、家人と長兄と相談し、長兄を岳父の養子として、家を継がせることにした。凡そ1年前のことである。岳父は殊の外私たちのこの申し出を喜んでくれた。

10月頃のブログに「医師の倫理について」という一文を掲げた。同じ担当医が最後まで見取った。間質性肺炎。回復の見込みがない予後不良の病である。私は個人的には小泉内閣の英断を評価している。国民一人当たり700万に迫る借金を背負った国の財政事情を考えれば、先送り的な政治ではなく、痛みは負わなければならない。唯一つどう考えても合点がいかないのが、医療行政である。「回復の見込みのないものは病院から出て行け。」と言う方針が、付ける薬もないような馬鹿な医者を生み、弱者にしわ寄せを持ってくることが合点がいかない。

病院では看護ができないという。通常の家庭で家族による24時間体制の看護人を付けることはできない。しかるべき人を雇って看護に当たってもらう。月額70万円。金額はどうでもよい。しかし何かおかしい。人工呼吸器が外せない。それでも「転院しろ」と主張して憚らない医師、そして看護婦。担当医が指定した終末医療の病院に転院の手続きをとった。12日に転院の予定であった。救急車を手配し、担当医が同行してまで、転院させると言う。二日前になって、岳父が使用している特殊な人工呼吸器がことによったらその病院にはないかも知れないと言う話が来た。その有無もこちらに確認しろと言い出す始末。

転院の前日、岳父は39度の高熱を出した。それが理由で転院は先送りになった。どうも吸タン装置の管で、技術のない看護婦が喉に傷をつけたことが原因らしい。血タンが出た。へたくそな操作の挙句、管が外れタンが病人の胸元にこぼれた。寝具が汚れるからと言う理由で、看護婦は布団も寝間着もはぎ取ったそうだ。血流が悪く体温調整能力が低下している岳父には、それでなくても辛かったに違いない。声を発することもできない病人を第一に考えるのではなく、リースの寝具の心配を第一優先する思考はもはや人間業とは思えない。

件の医師は臨終後の経過説明で
「いや転院させなくて、本当に良かった。」
と私に語った。一体全体何が良かったと言うのであろう。自分の体面しか考えぬような発言に、私は内心この医師を殴り飛ばしたい衝動にすら駆られた。最後の一週間を、食事も、水も与えられず、点滴のみで送った岳父の気持ちを考えると、切なさしか残らない。

それでも、家人は父の死が生きるのであればと言う気持ちから、解剖と内臓の献体に同意した。更なる痛みを岳父に与えるような気がして、つらい決断であった。

かくして、葬儀の段取り、通夜、告別式と慌ただしい3日が過ぎた。冒頭の拙い手紙はヤスがお棺に入れて岳父に持たせた手紙のコピーである。自閉症という障害を持っている子どもでも、これだけ豊かな心を持っているという証である。作文は苦手であり、いつもとても嫌がり、ほとんど手を付けない。その彼が進んでこのような手紙を書いた。岳父の死が、三人の子ども達に何かを残した様である。葬儀が終わって三人とも何かしら成長したように見えた。

お祖父ちゃん、本当にありがとう。合掌。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知恵熱・・・その後

2008-03-13 20:58:32 | 子どものこと


3月10日月曜日、早朝大阪へ向かう。途上家へ電話をするとヤスはまだ熱があり、学校はお休み。夜、電話でヤスと話すが明日は登校すると言うものの、今一はっきりとはしない。

3月11日火曜日、大阪で会議。やはりヤスは今日も休んだ模様。夜、旧友と南方の寿司屋で会食。

3月12日水曜日、始発のサンダーバードで上越へ。金沢での「はくたか」待ち合わせ時間に家に電話を入れるとやはり登校していなかった。家人によると午前中は隣の校区の小学校と特別支援級交流会でおでんパーティーであるとか。ヤスには不必要な時間であるので、それならば自宅で公文のドリルをしている方がベターと判断。

午後はリージョンプラザでスケートの課外事業があり、これには参加の予定をしている。スケートなら一緒にに行こうと思い、申し込みをしておいた。スケート授業のあと通級があるので、私は自分の車でリージョンプラザへ。ヤスは学友と路線バスを使用して現地へとなった。先に着いた私がバス停で待っていると、一番前の座席に座り、意気揚々とヤスはやって来た。

スケートは何年振りだろう。家人と結婚前に行ったのが最後だから、かれこれ20年ぶり。勘どころを取り戻すのに一苦労。20年間に増えた体重の重みを、切なく足の裏の痛みで感じてしまった。

ヤスはこの日初スケート。どうせ壁から離れられこないと、かたくなに信じていたが、驚いたことに氷上に乗って15分後には一人でリンク中央を滑っていた。東京育ちの私は中学生頃からスケートにはまったが、代々木競技場に行った40名を超える学友(父が国立競技場の場長をしていた関係で、無料招待券がふんだんにあり、多くの学友と出かけたし、デートにも利用したりした…もちろん昔の彼女と)も私もこんな短時間でスケートをマスターした人間は今まで見たことない。どんなに運動神経がいいやつでも1時間半から2時間、私は3時間ぐらいは掛かったように思う。

何故?しばらく考えてやっとわかった。私たちはスケートの初心者であり、ヤスもそうであったが、彼にはスキーの経験があるという点が一つだけ違ったのである。すかっりスケートが気に入ったヤスは、また行きたいと言う。スキーよりは手頃だ。今後しばらくお付き合いしなければならない様である。

3月13日木曜日。ヤスは花粉症が少しひどくいらつき気味。付き添って登校。3限目まで出席して早退。一限目は算数。課題はドリル半頁であったが、他に二人3年生が居たので、私がヤス専属で授業を見ることにし、ドリル3頁半を消化。2限目国語、3限目社会科。こちらはPCを使って、スーパーのチラシに記載された商品の原産国リストを作る作業を行った。

まだ、一人で登校するのが難しい。今年度中は仕方ないかと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知恵熱 !?

2008-03-07 22:15:31 | 子どものこと


先週水曜日以来、親の同伴はあるもののヤスの登校は再開された。
一応、午前中のみの登校であるが、今週からは給食にも参加できるようになった。但し、交流学級へ行っての給食ではなく、あくまでも特別支援級の教室で食事をするという前提である。

水曜日、次兄の卒業式に参加し家へ戻ると、丁度昼を少し回った位で、家人も小学校から戻った直後であった。状況を聞くと、授業時間中は課題を全くせず、課題終了後強化子として与えている筈のアイロンビーズや折り紙ばかりしている状況にあるという。どうもこちらが意図しているように、特別支援教室が機能していないようだ。そこで急遽授業の方式をもう少し構造化してもらうべく、勉強の面倒を見て頂いている知的級の担任に夕方面会したい旨、家人に申し入れをさせた。生憎制度上ヤスの担任に当たる情緒級担任兼特別支援コーディネーターの先生は午後から出張中ということで、「私が聞いてもわかるかしら」との話であったが、別段難しいことを話そうという訳ではないので、とにかく約束を取って出かけた。

私はTEACCHを否定する立場ではないが、自閉症であれば必ず「物の本に書かれたようなガチガチの構造化」がすべてのケースに必要であるとは思っていないし、ヤスの場合構造化すればよりスムーズに行くことは分かってはいるが、全てのケースにまであえて構造化しようとも考えてはいない。しかし現在の状況は、ヤスは学校で極めて不安定であり、構造化してあげることは彼を安定させる上で、良い方法と思えた。

先生は、課題を提示する時に①とか②という形でメモに書いて示すか、口頭で選択をする様ヤスに伝えているらしいが、どうも「何もしません」というのも選択肢に入れてしまっているらしい。「何も選ばない」という選択肢を入れることは時として重要であるが、学校の学習には原則これを入れる必要はないと私は思っている。
そこの徹底と、課題選択・学習・ご褒美(正確には強化刺激をとまなった余暇活動)と言う流れを分かり易く示して上げる必要がある。

TEACCHの定番であるバスケットワークを提案したが、ヤスのためだけに場所を取るバスケットの置き場がないという話なので、一計を案じてクリア・ケースをマグネットで黒板から下げ、合わせてスケジュールもそばにマグネットで貼り出すことで合意した。打ち合わせ後早速買い物、システム作りをし翌日学校へ持って行った。



これだけのことで、ヤスは安定して学習に向かうことができた。アイロンビーズと折り紙も差し入れをした。3限漢字力テストの時、ヤスは少し具合が悪い様子を示した。1週間前あたりから花粉症の兆候が出ていたのでそのせいかもしれないと思えた。4限目は交流級では家庭科。ミシンを使ってランチョンマットを作っている。工作や手芸はアイロンビーズの例を見るまでもなく見通しが立つため、ヤスは好きである。本人が家庭科がやりたいというので、私も付いて参加した。見事ランチョンマットが出来上がり。その後、給食を食べて下校。

3時過ぎ、水泳教室へ出かける前に具合が悪そうなので、体温を測ると7度8分。取り敢えず水泳教室は止めにした。

そして今日、私は次兄と富大付属病院へ。ヤスは熱が下がらずお休みとなった。これは病気だから仕方がない。…この時間も頭を冷やしながら私のダブルベッドで寝ている。遅い知恵熱か !?
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬の嵐・・・その3

2008-03-04 09:42:34 | 子どものこと

(かなり前、横浜中華街のとあるレストランで)

平成20年3月4日

□□小学校
○○先生

○○先生お早うございます。本日は東京におりますので、書面で失礼致します。
昨日のヤスの様子を家内から電話で聞きました。ひとつ気になることがございます。

昨日の音楽の時間の前に5年2組のお友達が、XX先生に言われたということで、迎えに来て、二人掛りで羽交い絞めにしてでも音楽室へ連れて行こうとする行為が見られたとのこと。

先週木曜日にお願いし、ご了解頂いたことと理解しておりますが、原則、今年度中は交流学級の参加を見合わせたいと考えております。何よりも登校習慣を確実にするためには、彼にとって「学校が安心できない場所」という思いを払拭することが先決です。むりやり交流学級に連れて行く行為は、彼に恐怖感を与えるリスクが高く、加えてヤスは「そのことが嫌である」という意思表示が、特に学友に対しては出来ないという特性を持っております。表面上へらへら笑いながら、何とか学友の腕からすり抜けるという行為が、彼にとっては精一杯の、唯一の拒絶表示手段として、表出している状況と思います。彼が自発的に交流学級に参加することを希望するのであれば宜しいのですが、こういった強制的対応が繰り返されますと、スモール・ステップで状況改善を図っていることが無駄にもなり、特別支援級すら彼にとって安心できる場所ではなくなりかねないと思慮致します。

学友の方々が言っている通り、本当にXX先生のご指示かどうかは確認が取れませんが(子ども達が勝手に判断してヤスを迎えに来たのかも知れません)、その点ご考慮頂きたく、XX先生の方にも対応の徹底を宜しくお願いしたい旨、お伝えください。

…今朝ほど送ったファックスから、一部伏せ字、子どもの名を愛称に変換。

発達障害児ではあるまいし、通常級の子ども達がXX先生の指示なしに、こだわりから、ヤスを無理やり音楽室へ連れて行こうとする訳がない…と思うのだが!
こんなファックスを送らなければならぬとは…。
ここのところ大学の「教師論」のテキストを通読しているが、本の内容と裏腹に現実の先生を目の当たりにすると、つくづく教師という職業を不思議に思う。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬の嵐・・・その2

2008-03-02 21:40:15 | 子どものこと

(高田の雁木風景)

続きである。

月曜日、東京で仕事をし、火曜日に上越にとんぼ返りする。
3学期に入って調子が極端に乱れてしまったヤスは、とうとう不登校状態が定着してしまった感がある。学校と話し合っても、教育委員会と話し合っても、トンネルの出口が見えてこない。とうとう前週は5日間全く登校しておらず、この週も既に月、火と休んでいる。

不登校の原因について、本人がうまく説明できないので、本当のところはよく分らないのであるが、断片的な情報を、考古学者が化石の断片をつないで骨格標本を組上げて行くようにつなぎ合わせてゆくと、何となく状況が見えてくる。

それまで散発的に登校を拒否していたヤスが決定的に不登校を決め込んだ日がある。2月14日であった。別段「バレンタインデーのチョコレートが」という話ではない。その日はスキー教室がキューピットバリーであった。生憎私は仕事で他出していたが、家人の話では、学校に戻ってきたバスを降りるなり、帰りの会にも参加せず一目散に家へ帰って来たらしい。彼のスキーセットを受け取るとストックの一本が中央から「く」の字に90度ぐらいに折れ曲がっており、全く使い物にはならない状況であった。担任の弁では他児とぶつかって曲がってしまったそうである。いわば事故。相手のお子さん共々怪我がなかったのは幸いであったが、その事故以後、彼はスキーが出来ず、待たされる状況に置かれたらしい。

土地柄、車で30分も走れば、子どもでも十分に楽しめるスキー場が幾つかある。長兄が小学生の頃は連れて行ったりもしたが、忙しさと、よる年並みにかまけて、最近はスキーとはトンと縁がない。ヤスにしてみれば、この学校行事が楽しみであったことは、想像に難くない。事故は事故である。致し方ない面もあるとも言える。しかしヤスにとってみれば、自分に責のない理由で楽しみを取り上げられたわけであるから堪らないと言えよう。不思議でしょうがないのは、その後の引率者の対応である。ためしに私が件のストックを手で戻してみると、新品のようにとはいかないまでも、使用に耐える程には真直ぐなるのである。なんでこんな簡単な対応が思いつかないのであろう…?「どうせ障害者だから」という安直な思いがそこにあったのではないのかと疑われても仕方のない対応と言えよう。

ともかく、かくして、学校の教職員はヤスの信頼を失ったのである。彼にとって学校は誰も信頼できず、安心できる場所ではなくなった。

昨秋、彼に対する支援を増やす目的で、ヤスは通常学級から特別支援学級に転籍した。情緒級は重度のお子さんが居てヤスには合わない。知的級の先生に面倒を見てもらうことになったが、IQが100を超える彼は知的級に学籍を持つ資格がない。交流級の担任は転籍したのだからもう担任ではない。知的級の担任は面倒は見ても、制度上は担任ではない。情緒級の担任は手が回らない。支援を受けるべき本人を置き忘れて、建前論が空回りする。特例的に今学年一杯参加が認められた情緒通級が2月以降特にヤスが最も安心できる居場所となったのは、何とも皮肉な結果である。

水曜日、私が同伴で特別支援級に2時間登校。木曜日は午前中の4時間と思い、
「ヤス、今日は半日お父さんと学校に行こう」と言うと
「お父さん、今日は6時間だから半日なら3時間でしょう。」とヤスが応える。
なるほどそれも理屈である。結局、私がいると安心するのか4時間参加した。
「お父さんがいると全然違いますね。」とは先生の弁。
内心「バッカヤロー」と思いつつも、言葉で言わず、行動でどのように自閉症児と対応していけば良いのか、やって見せているのだが、教師に対する効果のほどは分らない。

木曜日夕方、校内員会。学校も教育委員会からの突っ込みもあり、遅ればせながら対応を具体的にとるという。指導要領には反するが、まずは不登校回避が先決なので交流授業を停止し、国・算・理・社の4教科+道徳のみを特別支援級でという申し入れをし、了解を取った。もう一つ問題がある。ヤスは頑なに給食は嫌だという。偏食が理由でないことは明らかなので、何かここにも嫌なこと体験の積み上げがあるらしい…まだしかと理由が分からない。とにかくそういった事象の説明が最も苦手な子どもである。時間がかかる。

金曜日、仕事でヤスには付けない。休んでも仕方がないと思いつつも、出先から電話を入れると、一人で登校したそうだ。当日は半日高田の町の雁木めぐり…社会科実習である。バスで仲町まで行き、6Kmほどの散策であった。帰校後、授業に参加せず帰宅した。

今週は家人が学校に同行する予定である。学校が変わってくれるか、あまり期待は高く持っていない。4月一杯ほど様子を見て、好転しなければ、通常級に戻して、通級指導の時間を増やすしかない。いやいや、不穏当な発言ではあるが、最悪、期待できない内容であれば、学校へ行かなくても…という覚悟もこちらにはある。

冬の嵐…おかげで今月は「心理学」のレポート2本止まりであった。3月は「教師論」、「道徳教育の理論と実践」、「学社融合論」の3本は最低でも…と思っている。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする