このごろ、RDIばかりの気がする。
書き込みが少し遅くなったが、「月間実践障害児教育」の3月号に記載された白木先生の文章を読ませて頂いた。バクボーンとなるRDIの発達理論と指導方法の概略について解説した内容であった。それはそれでよくまとまっているように思える。
先の杉山医師監修の和訳本について、そらパパさんが書いたコメントにあるように、その発達理論が正しいか否かという疑義については、簡単には結論は出せそうもない。確かに従来からの、例えばABAの理論的立場からすれば、客観性があるのかという、そらパパさんのご指摘は正しいように思える。しかし、他方で、この理論がピアジエの発達論を遠いルーツに持つ、認知論をベースにした発達論である以上、この批判は行動論対認知論、立場的論争の域を出ないのではないかと思われる。極端な話、行動論派の学者は同じ視点で太田ステージに対しても同様の批判をし得るからである。臨床家の立場で言えば、余り良い表現ではないが、「火事場で、どちらの鼻の頭が赤いか?」といった論争をしている様で、余り価値のある議論には思えない。
一方で気になるのは、この文章を読んだ読者が「自閉症を治療する」、極論的に言えば、「自閉症は治る可能性を持つ」という考え方に、どこまで興味を持てるであろうか?この考え方が正しいかどうか?ということはちょっと脇に置いておくにしても、こういった極端な物言いに疑いを持つヒトはいるであろうし、RDI自体を怪しいプログラムと受け止めてしまうヒトも、必ずしも少なくはないのではと思える。
過去においても「自閉症は治る」という看板を揚げていたプログラムがなかった訳ではない。しかしその大半は眉唾物で、良くて一部のHFAやASPの人たちの一部のこだわりが緩和される程度のものであったと言って良いだろう。いわばメッキを貼ったようなこれらの療育は表面上、自閉症が軽減されたように見えても、般化の問題から抜本的な改善は出来ず、内面的に自閉症特性が色濃く残っているために、時にメッキが剥げることは、ごく普通のことである。多くの臨床家が散々経験して来ていることだけに、諸刃の剣になりかねないポイントではないであろうか。
発達のツマズキが生じた時点まで戻って、発達の再構築を図るという考え方は、まず机上では素晴らしい。現在のところ、RDIについて深く知っている訳ではないので偉そうなことは言えないが、当然その発達の流れにはある程度の幅(フレキシビリティー)は考慮されていることとは思う。問題はヒトあるいは発達障害児の発達の仕方のバラツキが果たしてその中に収束しうるか?つまりヒトの発達パターンが、そもそもその様な単純な形で収束しうるものであるか?という疑問である。
例えば、自閉症児は同時に二つ以上のことをパラレルに実行することが苦手であるといわれる。講義を聴きながらノートを取る(この二つの事象には必ず、時間的なずれがある。ノートに何かを記入しながら、先行する教師の話を聴き、記憶に留めなければならない)ことが苦手である。その根本原因が脳の器質的問題に根ざしているのであれば(これも仮定の話ではあるが)果たして、訓練で解消できるのか?ということである。適切な例かどうかは分からないが、ピアノがうまく弾けるようになるという行動は、シェーピングや強化の原理で説明をすることが出来る。しかしシェーピングとしていくらスモールステップを切って、トレーニングしてもヒトは鳥のように自由に空を飛べない。これは生物としての基盤に根ざす理由からである。自閉症が脳の気質障害であるのであれば如何なのだろう?
いずれにしても結論は未だ出せない。
ハッキリしていることもある。過去に再三言ってきたように、RDIは発展的療育プログラムである。RDIはASD(自閉症スペクトラム障害)を対象にしていると謳っているが、ASDなら全てが対象になるということではなく、ある程度の基盤が出来ていなければならない。ABAで全く表出していない行動が強化できず、シェーピングプロセスを経なければならないように、RDIにもこの操作は必要である。RDIでは初期のシェーピングに当たる部分(例えば最初のアクティビティの前提条件が整っていない場合)を自らのプログラムに持たず、ABA等の他の手法を用いなければならない。その意味で、このプログラムはHFA、ASPあるいは軽度発達障害児・者を対象としているといっても良いのかも知れない。
それから、もう一つ親が担い手になること。家庭重視のプログラムであるということである。学校や通園施設といったいわば短期間の療育場所には、理念上余り向いていないということもあるのかも知れない。
ただ、多くの批判要素があったとしても、そらパパさんが言うように:
『(そこには)他に類を見ない「対人関係を体系的に療育するプログラム」が残るのです。「プログラムを実践した結果」の評価が残されているのです。もし、このプログラム自体に大きな効果があるなら、理論的背景が弱いという批判は、実はどうでもよくなってきます。親からすれば「理屈はどうでも、良くなればいい」からです。』
という点こそが、重要である。
ゼミナールMU06にゴット先生の
『「1990年代以降自閉症理論の停滞が目立ち、臨床心理家・グループホーム運営者・ケアマネージャーなど実務家が、古ぼけてきた地図に頼り切れずに自分でノーハウを開拓するという重荷を背負わされている」とメンタルヘルス実務家たちがぼやいているのを聞きます。』
というご意見があった。私には理論が停滞しているのではなく、マチュアー(mature:成熟したという意味)な状況にあるのだと思える。1960年代後半に自閉症の原因が『親の育て方』という情緒論から、『脳の機能障害』という大きな転換を経て、以後約20年間は多くの自閉症療育論が世に出て、活発な様相が見られた。それが出尽くせば当然そのレビューをベースにした模索が始まっていく。大学や例え大学院で学ぶことであっても、それは基本的には基礎の部分に過ぎない。真の応用・開発分野はダイナミックな現場にしかないと極論しても良いかも知れない。これは療育に限った話ではない。
そういった意味で、これからジックリとRDIを学び、そこから抽出したものを試して行きたいと、思う。
今日のJUDEVINEの言葉です。
…If you treat an individual as he is, he will stay as he is. But if you treat
him as if he were what he ought to be, he will become what he ought to be and could be. ―Goethe
もし、そこに居る一人の個人を、彼があるがままに扱うのであれば、彼は何等変わりはしないであろう。しかし、もし彼はこうあって欲しかったと彼を扱うのであれば、彼はその様に変わっていくことだろう。―ヨハン・ウオルフガング・ゲーテ