ヤッちゃんパパ奮戦記

HFAの息子に啓発されて、化学を専攻した小父さんが畑違いの自閉症療育の世界へ。50の手習い、子育て奮戦記…

あと一息

2008-05-22 00:03:45 | 星槎大学

(かなり前の画像ではあるが、マラソン大会でのヤス: 今は彼のような心境である。)

今週は少し踏ん張って、「学社融合教育論」の最終レポート(小論文)と「特別活動の研究」のレポート2通を仕上げた。「学社融合教育論」は変則的な履修形態で、ミニレポート3通が合格したのち小論文を提出すると理解していた。ところが、4月から変更があり、ミニレポートは2通で良くなっていたことに気付かず、3通を作成してまとめて提出してしまった。3通とも無事添削されて戻ってきた。

卒業単位に関係しない教職課程の2教科4単位と10月生であるが故の変則的な取扱いをするゼミの4単位を含めて、今年度は45単位を履修している。前期に24単位は修得済みである。残すレポートは3通。6月中に2通、7月に1通を予定。スクーリングが3教科。6月、7月、8月に1教科づつ申し込み済み。最後になる8月の「発達障害指導法実習」は芦別に泊まり込みになる。今年も北海道行となる。科目修得試験は5教科で、6月2教科、7月1~2教科、8月2~1教科の見込み…レポートの添削スピードによる。何れにしてもあと一息である。

6月に自閉症スペクトラム支援士の講座、7月と8月にS.E.N.S.養成講座、何れも関西で受講。9月に自閉症スペクトラム学会(於:東北大学)とその他の予定も多い。11月のLD学会は広島大学なので…遠い…ちょっと参加を悩んでいる。

さて、「生徒指導・進路指導の研究」のレポートの下準備にボチボチ取り掛かるか。これは結構難物である。教育カウンセラーの受験には必修であるので仕方がないが…。
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あい先生有難う…パンクロ写真の世界を見たような世界

2008-05-19 22:13:25 | 子どものこと

(あい先生からのお手紙)

5月11日はヤスの学校の運動会。私は神奈川から新潟へ、ということで立ち会うことはできなかった。

前日、あい先生(交流学級の担任の先生)から写真の様な、お手紙を頂いたそうである。上半分は一寸字数が多いような気もするが、さりとてそれ程困るというレベルではない。下半分は絵付きの説明で、ヤスにとっては、とっても優しい対応になっている。100点を上げても良いと思うほどの出来であって、親としても嬉しい。

運動会の練習のうち、ジャニーズ系の音楽に合わせた振り付けで踊るダンスには全く参加できなかった。当日はこの部分だけは不参加。ところが本番では音楽をかけていたCDが、突然音飛びを起こして、参加していた児童の手足が止まり、一時会場が騒然としたそうだ。CDを再生しているプレーヤーに誰かが大きな振動を与えた(ぶつかるか、落とすかしたのではないかと思われるが)説明もなければ、やり直しもなかったそうだ。ヤスが参加していなかったのは、個人的では幸いであるが、それまで一生懸命練習を積んできた子ども達のことを考えると、発達障害の有無に関わらず、可哀相な状況に思えるし、学校の対応にも首を傾げる。

それはそれとして、ヤスは自分のロールを無事こなし、真っ赤に日焼けして帰ってきた。もう一つ嬉しいことがあった。上のお手紙に指定されていた持ち物の中に「白いタオル」というのがあった。もちろん家人はタオルを持たせたのだが、あい先生も別のタオルを用意してくれていた…。

(アイロンでパッチングできる布に、油性ペンで書かれたメッセージ。ヤスにとってはとても心強いエイドであったに違いない。)

あい先生は今年、水原(阿賀野市)から赴任してきた、体育会系という感じの先生である。お世辞にも発達障害の知識や、自閉症児の扱いをよく知っているとは言い難い先生であった。始業式から約40日。この先生なりの努力があったことがよく伝わってきて嬉しい。こういった些細な事柄から、発達障害に対する気付きが生れ、また、こういった小さな成功体験が教師をより高みに導いていくという事実を体験したのは、今回が初めてではない。

一方、同じ日にポーテージの新潟教室でとんでもない話を耳にした。YSちゃんの特別支援学級の担任も今年代わった。こちらは分水町から赴任した年配の女性の先生。それまで知的学級を担任していて、自称経験豊富なこの先生は、YSちゃんの学力レベルなどには目もくれず、障害を持った子どもは勉強などしても仕方がないからと、判で押したように1時限目は体育館を11周マラソン。4時限目はお茶会(YSちゃんは毎日お茶を入れる係、2ヶ月後には別の子に交代の予定とか)理科と社会はしても仕方がないからやらない。…「学習指導要領等あっちへ行ってろ!」って感じである。5年生の彼女に1年生の漢字ドリルを多量に出して、あれも出来なかった、これも出来なっかった…の繰り返しという。開いた口が閉まらない。

「もっと勉強をきちんと教えて欲しい」という要望をしても、「障害を持っている子どもにそんなことをしてどうなるのですか? お母さんはいったいこの子の将来をどう考えているのですか? 勉強なんかよりはお茶の入れ方をマスターしたほうがどれだけ役立つことかわからないのですか?」と逆切れされる始末。おいおい、この子にとって何が大事かという大枠を決めることが、小学校の先生の仕事じゃないだろ。…そこには、旧態依然とした隔離に似た二元論が色濃い。

同じ県の同じ職種…小学校の教員。そこには資質として大きな違いが見える。まるでコントラストの激しいパンクロ写真(白黒写真)を見るような世界があった。いつになったら特別支援教育に見合った教員が揃い、YSちゃんの担任のような訳のわからない教師が淘汰されることやら。
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思いだしたこと

2008-05-02 14:26:54 | 書籍

(ケムス化学)

たくママさんから、頂いたコメントで、ご自身が大学で化学を専攻されていたことが書かれていた。療育とは離れてちょっと親しみを感じた。

化学を大学で…というのは私と同じである。ただし私は35年ほど前の卒業ですから、大分時代が違うのではと思える。私の専攻は界面化学。あまりお馴染みがない分野かと思うが、「表面張力」とか「濡れ」等を扱う物理化学の一分野である。ある製薬会社、と言っても私が一時期籍を置いた武田薬品ではなく、もう一寸中小の全○工業という会社であるが、その就職試験の面接で
「専攻は何ですか?」と聞かれ
「界面化学です。」と応えたところ、
面接官は頷いて調書に「海面化学」と記入していた。…そんな会社はこちらでお断りしましたけどね。昨日のように鮮明な記憶に残っている。

化学という学問は明治期に他の西洋文明と同様開花した学問である。日本の界面化学の創始者は故鮫島実三郎という先生で、物理化学の分野では大変な権威であった。お弟子には故越山季一、佐々木恒孝等がおり、私の恩師故中村正男先生は佐々木先生の愛弟子であった。佐々木先生には直接教えを得るチャンスはなかったが、越山先生にはお世話になり、世田谷のご自宅で闇鍋会などもしたものであった。

私の家人も同じ大学の理学部化学科。私の研究室で助手をしていた先生が助教授時代に、その先生の研究室にいた。10歳も後輩なので、学生時代は互いに知る由もなかったが。と言おう話はどうでもいい。

先日の小学校の実験でケムス化学を思い出して、Amazonで検索したところ、この本の改訂版はなく単発の出版であった。1965年、40年も前の古書。新ケムス化学という本もあた。ただし原書は前作とは全く無関係で、二冊とも古書しか見当たらない。懐かしく思い2冊とも取り寄せてみた。流石に古本らしい古本であったが、懐かしい。

元来、本が捨てられない。文庫本ですら取ってある。高校の時の教科書や中学校の教科書まで理科、数学、技術家庭、書道などは取ってある。おかげで神奈川の自宅の書斎は壁に面が作り付の書棚にしてあるが、既に満杯である。どの本に何が書かれていたかとという索引機能だけが脳内にあり、必要に応じて辞書を見るように参照できるようになっている。化学の専門書2段。マーケティングや経営学関係が1段占領している。


療育関係の専門書籍は上越に置くようにしているが、これも通常の本棚7段分までに膨れ上がってしまった。整理が大変。

しかしながら、古色蒼然としたケムス化学を手に取ってみると、無性に懐かしさがこみ上げてくる。化学は本当に楽しい学問であったとの思いである。久しぶりに化学の専門書でも読み返してみようかという気持ちになった。
コメント (1)
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