皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

旧皇族の方々の序列

2024-06-19 21:37:26 | 皇室の話(3)
令和6年6月17日、週刊エコノミストOnlineより、「皇籍離脱を自ら申し出た旧皇族の情願書を発掘! 社会学的皇室ウォッチング!/117 成城大教授・森暢平」と題する記事が配信されている。

森氏の発掘した情願書により、以下のことが明らかとなった。

-----引用開始-----
 しかし、前述したとおり、情願書が最初に書かれたのは3月6日だ。翌日、「皇族の身分を離れる者等に対する一時金支出に関する法律案」が閣議決定されるので、それに備えて、署名を集めたのである。当初、皇籍離脱は、憲法施行前に予定されていた。言い換えれば、新憲法施行をもって、11宮家は皇室から切り離されるはずだった。
-----引用終了-----

皇室関係の議論は観念論優位になりがちな傾向があるようであり、また、事実に関する情報も、どこかで聞いた情報が繰り返されるばかりで、少し掘り下げた情報となると、なかなか接するのが難しい。

そういう状況の中、今回の森氏の記事のように、事実に関する情報を丹念に確認していくことは、重要な作業であると思う。


さて、今回の森氏の発掘・紹介により、改めてその意味が明らかになったことがある。

それは、昭和22年10月14日に皇籍を離脱した方々の序列である。

この時の宮内府告示が掲載された官報を見てみよう。



皇籍離脱につき、宮内府告示第15号、第16号、第17号がある。

情願書に基づく離脱は第15号に記された方々に含まれるが、冒頭が博明王(伏見宮)となっている。

旧皇族の方々について、日本維新の会のHPに分かりやすい系図が載っているので、見てみて欲しい。

この系図では、横の直線につき、右が年長、左が年少となっている。

博明王は、左下の方に記されているので、現行の皇室典範の序列の考え方によれば順位は下の方になるはずであり、また、情願書を出した方の中では、最上位は恒憲王(賀陽宮)のはずであるが、全くそうはなっていないのだ。

実は、宮内府告示における並べ方は、旧皇室典範における「皇兄弟以上ハ同等內ニ於テ嫡ヲ先ニシ庶ヲ後ニシ長ヲ先ニシ幼ヲ後ニス」(第8条)というルールに基づいたものとなっているのである。
邦家親王(伏見宮)の子のうち、嫡出の男子は貞教親王と貞愛親王のみであったので、貞愛親王のひ孫である博明王は、他の方々の順位よりも優先し、第1位となっているのである。

確かに、皇籍離脱の日付は、昭和22年10月14日であり、現行の皇室典範の規定に基づく離脱ではあった。
しかしながら、離脱した方々の序列は、旧皇室典範の時代のままであったのであり、実態としては旧制度下の方々として離脱をしたということになる。

今回の森氏の記事により、このことが改めて明らかになったと言えよう。

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