横浜市港北区新羽町

横浜市北部にある「にっぱ」の町会活動を紹介いたします。
ブログは移転しました。

【「明察功過」地域の安全と安心を維持するために(地域活動ワンポイント知識)】

2017年06月01日 | 地域活動豆(ワンポイント)知識
【「明察功過」地域の安全と安心を維持するために(地域活動ワンポイント知識)】
 私たち地域に住むひとりひとりの「良心」の総意が地域の安心安全を維持する要です。
 聖徳太子の十七条憲法に「十一に曰わく、功過(こうか:功績と過ち)を明察(めいさつ:明らかに察して)賞罰必ず当てよ。このごろ、賞は功においてせず、罰は罪においてせず。事(こと)を執(と)る群卿(ぐんけい:まちぎみたち)よろしく賞罰を明らかにすべし。」とあります。
 これは、「官吏たちの日ごろの行いをよく見て、良い風土を創り、良い結果をもたらす行いには支援し褒め、悪い結果をもたらすような行いは、結果が出る前に叱り、罰し、正しなさい。指導的な立場で政務にあたっている官吏は、賞罰を適正かつ明確におこなうべきである。」と言っています。地域で活動する私たちは決して公務員ではありませんが、その活動は「公務」そのものですので、「官吏」の立場となんら変わりはありません。

 現代では、どちらかというと「結果主義」で、事件が起きてから警察が動く、成功も失敗も、結果が出てから評価するというのが「あたりまえ」の常識になっていますから、「結果が出る前に叱り、罰し、正しなさい」とは、現代社会の政治や行政や司法とは、真逆の姿勢でもあります。

 現代社会における、「起きた結果だけを評価する」という社会姿勢は、すべてではありませんが、実はとっても無責任な姿勢という一面があります。
 事故が発生した、火災が発生した、失敗した、事件が起きた、当事者を処分し、事件の犯人を逮捕するのはあたりまえです。けれど社会の姿勢としては、これは事故を起こした当事者や犯人に対する責任転嫁でしかありません。本来は、事故も、事件も、火災も「ない」ことが一番です。
 
 この「明察功過」簡単に言えば、「あらかじめ結果を察して先に手を打ちなさい。予防しなさい。」という姿勢ですが、これは、地域で安全と安心を維持していく活動においてはもっとも重要なことであることは言うまでもありません。

 割られた窓ガラスを放置しておくと、どんどんガラスが割られるということは有名ですが、本当に怖いのは、ガラスが割られることではなくて、そういったことに目を瞑(つむ)るということから、私たちの心が蝕まれることなのです。

 心が蝕まれると、どこに出てくるかというと、地域のあちらこちらでゴミが散らばり、モノが壊され、しまいには、観ながルールを守らなくなり、無用な対立が生じてしまいます。

 地域の安全と安心を維持する、守る、予防するとは、日常の小さなこと、小さなルールを疎かにすることなく、地域の人たちが当然のように振る舞えること。ちょっとした変化を捉えて、その場で修正し、あるいは、ちょっとだけ改善していくこと、これが一番大切なことです。

【余談】
 横浜市で、福島から避難してきた生徒への「いじめ」が発覚し、教育長の処分に市長が言及しました。昨年(2016年)は、川崎で中学一年生が暴行を受けて亡くなるという事件がおきました。

 イジメが起きてから、「たいへんだ、たいへんだ」といって騒ぎ、「イジメた奴は誰だ」とばかり、学校内で犯人探しをはじめます。しかし、そんなことをすれば生徒間にも、PTAと教師の間にも疑心暗鬼が起こり、生徒の絆もPTAと教師の関係も、ズタズタに引き裂かれてしまいます。なぜそうなるかといえば、責任を「イジメた生徒に転嫁している」からです。
 本来は、イジメが起こらない校風を作る、イジメが起きそうなら、その徴候を察して、先に生徒たちと話し合い、イジメの発生を未然に防ぐ。
 親も生徒も、社会が一番望んでいるのは、イジメがない社会、学校であり、そのことほうが、よっぽど大切なことです。
 こうした「先んじて手を打つこと」、「察する」ことを大切にしようとする社会姿勢の場合、その責任は、誰が負担するのでしょう。学校であり、教師たちであり、親でもあります。ですから、問責・逮捕する側に逆に結果責任が生じます。
 「察する」「予防する」という社会姿勢は、その責任は人の上に立つ側がすべてを負担することになります。
 「察する」という社会姿勢は、それだけ施政者に厳しいのです。

 かつて、江戸時代の八代将軍、徳川吉宗の享保20年間は、江戸の小伝馬町の牢屋に収監された犯罪者の数はゼロ人だったそうです。誰ひとり逮捕される人がいませんでした。
 それはお役人がさぼっていたとか、そういうことではなくて、当時下手人を逮捕することが手柄ではなくて、犯罪を防止することが手柄であったことから、犯罪が起これば、それは担当している同心とその上司の与力の責任になるので、彼らは必死になって犯罪抑止に務めたようです。
 犯罪の発生を未然に防ぐという体制が、完全に定着していたからこそ実現できたということが研究で明らかになっています。
 
 さて、先ほどは「現代ではどちらかというと『結果主義』で、事件が起きてから警察が動く・・・・」って書いてありますが、結果主義を批判しているわけではありません。
 現代はMBOだとか欧米の価値観がもてはやされていますが、日本は情緒的、欧米は論理的なので、どちらも大切です。
 ただ、結果に至るまでに、根本的に大切な価値観があるのだということを「明察功過」は言っています。
 この「現代では」は聖徳太子にとっては、十七条憲法を制定した時が「現代(このごろ)」であり、その時は、大陸から仏教が伝来して価値観が大きく変わった時代でもありました。そんなときに、「このごろ(現代では)、賞は功においてせず、罰は罪においてせず」と説いたわけです。
 
 では「個人レベルで良い行いをやったって、社会が変わるわけでないし、影響ないじゃん」と思ってしまいますが、そうではありません。
 いきなり大きな事例を持ち出しましょう。日本の原子力発電所は、まことに危険だと指摘されることがあります。それは、壁が薄いこと。アメリカの911のテロではありませんが、飛行機と言わずとも、セスナ機が突っ込んできて、それこそ冷却する手段を失ってしまえば、福島第一発原子力発電所級の災害が発生してしまいます。
 しかし、現在まで日本では起きていません。それは、「日本ではそういったことを考えたり実行したりする人間がいない」ということが「あたりまえ」になっているからです。これは、まさに、ひとりひとりの良心が家族の、組織の、会社の、地域の、そして日本の「あたりまえ」にしているわけです。
 福島第一原子力発電所は沸騰型軽水炉といって、構造上まことに問題のある原子炉でした。これが加圧型軽水炉であれば、あのような災害にはなりませんでした。
 日本の技術者は、沸騰型軽水炉は良くないし日本の環境には合わない、加圧型軽水炉を導入すべきだという良心は持っていましたが、おそらくアメリカの売込み圧力に負けてしまい、自分の良心に背いてまで、導入してしまったのだと思います。まさか、数十年後に津波に襲われるなんて思ってもいなかったでしょう。しかし、残念な結果が出てしまったわけです。
 
 新幹線も開業以来人身死亡事故がゼロという実績があります。しかし、もしテロ組織があの小さなプラスチック爆弾を身に着けて乗車し、時速300キロで走行中に爆破させたとすれば、想像するだけで恐ろしいことになります。
 どんな技術を持ってしても、防ぐことができないリスクがあります。そのリスクをを防ぐことができるのは、まさに、私たち日本人のひとりひとりの「良心」の総意でしかありません。
 
 私の恩師は「神なき知育は知恵ある悪魔を育てることなり」と日々説いてました。
 「神」とは、人として生きるための原理原則であり道徳です。
 「神なき合理主義は、ニヒリズム(虚無主義)を生むことなり」と私は思っています。目的と道徳を常に携えて、すべてのことを考える礎としていきたいと思います。(文責:新羽地区スポーツ推進委員連絡協議会会長 小松)