潜れども 潜れども

管理人のいろんな事への感想等。ダイビング、落語、Jazz等。

目を吊り上げてはいけない。

2007年09月11日 01時19分11秒 | Weblog
今日、職場で一緒に仕事をしている方のお父様が亡くなった。
ご冥福をお祈りしたい。

この歳になると、自分を含め親兄弟、親戚、友人等、自分の廻りの人間の平均年齢が上がってくる。人間例外なく、1年に1つずつ歳をとる。

人の死というのが少しづつ自分の身に、ヒタヒタと忍び寄ってくる。
そうなると、自分のタイムリミットをなんとなく意識するようになる。

私の寿命を考えたとき、月に○本潜った場合、一生に潜れるのはあと何本?
とか、どのくらいのペースで潜れば生涯潜水本数が1,000本に到達するか?

このペースで水中写真を撮り続けた場合、何時になったらコンテストで最優秀をとれるのだろうか?

特定の時期にしか見られないレアな生物をあと何回カメラに納めるのか?

とか、言ってみれば焦りに似た感情が見え隠れしてきた感があった。
そして、貴重な休日とお金を投じて潜るのだから、最大限楽しまなくては・・・。
などと考えたりする。

確かに、何本も何本も潜って、今まで見れなかった生物、景色に遭遇し、シャッターを切り写真に納める。その写真の出来が良かったときの充実感は何にも変えがたいものがある。

しかし、今にして思えば、あと何本、あと何枚、1本でも多く、1枚でも多く、そんな事を考え、躍起になって海という自然に身を投じていく・・・。

そもそも、そんな自分の焦りにも似た感情の果てにあったのが、減圧症罹患だったかもしれない。
減圧症罹患でなくとも、何らかの傷害、事故にあったかもしれない。
そんな気がしてきている。

だから、ダイビングと言うものは目を吊り上げて海に挑んでするものではない。
海の中にちょっとだけお邪魔させてもらう。そのくらいの気持ちでするもののような気がする。

ただ、何回でも言う。

減圧症罹患は、自己責任である。
しかし、症状を悪化させ、後遺症を残すに至らしめたのは、私に関わった数名の医師の責任である。

あぁ~~~、いつか実名でその医師たちの名前を公表し、社会から抹殺してやりたい。しかし、正面からぶつかっても無駄であることは解かっている。

そんな事を言っている自分だが、また、いけないカウントを始めそうである。

一生かけて集められるJAZZCD、レコードは何枚か?

一生のうち、あと幾つの噺を聴けるのだろうか?

とか・・・。

そうやって、また目が吊り上っていく・・・。
いかんいかん・・・。なんにでもすぐムキになる。それがいけないのだ。
でも、それがなかなかできない。リラックスするのも難しいものだ。

でも、その辺の加減が上手くできて初めて、自分の趣味を本当に楽しめるようになった、と言うことになるのだろう。

でも、その道のりはまだ遠い。