新潟久紀ブログ版retrospective

ほのぼの愛車遍歴3「ヤマハ・RX50スペシャル」(その1)

◇◇◇ヤマハ・RX50スペシャル◇◇◇
 [昭和58年の夏から59年冬まで愛用し60年春頃廃車]

 あれは大学1年生の夏前だったか。映画クラブ先輩から譲り受けた原付バイクの「ヤマハRX50スペシャル」はとにかくイカしていた。「スペシャル」は、ヤマハのバイクにおいて、プルバックハンドル(チョッパーハンドル?)を備え、アメリカンホースバックのライディングスタイルのモデルをあらわす"称号"だった。
 50cc(原付1種)スポーツ初の「スペシャル」モデルRX50スペシャルは1980年に登場したという。49ccの空冷2ストローク単気筒エンジンを搭載し、5速ミッションやフロント油圧式ディスクブレーキが組み合わされていた。タコメーターも装備。ホイールサイズはフロント19インチ、リア16インチで、原付クラスとは思えない大きく迫力のスタイルだった。
 クラッチレバーでの変速車両を所有するのは初めて。高校時代に友人のRZ50でカックンカックンとノッキングエンストの洗礼を受けてクラッチ合わせの感触はつかめていたが、それにしてもスムーズにつながるのはうれしかった。
 譲り受けた時の走行距離数は忘れたが先輩が相当乗り回していたので、フロントホークなどシルバーメッキ部分の剥げや錆などが相当な中古感を漂わせていたし、チェーンの弛みを時折調整するなど手も掛かったが、エンジンがとにかくパワフルで、どこまでも回転数と速度を上げていけそうなサウンドが最高に気分良くさせてくれた。
 そんなデカいガタイとパワーは頼りがいがあったので、アパートと実家のあった柏崎との片道80km約2時間の道程を殆どストレス無しに何度となく往復できたものだ。春先から初秋にかけて、稲の葉が波打つような新潟ならではの田園を走る国道でノーヘルメットで風を切っていると、ロードムービーの主人公になったような気分だった。
 何よりもヘルメットの義務付け無しということから原付を好んでいた私だったのに、しかし、法改正で規制されることになったことと、新潟では雨風の日が多いこともあり二輪車の不便さが鬱積してきた頃合いで四輪自動車へ関心が移っていくのは必然であった。父親の計らいもあって中古自動車を手に入れてからは、当初は原付と使い分けて乗り回そうなどと考えてはいたものの、RX50にまたがることは殆ど無くなるようになってしまった。
 アパートの雨ざらしの駐車スペースで放置気味となり、他の住人が打ち捨てた自転車などに埋没するかのようになってしまったていたので、自家用車を事故で廃車にしまってから久々に乗ろうとしてもバッテリーがあがってしまっており、押し掛けでやっと力ないストローク音が聞けるという有様だった。
 復活するも間もなく、夜のカラオケスナックでのバイト帰りにうっすら積雪の道路で滑って派手にコケてしまい、原付離れしたガタイの下敷きになった私はしたたか擦り傷と打撲を負い、EX50もフロントホークがねじ曲がりしんしんと降り続く雪の中でご臨終と宣告されたかのような様相となった。
 ヒイヒイ言いながらかろうじて重い車体を押してたどり着いたアパートの青空駐車スペースは、そのまま降り続いた雪に覆い隠されてしまい、この頃は豪雪が毎年のようだったので、もはやRX50の傷だらけの勇姿を見ることをできなくしてしまった。新潟大学五十嵐キャンパスの周辺を真っ白に埋め尽くした積雪が息絶えたRX50を埋葬して、私から永遠に離別させたかのようだった。
(つづく)


(「ほのぼの愛車遍歴3「ヤマハ・RX50スペシャル」(その1)」終わり。続きは近くupします。)
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