●一目惚れの「あけぼのハウス」の後釜に
名称は「あけぼのハウス」と"昭和まるだし"であるし、六畳一間の木造アパートだが、通学に徒歩5分程度の利便や浴室や台所などの造りを気に入っていた私は、先輩が引き上げると聞いて即座に"後釜"を申し入れた。私ほどその時点で宿替えを臨む後輩はいなかったのか直ぐに了解を頂けて、先輩の卒業と入替りで私が1年生の春休みに転居の運びとなった。
昭和59年の年明けも前年に続き結構な大雪だったと思う。引っ越しの準備といっても、机と本棚、少し大型のオーディオシステム、冷蔵庫さえ部屋に置かざるを得ない狭い造りの下宿で、あとは寝るだけの空間しかなく、什器も一人分だったので大した段取りは不要だった。ただ、2km以上の移送手段をどうするかが問題だった。
父親の口利きと引越し作業の負担を得て入居した下宿を1年で引越すことに少しばつの悪さを感じていたので、引越しは自分と友人だけで対処したかった。隠密な準備ゆえに引越し予告を大家に伝達するのが契約上の事前通告期限ギリギリになってしまった。家賃1月分くらい違約金的なお詫び金を払うつもりだった。
2月下旬に来月末をもって転出すると大家に告げると大いに怒られた。"後釜"の確保のために仲介の不動産屋に早めに登録しないと空室になるという。契約書上の通告期限とか違約金払えば良いとかでなく常識とか信義の問題だとの叱責だ。私は世間知らずや配慮不足を大いに反省した。契約行為に関する教訓となる事件だった。
先輩がアパートを引き上げる日は運の悪いことに実家の用事が重なってしまい引っ越しの手伝いができず、引越しは後輩や同僚なとが手伝うことが当たり前だった昭和時代において、先輩からは恨み節も聞かされたが、翌日に平謝りでカギを受け取った。管理の不動産屋も当時は大らかで、部屋の引き継ぎは新旧の学生当人同士だった。
いよいよ下宿から家財道具の移送だ。物品一つ一つは一人で階段を持ち下ろして、新居の二階へと持ち運べるのだが、建物間2.5kmの距離をまとめて運ぶ手段が原チャリ所有のみの私には無かった。そんな悩みをこれもサークルの同学年生が助けてくれることになる。出入りのバイク店で小型トラックを借りてくれるというのだ。
私は普通免許取り立てで教習場の乗用車しか運転したことがない段階だが自分で運転すると言い放ってみた。トラック借り受けの口利きをしてくれた学友はリスクを察して車両借り受け時も付き合ってくれたのだが、案の定、私が運転を初めてすぐに塀に擦りそうになり、見かねた学友が運転手を買って出てくれたのは有り難かった。
そんなわけで、無償で借り受けられた小型トラックで、独り暮らしとなって早くも一年での引っ越しをすることができた。車両借り受けの口利きから運転手、家財道具の運搬まで手伝ってくれた空手の段持ちという腕っ節の強い学友には本当に感謝だった。お礼は「お互い様」と言って受け取らない。それが昭和の常識だった。
(「新潟独り暮らし時代9「一目惚れの「あけぼのハウス」の後釜に」」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話「新潟独り暮らし時代10「イザ「あけぼのハウス」への引っ越し」に続きます。)
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