新潟久紀ブログ版retrospective

新行政推進室6「時限的に求められる成果」編(1/2)

●時限的に求められる成果(1/2)

 21世紀の県行政創造運動の普及推進のための職員説明会や広報を進めていく中で、新たな行政を展開するための理念として取りまとめられた「基本構想」に基づき、職員一人一人が具体の業務において創意と工夫により実践を重ねていこうという「運動」の体裁を取るとはいえ、我ら新行政推進室が旗振りと声掛けだけで済ませて良いのかと…いう思いが募ってきた。
 新行政推進室のスタートにあたり、室長は「当室のような組織は2年程度の時限的な設置であるべきなので、皆はそのつもりで"何らかの成果"を上げるように。当室は具体の事業等を持たない、いわば旗振り役。実践を各政策分野を所管する部局へいかにスムーズに引き渡していけるかが鍵になろう」と度々話していた。
 我々室員に課せられた"上げるべき何らかの成果"とは何なのか。法令等や国の政策もしくは首長の公約等に基づき、やるべき事が明らかにされている業務に慣れている役所の職員には、白紙からの企画立案を迫られることが少ない。これまての同僚や交流のある同期とのやり取りを通じて独創性が高い方であると自負していた自分も、役所勤めを続ける中で知らず知らずの内に、対処すべき論点課題の提示を待つ受け身的な心持ちが育ってきていたのかも知れない。
 当室の他の班を見渡すと、「行政システム改革担当班」では、当時全国の自治体で流行り始めていた事務事業評価システムの導入検討という目玉があったし、「地方分権・組織改革担当班」では、地方分権一括法の制定が目前に控えていて、それに基づく県行政における関連条例等の改正など具体的な業務があり、組織の見直しも具体的な論点課題が明確であった。それに引き換え我が「開かれた県政推進担当班」は、どうにもフワフワしたイメージのみが浮かびあがり、"ボディ"のある仕事が見出しにくいのだ。
 それにしても、「開かれた○○」とか「選ばれる○○」とか…。他律的な視点に委ねる目標設定が流行り始めたものだ。多数決が正統性を決するという民主主義の神髄なのかも知れないが、選挙で白黒の判定を決することのできない行政の仕事ぶりについて、こうした他律的概念は、際限の無い要求にどこまでも対応していかねばならないような"無間地獄"を感じてしまう。「説明責任を果たす」なども、言うは易しで決して完全な検証がしきれない悪魔の言葉だと思うのは私だけだろうか。
 閑話休題。「何が問題なのか、それそのものから考える」。自分なりに考えを巡らせてみた。多種多様な政策施策や事務事業を担う新潟県庁において、特定の部門部署のみに偏重するものでなく、あまねく通用する"新たな行政"とは何なのか。県民起点とは言え、過剰なサービスの上乗せなど、部局の職員や財政の負荷を過重に掛けてしまうというのは違うだろう。許認可や政策的推進事業などの行政事務事業の本体をもつ部局の職員へ汗をかかせるだけでなく、その取組が円滑で効果的なものとなるような下支えとなるものは何か。暫くは考え続けたものだ。
 そんな折り、個別案件の相談の中で室長から「行政とは突き詰めれば手続きである」とのコメントが漏れた。立法府である議会が決めた法、すなわち政策を、我々行政府たる役人は適切に執行していく。肝となる"適切さ"が確保されるかどうかは"手続き"に依る。手続きは全ての行政業務に通じるし、閉ざされたイメージを象徴する"恣意的な判断"が下される恐れなどの有無や程度を浮き彫りにすることは、"県庁の開かれ度合い"を知り、新たな時代の仕事の進め方を見出すこと、つまり、新行政に通じるのではないか。開かれた県政推進担当の私としては"手続き"を切り口として具体の成果を求めることにした。

(「新行政推進室6「時限的に求められる成果」編(1/2)」終わり。「新行政推進室7「時限的に求められる成果」編(2/2)」に続きます。)
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