新潟久紀ブログ版retrospective

【連載4】空き家で地元貢献「不思議なおばちゃん達と僕(その4)」

●不思議なおばちゃん達と僕(その4) ※「連載初回」はこちら 

 僕の大学進学に関する話の流れだったのだと思う。母は僕に対して、「教科書を読んだり問題を解いたりなんかをいつまでも嫌にならず、大学に行きたいなんてよく思えるねえ」と言いながら、自分は勉強嫌いだったこともあり中学を出てすぐに近所の書店での仕事を始めたという。昭和の前半とはいえ街なか暮らしであれば高校へ進学する同級生も少なくない時代だ。昔から母の眼力や判断力には一目置いていたし、雑談していても頭の出来が悪い方とは思えないので、何故進学しなかったのか以前から不可解ではあった。本人曰く「勉強嫌いもあったが、親の面倒を見なければならなかったからだ」と語り始めた。
 母はいわゆる私生児であったという。僕は同じ年頃の男子と同様に、部活や好きな洋楽、遊ぶことなど外の世界に意識が向きがちで、親の出自だとか一族の来歴とか身内の事にはとんと無頓着であったので、高校3年生のその時に至るまで、まともにそうしたことを考えることが無かった。そう言われてみれば母方の祖父というのが居ないわけだが、僕の知らない昔に亡くなってしまったのだろうくらいにしか考えていなかったのである。
 そして母の生家は困窮していたという。幼い頃祖母に連れて行かれたあの"おばちゃん達"の家である。祖母は、行きずりなのか遊びなのかなどはともかく、街の若旦那風の妻子持ちとの間に子供、つまり僕の母を設け、認知してもらうでもなく、また、それを求めたり相手に追いすがるようなことをするでもなく、それっきりその男とは縁が切れたのだという。
 おなかが大きくなった娘(祖母)を抱えたその生家には、安穏とそれを支えられるだけの余裕がなかったという。そこには、僕の祖母の父母と弟妹が5人もいたが、父以外は、要するに甲斐性が無く、身重の姉どころか自分の身の回りの始末すらおぼつかないような面々だったのだ。もっとも祖母も自分限りでなんとかできない不始末の結果を文字通り抱え込んだという意味では、正に姉弟皆が同類であった。
 そもそもおばちゃん達は何故、皆が皆、知的障害やら自律する上で少し足りない感じなのか。僕の母は話を続ける。祖母やおばちゃん達の母親が家系的に問題があったようだと。祖母の母親の生家、僕の母は"本家"という言い方をするが、それは、僕の家やおばちゃん達の家がある"街なか"からはかなり離れた農村部にあり、けっこうな農地持ちでその地域では比較的裕福な家柄であったという。
 閉ざされがちな農村で資産や伝統を護るためなのか、親族関係での縁組みが続いた果てに生まれた知的障害のある娘が祖母の母親だという。本家は、不憫に思うも家に置いておくわけにはいかないその娘に、優秀ではあったものの長兄が居るために家督を継げない青年であった祖母の父をあてがい、街中近くに保有していた土地を1反ばかり付けて、外に所帯を持たせた。その土地にあるのが"おばちゃん達の家"なのだ。
 大正の後半に農村から街中に出てきた夫婦、つまり僕の祖母の両親は、妻に知的障害の向きがあることなど構わず、時代の習いで次々と子を設けた。夫が優秀であったとはいえ案の定というか、生まれくるのは知的障害か病弱な子供達だった。全部で7人いたという子供達のうち3人は病気で早逝してしまい、残っているのが祖母と僕の幼い頃の思い出の"不思議なおばちゃん達"の5人というわけなのだ。
 5人という人数に加えて少し足りないところがある子供達を多く抱えた家計は、世帯主の薄給だけではままならず、本家が妻の持参金よろしく付けてくれた一反の土地を度々切り売りしては糊口を凌いできたという。おばちゃん達の家が細長い理由に合点がいく。端から手放していったあげく残った細長い土地には幅広の家はもはや建てられなかったのだ。
 そんな生活苦の中では、母子になった長姉、つまり僕の祖母を、いつまでも抱え込んではいられない。優秀だと聞いている祖母の父は、自身の血を引いてくれたのか自分の子供達とは明らかに異なって利発さを見せる孫娘、つまり僕の母に、子供の頃から意識付けしていたのかもしれない。できるだけ早く自立して自分の母親の面倒を見るのですよ、と。
 理路整然としたまともなやりとりがてきる大人が身の回りには祖父のみであった僕の母は、その目論みに唆されたというよりも、自らが早くこの家を出たいという意識が強くなって、中学を卒業したら即座に働いて収入を得たいと思うようになったのだという。ただし、偉いのは、自分の母親を置き去りにして貧乏な家を出て自分の稼ぎで一人自由になりたいというのではなかったことだ。母親の弟妹達と一緒の世帯のままでは、自分一人がどんなに稼いでもお金は消えて行き困窮から抜け出せないし結婚もできないだろうが、母親一人連れ出すだけなら自分の収入で何とかできるかもしれない、人生を拓けるかもしれないと考えたというのだ。正に今の僕の存在につながる人生の道行きを中学生かそこらで判断してくれたというのだから、自分の母親ながら昭和初期の子供というのは今から比べものにならないくらい大人だったのだなあとつくづく思う。

(「【連載4】空き家で地元貢献「不思議なおばちゃん達と僕(その4)」」終わり。「その5」に続きます。)
※"空き家"の掃除日記はこちらをご覧ください。↓
 「ほのぼの空き家の掃除2020.11.14」
☆ツイッターで平日ほぼ毎日の昼休みにつぶやき続けてます。
https://twitter.com/rinosahibea

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「地元貢献」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事