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毎日がスペシャル!

teacupからのお引越し
トライアスロン・読書日記・日常のあれこれ

田舎

2007-06-04 09:10:24 | 旅行
5月31日(木)~6月1日(金)








上から 生家、3軒祖父の兄弟の家、寝間、茶の間、竈、台所、2代目マリモ、お寺。生家も父が取り壊してしまうらしいcamera

帰省 母の走った道

2007-06-02 11:09:50 | 旅行
6月1日(金)

5時起床。バイクで叔父の家に行き、そこにバイクを置いてそこからラン。昨日、叔父に母の走っていたであろうコースを聞いていたので、そこを走りたかった。雷山という小さな山にある雷山観音までだったらしい。他にもいくつかコースはあったみたいだけど、今回は山へのコース。すぐに2年間通った小学校があらわれる。小さい頃は、ここまでとても遠くに感じていたけど、ほんの2kmぐらいの距離だ。新しくなっている部分と昔のままの部分と入り交ざっている。小学校から町よりを下といい、山よりを上といっていた。子どもの頃は、山より町だった。下の道は覚えているけど、上の道は覚えていない。小学校を過ぎると見覚えのない風景となるfutaba

子どもの頃は、田舎の農業、産業がどういったものかあまり理解していなかったような気がする。今でも無知なことが多い。田圃にまだ稲があるのに驚いた。今は田植えが終わった季節なのに。二期作?田植えの準備をしているところもあった。父の友だち、親戚にも花作りの人もいて、なんとなく知っていたけど、花の畑らしいものがある。菊?上からまるい電球みたいなものがつるされている。盲導犬の故郷みたいな看板もあった。雷山観音に西行法師もきたという言い伝えもあるらしい。邪馬台国の謎を解く伊都の国、という認識はあったけど、走っていると色々なものが見えてきて面白いitem1

ああ、こんな中を母は走っていたんだな、母が走っていたところを走っているんだなと感傷に浸っていたのもつかのま。山に向かってずっと上りだ。「えっ?こんなところを母は毎日走っていたんだ?強いはずだyellow25」となんだか可笑しくなってきて、笑えた。上りだけど、なんだか楽しくなってきた。母がここを走っていたのは30年近く前のことだ。今は走る人、ランナーの認識は出てきているだろうけど、その頃はこんな田舎を走っていたら、さぞかしヘンな存在だったんだろう。走り初めから、アキレス腱が痛かった。足はやっぱりまだだめだ。でも、ここは走りたいrun

感傷と可笑しいのと一緒になってたけど、次にきたのがトイレだ。おしっこがしたい。そう思ったら頭と身体がおしっこでいっぱいになってしまい、感傷どころではない。母は、どうしてたんだろう?あの母のことだ、どこかにしゃがんでいたのか?しばらくするとコンビニが見えてきた。助かった。コンビニでトイレを借りた。新しくできたもので、母の頃はなかったに違いない。ほっとして走り出し、またしばらくするとまたいきたくなってしまった。どうしょう?もうこの先はないだろう。母のようにするしかないか?そんなポイントはないかと回りをキョロキョロしながら走っていて、とうとうポイントを見つけ、しゃがんでしてしまったtpaper

目標の雷山観音というところが、どこまで行けば辿り着くのか不安になってきた。もう走り出して50分ぐらいだ。帰りが遅くなってしまう。バイクで帰る予定なので時間に余裕を持ってたかったし、またトイレに行きたくなるのが心配だった。残念だったけど、雷山観音は断念。やっぱり母にはまだまだ勝てない。また途中のコンビニでトイレによって帰った。帰りは下りで30分ぐらいだったsymbol5

叔父の家によると、みんなが起き出してきた時間だった。コーヒーでも、シャワーでもと色々気遣ってもらったけど、早めに出発したかったので、祖母の仏前に手を合わせてホテルに戻ったitem4

荷物を宅急便で送り、輪行袋等を背中にしょって9時頃出発。国道をまっすぐ博多方面に向かう。平日朝で都会?に向かう道は大型トラックが多く怖い。海沿いの道に出て、北条時宗の築いた元寇防塁のある生の松原による。ここに父の妹である叔母の家があり、10年前、ノブリンとここに訪れた。姪浜を抜け、大濠公園にもよる。父もここを走っていたらしい。数名のランナーの姿があった。天神、中洲は人、バスが多い。車道を行くと何度も止まるバスと同じ速度になってしまう。歩道がほとんどで、走れそうなところだけ車道。途中で何度か道を聞きながら、2時間ほどで福岡空港に到着。距離的には28kmぐらいでそんなになかったけど、親戚、田舎の人たちにとっては、自転車で空港まで行くというのは、やっぱりヘンなのかもしれない。あの母の娘だから、受容してくれてるけどnose5

母の走った道を走り、バイクで母の故郷の街を通り、私なりの祖母の供養のつもりだ。49日は迷っている人の為にあるという。祖母は迷っていない。合掌。


帰省 祖母の葬式

2007-06-01 23:55:08 | 旅行
5月31日(木)

自宅のある駅から羽田までのバスが出ているので、駅までバイクで行きそこで輪行袋にバイクを入れ、バスの下の荷物置き場に入れてもらう。羽田に着いてバイク、荷物を預けてしまうと楽チンだbus

7時30分羽田発、福岡行き。今回は急だったのでマイルは使えず、ノブリンの株主優待券を使った。遅れての到着で9時30分頃福岡空港に到着。そこから地下鉄で1時間あまりの筑前前原に向かう。駅に着き、バイクを組み立て(今回は飛行機なので、タイヤの空気を抜いていたので、携帯空気入れで空気を入れるのが大変だった)駅から2kmぐらいの斎場に向かう。式は11時からだったけど、着いたのは11時過ぎですでに始まっていた。控え室で急いで喪服に着替えてから参列。花に囲まれた祖母の遺影を見ると、色々なことを思い出し涙が出てきてしまうitem1

最後に祖母に会ったのは7年前ぐらい。母の13回忌に姉とふたりで福岡に行ったときだ。春で祖母が土筆を採ってきてくれて、指を真っ黒にしながら土筆の袴をとってくれていた。叔父のお嫁さんが「いつもは、こんなことしないのに、あなたたちがくるというとするのよ」と笑っていた。その前は、ノブリンと結婚する前、ノブリンとふたりで祖母に会いに行った。そのときも私たちにお昼を用意してくれていたkabu

母を亡くしてから、泣きながら新幹線に乗り祖母に会いにきたこともあったし、姉とふたりで何度かきて、私たちが海に行くというとおにぎりを作ってくれた。海で姉と食べたおにぎりが美味しかったことも覚えてるitem6

90歳で、どこも悪くないのに自分から病院に入って誰の世話にもならないという姿勢を貫いて(東京ぢゃ、医療処置がないと追い出されちゃうとあとから、親戚一同に話したら、「よかと、よかと、あそこはよかと」と言っていたyellow20)それから5年。95歳だったhospital

父が親族代表で、挨拶した。戦時に祖母と祖父は朝鮮に行き、そこで長女である母を生んだという。敗戦の混乱の中、福岡に戻り次女、長男、三女を産んだと話していた。初めて知った。母のことでは、知らないことが多い。母に祖母にもっと色々聞いておきたかったitem4

お棺に御花を入れ最期のお別れ。祖母はなんだか小さくなり、私の知っている祖母じゃないような気がして哀しかった。火葬場に行き、祖母が高炉の中に入っていく。葬儀の度に思うのだけど、この間が嫌だ。焼かれていくのに、ビールを飲んで食事をして、灰になるのを待っているなんて。でもそんな風習にも大人になるたび慣れてしまう。ふだん会えない親戚の方々と話せるというのもいいんだろうけど。骨になってしまった祖母は、まっしろで綺麗で、はかなかった。母のもとにやっといけたんだ。母(娘)を亡くして20年。祖母はどんな想いだったんだろう。

みんなは、そのままバスで、叔父の家(長男である母の弟)に向かうが、私はバイクなので着替えて、駅前のホテルに荷物を置いて、バイクで叔父の家に向かう。小さい頃は、町(駅)から家までとても遠くに感じたけど、バイクのメーターは、3kmぐらいだった。叔父の家に行く前に、母の眠るお寺に行ってきた。

母が幼い頃、学校が終わると誰と約束したわけではなくっても、お寺に友だちが集まり、遊んでいたということを母から聞いたことがある。

私もここの学校に通っていた頃、私も姉や弟の友だちの異年齢集団でお寺に集まっていた。その頃あったブランコや鉄棒はなくなり、懐かしいものと新しいものが入り混じっている。今は、お寺で遊ぶ子どもたちはいなくなってしまったのであろうか。

納骨堂の中の父の名前を見つけ、亡くなった父方の祖父、祖母、母、それぞれの想いを込めて手を合わせる。

お寺から戻ると、今は、父の名義で母の実家でもある廃屋となってしまった、懐かしい家の中に入ってみた。古さと広さでは誇ることのできるこの家は、今は巨大な物置と化している。もうすぐここも取り壊してしまうようだ。

叔父の家にいくと、お寺の和尚さんを始め、親戚の人たちがみんなで飲んでいたので、私も参加。祖母、母の話しとなる。母の逸話は多い。祖父(母の父親)の葬式のときもジョキングシューズを持ってきて祖母に怒られたらしい。やっぱり私も同じことしてるnose5バイクも持ってきたし、ランシューズだって。父は呆れてて怒らなかったけど。まぁ、あの母の娘だから、しょうがないか。母は入院するときもジョキングシューズを持っていったらしい。哀しいけど、笑える。やっぱりヘンな母だった。でも確かにみんなに愛されていた。母の走る気持ちがわかるようになって、やっぱり母は格好良いと思うrun

父は、先に帰ったが、私もバイクなので明るいうちにホテルに戻った。親戚の人たちみんなが、泊まるよう、うちにくるよう言ってくれたけど朝早く走りたかったので遠慮した。田舎の人たちの温かさがうれしかった。博多弁が懐かしく温かい。・・・東京の人なのに、色が黒いと言われたけどyellow23

母を生み、育てた祖母。大切な場所、大切な人々kirakira2