5月31日(木)
自宅のある駅から羽田までのバスが出ているので、駅までバイクで行きそこで輪行袋にバイクを入れ、バスの下の荷物置き場に入れてもらう。羽田に着いてバイク、荷物を預けてしまうと楽チンだ
7時30分羽田発、福岡行き。今回は急だったのでマイルは使えず、ノブリンの株主優待券を使った。遅れての到着で9時30分頃福岡空港に到着。そこから地下鉄で1時間あまりの筑前前原に向かう。駅に着き、バイクを組み立て(今回は飛行機なので、タイヤの空気を抜いていたので、携帯空気入れで空気を入れるのが大変だった)駅から2kmぐらいの斎場に向かう。式は11時からだったけど、着いたのは11時過ぎですでに始まっていた。控え室で急いで喪服に着替えてから参列。花に囲まれた祖母の遺影を見ると、色々なことを思い出し涙が出てきてしまう
最後に祖母に会ったのは7年前ぐらい。母の13回忌に姉とふたりで福岡に行ったときだ。春で祖母が土筆を採ってきてくれて、指を真っ黒にしながら土筆の袴をとってくれていた。叔父のお嫁さんが「いつもは、こんなことしないのに、あなたたちがくるというとするのよ」と笑っていた。その前は、ノブリンと結婚する前、ノブリンとふたりで祖母に会いに行った。そのときも私たちにお昼を用意してくれていた
母を亡くしてから、泣きながら新幹線に乗り祖母に会いにきたこともあったし、姉とふたりで何度かきて、私たちが海に行くというとおにぎりを作ってくれた。海で姉と食べたおにぎりが美味しかったことも覚えてる
90歳で、どこも悪くないのに自分から病院に入って誰の世話にもならないという姿勢を貫いて(東京ぢゃ、医療処置がないと追い出されちゃうとあとから、親戚一同に話したら、「よかと、よかと、あそこはよかと」と言っていた

)それから5年。95歳だった
父が親族代表で、挨拶した。戦時に祖母と祖父は朝鮮に行き、そこで長女である母を生んだという。敗戦の混乱の中、福岡に戻り次女、長男、三女を産んだと話していた。初めて知った。母のことでは、知らないことが多い。母に祖母にもっと色々聞いておきたかった
お棺に御花を入れ最期のお別れ。祖母はなんだか小さくなり、私の知っている祖母じゃないような気がして哀しかった。火葬場に行き、祖母が高炉の中に入っていく。葬儀の度に思うのだけど、この間が嫌だ。焼かれていくのに、ビールを飲んで食事をして、灰になるのを待っているなんて。でもそんな風習にも大人になるたび慣れてしまう。ふだん会えない親戚の方々と話せるというのもいいんだろうけど。骨になってしまった祖母は、まっしろで綺麗で、はかなかった。母のもとにやっといけたんだ。母(娘)を亡くして20年。祖母はどんな想いだったんだろう。
みんなは、そのままバスで、叔父の家(長男である母の弟)に向かうが、私はバイクなので着替えて、駅前のホテルに荷物を置いて、バイクで叔父の家に向かう。小さい頃は、町(駅)から家までとても遠くに感じたけど、バイクのメーターは、3kmぐらいだった。叔父の家に行く前に、母の眠るお寺に行ってきた。
母が幼い頃、学校が終わると誰と約束したわけではなくっても、お寺に友だちが集まり、遊んでいたということを母から聞いたことがある。
私もここの学校に通っていた頃、私も姉や弟の友だちの異年齢集団でお寺に集まっていた。その頃あったブランコや鉄棒はなくなり、懐かしいものと新しいものが入り混じっている。今は、お寺で遊ぶ子どもたちはいなくなってしまったのであろうか。
納骨堂の中の父の名前を見つけ、亡くなった父方の祖父、祖母、母、それぞれの想いを込めて手を合わせる。
お寺から戻ると、今は、父の名義で母の実家でもある廃屋となってしまった、懐かしい家の中に入ってみた。古さと広さでは誇ることのできるこの家は、今は巨大な物置と化している。もうすぐここも取り壊してしまうようだ。
叔父の家にいくと、お寺の和尚さんを始め、親戚の人たちがみんなで飲んでいたので、私も参加。祖母、母の話しとなる。母の逸話は多い。
祖父(母の父親)の葬式のときもジョキングシューズを持ってきて祖母に怒られたらしい。やっぱり私も同じことしてる

バイクも持ってきたし、ランシューズだって。父は呆れてて怒らなかったけど。まぁ、あの母の娘だから、しょうがないか。
母は入院するときもジョキングシューズを持っていったらしい。哀しいけど、笑える。やっぱりヘンな母だった。でも確かにみんなに愛されていた。母の走る気持ちがわかるようになって、やっぱり母は格好良いと思う
父は、先に帰ったが、私もバイクなので明るいうちにホテルに戻った。親戚の人たちみんなが、泊まるよう、うちにくるよう言ってくれたけど朝早く走りたかったので遠慮した。田舎の人たちの温かさがうれしかった。博多弁が懐かしく温かい。・・・東京の人なのに、色が黒いと言われたけど
母を生み、育てた祖母。大切な場所、大切な人々