モフモフモフ~

ほかに話せる場所もないので書かせていただきますねブログ

小林エリコ氏『わたしはなにも悪くない』を読んだ

2019-05-22 18:36:34 | 
ただいま仕事に行き詰まり中。

あーーーーーーーーーーー。。私は一体どうすればよいのだーーーーーーーー!?

重い腰が上がらない。

高齢になっても、障がいがあっても、福祉サービスを利用していても。どんな人でも生きやすい社会の実現は遠い。。。

理想が高邁過ぎるのか??いやいや、そんなことないない。全然ない。

現実がなぜか厳しいだけだ。

コンクリートブロックむきだしの壁に、カンカン釘を打ちつけているような感じがする。ささらない。無駄なことをやっているのだろうか。

思わずため息が出る。生気が逃げるとか言うけれど、そんなことを言ったって出るものは出る。

なんとかテンションを上げたいところ。

さてさて。

先日、小林エリコ氏『わたしはなにも悪くない』を読んだ。



なぜ私はこんなにもエリコ氏に惹きつけられるのだろう。

これまでの人生で私は精神疾患に苦しんだ経験はないと思う。どんだけ辛いかがわからない。だけど、わかりたい。そういう思いがあるので、当事者としてその心中や経験をバシバシ語り「これっておかしくない??」と喝破するエリコ氏に惹きつけられるんだと思う。

私のエリコ氏に対する執着は、優しさというのでもなくて、人間の多様性への興味、という感じ。苦しみ含めていろんな人がいる。みんなが生きやすい世の中が良い。

『この地獄を生きるのだ』に続き、さらに筆力を増して本書でも“エリコ節”が炸裂している。

5章立てのうち、「1 精神病院の病棟から」にこんな箇所がある。

「病棟内に公衆電話があるのだが、そこの目の前の壁に、人権団体の連絡先一覧表が貼ってあるのも嫌な気持ちになる。必要なことなのだろうけれど、人権団体を必要とする病院というのも問題なのではないだろうか。」という箇所。

「まさに!」と思う。ウソのような話しだとびっくりせざるを得ない。これが、精神病院の実状なのかと。一事が万事。

入院したからといって特別な治療があるわけでもなく、本書を読んでいると、規則正しい生活を送ること、薬をきちんと飲むことが徹底されているにすぎないと感じる。実際、配置する看護師の数は通常の病棟よりも少なくてよい決まりになっているとのこと。薬に関しては、患者が自分で飲むことは許されず、看護師が患者の口に放り込むというのだから、なんだろう、そんなに患者というのは信用されないものなんだろうかと悲しい気持ちになる。もちろん、自分で飲めない人は飲ませる必要があるだろうが、画一的に患者に対する対応が同じというのは、なんとも機械的で非人間的だ。

エリコ氏は「思えば私の人生は、苦労のフルコースのようなものだった。」という書き出しから始めているのだが、実際病気のことから仕事や家族のことまであれこれてんこ盛りなので読み応え十分。中でも私がもっとも唸った箇所は次の箇所だ。

かつて相模原で起きた障がい者施設殺傷事件について触れた箇所で、エリコ氏は次のように書いている。(p.133)

「『母よ!殺すな』に、仕事もない、身の回りのこともうまくできない障がい者は何なのか、ということについて書かれていたことはこうだ。

なにも生み出さず、何もできない、その体は、命そのものである、とあった。私たちは、常に自分たちにどれくらいの価値があるのか考え、それがなくなったらおしまいだと考えている。なぜならこの社会では価値のないものは生きている意味がないとされているからだ。

このような残酷な社会だからこそ、ただの命そのものである人たちの存在は確実にこの社会の希望であると思う。命をただ、純粋に生きる。それこそが人間の真実の姿なのではないだろうか。」

そうだ。命がだいじとは、そういうことだよな。

ごはんの時間なのでここまで


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