モフモフモフ~

ほかに話せる場所もないので書かせていただきますねブログ

猫カフェ撃沈の巻

2019-05-31 18:52:02 | 
いろいろ不調なため、猫ちゃんになぐさめてもらおうと気分転換に初めて猫カフェに行ってみたが、結果は撃沈。



行けば、猫ちゃんたちがコロコロと寄ってきてくれるものと想像していたが、とんでもない。

目の前を通り過ぎる猫ちゃんを、指2本でほんの一瞬なでるのが精一杯だった。

見兼ねた店員さんが、猫ちゃんを何匹か私の目の前まで連れてきてくれたのだが、猫ちゃんたちは、まるでルンバが充電ステーションに戻るかのように、するーっと元いた場所に消えていく始末。

握った猫じゃらしもむなしく、誰に向けてふってよいやら。

数日後、かつて猫を飼っていた夫ちゃんを連れてリベンジを果たそうと再訪。

夫ちゃんが朝シャワーに入ろうとするのを懇願して制止。

前回、デカ猫ちゃんが男性のひざの上で寛いでいたのを思いだし、夫ちゃんには体臭アップ状態で臨んでもらった。

結果は、またまた撃沈。

猫ちゃんとは、とことん自由な生き物であることを痛感。そんな生き様に改めて萌え、となった。

小林エリコ氏『わたしはなにも悪くない』を読んだ

2019-05-22 18:36:34 | 
ただいま仕事に行き詰まり中。

あーーーーーーーーーーー。。私は一体どうすればよいのだーーーーーーーー!?

重い腰が上がらない。

高齢になっても、障がいがあっても、福祉サービスを利用していても。どんな人でも生きやすい社会の実現は遠い。。。

理想が高邁過ぎるのか??いやいや、そんなことないない。全然ない。

現実がなぜか厳しいだけだ。

コンクリートブロックむきだしの壁に、カンカン釘を打ちつけているような感じがする。ささらない。無駄なことをやっているのだろうか。

思わずため息が出る。生気が逃げるとか言うけれど、そんなことを言ったって出るものは出る。

なんとかテンションを上げたいところ。

さてさて。

先日、小林エリコ氏『わたしはなにも悪くない』を読んだ。



なぜ私はこんなにもエリコ氏に惹きつけられるのだろう。

これまでの人生で私は精神疾患に苦しんだ経験はないと思う。どんだけ辛いかがわからない。だけど、わかりたい。そういう思いがあるので、当事者としてその心中や経験をバシバシ語り「これっておかしくない??」と喝破するエリコ氏に惹きつけられるんだと思う。

私のエリコ氏に対する執着は、優しさというのでもなくて、人間の多様性への興味、という感じ。苦しみ含めていろんな人がいる。みんなが生きやすい世の中が良い。

『この地獄を生きるのだ』に続き、さらに筆力を増して本書でも“エリコ節”が炸裂している。

5章立てのうち、「1 精神病院の病棟から」にこんな箇所がある。

「病棟内に公衆電話があるのだが、そこの目の前の壁に、人権団体の連絡先一覧表が貼ってあるのも嫌な気持ちになる。必要なことなのだろうけれど、人権団体を必要とする病院というのも問題なのではないだろうか。」という箇所。

「まさに!」と思う。ウソのような話しだとびっくりせざるを得ない。これが、精神病院の実状なのかと。一事が万事。

入院したからといって特別な治療があるわけでもなく、本書を読んでいると、規則正しい生活を送ること、薬をきちんと飲むことが徹底されているにすぎないと感じる。実際、配置する看護師の数は通常の病棟よりも少なくてよい決まりになっているとのこと。薬に関しては、患者が自分で飲むことは許されず、看護師が患者の口に放り込むというのだから、なんだろう、そんなに患者というのは信用されないものなんだろうかと悲しい気持ちになる。もちろん、自分で飲めない人は飲ませる必要があるだろうが、画一的に患者に対する対応が同じというのは、なんとも機械的で非人間的だ。

エリコ氏は「思えば私の人生は、苦労のフルコースのようなものだった。」という書き出しから始めているのだが、実際病気のことから仕事や家族のことまであれこれてんこ盛りなので読み応え十分。中でも私がもっとも唸った箇所は次の箇所だ。

かつて相模原で起きた障がい者施設殺傷事件について触れた箇所で、エリコ氏は次のように書いている。(p.133)

「『母よ!殺すな』に、仕事もない、身の回りのこともうまくできない障がい者は何なのか、ということについて書かれていたことはこうだ。

なにも生み出さず、何もできない、その体は、命そのものである、とあった。私たちは、常に自分たちにどれくらいの価値があるのか考え、それがなくなったらおしまいだと考えている。なぜならこの社会では価値のないものは生きている意味がないとされているからだ。

このような残酷な社会だからこそ、ただの命そのものである人たちの存在は確実にこの社会の希望であると思う。命をただ、純粋に生きる。それこそが人間の真実の姿なのではないだろうか。」

そうだ。命がだいじとは、そういうことだよな。

ごはんの時間なのでここまで

『居るのはつらいよ』を読んだ

2019-05-19 17:22:10 | 
『居るのはつらいよ ケアとセラピーの覚書』を読んだ。



ほぼジャケ買いだった。『居るのはつらいよ』という興味深いタイトルと、ビビッドなブルーに縁どられた表紙、帯の文字に魅かれて購入。

結果的に買ってよかった。とても面白かった。

精神科クリニックに臨床心理士として勤務することになった新卒ハカセが、理想と現実の間で苦しみながら、日々の実践の中で「ケア」と「セラピー」のその本質を体得していくストーリーと言えるかと。

小説風になっているが、実際著者である東畑開人氏が経験したり見聞きしたあれこれの断片をつぎはぎし、脚色しながら出来ている模様。

そのかいもあって本書に描かれた世界をだいぶリアルに感じることができる。

本の帯に「学術書」とある通り、小説の合間にはハカセの考察や参考文献の引用、解説もある。小説、フィクションという表現形式を借りながら、全体としては「ケア」と「セラピー」のその本質に真面目に迫っており、なるほど凄い「学術書」だと感じた。

「う~ん!」と思わずうなった箇所、勉強になった箇所はたくさんあったのだが、ここでは2つだけ挙げる。

1つは、「子どもがいちいち母親のしていることに感謝しているとするなら、それはなにか悪いことがおこっている。依存がうまくいっていないということだ。」(p.114)という箇所。

私は子供の頃、親が世話を焼いてくれることにつき、いちいち感謝するようなことはなかった。そのことを大人になって振り返った時に「子どもといえど、日々感謝の気持ちがなかったなんて、人としてなにかが欠けていたのかも・・」と思うことがあったので、救われる思いがした。依存がうまくいっていてよかった。

2つ目は、「そういうふうに主婦が家で行っているケアが金銭で提示されることを、ブルジェールはおかしいと言っている。(中略)なぜなら、ケアという親密な『依存』を原理としている営みは、『自立』した個人の集合体である『市場』の外側にあるはずだからだ。」(p.322)という箇所。

たまにフェミニストを名乗る人の中に家事労働を金額に換算する人いるが、それに違和感を感じていたので、ブルジェールという哲学者の主張は励みになった。「ケア」は市場にはなじまないと私も思う。

最後に。

本書はいわゆる“学会”では評価されない?ものなのかもしれないが、テーマに相応しい表現形式をとることによって、劇的に多くの人にその本質が伝わることってあると思う。今回のように。著者である東畑氏には、今後も特殊で閉鎖的な“学会”のような空間にこだわることなく、自由にバシバシ書いていってほしいなと思う。

価値判断

2019-05-15 17:23:28 | 
出先で体調が悪化したら面倒なことになるので、自宅作業中。

まだ悪化していないのに、自ら鳥かご

こうして時間を殺すというか、自分を縛るのがなにより苦手だ。

もう夕方に差し掛かってきたので思わず梅酒を投入するが、あまり美味しくない。

体調が微妙だからかな、やっぱり。というか、飲んでしまっていいのか問題。まぁ、いいや。ごまかせない本日

読んだ本の感想を書きたいとも思うが、テンションが上がらない。

文才がないので、本の感想を書く時はそれなりの気合いが必要だ。サラサラ書けるようになりたいものだ。感じたままを捉えて表現するだけ、のはずだが、なぜか気負ってしまう。

ぎゃーーーーーーとか、気軽に書くことを繰り返していれば、サラサラ心のままに書けるようになるだろうか

ふと思い出したので、メモしておきたい。

もう20年くらい前になってしまうだろうか。

なにかの本で読んだ民法学者、星野英一のエピソード。

星野英一が高校の同窓会に出かけた時のこと。友人らと「大学で何をしているのか?」の話しになった。耳を傾けると、みんな医学だとか物理学だとかでなにかしらの“真理の追究”をしていると。

星野は“法律”の研究をしてはいるが、真理の追究をしているわけではない。既存の法律を、あれこれいじくって解釈しているにすぎず、自分は一体なにをしているのだろうと愕然としたというもの。法律学は、果たして“学問”と言えるのかどうか、疑問に思うようになったというもの。

このエピソードにからめて、法律に携わる者として一番大切なのは「価値判断」だと言っていた。まず「価値判断」をする。その「価値判断」を正当化するために、あれこれ法律を解釈して裏付けしていくのだと。

この「価値判断」は、どれだけ法律を勉強したか否かは関係なくて、人間としての「善」、「良心」のようなものをしっかりと持っていることが最も大切だと語っていた。

「星野英一って、正直でりっぱな人だな~」と思ったものだ。

なぜか思い出したので、メモしておきたい。

そうそう。唐突だが、これもメモ。

「憲法」とは、「国民」に対する命令ではなく「権力」に対する命令である。

「刑法」は、「犯罪者」を裁くための法律ではなく「裁判官」を縛るための法律であるということも。

なんの話だ

村上春樹に影響され、R・シュトラウス『薔薇の騎士』を爆音で聴いているが、猛烈に良い

読みたい本があり過ぎる

2019-05-07 19:30:16 | 
読むのが遅いせいもあって、休み前に買った本は全然読み終わらなかった。

いわゆる積読になってしまっているが、これはこれで嫌な状態でもない。

課題が積み上がっているのとは違い、興味の対象が積み上がっているわけだから。ふとした時に、積読本の存在を思い出すと、未開封のチョコレートが家にまだ残っているような気持ちになり、にやりとしてしまう。



今は、東畑開人氏『居るのはつらいよ』という本を読んでいるのだが、これもめちゃんこ面白い

“心理士”、“ケア”、”セラピー”と言われても「???」となってしまうような私が読んでも十分に楽しめる。東畑さんのキャラも魅力的。

読み終えたら感想をアップするかもしれない。

しかしながら、本を読むためにはある程度時間が必要だ。

夫ちゃんと二人でいる空間では、読むのが難しい。

夫ちゃんを空気だと思えない。

この前一人で行ったブックカフェは、とっても素敵なカフェだった

居心地よし。コーヒー&ケーキが抜群に美味しい。また行ってゆっくり読書させてもらおう。



そうだった。メモをしようと思って、ブログを書き始めたんだった

『週刊朝日』の「ベストセラー解読」というコーナーで、永江朗氏の薦めていたヤニス・バルファキス氏『父が娘に語る経済の本。』はやっぱり読みたいな。

書店で立ち読みした時に迷って買わなかったのだが、永江氏の紹介文を読んでやっぱり読みたいと思った。

一部引用。

「著者は経済を経済学者にまかせるのは最悪のやり方だという。なぜなら、経済学とは支配者が自分たちの正当性を裏付けるための、新しい現代の宗教だから、と。」

“新しい現代の宗教”って言い得て妙だ。

昔、マクロビについて調べた時があったのだが、「これはひとつの宗教だ」という結論にたどりついた時、自分なりに合点いったことを思い出しだ。