ライター、作家である雨宮まみさんが、去年亡くなった。
当時めちゃんこショックを受けた。
今でも、彼女の不在を、本当に残念なことだと思っている。
彼女の文章をこの先読むことができない。
それが、残念でならない。
ファンというほど、本を読んでいたわけではなかった。
機会があって、2年くらいに前に雨宮さんのトークイベントに参加。
その後、彼女のベストセラーである「女子をこじらせて」という自伝を読んだ。
「なぜ、ここまで、自分を卑下するのだろう?」
正直、共感はできなかったのだが、女性性と葛藤しまくる雨宮さんの筆力に圧倒された。
「どこまで脱げるか?」
ストリッパーにもたとえられるライターとしてのポジションや期待?を自覚していたのか、主に恋愛、結婚にまつわる女性特有の悩みや体験を赤裸々に告白し続けた。
「そこまで言っちゃうの?」という最先端ぶり、無防備ぶりは、返り血を浴びるように、自身を傷つけることにもつながったはず。
それでも雨宮さんは、書き続けた。
その作家、ライター魂が、ものすごく尊いと思う。
自伝という文学。
なかなか、自分自身を晒すことはできない。
晒す覚悟はあっても、表現ができない。
雨宮さんは、私にとって、自身を晒せるほどに勇敢な人であり、分析力も表現力もあって悔しいくらいに素敵な人だった。
彼女の文章に魅了される理由がずっとわからなかったのだが、最近になって少しわかってきたように思う。
彼女はどこまでも具体的で、多くの女子の声を拾い集めているようにみえるのに、女子代表を気取ってみたり、まとめたり、抽象化したりしないのだ。
言い方を変えれば、民主主義政体において、少数派の意見はないも同然という扱いを受けるが、雨宮さんは、その少数派の意見みたいなものも無視したりはしない。
文章にはいつも優しさが横たわり、批判する場面でも、決して誰をも傷つけない。
その在り方は、神の域。
亡くなった後に、「40歳がくる!」という連載を知って読んで、これまた衝撃を受けた。
私も雨宮さんと同年代のアラフォー。
「いつまでも若い人でいたいわけじゃない。もうババアですからと自虐をしたいわけじゃない。私は私でいたいだけ。私は、私のままで、どうしたら私の「40歳」になれるのだろうか。そしてどんな「40歳」が、私の理想の姿なのだろうか。」
この箇所は、「うんうん、だよね~」としみじみうなずかずにはいられなかった。
雨宮さん、あなた、ホント最高だよーーー!
ありがとうございます。
(「40歳がくる!」から引用)
私はなんとなく、恋愛とか性欲とかそういうことは、40過ぎればそこまで興味のど真ん中にあるものではなくなるんじゃないかと思ってたし、自然と性欲も薄れて、穏やかな目で過ごせるんじゃないか、と思っていた。恋愛も、いい感じの距離感の人といい感じのおつきあいをしたりして、泣いたりわめいたり、結婚してくれるのしてくれないの!? みたいな話とは無縁になるんじゃないかと思っていた。
要するに、 40 歳になれば、自然と肩の力の抜けた、いい感じの女になれるんじゃないか、という幻想があったのである。
そして、もちろんそれは、ただの幻想だった。
37歳になってみると、恋愛も性欲も下がるどころかあばれ太鼓みたいに「もうこれが最後の恋かも」「こんなたるんだ身体の女にセックス試合を申し込んでくれるのはこの男で最後かも」とガツガツし始めるわ、「で、結婚ってどう思ってるの?」と交際当初にストレートに詰めては去られちゃうわ、もう男女関係はめちゃくちゃになった。
自分をどう捉えたらいいのかもわからなくなった。周囲の視線がまず変わる。20代なら「若いですねー」で済む。30代だと「え、見えなーい」に変わる、37歳を過ぎてアラフォーと呼ばれる領域に入ると、その「え、見えなーい」の間にコンマ1秒の間が空くし、なんか、こっちも正直、そんな言葉が欲しいわけじゃないのである。
若くないことぐらい知ってる。自分がどのくらい若くてどのくらいきれいで、どのくらい男の視線を集めているかなんてことは、知りたくなくても知ってる。もう若くなくても、それでも魅力的であるということを褒めてくれるような言葉は、この国にはないのか。
私はこの前、医者にさえ「雨宮さんはもちろんまだそんな年齢には見えないですけど、このくらいの年齢になると視力にはだんだん問題が出てくるんですよ」と言われた。ねぇ、その前半要るか!? って感じだけど、サービスで褒めてくれてるんだろうから噛み付くのもバカみたいだし、「いやーもうこのトシですからねアッハッハ」と自虐でのっかってやるのも虚しい。
若いときは「若いね」で済むけど、歳を取ったら異様に美しい美魔女かババアかみたいな選択肢しか用意されてなくて、過剰に褒めるか不当に年齢や見た目のことでけなされるかの道しか待ってなくて、「普通の40歳」っていうのは、ないんだろうかと思い始めた。
「私のままの40歳」って、ないんだろうか。そんなことを思い始めたときに、見なきゃいいのに自分への評価をネットで見てしまうと「ババアの発言ってネチネチしてて陰湿」「アラフォーババアだから若い女がうらやましくて仕方ないんでしょ」「サブカルこじらせババア」(妖怪ですか)というような言葉が並んでいて、肩の力ではなくヒザの力が抜けた。
なんか、もちろん、そう呼ばれる年齢だということは知ってはいた。けれど、自分としては、生きてて40歳になることなんか普通だし、見た目のことについても「今年40になるにしては、まあまあいいじゃん」と思える程度だったのに、「ババア」と呼ばれると、怒りとか失望とかよりも先に「ああ、こういう『女の年齢』ってものに、いつまでつきあわされるんだろう?」という気持ちがわいてくる。若さや美しさに嫉妬? そんなこと、まともにしていたら、40歳まで生き延びることはできなかった。
自分より若くて美しい人間は死ぬほどいる。さらに自分より才能もずっとあって、お金もずっとあって、成功している人だっている。そういう人たちの前で、「自分は自分です」と存在するために、卑屈にならずに快適な友達付き合いができるように、どれだけ気持ちをしっかり持ってきたことか。
いつまでも若い人でいたいわけじゃない。もうババアですからと自虐をしたいわけじゃない。私は私でいたいだけ。私は、私のままで、どうしたら私の「40歳」になれるのだろうか。そしてどんな「40歳」が、私の理想の姿なのだろうか。
そういうことを、40歳を迎える今年、書いてみたい。
当時めちゃんこショックを受けた。
今でも、彼女の不在を、本当に残念なことだと思っている。
彼女の文章をこの先読むことができない。
それが、残念でならない。
ファンというほど、本を読んでいたわけではなかった。
機会があって、2年くらいに前に雨宮さんのトークイベントに参加。
その後、彼女のベストセラーである「女子をこじらせて」という自伝を読んだ。
「なぜ、ここまで、自分を卑下するのだろう?」
正直、共感はできなかったのだが、女性性と葛藤しまくる雨宮さんの筆力に圧倒された。
「どこまで脱げるか?」
ストリッパーにもたとえられるライターとしてのポジションや期待?を自覚していたのか、主に恋愛、結婚にまつわる女性特有の悩みや体験を赤裸々に告白し続けた。
「そこまで言っちゃうの?」という最先端ぶり、無防備ぶりは、返り血を浴びるように、自身を傷つけることにもつながったはず。
それでも雨宮さんは、書き続けた。
その作家、ライター魂が、ものすごく尊いと思う。
自伝という文学。
なかなか、自分自身を晒すことはできない。
晒す覚悟はあっても、表現ができない。
雨宮さんは、私にとって、自身を晒せるほどに勇敢な人であり、分析力も表現力もあって悔しいくらいに素敵な人だった。
彼女の文章に魅了される理由がずっとわからなかったのだが、最近になって少しわかってきたように思う。
彼女はどこまでも具体的で、多くの女子の声を拾い集めているようにみえるのに、女子代表を気取ってみたり、まとめたり、抽象化したりしないのだ。
言い方を変えれば、民主主義政体において、少数派の意見はないも同然という扱いを受けるが、雨宮さんは、その少数派の意見みたいなものも無視したりはしない。
文章にはいつも優しさが横たわり、批判する場面でも、決して誰をも傷つけない。
その在り方は、神の域。
亡くなった後に、「40歳がくる!」という連載を知って読んで、これまた衝撃を受けた。
私も雨宮さんと同年代のアラフォー。
「いつまでも若い人でいたいわけじゃない。もうババアですからと自虐をしたいわけじゃない。私は私でいたいだけ。私は、私のままで、どうしたら私の「40歳」になれるのだろうか。そしてどんな「40歳」が、私の理想の姿なのだろうか。」
この箇所は、「うんうん、だよね~」としみじみうなずかずにはいられなかった。
雨宮さん、あなた、ホント最高だよーーー!
ありがとうございます。
(「40歳がくる!」から引用)
私はなんとなく、恋愛とか性欲とかそういうことは、40過ぎればそこまで興味のど真ん中にあるものではなくなるんじゃないかと思ってたし、自然と性欲も薄れて、穏やかな目で過ごせるんじゃないか、と思っていた。恋愛も、いい感じの距離感の人といい感じのおつきあいをしたりして、泣いたりわめいたり、結婚してくれるのしてくれないの!? みたいな話とは無縁になるんじゃないかと思っていた。
要するに、 40 歳になれば、自然と肩の力の抜けた、いい感じの女になれるんじゃないか、という幻想があったのである。
そして、もちろんそれは、ただの幻想だった。
37歳になってみると、恋愛も性欲も下がるどころかあばれ太鼓みたいに「もうこれが最後の恋かも」「こんなたるんだ身体の女にセックス試合を申し込んでくれるのはこの男で最後かも」とガツガツし始めるわ、「で、結婚ってどう思ってるの?」と交際当初にストレートに詰めては去られちゃうわ、もう男女関係はめちゃくちゃになった。
自分をどう捉えたらいいのかもわからなくなった。周囲の視線がまず変わる。20代なら「若いですねー」で済む。30代だと「え、見えなーい」に変わる、37歳を過ぎてアラフォーと呼ばれる領域に入ると、その「え、見えなーい」の間にコンマ1秒の間が空くし、なんか、こっちも正直、そんな言葉が欲しいわけじゃないのである。
若くないことぐらい知ってる。自分がどのくらい若くてどのくらいきれいで、どのくらい男の視線を集めているかなんてことは、知りたくなくても知ってる。もう若くなくても、それでも魅力的であるということを褒めてくれるような言葉は、この国にはないのか。
私はこの前、医者にさえ「雨宮さんはもちろんまだそんな年齢には見えないですけど、このくらいの年齢になると視力にはだんだん問題が出てくるんですよ」と言われた。ねぇ、その前半要るか!? って感じだけど、サービスで褒めてくれてるんだろうから噛み付くのもバカみたいだし、「いやーもうこのトシですからねアッハッハ」と自虐でのっかってやるのも虚しい。
若いときは「若いね」で済むけど、歳を取ったら異様に美しい美魔女かババアかみたいな選択肢しか用意されてなくて、過剰に褒めるか不当に年齢や見た目のことでけなされるかの道しか待ってなくて、「普通の40歳」っていうのは、ないんだろうかと思い始めた。
「私のままの40歳」って、ないんだろうか。そんなことを思い始めたときに、見なきゃいいのに自分への評価をネットで見てしまうと「ババアの発言ってネチネチしてて陰湿」「アラフォーババアだから若い女がうらやましくて仕方ないんでしょ」「サブカルこじらせババア」(妖怪ですか)というような言葉が並んでいて、肩の力ではなくヒザの力が抜けた。
なんか、もちろん、そう呼ばれる年齢だということは知ってはいた。けれど、自分としては、生きてて40歳になることなんか普通だし、見た目のことについても「今年40になるにしては、まあまあいいじゃん」と思える程度だったのに、「ババア」と呼ばれると、怒りとか失望とかよりも先に「ああ、こういう『女の年齢』ってものに、いつまでつきあわされるんだろう?」という気持ちがわいてくる。若さや美しさに嫉妬? そんなこと、まともにしていたら、40歳まで生き延びることはできなかった。
自分より若くて美しい人間は死ぬほどいる。さらに自分より才能もずっとあって、お金もずっとあって、成功している人だっている。そういう人たちの前で、「自分は自分です」と存在するために、卑屈にならずに快適な友達付き合いができるように、どれだけ気持ちをしっかり持ってきたことか。
いつまでも若い人でいたいわけじゃない。もうババアですからと自虐をしたいわけじゃない。私は私でいたいだけ。私は、私のままで、どうしたら私の「40歳」になれるのだろうか。そしてどんな「40歳」が、私の理想の姿なのだろうか。
そういうことを、40歳を迎える今年、書いてみたい。