
【戦後処理・戦後補償 1999-2000】
1995年は戦後50年・解放50年。そして2001年、21世紀を迎えた。
日々は「きのうのいま」。
補償要求裁判と社会とメディアの、当時の体験と記憶を新たにしておきたい。
こんなファイルをホームページに残している──
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index: (報道の引用です)
1999年8月28日 共同通信 戦後処理、清算できるか負の遺産〈全面解決なお遠く〉
2000.5月29日 東京新聞 計算された戦後賠償 外務省、28日、外交文書公開
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戦後処理、清算できるか負の遺産
〈全面解決なお遠く〉
1999年08月28日共同通信より
小渕政権は、国旗国歌の法制化や靖国神社への首相公式参拝に向けた環境整備などに乗り出す一方、在日韓国人の元軍人・軍属への補 償など「負の遺産」の清算にも着手しつつある。自自公の安定した政権基盤を背景に「二十世紀中に戦後政治の総決算を」と意気込む小渕恵三首相だが、歴代政権がなかなか果たせなかった戦後処理問題の解決を目指し、どこまで道筋を付けることができるか―。
小渕政権のけん引役の野中広務官房長官は「アジアの国々の人々には、戦後処理の残った問題があり、その傷をどのように埋めていくか、わが国の重要な任務だ」と、戦後処理に意欲を示す。戦後処理問題については一九九五年、当時の自社さ政権に「戦後五○年問題プロジェクト」を設置。九六年三月に十二項目の合意をまとめ、従軍慰安婦問題解決を目的に設けられた「女性のためのアジア平和国民基金」や中国での遺棄化学兵器処理問題を盛り込んだ。
小渕政権は発足以来、遺棄化学兵器廃棄に関する日中覚書に署名し、来年度予算に処理作業経費五十億円を計上するほか、①在日韓国人の元軍人・軍属に対し、特別立法による一時金支給②アジア歴史資料センターの設立準備―などの方針を固めている。
しかし、野中長官が解決すべき問題の一つとの認識を示した香港の軍票問題については、まだ検討されておらず、「女性のためのアジ ア平和国民基金」は行き詰まっている。
戦後五○年問題プロジェクトの合意から外された「旧植民地出身の軍人・軍属の補償問題」は、台湾人については既に一時金の支給がなされ、在日韓国人についても支給の検討が始まっているが、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)国籍の人については手つかずのままで、全面的解決には程遠いのが実情だ。
▽遺棄化学兵器処理
旧日本軍は第二次大戦中に、中国に約七十万発の化学兵器を遺棄したと推定され、化学兵器禁止条約により、日本は二○○七年までに処理を完了するよう義務付けられている。
政府は、毒性と爆発の危険性の低いものから三段階に分けて処理する方針で、二○○○年度から「赤筒」と呼ばれる嘔吐(おうと)性ガスの処理を先行して開始する。
初年度の処理経費として五十億円を計上する方針で、総額では二千億―五千億円が必要とみられている。日中両国政府は七月末、処理の枠組みを決めた覚書に調印、解決に向け動きだしたが、期限内の処理は困難とみられている。
▽軍票
「軍用手票」の略語で、旧日本軍が物資調達などのために発行した特殊な紙幣。占領地住民に対し強制的に現地通貨と交換させた。日本は敗戦直後に無効を宣言。住民らは、無価値となった軍票の換金を求め提訴したが、「損害を補てんするかどうかは立法政策の問題」 などとして、現時点では請求はいずれも棄却されている。
大蔵省によると、軍票は香港、インドネシア、マレーシアなどで計約四十五億円分(当時)を発行。香港住民の被害が最も大きく、香港を含む中国方面の発行額は約三十四億円(同)に上った。
▽軍人・軍属問題
旧日本軍の軍人、軍属だった在日韓国人は、日本人並みの恩給支給など戦後補償を求めている。日本の敗戦により、約二十万人に上る 朝鮮半島出身の軍人、軍属は日本国籍を失うと同時に、日本国籍を前提とした恩給法、戦傷病者戦没者遺族援護法上の受給資格を失った。加えて政府は一九六五年の日韓請求権協定により「日韓両政府間では請求権の問題は完全かつ最終的に解決された」との立場を取っている。しかし「個人の請求権は失われていない」として訴訟が起こされ、裁判所もたびたび法的救済措置の必要性を認めている。戦争 犯罪を問われ日本軍のBC級戦犯として処罰された人も含まれている。
=戦後処理問題の歩み=
1895・4 日清講和条約調印。台湾植民地支配開始
1910・8 日韓併合条約調印。朝鮮植民地支配開始
31・9 柳条湖事件。満州事変始まる
38・4 国家総動員法公布。朝鮮で陸軍特別志願制度実施
39・7 国民徴用令公布
42・4 台湾で陸軍特別志願制度実施
44・9 台湾に徴兵制実施
45・8 日本の敗戦と植民地の解放
46・2 軍人恩給廃止
50・6 朝鮮戦争始まる
51・9 サンフランシスコ講和条約調印
52・4 サ条約発効。主権回復。台湾、朝鮮出身者の日本国籍喪失確定
52・4 日華平和条約締結。台湾が日本政府への請求権を放棄
52・4 戦傷病者戦没者遺族援護法公布
53・8 軍人恩給復活
65・6 日韓基本条約など締結。韓国、日本政府への請求権を放棄
72・5 沖縄返還
72・9 日中国交回復。日中共同声明で中国は日本への戦争賠償請求の放棄を宣言
87・9 台湾人元日本兵の遺族と戦傷病者に対する弔慰金制度制定
90・9 自民党の金丸信元副総理と田辺誠社会党委員長が朝鮮民主主義人民共和国を訪問。自民、社会、朝鮮労働党が三党共同声明
90・10 韓国の元従軍慰安婦などでつくる「韓国太平洋戦争遺族会」が国家賠償を求めて東京地裁に提訴 *
91・1 日朝国交正常化交渉開始(その後、中断)
91・11 韓国・朝鮮人元BC級戦犯らが国家補償などを求めて東京地裁に提訴
*注(原田) 1991.12.6 韓国・遺族会は日本を相手に補償請求、東京地裁に提訴
93・8 香港住民が軍票の補償を求めて東京地裁に提訴
95・8 「植民地支配と侵略への反省」をうたう戦後50年の村山富市首相談話を発表
96・3 与党(自社さ)戦後50年問題プロジェクトが「女性のためのアジア平和国民基金」など十二項目の施策を発表
99・7 中国との間で、遺棄化学兵器処理に関する覚書を交わす
99・8 政府、自民党が靖国神社への首相公式参拝実現に向け検討開始
99・8 国旗国歌法成立
田中宏一・一橋大教授に聞く
日本アジア関係史専攻の田中宏・一橋大学教授に戦後処理の在り方を聞いた。
―今回、在日韓国人軍人・軍属の戦後補償問題で政府に動きが出てきた理由をどう考えるか。
「昨年九月、元軍属の在日韓国人が日本人と同様の補償を求めた訴訟の判決で、東京高裁は『(原告らは)現在、補償面で日韓両国から放置されている。速やかに対応することがわが国の政治的、行政的責務だ』と指摘した。これは一九九○年以降の、戦後補償を求める訴訟の積み重ねの成果で、それが今年になって恩給法、戦傷病者戦没者遺族援護法の金額改定を審議する国会で取り上げられ、野中広務官房長官が前向き答弁することにつながった」
―在日韓国人軍人・軍属への対応が、他の戦後補償要求に波及する可能性は。
「恩給法、援護法は、軍人・軍属に対して国家補償を行う実定法で、国籍のみで在日韓国人らを排除する問題性を裁判所が指摘し、こ の点で他の戦後補償問題と差がある。強制連行、BC級戦犯、香港軍票、慰安婦など戦後補償問題の包括的解決の方途を考えるべきだ」
「一九九五年に発足した元慰安婦のために設けられた『女性のためのアジア平和国民基金』を抜本的に改組して、政府もちゃんと資金を拠出し、なんらかの基準を設けた上で、各種の補償問題に対応したらどうだろう」
―「今世紀中に起きた問題は今世紀中に解決する」という言い方を、政府は国旗国歌法案の審議でつかったが。
「日の丸・君が代の歴史と、アジアに対する戦後補償問題は表裏一体だ。主要国首脳会議(サミット)参加国のうち、その旧植民地出身者に戦後補償を行っていないのは日本だけだ。靖国神社への首相の公式参拝がずっとできないでいるように、アジアは自民党にとってもまだ、重たいものだ。本来なら、日の丸、君が代が法制化される以前に、戦争と植民地支配に起因する問題を、きちんと解決すべきだった」
*田中宏氏は00年春から一橋大学名誉教授。龍谷大学教授。(原田)
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東京新聞 2000.5.29 計算された戦後賠償 外務省、28日、外交文書公開
1976年から外務省が独自の判断で、作成後30年を経過した外交文書を公開しており、今回はその15回目。
対東南ア戦後賠償
将来の関係発展の可能性も考慮
日本が東南アジア諸国との戦後賠償交渉で、実際の戦争被害から判断すれば三番目と見ていたインドネシアへの賠償・経済協力を実質的に最高水準に引き上げるなど、両国関係の将来性を考慮して優遇していたことが分かった。
公開された外交文書によると、日本政府の方針は「戦争被害の多寡から見れば、フィリピン、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシアといった順となり、賠償は各国の戦争被害を前提とする」というのが基本。しかし、「求償国との将来の経済関係発展の可能性をも考慮に入れ、手心を加えざるを得ない」との判断もあった。
これに基づきフィリピン、インドネシア、ビルマの賠償比率を四対二対一とする方針を決め、ビルマへの賠償は一九五四年に二億ドルで妥結。フィリピンとはその二年後、賠償五億五千万ドル、経済協力二億五千万ドルの計八億ドルで合意に達した。しかし、日本は最終的に天然資源が豊富なインドネシア関係を重視。賠償、経済協力を実質で計八億ドルと、トップのフィリピンに並ぶ水準にし、五八年一月、協定に調印した。
当時のインドネシアは経済危機や反乱など、スカルノ政権は極めて不安定な状況だった。しかし、同大統領は「戦時中に訪日した時の朝野から受けた厚遇は、一生忘れることはできない」「日イ友好関係増進のため、全力を尽くす」という、親日的な態度を伝えていたことから、これも日本側の判断に影響を与えたのは間違いない。
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