何周年とかの記念日の意義は、「継承」と「意思」だろう。「どう変えていくか」の意思。ことし6月、1965年の日韓基本条約・協定締結から50年、8月に「戦後70年」を迎える。
「大日本帝国」がアジア、太平洋地域で帝国軍が侵攻、侵略、略奪、軍事占領、支配を行った約15年。その間、長期に植民地支配と略奪をしていた欧米諸国と戦闘もあった。国連で「戦勝70年」が話題にされ、戦勝連合国のUNが鮮明になっている。
そういう「帝国主義戦争の時代」の「総決算」が求められた70年といえるのだろう。「アウシュビッツ解放70年」式典もあった。一方で突出して日本の「慰安婦」問題「解決を」という図式がある。米軍、韓国軍の「基地村女性」問題も、「戦争と女性」という広がりでの見方に入っている。一つ一つ、事実と主張のブレをなるべくなくしていきたい。基軸は、粗雑だが、「国家・戦争──個人・人権」ではないかといっておきたい。
韓国・遺族会の集団訴訟、元日本軍人軍属、元「軍隊慰安婦」の戦後補償請求を一緒にやってきたNGOハッキリ会をやってきた者として、2015年を注意深く見て,行動していきたいと思う。
韓国本国から大規模に対日戦後補償請求裁判に乗り出した韓国・遺族会。
東京地裁で「賠償請求は棄却する」の判決後、法廷は、韓国の民衆歌「アリラン」の歌声でつつまれた。怒りと悲しみと負けん気と鎮魂のないまざったアリランだった。
初手の「旧植民地」訴訟だった。国際法、国内法で争う、そして戦後の憲法に照らして「犠牲の放置」を問う──。法と違法・不法事実と国・軍と植民地、宗主国責任が、当事者・遺族たち一人ひとりから問われたのだ。2001年の一審までに、どのような「法的」論点が戦わせられたか。改めて整理、掲載する。
▽ハッキリ会・「ハッキリニュース」から61号を採録した。2001年3月26日、東京地裁でアジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件の判決を特集している。
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ハッキリニュース NO.61 2001.4.13
日本の戦後責任をハッキリさせる会(ハッキリ会)
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10年裁判は棄却──控訴へ
3月26日、韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会の訴訟「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件」の判決が東京地裁で言い渡された。「原告の請求棄却」だった。判決は丸山昌一裁判官、判決代読は大竹たかし裁判官。わずかに、元軍人・軍属、遺族と「慰安婦」について原告個々の名をあげてかなりの事実認定を行っていることが目立った。「10年裁判」の第一審はこれで決着したが、その日のうちに「遺族会」、弁護士、ハッキリ会は、控訴方針を固めた。(追記・4月6日控訴した)
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■3.26 東京地裁判決の検討
事実認定で概ね評価できるが補償、賠償の法的根拠は全面棄却
──林 和男 弁護士、訴訟代理人
今回の判決については、当日の夕刊でも報道されましたが、一部の新聞報道に正確でない点があります。
まず、東京地裁の丸山裁判長が言い渡した判決と報道されていますが、これは誤りです。たしかに、判決の内容を評決して判決書を書いたのは、丸山裁判長をはじめとする3人の裁判官ですが、3月26日に法廷で判決言渡しをしたのは、別の裁判官(新しい裁判長)です。
この新しい裁判長の言い渡し方が、「原告らの請求をいずれも棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする。」とだけ読み上げて、すぐに立ち去るという方法でしたので、10年かけて審理したにしては、あまりにも素っ気ない、理不尽だという批判が、原告の間から出ています。
私も、日韓両国民にとってこれほど重要な問題に対する判断を下すのですから、棄却するならするで、理由の要旨くらいは説明すべきだと思いました。しかし、まことに遺憾なことですが、日本の裁判所では、このような言渡し方は決して珍しくない、むしろ民事・行政事件ではこれが普通なのです。
次に、判決の内容ですが、事実認定と法律問題に分けて評価する必要があります。法律問題については、補償、賠償を求めた法的根拠の多くについては認められませんでした。判決理由のなかで、部分的には評価すべき点もあります。
これに対して、事実認定については、むしろおおむね、良い認定がされているのではないかと思います。
「自由募集」含め「強制連行」だったと認定
まず、背景的・歴史的事実について、判決は、私たちの主張の一部を事実として認定しています。例えば、
「昭和一〇年代になると、日本国は、朝鮮半島内において、皇国臣民の誓詞の斉唱を強制し(昭和一二年)、君が代斉唱、宮城遙拝及び神社参拝を強要し、また、学校での朝鮮語教育を廃し(昭和一三年)、日本語を常用させ、さらには、日本風の姓名を名乗らせる創氏改名を行なう(昭和一四年)などのいわゆる皇民化政策を急速に推進して行った。」(判決書10頁)
「さらに、日本国は、戦時下における労働力不足を補うため、昭和一四年(1939年)九月以降、朝鮮から日本内地へ労務動員をし、多数の朝鮮人が強制的に連行された。」(判決書11頁)
といった認定があります。判決が、いわゆる「自由募集による動員」をも含めて、強制連行であったと明確に認めていることは、日本の裁判所による歴史的事実の認定としては画期的ではないかと思います。
次に慰安所の設置、経営、慰安婦の「募集」と輸送について、判決は、日本軍当局が「直接関与」していたこと、「詐欺強迫により本人たちの意思に反して」集められたことを認定しています。
「旧日本軍においては、昭和七年(1932年)のいわゆる上海事変の後ころから、醜業を目的とする軍事慰安所(以下単に「慰安所」という。)が設置され、そのころから終戦時まで、長期に、かつ広範な地域にわたり、慰安所が設置され、数多くの軍隊慰安婦が配置された。」(12頁)
「軍隊慰安婦の募集は、旧日本軍当局の要請を受けた経営者の依頼により、斡旋業者がこれに当たっていたが、戦争の拡大とともに軍隊慰安婦の確保の必要性が高まり、業者らは甘言を弄し、あるいは詐欺強迫により本人たちの意思に反して集めることが多く、さらに、官憲がこれに加担するなどの事例もみられた。」(12頁)
「慰安所の多くは、旧日本軍の開設許可の下に民間業者により経営されていたが、一部地域においては旧日本軍により直接経営されていた例もあった。民間業者の経営については、旧日本軍が慰安所の施設を整備したり〔中略〕慰安所規定を定め、軍医による衛生管理が行われるなど、旧日本軍による慰安所の設置、運営、維持及び管理への直接関与があった。
また、軍隊慰安婦は、戦地では常時日本軍の管理下に置かれ、日本軍とともに行動させられた。」(13~14頁)
元「慰安婦」について国の「不知」を覆す
そして、原告ら元慰安婦についても、全員について「その主張のころ軍隊慰安婦とされ、軍隊慰安婦として働かされたことが認められる。」と認定しています。これは、被告国の「不知」の答弁を、裁判所が覆したものであり、画期的と言ってよいと思います。
他方、軍人軍属については、すでに厚生省保管資料によって被告国側が認めていた徴兵・徴用・入隊・配属の事実、戦傷、戦死、戦病死の事実を裁判所も認定していることはもちろんですが、非常に評価できる点は、国側が最後まで「不知」の答弁を維持し、決して認めようとしなかった2名の原告(金恵淑、金載鳳)について、裁判所は、原告本人の証言を主たる証拠として、徴兵、徴用、死亡、戦傷などの事実を詳細に認定したことです。
金恵淑さんは、夫が徴兵されて日本内地に配属され、広島第一陸軍病院に転院になったという最後の頼りを残したまま消息を絶っています。判決は、被告国が最後まで認めなかった徴兵の事実を認定した上、「原爆の投下により、そのころ同病院において死亡したものと推認される。」ことを公に認めたのでした。金恵淑さんは、この判決を待つことができずに亡くなりましたが、生きておられたらさぞほっとされたことと思うと、無念でなりません。
金載鳳さんは、徴兵後、東京の世田谷高射砲中隊に配属され、東京大空襲の際に米軍機の機銃掃射で両脚を負傷しました。被告国側は、「資料が見あたらない」と言って「不知」を続けていましたが、金載鳳さんは、判決の認定を心配して、結審間近かまで、脚の新しいレントゲン写真や診断書を追加提出するなど努力しておられましたが、ともかくも事実が認定された点は、ほっとしました。
しかし、他の軍人軍属の原告らの事実認定は、徴用の方法の強制性や、戦地における虐待、差別待遇などに関して、判決はほとんど言及していません。これらの事実認定がなされなかったことは、法律問題として損害賠償が認められなかったことと絡むのですが、たいへん残念であったと思います。控訴審においては、軍人軍属に関しては、この点が主張立証の重要なポイントになるのではないかと思います。
次に、今回の判決の法律問題についても、簡単に見ておきたいと思います。
裁判のなかで私たちが主張した法律構成(請求原因)は、人道に対する罪から未払給与請求権まで各種ありますが、実は、その大部分が、すでに他の訴訟に対して否定的な判決が出てしまっているために、私たちの判決は、これまで他の判決で述べられた否定的な論理の繰り返しになってしまっています。
しかし、その中でも、なお今後の希望の端緒にできそうな点に2つだけ触れておきたいと思います。
まず、安全配慮義務違反による損害賠償請求権です。今回の判決の積極的な点は、安全配慮義務違反といえるような事実が、もしあったとしたら、原告らに請求権があり、国側に支払い義務があることを否定していないという点です。判決が請求棄却になったのは、そのような事実を認定しなかった、あるいは、いまだ私たちの主張立証が不十分で、認定することができないため、ということになります。
50年以上前の出来事について、国が安全配慮義務に違反した事実を1つ1つ立証して行くことは、極めて困難なことですが、私たちは、やはりこれを1つの課題として取り組んでいきたいと思います。
個人の権利奪った「措置法」違憲──控訴で争う
次に、未払給与請求権ですが、判決は、1965年の日韓請求権協定によって個人の権利が消滅したわけではない、という点までは、私たちの主張を認めました。請求権協定のような国家間の取り決めによって、個人の権利を消滅させることはできないという私たちの論理を、東京地裁は認めたわけです。
この点は、すでに裁判のなかで、被告国側も、1991年の「柳井答弁」に基づいて、私たちの主張に同意していたと言えます。しかし、これまで戦後の関係判例のなかでは、国側の同意如何にかかわらず、裁判所は、「請求権協定によって消滅した」「平和条約によって消滅した」という判断を示すことが多かった論点なのです。これは、今回の判決の積極的に評価できる部分です。
しかし、判決は、1965年法律第144号(いわゆる「措置法」)の合憲性を認め、この「措置法」によって、原告らの給与請求権は消滅したという判断を示しました。これは、たいへん遺憾とするところです。
というのは、合憲の理由として、この措置は日本と韓国の分離独立に伴う措置であって、「国の分離独立というがごときは、本来憲法の予定していないところであって、憲法的秩序の枠外の問題である。」と述べています。しかし、原告らの権利を消滅させなければならないというようなことが、韓国の独立に伴って当然に要請されるわけではありません。私たちが主張しているのは、個人の権利の問題であって、個人の権利、個人の人権が、国家間の政治的な駆け引きの犠牲となって消滅させられるようなことは、あってはならないし、消滅させなければならないとしたら少くとも相応の補償はなされなければならないという素朴な発想です。
この点で、判決の論理は、たいへん乱暴に思いますが、私たちの論理にも、まだ未成熟な点があるかもしれません。今後の重要な課題として、「措置法」違憲論をさらに展開して行きたいと考えています。
それと、もう一つ。「憲法秩序の枠外」というのは、ある意味で、いわゆる「統治行為」の論理です。高度の政治性を有する国家行為については、裁判所は、おいそれと違憲の判断をしてしまうわけにはいかない三権分立の制約がある、という考慮が、この判決の行間ににじみ出ているように思います。
しかし、もしそうだとすれば、むしろこの問題は、立法・行政による補償問題として解決されなければならないのではないでしょうか。この点について、裁判所は、積極的に立法府・行政府に対して提言をすべき責務があるのではないでしょうか。
私たちは、控訴審において、行政府への交渉を並行させながら、裁判所にも、いま一歩の奮起を求めていきたいと考えています。(はやし・かずお)
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■裁判「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件」のまとめ
▽提訴裁判所 東京地方裁判所 民事第17部
▽提訴日 1991年12月6日(旧日本軍人・軍属16人、遺族16人、金學順ら元 軍隊慰安婦3人計35人)。原告追加1992年4月13日、元軍隊慰安婦6人─計41人、のち1人離脱し現在40人
▽被告 日本国
▽原告 朴七封ら40人(韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会)。うち元日本軍軍人・軍属─16人、遺族─16人、元日本軍軍隊慰安婦─8人
(原告のうち金學順さんら死亡7人)
▽原告訴訟代理人 高木健一(代表) 幣原廣 林和男 山本宜成 古田典子 渡邊智子 福島瑞穂 小沢弘子 渡邊彰悟 森川真好 梁文洙 各弁護士
▽請求の趣旨 人道に対する罪及び国際法、また国内法(憲法、民法等)での違法・不法行為責任による補償 1人あたり2000万円の支払い
▽口頭弁論 1992年5月1日第1回口頭弁論以来33回
▽結審 2000年1月31日(第33回口頭弁論)
▽判決 2001年3月26日 「原告らの請求をいずれも棄却する。」
判決・丸山昌一裁判官(署名 草野真人裁判官)、判決言い渡し(代読)大竹たかし裁判官
■訴訟原告(名單)
▽元日本軍軍人、軍属、遺族
1 朴七封(パク・チルボン) 2 金載鳳(キム・チェボン) 3 金恵淑(キム・ヘスク 犠牲者の妻)=死去 4金泰仙(キム・テソン 犠牲者の長女) 5 趙鍾萬(チョ・チョンマン) 6 ペ在鳳(ペ・チェボン) 7 金判永(キム・パニョン) 8 丁起夏(チョン・キハ 犠牲者の長男) 9李良順(イ・ヤンスン 犠牲者の妻) 10 鄭王其永(チョン・キヨン) 11 鄭淑姐(チョン・スクチョ 犠牲者の妻) 12 朴炳王賛(パク・ピョンチャン) 13 李永桓(イ・ヨンハン)=死去 14 金鍾大(キム・チョンデ 犠牲者の長男) 15 安相浩(アン・サンホ犠牲者の長男) 16 崔金順(チェ・クムスン犠牲者の妻) 17 申成雨(シン・ソンウ) 18 趙武雄(チョ・ムウン 犠牲者の子)=死去 19 李種鎮(イ・チョンジン犠牲者の子) 20 金堯攝(キム・ヨソプ)=死去 21 文炳煥(ムン・ピョンファン)=死去 22 朴鍾元(パク・チョンウォン) 23 高允錫(コ・ユンソク 犠牲者の子) 24 李潤宰(イ・ユンジェ) 25 韓文洙(ハン・ムンス 犠牲者の子) 26 金容王其(キム・ヨンギ 犠牲者の弟) 27 朴壬善(パク・イムソン犠牲者の子) 28 呉壬順(オ・イムスン 犠牲者の妹) 29 成興植(ソン・フンシク) 30 姜仁昌(カン・インチャン) 31 徐正福(ソ・チョンボク) 32 韓永龍(ハン・ヨンニョン 犠牲者の長男)
▽元日本軍軍隊慰安婦
33 A(軍隊慰安婦) 34 B(軍隊慰安婦)=のちに離脱 35 金学順(キム・ハクスン軍隊慰安婦)=死去97.12 36 李貴分(イ・キプン 軍隊慰安婦) 37 盧清子(ノ・チョンジャ軍隊慰安婦) 38 文玉珠(ムン・オクチュ 軍隊慰安婦)=死去97.10 39 金田きみ子=仮名(軍隊慰安婦) 40 沈美子(シム・ミジャ 軍隊慰安婦) 41 C(軍隊慰安婦)
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韓国・遺族会、控訴をつよく希望、高木弁護士ら受ける
3月25日夜、早稲田奉仕園セミナーハウスで、韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会幹部たちと代理人弁護士、それにハッキリ会も同席して、判決を前にした協議を行った。
高木健一弁護士からは、この裁判の意義と今後の課題が指摘された。
・この裁判は戦後補償で中心的・代表的訴訟だ。個人でなく最大団体による裁判。軍人軍属など原告40人だが代表訴訟にあたるものだ。日韓の未解決の戦後処理を追及してきた。「慰安婦」でも社会的に大きく問題提起をしてきた。
・審理にも特徴がある。原告本人の陳述、尋問25人、吉見義明教授など証人4人が申請通り行われた。33回の口頭弁論の内容も、充実したものだ。
・法律論の特徴は、本格的に国際法─人道に対する罪を論点として提起したこと。また憲法・国内法でも、未払給与問題で、日韓条約や協定で解決したのではなく、「措置法」で消滅したのだと国が持ち出したが、これは憲法違反であるとして対抗した。
・弁護団だけではいい結果を出すのは困難。市民団体の支援と社会の変化が大事だ。韓国・遺族会は大挙来日しデモや座り込みを行い、政府も特別の対応をした。93年の河野官房長官談話、95年にはアジア女性基金を引きだした。「基金」評価で運動は割れ、足を引っ張る動きもあった。臼杵代表が2年数か月も入国拒否にあわされたため日韓の間のパイプを欠き、深刻な事態となった。この件で遺族会の政府に対する対応は不十分でなかったか。そうした中で、弁護団は最後までやってきた。
・判決は、事実認定と不法・違法行為責任にどこまで認定するかが注目点だ。
─控訴は簡単に考えてはならない。運動に不協和音が出るようなら控訴審は苦しい。また、控訴審で一審が逆転することは考えにくい。控訴するなら、遺族会・原告と日本の市民団体が緊密な関係をもっていくことが不可欠だ。国はこうした問題で和解しないだろう。過大な期待はしないでもらいたい。
韓国・遺族会から会長、名誉会長から質問と意見が出されて協議。そして判決後、「全面敗訴」を受け26日、控訴方針の発表となった。その後、11人の代理人弁護士が全員同意し、継続して控訴審を進めることになった。
■ドキュメント 3・26 抗議の’アリラン’──3月26日10時、東京地裁法廷
原告席も傍聴席も、しばらく固まり、シンと静まり返っていた。
「原告らの請求をいずれも棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする。」
と朗読するや、3人の裁判官は法服を翻して、あっという間に専用のドアから消え去った。いつもの「起立」さえない。ものの3分とかからない法廷だった。
「何だこれは!」原告から最初の声が上がった。一気に法廷にふき出す憤まん、抗議。こぶしを振り、「恥を知れ」「これが正義か」。残った国側代表らに食ってかかり、机をたたき書類をまき散らす。席を埋めきった傍聴者の何人もが涙を流した。日韓の新聞や通信社の記者たちが、じっと見守った。
やがて原告たちから「アリラン」の歌。梁順任(ヤン・スニム)名誉会長が最後まで床に座り込み、遺影を胸に涙の抗議をつづけた。(原告でも7人が死亡、遺族の掲げる遺影ともども法廷を見守った。)法廷吏員や職員たちも、声をあげたり力づくの規制にも入らない。これ以上大きな事件にはならなかった。
この日の朝、6時。雨音がする。かさ、ウサン、どうする? 飛び起きて、新宿へ。安売りのドンキホーテで14本手に入れる。1本100円。タクシーで忘れ物をとってくるついでもあり、100円ならもとはとれた。その雨も閉廷ごろには止んでいた。
覆せなかった判例
10時20分、控室
法廷前の控室。原告たちと傍聴者を前にして、高木健一弁護団長の低い声が響く。
「残念な結果だ。判例を変えるものをつくりだそうと頑張ってきたが、裁判長はついに勇気を貫けなかった。裁判長は本人尋問、証人尋問などの申請をすべて受け入れ、よく聞いてくれて、問題の本質を訴えることができた。国際法、国内法上請求権があるということで、国連人権委でもクマラスワミ、マクドゥーガル報告があり、審理経過を踏まえ、こうした方向で世界指針となる判決を期待した」
「91年の提訴以後つづいた多くの戦後補償裁判に、法律構成で下地をつくった。それらが先に判決となり、判断が出そろってしまっていた」
「人道に対する罪、ハ-グ条約、憲法違反、国内法での時効などで敗訴判決となった。こうした戦後補償の裁判では、社会的にも『おかしい』という同じ認識が大事だ。そういう背景によって控訴して頑張っていくことができる」
戦後補償のための共同行動を分裂、敵味方のようにしてしまい、対決方向を違えた残念な運動の状態を指摘した。しかしこの日、在日韓国人、フィリピン人「慰安婦」などの運動や「女性戦犯法廷」に寄っていた人たちも傍聴に。「被害者支援」「戦後補償実施」で連携するなら、手段・行動の違いは超えられるという一面をのぞかせた。
隠せない虚脱感
午後1時、弁護士会館
夜来の雨はあがって、春の日差しが白いチマ・チョゴリを浮き立たせる。裁判所から出る際、法廷では許可された遺影をめぐって、また警備職員にとがめられ、もめた。
弁護士会館に移り、緊張と期待と興奮で忘れていた空腹を、ハッキリ会で用意していた握りめしと菓子パン、お茶でうめる。いつものにぎわしさがない。状況をはかりきれず、虚脱感が支配した。
この間に、92ページにおよぶ判決文本体を最少限必要な部数、コピーする。さっと目を通すと、原告たち40人一人ひとりについて事実認定を行っている。「慰安婦」の事実、実態について完全に認定をし、8人すべて主張通り「軍隊慰安婦として働かされたことが認められる」と言い切っている。
つぎの日程、村山富市元総理・アジア女性基金理事長への要請面談に向かう。あまりに気持ちが重そうなので、期せずして全員タクシーを使うことに。(短距離で、地下鉄と大差ないという計算も働いた。)
人道的問題、協力を
午後2時30分、半蔵門
きびしい判決を引きずったまま、村山富市理事長を待って席についた。アジア女性基金の役員である福山眞劫自治労副委員長、笠見猛政治政策局長も同席。自治労の支援はかねて知られており、感謝のあいさつを交した。自治労表敬・報告の訪問に代えるものでもあった。
すぐに村山理事長が席に。35分、ハッキリ会臼杵代表の遺族会紹介のあと、金鍾大(キム・チョンデ)会長が立つ。ハッキリ会からの通訳は、この日のため関西から駆けつけた松井聖一郎さん。
「きょう、判決では敗けたが、人道的問題として村山元総理にご協力、ご尽力をお願いしたい。遺骨収集、現地追悼などぜひ実現したい。また未払給与は当然返還してもらいたい」(父金判龍さんは第四海軍施設部に海軍軍属〈工員〉として所属していたが、その後昭和19年8月8日南洋群島で戦死した〈=判決文〉。遺骨も帰らない息子として未払給与は「形見」として待ち望んでいる。)
沈美子(シム・ミジャ、元軍隊慰安婦)ハルモニは、みずから歴史教育館をつくる計画を披露、協力を求めた。ペ・海元(へウォン)前会長からも、「道義的責任でアジア女性基金をつくった総理として、韓国・遺族会の要望について支援していただきたい」と語った。
村山理事長は、「政府は日韓条約などで終わったという立場。裁判もそういう判断なのだろうが、(解決方法は)法律だけではない。『慰安婦』問題についても国の道義的責任で償いを行ってきた。みなさんの切なる気持ちはよくわかる」。
梁順任名誉会長がさらに聞く。
「アジア女性基金は(他の問題も扱うため)再構成できるのか。法・制度上、どうなのか」
「償いの事業は5年となっている。その後のことは、その時点で協議しなければならない」と村山理事長は慎重に答える。
臼杵代表から、最後に、「老いていく当事者に解決の道を開いていくため、政治的に解決していくことも重要になる。政党や国会に影響力を。自治労ともども、協力をお願いしたい」と締めた。
終始なごやかな懇談となり、全員で記念写真。ツーショット写真の申し出にも、村山理事長はにこやかに応えた。時計は4時を回っていた。
男たちの革命
午後4時30分、早稲田奉仕園セミナーハウス
6時過ぎからの集会までにと、高校の教師たちによって食事の用意がされていた。昼食を追いかけるように黙々と食べる人、軽くすます人。「集会後はお酒で宴会だよー」と伝えてある。
テーブルには定番、持参のキムチ。小女子の佃煮風。ノリ。そして「食事班」からカレーの献立。関空まわりで到着した25日当夜は、8時を過ぎていたから、前もって四国住まいの臼杵代表から届けられていた讃岐うどんだった。うどんでも、茶わんをもたない韓国流儀の人、やっぱり手にする人…さまざま。
様変わりしたのは、男性陣だ。いつも「両班」然として女性陣の据膳を待ち、終わるとそのままにして当然の振る舞いが一変。金鍾大会長が「自分で食器洗いもするように」と号令して自ら流し場に立つ。さすがにほとんどの男たちもつづいた。これは「慣習法」に定立されそうだ。昨年の1月の結審のとき、「食事はまだか」の問い掛けに、女性陣が、「自分でやったら!」と一喝。ストライキしたことが効いたらしい。
それにつけて思い出すのは金惠淑(キム・ヘスク)さん。数年前来日した際、流しに立つのを見て、即座に高い声で「何をなさいますかァ」と茶わんを取り上げられた(男にそんなことはさせないということ)。みごとに日本語を話し、うつくしい敬語までわがものにしていた。そのキム・ヘスクさんも昨年、亡くなったことが今回、知らされた…。
あらたな活動へ決意
午後6時30分、早稲田奉仕園小ホール
壇上に、黒リボンをかけた遺影。原告で亡くなった、金惠淑(キム・へスク)、趙武雄(チョ・ムウン)、文炳煥(ムン・ピョンファン)、李永桓(イ・ヨンハン)、金學順(キム・ハクスン)、文玉珠(ムン・オクチュ)さん。後に金堯攝(キム・ヨソプ)さんの死亡も確認され、7人がこの日を迎えることもできなかった。
「私は裁判だけやっていきたい」とアジア女性基金を受けなかった金學順さんもいまはない。説明に自宅を訪ねたのが最後となった。同じ軍隊慰安婦、金田きみ子ハルモニは、「日本全部をくれても、元には戻らない。10年経っても日本は補償しないだろう。苦労してくれたのだから『基金』を受ける」と自分の選択をした。それぞれの選択をハッキリ会は受け入れた。
「3.26東京地裁判決を受けて─韓国・遺族会戦後補償請求10年の報告」。集会は、いまは黙してしまった人たちに、敗訴の報告となってしまった。まず、この原告たちに、黙とうを捧げて始まった。梁順任名誉会長、金鍾大会長と、ひどい判決に批判を語り、たたかいの継続を訴える。
弁護団の要として尽力してきた林和男弁護士が、判決の分析を語った。
評価できる事実認定
─事実認定ではかなりの結果があった。一人ひとり、証拠と主張によって認定。中でも「原告金在鳳関係について」「原告金惠淑関係について」ととくに触れて事実認定をしている。軍隊慰安婦の事実を全面的に認定し、個々のハルモニたちを「軍隊慰安婦として働かされたことが認められる」としたことに注目し指摘した。
参加者から平和遺族会全国連絡会の小川武満さん、同事務局長の西川重則さんから、この裁判を通して韓国・遺族会と共同行動を重ねてきた立場からあいさつ。「日本人として恥ずかしい判決。あの戦争の事実、加害の事実について、きちんと受け止め、歴史の改ざんを行うような教科書を許してはならない」と決意の表明と訴えを行った。
「戦後補償のいわゆる運動の中で、あれこれあったが、相手を間違えてはいけないと思う。目標は時間のない被害者への結果を出すことだ。そのためにこれからもがんばっていきましょう」
ハッキリ会臼杵代表が、裁判の現実と政治的・社会的課題の重さを語った。東京は、折から、さくらの季節。花が散って、実をつけるべき第二ラウンドが、もう始まった。(原田信一)
編集の後
▼裁判はひとつの区切りだが、コトは終わっていない。韓国・遺族会は控訴をのぞみ、すぐに弁護士たちが気持ちよく受けてくれた(提訴時の全員)。被害者たちの訴えに応えること、それはまた私たちの課題だ ▼裁判を通じ、被害者たちの肉声を聞いてきた。裏には訴訟原告になりえなかった人々が控えている。犠牲となった無数の人々がいる。引き下がるわけにはいかない。判決の事実認定を基礎に、補償につなげることが大きな課題だ。控訴して第二期ハッキリ会活動に入る ▼数人が暗中模索ではじめた実態調査と裁判提起、戦後補償のための活動は、大きな渦を巻き起こした。献身的に働いてくれた弁護士、傍聴や集会、行動にかけつけてくれた人、各地からカンパを寄せてくれた人、報道してくれたジャーナリスト。一人一人に感謝しつつ、再度奮起を訴えたい ▼戦後処理の問題は世界でまだつづいている。「自虐史観」どころではない。記憶の傷は消せない。否応なく歴史は背負うことになる。「外」あっての歴史だし、学んだ関係史が生きる。学習を放棄したら自滅につながるだろう ▼政治は動いている。ドイツは「人道的」に「補完的」基金を設立。代わりに集団提訴を止めるるよう求め、独米間で政治交渉が行われた。日本で立法の動きや「基金」の提案もあるが、もっと厳しい判断と交渉力が必要だ。時間と政治をにらみ、被害者のために結果を引きだす責任がある ▼被害者に「早く答えを出す」のが先決である。原則対置、責任の指摘だけではコトはすまない。判決の法廷で響いた涙の「アリラン」はつぎへのステップだ。裁判は重要な軸。政府・国会への働きかけも課題だ。いずれにしても、今後の行動指針について、みなさんからご提案・ご意見を寄せていただき、仕切り直していきたい。(は)
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この訴訟は結局、控訴審・2003年の東京高等裁判所判決、上告・2004年の最高裁判所判決(賠償請求棄却)までつづいた。1991年から約13年。
被害事実証言、違法・不法行為の立証、賠償請求の当否──。事実関係と法的責任、賠償責任の検討は10数年をかけて法廷で争い、対する国の主張、最後に裁判所の判断が行われた。
法的な論点は当時から出ていた。──「え、解決していないんだ」の衝撃がから始まって、老齢化する被害者、遺族たちの衝撃でもあった。「二国間解決」(条約、協定などの政治決着)を、被害・犠牲者から問うことになっていった。
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