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チベット紀行 〔5〕 ~天空の城 ポタラ宮

2007年12月10日 00時48分57秒 | -旅日記-
■おまけ ~チベットの現代史(2)

(3) ダライ・ラマ、インドへ亡命

平穏だったラサにも、チベット各地での虐殺の報が伝えられたことで、不穏な空気が漂います。それを決定的にしたのが、1959年のことでした。この年の3月10日、チベットに駐留する中国軍が、ダライ・ラマを駐屯地の観劇に招いたのです。それも、チベットの護衛をつけず、単独か少人数で来るように要求したのです。

中国の軍隊が、ダライ・ラマを拉致しようとしている。ラサの人びとは、こう受け止めました。ダライ・ラマが滞在していた夏の離宮ノルブリンカ離宮の前には、三万人もの群集が集まり、ダライ・ラマを守ろうとしたのです。

これに中国軍が激怒。群集が解散しなければ、ノルブリンカ離宮を砲撃し、民衆を掃討するという最後通告を発しました。

ことここに至って、ダライ・ラマは亡命を決意します。本人が離宮を離れれば群衆は解散し、中国軍との衝突は避けられるだろうと判断したのです。

3月17日の夜十時前、ダライ・ラマは少数の警護と共に離宮を出てインドへ向かいました。その後バラバラに出た人たちが合流。亡命者100名がインドを目指し、それをチベット軍兵350人が警護しました。極寒の峠をいくつも越え、吹雪や土砂降りの雨に悩まされながら、陸路を二週間。中国軍の追っ手に脅えながらの逃避行でした。途中、ダライ・ラマは高熱を発し動けなくなるという事態にも遭遇しながら、ようやくインドとの国境を越えることが出来ました。

インド政府はダライ・ラマ一行の亡命を受け入れ、最終的にダライ・ラマは北インドの高地ダラムサラに亡命政府を樹立しました。現在、政府の建物やチベット寺院が建設され、多くの亡命チベット人が暮らしています。

(4) 中国、チベットの支配権確立へ

ダライ・ラマが離宮を離れたことを知った中国軍は激高。ノルブリンカ離宮を砲撃し、群集に無差別射撃を浴びせました。大勢の死者を出したのです。ノルブリンカ離宮に続いてポタラ宮や聖地ジョカン寺院(大昭寺)を攻撃。ここでも数千人の死者を出しました。

中国軍は、ダライ・ラマがいなくなるや、チベットに対する「穏健政策」を放棄。厳しい弾圧によって支配権を確立しました。チベットの政府関係者や僧侶たちを刑務所や労働改造所へ送り込み、急速な社会主義化を進めたのです。

早くから中国軍に占領されていた東チベットでは、1953年からチベット人の武装蜂起が起き、戦闘が繰り広げられていましたが、ダライ・ラマが亡命した1959年以降は、チベット人の抵抗運動がチベット全土に及びました。この抵抗運動に、アメリカのCIAが密かに支援をしていましたが、1960年に中国政府を刺激することを嫌ったアメリカ政府の方針転換によって、秘密の支援は打ち切られました。

このチベット人の抵抗運動に中国軍は、ゲリラの大量処刑、ゲリラの拠点になった僧院の攻撃、破壊、僧侶の処刑をもって臨みました。1959年3月から1960年9月にかけての軍事作戦で、8万7000人のチベット人が殺されたのです。大虐殺でした。

それ以来、多数のチベット人が国境を越え、インドやブータンに難民となって流れ込みました。

(5)大躍進政策、文化大革命で大きな被害

1965年からチベットでも始まった大躍進政策では、荒唐無稽な農業改革が行われ、自然環境を無視した画一的な「改革」が実行に移されました。これにより農業収穫量は激減。この大躍進政策により、中国本土で餓死者が出たのと同じくチベットでも大量の餓死者を出しました。

1960年代から1970年代にかけての文化大革命でも、チベットは無傷ではいられませんでした。中国本土から1万人もの紅衛兵たちがチベットに押しかけ、チベット仏教の寺院に乱入。仏像や経典を破壊したのです。貴重なチベット文化の遺産が多数失われました。

1959年以前のチベットには、6000もの寺院や僧院があったのですが、そのほとんどが破壊しつくされました。

現在は宗教行事も認められ、寺院や僧院の復旧も進められていますが、観光客向けの復旧といった側面もあり、真のチベット僧院の復旧には至っていません。当然、ダライ・ラマ14世の写真を飾ることは堅く禁止されています。

<つづく…>

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■天空の城、ポタラ宮へ

午前中でジョカン(大昭寺)を後にした我らは、一旦ホテルへ戻った。
午後に訪れるポタラ宮は、観光する時間が決まっていて、僕らは午後2時からとなっている。
ということでその時間までホテルでしばし休憩。

前日いきなり標高5000m以上の場所に行ってかなりグロッキー状態だったので、この日は
比較的ゆっくりと観光しているので助かった。
この日もハードなスケジュールにされてたら、さすがに倒れてたかも…。

午後になり、ポタラ宮へと向かった。

ポタラ宮の前には広い道路と広場が造られていて、少々興ざめ。
でもポタラ宮前には、ポタラ宮に向かって熱心に五体投地を行うチベット人がたくさんいる。




さっそく敷地の中へと入る。
やはり、間近で見るとかなりの迫力と威圧感。


宮殿の中に入るには、長い階段を登っていかなければならない。
ポタラ宮は高さ100mの小山に建てられている。


この長い階段、普通の場所で健康な若者なら大したことはないのだろうけど、
ここラサは標高3600mの高地。酸素が薄い。。
ゼイゼイ言いながら階段を登っていった。




階段を上りきった時には、思わず座り込んでしまうぐらいだった。
なんか階段を辛そうに上るお年寄りの気持ちが分かった気がした。

ポタラ宮からのラサ市内の眺め。


ポタラ宮前の広場。


ポタラ宮は、17世紀に建てられ、以後1959年にダライ・ラマがインドへ亡命するまで
ダライ・ラマが政治・宗教を司る中心地であった。



すなわち、ポタラ宮はラサの、さらにはチベット全体の象徴であり、チベット人たちの
信仰の対象でもある。

しかし、今もダライ・ラマはチベットへ戻ることは出来ず、主の居ない宮殿のままだ。

現在、博物館として観光客に解放されていて、1994年に世界遺産に登録された。



ポタラ宮は、白宮と紅宮の2つに分かれている。
白宮は、ダライ・ラマの住居であると同時に政治を執り行う場所で、チベットにおける
「俗」の中心だった。
紅宮は、歴代ダライ・ラマの霊塔など宗教に関わる部屋が多くあり、「聖」の中心となっていた。

まずは白宮の見学から。


白宮の入り口。


白宮には、ダライ・ラマがかつて生活していた部屋や、政治を執り行っていた部屋などがあり、
ダライ・ラマが生活に使っていたものがそのまま残されている。
約50年前までは、実際にこの場所でダライ・ラマが生活していた。

主の居ない部屋は、どこか寂しげな雰囲気があった。

白宮を出た後は、続けて紅宮へと入った。

紅宮には、経典を入れた棚や、ポタラ宮を建立したダライ・ラマ5世の霊塔をはじめとする
歴代のダライ・ラマの霊塔が並んでいる。

ダライ・ラマ5世の霊塔は、高さ約17m、5トンの黄金を使用し、ダイヤモンドなどの宝石を
散りばめられた豪華な造りになっている。

ポタラ宮の中も、薄暗く、バター灯明の独特の匂いが漂っていて、宗教的で不思議な雰囲気を
かもしだしていた。

紅宮の外観。


ポタラ宮では、ガイドはあまり詳しい解説も無くサクサク進んでいった。
どうやら、ポタラ宮の見学時間が1時間と決められているようで、その時間内に見学を
すべて終わらせないといけないらしい。
また、政治的な話はタブーになっているため、ダライ・ラマについて詳しく解説することは無い。



ポタラ宮は一番見学を楽しみにしていたところだったけど、あまりにあっさり見学が
終了してしまったので、あまり面白みを感じなかった。
やっぱりポタラ宮は外から眺める方がいいのかな。

宮殿を出ると、ポタラ宮の裏側へまわり、長い下り坂を下って山を降りていく。
ポタラ宮の裏側。


ポタラ宮をマニ車を回しながら巡礼するチベット人。


長い下り坂。


長い下り坂を下りきるとポタラ宮の出口へ到着する。
出口付近には、ポタラ宮を取り囲むように、マニ車が並んでいた。
チベット人たちはそのマニ車を回しながら巡礼していく。




マニ車とは、筒の中に、印刷された巻物状の経文を入れたもので、1回まわすと1回経文を
読んだことになる。
ポタラ宮をはじめ、チベット寺院にはたいていあり、マニ車を回しながら時計回りに歩く。
寺院にあるマニ車のほか、巡礼者たちは、巡礼用の小さなハンディータイプのものを持って
歩きながらしている。

ポタラ宮を出て、再びポタラ宮前の広場へと向かった。


荘厳なポタラ宮とは対照的な、いかにも共産党が作ったというような無味乾燥な広場。



しっかりと、中華人民共和国の国旗がはためいていて、共産党を賞賛するスローガンが
デカデカと飾ってある。
チベットは中国のものだと、わざとらしいぐらいに主張している。



やはりこのあたりは警備が厳しく、たまたま警備員が怪しい男を取調べする場面に出くわした。


ポタラ宮近くにはためくタルチョ。


ポタラ宮まで父親と五体投地で何日もかけてたどり着いたという少年。
顔は汚れているが、その目はまっすぐだ。



ポタラ宮見学が終わると、この日も早めの解散となった。

ということで、再び我らだけで街へと繰り出した。
やはりこの日もジョカン周辺へと再び向かった。


そしてやはりお土産のお買い物。

買い物の後、ジョカン周辺を歩いてみた。
ジョカン周辺も、チベット人の巡礼者たちがたくさん。


マニ車を回しながらジョカンを時計回りに一周する。


この日の晩ご飯は、ジョカン近くにあるインド・ネパール料理屋。
インド、ネパールと国境を接しているチベットには、インド・ネパール料理の店がけっこうある。


ここでインドカレーとナンを注文。
うん、なかなかおいしかった。


ということでこの日のこれにて観光は終了。
高山病は初めのほうに比べて少しずつマシになってきたかな。

次の日は、ラサを離れ、チベット第二の都市、シガツェに向かいます。


つづく。




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世界ふしぎ発見 (maikoga)
2007-12-10 01:17:33
この間のふしぎ発見でチベットやってました。Yoちゃんが乗ったと思われる列車や、見たと思われる景色や、たどったと思われる道のりが映ってたよ。遠い地にいるYoちゃんに思いを馳せました(笑)
返信する
だね♪ (jun)
2007-12-10 13:01:48
たしかにポタラ宮の前の広場は共産党って感じだったね。天安門広場の真似をしている感じ。
チベットの歴史は同じく遺憾に思います。
ダライラマがインドに亡命する途中動けないくらいの高熱が出たってことは、「亡命するな」という天啓だったのかもね。仮に亡命してなくても死者はたくさんでてたかもしれないが・・。
いつかダライラマが安全に平和的にポタラ宮に帰る日が来ることを節に願う次第である。
返信する
没収ーと! (new-beatle)
2007-12-10 23:26:57
>maikogaさん
おー、世界ふしぎ発見かー。久々に見たいね。やっぱ鉄道が通って日本でも有名になったんやな。
チベットの鉄道は、今年のお正月にNHKで特集が放送されたのを見て、これに絶対乗りたい!って思ってました。その願いが叶って大満足!
もう旅行はしばらくおあずけかな~。

>junさん
そうですね、ポタラ前の広場はミニ天安門広場ってかんじでした。
ダライ・ラマの亡命はチベットにとって良かったのか、そうでなかったのか、それは難しい問題ですね。亡命したことで、チベットの中国化が進んだ部分もありますし、逆に亡命先のインドでは、ダライ・ラマを中心にチベット文化の保存が行われてます。
サプライズは、北京五輪開幕式にダライ・ラマ出席でしょう。ムリでしょうけど。。
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