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北京旅行・天安門と"廃墟"万里の長城巡り(その4)

2019年03月03日 19時46分47秒 | -旅日記-
■長城巡り2日目、金山嶺長城へ

古北口村滞在2日目。
この日は、前日の臥虎山長城に続いて、2箇所目の長城を巡る。

朝、ゲストハウスで朝食を食べる。

作ってもらったのは、特大ワッフルにバナナが大量にのっかった豪華朝飯。



朝食を食べて共有スペースにてコーヒーを飲みながらゆったり休憩。



さて、金山嶺長城へは、ゲストハウスのJOEさんに手配してもらった車で、
一緒に泊まっていたフランス人家族と北京から来た夫婦と一緒に向かう。

この日の夕方には古北口村を出て北京に戻らなければならないので、出発前にチェックアウトして荷物は預かってもらった。

みんなの準備が整って、いざ出発。



これから車に乗って目指すのは、金山嶺長城の東門。
古北口村から北へ向かうとすぐに北京市を出て隣の河北省承徳市に入る。

道沿いに「中国で一番美しい長城ー金山嶺」という大きな看板が。


この日もどんよりしたあいにくの天気。

看板に、「大気汚染を抑えて承徳の青空を守ろう」とのスローガンが。
でもただ天気が悪いのか、大気汚染なのかよくわからない。。。



北京から来た夫婦もこの辺りの大気汚染状況が気になったらしく、ドライバーさんに聞いていた。
ドライバーさん曰く、「この辺は工場が無いから大気汚染はあんまり無いよ」とのことだが、
この霞んだ曇天を見ると、本当かな・・・と思ってしまう。

ドライバーさんの話によると、最近、ある男が万里の長城を東から西まで約8千キロを踏破したらしい。
これから行く金山嶺長城はもちろん、先日に登ろうとして断念した臥虎山頂の長城も登って行ったとのこと。


車で金山嶺長城の北側へ回り、そこから南下して山道を登って行くと、金山嶺長城の入口へ到着した。



ここは東門。少し前にこの一帯に雪が降ったらしく、所々に雪が残っていた。



ここはあくまで入口で、ここで入場料を払って、長城まで山を登って行かなければならない。
この時点では、長城は全く見えない。

山道をひたすら登って行く。
急な坂を登ったり、降りたり、長い階段を登ったり・・・。

でも全然長城が見えてこない。

1キロほど山道を進んで来て、目指す東五眼楼という望楼まであと600mという看板の先に、うっすら長城の望楼が見えて来た。



長城が見えて来たけど、長城は山のてっぺんに建っていて、まだまだ山を登って行かなければならない。



朝の寒い気温の中で厚着していたので、まだ長城に着いていないのに汗びっしょりになってしまった。



1時間近く歩いて、やっと東五眼楼のふもとまで着いた。
最後に急な階段を登っていく。



長城の壁を登って東五眼楼の中へと入る。



山のてっぺんに建っている長城を登ると、その高さにちょっと足がすくむ・・・。でも周りの景色がよく見える。



東五眼楼は1579年の明王朝の時代に建てられたレンガ造りの望楼という説明が。



金山嶺長城の地図が掲げてあった。


東五眼楼から、地図上では右から左へ、すなわち西へ西へ向かい、古北口村方向へと進んでいくことにした。
長城を延々西へ進んでいくと、泊まったゲストハウスの裏山まで行ける。すなわち、歩いてゲストハウスまで戻ることもできる。
さらに西へ進むと、前日訪れた臥虎山長城へと繋がっている。

ちなみに、金山嶺長城を逆に東へ東へと進んでいくと、北京郊外で有名な長城観光スポットである司馬台長城へとたどり着く。



■万里の長城の歴史を振り返りながら、いくつもの山々を越える

東五眼楼を出て、長城の壁を歩いて西へと進む。



さて、今更ながら、長城を歩きながら万里の長城の歴史を振り返ってみる。

万里の長城は、秦の始皇帝が建設したと言われているが、
始皇帝が中華統一する前の春秋戦国時代から乱立する各国の国境に建設されていた。
さらに北の遊牧民族の南下を防ぐため長城の建設が始められた。



それらを繋げて強化して大長城としたのが秦の始皇帝。
北の脅威であった遊牧民族、匈奴の侵攻を防ぐためだった。

ただ、ここ金山嶺長城のようなレンガ造りの長城はもっと後の時代に建てられたもので、
長城は長い時代、土を固めて造られた土壁のもので、高さも2mほどのものだった。
また長城の位置も現存する長城よりももっと北に位置していた。







次の時代の漢王朝では、積極的な領土拡張で国境線が東西に延び、
東は朝鮮半島、西は砂漠のオアシスへの入口、現在の甘粛省の西端・玉門関まで約8000kmの長さになった。
この時代の長城が、全ての時代の長城の中で一番長い長城であった。

漢王朝が倒れた後、三国時代や五胡十六国の時代になると、北方の騎馬民族の力が強くなって
頻繁に中原に侵入してくるようになると、長城は維持されず放棄されてしまった。




5世紀ごろに北魏が前の時代の長城より南の位置に再建し、その後中華を統一した隋王朝も引き継いだが、
次の時代の唐王朝は再び長城を使って国境防衛することを放棄した。

その後の五代十国時代や宋王朝時代も長城を放棄されたままだったが、
中国東北部から興った金王朝が中国北部を支配した時代に再び長城を再建した。




金王朝を滅ぼしたモンゴル帝国と中国に残ったフビライ・ハンが建てた元王朝は
自らの故郷であるモンゴル高原との間に防衛線は必要ないためこの時代も長城は築かれなかった。







再び長城が再建されて、さらに増強したのが明王朝。
長い時代、中国はモンゴル族、女真族などの北の民族に支配されていたが、明王朝は久しぶりに漢民族によって建国された王朝で、
首都を北京に遷都してからは、北の遊牧民族の侵攻を防ぐため、北京郊外に特に長城を建設して長城防衛を強化した。

この時代に建てられた長城が、有名な八逹嶺長城や、今回訪れた臥虎山長城、金山嶺長城などだ。

明王朝時代の長城は、それまでの時代の長城と違って、レンガ造りや石積みで造られ、高さは8m近くにもなった。
両脇には側壁が作られ、長城のほとんどは人が歩ける平らな構造となっていた。




また長城の数百メートルごとに敵台、望楼が造られて、戦いの時の拠点となった。



崩れかけの望楼。



山の頂上に建てられることが多い望楼に登ると、その高さに足がすくんでしまう。。。



さらに敵の侵入を防ぐ構造もあり、写真のような階段の横に一定の間隔で壁が作られて、ここに兵士を潜ませて
敵が階段を上がって来た時に横から敵へ攻撃できるような「障壁」と呼ばれる構造もあった。

階段の左側が「障壁」。



そもそも、なぜこんな険しい山々に延々とこのような巨大建造物を造っていったのか。
そのかかった費用と労力は凄まじいものだっただろう。

敵の侵入を防ぐのが長城の役割だが、それだけ、中国の歴代王朝にとって北の遊牧騎馬民族の脅威は凄まじかったのだろう。

山の尾根を急激に登っていく長城。




■中間地点、西方台に到着

さて、万里の長城の歴史を振り返っていると、山あり谷あり、かなり進んで大金山楼という敵台まで到着した。



この辺りの長城は結構修復されて、長城の側壁がちゃんとある。



東門から入って数時間が経った。
ここまで来るまで、いくつ山を越えただろうか。

足がけっこう疲れてきた。
山を下って行く方が足にくる。。。




前から、汗を垂らしゼイゼイ息を切らしながら長城の階段を登って来る中年太りの中国人のおっちゃんがいた。

長城を降りて来る僕を見て、
「ハァハァ、出口まであとどれくらいある?」と話しかけてきた。

こっちも疲れていたので、
「あと少し・・・」と、適当に答えてしまった。

「そっか、よかった」
と、そのおっちゃんは相変わらずゼイゼイ息を切らしながら登っていった。

ごめん、おっちゃん・・・。


そんなこんなで、西方台と呼ばれる敵台が見えてきた。



西方台は、1569年、明王朝時代に建てられた。現在の姿は、1984年に修復されたもの。

解説文によると、台湾のスタントマンで俳優の柯 受良(ブラッキー・コー)が、
1992年に西方台をバイクで飛び越えるジャンプスタントに成功したとのこと。
飛んだ距離は34m、高さは14mだったらしい。




さて、ここから山を降りることもできるが、さらに先へ進んで見ることにした。

どこまで進めるか・・・。


(つづく)





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