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チベット紀行 〔4〕 ~チベット人とチベット仏教

2007年12月07日 01時26分42秒 | -旅日記-
■チベット仏教とは

チベットを理解する上で「チベット仏教」について知る必要があります。

仏教は4世紀にインドからチベットに入ってきました。チベット土着のボン教と混交して独自の
チベット仏教が形成されました。

仏教では、すべての生き物は生・死・生まれ変わりを繰り返す「輪廻(りんね)」の中にあると
考えられています。この世の人生には苦しみが満ち溢れていて、死んで人生を終えてもまた
生まれ変わるので、「輪廻」が続く限り苦しみから逃れる事ができないのです。

しかし、仏教徒が悟りを開けば「輪廻」から脱出できる「解脱(げだつ)」を達成し、
誕生・苦しみ・死・再生という輪から逃れ、仏になることができると考えられています。

チベット仏教によれば、悟りを開いて輪廻から脱出できた人物であっても、すべての人が悟りを
開けるように働きかけるため、繰り返しこの世に戻ってくることがあると考えられています。
この人物をチベット仏教では「化身(トゥルク)」と呼びます。
すなわち「菩薩(ぼさつ)」のことです。
あえて解脱をしないで、人々を助けるために人間として輪廻転生を繰り返すのが菩薩です。
菩薩は、次の転生で仏になれるのに、それをしないで人間の形で再びこの世に生まれてくると
信じられているのです。

チベットの古代・中世史とチベット仏教は密接に関わっています。
7世紀に建国されたチベット初の統一王朝である吐番王国は、8世紀に唐の都長安(西安)を
一時占領するなどチベット史上最大の領土を確立しました。
9世紀吐番王国終焉後は分裂時代となりますが、チベット仏教を中心にチベットは独自の
発展を遂げました。

16世紀、チベット仏教で仏教戒律を厳守するゲルク派が興り、「ダライ・ラマ」の称号が
生まれました。
17世紀、ダライ・ラマ5世はチベットを統一し、首都をラサに定め、ポタラ宮を建設し、
政宗一致のチベット統治が始まりました。

「ダライ・ラマ」は観音菩薩の生まれ変わり「化身(トゥルク)」であるとされています。
チベットにはダライ・ラマに次ぐナンバー2の地位にある「パンチェン・ラマ」など、ダライ・ラマ以外
にも転生を繰り返す「化身」がいるとされています。
もしダライ・ラマが亡くなると、どこかに転生し、あらためてこの世に生まれてくると考えられて
いますから、転生者を探し出す事が大事な作業になります。
「ダライ・ラマ」と「パンチェン・ラマ」どちらかが亡くなると、もう一方が相手の転生者を探し出す
責務を負います。
転生者はまだ幼児なので、将来のダライ・ラマやパンチェン・ラマになるように教育する責任も
負っているのです。

現在のダライ・ラマ14世も1936年、青海省アムド地方の一農家にて発見されました。
この時ダライ・ラマはわずか2歳です。5歳の時ラサに連れて行かれ、そこでダライ・ラマに
なるべく教育を受けました。

1949年、現在の中華人民共和国が成立後、中国はチベットへ進攻、併合しました。
1959年、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命、その後現在に至るまで、チベット人とチベット仏教は
中国によって徹底的に弾圧されました。
(のちほどこの辺は詳しく触れます)


■ジョカン(大昭寺) ~チベット仏教徒がめざす巡礼地

ジョカンは、ラサの旧市街の中心にある7世紀に建立された古いチベット仏教の寺院。
チベットのみならず、青海省や内モンゴルなど、チベット周辺からも巡礼者が集まってくる
チベット仏教の聖地である。

2000年に世界遺産に登録された。



この日も朝早くに起こされ、さっそくジョカンへと向かった。
ジョカンでのチベット仏教徒の巡礼風景を観るなら朝一がいいとのことで、朝8時半には
ジョカンに到着。

ジョカン前の広場にはすでにたくさんのチベット人たちが巡礼のために集まっていた。


何よりも目を惹いたのが、寺院前で一心不乱に「五体投地」を繰り返すチベット人たちの姿。

「五体投地」とは、チベット式の礼拝方法で、両方の掌を合わせて、それを初めは頭、
次に口、最後に胸に当てて、手を離したら地面にうつぶせになって手を前方に伸ばす。




母親の五体投地の横で母親を待つチベット人の子供。


五体投地を生で見たのは初めてだった。
しかもこんな間近で。

チベット仏教徒の敬虔さがひしひしと伝わってくる。
中には、これを繰り返しながら前進して、何ヶ月もかけてジョカンやポタラ宮までたどり着く
人もいるらしい。ほんとに信じられない。

ジョカン前は巡礼者で溢れていてものすごい人だかり。
チベット人巡礼者は長い列を作って、ジョカンの中に入る順番を待っている。




それに対して、我ら観光客は別の列で、あっという間にジョカンの中に入ることができた。
無関係な我らがすぐに中に入ってしまって、何かとても申し訳ない気がした。

ガイドさんの案内でジョカンの奥へ奥へと進み、本堂の中へと入った。

本堂の中は、薄暗く、バター灯明(ヤクのバターを燃料にした明かり)がゆらめいている。
そしてそのバター灯明の独特の匂い。
たくさんのチベット人たちがここでも隙間無く列を作り、真剣に祈りを捧げ、五体投地によって
全身で祈りを表現する。
さらに薄暗い本堂全体に響く経文を読む人々の声。



なんという光景だろう。
ここは、今まで僕が見たこと、感じたことのないものだった。

チベット人とチベット仏教は、中国のチベット侵略後、耐え難い苦難と苦痛に遭った。
この5、60年で寺院は破壊され、僧侶は虐殺され、一般市民も多数殺された。
その苦難は今現在も続いている。

そんな中でも、チベット人たちは、チベット仏教を心の拠り所とし、一心不乱に祈りを捧げている。

そんなチベット人たちの姿に心が打たれ、自然と涙が出てきてしまった。
これまで色んなところを旅してきたけど、涙が出たのは初めてだった。

宗教活動が制限され、自由を失ったチベットで、自分の生活・人生すべてをチベット仏教に捧げる。
ここまで彼らを突き動かすものは何だろう。



宗教心の薄い日本人には到底理解できないだろう。

本当に心打たれた。

チベット仏教の巡礼方式に習って、コルラ(祈りながら寺院などを時計回りに歩くこと)
をしながら本堂を歩き、再び本堂前へ出た。

その後、ジョカン3階に上がり、上からジョカン前広場や、五体投地をするチベット人たちを
眺めていた。




ジョカンの3階から本堂を望む。


ここからはポタラ宮も見える。


金剛のジョカンの法輪。


3階からの景色を眺めた後、再びジョカンの外へ。
相変わらずたくさんのチベット人たちが列を作り、中に入るのを今か今かと待ち続けている。


ジョカンを出た後、ジョカンの周囲を取り囲む巡礼路バルコルを見学するかと思いきや、
ガイドさんはあっさりと通り過ぎてしまった。
前日夕方にバルコルにフライングで行って、お土産なんかを買っておいてよかった。

この後行く予定のポタラ宮は見学時間が決まっており、午後2時から見学ということで、
その時間まで一旦ホテルへ戻り、休憩となった。


つづく。

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■おまけ ~チベットの現代史(1)

(1)中国、チベットへ進攻

1949年、チベットから遠く離れた北京で、毛沢東が「中華人民共和国」の成立を宣言しました。ここに中国共産党が支配する現代の中国が誕生したのです。毛沢東は、蒋介石率いる国民党軍と戦いながら、中国全土の「解放」を目指しました。この「中国全土」にはチベットも含まれていました。多くの寺院があり、僧侶が政治をするチベットは、中国共産党にすれば、遅れた封建社会そのものであり、「人民は抑圧に苦しんでいる」ということになります。実際はまったくそうではありませんでしたが。

毛沢東の新生中国は1950年1月1日、「人民解放軍はチベットを解放する」と宣言したのです。これを知ったチベット政府は、なんとか独立を維持しようと、各国に対してチベットを独立国として認定するように働きかけましたが、他国はこれを受け入れませんでした。新生中国がチベットへの主権を持っているという態度をとったのです。チベットは国際的に孤立しました。

1950年10月、人民解放軍の4万人の部隊が、長江を渡り、チベット東部に進撃します。当初チベット軍は抵抗しますが、武器も貧弱な部隊は、人民解放軍の大勢力になすすべ無く、3週間後に降伏。この戦闘で8000人のチベット兵が死亡したといわれています。

しかもチベットは一枚岩ではなく、チベットナンバー2のパンチェン・ラマ(当時13歳)の側近たちは中国共産党の側につきます。「チベット解放」を毛沢東に要請したのです。これは中国共産党にとっては絶好の“誘い水”になりました。ラサのチベット政府は、このパンチェン・ラマの行動に驚きます。チベット政府は11月、国連に対して「中国の侵略」を訴えましたが、この時朝鮮戦争が始まっていたことから、世界の関心はそちらに集まり、チベット問題は国連で取り上げられませんでした。「チベットは中国の国内問題」として扱われたのです。当時のダライ・ラマはまだ15歳。たった15歳の若者が、中国の大軍と対峙することになったのです。

人民解放軍の圧倒的な勢力を前に、ダライ・ラマの政府は妥協を余儀なくされ、「十七条協定」の署名を強要されました。この協定でチベット政府は「チベット地方政府」として存続が認められましたが、チベットは中国へ併合されました。10月、人民解放軍の2万人の兵士がラサに入りました。中国国営放送は、「チベット人民は帝国主義の攻撃から解放され、祖国である中華人民共和国に戻った」と報じました。チベットのどこにも「帝国主義勢力」などはいなかったのですが。2万人の兵士は、当時のラサの人口の半数に匹敵する大軍でした。
 
(2)ダライ・ラマ、毛沢東と会見、反中国暴動発生

中国の人民解放軍がチベット各地に駐屯すると、共産党はチベットの周辺部から「共産主義化」を始めます。僧院から権力を奪い、共産党が政治の主導を握り、「封建主義者」たちを糾弾し、自己批判を迫るのです。自己批判を迫られて罪を認めると、労働改造所に送り込まれました。

1954年、ダライ・ラマ14世(当時19歳)とパンチェン・ラマ10世(当時17歳)は、北京に招待され、毛沢東と会見しました。毛沢東の第一印象について、ダライ・ラマは自伝でこう書いています。

「握手をした瞬間、強烈な吸引力を感じた。形式ばった場であったにもかかわらず、彼はとても友好的で自然な印象を与え、私の抱いていた懸念などどこかに消えてしまいそうだった。」

当初、ダライ・ラマは毛沢東の魅力に惹かれるのです。ダライ・ラマは、毛沢東率いる中華人民共和国との提携の可能性を本気で考え始めたと述懐しています。

北京に一年近く滞在している間に、ダライ・ラマはすっかり毛沢東の虜(とりこ)になったのですが、1955年、チベットに帰る前日、毛沢東に突然呼び出されます。その席で毛沢東はこう言ったというのです。

「あなたの態度はとてもいい。だが、宗教は毒だ。第一に、人口を減少させる。なぜなら僧侶と尼僧は独身でいなくてはならないし、第二に、宗教は物質的進歩を無視するからだ。」

これを聞いたダライ・ラマは、こう書いています。「わたしは激しい嵐のような感情が顔に出るのを感じ、突然非常なおそれを抱いた。そうなのですか、あなたは結局ダルマ(法)の破壊者なのですね。とわたしは心の中で怒りを込めて嘆いた。おそれと驚きは、やがて混乱へと変わった。私という存在が芯の芯まで宗教的だということをどうして見抜けなかったのだろう。」

ダライ・ラマは、毛沢東と中国共産党が、決してチベット仏教を認めないことを、これで悟るのです。

さらにダライ・ラマは、北京からラサに帰る途中、チベット各地に立ち寄りました。そこで、共産党支配下に入ったチベットの現状を知ることになります。

「人びとに生活状態を尋ねると、こう答えた。『毛主席と、共産主義、中華人民共和国のおかげで私たちはとても幸せです。』と。しかし、その人びとの目は涙でいっぱいだった!」

ダライ・ラマは、こうして中国に対する警戒感を強く抱くようになるのです。

チベット東部の青海省は、早くから人民解放軍の支配下に入ったこともあり、「共産主義化」が急激に進められていました。要するに中国人の所有になったのです。反宗教的宣伝が繰り広げられ、僧侶たちは人前で公開自己批判を迫られます。さらに、僧侶たちは世俗化を迫られ、僧侶にとって最大の屈辱である男女の交わりまで強制されたといいます。

共産党の手法に怒って反乱を起こす人たちが相次ぎましたが、容赦なく弾圧を受け、処刑されました。こうした弾圧を逃れるため、多数の難民がラサに到着し、なかには人民解放軍に対してゲリラ闘争を繰り広げるチベット人たちも出現したのです。

人民解放軍はこれに対して弾圧で答えました。ゲリラの基地になった僧院は爆撃され、ゲリラの家族たちまでが拷問を受け、処刑されました。処刑の際、「ダライ・ラマ万歳」と叫ぶ人たちが相次いだ為、舌を抜いてから処刑するという手口までとれらました。ラサは平穏でしたが、チベット東部では容赦ない弾圧によって、多数のチベット人が虐殺されたのです。

<次回へつづく…。>


(引用:『そうだったのか!中国』(池上彰著)、『ダライ・ラマ自伝』)


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2 コメント

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 (jun)
2007-12-09 03:21:41
涙ね。インドのサイババも解脱したのにわざわざ人間に生まれ変わってる方だが、彼を生で見たものは自然と涙が出るらしい。悲しくもないのに。
仮説だけど、自分自身は決して泣いてる訳ではなく、自分の前世が泣く(数代前の過去世も含む。前世も魂は同じ自分だが記憶はなくなってるので、潜在意識的に泣く。)、もしくは自分に今憑いている守護霊が代わりに泣く、もしくはその辺にさ迷ってる霊魂が自分の身体を介して泣く。と、ある本に書いてあった。不思議。
ちなみに俺はこのチベット旅行では1回も涙は出なかった・・。(ちょっと残念?)
サイババって (new-beatle)
2007-12-10 01:07:04
今も生きてるんですか?
僕は彼をちょっとあやしく感じてたんですが…。
ジョカンでは、色んな苦難の歴史がある中で、真剣に祈る敬虔なチベット仏教徒たちに心打たれ涙が出てしまいました。

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