
■チベット三大聖湖 ヤムドク湖
チベットの旅6日目は、約3日間滞在したラサを離れ、チベット第二の都市シガツェを目指します。
この日も朝早くに起こされ、日の出前にホテルを出発。
ラサからシガツェへ向かう途中、前々日に訪れたナムツォと並び、チベット三大聖湖に挙げられる
ヤムドク湖へ向かいました。
ラサ郊外。道路の並木がキレイに紅葉している。

ラサ市内を出てしばらく行くと、ヤルツァンポ川に架かる橋を渡った。
ヤルツァンポ川は、チベットを横断し、ヒマラヤ山脈を迂回してインド・ガンジス川へと合流する大河。
ヤルツァンポ川に架かる橋には人民解放軍の兵士が立っていて、かなり警備が厳重。
ガイドから橋は写真撮るなときつく注意された。
また、ラサからシガツェへ向かう途中、何度も検問を通った。
検問を通る時間が決まっており、時間調整のため何度も余計な休憩を取ったりしたため
実際の距離よりもかなり時間がかかったと思う。
やはり、チベットでは軍事上の理由で、自由な移動が制限されているようだ。
僕らの乗った車は、しばらくヤルツァンポ川沿いを走った後わき道へ入り、くねくね山道を登り始めた。

どんどん標高が上がっていく。
あっという間に標高4000mを超えていった。
ラサで体が慣れてきたところで、再び標高の高いところへ行って、またまた息苦しさと
頭痛が始まった。

そんなことはお構いなしに車はどんどん山を登っていく。
そして標高4749mのカムパ峠に到達。
車が峠を越えると、一気に視界が広がって、目の前に澄んだブルーの美しい湖が出現した。

そう、これがヤムドク湖だ。
ヤムドク湖は標高4250m地点にあり、周囲の雪山の雪解け水が溜まって湖となった。
湖の面積は日本の琵琶湖よりやや小さいぐらい。
ヤムドク湖から南へ90km行けば、もうそこはブータンとの国境だ。
ヤムドク湖を見渡せるカムパ峠で車を降りた我らは、さっそく周囲を散策。

しかし、ものすごく冷たく強い風で凍えそうだった。
真っ青な湖面と、湖の奥にそびえる雪山のコントラストがほんとに素晴らしい。
さすがチベット三大聖湖。神秘的な景色だ。
この峠には記念撮影用のヤクがいて、5元でヤクに乗って記念撮影。

くねくね山道を時間をかけて登ってきてやっと到着したヤムドク湖だが、あまりの寒さに
長居はできず、約30分ほどで再び車に乗り込み山を降り、この日の目的地シガツェを目指した。
■おまけ ~チベットの現代史(3)
(6)パンチェン・ラマが二人になった!
チベット仏教の最高指導者がダライ・ラマであれば、ナンバー2はパンチェン・ラマです。
歴代のパンチェン・ラマは、チベット第二の都市シガツェのタシルンポ寺院に住み、時にはラサのダライ・ラマと対立をしました。
パンチェン・ラマ10世は、ダライ・ラマ14世がインドに亡命した後もチベットに留まりました。中国政府への妥協の姿勢をとりました。こうした妥協的な態度が、多くのチベット人からは「裏切り者」と見られていました。
ところが、1960年代後半から文化大革命の嵐がチベットでも吹き荒れるようになると、パンチェン・ラマはついに立ち上がります。1962年、パンチェン・ラマは、過去の中国支配の被害の実態を告発する報告書を書き上げ、周恩来首相に提出したのです。パンチェン・ラマ24歳の決断でした。
パンチェン・ラマのこの行動は、毛沢東を激怒させました。これ以降、パンチェン・ラマは北京で監禁されるのです。1978年に監禁が解かれた後も北京に滞在させられました。1989年1月、文化大革命で破壊されたシガツェのタシルンポ僧院の仏塔が再建された際の儀式を勤めた後、パンチェン・ラマは急死してしまいました。50歳の若さでした。
中国政府は、パンチェン・ラマの遺体をミイラ化してタシルンポ僧院に建立した宝塔に奉納しました。
パンチェン・ラマ10世が亡くなると、その転生者を探さなくてはなりません。しかし、問題はパンチェン・ラマの転生者を誰が認定するか、ということです。チベット仏教においては、もちろんダライ・ラマが認定する事になります。
ダライ・ラマ14世は、チベットに留まっている信者に指示して転生者を捜索させ、1995年5月、チベットに住む6歳のゲンドゥン・チューキ・ニマを、パンチェン・ラマの転生者として認定し、公表しました。すると中国政府は、発表直後にこの子を拉致。以来、この子は行方不明になったのです。
一方、中国政府は、この年の11月、独自にギェンツェン・ノルブという子をパンチェン・ラマ11世に認定しました。宗教を認めない中国共産党が主導して転生者を認定するという、実に奇妙なことをしたのです。かくて、「パンチェン・ラマ11世」が二人存在するという事態になりました。 ギェンツェン・ノルブの両親は、どちらも中国共産党の党員です。ギェンツェン・ノルブは現在、北京に滞在し、中国共産党の教育を受けています。
将来、ダライ・ラマが亡くなったときには、パンチェン・ラマがダライ・ラマの転生者を認定する権限を持ちます。その時は、中国政府が認定し、言う事を聞く「パンチェン・ラマ」に「ダライ・ラマ」を認定させる事になるでしょう。それによって、中国政府によるチベット完全支配が完成するのです。
(つづく…)
■チベット第二の都市シガツェ
ヤムドク湖を後にした我らは、再びヤルツァンポ川沿いをひたすら西へ走っていった。

途中、何度も時間調整の休憩を取った。
ちなみに休憩所のトイレは、トイレとは名ばかりの、屋根が無く、壁と穴があるだけの粗末なもの。
しかもめっちゃ汚い。
男はまだいいけど、女の子は大変だと思う。Jinsen(♀)はよく耐えたと思う。
トイレとGaomuさん。

休憩中。

ひたすら西へ西へと車は走り続け、午後3時、やっとシガツェ市内へと到着。
シガツェは、ラサの西約280kmに位置し、標高3900mの所にあるチベット第二の都市。
チベットからネパールへ向かう場合に必ず足を止める交通の要所で、昔から宿場町としても
発展してきた。
また、ラサが「ダライ・ラマ」の拠点であれば、シガツェは「パンチェン・ラマ」の拠点であった。
パンチェン・ラマは、このシガツェのタシルンポ寺院にて、政治・宗教を司った。
シガツェに到着した我らは、そのままタシルンポ寺院へと向かった。
■パンチェン・ラマとタシルンポ寺
シガツェ市街区の西、チベット人居住区にあるタシルンポ寺は、ダライ・ラマ1世によって創建され、
その後、ダライ・ラマに次ぐチベット仏教ナンバー2の歴代パンチェン・ラマによる政治・宗教の
中心地として繁栄してきた。
現在でも1000人近くの僧が生活しており、チベットで最も活発な寺院といわれている。
長い移動と軽い高山病でふらふらな状態での見学だったが、なんとか力を振り絞り、寺院の見学をした。
タシルンポ寺入り口。

寺院の中は、入り組んだ路地と、チベット様式の建物がたくさん建っている。

中へと進む。




そして、いたるところで修行中の若い僧たちが働いているのを目にすることができた。


それにしても、山のふもとにあるタシルンポ寺の階段を登って行くのは辛かった。
ヤムドク湖でもはしゃいでしまったのがダメだったかな。。
タシルンポ寺の中には、ひときわ目立つ豪華な建物がある。
それは、1989年に亡くなったパンチェン・ラマ10世の霊塔だ。

これは、中国政府が10億円かけて1994年に建立したものだそうだ。
中に入ると、巨大な仏像と、そこに、今は亡きパンチェン・ラマ10世の写真が飾ってある。
パンチェン・ラマ10世の写真の隣には、中国政府が認定したパンチェン・ラマ11世青年の写真が飾ってあった。
パンチェン・ラマ11世は、現在北京で、共産党による教育を受けている。
もちろんガイドが、ダライ・ラマによって認定され、その後中国政府によって拉致され行方不明になった
本来のパンチェン・ラマについてなどを話することはない。

ここで修行する僧たちはこの事情をどう思っているのだろうか。
もちろん、僧たちがこの件について話をする事、ダライ・ラマの写真を掲げることは堅く禁止されている。
宗教の自由はここ中国には存在しない。
タシルンポ寺の建物にデカデカと掲げられている、江沢民前中国国家主席の言葉、『護国利民』。

チベット仏教の施設はすべて中国共産党の支配下にある。
パンチェン・ラマ10世の霊塔のほか、歴代パンチェン・ラマの仏塔が点在している。

タシルンポ寺はかなり広い。

仕事をサボっている若い僧。働け!

巡礼に来た老人の僧。

タシルンポ寺をひと通り見学した我らは、街の東の外れにあるホテルへと向かった。
ここは漢民族エリアで、何も無い殺風景な街並み。

この日もマズイ晩飯。
ほどほどに食べて、後で自分らで別の店に食べに行こうとしてたら、あまり食べない我らを見て、
ガイドさんたちがすごく心配してくれて、僕らが比較的食べた料理をもう一度注文してくれたりと
とても優しくしてくれた。
これはこの旅の間ずっとだった。
でもその優しさが申し訳なかった。。べつに食欲が無いからではないんですよ、ガイドさん。
心配してくれてありがとう。
夕食後、我らは再び街へ出て、ホテル近くの火鍋屋さんで2回目の夕食を取った。
が、この火鍋、おいしいのはおいしいのだけど、めちゃめちゃ辛い!!
辛さのランクを「微辛」にしてもらったけど、まじで辛い!!

体調のよろしくない僕はあまり食べられなかった。
でも辛いもの好きなGaomuさんはかなり食べてた。おかげで翌日下痢になったようです。。
そんな感じでシガツェの夜は更けていきました。
キレイな満月。

つづく。
チベットの旅6日目は、約3日間滞在したラサを離れ、チベット第二の都市シガツェを目指します。
この日も朝早くに起こされ、日の出前にホテルを出発。
ラサからシガツェへ向かう途中、前々日に訪れたナムツォと並び、チベット三大聖湖に挙げられる
ヤムドク湖へ向かいました。
ラサ郊外。道路の並木がキレイに紅葉している。

ラサ市内を出てしばらく行くと、ヤルツァンポ川に架かる橋を渡った。
ヤルツァンポ川は、チベットを横断し、ヒマラヤ山脈を迂回してインド・ガンジス川へと合流する大河。
ヤルツァンポ川に架かる橋には人民解放軍の兵士が立っていて、かなり警備が厳重。
ガイドから橋は写真撮るなときつく注意された。
また、ラサからシガツェへ向かう途中、何度も検問を通った。
検問を通る時間が決まっており、時間調整のため何度も余計な休憩を取ったりしたため
実際の距離よりもかなり時間がかかったと思う。
やはり、チベットでは軍事上の理由で、自由な移動が制限されているようだ。
僕らの乗った車は、しばらくヤルツァンポ川沿いを走った後わき道へ入り、くねくね山道を登り始めた。

どんどん標高が上がっていく。
あっという間に標高4000mを超えていった。
ラサで体が慣れてきたところで、再び標高の高いところへ行って、またまた息苦しさと
頭痛が始まった。

そんなことはお構いなしに車はどんどん山を登っていく。
そして標高4749mのカムパ峠に到達。
車が峠を越えると、一気に視界が広がって、目の前に澄んだブルーの美しい湖が出現した。

そう、これがヤムドク湖だ。
ヤムドク湖は標高4250m地点にあり、周囲の雪山の雪解け水が溜まって湖となった。
湖の面積は日本の琵琶湖よりやや小さいぐらい。
ヤムドク湖から南へ90km行けば、もうそこはブータンとの国境だ。
ヤムドク湖を見渡せるカムパ峠で車を降りた我らは、さっそく周囲を散策。

しかし、ものすごく冷たく強い風で凍えそうだった。
真っ青な湖面と、湖の奥にそびえる雪山のコントラストがほんとに素晴らしい。
さすがチベット三大聖湖。神秘的な景色だ。
この峠には記念撮影用のヤクがいて、5元でヤクに乗って記念撮影。

くねくね山道を時間をかけて登ってきてやっと到着したヤムドク湖だが、あまりの寒さに
長居はできず、約30分ほどで再び車に乗り込み山を降り、この日の目的地シガツェを目指した。
■おまけ ~チベットの現代史(3)
(6)パンチェン・ラマが二人になった!
チベット仏教の最高指導者がダライ・ラマであれば、ナンバー2はパンチェン・ラマです。
歴代のパンチェン・ラマは、チベット第二の都市シガツェのタシルンポ寺院に住み、時にはラサのダライ・ラマと対立をしました。
パンチェン・ラマ10世は、ダライ・ラマ14世がインドに亡命した後もチベットに留まりました。中国政府への妥協の姿勢をとりました。こうした妥協的な態度が、多くのチベット人からは「裏切り者」と見られていました。
ところが、1960年代後半から文化大革命の嵐がチベットでも吹き荒れるようになると、パンチェン・ラマはついに立ち上がります。1962年、パンチェン・ラマは、過去の中国支配の被害の実態を告発する報告書を書き上げ、周恩来首相に提出したのです。パンチェン・ラマ24歳の決断でした。
パンチェン・ラマのこの行動は、毛沢東を激怒させました。これ以降、パンチェン・ラマは北京で監禁されるのです。1978年に監禁が解かれた後も北京に滞在させられました。1989年1月、文化大革命で破壊されたシガツェのタシルンポ僧院の仏塔が再建された際の儀式を勤めた後、パンチェン・ラマは急死してしまいました。50歳の若さでした。
中国政府は、パンチェン・ラマの遺体をミイラ化してタシルンポ僧院に建立した宝塔に奉納しました。
パンチェン・ラマ10世が亡くなると、その転生者を探さなくてはなりません。しかし、問題はパンチェン・ラマの転生者を誰が認定するか、ということです。チベット仏教においては、もちろんダライ・ラマが認定する事になります。
ダライ・ラマ14世は、チベットに留まっている信者に指示して転生者を捜索させ、1995年5月、チベットに住む6歳のゲンドゥン・チューキ・ニマを、パンチェン・ラマの転生者として認定し、公表しました。すると中国政府は、発表直後にこの子を拉致。以来、この子は行方不明になったのです。
一方、中国政府は、この年の11月、独自にギェンツェン・ノルブという子をパンチェン・ラマ11世に認定しました。宗教を認めない中国共産党が主導して転生者を認定するという、実に奇妙なことをしたのです。かくて、「パンチェン・ラマ11世」が二人存在するという事態になりました。 ギェンツェン・ノルブの両親は、どちらも中国共産党の党員です。ギェンツェン・ノルブは現在、北京に滞在し、中国共産党の教育を受けています。
将来、ダライ・ラマが亡くなったときには、パンチェン・ラマがダライ・ラマの転生者を認定する権限を持ちます。その時は、中国政府が認定し、言う事を聞く「パンチェン・ラマ」に「ダライ・ラマ」を認定させる事になるでしょう。それによって、中国政府によるチベット完全支配が完成するのです。
(つづく…)
■チベット第二の都市シガツェ
ヤムドク湖を後にした我らは、再びヤルツァンポ川沿いをひたすら西へ走っていった。

途中、何度も時間調整の休憩を取った。
ちなみに休憩所のトイレは、トイレとは名ばかりの、屋根が無く、壁と穴があるだけの粗末なもの。
しかもめっちゃ汚い。
男はまだいいけど、女の子は大変だと思う。Jinsen(♀)はよく耐えたと思う。
トイレとGaomuさん。

休憩中。

ひたすら西へ西へと車は走り続け、午後3時、やっとシガツェ市内へと到着。
シガツェは、ラサの西約280kmに位置し、標高3900mの所にあるチベット第二の都市。
チベットからネパールへ向かう場合に必ず足を止める交通の要所で、昔から宿場町としても
発展してきた。
また、ラサが「ダライ・ラマ」の拠点であれば、シガツェは「パンチェン・ラマ」の拠点であった。
パンチェン・ラマは、このシガツェのタシルンポ寺院にて、政治・宗教を司った。
シガツェに到着した我らは、そのままタシルンポ寺院へと向かった。
■パンチェン・ラマとタシルンポ寺
シガツェ市街区の西、チベット人居住区にあるタシルンポ寺は、ダライ・ラマ1世によって創建され、
その後、ダライ・ラマに次ぐチベット仏教ナンバー2の歴代パンチェン・ラマによる政治・宗教の
中心地として繁栄してきた。
現在でも1000人近くの僧が生活しており、チベットで最も活発な寺院といわれている。
長い移動と軽い高山病でふらふらな状態での見学だったが、なんとか力を振り絞り、寺院の見学をした。
タシルンポ寺入り口。

寺院の中は、入り組んだ路地と、チベット様式の建物がたくさん建っている。

中へと進む。




そして、いたるところで修行中の若い僧たちが働いているのを目にすることができた。


それにしても、山のふもとにあるタシルンポ寺の階段を登って行くのは辛かった。
ヤムドク湖でもはしゃいでしまったのがダメだったかな。。
タシルンポ寺の中には、ひときわ目立つ豪華な建物がある。
それは、1989年に亡くなったパンチェン・ラマ10世の霊塔だ。

これは、中国政府が10億円かけて1994年に建立したものだそうだ。
中に入ると、巨大な仏像と、そこに、今は亡きパンチェン・ラマ10世の写真が飾ってある。
パンチェン・ラマ10世の写真の隣には、中国政府が認定したパンチェン・ラマ11世青年の写真が飾ってあった。
パンチェン・ラマ11世は、現在北京で、共産党による教育を受けている。
もちろんガイドが、ダライ・ラマによって認定され、その後中国政府によって拉致され行方不明になった
本来のパンチェン・ラマについてなどを話することはない。

ここで修行する僧たちはこの事情をどう思っているのだろうか。
もちろん、僧たちがこの件について話をする事、ダライ・ラマの写真を掲げることは堅く禁止されている。
宗教の自由はここ中国には存在しない。
タシルンポ寺の建物にデカデカと掲げられている、江沢民前中国国家主席の言葉、『護国利民』。

チベット仏教の施設はすべて中国共産党の支配下にある。
パンチェン・ラマ10世の霊塔のほか、歴代パンチェン・ラマの仏塔が点在している。

タシルンポ寺はかなり広い。

仕事をサボっている若い僧。働け!

巡礼に来た老人の僧。

タシルンポ寺をひと通り見学した我らは、街の東の外れにあるホテルへと向かった。
ここは漢民族エリアで、何も無い殺風景な街並み。

この日もマズイ晩飯。
ほどほどに食べて、後で自分らで別の店に食べに行こうとしてたら、あまり食べない我らを見て、
ガイドさんたちがすごく心配してくれて、僕らが比較的食べた料理をもう一度注文してくれたりと
とても優しくしてくれた。
これはこの旅の間ずっとだった。
でもその優しさが申し訳なかった。。べつに食欲が無いからではないんですよ、ガイドさん。
心配してくれてありがとう。
夕食後、我らは再び街へ出て、ホテル近くの火鍋屋さんで2回目の夕食を取った。
が、この火鍋、おいしいのはおいしいのだけど、めちゃめちゃ辛い!!
辛さのランクを「微辛」にしてもらったけど、まじで辛い!!

体調のよろしくない僕はあまり食べられなかった。
でも辛いもの好きなGaomuさんはかなり食べてた。おかげで翌日下痢になったようです。。
そんな感じでシガツェの夜は更けていきました。
キレイな満月。

つづく。
あのトイレは初体験ですごく面白かったよ。谷底めがけて自由落下するからね。jinsenさんはよくあそこでしゃがめたな^^
火鍋はかなり辛くてうまかったけど、油断したっす。一人高山病なしで調子のってたらしい。速効でした・・。2~3時間後にはきてたね・・。自分でもびっくりだす。
火鍋みんなで食べに行った時のあのお化けの話を思い出しました。みんなマジで怖がってたね。今思い出し笑いしてます^^でも本当にうじゃうじゃいたよ、マジで!
もう日本に帰っていることだろうと思います。
おトイレ写真使わせていただきました。ありがとうございます。
火鍋の後の怖い話はおもしろかったですね。今はよき思い出です。しかし、僕は何も気配を感じませんでした。。
1年間お疲れ様でした!また連絡しますんで!