博物館の3階部分では、イギリス植民地・香港が成立してから近代の発展の様子、日本占領時代を経て、
戦後の都市化、そして中国返還までの香港の歴史を学ぶことができます。
■アヘン戦争と香港の割譲
18世紀、世界の中でいち早く産業革命を成功させたイギリスは、世界各地へ進出し、貿易、植民地化をすすめていました。
中国では香港の北にある広州にイギリス商館を建て、ここを中心に貿易を行っていました。
当時、イギリスでは上流階級を中心に喫茶が大流行し、その茶葉を中国から大量に輸入していました。
イギリスから中国へ輸出できるものは少なく、輸入超過となり、大量の銀がイギリスから流出してしまいました。
この貿易赤字を是正すべく、イギリスが目を付けたのが麻薬の一種であるアヘンでした。
イギリスはインドで生産したアヘンを中国へ輸出、中国国内ではアヘン吸引の悪癖が急速に広がり、
あっという間に貿易収支は逆転。大量の銀が中国から流出していきました。
当時の中国の支配王朝であった清王朝は、1839年に林則徐という官僚を特命大臣として広州へ派遣。
アヘンの徹底取締りを行うこととなりました。
林則徐。
林則徐は、イギリス商人が持っていたアヘンを没収、これをまとめて海水(食塩水)と消石灰による化学処理によって処分しました。
アヘン処分の様子がミニチュアで展示されています。
この時に処分したアヘンの総量は1400トンを超えたといいます。
当然、アヘン輸入規制を推進する清王朝とイギリスとの間に紛争が起きました。
イギリス国会は1票差という僅差で軍の派遣を決定。1839年、ついにアヘン戦争が勃発しました。
アヘン戦争当時使われていた大砲を再現。
結果、1841年にイギリス軍は香港島を占領。
翌1842年に締結された南京条約によって、香港島はイギリスに永久割譲されました。
南京条約のレプリカ。(本物は台湾とイギリスにあります)
ここに、イギリス植民地「香港」が誕生し、香港の歴史が始まりました。
続いて1856年に勃発した第二次アヘン戦争(アロー号戦争)の結果、1860年に北京条約が締結され、
九龍半島もイギリスに割譲されることとなりました。
北京条約のレプリカ。(本物は同じく台湾とイギリスにあります)
19世紀末になると、弱体化する清王朝に対して欧米列強国は中国への進出をさらに強めました。
1898年、イギリスは清王朝に迫り、九龍半島以北・深セン河以南の新界地区について、99年間租借されることとなりました。
こうして現在も続く香港の領域が確定したのでした。
■イギリス植民地下での初期の発展
まずこの展示室に入ると、初期のセントラルの港を再現した展示物が目に入ります。
古い九龍のパノラマ写真を背景に、港岸には古いヨーロッパ式蒸気船が停泊しています。
さらに港に隣接して建つ3階建ての洋館が目を引きます。お金かけますねぇ。
香港は山がちの狭い場所です。
イギリス植民地化後、人口の増加に伴い、断続的に海岸線の埋め立てが進められてきました。
水色部分は2000年時の海岸線です。
埋め立てでかなり土地が広がったことが分かりますね。九龍半島はかつては細長かった。
さらにこの香港歴史博物館がある尖東地区はかつて海でした。
中国大陸におけるイギリス資本主義の拠点となった香港では、イギリス政府による植民地統治機関である香港政庁のもとで、
19世紀末から20世紀初にかけて中国華南貿易の基地として大きく発展していきました。
20世紀初頭のセントラルの街並み。ヨーロッパのようだ。
アヘン貿易で有名なジャーディン・マセソンやデント商会など、イギリス系の貿易会社が香港に拠点を構え、
さらに、新しい職や商売を求めて多くの大陸中国人が香港へ移り住み、イギリス人の補佐役としてインド人も香港に移ってきて、
植民地前は静かな漁村に過ぎなかった香港の人口は大幅に増加しました。
3階建ての洋館を抜けると、香港の古い通りが再現されています。
茶葉問屋、裁縫店、米店、雑貨店、茶楼、郵便局、銀行、商社…などが軒を連ね、
売り子の声やトラムの行き交う音、ほのかに黄色く灯る街灯など、19世紀末から20世紀初頭の香港の
街の様子がよく分かるよう再現されています。
雑貨店。
茶葉問屋。
初期の郵便局を再現。
「押」は質屋。今の香港の街中にもこの「押」の看板を見かけます。
裁縫店。
米店。
月餅などを売っているお菓子屋。
レトロなパッケージです。
伝統的な漢方薬のお店。
1865年に創設されたイギリス資本の香港上海銀行(HSBC)が、その多くをイギリスが植民地統治下においていた極東最大の銀行に発展して、
後の1935年には香港ドルが香港上海銀行によって発券されました。
再現された香港上海銀行の支店。
このエリアは香港歴史博物館の一番の見所ですね。
19世紀末のセントラル~上環の港。
細い路地もあって、当時の街の雰囲気が伝わってきます。
香港歴史博物館の各エリアには、上映スクリーンがあって、映像を使っての歴史解説を見ることができます。
ここは香港の戦前までの公共交通についての映像資料が上映されていました。
ホンモノの古いトラムも展示されています。
レトロな雰囲気です。
イギリス植民地下で貿易港として大いに発展した香港でしたが、
日中戦争、そして太平洋戦争と続く世界大戦に巻き込まれていくこととなります。
■日本占領下の香港
1941年に太平洋戦争が勃発すると、日本軍はイギリス領土である香港への侵攻を開始しました。
同年12月25日、イギリス軍は日本軍に降伏。香港は以後3年8ヶ月の日本統治時代を迎えました。
博物館では、暗い防空壕のような作りになっていて、戦争当時の雰囲気を再現しています。
香港の街に入城する日本軍。
ピーク(山頂)から香港の街を眺める日本兵。
香港政庁はこの日本に占領された日を「ブラック・クリスマス」と呼んでいます。
日本軍は九龍半島先端にあるペニンシュラ・ホテル(半島酒店)を東亜ホテルと改称して香港総督府を設置しました。
イギリス式に統治されていた香港で反イギリス化政策を実施して、公用語としていた英語の使用を禁止して、
代わりに日本語の使用を指導しました。
「ネイザンロード」のようなイギリス式の主要地名を「香取通り」のような日本式の地名に改称しイギリス色を払しょくしようとしました。
日本語学習を勧めるポスター。
ラジオ体操を勧めるポスター。「これで体を作りましょう!」
イギリス支配層が住んでいたピーク(山頂)を走るピークトラムを眺める日本のご婦人。
日本軍は、これまでの香港ドルに代わる貨幣として軍票を大量に発行し、無計画に流通させたために香港経済に深刻なインフレを引き起こしました。
当時の軍票。
更にイギリス系企業や銀行が営業を停止、中国本土との貿易が大幅に減少しただけでなく、東南アジアやオーストラリアなどの
イギリス植民地との貿易が完全に止まったために、香港は経済的苦境に立たされてしまった。
また、占領前に160万人いた人口も、中国人住民を中国本土へ強制退去させるなどしたため大幅に減少。
終戦時には60万人にも減少してしまいました。
日本軍が香港を占領した後、日本の戦況は悪化。
さらに日本軍の政策による経済混乱により、香港住民は苦しい生活を強いられたといいます。
当時の日本と同じように倹約を求めるポスターが香港の街にも掲げられていた。
1945年8月15日。
日本はイギリス、中国を含む連合国に対して無条件降伏。
海軍中将 篠田翔太郎と、陸軍少将 岡田梅吉が香港でサインした降伏文書。
蒋介石が率いる南京国民政府は、日本軍の降伏を受けてイギリスに対して香港の返還を求めました。
しかし、イギリスは受け入れず、南京国民政府軍が香港に到着するよりも早く、イギリスの太平洋艦隊を香港に到着させました。
南京国民政府は、これに強く反発しましたが、結局、中国国内で国共内戦が激化したために、香港問題はそのままになりました。
こうして、日本軍が撤退した後、香港は再びイギリスの支配下に戻りました。
香港歴史博物館の日本占領時の展示は、中国本土の反日剥き出しの反日博物館と違って、
事実を淡々と説明している印象を受けました。
ただ、3年8ヶ月の日本占領時代は、暗い歴史として香港の人たちの心に残っているようです。
ここから、戦後の混乱期の後、韓国、台湾、シンガポールとともにアジアの四小龍と呼ばれるまでに発展した高度成長期から、
1997年の中国返還へと香港の歴史は続いていきます!
(つづく)
人気ブログランキングへ
http://news.webshots.com/album/579358859peMKjn
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/e0011938_16494167[1].jpg
といった惨憺たる虐殺死体と化した
一方、救助に奔走したのは米国のみであった
なお、米国機関で改めて調査を行ったところ、御巣鷹での救助に行って日露勢力に撃墜された米軍機は乙女湖に沈められていることが新たに分かった。乙女湖に沈められている救助の米軍機の上に、攻めてきて墜落したソ連軍機mig25が沈められた状態となっている。
また、乙女湖への水棺を目撃した地域住民や登山者が日本の山梨県警察及び警察予備隊北富士に惨殺され、クリスタルライン沿道に埋設されている惨殺遺体は500体を越える大変な事態となっていたことが新たに分かった。例えば、日本の警察予備隊北富士に虐殺されクリスタルライン沿道に埋められていた惨殺遺体を米軍で調査したところ、東京23区内にある有名高校の女学生17名と引率の先生3名であることが分かった。
また、昭和天皇がご搭乗されていたことが新たに分かった。
JAL123便にミサイルを打ち込んだF4は日本の警察予備隊習志野の小林パイロットであった。
http://adoi.hatenablog.com/entry/2019/08/24/170856