__ Knowledge、大文字に特別な意味を込めました
長年にわたって探し求めてきた 「サトリ (悟り・覚り) 」 とゆーか、長年にわたって苦しめられてきた 「サトリ」 について……
伊勢白山道で霊的な基本を学んだ御蔭で、つまり 「サトリ」 なんて、そんなに大仰な大したものじゃないよと認識した上で、それでも 「あるがままに」 自由にあるために何としても欠かせない、私が感じた 「真理への知慧 (Knowledge) 」 をまとめておきます
伊勢白山道推薦本である、 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの〜時間以前からあった永遠の真実』 の中から、シンプルによく要約されてある
第22章 「自己覚醒は努力がいらない」
に沿ってまとめます
他ならぬこの本が、聖典級に偉大な処は、ジュニャーニ (賢者) の系統であるにも拘らず、ニサルガ親爺も著者のラメッシも共に 「真我」 とゆー用語を遣っていないことです
真我は絶対主体であり対象にはなり得ないために、それ自体をコトバで表現できず ( 「真我は〇〇である」 と言うことは出来ない) 、否定的表現のみが可能 ( 「〇〇は真我ではない」 と言うことは出来る) であるため、 「真我」 とゆーコトバ抜きでも対話には困らないわけではあるが……
ラメッシは、解説する場合には、 「意識」 とゆーコトバで統一して、 「マインド (心と訳される) 」 つまり自我的なものと真我を一緒くたにしない配慮がなされている
たとえば、伊勢白山道を例にとると、心の奥底に内在神 (真我) が隠れているといった表現をとっている
[ ※ 伊勢白山道は引用禁止なので私の理解の範囲内で勘弁してもらいたい ]
心の一部が真我とか、自我が真我に 「なる」 と勘違いしている読者がいっぱい出てくるわけである、存在とは 「在る」 ものであり、 「成る」 ものでは決してない
つまり、存在と仮象 (現象) との峻別が出来ていない
「こころ」 などとゆー定義の定まらない不安定なコトバをつかっている処に、そーした致命的な誤解が生じる原因があるのである
ニサルガ親爺の口から出るコトバは、数学的な精妙さをもって一厘のゴマカシも感じられない、無学な煙草屋のおやじなのに、その御コトバはジュニャーニ (賢者) のそれなのだ
伊勢白山道の霊視では、もう一世生まれ変われば仏陀となれるそーだ、つまり神の恩寵による 「最後の一押し」 が今生でなかったものだから、聖ラマナ・マハリシの境涯には今ひとつ及ばないよーだ
ニサルガ親爺の口吻には、 「感謝」 が感じられないと言った伊勢白山道読者がおられた、最後の究極では「感謝」の形をした自霊拝つまり神の恩寵といったサイクルが必要不可欠なよーだ
かといって、聖ラマナの書物の方がよいかとゆーと然にあらず、聖ラマナは 「知識の道 (ジュニャーニ) 」 と「帰依の道 (バクティ) 」 とがご自分の経験のなかで渾然一体となっていて、ニサルガ親爺の如き整合性をもたない処があるのだ
代々賢者の道を辿った、ジュニャーニの系統に連なるニサルガ親爺の徹底ぶりには及ばない処がたしかにある、聖ラマナが詩的であり、ニサルガ親爺があくまでも散文的であるのはそーした立ち位置 (視座) の違いを証しているのかも知れない
とにもかくにも、この 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』 は、オカルト (隠秘学) に彷徨った魂に安らぎをもたらしたことは間違いない
そして、わたしはこの書を熟読玩味して紙背に徹するほどに精読した結果、畏れ多くも推薦してくださったリーマンさんの真理表現に疑問を抱くよーになったのである
伊勢白山道に公然と文句をつけられるほどの存在論的確信にいたる基盤をつくってくだすった得難い書である、戦役とか無人島に一冊だけ持っていけるとしたら、わたしは迷いなくこの書を択ぶだろー
【画像= 私なりに一言でいえば、
「霊的探求の旅を終らせる書」 である、真実へのアプローチを教えるアドヴァイタ (非二元) の智慧、いわば 「最後の知識 (Knowledge) 」 とでも云えそーなシンプルな観方を伝える、ここから先はコトバ (観念化の道具) が役に立たないどころか、かえって邪魔になる】
> ‥‥ 、マハラジはしばしば訪問者たちに強く勧告します。
「あなた方は言われたことについて何を質問してもいいが、ただし 自分自身を肉体と一体化せずに 質問しなさい」
> なぜマハラジは、質問者が肉体との一体化を解除するべきだと主張するのでしょうか?
その直接的な答えとは次のようになるでしょう〜〜なぜなら、
一つの対象物はその主体を理解することを想定できないからです。
つまり影は、自分がその影である本体を理解することが不可能だということです。
自分自身を自立的実体として肉体 (それは単なる肉体精神装置、一個の対象物にすぎません) と一体化している観念的 「個人」 がいるかぎり、対象物にまったく影響されない絶対について、人が何かを理解することは可能でしょうか?
‥‥ 私なりの [註] をいれます
・ 「一つの対象物 (object、客体) 」 =自我としての自分自身
・ 「その主体(subject)」 =真我
・ 「影」 =光に照らされたときの本体 (真我) の影、つまり自我
・観念的 「個人」 =自我
・ 「対象物にまったく影響されない絶対」 = 自我および自我の創り出す対象物にまったく影響をうけない絶対主体の真我、
真我 (絶対的に見る主体) は 対象 (見られるもの・客体) になることがない、
それゆえに 「真我は〇〇である」 と現象世界の言葉で言うことが不可能である…… この場合、真我 = 〇〇であるならば、言葉で限定された対象である〇〇が真我であることになる
しかし、真我 ≠ 対象 (物) であるからにして
「〇〇は真我ではない」 と否定的表現をすることは可能だが、 「〇〇が真我である」 または 「真我は〇〇である」 と限定 (言葉の制約による) して言うことは出来ない
とすれば、現象世界で私たちの知覚できるものは (私たちが主体となって、対象として知覚できるものは) すべて、当然ながら真我ではない
> 「観念は思考から生じ、これらが一束になってマインドとして知られているものを形成する」 と彼 (マハラジ) は言います。
「考える」 とは、観念化、マインドの中で対象物を創造することを意味し、これが 束縛 です。
言葉は根本的に二元的で観念的なので、悟りへの妨げとなります。言葉はコミュニケーションのための一時的目的のためだけに役立つことができますが、そのあとではそれらは束縛です。
観念的に考えることを取り除く ことが、悟り、目覚めという意味であり、それ以外では、誰もそれを 「達成」 したり、 「獲得」 したりすることはできません。
「悟り」 は、どんなときにもどんな場所でもどんな人によっても、獲得されるべき 「物」 ではないのです。
マハラジの言葉を矢のように貫通させることが、この 【 直観的理解 】 をもたらし、それが悟りです!
> …… マハラジは 「 (直観的理解の) 効果を上げるためには、私の言葉が矢のように貫通しなければならないし、私は意識に話しているのであって、どんな個人に話しているのでもない」 と言います。
‥‥ 実に簡単な定義です
ヒトは 「考えること」 で、それを観念化します
そしてその観念を受容れることによって、自分自身を自ら束縛しています
例えば、グルジェフが皮肉めいて云っていたのは、
何の前触れもなく女が暴れるとき、毎度苦慮する男はそれを 「ヒステリー」 と名づけた、しかし、そのよーに命名 (概念をつくる) したからといって……
それが 「ヒステリー」 だと分かったところで (被害者は自分だけではないとゆー慰めは得られるが) 、それは一体何なのか、何が原因で起こるのか分かったわけではない、ただの対象化であり観念化であるに過ぎない
こんな事は世の中一杯ある、観念の遊戯・言葉遊びみたいなものである
> 「あなたが言わんとしていることは、 『私たち』 それ自身が観念的に考えることの一部であるということですね? 完全なる幻想ということですね ?」
この段階でマハラジは、彼がいつも言ってきたことを繰り返しますーー すべての知識は観念的であり、それゆえ、真実ではない
このことを直観的に認識し、知識の探求をあきらめなさい。
> …… 最初にまず取り除くべき障害がある。
「考えること」 、 「観念化」 、 「対象化」 、すべてが停止しなければならない。
なぜだろうか?
それは あるがまま は対象性のほんのわずかな影響も受けないからだ。それは、すべての対象物の主体であり、一つの対象物ではないので観察されることができない。
目はそれ以外のすべてを見ることができるが、それ自身を見ることはできない。
‥‥ 「あるがまま」 とは真我の状態、真我の絶対主体としての能動性を 「目」 で例えている (よく 「太陽」 にも喩えられる)
実際には、この絶対主体ですら真我には当てはまらない、分離がないから主体も客体もない
真我は、真我を知らない、真我を意識しない
「考えること」 「観念化」 「対象化」 は、真我にはまったく繋がらない、真我に決して導かない
> 「人は観念化を止めるために、何をするべきか、どんな努力をしなければならないのか?」 という質問に対するマハラジの答えは次のことですーー何もない。どんな努力もない。誰が努力をするというのか?
母親の子宮の中で小さい精子から完全に成長した赤ん坊になるために、あなたはどんな努力をしたのだろうか?
そしてそのあと、数ヶ月間であなたは無力な赤ん坊から幼児へと成長したが、あなたが自分の存在を感じるためにどんな努力をしたのだろうか?
> 自分の本質に覚醒することは、現象的努力を必要としない。悟りは達成されることも強制されることもできない。
それはそうする機会が与えられるとき、観念による障害が止まるときだけ、起こる ことができるだけだ。
それは、それが現れることができる空っぽな空間が与えられるときだけ現れることができる。
もし誰か他の人がこの家に住んでいるとしたら、私はまずそれを空っぽにしなければならない。
もし観念的 「私」 がすでに占拠しているなら、どうやって悟りが入って来ることができるだろうか?
> 考えることを止めようと積極的に努力をすることも無駄な練習であるし、それ以外のほかの種類の 「努力」 もそうである!
唯一の効果的努力は 真実を瞬間的に直観的に理解すること である。偽者を偽者と見れば、残るものが真実である。
今、実存するものが消えるとき、今、不在のものが現れるのだ。それくらい単純である。
実存するものの不在がその唯一の答えである。
‥‥ 「私」 を家で喩えて、すでに 「自我 (観念) 」 が家を占拠しているならば、 「サトリ」 が訪れる余地はないと云ふ
家を一度元の (本来の) 状態 = 「空っぽ」 にしなければ、新しい何かが入ることは出来ない道理
先入観を、自分の家に住まわせていては、新たなものが入ってこない
同様に、自分の家に自我が棲みついている限り、真我のおとづれはあり得ない
この辺りは、道元さんの 『正法眼蔵』 現成公案の条りによく似ている
「自己を忘るる」 と、サトリの方からやって来るとな
ー 「現前に展開する世界は、すべて幻影 (マーヤー) である」 とゆーヒンドゥーの世界観は首肯できる
ここで忘れてはならない事は、その世界観を受け容れている当の本人も幻影であるとゆー厳然たる事実である
ヒトは、真我そのものを観受できないにしても、何か偽りの実体 (実存) については、たしかな感触を間違いなくもっているらしいことに私は驚いている
その感触が、ヒトをして真理 (真実) に向かわせる原動力になっているのであろー
やはり私が不運に見舞われてきた事が、日常の実践の中で養われる堅実な信仰へと導かれたのだと思う
> 「不運に見せかけた幸運」 (オノヨーコ談、NHK 『ファミリー・ヒストリー』 より)
そして必死の彷徨の末に、伊勢白山道に邂逅できたことに心の底から感謝しております
信仰の本質は、設備もお金も外在する神も要らないこと、ただ内なる神に心を向けるだけでよいとゆーシンプルな生き方 (行き方) ……
その生きたお手本となるヒンドゥーの聖者たち、
おそらくインドに覚者が頻繁に現れるのは、その 「存在 (私は在る) 」 とゆーものへの知慧 (悟り・Knowledge) が本質を衝いているからだと思う
その究極にあるのが、真我実現、おそらくさしたる難事では実はないのだろー
_________玉の海草