花田凌鑑

火気利用生産公社新館

「祈り」について

2011-05-08 14:43:16 | Weblog
GWが終わろうとしています。

今年は植樹、育樹、「祈り」のGWでした。

ダライラマ14世による震災49日法要に参加し、国内外の僧侶たち、参列者と、国境、宗教、宗派を超えて、ともに祈りました。

フツノミタマノオオカミ神社では、これ以上国を揺るがすような大きな災いが起こらないよう、ともに祈りました。
(休みが続けてとれなかったもんで、往復夜行バス1日滞在の強行軍で、関西方面のみなさまに会う時間がありませんでした。ごめんちゃい)


「祈る」機会が多かったので、「祈る」ことにについて、いろいろ考えさせられました。


「祈る」ときに、何に対して「祈る」でしょうか?
何を「祈る」のでしょうか?
どう「祈る」のしょうか?
誰に対して「祈る」のでしょうか?

自分に対して?神・仏に対して?

それは、あらゆる欲望を満たすためのものでしょうか?
それは、心からの「祈り」でしょうか?



その「心」というのは、揺らぎ、移ろい、浮かんでは消えてゆくものです。

そんな「心」の「祈り」でいいのでしょうか?


「無心」の「祈り」でいいのでしょうか?

「無」「空(性)」といったものの理解からの「祈り」でいいのでしょうか?



揺らぐ事のないもの、「魂」の「祈り」でいいのでしょうか?


「魂」はどういうものでしょうか?
「魂」はどこからきているのでしょうか?


ここまで記すれば、いつも当ブログをお読みいただいてる皆様にはだいたいお分かりいただけると思いますが、続けたいと思います。



仮に名付けられたものにすぎず、それ自体、単独で存在することのない「自分」に、
仮に名付けられたものにすぎず、それ自体、単独で存在することのない「自分」から、
何かに向けて、何かに対し、「祈る」?

これって「祈り」としてどうかな?




「魂」の「祈り」について見いだしていきましょう。


スピリチュアルな世界では、「魂」は「おおいなる魂の一部」であるとか、
人の生における「魂」は「おおいなる魂」から、一部切り離されている状態、
といったような表現があります。

名付けられた仮の個々ですが、日本人と名付けられたものの一人でもあり、地球人の一人でもある。
肉体は地球の構成要素の一部で出来ているといえたり、太陽系の・・・銀河の・・・宇宙の・・・といえます。
「魂」も然りです。


「魂」で「祈る」とき、どうなるか?
神社、寺院、教会、モスク等、で「祈る」とき、なにが起こるでしょうか?
それぞれの神さま、仏様の「御魂」も「おおいなる魂」の一部ですね。

そうなると、神仏に対して「祈る」ということにはならずに、
「魂」が、神仏の「御魂」とともに、さらには、「おおいなる魂」とともに「祈る」ということになります。


どうでしょうか。


三魂一体といったところでしょうか。

こういった理解の上での「祈り」ですからね。それは揺るぎないものとなるとなるでしょう。


でも、すべてはゆらいでるものでもありますからね。表裏一体ということでしょうか?


話しはそれましたが、


「おおいなる魂」から、一部切り落とされている状態、というなかでは、
神社、寺院、教会、モスク等、での「祈り」となると、
神さま、仏様の「御魂」と「おおいなる魂」と繋がる、という意味愛に(変換したらでてきて、はっとしたのでそのままに)なりますね。
そのためには、「無心」ー「無」や、「空(性)」の理解の上でということで、お経や聖典などの教えを読むにはそういった意味もあるのでしょう。


というわけで、

「魂」で、ともに「祈り」ましょう

「魂」で、ともに愛しましょう

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