いるま・風の善さん

中高年オジンの趣味と遊びの日記です。

今年もあとわずか・年末あれこれ・・・

2022年12月22日 | その他

 例年年末近くに田舎の墓掃除に行っています。帰りは、お墓のある隣村の城跡・膳城跡と高崎にある佐野の舟橋に寄り道です。

(埼玉・群馬の県境・神流川と利根川の合流近く、お墓への道・赤城山が望めます)

前橋市郊外・旧大胡町・上毛電鉄大胡駅(おおご)は駅員のいる車両基地もあります。

 

大胡町の東隣・旧粕川町は鎌倉時代~戦国時代にかけての膳城跡があります。

 

(膳城跡公園と土塁跡)

 「膳城跡』 築城年代は不明であるが、鎌倉時代に「膳」氏の名前がある。平安時代~室町時代に栄えていたと見られるが、武田氏の侵攻により戦国時代末期には廃城となった。  赤城山の湧水による湿潤な谷地の間、丘陵性台地の先端部に位置し、南北約500m・東西300mほどの範囲の中に濠や土塁をめぐらし本丸のほか数区画からなる郭が形成され、保存されていました。(教育委員会説明版による)

(本丸跡)

膳城跡のある近くに上毛電鉄膳駅(ホームのみの無人駅)があります。

 

(善さんとは全く関係ありませんが、名前が懐かしくて寄ってみました。文字が少し違います・笑)

 

(単線の無人駅・膳駅、でも時々電車も走ります。赤城山山麓を走る上毛電鉄、中央前橋~桐生間)

 帰り道は場所を変えて、高崎市郊外の上信電鉄「佐野のわたし駅」。ここに「佐野の舟橋」があります。

(昔、からすがわ・烏川に渡しがありました) 

「かみつけの 佐野の舟橋 とりはなし 親はさくれど わはさかるがへ」『万葉集巻14-3420』

(意味・上野の佐野の舟橋、その橋を引っ剝ぐように、親は二人の仲を引き割こうとしるけれど、私としたことが、下がるわけにはいかない)

 

二つの村を結ぶ古道・烏川にかかる舟橋・佐野の渡し場には小船を並べて板を渡したものがありました。

 万葉集からとった、後世の謡曲の舞台・それぞれの村の長者の息子と娘が人目を忍んで会っていた、親の反対で舟橋から落とされて亡くなった悲哀、ここが題材となっています。

 

(3年前の台風で流された佐野の舟橋、鉄の支柱で復元されていました。人と自転車は渡れます)

(奈良大OBの宮崎のS氏を案内した3年前、台風大水により舟橋は跡形もなく流されてしまいました・涙)

 

12/16日・川越市大塚にある、国内でも最大級の上円下方墳・山王塚古墳が国指定史跡として答申を受けました。

(12/17付読売新聞の記事)

発表の2日後(12/18)、急遽現地ミニ見学会(川越市教育委員会)がありました。

 

(ミニ見学会資料・円墳の上には後世の山王塚が祀ってあります)

 

(市教育委員会の担当者から文化審議会の答申までの説明がありました)

 

(上円部直径37m、下方部一辺69m、墳丘盛土高さ5m、周溝含めた規模一辺約90m)

7世紀後半に築造された古墳で、埋葬主体は南に開口する奥行9mの3室構造の横穴式石室にハの字状に開く6mの前庭部を伴っている。

 

(下方墳部分の墳丘) 

今回は数年前の発掘時の写真が展示されていました、横穴石室天井石などは過去に流用されて不明です。

(上・前庭部の葺石)

  

(左下は前室の入口石・緑泥片岩と右はそれを取り除いた葺石)

 入間川の右岸、近くに古代官道・東山道入間路(武蔵路)の駅路もあり、周辺は大塚古墳群もあったことから敷設に関係のある首長の墓と推測されています。(善さんも10年以上前から関心を深めていた地域です)

来春の国指定遺跡としての正式に指定保存されるように期待しております。

 

(我が家のセンリョウとマンリョウも実を付けています)


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