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(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は神のかけたる木綿鬘かも (1)
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この本は「教科書」「参考書」の類ではありません。
皆さんに「教える」のではなく、どちらかと言うと、皆さんと「一緒に考える」ことを企図して書かれた本です。
また、私の主観も随所に入っていますが、私はこの方面の専門家でもありません。
ですから、
<効率よく知識を仕入れる><勉強のトクになるかも>
などとは、間違っても思わないようにして下さい。
いわゆる「学習」「勉強」には、むしろマイナスに働くでしょう。
上記のことを十分ご了解の上で、それでもいい、という人だけ読んでみて下さい。
ただし、
教科書などに採用されている、標準的な解釈の路線に沿った訳例は、参考として必ず示してあり、
その場合、訳文の文頭には、「@」の記号が付けてあります。
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時々「(注)参照」とありますが、それは末尾の(注)をご参照下さい。
ただし、結構長い(注)もあり、また脱線も多いので、最初は読み飛ばして、本文を読み終えたのちに、振り返って読む方がいいかもしれません。
なお、(注)の配列順序はバラバラなので、(注)を見るときは「検索」で飛んで下さい。
あちこちページを見返さなくてもいいように、ダブる内容でも、その場その場で、出来る限り繰り返しを厭わずに書きました。
その分、通して読むとクドくなっていますので、読んでいて見覚えのある内容だったら、斜め読みで進んで下さい。
電子ファイルだと、余りページ数を気にしなくて済むのがいいですね。
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(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は神のかけたる木綿鬘かも23C15rr(1).txt
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要旨:
かつて源氏は、あろうことか朱雀帝に入内予定の朧月夜に手を出した報いで、須磨に下向する羽目になった。
紫上が、一日千秋の思いで、源氏の帰りを一人京で待つ一方で、
須磨下向の三年足らずの間に、源氏は現地妻の明石上を孕ませ、「后がね」の姫君と、さらに後見は折り紙付きの大国播磨の受領の義父、という、栄達の礎石としては申し分ない<実弾>を、一石二鳥で手に入れた。
母を早くに失い、父親の兵部卿宮からも袖にされた幼少期の紫上は、母方の祖母尼君が北山の田舎で養育した。
兵部卿宮は、源氏の須磨下向に際して、反源氏連合(右大臣一派)の大本営、源氏の不倶戴天の敵である弘徽殿大后サイドに靡いたため、それ以来源氏とは距離を置いており、手厚い後見などますます望むべくも無い<内縁の妻>たる紫上の焦燥は、並大抵ではなかった。
やがて時は経ち、気が付くと、
紫上が待ち焦がれた懐妊は訪れず、三十代も半ばとなり、若さも衰えていた。
源氏との関わりも薄れゆく中、追い討ちをかけるように年若い三宮が正妻として六条院に降嫁し、
さらに、自ら愛情を目一杯注いで長年養育した明石姫君も、入内して傍らを離れていく、
というように、奪われる一方の後半生になってしまっていた。
明石姫君は入内して、懐妊すると、紫上の住む六条院の春の町ではなく、明石上の住む冬の町(北西区画)に里下がりした。
何と言っても出産経験の無い養母の紫上より、経験のある明石上、ましてや自分を産んだ実母の方が、その後の乳幼児の育児も含め、妊婦にとって心強いのは当然で、それは誰でもそうする判断であったろう。
ちなみに、紫式部が後宮に伺候した時代の、一条天皇の皇后であった中宮定子は、「枕草子」の清少納言が仕えた皇后でもあるが、第三子の躾子(びし)を出産する際に、後産(胎盤)が下りず、なんと出産直後に死亡している。
国で最高の医療環境を提供されたはずの「国母」たる皇后が、お産で命を落とすことがあるほどに、「出産」は<命懸け>の、<女の戦(いくさ)>であった時代だ、ということである。
さらに、定子が命がけで産んだ、その躾子は、九歳で病死している。(1008年)
そうした時代背景を考えれば、出産経験のある心強い実母に身を委ねた明石姫君(中宮)の判断は、至極当然と言う外は無い。
ましてや医療技術の発達した現代ですら不安の付きまとう初産である。
とは言え、互いに素晴らしい人格を認め合い、入内の際には後見役として明石上を推薦し、自ら身を引いた格好の紫上ではあるものの、
明石姫君の里下がり先が、長年養育した自分ではなく、実母の明石上であることを知った時の、紫上の胸中の寂しさは察するに余りある。
それはそれとして、
明石姫君は無事出産を終え、その皇子は健やかに育って、やがて順当に東宮の宣旨を受けた。
明石姫君腹の皇子が東宮となる宣旨を受けたことは、養母としてはもちろんこの上なく喜ばしいことである。
しかし、それは同時に、少なくとも世間の目からすれば、「妻のランク争い」のライバルだった明石上への完敗の駄目押しでもあった。
かたや皇后の実母となり、かたや北山の僧坊から、誘拐同然に連れて来られ、しかもその養女に源氏が手をつけた、という、あまり触れられたくない経緯を持つ、身寄りの無い<内縁の妻>でしかなかったのだから。
案の定、世人も明石上のシンデレラストーリーの話題で持ち切り、という有様である。
立坊のお礼参りに源氏ら一行が繰り出した住吉神社での唱和について、
出産適齢期が完全に過ぎ去ろうとしている紫上の、「焦り」が「諦め」へと徐々に変わり行く心境を背景として、
和歌の解釈を試みた。
また、<他氏排斥>や<皇統断絶>など、現実の歴史を背景とした解釈も、合わせて試みた。
詳細は下記の<ロリータ攻防戦>を参照のこと。
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(北山の尼君1).生ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えんそらなき
(北山の尼の侍女1).初草の生ひゆく末も知らぬ間にいかでか露の消えんとすらむ
(北山の尼君2).枕ゆふ今宵ばかりの露けさを深山の苔にくらべざらなむ
(源氏16).初草の若葉のうへを見つるより旅寝の袖もつゆぞかわかぬ
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目次:
(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は神のかけたる木綿鬘かも
(光源氏191).たれかまた心を知りて住吉の神世を経たる松にこと問ふ
(明石尼君7).昔こそまづ忘られね住吉の神のしるしを見るにつけても
(中務の君1).祝子が木綿うちまがひおく霜はげにいちじるき神のしるしか
(明石尼君6).住の江をいけるかひある渚とは年経るあまも今日や知るらん
メモ:
語彙、語法・文法、
連想詞の展開例など
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では、始めましょう。
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明石女御(もと明石姫君)の第一皇子が、めでたく立坊(東宮)となったため、源氏一行は住吉神社にお礼参りに来ています。
***「求子(もとめご)」「紅葉の散る」*******
山藍に摺れる<竹の節は松の緑に見えまがひ>、かざしの花のいろいろは秋の草に異なるけぢめ分かれで何ごとにも目のみ紛ひいろふ。
「求子(もとめご)」はつる末に、若やかなる上達部は肩ぬぎておりたまふ。
にほひもなく黒きうへの絹に、蘇芳襲の、海老染の袖をにはかにひき綻ばしたるに、紅深きアコメの袂の、うちしぐれたるけしきばかり濡れたる、松原をば忘れて、<紅葉の散る>に思ひわたさる。見るかひ多かる姿どもに、いと白く枯れたる荻を高やかにかざして、ただ一かへり舞ひて入りぬるは、いとおもしろく飽かずぞありける。
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「求子(もとめご)」<東遊の歌>
「東遊」「東舞」<東国の民謡をもとにした舞楽>
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(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は、神のかけたる木綿鬘かも
「住吉」<住ノ江>は、<松の名所>であり、<歌枕>として多用されます。
@(紫上19)A.
住ノ江(住吉)の松の上に夜更けに降りる霜は、神様がおかけになった木綿鬘でしょうか。
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「まつ(松)」は「まつ(待つ)」との掛詞として常用されます。
「待つ」<待つ><頼みにして待つ><期待して待つ>
「露」は<涙>の例えとして常用されます。
「霜」は、「露」<涙>が凍ったものです。また、<白髪>の例えにもなります。
「木綿鬘」<神事に用いた、楮(こうぞ)の繊維で作った鬘(髪飾りなどの装飾品)>
入念な晒しを経た真っ白な繊維は、まるで木の枝に積もった霜のように見えます。
明石の上が上京したことで、夜離れがちになり、紫上が子を宿せる可能性がますます小さくなります。
そもそも誘拐同然に連れて来られた紫上。
惟密が三日夜の餅を準備し、内輪で済ませただけの婚礼。いわば内縁の妻です。
一方、明石入道が受領で蓄えた財産の後見も厚い明石の上の今回の住吉参りは、贅を尽くしたものでした。
思い返せば、源氏は、京に紫上を一人残し、須磨に下向しました。
紫上が源氏に生涯を捧げ、懐妊を待ちわびながら、それがかなわぬ一方で、
須磨下向の三年足らずの間に、源氏は現地妻の明石上を孕ませ、「后がね」の姫君と、さらに後見厚い大国播磨の受領の義父、という、栄達の礎石としては申し分ない<実弾>を、一石二鳥で手に入れました。
すでに親を失って久しく、手厚い後見など望むべくも無い紫上らの胸中は、想像に難くありません。
三十代も後半に差し掛かり、若さも衰え、源氏との関わりも薄れゆく中、
年若い三宮が正妻として六条院に降嫁し、
さらに、自ら愛情を目一杯注いで長年養育した明石姫君も、入内して側を離れていく、
という、奪われる一方の紫上の後半生だったわけです。
明石姫君は入内して、程なく懐妊しました。
そして、後宮から六条院にお産のため退出しましたが、
里下がりした先は、紫上の住む六条院の春の町ではなく、明石上の住む冬の町(北西区画)でした。
何と言っても出産経験の無い養母の紫上より、経験のある、しかも自分を産んでくれた実母の明石上の方が、その後も含め妊婦にとっては、初産の明石姫君(中宮)にとっては、そりゃはるかに心強いですよね。
入内に伴い、後見役として明石上を推薦し、自ら身を引いた格好の紫上ではありますが、その寂しい胸中は察するに余りあります。
今回、明石姫君腹の皇子が東宮となる宣旨を受けたことは、養母としてはもちろんこの上なく喜ばしいことではありますが、
それは同時に、ライバルでもあった明石上との、妻のランク争いにおける、完敗の駄目押しでもあったわけです。
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和歌の直前の地の文に、暗示的な言葉が並んでいます。
それは、夜の海面を眺めると、なんとも風情のある一方で、
陸の方は真っ白に霜が下りた寒々しい気色で、
あたかも、勝ち組の明石上と、負け組の紫上の心境とのコントラストを、
そのまま写し取っているように見えます。
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(地の文).
夜一夜遊び明かし(明石)たまふ。
二十日の月遥かに澄みて、海の面おもしろく見えわたるに、
霜のいとこちたくおきて、松原も色紛ひて、よろづのことそぞろ寒く、
おもしろさもあはれさもたち添ひたり。
@(地の文)A.
その夜は一晩中、歌舞の遊びをしてお明かしになる。
二十日の月がはるか彼方に澄んで見え、海面が風情ある様子で遠くまで見渡される一方で、
地上には霜が深く降り積もり、松原も白一色に見まがう程で、辺り全てが寒気を覚える様子で、
楽しさも感慨も、またひとしおであった。
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「うみ(海)」は「うみ(産み)」を連想させます。
「うみ(産み)」<連用形転成名詞><産むこと><出産><明石姫君を生んだ明石上>
「まつ(松)」は「まつ(待つ)」との掛詞として常用されます。
「はら(原)」は「はら(腹)」をも連想させます。
「まつばら(松原)」は「まつはら(待つ腹)」をも連想させます。
この頃、すでに紫上は三十代後半に突入しようとしていました。
「まつはら(待つ腹)」<懐妊を待ち焦がれる腹><出産適齢期が過ぎ去ることを恐れる紫上>
としてみましょう。
「月」はそれだけで<月のもの><月経>の意味を持ちます。
ちなみに、「つきみづ(月水)」とは<経血>のことです。
「紛ふ」<乱れる><入り混じる><見分けがつかなくなる><見分けられないほど似ている><分別を失う><理性をなくす><見失う>
紫上の複雑な心境を背景として、この地の文に重ね、心象風景が暗示する真意の訳出を、強引に試みてみましょう。
「夜一夜遊び明かし(明石)たまふ。。。。」
(地の文)B.
(源氏は)その夜、一夜の遊び(夜伽)を明石の上だけにお与えになる。
二十日の月経はとうに済んで、「うみ(海)」「産み」<東宮を産んだ明石中宮>の顔が感慨深く見わたせるが、
涙も凍って霜となり、「まつばら(松原)」「まつはら(待つ腹)」<子の宿りを待つ紫上>の顔色は思い乱れたようで、万事こころもとなく、
感慨<明石姫君を中宮に養育し遂げた紫上の喜び><明石上の勝利>と悲哀<ライバル明石上に完敗した悲しみ>とが、(際立つコントラストで)一緒になったような心地であった。
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紫上が養育した明石姫君が中宮となったことは、養母としてこの上ない喜びですが、
それはとりもなおさず、妻としては明石上への完敗を意味します。
結局は縁の下の力持ちに終わった後半生。喜びと悲しみ、過去への後悔と将来への不安。
紫上は"色紛ひて"自分を見失いそうだったとしても、むべなるかなです。
***「明石の尼君」「幸ひ人」************
よろずのことにつけてめであさみ、世の言種にて、「明石の尼君」とぞ、幸ひ人に言ひける。
かの致仕大臣の近江の君は、双六打つ時の言葉にも「明石の尼君、明石の尼君」とぞ賽はこひける。
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「目ざましき女の宿世かな」
<女性としてたいそうな幸運ですこと>
と、世人もこぞって明石上のシンデレラストーリーを羨んでいました。
ちなみに、通い婚が主流の当時でも、同居する場合があり、「相住み」と呼ばれました。
六条院の「春の町」区画の、源氏の御殿の対面にある「対の屋」に紫上は住んでいますから、二人は「相住み」の仲とも言えますが、とは言え「準太上天皇」という最上級貴族の大邸宅の別棟で、一々通ってこなければならないわけですから、やはり夜離れがちにはなるのでしょう。
「住む」<住み通う><通い住む><結婚する>
「住み」連用形転成名詞<住むこと>
「え(江)」<水辺><岸辺><入り江><湾岸><河岸>
「え(江)」は「え(縁)」をも連想させます。
「え(縁)」は「えん(縁)」の撥音無表記形です。
「え(縁)」<縁><血縁><絆><因果>
「すみのえ(住の江)」は、「すみのえ("住み"の縁)」をも連想させます。
「"住み"の縁」<"通い住み"の縁><"相住み"の縁><源氏と紫上の夫婦関係>
としてみましょう。
「まつ(松)」は「まつ(待つ)」との掛詞として常用されます。
松 神 掛け
住の江のまつに夜ふかくおく霜は、かみのかけたる木綿鬘かも
待つ 紙 かげ
髪 陰
下 上 影
(紫上19)B.
「"住み"の縁」<"通い住み"の縁><"相住み"の縁><源氏と紫上の夫婦関係>
を頼みとして待っている私の枕に、真白に凍った涙は、宿世が架けた木綿蔓でしょうか。
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「かみ(神)」「かみ(上)」との対比を背景として、
「しも(霜)」は「しも(下)」をも連想させます。
「しも(下)」<下位の者><臣下>
「しも(霜)」は<白髪>の例えとしても常用されます。
「かけ(掛け)」は「かげ(陰)」を連想させます。
濁点を打つ習慣の無かった当時、これらはともに「かけ」と表記されました。
「かみのかけたる(神の掛けたる)」<神がお掛けになった>(木綿鬘)
「かみのかげたる(上の陰たる)」<明石「上」の陰になった>(紫上)
神 掛け
住の江の松に夜ふかくおく霜は、かみのかけたる木綿鬘かも
紙 かげ
髪 陰
下 上 影
(紫上19)C.
通い住む(結婚の)縁<紫上と源氏の夫婦関係>を頼みとして待っている私の「霜」<白髪>は、
明石上の陰の「下(しも)」になった木綿蔓でしょうか。
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明石姫君がお産で里下がりした先が、長年苦労して育てた養母の紫上でなく、
出産経験のある実母の明石上であった、という、
<当然の判断ながら、何ともやり切れない>「紫上の胸中の寂しさ」が、
「源氏物語」の最大のテーマである、と私は思います。
源氏物語の主人公は、光源氏ではありません。
長年「内縁の妻」の境遇に甘んじ、耐え抜き、それでも報われなかった紫上こそが、源氏物語の主人公である、と私は思います。
それに比べれば、光源氏は、単なる<狂言回しのサル>に過ぎません。
その証拠に、紫上が没した直後に、光源氏の一代記は、何ともあっけない、尻すぼみといってもいいような形で終焉を迎え、
物語はすぐ宇治十帖へとバトンタッチします。
やがて臨終にへと収束する断続的な病魔に、紫上が襲われていたときに、
奇しくも三宮は、不義の子を懐妊しました。
いきなり天皇家から六条院に降嫁した、自分より格上身分の正妻の懐妊は、結局<内縁の妻>に過ぎなかった紫上の心理にとって、本当に、最後の最後のダメ押しになったことでしょう。
ライバル明石上の娘を長年養育し、
その養女すら自らのもとを離れ、実母の方へ帰って行きました。
さらに格上身分の三宮が正妻として六条院に降嫁し、しかも程なく懐妊。
せめてもの望みだった出家も、源氏に聞き入れられぬまま、紫上は臨終を迎えました。
当時は、1058年から「末法の世」に突入すると考えられていました。
つまり、今生で浄土往生できなければ、輪廻転生で仮に人間に生まれ変われたとしても、
もはや来世以降での解脱、極楽往生は望めない、ということです。
永遠に輪廻の苦しみから逃れられないと考えられていた、ということです。
そのため、何としてでも今生での浄土往生を願う貴族たちは、晩年こぞって出家しました
しかし、その最後の紫上の一縷の望みも、結局かなえられることはありませんでした。
才色兼備、眉目秀麗、あらゆるアイドル的要素を具えた光源氏が登場人物として配されたのは、
宮中に仕える女房たちへのファンサービスや、スポンサー道長への義理立てでしょう。
あるいは、紫上の哀れな境遇を、対比的に際立たせるためでしょう。
我々は、そのきらびやかさに眼を奪われ、
「源氏物語」の<本当の主人公>や<真のテーマ>を見失ってはなりません。
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「かけ(掛け)」と「かげ」「日かげ」は、掛詞として常用されます。
「かげ」「日かげ」<日陰><ヒカゲノカズラ>
<ヒカゲノカズラ>は、常緑シダ植物で、針金状の茎を長く地に這わせ、その先で芽を出し、胞子のうを付けます。
「石松」「石松子」の字が当てられます。
それは、<石女(産まず女)が子を待つ>イメージに重なります。
ちなみに、「ひかげもの(日陰者)」で、<日陰者><世を隠れ忍ぶもの><公然と世間と交際できないもの>のほか、<世に埋もれて芽の出ない人><妾><私生児>の意味があります。
花を咲かせぬシダ植物のイメージとも合いますね。
「木綿(ゆふ)」は「結ふ(ゆふ)」<結ぶ><髪を結う>を連想させます。
古事記で、天照大神が天岩戸に隠れたとき、天宇受女尊(アメノウズメノミコト)が「日かげ」<ヒカゲノカズラ>を鬘<髪飾り>または襷<たすき>にして身につけ、舞い踊って天照大神を誘い出そうとしました。(和歌植物表現辞典)
「あかす(明かす)」サ行四段活用<(火などで)明るくする><火をともす><夜を明かす><秘密を明かす><明らかにする>
「あかし(明かし)」連用形転成名詞<明るくすること>
「あかし(明石)」<明るくすること>は、<太陽><天照大神>
を連想させます。
住ノ江は大阪南部にあり、内陸部から須磨(や明石)へ下る際の、船の通り道に当たります。
また、源氏物語で明石上は、しばしば「松」「琴」とともに、場面に登場します。
それは、(明石で)「子と待つ」を暗示するようでもあります。
夜 神 掛け 木綿鬘
住の江の松によふかくおく霜は、かみのかけたるゆふかづらかも
節 紙 かげ 結ふカツラ
髪 陰
下 上 影
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(1)さて、この歌のすぐ後に、語り部の評が入ります。
***「若菜下」の帖の語り部「うるさくてなむ」*****************
(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は、神のかけたる木綿鬘かも
(地の文3).
次々、数知らず多かりけるを、何せむにかは聞きおかむ。
かかるをりふしの歌は、例の上手めきたまふ男たちもなかなか出で消えして、松の千歳より離れていまめかしきことなければ、「うるさくてなむ」。
@(地の文3)A.
次々、歌が詠まれて、数え切れぬくらいたくさんあったのだが、何もそう聞きおくことはあるまい。こうした折の歌は、例の巧者を自認しておられる男性たちも、かえって詠みばえしないもので、「松の千歳」のような<決まり文句>以上の今風の趣向があるわけでもないのだから、<わざわざ取り上げるのもわずらわしい>というものだ。
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また、
(2)「紫上らの唱和は、叙景的な賀歌に終始する。」と「新編日本古典文学全集」では解説されています。
語り部の上記の評は、誰よりも古今の和歌や漢詩をそらんじ、またおびただしい数の歌を日常的にやり取りしていた紫式部の偽らざる本音でしょう。
定型的な表現やステレオタイプな解釈には、うんざりだったであろうことは、まあ想像に難くありません。
しかし、ここには、さらに重要な仄めかしが含まれているようにも思えます。
「見苦しくなむ」「うるさくてなむ」「うるさく何となきこと多かるやう」だから、ここには書いてありません、と語り部は言っているわけです。
ということは、あえてここに書いてある和歌には、<通り一遍でない何か>が含まれているのではないか?
少なくともそう考えて、(正解が見つかるかどうかはさておき)、何はともあれその意味を探索してみる、というのが謙虚な解釈姿勢である、と私は思います。
何しろ、相手は我々の発想をはるかに超越した天才なのですから。
昔の人だからって、皆さんは無意識の内に、相手を上から目線で眺めてはいませんか。
ましてや、紫式部の<超絶脳内言語空間>ならなおさらです。
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感情をあからさまに表現するのは、平安貴族の美学に反することだったとされていますが、
①「松の千歳」②<(住吉の)松のような長寿を祈る>などというような常套句は、そもそも②の意味が周知されているわけで、
その解釈に留まる限り、あけすけに表現するのと同じです。
と言うことは、
定型的な解釈に終始しない、<さらに一歩踏み込んだ>読みが、ここには必要だ。そう紫式部はほのめかしているのではないでしょうか。
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この唱和の直前に、なぜ「求子」という東遊が入ったのでしょうか。
なぜ、「蘇芳」や「海老染」など<紫>を連想させる語句が出てくるのでしょうか。
「松原をば忘れて」という言葉は必要でしょうか。
正式な婚礼のお披露目も無く、源氏の世話女房となりつつある紫上。
自らの心もとない地位に反して、明石の上は中宮の母、東宮の祖母となり、正妻として降下した三宮は、二品という高い地位に叙せられ、恵まれた待遇を受けることになります。
そして何より、誰よりも長い源氏との夫婦生活にも関わらず、紫上には実子がいません。
三年足らずの下向のうちに、明石上は源氏の子を宿し、三十年連れ添った紫上はついに石女に終ります。
この贅を尽くした住吉参詣は、紫上の心理にとって、決定的なダメ押しとなったとしても、何の不思議もありません。
「松原をば忘れて」とは、「待つ"腹"をば忘れて」<よりによって、子が宿るのを待つ"腹"=紫上を忘れて>
「松の千歳」とは、「"待つ"の千歳」<子が出来るのを千年も待っている>紫上、なのではないでしょうか。
そして、(2)の解釈はその紫上の焦りや諦めを、素通りしてしまっているのではないでしょうか。
語り部の評にある、「上手めきたる<男>たち」とあるのは、源氏を含め、それに気付かず得意になっているノーテンキな男たち、という紫式部の皮肉が込められてはいないでしょうか。
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そのため、
定型的な解釈に終始しない、<さらに一歩踏み込んだ>読みが必要だ。そう紫式部が仄めかしているのだろう、という想定の下に、この本では解釈の探索を試みました。
そして、<通り一遍でない何か>にたどり着くために、
<通り一遍の>定型的な修辞に対する解釈を、出来る限り前提せずに読み進めることを目指しました。
たとえば、上記の「松の千歳」の「松」は、常に若々しい<常緑樹>であり、かつ、樹齢千年に及ぶ巨木ともなることから、<長寿><末永い繁栄>を象徴し、和歌のみならず屏風絵などでも、<天皇家>を指し示す縁起物アイコンとして常用されます。
また、<藤原家>を指す「藤」とともに描かれる、「松と藤」<松に絡みつく藤>という定番のモチーフは、<天皇家と藤原氏の共栄>の例えとしてしばしば用いられます。
ところで、つる(蔓)性植物の藤は、「かづら(蔓)」を伸ばします。
しかし、一年生草本の夕顔などのか細いつると異なり、多年生木本の藤のつるは、年々肥大し、時に絡みついた本体の木を締め上げて枯らしてしまうほど太く硬く、圧倒的な存在感があります。
ちなみに、「ふぢ(藤)」の音は、古来「ふし(不死)」と結び付けられたそうです。
樹齢五百年を越えるような藤も多く、なかでも春日部市牛島の藤は樹齢千年だそうです。(大貫茂「花の源氏物語」)
****参照:(注228816):「藤かかりぬる木」<藤原氏><紀氏>
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(地の文3).
「松の千歳」より離れていまめかしきことなければ、「うるさくてなむ」。
「うるさし」<煩わしい><面倒だ><厄介だ><音が大き過ぎる><うるさい><わざとらしく嫌味だ><優れている><立派だ>
***「うるさし」<わざとらしく嫌味だ>*************
(字の下手な人が)、見苦しとて、人に書かするはうるさし。 (徒然草)
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(地の文3)B.<鎮魂>
<天皇家の繁栄が千年も続く>という定型的・表面的な美辞麗句とは違った、本音トークが出るわけでもないのだから、<わざとらしく嫌味>というものだ。
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和歌を再掲しましょう。
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(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は、神のかけたる木綿鬘かも
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「木綿鬘(ゆふかづら)」<神事に用いた、楮(こうぞ)の繊維で作った鬘(髪飾りなどの装飾品)>
「木綿鬘」の「かづら(鬘)」は「かづら(蔓)」「かづら(葛)」を連想させます。
「かづら(蔓)」「かづら(葛)」<草木の「つる」><ツタ><つる植物の総称>
ところで、
「葛」という字には、「かづら」「かつ」「かど」「つら」「くず」「ふぢ」など、数多くの読み方があります。
例えば、第51代平城天皇の皇子、阿保親王を産んだのは、葛井藤子(ふぢゐのふぢこ)です。
それにしても、「ふぢゐのふぢこ」って、<どんだけ藤が好きなんだよ!>と思わずツッコミたくなりますが、まあそれは置いといて、
上述のように、つる(蔓)性植物の藤は、「かづら(蔓)」を伸ばします。
(紫上19)の和歌に、
<天皇家>を象徴する「松」と、
「藤」<藤原氏>を暗示する「かづら(葛)」
がともに含まれていることは、興味を引きます。
また、
「うるさくてなむ」の係助詞「なむ」は「なむ(南無)」をも連想させます。
「なむ(南無)」<帰依する><全てを任せてすがる><仏の加護を祈る感動詞>
ちなみに、聖徳太子は、はや二才で「なむぶつ(南無仏)」と唱えたそうです。
当時は1052年から「末法」の時代に入る、と考えられていたそうです。
つまり、死後、輪廻転生より、来世で仮に幸運に人間に生まれ変われたとしても、すぐ末法の時代に突入してしまい、浄土往生の見込みはほぼなくなる、ということです。
そのため、貴族は今生での浄土往生を願い、晩年こぞって出家しました。
紫式部ももちろんその一人です。
ちなみに、ご自身も仏道に入られた瀬戸内寂聴さんは、浮舟の落飾シーンの描写が、自らの体験に照らして、余りに具体的でリアルなので、「浮舟」の帖は、紫式部が出家した後に執筆されたのではないか、と想像されています。
「なむ」は「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」などの、「なむ(南無)」をも連想させます。
***「なむ(南無)」*******************
念仏百返ばかり唱へつつ、「なむ」と唱ふる声とともに、海へぞ入り給ひける。(「平家物語」巻十、「維盛入水」)
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ところで、
「連用形中止法」は、<接続助詞を用いない接続表現>の、最も代表的なものです。
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花をめで、鳥をうらやみ、霞をあはれび、露をかなしぶ心 (古今集、序)
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***<接続助詞を用いない接続表現>********
(1)連用形中止法
(2)「こそ~已然形」<逆接><順接>や、
(3)「已然形+係助詞」
(4)「こそ」単独型
(5)終止形による接続表現
、、、、
などがあります。
(参考:小田勝「古典文法総覧」)
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「なむ」に「なむ(南無)」<臨終の念仏><臨終>のイメージを重ね、
上記の(地の文3)を、試しにムリヤリ訳してみましょう。
「松の千歳」より離れていまめかしきことなければ、うるさくて なむ。
南無
(地の文3)C.<鎮魂>
<天皇家の繁栄が千年も続く>という定型的・表面的な美辞麗句とは違った、本音トークが出るわけでもないのだから、
<わざとらしく嫌味>でね。
(それにしても天皇家はおいたわしいことです)
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ついでに「大鏡」の方も振り返っておきましょう。
「うせなむずる」の「なむ」は「なむ(南無)」をも連想させます。
「うせ(失せ)」サ行下二段動詞「失す」連用形<消える><なくなる><行方不明になる><死ぬ><去る>
「な」<助動詞「ぬ」未然形><完了>
「むずる」<助動詞「むず」連体形><推量>:(係り結び)
ちなみに、<完了>+<推量>は、しばしば<確述>を含意します。
「うせなむずる」を、
「うせ、なむする(失せ、南無する)」
と(強引に)してみましょう。
句読点や濁点を打つ習慣の無かった当時、
これらはともに「うせなむする」と表記されました。
上記と同じく、
「なむ」に「なむ(南無)」<臨終の念仏><臨終>のニュアンスをムリヤリ重ね、
(大鏡)の文を、試しに訳してみましょう。
木
藤かかりぬるきは枯れぬるものなり。いまぞ紀氏はうせ なむ ずる
紀 南無 する
(大鏡)C.<鎮魂>
藤(のツル)が掛かった「き(木)」「き(紀)」<紀氏>は枯れてしまうものだ。
そのうちきっと紀氏は滅んで(「南無阿弥陀仏」と唱える)ことになるよ。
さすがにムリヤリ感が強過ぎますかね。
まあ、何にせよ、これらの想像の内容そのものが正しいか否かはさておき、
上記のような<通り一遍でない何か>を求めて、
ここではあえて通常とは異なる方法で、解釈の選択肢の探索を試みています。
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(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は神のかけたる木綿鬘かも (2) へ続く。
****参照:(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は神のかけたる木綿鬘かも (2)
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