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「源氏物語」は伝え方が10割

「理系学生が読む古典和歌」
詳細はアマゾンの方をご参照下さい。

(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は神のかけたる木綿鬘かも (1)

2021-02-03 14:49:59 |  <暗号を解く鍵><紫式部が送ってくれたサイン>

 


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(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は神のかけたる木綿鬘かも (1)


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この本は「教科書」「参考書」の類ではありません。

皆さんに「教える」のではなく、どちらかと言うと、皆さんと「一緒に考える」ことを企図して書かれた本です。
また、私の主観も随所に入っていますが、私はこの方面の専門家でもありません。


ですから、
<効率よく知識を仕入れる><勉強のトクになるかも>
などとは、間違っても思わないようにして下さい。
いわゆる「学習」「勉強」には、むしろマイナスに働くでしょう。


上記のことを十分ご了解の上で、それでもいい、という人だけ読んでみて下さい。


ただし、
教科書などに採用されている、標準的な解釈の路線に沿った訳例は、参考として必ず示してあり、
その場合、訳文の文頭には、「@」の記号が付けてあります。


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時々「(注)参照」とありますが、それは末尾の(注)をご参照下さい。
ただし、結構長い(注)もあり、また脱線も多いので、最初は読み飛ばして、本文を読み終えたのちに、振り返って読む方がいいかもしれません。

なお、(注)の配列順序はバラバラなので、(注)を見るときは「検索」で飛んで下さい。

 

あちこちページを見返さなくてもいいように、ダブる内容でも、その場その場で、出来る限り繰り返しを厭わずに書きました。
その分、通して読むとクドくなっていますので、読んでいて見覚えのある内容だったら、斜め読みで進んで下さい。
電子ファイルだと、余りページ数を気にしなくて済むのがいいですね。


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(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は神のかけたる木綿鬘かも23C15rr(1).txt

 

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要旨:


かつて源氏は、あろうことか朱雀帝に入内予定の朧月夜に手を出した報いで、須磨に下向する羽目になった。
紫上が、一日千秋の思いで、源氏の帰りを一人京で待つ一方で、
須磨下向の三年足らずの間に、源氏は現地妻の明石上を孕ませ、「后がね」の姫君と、さらに後見は折り紙付きの大国播磨の受領の義父、という、栄達の礎石としては申し分ない<実弾>を、一石二鳥で手に入れた。
母を早くに失い、父親の兵部卿宮からも袖にされた幼少期の紫上は、母方の祖母尼君が北山の田舎で養育した。
兵部卿宮は、源氏の須磨下向に際して、反源氏連合(右大臣一派)の大本営、源氏の不倶戴天の敵である弘徽殿大后サイドに靡いたため、それ以来源氏とは距離を置いており、手厚い後見などますます望むべくも無い<内縁の妻>たる紫上の焦燥は、並大抵ではなかった。

やがて時は経ち、気が付くと、
紫上が待ち焦がれた懐妊は訪れず、三十代も半ばとなり、若さも衰えていた。
源氏との関わりも薄れゆく中、追い討ちをかけるように年若い三宮が正妻として六条院に降嫁し、
さらに、自ら愛情を目一杯注いで長年養育した明石姫君も、入内して傍らを離れていく、
というように、奪われる一方の後半生になってしまっていた。


明石姫君は入内して、懐妊すると、紫上の住む六条院の春の町ではなく、明石上の住む冬の町(北西区画)に里下がりした。
何と言っても出産経験の無い養母の紫上より、経験のある明石上、ましてや自分を産んだ実母の方が、その後の乳幼児の育児も含め、妊婦にとって心強いのは当然で、それは誰でもそうする判断であったろう。

ちなみに、紫式部が後宮に伺候した時代の、一条天皇の皇后であった中宮定子は、「枕草子」の清少納言が仕えた皇后でもあるが、第三子の躾子(びし)を出産する際に、後産(胎盤)が下りず、なんと出産直後に死亡している。
国で最高の医療環境を提供されたはずの「国母」たる皇后が、お産で命を落とすことがあるほどに、「出産」は<命懸け>の、<女の戦(いくさ)>であった時代だ、ということである。
さらに、定子が命がけで産んだ、その躾子は、九歳で病死している。(1008年)


そうした時代背景を考えれば、出産経験のある心強い実母に身を委ねた明石姫君(中宮)の判断は、至極当然と言う外は無い。
ましてや医療技術の発達した現代ですら不安の付きまとう初産である。
とは言え、互いに素晴らしい人格を認め合い、入内の際には後見役として明石上を推薦し、自ら身を引いた格好の紫上ではあるものの、
明石姫君の里下がり先が、長年養育した自分ではなく、実母の明石上であることを知った時の、紫上の胸中の寂しさは察するに余りある。


それはそれとして、
明石姫君は無事出産を終え、その皇子は健やかに育って、やがて順当に東宮の宣旨を受けた。

明石姫君腹の皇子が東宮となる宣旨を受けたことは、養母としてはもちろんこの上なく喜ばしいことである。
しかし、それは同時に、少なくとも世間の目からすれば、「妻のランク争い」のライバルだった明石上への完敗の駄目押しでもあった。
かたや皇后の実母となり、かたや北山の僧坊から、誘拐同然に連れて来られ、しかもその養女に源氏が手をつけた、という、あまり触れられたくない経緯を持つ、身寄りの無い<内縁の妻>でしかなかったのだから。

案の定、世人も明石上のシンデレラストーリーの話題で持ち切り、という有様である。


立坊のお礼参りに源氏ら一行が繰り出した住吉神社での唱和について、
出産適齢期が完全に過ぎ去ろうとしている紫上の、「焦り」が「諦め」へと徐々に変わり行く心境を背景として、
和歌の解釈を試みた。

また、<他氏排斥>や<皇統断絶>など、現実の歴史を背景とした解釈も、合わせて試みた。

 


詳細は下記の<ロリータ攻防戦>を参照のこと。

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(北山の尼君1).生ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えんそらなき
(北山の尼の侍女1).初草の生ひゆく末も知らぬ間にいかでか露の消えんとすらむ
(北山の尼君2).枕ゆふ今宵ばかりの露けさを深山の苔にくらべざらなむ
(源氏16).初草の若葉のうへを見つるより旅寝の袖もつゆぞかわかぬ
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目次:


(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は神のかけたる木綿鬘かも


(光源氏191).たれかまた心を知りて住吉の神世を経たる松にこと問ふ


(明石尼君7).昔こそまづ忘られね住吉の神のしるしを見るにつけても


(中務の君1).祝子が木綿うちまがひおく霜はげにいちじるき神のしるしか


(明石尼君6).住の江をいけるかひある渚とは年経るあまも今日や知るらん


メモ:
語彙、語法・文法、
連想詞の展開例など

 

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では、始めましょう。

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明石女御(もと明石姫君)の第一皇子が、めでたく立坊(東宮)となったため、源氏一行は住吉神社にお礼参りに来ています。


***「求子(もとめご)」「紅葉の散る」*******

山藍に摺れる<竹の節は松の緑に見えまがひ>、かざしの花のいろいろは秋の草に異なるけぢめ分かれで何ごとにも目のみ紛ひいろふ。
「求子(もとめご)」はつる末に、若やかなる上達部は肩ぬぎておりたまふ。
にほひもなく黒きうへの絹に、蘇芳襲の、海老染の袖をにはかにひき綻ばしたるに、紅深きアコメの袂の、うちしぐれたるけしきばかり濡れたる、松原をば忘れて、<紅葉の散る>に思ひわたさる。見るかひ多かる姿どもに、いと白く枯れたる荻を高やかにかざして、ただ一かへり舞ひて入りぬるは、いとおもしろく飽かずぞありける。

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「求子(もとめご)」<東遊の歌>

「東遊」「東舞」<東国の民謡をもとにした舞楽>

 

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(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は、神のかけたる木綿鬘かも


「住吉」<住ノ江>は、<松の名所>であり、<歌枕>として多用されます。


@(紫上19)A.
住ノ江(住吉)の松の上に夜更けに降りる霜は、神様がおかけになった木綿鬘でしょうか。

 


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「まつ(松)」は「まつ(待つ)」との掛詞として常用されます。

「待つ」<待つ><頼みにして待つ><期待して待つ>

「露」は<涙>の例えとして常用されます。
「霜」は、「露」<涙>が凍ったものです。また、<白髪>の例えにもなります。

「木綿鬘」<神事に用いた、楮(こうぞ)の繊維で作った鬘(髪飾りなどの装飾品)>
入念な晒しを経た真っ白な繊維は、まるで木の枝に積もった霜のように見えます。

 

明石の上が上京したことで、夜離れがちになり、紫上が子を宿せる可能性がますます小さくなります。

そもそも誘拐同然に連れて来られた紫上。
惟密が三日夜の餅を準備し、内輪で済ませただけの婚礼。いわば内縁の妻です。
一方、明石入道が受領で蓄えた財産の後見も厚い明石の上の今回の住吉参りは、贅を尽くしたものでした。


思い返せば、源氏は、京に紫上を一人残し、須磨に下向しました。
紫上が源氏に生涯を捧げ、懐妊を待ちわびながら、それがかなわぬ一方で、
須磨下向の三年足らずの間に、源氏は現地妻の明石上を孕ませ、「后がね」の姫君と、さらに後見厚い大国播磨の受領の義父、という、栄達の礎石としては申し分ない<実弾>を、一石二鳥で手に入れました。
すでに親を失って久しく、手厚い後見など望むべくも無い紫上らの胸中は、想像に難くありません。


三十代も後半に差し掛かり、若さも衰え、源氏との関わりも薄れゆく中、
年若い三宮が正妻として六条院に降嫁し、
さらに、自ら愛情を目一杯注いで長年養育した明石姫君も、入内して側を離れていく、
という、奪われる一方の紫上の後半生だったわけです。


明石姫君は入内して、程なく懐妊しました。
そして、後宮から六条院にお産のため退出しましたが、
里下がりした先は、紫上の住む六条院の春の町ではなく、明石上の住む冬の町(北西区画)でした。

何と言っても出産経験の無い養母の紫上より、経験のある、しかも自分を産んでくれた実母の明石上の方が、その後も含め妊婦にとっては、初産の明石姫君(中宮)にとっては、そりゃはるかに心強いですよね。
入内に伴い、後見役として明石上を推薦し、自ら身を引いた格好の紫上ではありますが、その寂しい胸中は察するに余りあります。

今回、明石姫君腹の皇子が東宮となる宣旨を受けたことは、養母としてはもちろんこの上なく喜ばしいことではありますが、
それは同時に、ライバルでもあった明石上との、妻のランク争いにおける、完敗の駄目押しでもあったわけです。


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和歌の直前の地の文に、暗示的な言葉が並んでいます。


それは、夜の海面を眺めると、なんとも風情のある一方で、
陸の方は真っ白に霜が下りた寒々しい気色で、
あたかも、勝ち組の明石上と、負け組の紫上の心境とのコントラストを、
そのまま写し取っているように見えます。


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(地の文).
夜一夜遊び明かし(明石)たまふ。
二十日の月遥かに澄みて、海の面おもしろく見えわたるに、
霜のいとこちたくおきて、松原も色紛ひて、よろづのことそぞろ寒く、
おもしろさもあはれさもたち添ひたり。

@(地の文)A.
その夜は一晩中、歌舞の遊びをしてお明かしになる。
二十日の月がはるか彼方に澄んで見え、海面が風情ある様子で遠くまで見渡される一方で、
地上には霜が深く降り積もり、松原も白一色に見まがう程で、辺り全てが寒気を覚える様子で、
楽しさも感慨も、またひとしおであった。
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「うみ(海)」は「うみ(産み)」を連想させます。
「うみ(産み)」<連用形転成名詞><産むこと><出産><明石姫君を生んだ明石上>

「まつ(松)」は「まつ(待つ)」との掛詞として常用されます。

「はら(原)」は「はら(腹)」をも連想させます。

「まつばら(松原)」は「まつはら(待つ腹)」をも連想させます。

この頃、すでに紫上は三十代後半に突入しようとしていました。

「まつはら(待つ腹)」<懐妊を待ち焦がれる腹><出産適齢期が過ぎ去ることを恐れる紫上>
としてみましょう。


「月」はそれだけで<月のもの><月経>の意味を持ちます。
ちなみに、「つきみづ(月水)」とは<経血>のことです。

「紛ふ」<乱れる><入り混じる><見分けがつかなくなる><見分けられないほど似ている><分別を失う><理性をなくす><見失う>


紫上の複雑な心境を背景として、この地の文に重ね、心象風景が暗示する真意の訳出を、強引に試みてみましょう。


「夜一夜遊び明かし(明石)たまふ。。。。」


(地の文)B.
(源氏は)その夜、一夜の遊び(夜伽)を明石の上だけにお与えになる。
二十日の月経はとうに済んで、「うみ(海)」「産み」<東宮を産んだ明石中宮>の顔が感慨深く見わたせるが、
涙も凍って霜となり、「まつばら(松原)」「まつはら(待つ腹)」<子の宿りを待つ紫上>の顔色は思い乱れたようで、万事こころもとなく、
感慨<明石姫君を中宮に養育し遂げた紫上の喜び><明石上の勝利>と悲哀<ライバル明石上に完敗した悲しみ>とが、(際立つコントラストで)一緒になったような心地であった。


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紫上が養育した明石姫君が中宮となったことは、養母としてこの上ない喜びですが、
それはとりもなおさず、妻としては明石上への完敗を意味します。
結局は縁の下の力持ちに終わった後半生。喜びと悲しみ、過去への後悔と将来への不安。
紫上は"色紛ひて"自分を見失いそうだったとしても、むべなるかなです。


***「明石の尼君」「幸ひ人」************
よろずのことにつけてめであさみ、世の言種にて、「明石の尼君」とぞ、幸ひ人に言ひける。
かの致仕大臣の近江の君は、双六打つ時の言葉にも「明石の尼君、明石の尼君」とぞ賽はこひける。
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「目ざましき女の宿世かな」
<女性としてたいそうな幸運ですこと>
と、世人もこぞって明石上のシンデレラストーリーを羨んでいました。

 

ちなみに、通い婚が主流の当時でも、同居する場合があり、「相住み」と呼ばれました。

六条院の「春の町」区画の、源氏の御殿の対面にある「対の屋」に紫上は住んでいますから、二人は「相住み」の仲とも言えますが、とは言え「準太上天皇」という最上級貴族の大邸宅の別棟で、一々通ってこなければならないわけですから、やはり夜離れがちにはなるのでしょう。


「住む」<住み通う><通い住む><結婚する>
「住み」連用形転成名詞<住むこと>


「え(江)」<水辺><岸辺><入り江><湾岸><河岸>

「え(江)」は「え(縁)」をも連想させます。

「え(縁)」は「えん(縁)」の撥音無表記形です。
「え(縁)」<縁><血縁><絆><因果>


「すみのえ(住の江)」は、「すみのえ("住み"の縁)」をも連想させます。

「"住み"の縁」<"通い住み"の縁><"相住み"の縁><源氏と紫上の夫婦関係>
としてみましょう。


「まつ(松)」は「まつ(待つ)」との掛詞として常用されます。

 


    松           神  掛け
住の江のまつに夜ふかくおく霜は、かみのかけたる木綿鬘かも
    待つ          紙  かげ
                髪  陰
             下  上  影


(紫上19)B.
「"住み"の縁」<"通い住み"の縁><"相住み"の縁><源氏と紫上の夫婦関係>
を頼みとして待っている私の枕に、真白に凍った涙は、宿世が架けた木綿蔓でしょうか。

 

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「かみ(神)」「かみ(上)」との対比を背景として、
「しも(霜)」は「しも(下)」をも連想させます。

「しも(下)」<下位の者><臣下>

「しも(霜)」は<白髪>の例えとしても常用されます。


「かけ(掛け)」は「かげ(陰)」を連想させます。
濁点を打つ習慣の無かった当時、これらはともに「かけ」と表記されました。


「かみのかけたる(神の掛けたる)」<神がお掛けになった>(木綿鬘)
「かみのかげたる(上の陰たる)」<明石「上」の陰になった>(紫上)

 

               神  掛け
住の江の松に夜ふかくおく霜は、かみのかけたる木綿鬘かも
               紙  かげ
               髪  陰
            下  上  影


(紫上19)C.
通い住む(結婚の)縁<紫上と源氏の夫婦関係>を頼みとして待っている私の「霜」<白髪>は、
明石上の陰の「下(しも)」になった木綿蔓でしょうか。


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明石姫君がお産で里下がりした先が、長年苦労して育てた養母の紫上でなく、
出産経験のある実母の明石上であった、という、
<当然の判断ながら、何ともやり切れない>「紫上の胸中の寂しさ」が、
「源氏物語」の最大のテーマである、と私は思います。


源氏物語の主人公は、光源氏ではありません。
長年「内縁の妻」の境遇に甘んじ、耐え抜き、それでも報われなかった紫上こそが、源氏物語の主人公である、と私は思います。

それに比べれば、光源氏は、単なる<狂言回しのサル>に過ぎません。
その証拠に、紫上が没した直後に、光源氏の一代記は、何ともあっけない、尻すぼみといってもいいような形で終焉を迎え、
物語はすぐ宇治十帖へとバトンタッチします。


やがて臨終にへと収束する断続的な病魔に、紫上が襲われていたときに、
奇しくも三宮は、不義の子を懐妊しました。

いきなり天皇家から六条院に降嫁した、自分より格上身分の正妻の懐妊は、結局<内縁の妻>に過ぎなかった紫上の心理にとって、本当に、最後の最後のダメ押しになったことでしょう。


ライバル明石上の娘を長年養育し、
その養女すら自らのもとを離れ、実母の方へ帰って行きました。
さらに格上身分の三宮が正妻として六条院に降嫁し、しかも程なく懐妊。
せめてもの望みだった出家も、源氏に聞き入れられぬまま、紫上は臨終を迎えました。


当時は、1058年から「末法の世」に突入すると考えられていました。
つまり、今生で浄土往生できなければ、輪廻転生で仮に人間に生まれ変われたとしても、
もはや来世以降での解脱、極楽往生は望めない、ということです。
永遠に輪廻の苦しみから逃れられないと考えられていた、ということです。
そのため、何としてでも今生での浄土往生を願う貴族たちは、晩年こぞって出家しました
しかし、その最後の紫上の一縷の望みも、結局かなえられることはありませんでした。

 


才色兼備、眉目秀麗、あらゆるアイドル的要素を具えた光源氏が登場人物として配されたのは、
宮中に仕える女房たちへのファンサービスや、スポンサー道長への義理立てでしょう。
あるいは、紫上の哀れな境遇を、対比的に際立たせるためでしょう。

我々は、そのきらびやかさに眼を奪われ、
「源氏物語」の<本当の主人公>や<真のテーマ>を見失ってはなりません。

 

 


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「かけ(掛け)」と「かげ」「日かげ」は、掛詞として常用されます。

「かげ」「日かげ」<日陰><ヒカゲノカズラ>

<ヒカゲノカズラ>は、常緑シダ植物で、針金状の茎を長く地に這わせ、その先で芽を出し、胞子のうを付けます。
「石松」「石松子」の字が当てられます。
それは、<石女(産まず女)が子を待つ>イメージに重なります。

ちなみに、「ひかげもの(日陰者)」で、<日陰者><世を隠れ忍ぶもの><公然と世間と交際できないもの>のほか、<世に埋もれて芽の出ない人><妾><私生児>の意味があります。
花を咲かせぬシダ植物のイメージとも合いますね。

 

「木綿(ゆふ)」は「結ふ(ゆふ)」<結ぶ><髪を結う>を連想させます。

古事記で、天照大神が天岩戸に隠れたとき、天宇受女尊(アメノウズメノミコト)が「日かげ」<ヒカゲノカズラ>を鬘<髪飾り>または襷<たすき>にして身につけ、舞い踊って天照大神を誘い出そうとしました。(和歌植物表現辞典)

「あかす(明かす)」サ行四段活用<(火などで)明るくする><火をともす><夜を明かす><秘密を明かす><明らかにする>
「あかし(明かし)」連用形転成名詞<明るくすること>
「あかし(明石)」<明るくすること>は、<太陽><天照大神>
を連想させます。


住ノ江は大阪南部にあり、内陸部から須磨(や明石)へ下る際の、船の通り道に当たります。
また、源氏物語で明石上は、しばしば「松」「琴」とともに、場面に登場します。
それは、(明石で)「子と待つ」を暗示するようでもあります。

 

      夜        神  掛け  木綿鬘
住の江の松によふかくおく霜は、かみのかけたるゆふかづらかも
      節        紙  かげ  結ふカツラ
               髪  陰
            下  上  影

 

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(1)さて、この歌のすぐ後に、語り部の評が入ります。

 

***「若菜下」の帖の語り部「うるさくてなむ」*****************
(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は、神のかけたる木綿鬘かも

(地の文3).
次々、数知らず多かりけるを、何せむにかは聞きおかむ。
かかるをりふしの歌は、例の上手めきたまふ男たちもなかなか出で消えして、松の千歳より離れていまめかしきことなければ、「うるさくてなむ」。

@(地の文3)A.
次々、歌が詠まれて、数え切れぬくらいたくさんあったのだが、何もそう聞きおくことはあるまい。こうした折の歌は、例の巧者を自認しておられる男性たちも、かえって詠みばえしないもので、「松の千歳」のような<決まり文句>以上の今風の趣向があるわけでもないのだから、<わざわざ取り上げるのもわずらわしい>というものだ。
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また、

(2)「紫上らの唱和は、叙景的な賀歌に終始する。」と「新編日本古典文学全集」では解説されています。

 

語り部の上記の評は、誰よりも古今の和歌や漢詩をそらんじ、またおびただしい数の歌を日常的にやり取りしていた紫式部の偽らざる本音でしょう。
定型的な表現やステレオタイプな解釈には、うんざりだったであろうことは、まあ想像に難くありません。

 

しかし、ここには、さらに重要な仄めかしが含まれているようにも思えます。
「見苦しくなむ」「うるさくてなむ」「うるさく何となきこと多かるやう」だから、ここには書いてありません、と語り部は言っているわけです。
ということは、あえてここに書いてある和歌には、<通り一遍でない何か>が含まれているのではないか?
少なくともそう考えて、(正解が見つかるかどうかはさておき)、何はともあれその意味を探索してみる、というのが謙虚な解釈姿勢である、と私は思います。
何しろ、相手は我々の発想をはるかに超越した天才なのですから。

昔の人だからって、皆さんは無意識の内に、相手を上から目線で眺めてはいませんか。
ましてや、紫式部の<超絶脳内言語空間>ならなおさらです。


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感情をあからさまに表現するのは、平安貴族の美学に反することだったとされていますが、
①「松の千歳」②<(住吉の)松のような長寿を祈る>などというような常套句は、そもそも②の意味が周知されているわけで、
その解釈に留まる限り、あけすけに表現するのと同じです。

と言うことは、
定型的な解釈に終始しない、<さらに一歩踏み込んだ>読みが、ここには必要だ。そう紫式部はほのめかしているのではないでしょうか。


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この唱和の直前に、なぜ「求子」という東遊が入ったのでしょうか。
なぜ、「蘇芳」や「海老染」など<紫>を連想させる語句が出てくるのでしょうか。
「松原をば忘れて」という言葉は必要でしょうか。


正式な婚礼のお披露目も無く、源氏の世話女房となりつつある紫上。
自らの心もとない地位に反して、明石の上は中宮の母、東宮の祖母となり、正妻として降下した三宮は、二品という高い地位に叙せられ、恵まれた待遇を受けることになります。
そして何より、誰よりも長い源氏との夫婦生活にも関わらず、紫上には実子がいません。
三年足らずの下向のうちに、明石上は源氏の子を宿し、三十年連れ添った紫上はついに石女に終ります。

この贅を尽くした住吉参詣は、紫上の心理にとって、決定的なダメ押しとなったとしても、何の不思議もありません。

「松原をば忘れて」とは、「待つ"腹"をば忘れて」<よりによって、子が宿るのを待つ"腹"=紫上を忘れて>
「松の千歳」とは、「"待つ"の千歳」<子が出来るのを千年も待っている>紫上、なのではないでしょうか。

そして、(2)の解釈はその紫上の焦りや諦めを、素通りしてしまっているのではないでしょうか。
語り部の評にある、「上手めきたる<男>たち」とあるのは、源氏を含め、それに気付かず得意になっているノーテンキな男たち、という紫式部の皮肉が込められてはいないでしょうか。


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そのため、
定型的な解釈に終始しない、<さらに一歩踏み込んだ>読みが必要だ。そう紫式部が仄めかしているのだろう、という想定の下に、この本では解釈の探索を試みました。

そして、<通り一遍でない何か>にたどり着くために、
<通り一遍の>定型的な修辞に対する解釈を、出来る限り前提せずに読み進めることを目指しました。


たとえば、上記の「松の千歳」の「松」は、常に若々しい<常緑樹>であり、かつ、樹齢千年に及ぶ巨木ともなることから、<長寿><末永い繁栄>を象徴し、和歌のみならず屏風絵などでも、<天皇家>を指し示す縁起物アイコンとして常用されます。
また、<藤原家>を指す「藤」とともに描かれる、「松と藤」<松に絡みつく藤>という定番のモチーフは、<天皇家と藤原氏の共栄>の例えとしてしばしば用いられます。


ところで、つる(蔓)性植物の藤は、「かづら(蔓)」を伸ばします。
しかし、一年生草本の夕顔などのか細いつると異なり、多年生木本の藤のつるは、年々肥大し、時に絡みついた本体の木を締め上げて枯らしてしまうほど太く硬く、圧倒的な存在感があります。

ちなみに、「ふぢ(藤)」の音は、古来「ふし(不死)」と結び付けられたそうです。
樹齢五百年を越えるような藤も多く、なかでも春日部市牛島の藤は樹齢千年だそうです。(大貫茂「花の源氏物語」)

 

****参照:(注228816):「藤かかりぬる木」<藤原氏><紀氏>

 

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(地の文3).
「松の千歳」より離れていまめかしきことなければ、「うるさくてなむ」。

「うるさし」<煩わしい><面倒だ><厄介だ><音が大き過ぎる><うるさい><わざとらしく嫌味だ><優れている><立派だ>

***「うるさし」<わざとらしく嫌味だ>*************
(字の下手な人が)、見苦しとて、人に書かするはうるさし。 (徒然草)
*********************************


(地の文3)B.<鎮魂>
<天皇家の繁栄が千年も続く>という定型的・表面的な美辞麗句とは違った、本音トークが出るわけでもないのだから、<わざとらしく嫌味>というものだ。

 

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和歌を再掲しましょう。

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(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は、神のかけたる木綿鬘かも
********************


「木綿鬘(ゆふかづら)」<神事に用いた、楮(こうぞ)の繊維で作った鬘(髪飾りなどの装飾品)>

「木綿鬘」の「かづら(鬘)」は「かづら(蔓)」「かづら(葛)」を連想させます。
「かづら(蔓)」「かづら(葛)」<草木の「つる」><ツタ><つる植物の総称>

ところで、
「葛」という字には、「かづら」「かつ」「かど」「つら」「くず」「ふぢ」など、数多くの読み方があります。
例えば、第51代平城天皇の皇子、阿保親王を産んだのは、葛井藤子(ふぢゐのふぢこ)です。

それにしても、「ふぢゐのふぢこ」って、<どんだけ藤が好きなんだよ!>と思わずツッコミたくなりますが、まあそれは置いといて、
上述のように、つる(蔓)性植物の藤は、「かづら(蔓)」を伸ばします。

(紫上19)の和歌に、
<天皇家>を象徴する「松」と、
「藤」<藤原氏>を暗示する「かづら(葛)」
がともに含まれていることは、興味を引きます。


また、
「うるさくてなむ」の係助詞「なむ」は「なむ(南無)」をも連想させます。

「なむ(南無)」<帰依する><全てを任せてすがる><仏の加護を祈る感動詞>

ちなみに、聖徳太子は、はや二才で「なむぶつ(南無仏)」と唱えたそうです。

当時は1052年から「末法」の時代に入る、と考えられていたそうです。
つまり、死後、輪廻転生より、来世で仮に幸運に人間に生まれ変われたとしても、すぐ末法の時代に突入してしまい、浄土往生の見込みはほぼなくなる、ということです。
そのため、貴族は今生での浄土往生を願い、晩年こぞって出家しました。
紫式部ももちろんその一人です。
ちなみに、ご自身も仏道に入られた瀬戸内寂聴さんは、浮舟の落飾シーンの描写が、自らの体験に照らして、余りに具体的でリアルなので、「浮舟」の帖は、紫式部が出家した後に執筆されたのではないか、と想像されています。


「なむ」は「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」などの、「なむ(南無)」をも連想させます。


***「なむ(南無)」*******************
念仏百返ばかり唱へつつ、「なむ」と唱ふる声とともに、海へぞ入り給ひける。(「平家物語」巻十、「維盛入水」)
*****************************

ところで、
「連用形中止法」は、<接続助詞を用いない接続表現>の、最も代表的なものです。

**********************
花をめで、鳥をうらやみ、霞をあはれび、露をかなしぶ心 (古今集、序)
**********************


***<接続助詞を用いない接続表現>********
(1)連用形中止法
(2)「こそ~已然形」<逆接><順接>や、
(3)「已然形+係助詞」
(4)「こそ」単独型
(5)終止形による接続表現
、、、、
などがあります。
(参考:小田勝「古典文法総覧」)
**************************


「なむ」に「なむ(南無)」<臨終の念仏><臨終>のイメージを重ね、
上記の(地の文3)を、試しにムリヤリ訳してみましょう。


「松の千歳」より離れていまめかしきことなければ、うるさくて なむ。
                              南無


(地の文3)C.<鎮魂>
<天皇家の繁栄が千年も続く>という定型的・表面的な美辞麗句とは違った、本音トークが出るわけでもないのだから、
<わざとらしく嫌味>でね。
(それにしても天皇家はおいたわしいことです)

 

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ついでに「大鏡」の方も振り返っておきましょう。


「うせなむずる」の「なむ」は「なむ(南無)」をも連想させます。

「うせ(失せ)」サ行下二段動詞「失す」連用形<消える><なくなる><行方不明になる><死ぬ><去る>
「な」<助動詞「ぬ」未然形><完了>
「むずる」<助動詞「むず」連体形><推量>:(係り結び)
ちなみに、<完了>+<推量>は、しばしば<確述>を含意します。


「うせなむずる」を、
「うせ、なむする(失せ、南無する)」
と(強引に)してみましょう。

句読点や濁点を打つ習慣の無かった当時、
これらはともに「うせなむする」と表記されました。


上記と同じく、
「なむ」に「なむ(南無)」<臨終の念仏><臨終>のニュアンスをムリヤリ重ね、
(大鏡)の文を、試しに訳してみましょう。


      木
藤かかりぬるきは枯れぬるものなり。いまぞ紀氏はうせ なむ ずる
      紀                   南無 する


(大鏡)C.<鎮魂>
藤(のツル)が掛かった「き(木)」「き(紀)」<紀氏>は枯れてしまうものだ。
そのうちきっと紀氏は滅んで(「南無阿弥陀仏」と唱える)ことになるよ。

さすがにムリヤリ感が強過ぎますかね。


まあ、何にせよ、これらの想像の内容そのものが正しいか否かはさておき、
上記のような<通り一遍でない何か>を求めて、
ここではあえて通常とは異なる方法で、解釈の選択肢の探索を試みています。

 

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(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は神のかけたる木綿鬘かも (2) へ続く。

 

****参照:(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は神のかけたる木綿鬘かも (2)

 

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(注224496):(玉鬘20).の「わかな(若菜)」「わがな(我が名)」<藤原氏>と「松の千歳」について

2021-01-16 19:51:40 |  <暗号を解く鍵><紫式部が送ってくれたサイン>

 

(注224496):(玉鬘20).の「わかな(若菜)」「わがな(我が名)」<藤原氏>と「松の千歳」について


(玉鬘20).若葉(若菜)さす野辺の小松をひきつれて もとの岩根をいのるけふかな


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当時、言葉は「ことだま(言霊)」とも呼ばれ、口にした瞬間、あるいは文字にした瞬間に「たま(魂)」を持ち、現実のものとなる、と考えられていました。
そのため、「忌み言葉」などと言って、不吉なこと、縁起でもないことを言葉にするのを、当時の人は極端に忌み嫌いました。
また、人の名前「人名」は、単なる言葉、文字列ではなく、本人の<魂そのもの>、と考えられていました。
例えば、不用意に名前を知られると、それを呪詛に用いられる、というような恐れもあり、
職務上どうしても必要な場合や、よほど親しい間柄にならない限り、本名を知らせる、ということはありませんでした。

例えば、紫式部は、父親の官職が式部丞で、書いた物語の登場人物(光源氏の妻)が紫上だから、そう呼ばれていた、というだけで、本当の本名は分かっていません。本名は「藤原香子(たかこorかをりこ)」だった、という説があるだけで、あくまでそれは道長の「御堂関白記」(道長の日記)に残る女性の名と結びつけただけの想像、仮説に過ぎません。
清少納言も、父親の官職名が少納言であったことから、そう呼ばれるようになった、というだけの、いわゆる「通称」「あだ名」の類であって、こちらも本名は不明です。
(参考:大塚ひかり「面白いほどよくわかる源氏物語」)


それは、当時の現実社会だけでなく、「源氏物語」の中の登場人物でも同じです。
例えば、光源氏は、そのまばゆいほどの美しさから、周囲が「光る君」と呼ぶようになった、というだけです。
<姓が源氏、名が光>ではありません。
桐壺更衣は、後宮の桐壺という部屋に住んでいた更衣(女御より下位の妃)だから、
藤壺宮も、同じく後宮の藤壺という部屋に住んでいた中宮だから、そう呼ばれているだけで、本名は源氏物語のどこを探しても載っていません。
六条御息所は、平安京の六条通りに自邸がある、「御息所」<皇子を産んだ女性><皇太子の妃>という意味で、これも本名ではありません。
夕顔は自宅の生垣に夕顔が生えていた、というだけ、
また、朧月夜に至っては、光源氏と初めて会ったのが、朧月夜の晩だった、というだけの話です。

このように、源氏物語の登場人物の呼び名は、基本的に全て「通称」「あだ名」に過ぎないのです。

しかし、主要登場人物の内、ただ一人、本名が物語中に記されている人がいます。
それがこの「玉鬘」で、その本名は「藤原瑠璃(るり)」君です。

***「玉鬘」<藤原瑠璃>**********
例の藤原の瑠璃君(るりぎみ)といふが御ためにたてまつる。。。
(源氏物語「玉鬘」帖)
***********************


唯一本名が分かっている登場人物で、しかもそれが「藤原」一族であることを明瞭に示している玉鬘が、
この歌の詠み手であることは興味を引きます。


「わかな(若菜)」は「わがな(我が名)」を連想させます。
濁点を打つ習慣の無かった当時、これらはともに「わかな」と表記されました。


「わがな(我が名)」<私の名前><藤原瑠璃><藤原一族>

 


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***「わかな(若菜)」「わがな(我が名)」<藤原瑠璃><藤原氏>*******

(玉鬘20).若葉(若菜)さす野辺の小松をひきつれて もとの岩根をいのるけふかな


(玉鬘20)A. 
若葉を出す野辺の小松の根を引くにつけ、根本の大岩との繋がりを思う今日です。


@(玉鬘20)B. 
若葉を出す野辺の小松(ふたりの子供)をともに連れて、もとの岩根(光源氏)の長寿をお祈りする今日です。


(玉鬘20)C.
「我が名」<私の名><玉鬘の血筋>を指差して、
(どちらが本当の親か?と聞く)、
「小松」<玉鬘の子><頭中将の実の孫><源氏の育ての孫>たちを引き連れて、
(今日の源氏の四十の賀(長寿のお祝い)にやって来ましたが)、
根もと(祖先)がどちらとは「言はね」<言わないけれど>、
内大臣<生みの親:藤原氏>の幸せも、光源氏<育ての親:源氏>の幸せも、ともに祈る今日の「子の日」ですよ。


(玉鬘20)D.<鎮魂>
「わがな(我が名)」<私の名前><藤原瑠璃>が指し示す<藤原一族>が、
「野辺の小松」<野辺送り(葬送)となった有間皇子>を「引き連れて」<護送して>、(謀殺した。)
そのもととなった(のは中臣鎌足の陰謀だが)、そのことは、
「言はね」<言わない>と願う、今日の「初子の日」頃ですよ。

**************************************

 

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「野辺」<野辺><野の辺り><野原><火葬場>
「野辺送り」とは<葬送>
「野辺の煙」とは、<火葬の煙>、転じて<死>を意味することがあります。


「のべ(野辺)」が「のべ(延べ)」をも連想させることは、興味を引きます。

「のべ(延べ)」<「のぶ(延ぶ)」の連用形(転成名詞)>
「延ぶ」<延ばすこと><延びること><生え伸びること><生え伸ばすこと>

「葛」という字には、「かづら」「かつ」「かど」「つら」「くず」「ふぢ」など、数多くの読み方があります。
例えば、第51代平城天皇の皇子、阿保親王を産んだのは、葛井藤子(ふぢゐのふぢこ)です。


それにしても、「ふぢゐのふぢこ」って、<どんだけ藤が好きなんだよ!>と叫びたくなりますが、それはさておき、
つる(蔓)性植物の藤は、「かづら(蔓)」を伸ばします。

「かづら(蔓)」を伸ばす「つる草」は、古来、神事において、しばしば装飾品として用いられます。
例えば、アメノウズメノミコトが、天照大神を天岩戸から誘い出す時にも、ヒカゲノカズラを身にまとって踊りました。

「鬘(かづら)」<髪飾り>という言葉は、「かづら(蔓)」<つる草>から来ています。


(玉鬘20).の和歌の詠み手は「玉鬘」ですが、
「かづら(鬘)」が「かづら(蔓)」<つる草>を通じて、「藤」<藤原氏>を連想させることも興味を引きます。

 


さて、
一年生草本の夕顔などのか細いつると異なり、多年生木本の藤のつるは、年々肥大し、時に絡みついた本体の木を締め上げて枯らしてしまうほど、圧倒的な存在感があります。

ちなみに、「ふぢ(藤)」の音は、古来「ふし(不死)」と結び付けられたそうです。
樹齢五百年を越えるような藤も多く、なかでも春日部市牛島の藤は樹齢千年だそうです。(大貫茂「花の源氏物語」)

 

***「藤かかりぬる木は枯れぬるものなり。いまぞ紀氏はうせなむずる」**************
「大鏡」「道長(藤原氏物語)」
(大鏡).
内大臣鎌足の大臣、藤氏の姓賜りたまひての年の十月十六日に亡せさせたまひぬ。御年五十六。大臣の位にて二十五年。
この姓の出でくるを聞きて、紀氏(きのうぢ)の人の言ひける、
「藤かかりぬる木は枯れぬるものなり。いまぞ紀氏はうせなむずる」
とぞのたまひけるに、まことにこそしかはべれ。

「き(木)」は「き(紀)」<紀氏>を連想させます。

      木
藤かかりぬるきは枯れぬるものなり。いまぞ紀氏はうせなむずる」
      紀

(大鏡)B.<鎮魂>
藤(のツル)が掛かった「き(木)」「き(紀)」<紀氏>は枯れてしまうものだ。
そのうちきっと紀氏は滅んでしまうよ。

************************************************

 


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「松と藤」は屏風絵の定番モチーフで、しばしば「松」は<天皇家>、それに絡まる「藤」は<藤原家>を指します。(「和歌植物表現辞典」)

******「松」<天皇家>「藤」<藤原家>「春日」「春日大社」<藤原氏の氏神>************
(後拾遺集440).千歳ふるふたばの「松」にかけてこそ「藤」の若枝は「春日」さかえめ (賀、源顕房)
****************************************************
奈良の春日山にある春日大社は藤原氏の氏神です。「春日詣で」、とは春日大社参詣、とくに藤原氏の氏長者による参詣を言います。
(ちなみに源氏の氏神は八幡神社です。その総本社である大分県の宇佐八幡神宮は応神天皇と神功皇后を祀っています)

藤は花穂の連なる様子が、しばしば<波>に例えられ、「藤波」という言葉も常用されます。

「藤」<藤原氏><摂関家>
「松」<天皇家>

*****************
(薫5 大島本).手にかくるものにしあらば藤の花 松よりまさる色を見ましや
*****************

詳細は上記和歌のファイルをご参照下さい。


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さて、
「松の千歳」「うるさくてなむ」と語る語り部が登場するのは、「若菜」の下巻ですが、
「若菜」という帖名の由来は、この(玉鬘20)の歌の「若菜」に他なりません。

 

***「若菜下」の帖の語り部「うるさくてなむ」*****************
(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は、神のかけたる木綿鬘かも

(地の文3).
次々、数知らず多かりけるを、何せむにかは聞きおかむ。
かかるをりふしの歌は、例の上手めきたまふ男たちもなかなか出で消えして、「松の千歳」より離れていまめかしきことなければ、「うるさくてなむ」。
@(地の文3)A.
次々、歌が詠まれて、数え切れぬくらいたくさんあったのだが、何もそう聞きおくことはあるまい。こうした折の歌は、例の巧者を自認しておられる男性たちも、かえって詠みばえしないもので、「松の千歳」のような<決まり文句>以上の今風の趣向があるわけでもないのだから、<わざわざ取り上げるのもわずらわしい>というものだ。
****************************************


「まつ(松)」は「まつ(待つ)」の掛詞としても常用されます。

「"松"の千歳」を「"待つ"の千歳」としてみましょう。

「"待つ"の千歳」<待つの千歳><千年待つ><ひたすら待ち続ける千年間>

源氏物語は、1008年頃の成立とされており、「源氏物語千年紀」などを起算する場合、この1008年という年号が用いられます。
それは、奇しくも、我々の現代から、千年前の時代に当たります。

「"待つ"の千歳」とは、道長の恐怖政治の下、言いたいことも言えなかった平安当時から、科学的合理主義と民主的な政治システムが浸透しているであろう千年後の現在に望みを託して、紫式部が発信したメッセージなのかも知れません。


「"待つ"の千歳」<ひたすら待ち続ける千年間><合理主義・民主主義が浸透するまで、千年間ひたすら待ち続けること>

 

(地の文3).
「"待つ"の千歳」より離れて、いまめかしきことなければ、うるさくてなむ。


(地の文3)B.<読み替え>
(道長の恐怖政治下で、言いたいことも言えない平安時代ではなく)、
「"待つ"の千歳」<合理主義・民主主義が浸透するまで、千年間ひたすら待ち続ける>以外には、目新しい(進歩)も無いので、(同時代の人々にイチから説明するのも)一筋縄ではいかない、というものだ。

 


詳細は、「暗号を解く鍵:紫式部が送ってくれたサイン」のファイルをご参照下さい。

 

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*****

 

「"松"の千歳」は、
「"待つ"の千歳」というメッセージを託して、紫式部が千年後の我々に向けて送ってくれた<サイン><ヒント><合図>なのかも知れません。


******************
大学教授:よし、合言葉を決めよう。「貧」と「乳」だ。
(映画「トリック」)
******************

 

************************
何その上手いこと言ったみたいな顔。腹立つ。
(増田こうすけ「ギャグまんが日和」妖怪ろくろ首)
************************


これが言いたかったために、「サイン」「ヒント」の話題をわざわざ付け足しました。
長い前フリですみません。


とはいえ、乗りかかった船なので、ひと段落するまでためしに書き続けてみましょう。
興味の無い人は、ここで読み終わって頂いてかまいません。
ここまでお付き合いありがとうございました。

 


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(注224491):(玉鬘20).の「わかな(若菜)」「わがな(我が名)」<藤原氏>と「松の千歳」について

2021-01-16 19:49:31 |  <暗号を解く鍵><紫式部が送ってくれたサイン>

 

(注224491):(玉鬘20).の「わかな(若菜)」「わがな(我が名)」<藤原氏>と「松の千歳」について


(玉鬘20).若葉(若菜)さす野辺の小松をひきつれて もとの岩根をいのるけふかな


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***「わかな(若菜)」「わがな(我が名)」<藤原瑠璃><藤原氏>*******

(玉鬘20).若葉(若菜)さす野辺の小松をひきつれて もとの岩根をいのるけふかな


(玉鬘20)A. 
若葉を出す野辺の小松の根を引くにつけ、根本の大岩との繋がりを思う今日です。


@(玉鬘20)B. 
若葉を出す野辺の小松(ふたりの子供)をともに連れて、もとの岩根(光源氏)の長寿をお祈りする今日です。


(玉鬘20)C.
「我が名」<私の名><玉鬘の血筋>を指差して、
(どちらが本当の親か?と聞く)、
「小松」<玉鬘の子><頭中将の実の孫><源氏の育ての孫>たちを引き連れて、
(今日の源氏の四十の賀(長寿のお祝い)にやって来ましたが)、
根もと(祖先)がどちらとは「言はね」<言わないけれど>、
内大臣<生みの親:藤原氏>の幸せも、光源氏<育ての親:源氏>の幸せも、ともに祈る今日の「子の日」ですよ。


(玉鬘20)D.<鎮魂>
「わがな(我が名)」<私の名前><藤原瑠璃>が指し示す<藤原一族>が、
「野辺の小松」<野辺送り(葬送)となった有間皇子>を「引き連れて」<護送して>、(謀殺した。)
そのもととなった(のは中臣鎌足の陰謀だが)、そのことは、
「言はね」<言わない>と願う、今日の「初子の日」頃ですよ。

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「かづら(蔓)」を伸ばす「つる草」は、古来、神事において、しばしば装飾品として用いられます。
例えば、アメノウズメノミコトが、天照大神を天岩戸から誘い出す時にも、ヒカゲノカズラを身にまとって踊りました。

「鬘(かづら)」<髪飾り>という言葉は、「かづら(蔓)」<つる草>から来ています。


(玉鬘20).の和歌の詠み手は「玉鬘」ですが、
「かづら(鬘)」が「かづら(蔓)」<つる草>を通じて、「藤」<藤原氏>を連想させることも興味を引きます。

 


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さて、
「松の千歳」「うるさくてなむ」と語る語り部が登場するのは、「若菜」の下巻ですが、
「若菜」という帖名の由来は、この(玉鬘20)の歌の「若菜」に他なりません。

 

***「若菜下」の帖の語り部「うるさくてなむ」*****************
(紫上19).住の江の松に夜ふかくおく霜は、神のかけたる木綿鬘かも

(地の文3).
次々、数知らず多かりけるを、何せむにかは聞きおかむ。
かかるをりふしの歌は、例の上手めきたまふ男たちもなかなか出で消えして、「松の千歳」より離れていまめかしきことなければ、「うるさくてなむ」。
@(地の文3)A.
次々、歌が詠まれて、数え切れぬくらいたくさんあったのだが、何もそう聞きおくことはあるまい。こうした折の歌は、例の巧者を自認しておられる男性たちも、かえって詠みばえしないもので、「松の千歳」のような<決まり文句>以上の今風の趣向があるわけでもないのだから、<わざわざ取り上げるのもわずらわしい>というものだ。
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「まつ(松)」は「まつ(待つ)」の掛詞としても常用されます。

「"松"の千歳」を「"待つ"の千歳」としてみましょう。

「"待つ"の千歳」<待つの千歳><千年待つ><ひたすら待ち続ける千年間>

源氏物語は、1008年頃の成立とされており、「源氏物語千年紀」などを起算する場合、この1008年という年号が用いられます。
それは、奇しくも、我々の現代から、千年前の時代に当たります。


「"待つ"の千歳」とは、道長の恐怖政治の下、言いたいことも言えなかった平安当時から、科学的合理主義と民主的な政治システムが浸透しているであろう千年後の現在に望みを託して、紫式部が発信したメッセージなのかも知れません。


「"待つ"の千歳」<ひたすら待ち続ける千年間><合理主義・民主主義が浸透するまで、千年間ひたすら待ち続けること>

 

(地の文3).
「"待つ"の千歳」より離れて、いまめかしきことなければ、うるさくてなむ。


(地の文3)B.<読み替え>
(道長の恐怖政治下で、言いたいことも言えない平安時代ではなく)、
「"待つ"の千歳」<合理主義・民主主義が浸透するまで、千年間ひたすら待ち続ける>以外には、目新しい(進歩)も無いので、(同時代の人々にイチから説明するのも)一筋縄ではいかない、というものだ。

 

詳細は、「暗号を解く鍵:紫式部が送ってくれたサイン」のファイルをご参照下さい。

 

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「"松"の千歳」は、
「"待つ"の千歳」というメッセージを託して、紫式部が千年後の我々に向けて送ってくれた<サイン><ヒント><合図>なのかも知れません。


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大学教授:よし、合言葉を決めよう。「貧」と「乳」だ。
(映画「トリック」)
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何その上手いこと言ったみたいな顔。腹立つ。
(増田こうすけ「ギャグまんが日和」妖怪ろくろ首)
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これが言いたかったために、「サイン」「ヒント」の話題をわざわざ付け足しました。
長い前フリですみません。


とはいえ、乗りかかった船なので、ひと段落するまでためしに書き続けてみましょう。
興味の無い人は、ここで読み終わって頂いてかまいません。
ここまでお付き合いありがとうございました。

 


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(注772246):(玉鬘20).若葉(若菜)さす野辺の小松をひきつれて もとの岩根をいのるけふかな のメモ: 語彙、語法・文法、 連想詞の展開例など

2021-01-16 16:09:43 |  <暗号を解く鍵><紫式部が送ってくれたサイン>

 


(注772246):(玉鬘20).若葉(若菜)さす野辺の小松をひきつれて もとの岩根をいのるけふかな のメモ:
語彙、語法・文法、
連想詞の展開例など

 

「小松引き」<正月の初子の日に、小松を引いて長寿を祈る行事>

「さす(差す)」サ行四段自動詞<(木の枝や葉が)伸びる><(雲が)湧き上がる><(潮が)満ちてくる><(色を)帯びる>


「紫草(むらさき)」<紫草>
「紫根(しこん)」<紫色の染料を採る>


「紫のゆかり」

*********************
紫の一本ゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る(古今、雑上、867、よみ人知らず)
紫の根延ふ横野の春野には君を懸けつつ鶯鳴くも (万葉集10、1825、作者未詳)
*********************


「根」<血筋>の例え

「岩」<磐石で、永久不変のもの>の例え
「岩根」「岩が根」<大地に根を下ろしたような大きな岩>


***「氏族」と「門」の名前 <音韻類似による連想> **********
氏族名:門の名前
「おほとも(大伴)」:応天門
「みぶ(壬生)」:美福門(呉音で「ミフク」)
「わかいぬかい(若犬甘)」:皇嘉(くわうか)門(呉音で「ワウカ」)
「やま(山)」:陽明(やうめい)門
「たけべ(建部)」:待賢(たいけん)門
*************************************


「小松引き」「若菜摘み」<初春の年中行事>

 

「若菜」<春先に生え出た食用の野草><正月の初めての子(ね)の日に食べる新菜>

「若菜」<邪気を除く縁起物><宮中では内膳司から七種の若菜を吸い物にして天皇に奉った>


「若菜摘み」<若菜を摘む、正月(現在の二月後半に相当)恒例の行事>


「わかな(若菜)」「わがな(我が名)」「わかな」

「わがな(我が名)」<私の名><自分の名前><自分の血筋>
「わかな(若菜)」<幼い子たち><愛しい我が子>


「分く」には、<区別する><判別する>の意味があります。


「わかな(若菜)」「わかぬ(分かぬ)」

「わかぬ(分かぬ)」 = 「分く」+ 打消「ず」連体形
          = <分からない>

 


「さす(指す)」<指す><指差す><目指す>


「玉鬘」<頭中将の実子><源氏の養子>
「小松」<玉鬘の子><頭中将の実の孫><源氏の育ての孫>


「わがな(我が名)」<私の名><自分の名前><自分の血筋>
「わかぬ(分かぬ)」<分からない><(玉鬘の子たちは源氏と頭中将の)どちらが本当のおじいちゃんか判別できない>

 

 

***「いは」「言はじ」*******
かくとだに思ふ心を岩瀬山 下ゆく水の草隠れつつ (新古今1088)
*******************


***「いは」「言はむ」*************
君をこそ神もあはれといはし水 外より出でぬ流れと思へば (新続古今2090)
*************************


「いはね(岩根)」「言はぬ」「言はね」「言はねど」

 

「石清水八幡宮」も「言は」との掛詞となります。

「八幡神社」<源氏の氏神><総本社:大分県の宇佐八幡神宮><応神天皇と神功皇后を祀っている>

「春日大社」<藤原氏の氏神><奈良の春日山>
「春日詣で」<春日大社参詣><とくに藤原氏の氏長者による参詣>

 

「わがな(我が名)」<私の名><自分の名前><自分の血筋>

「小松」<玉鬘の子><頭中将の実の孫><源氏の育ての孫>

「さす(指す)」<指す><指し示す><指差す><目指す>

「分かぬ」<分からない><(玉鬘の子たちは源氏と頭中将の)どちらが本当のおじいちゃんか判別できない>


「玉鬘」「藤原瑠璃(るり)」


***「玉鬘」<藤原瑠璃>**********
例の藤原の瑠璃君(るりぎみ)といふが御ためにたてまつる。。。
(源氏物語「玉鬘」帖)
***********************

「わがな(我が名)」<私の名前><藤原瑠璃><藤原一族>

 


「松と藤」<屏風絵の定番モチーフ>

「松」<天皇家>
「藤」「藤波」<藤原氏><摂関家>

******「松」<天皇家>「藤」<藤原家>「春日」「春日大社」<藤原氏の氏神>************
(後拾遺集440).千歳ふるふたばの「松」にかけてこそ「藤」の若枝は「春日」さかえめ (賀、源顕房)
****************************************************
奈良の春日山にある春日大社は藤原氏の氏神です。「春日詣で」、とは春日大社参詣、とくに藤原氏の氏長者による参詣を言います。
(ちなみに源氏の氏神は八幡神社です。その総本社である大分県の宇佐八幡神宮は応神天皇と神功皇后を祀っています)

 

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(薫5 大島本).手にかくるものにしあらば藤の花 松よりまさる色を見ましや
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「野辺」<野辺><野の辺り><野原><火葬場>
「野辺送り」<葬送>
「野辺の煙」<火葬の煙>、転じて<死>


「のべ(野辺)」
「のべ(延べ)」<「のぶ(延ぶ)」の連用形(転成名詞)>

「延ぶ」<延ばすこと><延びること><生え伸びること><生え伸ばすこと>


「葛」「かづら」「かつ」「かど」「つら」「くず」「ふぢ」

「葛井藤子(ふぢゐのふぢこ)」<第51代平城天皇の皇子、阿保親王の生母>

<つる(蔓)性植物>「藤」<かづら(蔓)>

「夕顔」<一年生草本><か細いつる>
「藤」<多年生木本><年々肥大し、時に絡みついた本体の木を締め上げて枯らしてしまうほど太いつる>

「ふぢ(藤)」「ふし(不死)」
<樹齢五百年を越えるような藤も多い>
<春日部市牛島の藤は樹齢千年>

 

***「藤かかりぬる木は枯れぬるものなり。いまぞ紀氏はうせなむずる」*********
「大鏡」「道長(藤原氏物語)」
(大鏡).
内大臣鎌足の大臣、藤氏の姓賜りたまひての年の十月十六日に亡せさせたまひぬ。御年五十六。大臣の位にて二十五年。
この姓の出でくるを聞きて、紀氏(きのうぢ)の人の言ひける、
「藤かかりぬる木は枯れぬるものなり。いまぞ紀氏はうせなむずる」
とぞのたまひけるに、まことにこそしかはべれ。
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「き(木)」「き(紀)」<紀氏>

 

「万葉集」<犯罪者の歌集><長屋王、有間皇子、大津皇子など>「国家的犯罪者」「逆賊」


「初子の日」<新年の最初の子の日><「若菜摘み」や「小松引き」の正月行事を行う>


「初子の日」
「初子(はつね)」
「初子(うひご)」

「初子」<初めての子><第一皇子>


「旅」<白浜まで連行される旅><刑死までの護送>


「いひ(飯)」「しひ(椎)」

「し」「死」


「いひ(家)」「いは(家)」「いはろ(家ろ)」<上代東国方言><家>

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(万葉集 20/4343).我ろ旅は旅と思ほど家(いひ)にして子持ち痩すらむ我が妻愛しも (玉作部廣目 防人歌)
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「いひ(家)」「しひ(椎)」


<護送の末に有間皇子が処刑された場所>:
「紀伊の国」<現在の和歌山県>の海沿いの町「海南市」、
「藤白(ふぢしろ)の坂」<海南市藤白神社の近く>

 

「かひなき(貝無き)海」<貝のいない海><淡水湖>「淡海(あはみ)」「近江(あふみ)」<琵琶湖>


***「かひ(貝)なき海」「しほ(塩)ならぬ海」**********
(光源氏137).わくらばに行きあふみちを頼みしも なほ「かひなし」や「しほならぬ」海
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「かひなき(貝無き)海」<琵琶湖><幾多の合戦の戦場>
「言ふかひ(甲斐)なくなる海」<死の海><血の海>

 

***「かひなき(貝無き)海」「たちかさね(太刀重ね)」********
(源典侍3).うらみても言ふ「かひぞなき」「たちかさね」引きてかへりし波のなごりに
「たちかさね(立ち重ね)」<(波が)立ち重なって>
「たちかさね(太刀重ね)」<(兵士が)太刀を重ね合って>
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「壬申の乱」
<大海人皇子軍が、大友皇子軍を琵琶湖東岸の北から南へと追い立て、最期は近江大津京まで追い詰めた>
<大津京は火に包まれ、大友皇子は自害>
<第38代天智系の皇統は断絶>


***「あま(海人)」「かひなき(貝無き)海」*******
(明石上3).かきつめて「あま」のたく藻の思ひにも今は「かひなき」うらみだにせじ
「あま(海人)」<大海人皇子><天武天皇>
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<有間皇子の「死出の旅」><海岸沿いの旅>:万葉集「挽歌」冒頭二首


***「松」「磐」「岩」**************
(万葉集 02/0141).磐白(いはしろ)の浜松が枝を引き結び ま幸くあらばまた帰り見む (挽歌 有間皇子「結び松」)
(万葉集 02/0142).家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る (挽歌 有間皇子)
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<中大兄皇子の皇統を断った>「壬申の乱」
<琵琶湖>「かひ(貝)なき海」「言ふかひ(甲斐)なくなる海」<死の海><血の海>
「しほ(塩)ならぬ海」<淡水湖>


<中大兄皇子の皇統の出発点><有間皇子の「死出の旅」><海岸沿いの旅>

 

「みる(見る)」「みる(海松)」

「みる(海松)」<海藻の総称><海辺の松の木>

***「みる(海松)」「うみまつ(海松)」**********
(光源氏129).海松や時ぞともなきかげにゐて何のあやめもいかにわくらむ
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「みる(海松)」「かひ(貝)」<海岸>

 


「野辺の小松」<野辺送り(葬送)となった有間皇子>

「わがな(我が名)」<私の名前><藤原瑠璃>

「さす(指す)」<指し示す>

「ひく(挽く)」<(死人を)挽いて>
「引き連れて」<(謀反人を)引き連れて><護送して>

「挽歌」<葬送のとき、棺を載せた車を挽く人たちが歌う歌>

 

「磐」「岩」「松」

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(万葉集 02/0141).磐白(いはしろ)の浜松が枝を引き結び ま幸くあらばまた帰り見む (挽歌 有間皇子「結び松」)
(万葉集 02/0142).家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る (挽歌 有間皇子)

「しひ(椎)」<椎の木>
「いひ(家)」<上代東国方言><家>

「いひ」<ご飯>
「しひ」<椎>
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「旅にしあれば」
「旅に死あれば」

「たび(旅)」
「だび(荼毘)」<火葬の煙>

「野辺」<火葬>「だび(荼毘)」

 

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「已然形」<単独で、順接、逆接の条件>(上代)


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(順接) 家離りいます吾妹を停めかね 山隠しつれ心どもなし (万葉集、3-471)
(逆接) 大舟を荒海にこぎ出弥舟たけ わが見し子らがまみは著しも (万葉集、7-1266)
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「已然形終止」:

***「已然形終止」********************
(小田勝「古典文法総覧」p.92)
(男女の仲は崩れ始めると)なごりなきやうなることなどもみなうちまじるめれ。(源氏物語「椎本」)
これ(この歌)やこの腹立つ大納言のなりけんと見ゆれ。(源氏物語「宿木」)
つれなくのみもてなして御覧ぜられ奉り給ふめりしか」と(右近は源氏に)語り出づるに。(源氏物語「夕顔」)
わが方ざまに(自分の婿にしようと)思ふべかめれ。(源氏物語「紅梅」)
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「もとの言はね」<祖先のことは言わない><藤原氏の祖先、中臣鎌足のことは言わない>


「小松」<子孫>
「もとの岩根」<祖先>

 


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(玉鬘20).若葉(若菜)さす野辺の小松をひきつれて もとの岩根をいのるけふかな

2021-01-16 15:58:22 |  <暗号を解く鍵><紫式部が送ってくれたサイン>

 

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(玉鬘20).若葉(若菜)さす野辺の小松をひきつれて もとの岩根をいのるけふかな


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この本は「教科書」「参考書」の類ではありません。

皆さんに「教える」のではなく、どちらかと言うと、皆さんと「一緒に考える」ことを企図して書かれた本です。
また、私の主観も随所に入っていますが、私はこの方面の専門家でもありません。


ですから、
<効率よく知識を仕入れる><勉強のトクになるかも>
などとは、間違っても思わないようにして下さい。
いわゆる「学習」「勉強」には、むしろマイナスに働くでしょう。


上記のことを十分ご了解の上で、それでもいい、という人だけ読んでみて下さい。


ただし、
教科書などに採用されている、標準的な解釈の路線に沿った訳例は、参考として必ず示してあり、
その場合、訳文の文頭には、「@」の記号が付けてあります。


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時々「(注)参照」とありますが、それは末尾の(注)をご参照下さい。
ただし、結構長い(注)もあり、また脱線も多いので、最初は読み飛ばして、本文を読み終えたのちに、振り返って読む方がいいかもしれません。

なお、(注)の配列順序はバラバラなので、(注)を見るときは「検索」で飛んで下さい。

 

あちこちページを見返さなくてもいいように、ダブる内容でも、その場その場で、出来る限り繰り返しを厭わずに書きました。
その分、通して読むとクドくなっていますので、読んでいて見覚えのある内容だったら、斜め読みで進んで下さい。
電子ファイルだと、余りページ数を気にしなくて済むのがいいですね。


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(玉鬘20).若葉(若菜)さす野辺の小松をひきつれてもとの岩根をいのるけふかな13.txt


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要旨:


(玉鬘20)の和歌に含まれる、
「小松」<子><子孫>や、
「もとの岩根」<親><祖先>という表現は、
<血筋>というものを連想させる。


頭中将を実父に、光源氏を養父に持つ玉鬘が、
初春の「子(ね)の日」の祝いに、子連れで源氏のもとを訪れ、そこで詠んだ歌について、
<血筋>への連想を背景として、解釈を試みた。


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目次:


(玉鬘20).若葉(若菜)さす野辺の小松をひきつれて もとの岩根をいのるけふかな


メモ:
語彙、語法・文法、
連想詞の展開例など

 

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では、始めましょう。

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源氏四十の儀で、玉鬘が源氏に贈ったお祝いの和歌です。
ちなみに当時は四十歳を超すと、「翁」と呼ばれ、長寿とされました。
「四十の賀」「五十の賀」など十年ごとに長寿の祝いが行われます。


(玉鬘20).若葉(若菜)さす野辺の小松をひきつれて もとの岩根をいのるけふかな

 

「小松引き」<正月の初子の日に、小松を引いて長寿を祈る行事>

「さす(差す)」サ行四段自動詞<(木の枝や葉が)伸びる><(雲が)湧き上がる><(潮が)満ちてくる><(色を)帯びる>


「紫草(むらさき)」<紫草>は、地に根を良く張り、まるで群落が地下でつながっているように見えます。
「紫根(しこん)」と呼ばれるその根から紫色の染料を採ります。

「紫のゆかり」など、親の種(くさはひ)から生える実生は、地上では離れていても、地中の根は繋がっているようなイメージがあったのでしょうか。
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紫の一本ゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る(古今、雑上、867、よみ人知らず)
紫の根延ふ横野の春野には君を懸けつつ鶯鳴くも (万葉集10、1825、作者未詳)
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「根」は血筋の例えにもなります。
「岩」は、<磐石で、永久不変のもの>の例えに用いられます。
「岩根」「岩が根」<大地に根を下ろしたような大きな岩>

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種しあれば岩にも松は生ひにけり 恋をし恋ひば逢はざらめやも (古今和歌集、恋、よみ人知らず)
種はあれど逢事かたき岩の上の松にて年をふるはかひなし (後撰和歌集、恋、よみ人しらず)

日本の岩には、"一枚岩"はなく、殆どの岩には割れ目が出来ているため、種子さえあれば岩の上にマツが生えることは十分に可能。
 (有岡「資料 日本植物文化誌」)
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(玉鬘20)A. 
若葉を出す野辺の小松の根を引くにつけ、根本の大岩との繋がりを思う今日です。

 

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後述するように、「いは(岩)」と「いは(言は)」は、掛詞として常用されます。


***「いは」「言はじ」*******
かくとだに思ふ心を岩瀬山 下ゆく水の草隠れつつ (新古今1088)
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***「いは」「言はむ」*************
君をこそ神もあはれといはし水 外より出でぬ流れと思へば (新続古今2090)
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「石清水(いはしみづ)八幡宮」も「いは(言は)」との掛詞となります。


ちなみに、
「八幡神社」は<源氏の氏神>であり、
その総本社である、大分県の「宇佐八幡神宮」は、<応神天皇>と<神功皇后>を祀っています。

詳細は下記和歌のファイルをご参照下さい。

***「うさ(憂さ)」「うさ(宇佐)」「こと(琴)」********
(光源氏85).別れしに悲しきことは尽きにしを またぞこのよのうさはまされる
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「いは(岩)」は「いは(言は)」を通じて、「いはしみづ(石清水)八幡宮」をも連想させます。

「石清水八幡宮」「八幡神社」<源氏の氏神>

「清水」「みづ(水)」「みつ(見つ)」<皇統の「純血」に冷泉帝という「水」を流し込んだ源氏>


詳細は下記和歌のファイルをご参照下さい。

***「真清水」「水」***************
(夕霧17).なれこそは岩もるあるじ見し人のゆくゑは知るや宿の「真清水」
(雲居雁4).なき人のかげだに見えずつれなくて心をやれるいさらゐの「水」
(古今集294).ちはやぶる神代も聞かず竜田川 唐紅に「水」くくるとは (伊勢物語)
**************************

 

 

玉鬘には、相次いで二人の子が生まれました。今日はその子たちも連れてきています。
松の二葉は、玉鬘の二人の子を思わせます。

松の根は親との絆を思わせ、源氏の益々の繁栄(茂り栄えること)と、末永く続く血筋を祈る気持ちが込められているようです。


@(玉鬘20)B. 
若葉を出す野辺の小松(ふたりの子供)をともに連れて、もとの岩根(光源氏)の長寿をお祈りする今日です。

 

 

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ところで、
平安京の造作に当たって、各氏族は自前の資力・労力で門を造営し朝廷に献上しました。
その際、各氏族の名前と類似する音韻を持つように門の名前が付けられました。

***「氏族」と「門」の名前 <音韻類似による連想> **********
氏族名:門の名前
「おほとも(大伴)」:応天門
「みぶ(壬生)」:美福門(呉音で「ミフク」)
「わかいぬかい(若犬甘)」:皇嘉(くわうか)門(呉音で「ワウカ」)
「やま(山)」:陽明(やうめい)門
「たけべ(建部)」:待賢(たいけん)門
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これを見ると、当時の人々の「音韻」の類似による<連想>の幅が、現代人の想像よりはるかに豊かであったことが分かります。

ちなみに、「応天門の変」では、大伴善男が源信を犯人に仕立て上げようとして、大伴氏の門である「応天門」にあえて放火した、と言う説もあります。

 

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上述の「小松引き」と並ぶ初春の年中行事に、「若菜摘み」があります。


***「正月」「若菜」**************
(「枕草子」第二段)
正月。一日は、まいて空の景色うらくと珍しく、かすみこめたるに、世にありとある人は、姿容心ことにつくろひ、君をもわが身をも祝ひなどしたるさま、殊にをかし。
七日は、雪間の「若菜」青やかに摘み出でつつ、例はさしもさる物目近からぬ所にもてさわぎ、白馬見んとて、里人は車きよげにしたてて見にゆく。
*************************


「若菜」<春先に生え出た食用の野草><正月の初めての子(ね)の日に食べる新菜>

「若菜」は<邪気を除く縁起物>として、宮中では内膳司から七種の若菜を吸い物にして天皇に奉りました。

「若菜摘み」とは、その若菜を摘む、正月(現在の二月後半に相当)恒例の行事です。

 

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「若葉」を「若菜」とする写本もあります。

「わかな(若菜)」は「わがな(我が名)」を連想させます。
濁点を打つ習慣の無かった当時、これらはともに「わかな」と表記されました。


「わがな(我が名)」<私の名><自分の名前><自分の血筋>


***「玉鬘」「祖(おや)の名」*********
(万葉集 3/0443).玉鬘 いや遠長く 祖(おや)の名も 継ぎ行くものと、、、、
************************

 

    挿す
若菜  差す                 岩根       今日
わかな さす 野辺の小松をひきつれて もとの いはねを いのる けふかな
わがな 指す                 言はね
我が名
分かぬ?

 

「分く」には、<区別する><判別する>の意味があります。


「わかな(若菜)」の音韻は、「わかぬ(分かぬ)」をも連想させることは、興味を引きます。

「わかぬ(分かぬ)」 = 「分く」+ 打消「ず」連体形
          = <分からない>

 


「さす(指す)」<指す><指差す><目指す>


「玉鬘」<頭中将の実子><源氏の養子>
「小松」<玉鬘の子><頭中将の実の孫><源氏の育ての孫>


「わがな(我が名)」<私の名><自分の名前><自分の血筋>
「わかぬ(分かぬ)」<分からない><(玉鬘の子たちは源氏と頭中将の)どちらが本当のおじいちゃんか判別できない>


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玉鬘の実父は頭中将(内大臣)です。光源氏は、実は養父に過ぎません。

優しい夫と子宝に恵まれ、今でこそ幸せ絶頂の玉鬘ですが、ここに至るまでは紆余曲折の前半生でした。

玉鬘は、頭中将の<隠し子>としてこの世に生を受けました。
そして、玉鬘の実母である夕顔は、頭中将の正妻から様々な圧迫を受け、さらに、
源氏と関係したために、源氏の愛人であった六条御息所からも妬まれ、
玉鬘がまだ赤子同然の幼い頃に、夕顔は六条御息所の生霊にとり殺される、という禍々しい最期を迎えました。

そして、玉鬘は母親の死後すぐ筑紫に下向することとなり、さらに求婚者から逃げるようにまた京に戻る、など、波乱に満ちた前半生を送りました。
つまり、夕顔の死、引いては玉鬘のその後の幸福とは言い難い人生については、
源氏にも当然大きな責任があり、養育はそのせめてもの罪滅ぼし、という側面もあったわけです。

とは言え、源氏が引き取って、貴族社会の文化や、教養作法など、貴族生活の諸々について、理想的な教育を施したおかげで、今は将来有望な男性を夫にし、子宝にも恵まれ、幸せを手にしたと言っていいでしょう。

というより、身分云々はさておき、いわゆる<一般的な女性としての幸福>を、最終的に手にしたのは、
源氏物語に登場する女性の中で、中宮(皇后)になった明石姫君と玉鬘だけ、といっても過言では無いほどです。

まるで、八人の愛人の内、一人を除いて全てが不幸な生涯を送ったピカソのようです。


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さて、
上述のように、「いは(岩)」と「いは(言は)」は、掛詞として常用されます。


******「古典文法総覧」p.670 ******************

以下では、否定語の無いところに否定語を補っています。
すなわち、正反対の意味になるということです。

かくとだに思ふ心を岩瀬山 下ゆく水の草隠れつつ (新古今1088)
「いは」と「言はじ」が掛詞とされる。

君をこそ神もあはれといはし水 外より出でぬ流れと思へば (新続古今2090)
「いは」と「言はむ」が掛詞とされる。

否定語を補うことすら許すのは、さすがに「得手勝手」「ご都合主義な」読解姿勢であるように感じられますが、慣習ではこれも認められています。
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「いはね(岩根)」を「言はぬ」「言はね」「言はねど」としてみましょう。

 

ちなみに、
上代では、已然形は単独で、順接、逆接の条件として用いられました。

また、
係り結びの係助詞「こそ」がなくても、文を已然形で終止させることがあります。
これを「已然形終止」と言います。

***「已然形終止」********************
(小田勝「古典文法総覧」p.92)
(男女の仲は崩れ始めると)なごりなきやうなることなどもみなうちまじるめれ。(源氏物語「椎本」)
これ(この歌)やこの腹立つ大納言のなりけんと見ゆれ。(源氏物語「宿木」)
つれなくのみもてなして御覧ぜられ奉り給ふめりしか」と(右近は源氏に)語り出づるに。(源氏物語「夕顔」)
わが方ざまに(自分の婿にしようと)思ふべかめれ。(源氏物語「紅梅」)
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    挿す
若菜  差す                 岩根       今日
わかな さす 野辺の小松をひきつれて もとの いはねを いのる けふかな
わがな 指す                 言はね
我が名                    言はぬ
分かぬ?


「わがな(我が名)」<私の名><自分の名前><自分の血筋>

「小松」<玉鬘の子><頭中将の実の孫><源氏の育ての孫>

「さす(指す)」<指す><指し示す><指差す><目指す>

「分かぬ」<分からない><(玉鬘の子たちは源氏と頭中将の)どちらが本当のおじいちゃんか判別できない>

 

(玉鬘20)C.
「我が名」<私の名><玉鬘の血筋>を指差して、
(どちらが本当の親か?と聞く)、
「小松」<玉鬘の子><頭中将の実の孫><源氏の育ての孫>たちを引き連れて、
(今日の源氏の四十の賀(長寿のお祝い)にやって来ましたが)、
根もと(祖先)がどちらとは「言はね」<言わないけれど>、
内大臣<生みの親:藤原氏>の幸せも、光源氏<育ての親:源氏>の幸せも、ともに祈る今日の「子の日」ですよ。


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我々がふだん目にする松(アカマツやクロマツ)は葉が二本一組になっていますね。
ゴヨウマツ(五葉松)では五本、カラマツ(落葉松)では二十~三十本が一組になっています。


源氏の明石での<隠し子>明石姫君も、実母から養母に引き取られるとき、「ふたばの松」に例えられました。

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(明石15).末遠きふたばの松にひきわかれいつか木だかきかげをみるべき
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「ふたばの松にひきわかれ」とは<実の親>と<育ての親>に引き裂かれる苦悩の象徴なのかもしれません。


冷泉帝も明石姫君も薫も、みな<生みの親>と<育ての親>の存在に悩みました。
それは玉鬘も同じです。
貴族社会は身分が血筋で決まるため、おそらく今の我々には想像し難いほど、自らの出自にこだわらざるを得なかったことでしょう。


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当時の摂関政治においては、娘を天皇に嫁がせ、娘が皇子を産むと、父親は外戚(外祖父)として摂政や関白となり、政治権力を手にすることが出来ました。
そのような、后候補にさせるための娘を「后(きさい)がね」と言います。「后がね」は権力を手にしようとする貴族にとって何より大切な<持ち駒><実弾>でした。
源氏が実子の明石姫君のほか、六条御息所の娘(のちの梅坪女御)や内大臣の娘玉鬘を養子として引き取ったのには、もちろん「后がね」として使いたい思惑があったことでしょう。
それだけをみれば、「源氏は、自分自身のために<育ての親>になっただけじゃないか」と皆さんは思われるかもしれません。

しかし、子を立派に育て、良縁に結びつけることは当時も今も、気の抜けない苦労の連続であったはずです。
それは育児や教育のみにとどまりません。
将来有望な婿の選別や、悪い虫がつかないように、また変な噂が立たないよう、常に周囲に目配せすることも不可欠だからです。
なにせ、后候補となるライバルはわんさといるわけですから。

梅坪女御も玉鬘も、ある程度成長してから引き取ったので、その辺りの苦労は多少割り引かれるとしても、それでも打算だけで他人の子の面倒を見る苦労が続けられるものでもないでしょう。

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あなた、引き取るったって、犬や猫じゃないんだから。
子供を育てるって、本当に大変なことよ。
(映画「海街ダイアリー」)
******************

自分自身も、ふたりの子供を持つに至った玉鬘は、それを実感していたのではないでしょうか。


「もとの岩根(言はね)を祈る今日かな」を(玉鬘20)Cのように解釈したのはそんな理由からです。
玉鬘の場合、実の父内大臣は、当人に悪意はなかったにせよ、夕顔をはらませただけで、結果として玉鬘の養育には一切関わらなかったのですから、なおさらです。

 

この歌に対する源氏の返歌は以下をご参照下さい。

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(光源氏185).小松原末のよはひに引かれてや野べの若菜も年をつむべき
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ところで、当時、言葉は「ことだま(言霊)」とも呼ばれ、口にした瞬間、あるいは文字にした瞬間に「たま(魂)」を持ち、現実のものとなる、と考えられていました。
そのため、「忌み言葉」などと言って、不吉なこと、縁起でもないことを言葉にするのを、当時の人は極端に忌み嫌いました。
また、人の名前「人名」は、単なる言葉、文字列ではなく、本人の<魂そのもの>、と考えられていました。
例えば、不用意に名前を知られると、それを呪詛に用いられる、というような恐れもあり、
職務上どうしても必要な場合や、よほど親しい間柄にならない限り、本名を知らせる、ということはありませんでした。

例えば、紫式部は、父親の官職が式部丞で、書いた物語の登場人物(光源氏の妻)が紫上だから、そう呼ばれていた、というだけで、本当の本名は分かっていません。本名は「藤原香子(たかこorかをりこ)」だった、という説があるだけで、あくまでそれは道長の「御堂関白記」(道長の日記)に残る女性の名と結びつけただけの想像、仮説に過ぎません。
清少納言も、父親の官職名が少納言であったことから、そう呼ばれるようになった、というだけの、いわゆる「通称」「あだ名」の類であって、こちらも本名は不明です。
(参考:大塚ひかり「面白いほどよくわかる源氏物語」)


それは、当時の現実社会だけでなく、「源氏物語」の中の登場人物でも同じです。
例えば、光源氏は、そのまばゆいほどの美しさから、周囲が「光る君」と呼ぶようになった、というだけです。
<姓が源氏、名が光>ではありません。
桐壺更衣は、後宮の桐壺という部屋に住んでいた更衣(女御より下位の妃)だから、
藤壺宮も、同じく後宮の藤壺という部屋に住んでいた中宮だから、そう呼ばれているだけで、本名は源氏物語のどこを探しても載っていません。
六条御息所は、平安京の六条通りに自邸がある、「御息所」<皇子を産んだ女性><皇太子の妃>という意味で、これも本名ではありません。
夕顔は自宅の生垣に夕顔が生えていた、というだけ、
また、朧月夜に至っては、光源氏と初めて会ったのが、朧月夜の晩だった、というだけの話です。

このように、源氏物語の登場人物の呼び名は、基本的に全て「通称」「あだ名」に過ぎないのです。

しかし、主要登場人物の内、ただ一人、本名が物語中に記されている人がいます。
それがこの「玉鬘」で、その本名は「藤原瑠璃(るり)」君です。

***「玉鬘」<藤原瑠璃>**********
例の藤原の瑠璃君(るりぎみ)といふが御ためにたてまつる。。。
(源氏物語「玉鬘」帖)
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唯一本名が分かっている登場人物で、しかもそれが「藤原」一族であることを明瞭に示している玉鬘が、
この歌の詠み手であることは興味を引きます。


「わかな(若菜)」は「わがな(我が名)」を連想させます。
濁点を打つ習慣の無かった当時、これらはともに「わかな」と表記されました。


「わがな(我が名)」<私の名前><藤原瑠璃><藤原一族>


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「松と藤」は屏風絵の定番モチーフで、しばしば「松」は<天皇家>、それに絡まる「藤」は<藤原家>を指します。(「和歌植物表現辞典」)

******「松」<天皇家>「藤」<藤原家>「春日」「春日大社」<藤原氏の氏神>************
(後拾遺集440).千歳ふるふたばの「松」にかけてこそ「藤」の若枝は「春日」さかえめ (賀、源顕房)
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奈良の春日山にある春日大社は藤原氏の氏神です。「春日詣で」、とは春日大社参詣、とくに藤原氏の氏長者による参詣を言います。
(ちなみに源氏の氏神は八幡神社です。その総本社である大分県の宇佐八幡神宮は応神天皇と神功皇后を祀っています)

藤は花穂の連なる様子が、しばしば<波>に例えられ、「藤波」という言葉も常用されます。

「藤」<藤原氏><摂関家>
「松」<天皇家>

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(薫5 大島本).手にかくるものにしあらば藤の花 松よりまさる色を見ましや
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詳細は上記和歌のファイルをご参照下さい。


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「野辺」<野辺><野の辺り><野原><火葬場>
「野辺送り」とは<葬送>
「野辺の煙」とは、<火葬の煙>、転じて<死>を意味することがあります。


「のべ(野辺)」が「のべ(延べ)」をも連想させることは、興味を引きます。

「のべ(延べ)」<「のぶ(延ぶ)」の連用形(転成名詞)>
「延ぶ」<延ばすこと><延びること><生え伸びること><生え伸ばすこと>

「葛」という字には、「かづら」「かつ」「かど」「つら」「くず」「ふぢ」など、数多くの読み方があります。
例えば、第51代平城天皇の皇子、阿保親王を産んだのは、葛井藤子(ふぢゐのふぢこ)です。


それにしても、「ふぢゐのふぢこ」って、<どんだけ藤が好きなんだよ!>と叫びたくなりますが、それはさておき、
つる(蔓)性植物の藤は、「かづら(蔓)」を伸ばします。
しかし、一年生草本の夕顔などのか細いつると異なり、多年生木本の藤のつるは、年々肥大し、時に絡みついた本体の木を締め上げて枯らしてしまうほど、圧倒的な存在感があります。

ちなみに、「ふぢ(藤)」の音は、古来「ふし(不死)」と結び付けられたそうです。
樹齢五百年を越えるような藤も多く、なかでも春日部市牛島の藤は樹齢千年だそうです。(大貫茂「花の源氏物語」)

 

***「藤かかりぬる木は枯れぬるものなり。いまぞ紀氏はうせなむずる」**************
「大鏡」「道長(藤原氏物語)」
(大鏡).
内大臣鎌足の大臣、藤氏の姓賜りたまひての年の十月十六日に亡せさせたまひぬ。御年五十六。大臣の位にて二十五年。
この姓の出でくるを聞きて、紀氏(きのうぢ)の人の言ひける、
「藤かかりぬる木は枯れぬるものなり。いまぞ紀氏はうせなむずる」
とぞのたまひけるに、まことにこそしかはべれ。

「き(木)」は「き(紀)」<紀氏>を連想させます。

      木
藤かかりぬるきは枯れぬるものなり。いまぞ紀氏はうせなむずる」
      紀

(大鏡)B.<鎮魂>
藤(のツル)が掛かった「き(木)」「き(紀)」<紀氏>は枯れてしまうものだ。
そのうちきっと紀氏は滅んでしまうよ。

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****参照:(注224491):(玉鬘20).の「わかな(若菜)」「わがな(我が名)」<藤原氏>と「松の千歳」について


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***「万葉集」<犯罪者の歌集> **************************
まず第一に、「原万葉集」ともいうべき巻一・巻二が「持統天皇の発意により文武朝に編纂され」、、、(中略)というが、それは有り得ない。
なぜなら、前節でも述べたように、巻一・巻二には、長屋王、有間皇子、大津皇子など「国家的犯罪者」の歌が載せられている。
特に問題なのは大津皇子だ。大津は、持統によって無実の罪を着せられ処刑されたのである。その持統の命令によって作られた歌集に、編纂を命ぜられた撰者が大津の歌を採るはずがないではないか。長屋王についても同様だ。長屋王は(天武系の称徳天皇までの)持統王朝ではやはり「犯罪者」なのである。。。。
(井沢元彦「逆説の日本史3 平安建都と万葉集の謎」)
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「万葉集」は、大津皇子らのように、過去に非業の死を遂げた怨霊たちの<鎮魂>のために編まれた、と考える人もいます。


有間皇子の謀殺は、中臣鎌足と中大兄皇子の企てたものであるとも言われています。
中臣鎌足は、大化の改新の功績により、中大兄皇子から「藤原」姓を授かります。
つまり、藤原氏の祖先です。


中大兄皇子に尋問された有間皇子は、
「天と蘇我赤兄が知っているでしょう。私は何も知りません。」
と答え、処刑されました。


****(注557781)参照


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「大化の改新」の後、即位した名ばかりの孝徳天皇は、中大兄皇子に難波に置き去りにされて失意の内に寂しく崩御しました。
有間皇子は、そのとき14歳でした。
そして、つなぎとして、孝徳天皇の姉が、皇極天皇として即位しました。
しかし、孝徳天皇の第一皇子の有間皇子は、舒明天皇の第二皇子の中大兄皇子よりも皇位に近く、
中大兄皇子がその存在を疎ましく思っていたことは、確かに事実なのでしょう。

 

「初子の日」とは、<新年の最初の子の日>のことですが、
毎年この日に「若菜摘み」や「小松引き」の正月行事を行います。


「初子の日」の「初子(はつね)」が「初子(うひご)」を連想させることは興味を引きます。

「初子」<初めての子><第一皇子>


直前の地の文:
***「子の日」<初子の日>***********
(地の文).
人よりことに、数へ取りたまひける今日の「子の日」こそ、なほうれたけれ。
@(地の文)A.
あなたが誰よりも先に私の年齢を数えてお祝いして下さった今日の子の日は、やはり却って恨めしい気持ちです。
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有間皇子(孝徳天皇の皇子)は、蘇我の赤兄の罠にはまり、あらぬ謀反の濡れ衣を着せられ、
19歳で命を絶たれることになりました。
それは、中臣鎌足と中大兄皇子の企てたものであろう、とも言われています。


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(万葉集 02/0142).家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る (挽歌 有間皇子)

「し」副助詞<強意>

@(万葉集 02/0142)A.
家にいたら食器に盛るご飯だが、草を枕に旅する身なので、椎の葉に盛ることよ。


***「草枕」「手枕」「石枕」*****************
「草枕」<草を枕にすること>とは「旅」を導く枕詞になります。
ちなみに、
「手枕(たまくら)」<腕枕>は<男女の共寝>
「石枕(いはまくら)」<石の枕>は<永眠する時の枕>
********************************

この歌は、奈良から紀ノ川を下り、海に出て海岸沿いを、済明天皇の行幸先の和歌山の白浜まで連行される道すがらで詠まれました。
尋問の後、有間皇子は処刑されました。

「旅」<白浜まで連行される旅><刑死までの護送>


「いひ(飯)」と「しひ(椎)」の音韻の対比が鮮やかです。

「し」は「死」を連想させます。


ちなみに、
「いひ(家)」「いは(家)」「いはろ(家ろ)」は<上代東国方言>で<家>の意味になります。

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(万葉集 20/4343).我ろ旅は旅と思ほど家(いひ)にして子持ち痩すらむ我が妻愛しも (玉作部廣目 防人歌)
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ちなみに、椎の木で染める「椎柴」の布は、喪服に用いられるようになりました。

紫式部は、この歌を、濡れ衣で刑死した有間皇子の鎮魂の観点から<読み替え>た上で、(薫5)の引き歌にした、
と想定(妄想)して、試しに訳してみましょう。


(薫5).手にかくる ものに「し」あらば 藤の花 松よりまさる 色を見ましや


(万葉集 02/0142)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅に「し」あれば 椎の葉に盛る
                   死

「いひ(家)」「しひ(椎)」


(万葉集 02/0142)B.<鎮魂>
家にいたら食器に盛る「いひ」<ご飯>だが、護送の旅の末に「死」があるので、「しひ」<椎>の葉に盛ることよ。

*******************************************


ちなみに、護送の末に有間皇子が処刑された場所は、
「紀伊の国」、現在の和歌山県の海沿いの町、その名も「海南市」の、
「藤白(ふぢしろ)の坂」<海南市藤白神社の近く>です。


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ところで、
「かひ(貝)なき海」「しほ(塩)ならぬ海」は<淡水湖>、とくに「淡海」「近江」<琵琶湖>を指します。

***「かひ(貝)なき海」「しほ(塩)ならぬ海」**********
(光源氏137).わくらばに行きあふみちを頼みしも なほ「かひなし」や「しほならぬ」海
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「かひなき(貝無き)海」<貝のいない海>は<淡水湖>、とくに「淡海(あはみ)」「近江(あふみ)」<琵琶湖>を指します。
もっとも、実際には淡水湖にも貝は生息していますが、まあ確かに、海岸ほど生物種は多くはありません。

「かひなき(貝無き)海」は<琵琶湖>を連想させます。
琵琶湖岸は、日本の命運を決する、幾多の合戦の戦場となってきた、文字通り「死の海」「血の海」でした。


***「かひなき(貝無き)海」「たちかさね(太刀重ね)」********
(源典侍3).うらみても言ふ「かひぞなき」「たちかさね」引きてかへりし波のなごりに
「たちかさね(立ち重ね)」<(波が)立ち重なって>
「たちかさね(太刀重ね)」<(兵士が)太刀を重ね合って>
**********************************


壬申の乱では、東国から兵を募った大海人皇子軍が、大友皇子軍を琵琶湖東岸の北から南へと追い立て、最期は近江大津京まで追い詰めました。
大津京は火に包まれ、大友皇子は自害しました。
壬申の乱で大友皇子が戦死し、第38代天智系の皇統は断絶しました。


詳細は、以下の和歌のファイルをご参照下さい。
***「あま(海人)」「かひなき(貝無き)海」*******
(明石上3).かきつめて「あま」のたく藻の思ひにも今は「かひなき」うらみだにせじ
「あま(海人)」<大海人皇子><天武天皇>
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(玉鬘20)の和歌の、直前の地の文が興味を引きます。

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(地の文).
見るかひあるさましたまへり。
@(地の文)A.
(玉鬘の美しさは)、見ごたえのあるご様子である。
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有間皇子を護送する一行は、奈良から紀ノ川を下った後、
海に出て海岸沿いを南へと、済明天皇の行幸先の和歌山南部の白浜温泉(牟婁(むろ)温泉、現在の白浜町)まで南下しました。
そして、白浜で天皇らの尋問を受けた後、有間皇子はまた海岸沿いを北へと引き戻され、途中の藤白坂(現在の海南市)で処刑されました。

つまり、有間皇子の「死出の旅」は、ずっと海岸沿いの旅でもあったわけです。
その途上で詠まれたのが、万葉集「挽歌」の冒頭を飾る、すぐ後で触れる二首の挽歌です。


***「松」「磐」「岩」**************
(万葉集 02/0141).磐白(いはしろ)の浜松が枝を引き結び ま幸くあらばまた帰り見む (挽歌 有間皇子「結び松」)
(万葉集 02/0142).家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る (挽歌 有間皇子)
**************************

 

中大兄皇子の皇統を断った壬申の乱は、
<琵琶湖>、すなわち「かひ(貝)なき海」「しほ(塩)ならぬ海」<淡水湖>の岸辺で戦われました。

逆に、中大兄皇子の皇統の出発点に位置する、有間皇子の「死出の旅」は、終始海を臨む、海岸沿いの旅でした。


「みる(見る)」は「みる(海松)」を連想させます。

「みる(海松)」<海藻の総称><海辺の松の木>


詳細は下記和歌のファイルをご参照下さい。

***「みる(海松)」「うみまつ(海松)」**********
(光源氏129).海松や時ぞともなきかげにゐて何のあやめもいかにわくらむ
*****************************

 

中大兄皇子の皇統の出発点に位置する、有間皇子の海岸沿いの「死出の旅」の観点から、
この地の文を解釈してみましょう。


見る 甲斐
みる かひ ある さま したまへり。
海松 貝


(地の文)B.<鎮魂>
「みる(海松)」や「かひ(貝)」があるような、(海岸の旅の)ご様子だった。
(有間皇子は海岸沿いの旅の末に殺された!)

 

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「野辺の小松」<野辺送り(葬送)となった有間皇子>

「わがな(我が名)」<私の名前><藤原瑠璃>

「さす(指す)」<指し示す>

「ひく(挽く)」<(死人を)挽いて>
「引き連れて」<(謀反人を)引き連れて><護送して>

「挽歌」とは、<葬送のとき、棺を載せた車を挽く人たちが歌う歌>のことです。
ちなみに、万葉集の第二巻、「挽歌」の部立ての冒頭を飾るのが、この有間皇子の歌です。


***「磐」「岩」「松」***********************
(万葉集 02/0141).磐白(いはしろ)の浜松が枝を引き結び ま幸くあらばまた帰り見む (挽歌 有間皇子「結び松」)
@(万葉集 02/0141)A.
岩代の浜松の枝を結び合わせて無事を祈るが、もし幸運にも帰って来ることが出来たなら、またこれを見れるだろう。

(万葉集 02/0142).家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る (挽歌 有間皇子)
@(万葉集 02/0142)A.
家にいたら食器に盛るご飯だが、草を枕に旅する身なので、椎の葉に盛ることよ。

「しひ(椎)」<椎の木>
「いひ(家)」<上代東国方言><家>

(万葉集 02/0142)B.<鎮魂>
家にいたら食器に盛る「いひ」<ご飯>だが、護送の旅の末に「死」があるので、「しひ」<椎>の葉に盛ることよ。

***********************************

詳細は上記和歌のファイルをご参照下さい。

 

平安当時の人々にとって、「挽歌」と言えば、この万葉集の有間皇子の歌が、まず思い浮かんだことでしょう。

そこに、「岩」と「松」の言葉がともに現れるのは興味を引きます。


「旅にしあれば」は「旅に死あれば」を連想させます。


「たび(旅)」は「だび(荼毘)」<火葬の煙>をも連想させます。
「野辺」は<火葬>「だび(荼毘)」を連想させます。

 

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ちなみに、
上代では、已然形は単独で、順接、逆接の条件として用いられました。

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(順接) 家離りいます吾妹を停めかね 山隠しつれ心どもなし (万葉集、3-471)
(逆接) 大舟を荒海にこぎ出弥舟たけ わが見し子らがまみは著しも (万葉集、7-1266)
*****************************************


また、
係り結びの係助詞「こそ」がなくても、文を已然形で終止させることがあります。
これを「已然形終止」と言います。

***「已然形終止」********************
(小田勝「古典文法総覧」p.92)
(男女の仲は崩れ始めると)なごりなきやうなることなどもみなうちまじるめれ。(源氏物語「椎本」)
これ(この歌)やこの腹立つ大納言のなりけんと見ゆれ。(源氏物語「宿木」)
つれなくのみもてなして御覧ぜられ奉り給ふめりしか」と(右近は源氏に)語り出づるに。(源氏物語「夕顔」)
わが方ざまに(自分の婿にしようと)思ふべかめれ。(源氏物語「紅梅」)
******************************


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「もとの言はね」<祖先のことは言わない><藤原氏の祖先、中臣鎌足のことは言わない>

 


わかな  指す           引き  連れて    いはね    今日
若菜   さす 野辺の 小松  を ひき  つれて もとの岩根を いのるけふかな
わがな  差す のべ  子待つ   挽き  つれで    言はね?   きゃう
我が名  鎖す 延べ            連れで    言はぬ    京
分かぬ? 刺す

 

(玉鬘20)D.<鎮魂>
「わがな(我が名)」<私の名前><藤原瑠璃>が指し示す<藤原一族>が、
「野辺の小松」<野辺送り(葬送)となった有間皇子>を「引き連れて」<護送して>、(謀殺した。)
そのもととなった(のは中臣鎌足の陰謀だが)、そのことは、
「言はね」<言わない>と願う、今日の「初子の日」頃ですよ。

 


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(玉鬘20)の和歌に含まれる、
「小松」<子孫>や、
「もとの岩根」<祖先>という表現は、
<血筋>というものを、強くイメージさせます。

身分によって人生の過半が決められてしまう、古代の社会において、
彼ら貴族にとって<血筋>とは、何ものにも勝る<死活問題>だったのでしょう。


今でこそ笑って済ませられる思い出話に変わったのかも知れませんが、
玉鬘を入内させようとしていた源氏の目論見は、鬚黒大将の突然の割り込みにより、
いわば、<トンビに油揚げをかっさらわれる>ように台無しにされ、その時の源氏は大変気落ちしました。

しかし、<天皇家に入内する>という養父源氏の期待がはずれても、
玉鬘自身は、夫の愛情にも子宝にも恵まれ、
別に皇后になれなくとも、女性としては十分に幸せだったのかも知れません。

恐らく、可愛い子が二人もいたこの時点では、少なくともそう実感していたのではないでしょうか。


この和歌は、(玉鬘20)Cの解釈のように、
<血筋><家門>に拘るよりも、
大切な価値、大きな幸福が、人間にはある、少なくとも女性にはある、
と言っているようにも見えます。


ところで、紫式部が源氏物語を執筆していた、まさにその時代は、
「藤原氏」が栄華の絶頂を極めていた道長の時代でもあります。

そんな時代を背景としていながら、
源氏物語中で唯一、「藤原」と明示された名前を持つ、
すなわち「藤原一族」を象徴するとも言える玉鬘が、
良くも悪くも、<血筋><家門>に拘るより大切な価値が、人間にはある、
と言っているわけです。


ここで試みたような想像の内容が正しいか否かはさておき、上記の解釈は、
「わがな(我が名)」<私の名前><藤原瑠璃>の始祖でもあり、また、
「わかな(若菜)」<愛しい我が子たち>の始祖でもある、
「もとの岩根」<祖先><藤原氏始祖><中臣鎌足>の悪行も、
めでたい今日の「子(ね)の日」「子(こ)の日」だけは忘れて、
ただただ実父も養父も、全ての人々の幸いを祈りましょう、
と言っている、(玉鬘20)Dの解釈にも通じるように思えます。


****(注771141)参照


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メモ:

語彙、語法・文法、
連想詞の展開例など


あくまでこれは「タタキ台」として、試みに私の主観を提示したものに過ぎません。

連想に幅を持たせてあるので、自分の感覚に合わない、と感じたら、その連鎖は削って下さい。
逆に、足りないと感じたら、好きな言葉を継ぎ足していって下さい。
そして、自分の「連想詞」のネットワークをどんどん構築していって下さい。


詳細は「連想詞について」をご参照下さい。


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****参照:(注772246):(玉鬘20).若葉(若菜)さす野辺の小松をひきつれて もとの岩根をいのるけふかな のメモ:

語彙、語法・文法、
連想詞の展開例など


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ここまで。
以下、(注)


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(注771141)


「子(ね)」が「子(こ)」を連想させることは興味を引きます。


***「子子子?」**************
嵯峨天皇は、あるとき戯れに、
「子子子子子子子子子子子子」
は何と読むか、小野篁に尋ねました。
すると小野篁は、
<猫の子の子猫、獅子の子の子獅子>
と答えました。(宇治拾遺物語)

「子」には「こ」「し」「ね」などの読み方があります。
***********************


「竹の子」に例えられる柏木は、「ねこ(猫)」がきっかけで三宮の姿を垣間見、さらにその猫を三宮の「形代」として愛玩しました。

地下茎を伸ばして<処女懐胎>で増殖する竹にとって、「ね(根)」は「こ(子)」そのものです。
「ねこ(猫)」は「根=子」という暗号ではないでしょうか。

「竹」「根=子」<処女懐胎><不義の子>の連想を誘うサインとして、紫式部は「ねこ(猫)」を柏木と三宮の出会いの場に登場させたのだろう、と私は思います。

竹が「ね(根)」を伸ばし、「よ(節)」を継いで成長するさまは、確かに、
「子を<代々(よよ)>重ねていく」イメージ「子子子子子子子子子子子子」に重なります。


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(注557781)


***「天児屋命」<中臣氏(のち藤原氏)の遠祖>**********
「日本書紀」神代上第六、第七段、(天岩戸)
天岩戸に立て籠もってしまった天照大神を誘い出すために、アメノウズメノミコトが岩戸の前で踊りを舞った。
ここで中臣氏(のち藤原氏)の遠祖である「天児屋命(あめのこやねのみこと)」と斎部(忌部いんべ)氏の遠祖「太玉命(ふとたまのみこと)」は、天の香具山の五百箇(いおつ)の真坂木(サカキ)を掘り出し、枝に神宝を取り付けて祈祷した。そして、天照大神が岩戸から出るや否や、天児屋命と太玉命は岩戸に注連縄を引き渡し、二度と戻らないよう大神に告げた。
*********************************


「天」は「天児屋命」<中臣氏(のち藤原氏)の遠祖><中臣鎌足>
を連想させます。

「もとの岩根」は<天岩戸>をも連想させます。

 

中大兄皇子に尋問された有間皇子は、
「天と蘇我赤兄が知っているでしょう。私は何も知りません。」
と答え、処刑されました。

「天」は「天児屋命」<中臣氏(のち藤原氏)の遠祖><中臣鎌足>
を連想させます。

有間皇子の謀殺は、中臣鎌足と中大兄皇子の企てたものであるとも言われています。

「万葉仮名」<表音文字>ではなく、通常の漢字<表意文字>としての解読:(梅澤恵美子「額田王の謎」)

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(万葉集01/0009).莫囂円隣之大相七兄爪謁気我が背子がい立たせりけむ厳橿が本 (額田王)
,***** ******* わがせこが いたたせりけむ いつかしがもと
,雑歌 作者:額田王 紀州 和歌山 難訓 厳橿 斎橿 植物,,,,,

有間皇子を陰謀にはめ死に追いやったのは中大兄皇子であったことを、額田王は隠しつつ伝えている。(梅澤恵美子「額田王の謎」)
そして、中大兄皇子を裏で操っていたのは中臣鎌足(藤原鎌足)だった。(関裕二「藤原氏の悪行」)

(万葉集01/0009).
栄枯盛衰はいつも隣り合わせにあって、円のように一巡して回りめぐるもの。
紀温湯(きのゆ)の地から、天帝の車(北斗七星)に乗って行ってしまった有間皇子。
そのあなたが天空から放つ矢が、元凶のもととなった天智に打ち込まれ、
(栄枯盛衰の自然の理によって)また新たな世がめぐって来るでしょうから。
(梅澤恵美子「額田王の謎」)
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