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(大宮4).ふた方にいひもてゆけば玉くしげわが身はなれぬかけごなりけり
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この本は「教科書」「参考書」の類ではありません。
皆さんに「教える」のではなく、どちらかと言うと、皆さんと「一緒に考える」ことを企図して書かれた本です。
また、私の主観も随所に入っていますが、私はこの方面の専門家でもありません。
ですから、
<効率よく知識を仕入れる><勉強のトクになるかも>
などとは、間違っても思わないようにして下さい。
いわゆる「学習」「勉強」には、むしろマイナスに働くでしょう。
上記のことを十分ご了解の上で、それでもいい、という人だけ読んでみて下さい。
ただし、
教科書などに採用されている、標準的な解釈の路線に沿った訳例は、参考として必ず示してあり、
その場合、訳文の文頭には、「@」の記号が付けてあります。
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時々「(注)参照」とありますが、それは末尾の(注)をご参照下さい。
ただし、結構長い(注)もあり、また脱線も多いので、最初は読み飛ばして、本文を読み終えたのちに、振り返って読む方がいいかもしれません。
なお、(注)の配列順序はバラバラなので、(注)を見るときは「検索」で飛んで下さい。
あちこちページを見返さなくてもいいように、ダブる内容でも、その場その場で、出来る限り繰り返しを厭わずに書きました。
その分、通して読むとクドくなっていますので、読んでいて見覚えのある内容だったら、斜め読みで進んで下さい。
電子ファイルだと、余りページ数を気にしなくて済むのがいいですね。
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(大宮4).ふた方にいひもてゆけば玉くしげわが身はなれぬかけごなりけり-4.TXT
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要旨:
頭中将の落胤の玉鬘の成長と帰還を祝う、祖母からの贈歌を、
「たまくしげ」の象徴する内容に焦点を当てて解釈した。
また、実際の歴史における、中宮定子の末の妹「御匣(みくしげ)殿」を巡るエピソードを背景とした解釈も試みた。
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目次:
(大宮4).ふた方にいひもてゆけば玉くしげわが身はなれぬかけごなりけり
メモ:
語彙、語法・文法、
連想詞の展開例など
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では、始めましょう。
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頭中将の落胤の玉鬘は、紆余曲折を経て筑紫から京に戻り、源氏の計らいにより実父のもとに戻りました。
そして、晴れて裳着(昔の成人式)の儀式を行うことになりました。
そこに、玉鬘の祖母にあたる、頭中将の母大宮が、祝いの歌を贈ってきます。
(大宮4).ふた方にいひもてゆけば玉くしげわが身はなれぬかけごなりけり
「玉」接頭辞<美称>
「くしげ(櫛笥)」<櫛などの化粧道具を入れる箱>
「ふた(蓋)」と「ふた(二)」が掛詞。
「み(身)」と「み(実)」<箱の中身>が掛詞。
「かけご(懸け籠)」<箱の中にしつらえた中箱>と「こ(子)」が掛詞。
「玉くしげ」は「玉鬘」の例えです。
「いひもてゆく(言ひもて行く)」<だんだん話していく><煎じ詰めていく><言いながら行く>
@(大宮4)A.
義理の息子(我が娘故葵上の夫)源氏の君と、我が息子内大臣(もと頭中将)のお二方のいずれの筋からたどりましても、「玉くしげ」<玉鬘>は、我が身と切り離せない孫なのでした。
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「かけ」は「かげ」を連想させます。
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「かげ」「ひかげ」<ヒカゲノカズラ>は、「掛け」「懸け」と掛詞になります。
<ヒカゲノカズラ>は、常緑シダ植物で、針金状の茎を長く地に這わせ、その先で芽を出し、胞子のうを付けます。
花をつけず、雄しべと雌しべの受粉による有性生殖を行わないヒカゲノカズラは、
<無性生殖><夫婦の交わりによらない子><ワケアリの子><不義の子><隠し子>を連想させます。
「ひかげもの(日陰者)」で、<日陰者><世を隠れ忍ぶもの><公然と世間と交際できないもの>のほか、<世に埋もれて芽の出ない人><妾><私生児>の意味があります。
「かげ(影)」には<姿><形><光><影>のほか、<面影><影法師><影法師のようにいつまでもつきまとうもの>の意味があります。
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「かげこ(陰子、影子)」<ひそかにかくまい、目をかけている子>
***「かげこ」*************
人知れず君が「かげこ」になりぬとぞ思ふ。 (相模集)
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「玉(たま)」は<真球のように完璧な形>から、<美しいものと称える美称の接頭辞>となり、歌語として多用されます。
***「玉(たま)」接頭辞<美称>*****************
「たまかづら(玉鬘)」<玉に穴をあけ、緒を通した髪飾り>。
「たまかづら(玉葛、玉蔓)」<つる草の美称>
は、つるの形から、枕詞として「長し」「延ふ」「いや遠く」「絶ゆ」「絶えず」を導きます。
また、「花」「実」のほか、「ひかげ」<ヒカゲノカズラ>の別名が「かげ」であることから、「影」「面影」を導きます。
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「やまかづら(山蔓)」「やまかげ」で<ヒカゲノカズラ>の別称になります。
頭中将の隠し子に、「玉鬘」の名が付けられたのは、「やまかづら(山蔓)」からの連想もあるのかも知れませんね。
「かけご(懸け籠)」は「かげこ(陰子)」「かげこ(影子)」を連想させます。
濁点を打つ習慣の無かった当時、これらはいずれも「かけこ」と表記されました。
「かげこ(陰子)」<日陰者の子><私生児><隠し子><落胤>
「かげこ(影子)」<影法師のようにつきまとう子>
としてみましょう。
「なる(生る)」<実が生る>
源氏にしろ頭中将にしろ、「男ってやつは、、、」と大宮は呆れているようにも聞こえます。
二方にいひもてゆけば玉くしげ 我が身 離れぬ 影子 生りけり
(大宮4)B.
正妻も愛人も、お二方に言い寄って行ったので、「玉くしげ」<玉鬘>のように、我が身と切り離せない「かげこ(陰子、影子)」<隠し子>が出来てしまうのだ。
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「たま(玉)」は「たま(魂)」を連想させます。
「たま(魂)」<六条御息所の霊魂>
「離れぬ」の「ぬ」を<打消>「ず」連体形ではなく、<完了>「ぬ」終止形
としてみましょう。
「離れぬ」<離れてしまった>
「かげ(影)」<影法師のように、形だけで中身の無いもの><魂の抜け殻><本物に似せた模造品>
「かけご」には、<本心を打ち明けて話さないこと>の意味があります。
前東宮の妃であった六条御息所は、容姿・教養・人柄すべてに優れた、後宮に並ぶものなき存在でした。
それだけに気位が高く、光源氏への恋の恨みは一切口に出しませんでした。
それが却って災いし、行き場を失った恨み辛みは生霊に姿を変え、恋敵の夕顔や、葵祭りの車争いで屈辱を与えられた正妻の葵上に襲い掛かりました。
夕顔も葵上も、ともに六条御息所の生霊に取り殺されました。
これは、亡き正妻葵上の母大宮に、六条御息所の死霊が書かせた歌かもしれません。
「ふた方」<夕顔と葵上の二人><六条御息所の生霊にとり殺された二人>
「くしげ(奇し気)」<怪しげにも><奇妙なことに>
ふた方に いひもてゆけば / 魂 奇し気 我が身 離れぬ / 影子 なり けり
(大宮4)C.
「ふた方」<夕顔と葵上の二人>に、恨みを言いに行ったので、(私の)霊魂が、怪しげにも我が身から離れて(葵上にとりついて)しまった。
(私:六条御息所は)「かけご」<本心を打ち明けて話さない>だったばっかりに、「かげこ(影子)」<霊魂の抜け殻>になってしまった。
玉鬘が流浪の前半生を送ったそもそもの発端は、母親の夕顔が、六条御息所の生霊にとり殺されたからでした。
玉鬘の成長と帰還を祝う歌に、六条御息所の怨霊の恨み節が重なって聞こえるとしたら、
これほど鮮やかな皮肉はありません。
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慎み深く思い詰めやすい古風な性格がかえって仇となり、六条御息所はどんどん心理的に追い詰められていき、六条御息所の恋は最悪の結末を迎えました。
大宮からのこの手紙の筆跡と歌を、源氏が評するくだりがすぐ後にあります。
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いと「古めかしう」わななきたまへるを、、、、
実際、<古風>であるが、(年齢のせいで)震える手でお書きになったのを、、、
(源氏)
「古代なる御文書きなれど、いたしや、この御手よ。昔は上手にものしたまけるを、年に添へて、あやしく老いゆくものにこそありけれ。
いとからく御手ふるひにけり」
(源氏).
「よくも玉櫛笥にまつはれたるかな。三十一字の中に、異文字は少なく添へたることのかたきなり」
@(源氏)A.
よくもまあ、玉櫛笥にこだわったものですね。三十一文字の中に、玉櫛笥に関係のない言葉が僅かしかないのは、たやすいことではない。
と、忍びて笑ひたまふ。
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源氏が六条御息所に惹かれた最初のきっかけは、彼女の見事な筆跡でした。
ちなみに、当時の貴族女性は、男性からは常に御簾の向こう側で、親しくならない限り男性が女性の顔を間近でよく見れる、ということはありません。
いと古めかしうわななきたまへるを、、、、
(御息所の霊は)とても古風な性格で、(思いつめて)震える手でお書きになったのを、、、
玉 櫛 笥
よくも たま くし げ に まつはれたるかな。
魂 奇し け
毛
気
怪
三十 一 字 異 文字 事
みそ ひと じ の中に、 こと もじ は 少なく 添へたる こと の かたき なり
人 し 子と 子と
死
六条御息所は、娘の前斎宮(後の秋好中宮)の後見を源氏に託し、三十五才で亡くなりました。
源氏に娘の後見を託すに当たって、御息所は絶対条件をひとつ付けました。
決して娘には言い寄ってくれるな、と。
もちろん我らの大先生は、そんな遺言などものともせず、養女にもきっちり言い寄ります。
*** 梅壺女御(前斎宮)に言い寄る源氏 **************
(地の文).
「かやうなるすきがましき方は、しづめがたうのみはべるを、、、、あはれとだにのたまはせずは、いかにかひなくはべらむ」
とのたまへば、(梅壺女御は)むつかしうて、御答へもなければ、「さりや、あな心憂」とて、、、、、
@(地の文)A.
「、、、このような色めいた方面のことは、辛抱出来ない性分でございますので、、、せめて可哀相とおっしゃって頂けなければ、どれほど張り合いのないことでしょう」と(源氏が)おっしゃると、(梅壺女御は)困惑して、返事もないので、(源氏は)「やはりそうですか。ああ情けない」とおっしゃって、、、、、
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<このような色めいた方面のことは、辛抱出来ない性分でございますので、、、>
さすがは大先生。もう逆にカッコいいよ、オマエ!
ちなみに、源氏は、紫上、玉鬘、梅壺女御(前斎宮)と、全ての養女に言い寄っています。
うち、紫上は自分の妻としました。
良く 玉 櫛 笥
よく も たま くし げ に まつはれたるかな。
避く 喪 魂 奇し け
除く 毛
気
怪
三十 一 字 異 文字 事
みそ ひと じ の中に、 こと もじ は 少なく 添へたる こと の かたき なり
人 し 子と 子と
死
「よく(避く)」は、上代はカ行上二段、中古は上二段と四段、中世以降は下二段活用になりました。
「よく(避く)」<よける><さける><遠ざける>
「よく(除く)」<除霊する>
「も」係助詞(種々の語、活用形連体形、連用形に接続)
「も」接続助詞(活用語の連体形に接続)
「くしげ(櫛笥)」は「くし(奇し)」「げ(気)」を連想させます。
「くし(奇し)」シク活用形容詞<人知ではかり知れない霊妙な力が働く><不思議だ><神秘的だ><奇怪だ>
「げ(気)」は<接尾辞>であり、
動詞連用形、ク活用形容詞語幹、シク活用形容詞終止形、形容動詞語幹などに付いて、
<いかにも~な様子である><~らしい>、
名詞について、<~らしいもの><~らしき気配>
というような意味を生じます。
「け(笥)」は「け(怪)」<物の怪>をも連想させます。
「まつはる(纏はる)」<絡みつく><まとわり付く><巻きつく><からまる><つきまとう><身辺から離れない>
「そふ(添ふ)」四段自動詞、下二段他動詞<寄り添う><男女が一緒になる><付加える><増す><そばにつける><伴う><従わせる><なぞらえる><例える>
「こと」は「言」「事」「琴」「こと(異)」「こと(他)」などの掛詞として常用されます。
「こと(言)」<言葉><遺言>
「こと(事)」<願い事>
としてみましょう。
六条御息所は三十五才で亡くなりました。
失意の後半生でしたが、ただひとつ、亡夫(前坊)との間の娘を心の支えとして生き、短い生涯を終えました。
「みそひと(三十一)」は「みそひと(三十人)」を連想させます。
「みそひと(三十人)」<三十代の人><六条御息所>
としてみましょう。
「じ(字)」は「し(死)」をも連想させます。
濁点を打つ習慣の無かった当時、これらはともに「し」と表記されました。
避くも 魂 奇し気に 纏はれたるかな。
三十 人 死 の中に、 異文字 は 少なく、 添へたる 事 の 難き なり。
言
(源氏)B.
避けても避けても、御息所の霊魂が、いかにも怪しげに、まとわり付いてくるよ。
三十代の人(御息所)の死に際しての遺言の中に、(娘の後見の)他の文字は少なかったが、(唯一)添えられていた言葉「娘に手を出すな」ってゆーのが難しいんだよね。
とそっとお笑いになる。
御息所の死霊が、震えながらしたためた歌も、源氏にとってはどこ吹く風。
「死ね」以外の言葉が見つかりません。
冷泉帝への入内に、首尾よく導けたから、まあ罪滅ぼしとしては良しとしましょうか。
とは言うものの、もし玉鬘がここで冷泉帝に入内すれば、他ならぬ秋好中宮その人と、帝の寵愛を競うことになります。
「かたき(敵)」<相手><敵><仇敵>
よくも 玉くしげ に 纏はれたるかな。
難き
三十 人 死 の中に、 異文字 は 少なく 添へたる 子 との 敵 なり
(源氏)C.
よくもまあ(夕顔の娘の)玉鬘にまでまとわり付いてきたものよ。
三十代の人(御息所)の死に際しての遺言の中に、
(娘の後見を願う)以外の他の文字は少なかったが、
唯一言い添えた願い事(子の後見)が困難になる。
すなわち、玉鬘が「子」<秋好中宮>との(冷泉帝の寵愛を争う)敵となる。
(冷泉帝に入内させたら玉鬘を呪い殺すつもりか。どんだけ執念深いんだよ!)
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ちなみに、六条御息所の生霊が正妻葵上をとり殺したことは、噂にもなり、源氏の周囲は皆知っています。
亡き葵上の母大宮ももちろん知っています。
正妻葵上につれなくしておいて、源氏は六条御息所にアプローチを繰り返し、御息所がなびき始めるや否や、今度は「気詰まりだ」と疎んじ始めました。
そして御息所の恋は袋小路に入ります。
前坊の妃という高貴な身の上の御息所を、あまりぞんざいに遇するものではない、と父親の桐壺帝も源氏をたしなめました。
周囲から見ても、それほど無配慮な扱いだった、ということでしょう。
御息所が源氏を恨んでいるのは当然ですが、大宮が娘(葵上)の死に関して、源氏を恨んでいるのも無理のないことに思えます。
大宮からの手紙の字が震えていたのは、高齢のためだけでしょうか。
源氏のセリフは、解釈@(源氏)Aのように、大宮の歌を評したものとされるのが普通です。
私には、この大宮の歌は、六条御息所の死霊の叫びのようにも見えます。
また源氏のセリフは、それに気づいていながら、居合わせた他の人たちの手前、高齢による手の震えのせい、となんとかその場を取り繕っているようにも見えます。
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ここで、物語からいったん目を離して、当時の実際の出来事の観点から解釈して見ましょう。
一条天皇(980~1011年)は、満31歳で亡くなりました。
***「数え年」*********************
平安当時は生まれた瞬間に一歳とみなしたので、一条天皇は、「三十二歳で崩御」と書かれるのが普通です。
ちなみに、誕生日によらず、1月1日にみな年齢を一つ増やしたそうです。
仮に、大晦日に生まれると、その時点で1才です。
さらに、翌日の元日に、年齢をひとつ加えるので、2歳になります。
つまり、生後二日目、満でいえば二日しか経っていませんが、「二歳児」ということになります。
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「みそひとじ(三十一字)」は
「みそひとし(三十一死)」<三十一才の死><三十一才で死んだ人><一条天皇>
を連想させます。
濁点を打つ習慣のなかった当時、これらはともに「みそひとし」と表記されました。
「御匣(みくしげ)殿」とは、定子の末の妹のことです。
「御匣殿」は、定子の生前から、定子の子達の面倒をよく見ていました。
そして、定子の死に際して、定子から特に敦康の世話を託されます。
一条天皇は、亡き定子の面影を重ねるように、妹の「御匣殿」を求めるようになります。
他の妻である彰子や元子を差し置いて、天皇は定子の妹に傾きました。
そして道長はじめ周囲にも一条天皇と「御匣殿」の仲が知られるようになりました。
そしてほどなく「御匣殿」は懐妊しました。
その頃から、道長は、敦康を引き取り彰子のもとで養育するようになります。
「御匣殿」を一条天皇から引き離すため、また彰子を敦康の母親代わりとして一条天皇を彰子につなぎとめるため、などの理由が考えられています。(山本淳子「源氏物語の世界」)
その後、何と「御匣殿」は、子を産むことなく、わずか17、8歳で亡くなりました。
「こともじ(異文字)」は
「こどもし(子供死)」<子供の死><胎児もろとも亡くなった「御匣殿」>
を連想させます。
濁点を打つ習慣のなかった当時、これらもともに「こともし」と表記されました。
「すくなく(少なく)」は
「すぐなく(直ぐ泣く)」
「すぐなく(直ぐ亡く)」
を連想させます。
「すぐなく(直ぐ亡く)」<そのまま亡くなる><懐妊のまま亡くなった「御匣殿」>
のようにイメージを重ねてみましょう。
「異文字は少なく」<定子姉妹の他の女には興味が少なく>
「子供死は直ぐ亡く」<胎児の死んだ「御匣殿」もそのまま亡くなって>
「添へたる子」<添えた子><(道長が)一条天皇に后としてくっつけた彰子>
「かたき(敵)」<相手><敵><仇敵><恋敵>
「たま(玉)」を「たま(魂)」<定子の魂>
「たまくしげ」<定子の魂が宿った「御匣殿」>
としてみましょう。
隠蔽のため、こま切れにされたコトバの連想をつないで、イメージをまとめてみましょう。
懐妊までした「御匣殿」の存在を苦々しく思う、道長の呟きが聞こえるようです。
よくも 玉匣 に 纏はれたるかな。
三十ー 死 の中に、 子供死 は 直ぐ亡く
異文字 は 少なく
添へたる 子 との 敵 なり。
殿 難き
と、忍びて笑ひたまふ。
(源氏)D.<鎮魂>
(一条天皇は)よくも(定子の妹の)「御匣殿」にこだわったものよ。
「みそひとし(三十一死)」<三十一才で死んだ人><一条天皇>の中で、
「異文字は少なく」<定子姉妹の他の女への興味は少ないため>
「子供死は直ぐ亡く」<胎児の死んだ「御匣殿」もそのまま亡くなった>のは、
「添へたる子」<添えた我が子><(道長が)一条天皇に后としてくっつけた彰子>の「かたき」<仇敵>だからだ。
とそっとお笑いになる。
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「かげこ(陰子、影子)」<ひそかにかくまい、目をかけている子>
定子の末の妹「御匣殿」は、定子の生前から、定子の子達の面倒をよく見ていました。
そして、定子の死に際して、定子から特に敦康の世話を託されます。
「かげこ(陰子、影子)」<ひそかにかくまい、目をかけている子><定子の死後、御匣殿が世話する遺児敦康>
としてみましょう。
「かげ(影)」<面影><影法師><影法師のように常につきまとうもの>
の意味もあります。
道長は、中宮定子がいながら、我が娘彰子をも強引に一条天皇の后としました。(二后並立)
勢力衰える一方の定子サイドでは、第三子の「躾子」出産を目前にして、定子の乳母すら、夫の任国に随行するため、定子のもとを離れていきます。
躾子の出産で定子が亡くなる、同じ1000年12月15日の夜、道長と緊密な関係にあった道長の姉、詮子の御殿(東三条院)が全焼し、また道長は物の怪のとりついた次兄の妻藤原繁子につかみかかられるという凶事に見舞われました。
道長は道隆か道兼の死霊だろうと感じました(権記)が、紫式部は定子の「魂(たま)」だったと言いたかったのかもしれません。
櫛笥
ふた方に いひもてゆけば 玉 くしげ /
魂 奇しげ
①完了
わが身 はなれ ぬ / かけごなりけり
②打消 かげこ
影子
(大宮4)E.<鎮魂>
詮子と道長(繁子)の二方に、恨みを言いに行ったので、
①(中宮定子の)霊魂は、怪しげにも、自分の身体を離れてしまった。
②それにしても、我が身を離れない、
「かげこ(陰子、影子)」<ひそかにかくまい、目をかけている子><定子の死後、御匣殿が世話する遺児敦康>
であることよ。
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これは光源氏のセリフです。
我が娘明石中宮や養女秋好中宮を天皇に入内させ、準太政天皇として栄華を極めた光源氏のモデルの一人として、しばしば道長も挙げられます。
<藤原道長が「御匣殿」の暗殺を企てた>と紫式部は考えていたのではないか、と私は思います。
そして、その道長の本音をこの源氏のセリフに忍ばせ、同時代の人たちに、あるいは後世に訴えかけたのだと思います。
他の文にくるんでカムフラージュしながら。
我々はこの訴えを素通りして、このセリフを後世に伝えるべきではない、と私は思います。
しっかり受けとめ、次代に伝えなければ、紫式部の決死の覚悟も報われません。
**** 本居宣長「源氏物語 玉の小櫛」 「もののあはれ」<センス・オブ・ワンダー> ******************
さて人は、何事にまれ、感ずべきことにあたりて、感ずべき心を知りて、感ずるを、「もののあはれ」を知るとは言ふを、
かならず感ずべきことにふれても、心動かず、感ずることなきを、「もののあはれ」知らずと言ひ、心なき人とは言ふなり。
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「もののあはれ」<感ずべきことにあたりて、感ずべき心><センス・オブ・ワンダー><"驚くべきこと"にきちんと驚けるまっとうな感受性>
「もののあはれ知らず」<かならず感ずべきことにふれても、心動かず、感ずることなき><"驚くべきこと"を素通りする鈍感さ>
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****参照:(注441161):<定子の母親>「貴子」<バリバリの国家公務員女性キャリア>
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我々が通常目にする古典の「散文」も、文字列の指示内容を日常の文脈から解き放ち、言葉の象徴機能を極限まで押し拡げて、先入見にとらわれずゼロベースから言葉を解釈した時点で、それは「散文」を脱して「詩」となります。
その「詩」は、「勝てば官軍」の支配者が事後的に「正史」の陰に葬り去った闇の真相を知る唯一の手掛かりに他ならず、殊に、為政者が知られたくなかった<不都合な史実>に関して、それはむしろ「正史」をも凌駕する史料価値を持つ、と私は思います。
文学作品からの情報を歴史認識に外挿することに対して、我々が慎重の上にも慎重を期さねばならないことはもちろんです。
しかし、「正史」が<隠蔽>である他はない以上、「正史」を絶対視するのはかえって危険であることは明らかであり、さらに、歴史を陰で動かした重要な出来事、為政者にとって都合の悪い事実、に関しては、ますます「文学」が歴史認識に重要な視点をもたらす度合いが強くなる、と私は思います。
ここにも、私は古典「文学」の復権、復興の極めて重要な契機を見る思いがします。
「源氏物語」は、摂関政治が確立する過程で、歴史の表舞台から消えていった藤原氏以外の氏族の<鎮魂>のために、道長が紫式部に書かせたものだ、と井沢元彦さんはおっしゃっています。
ちなみに、道長自身は、源倫子、源明子(あきらけいこ)と、源氏の血筋から嫁をもらっています。
現実の歴史とは正反対に、源氏物語では、光源氏が藤原氏に属するライバルの頭中将との出世競争を制して栄華を極めます。
藤原氏の他氏に当たる源氏のサクセスストーリーが<鎮魂>であることは、誰が見ても明らかで、それは道長の意図であったはずです。
おそらく道長の依頼は、鎮魂のために、他氏に花を持たせた物語を書いて欲しい、というような大まかなものだったのでしょう。
道長は紫式部に、「源氏が繁栄する」という程度の<架空>の「粗筋」を指示しました。
しかし、紫式部は、話の大きな流れである「粗筋」のそこここにある、一見見落としてしまいそうな小さな物陰に、「正史」から葬り去られた<史実>を巧みに織り込みました。
その、あちこちの小さな物陰の<史実>は、道長が紫式部に書かせようとした、源氏の<架空>のサクセスストーリーとは対極にある、藤原氏や道長にとって不都合な<史実>です。それは道長の目から隠して紫式部が命がけで伝えようとした<歴史の闇に葬られた真相>であり、それを書き残すことこそが、彼女に出来た真の意味での<鎮魂>だったのでしょう。
道長が意図したような、ケガレとは無縁の美しい<架空>の物語をこしらえて、うわべだけ霊魂の<ご機嫌をとる>ことが、真の<鎮魂>となりえないのは、考えてみれば当然のことです。藤原氏にとって都合の悪い事実、讒言や地方受領の不正の黙認、あるいはライバルの暗殺まで含めて藤原氏が政権を掌握するために用いた汚い手口、血にまみれた<史実>を書き残し、その非を告発することこそ、真の<鎮魂>であるはずです。
そして、それを<隠しつつ伝える>というアクロバティックな要求を満たす唯一の手段が、暗号としての「詩」<言葉の意味を日常の文脈から解き放つこと>だったのです。
ドイツの建築家ミース・ファンデル・ローエの言葉「神は細部に宿る」は、文芸評論にもしばしば引用されます。
その単なる文芸評論の常套句よりもはるかに重い意味において、源氏物語の精髄は、まさに「細部」に宿っています。
源氏物語の真の意味、紫式部が命がけで伝えようとした真意は、この「細部」に埋め込まれた<史実>であって、<架空>の「粗筋」「サクセスストーリー」ではありません。
我々は、細断されて源氏物語のそこここに散らばめられた、後世に伝えるべきそのDNAの<断片><エキソン>、葬られた<史実>を拾い集め、つなぎ合わせて、正史によって隠蔽された歴史の真相を再構成せねばなりません。
*** 菅原道真の大宰府での客死が暗殺であることを仄めかす源氏物語の一節 *********
(薫5 大島本).手にかくるものにしあらば藤の花 松よりまさる色を見ましや
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詳細はこの歌の解釈のページを御覧下さい。
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同じく鎮魂のために書かれたであろう平家物語にも脚色や隠蔽は当然ありますが、それでも敗れた平家側の登場人物たちの合戦での活躍だけでなく、一族郎党は子供(八歳の童)まで殺した源氏側の所業も書かれています。平清盛がまだ幼かった頼朝や義経を殺さなかったにも関わらず。
あえて子殺しまで書き入れたのは、支配者となった勝者側が、その後の反逆を未然に防ぐための<見せしめ>として「平家物語」を書かせたから、また最終的に頼朝の敵となる義経(九郎判官)を悪役にするためでもあるのはもちろんであるにしても。
***「平家物語」<八歳の童子の首を切る><一族郎党皆殺し> ***********
急ぎ乳母の懐の中より、若君引き出し参らせ、腰の刀にて押し伏せて、つひに首をぞかいたりける。
(「平家物語」巻十一「副将斬られの事」)
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****参照:(注441116):亀井勝一郎「現代歴史家への疑問」<人間を知らない歴史家など存在する筈はない>
亀井勝一郎さんは、「人間を知らない歴史家など存在する筈はない」とおっしゃいました。
それは、<歴史記録に書かれた出来事の考察>において、<人間に対する洞察力><人間を知ること>が必要だ、という意味です。
その言葉を、さらに情報の上流側に適用することはむしろ当然のことに思われます。
すなわち、考察の対象となる<歴史記録>自体がそもそも額面通り事実かどうかを見極めることに、まず<人間を知ること><ウソを見抜くこと>が必要です。
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***「フランクフルト裁判」「私は何も知らなかった」***********************
ちなみに、戦後二十年近くたった1963年に、アウシュビッツに関する裁判(通称フランクフルト裁判)がドイツで行われました。
被告の一人、ロベルト・ムルカは、収容所の副所長であったにもかかわらず、終始一貫して「私は収容所で何が行われていたか知らなかった」と主張しました。
(判決は懲役14年。ちなみに終身刑を言い渡された被告もいました。アウシュビッツでの死者は110万~150万人とされています)
それにしても、大戦直後(1945年)のニュルンベルグ裁判(国際軍事法廷)から二十年たっても忘れることなく、世界中から証人を集め、大変な手間をかけて自国で裁判を行うというドイツ法曹界の責任感は、見上げたものですね。
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コトの良し悪しは抜きにして、人間とは、自己保身のためには、ウソをつくものです。
与えられたプレッシャー如何にもよりますが、そこで誠実さを貫ける人の方が、むしろ少数派でしょう。
自己犠牲を厭わない人でも、いや、そのような善良な人であればなおさら、自分はまだしも家族を犠牲にすることには、大きな苦痛を感じるはずです。
史料の選定・採用に関して、為政者の書かせた「正史」を絶対視することは、この人間の<ウソをつく習性>から、目を背けることです。
それは意図的に行われることもあるでしょう。
為政者の書かせた「正史」に基づく過去の定説や学会の権威にとりあえずは従っておく方が研究者としては何かと好都合だからです。
しかし、その行為は、後世から見れば、過去の悪行を覆い隠すウソに自ら加担するウソの上塗りに等しい、ということを肝に銘じる必要があります。
我々自身が、道長の企てた御匣殿暗殺の共犯者になりかねない、ということです。
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我々は、ここで、もうひとつの<人間性>を思い起こすべきでしょう。
「利己的な遺伝子」の著者リチャード・ドーキンスは、
(1)自然観察や実験データによって否応無く次々と明らかにされてしまう遺伝子の利己的な性質と向き合うのは、決して愉快なことではない、
ということ言っています。しかし、
(2)道徳(ルール)を作って、遺伝子の命じる自己(遺伝子)の保存(本能)に背くことが出来るのは、あらゆる生物の内で人間だけだ、
とも言っています。
自己保身のためにウソをつくのも人間なら、命がけで事実を書き残し、それを同時代や後世に伝えようとするのもまた人間です。
為政者の書かせた「正史」を絶対視した過去の定説や学会の権威に盲従する研究者たちは、前者のウソを見抜けないだけでなく、後者の尊い自己犠牲を受け止める努力すら放棄していることになります。勘も鈍ければ気概もない、ということです。二重の意味で、<人間性>を知らない、見ようとしないわけです。
「歴史家や古典研究者は、相当に高い確率で、過去の悪業隠蔽に加担する共犯者になりかねない職業である」という<緊張感>が、彼らには決定的に欠落しています。
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お上から命じられた「史書」「歴史記録」には書けなかったことが、「文学作品」には書かれています。
闇に葬り去られた歴史の真相を知るために我々が読むべきなのは、「史書」ではなく「文学作品」です。
それは、「大鏡」「栄花物語」などの<歴史文学>だけではありません。
「源氏物語」にしろ「とりかへばや物語」にしろ、今まで<純粋な文芸作品>と考えられていたものも、徹底的に洗い直すことが必要なのでしょう。
そして、その文学作品を、我々は<物語><散文>としてではなく、<詩>として読まねばなりません。
つまり言葉(文字列)の象徴化機能を日常の文脈から解放する、ということです。
例えば、文学作品を一旦すべて平仮名に直し、単語の区切り位置の再検討も含めて、文字列の指示内容を先入見なしでゼロベースから読み解くことは最低限必要です。そうしなければ、隠すために細断された真意の断片を発見し、古人が伝えようと四苦八苦した歴史の真相にたどり着くことは出来ません。
為政者があの手この手で事実を隠蔽し、自らの体制を正当化しようとした必死さを想像すれば、
検閲済みの「正史」の王道の脇にあるドブ(文学作品)の泥を掬っては捨て、また掬っては捨てる泥まみれの試行錯誤によってしか、<史実><歴史の真相>を見出せないことは、逆説どころか、むしろ自明の理であるように思われます。
試行錯誤も無く定説に沿うだけの「資料整理」は「研究」とはむしろ対極にあるものなのでしょう。
彰子がお産で里下がりしたとき、女房総出で作った源氏物語の冊子が、ちょっと目を離した隙に誰かにごっそり持ち去られたのは何故でしょう?
紫式部が自邸に引きこもって宮仕えを拒否したときの、同僚女房との贈答歌のうち、定家本以外では紫式部の返歌だけが削除されているのは何故でしょう?
「小右記」の索引である「小記目録」には、大隅守菅野重忠殺害に関与した大蔵種材の取調べの項目があるのに、「小右記」本文からはそれが抜け落ちているのは何故でしょう?
そこに拘ることもなければ、あろうことか眼の前にあるテクスト、道綱母の「まづこそ」を「前より」と自ら書き換えて当たり障りの無い解釈を付すなど、断じて許されることではありません。
書き換える前に、なぜ徹底的に試行錯誤しなかったのでしょうか。
割に合わない非効率な試行錯誤は極力避けるよう刷り込まれた受験秀才の習性が、「三つ子の魂百まで」となって、こんなところにもしみ出しているように思います。
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*** 念のため、付加えますが、************************************
私は「大鏡」「栄花物語」などの歴史文学におけるエピソードも、<事実>として取り入れるべきだ、と言っているのではありません。
「栄花物語における人物の心情描写は作者(赤染衛門)が勝手に想像したものだ」
「大鏡のエピソードは脚色されている」
などの評価は全くその通りであって、これらをそのまま史料とすることは出来ません。
しかしそれより重要なのは、「栄花物語」にしろ「大鏡」にしろ、誇張にしろ、事実にしろ、
そこに描かれる出来事を、我々が受け取るその内容は、通常は文章(文字列)の<表の意味>だ、ということです。
誰の目にも明らかな<表の意味>であるからには、為政者にも当然認識されており、
そこに描かれた額面通りの内容は、多かれ少なかれ<検閲済み>に等しいもので、為政者にとって本当に不都合な内容はすでに削除されているはずです。
私がここで述べたのは、
歴史文学に限らず、物語も日記も歌集も、ありとあらゆるテクスト(文字列)が、史料となり得るわけですが、その絶対条件は、
<裏の意味>が読み取れる、
ということです。
そして<裏の意味>を持つ文字列を、ここでは「詩」と読んでいます。「暗号」と言っても良いかもしれません。
栄花物語における、元子の出産のくだりを見てみましょう。
****「さと(里)」「流」<「子」を流す> ***********
(栄花物語 地の文).
ただものもおぼえぬ水の「さと」「流れ」「出づれ」ば、いとあやしく世づかぬことに人々見たてまつり思へど、、、
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検閲済みの内容:<赤子ではなく水が流れ出て来た>
裏の事実:<予定日から二ヶ月も遅れて生まれてきたのは(案の定)一条天皇の子ではなく、隠蔽する為には里子に出すほか無かった>
赤染衛門が伝えたかった真相(裏の意味)は、<不義の子だったので里子に出した>であり、<水が流れ出た>という表向きの意味ではありません。
だから「さと」<ざっと>という擬音語(擬態語)をあえて付加えて、「さと(里)」<里子><里親>を仄めかしたのです。
詳しくはこの一節の解釈のページをご参照下さい。
栄花物語の文章を額面通り(客観的?)に受け取れば、「水が流れ出た」ことになります。
不義の子を連れて宮中に帰ったら、元子にも父の顕光にも未来はありません。
元子(顕光)サイドの苦し紛れの作り話を額面通りに受け取れば、<ウソ><誤った歴史認識>が導かれるのはむしろ当然の結果です。
栄花物語は赤染衛門が書いたとされています。
赤染衛門は、紫式部と同じく、彰子に仕える女房でした。すなわち、元子のライバル側に当たります。
ちなみに、顕光は右大臣でありながら、「至愚のまた至愚」といわれるほど無能で、酒癖の悪さも有名でした。
執務能力でなく姻戚関係で実権の帰趨が決まってしまう摂関政治の象徴のような人事です。
彰子に肩入れする赤染衛門は、<不義の子>を仄めかし、元子サイドの失態を何とか書き残したかったのかもしれませんし、あるいは彰子側の指示だったのかもしれません。
いずれにせよ、書き残されたテクストを額面通り(客観的に?)読む限りは、<検閲済み>の内容しか見えてきません。
***「客観的」な臆病者 *********************
公平を期するのはよい。しかし<公平をよそおう臆病者>があまりにも現代史家に多いのではないか。「客観的」な臆病者が多いのではないか。
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真相を書き残そうとする赤染衛門たちの貴い意思を受け止めるには、我々は「客観的な臆病者」であってはなりません。
権棒術数にまみれた宮廷で紫式部や赤染衛門が命を懸けたその勇気に比べれば、現代の我々が古典作品の裏の解釈に踏み込む一歩など、物の数ではないのですから。
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さて、
(大宮4)の和歌に戻りましょう。
「みくしげ(御櫛笥)」<櫛などの化粧道具を入れる箱>
地の文:
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三条宮より忍びやかに御使あり。
「御櫛の箱」<みくしげ(御櫛笥)>など、にはかなれど、事どもいときよらにしたまうて、、、、
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第三子「躾子(びし)」出産のため、中宮職の平生昌の三条にある邸に中宮定子は退出していました。
生昌の家は、中宮が仮住まいしているため、一時的に「三条の宮」と呼ばれました。
清少納言も枕草子で、定子が出産で里下がりしていた折のことを「三条の宮におはしますころ、、、」と記しています。
道長は、中宮定子がいながら、我が娘彰子をも強引に一条天皇の后としました。(二后並立)
勢力衰える一方の定子サイドでは、躾子出産を前にして、定子の乳母すら、夫の任国に随行するため、定子のもとを離れていきます。
躾子の出産で定子が亡くなる、同じ1000年12月15日の夜、道長と緊密な関係にあった道長の姉、詮子の御殿(東三条院)が全焼し、また道長は物の怪のとりついた次兄の妻藤原繁子につかみかかられるという凶事に見舞われました。
道長は道隆か道兼の死霊だろうと感じました(権記)が、紫式部は定子の「魂(たま)」だったと言いたかったのかもしれません。
ちなみに、中宮定子の遺詠、
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煙とも雲ともならぬ 身なりとも 草葉の露を それとながめよ (中宮定子)
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の「煙とも雲ともならぬ」から、兄の伊周は、定子が火葬を望んでいないと考え、土葬にしました。
当時の土葬は、土に埋めるのではなく、埋葬地の鳥辺野に「たまや(霊屋)」という仮小屋を作って、そこに棺を置いて来る、という形で行われました。(山本淳子「源氏物語の世界」)
「たま(魂)」<中宮定子の霊魂>
「離れぬ」<離れてしまった>
「くしげ(奇し気)」<怪しげにも>
「け(笥)」は「け(怪)」<物の怪>をも連想させます。
ふた方に いひもてゆけば / 魂 奇し気 わが身 離れぬ / 影子 なり けり
(大宮4)D.<鎮魂>
詮子と道長(繁子)の二方に、恨みを言いに行ったので、
私の霊魂は、怪しげにも、我が身を離れてしまった。
(私:中宮定子は)「影子」<霊魂の抜け殻><亡骸>になってしまった。
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源氏物語の六条御息所は、生霊として夕顔と葵上とをとり殺したばかりか、死霊になった後は、紫上や三宮にも襲いかかりました。
それほどに深い恨みだった、と紫式部は言いたかったのでしょう。
1025年には、道長は二人の娘を、わずか一月足らずの間に亡くしました。
源明子との間に出来た寛子と、倫子との間に出来た嬉子です。
さらにその二年後に、今度は妍子を亡くしました。
ちなみに、この時すでに、定子が命がけで産んだ第三子の躾子は、九歳で病死しています。(1008年)
それは、道長が30日に渡って土御門邸に客を呼んで執り行った大々的な法華三十講を成功裡に終えた直後のことでした。
また、躾子の兄敦康も、帝になれぬまま二十歳で亡くなっています。(1018年)
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「かげ(影)」<影法師のように、形だけで中身の無いもの><魂の抜け殻><本物に似せた模造品><定子の「形代」「御匣殿」>
ちなみに「かけご」には、<本心を打ち明けて話さないこと>の意味もあります。
二方にいひもてゆけば玉匣 我が身 離れぬ 影子 生りけり
は慣れぬ
(大宮4)E.<鎮魂>
(一条天皇が)定子とその妹の「御匣殿」のお二方に惹かれるのだとすれば、それは、姉妹はお互いに、我が身と違わぬ一心同体の面影だからです。
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定子の崩御から4ヶ月後、紫式部は夫宣孝を亡くします。
当時流行していた疫病が直接の原因と考えられています。
宣孝の死を境に、紫式部の詠む和歌には、「身」や「世」という言葉が増えるのだそうです。(「紫式部集」、山本淳子「源氏物語の世界」)
(大宮4)の歌にも「身」の語が含まれていますね。
中宮定子亡き後、宮邸から、定子の母方の外戚、高階一族の訪れはぱったり途絶えました。(山本淳子「源氏物語の世界」)
自身も安和の変で、父高明の失脚を経験した俊賢は、これを「人間の心ではない」と嘆きました。(権記)
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冷泉帝の治世で、源氏(他氏)の最後のエース左大臣源高明が謀反で免職、これで藤原氏に逆らう他氏は根絶された。
冷泉帝は大した事績はないが、この「負の業績」において、平安時代(藤原摂関政治)を象徴する天皇となった。
(参考:井沢元彦「天皇の日本史」)
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***「冷泉天皇」と「源氏物語」*****************************
臣籍降下して源氏となった主人公の光源氏が女性遍歴のあげく、天皇である父親の妻の一人(つまり自分の義母)と不倫関係になり、その間に生まれた不倫の子がなんと天皇になり、その天皇によって光源氏は臣下の身でありながら准太政天皇つまり「名誉上皇」に出世するという物語なのである。
実際には当時、源氏は藤原氏に敗れ藤原氏の天下が確立していた。しかし、この「物語」の中では源氏が逆にライバルに完全な勝利をおさめるのだ。。。(中略)。。。
生前に右大臣だった菅原道真を神様に祭り上げたように、藤原氏は実際には追い落とした源氏一族を「物語の中で勝たせてやった」のである。その証拠に物語の中で天皇になった光源氏の不倫の子は何と呼ばれているか?
冷泉帝、すなわち冷泉天皇なのである。「源氏物語」はフィクションだから藤原氏のことも「右大臣家」とぼかしている。にもかかわらず光源氏の子については現実に存在した冷泉のし号をそのまま使っている。
では、現実の冷泉の治世に何があったか? 源氏の最後のエース源高明が失脚(安和の変)したではないか。つまり「源氏物語」とは、「関ヶ原で石田三成が勝った」という話であって、それを「徳川陣営」が作るというのが、外国にはまったく見られない日本史の最大の特徴の一つなのである。
(井沢元彦「天皇の日本史」)
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(一時的とはいえ)皇統に自らの血を流し込んだ、という意味での光源氏の成功の象徴が<冷泉帝>であり、現実の歴史ではなった者がいない「准太政天皇」の位すら賜ることが出来たのもその冷泉帝の計らいによるものでした。
源氏物語の登場人物のモデルを実際の歴史に探し求める「モデル探し」が今まで盛んに行われてきました。
それは、それぞれの登場人物の具体的な行動や性格を、実在の歴史上の人物と比べてその異同を論じる、というものでした。
しかし、井沢元彦さんのアプローチは、それらとは次元が異なります。
「歴史上実在した冷泉天皇の、個々の具体的な事績」を、「源氏物語の登場人物である冷泉帝の個々の行為や性格」と比べるのではなく、
「歴史上実在した冷泉天皇の治世が<象徴>する<他紙排斥の完了>」を、「源氏物語全体のテーマ<他氏の鎮魂>」と照合させる、
という、メタレベルのアプローチでした。
そして、それは、「現実の冷泉天皇の治世の歴史的意義付け」と、「源氏物語が書かれたそもそもの動機<鎮魂>」とを、見事に符号させています。
私は、これほどクリアー、かつ通常の解釈の発想とは次元を異にする、源氏物語解釈に出会ったことがありません。
ここへ来て、源氏物語の解釈は、「比喩」から「象徴」へと脱皮(昇華)した、とでも言うべきでしょうか。
氏の解釈が正鵠を射ているそもそもの理由は、
「源氏物語は、<文芸><文学><美学><色恋>のために書かれたのではなく、<社会>のために書かれた」
の一点に尽きる、と私は思います。
それもこれも、「源氏物語」の、いや、紫式部の視線の先にあったのは、<文芸><美学><色恋>ではなく<社会><政治>だったからです。
ありていに言えば、紫式部は、文芸しか見ようとしない、文芸しか知らない文学者たちの手に負える存在では無かった、と言うことです。
「冷泉帝」<安和の変><他紙排斥の完了><無力な天皇家><手足をもがれた天皇家>
私はこのイメージ連鎖を、私の「連想詞」のリストに加えます。
むろん、これが源氏物語の中の和歌全ての解釈に当てはまるわけではありませんし、それでもピンと来ない方はご自身のリストに加える必要はありません。
しかし、私自身は、これなくして何の源氏物語か、と言う気がします。
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藤原義懐は、かつて花山天皇を退位させようとする兼家の策略にかかり、花山天皇と伴に出家することを余儀なくされ、一夜にして権勢を失いました。
その息子成房、左大臣道長の養子であった源成信、右大臣顕光の息子重家たち若い世代が、定子の死後、次々と世をはかなんで出家しました。
左右両大臣の息子まで出家した一連の騒動は、宮中を揺るがすニュースになったとともに、定子の死を取り巻く状況を見て、若い世代が如何に厭世観を抱いたかを示しています。
ちなみに、顕光は右大臣でありながら、「至愚のまた至愚」といわれるほど無能で、酒癖の悪さも有名でした。
彼らに、紫式部の真意は伝わっていたのでしょうか。
私は、伝わっていたと思います。
むろんそれを公言するわけには行きませんが。
「三条の宮」「みそひとし」「御櫛の箱」の組み合わせによって、<定子と一条天皇と御匣殿>は容易に連想されていた、と私は思います。
現代人とは比べ物にならない鋭敏な言語感覚を持ち、豊穣な言語空間に生きていた「言葉の達人」である当時の人々なら、脳内で瞬時にイメージが連鎖していたでしょうから。
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地の文には、
「いとにほひやかにうつくしげなる人の、、、」
とあります。
「うつくしげ(美しげ)」の「くしげ」は、「くしげ(匣)」を連想させます。
「くしげ(匣)」は、<御匣(みくしげ)殿>を連想させます。
美しげ
いとにほひやかに うつくしげ なる人の、、、
匣
***「美しげ」「くしげ(匣)」<御匣(みくしげ)殿>********
(地の文).
いとにほひやかにうつ
「くしげ」
なる人の、いたう面痩せて、いとあはれとものを思ひしみながら、言に出でても聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつものしたまふを御覧ずるに、来し方行く末思し召されず、よろずのことを泣く泣く契りのたまはすれど、御いらへもえ聞こえたまはず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、我かの気色にて臥したれば、
「いかさまに」
と思し召しまどはる。
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「いか(如何)」は「いか」「いかいか」を連想させます。
「いかいか」<赤子の泣き声の擬音語><おぎゃあおぎゃあ><産声>
「いか」<おぎゃあ><新生児の泣き声>は、<出産><赤子>を連想させます。
「いか」が、「いか(五十日)の儀」<新生児の誕生五十日目のお祝い>を連想させることも興味を引きます。
***「限り」******************
(地の文).
輦車の宣旨などのたまはせても、また入らせたまひて、さらにえ許させたまはず。
「限りあらむ道にも、後れ先立たじと、契らせたまひけるを。さりとも、うち捨てては、え行きやらじ」
とのたまはするを、女もいといみじと、見たてまつりて、、、
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「限り」と言えば、<源氏物語の最初の歌>にして、<桐壺更衣の最期の歌>が思い出されます。
(桐壺更衣1).限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
「いか」は「行か」と「生か」との掛詞です。
ここでも「いか」<おぎゃあ><産声>の残像が印象的です。
***「光る君」<光源氏>「美しげ」「くしげ(匣)」<御匣(みくしげ)殿>********
(地の文).
世にたぐひなしと見たてまつりたまひ、名高うおはする宮の御容貌にも、なほ匂はしさはたとへむ方なく、うつ
「くしげ」
なるを、世の人、「光る君」と聞こゆ。
藤壺ならびたまひて、御おぼえもとりどりなれば、「かかやく日の宮」と聞こゆ。
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メモ:
語彙、語法・文法、
連想詞の展開例など
あくまでこれは「タタキ台」として、試みに私の主観を提示したものに過ぎません。
連想に幅を持たせてあるので、自分の感覚に合わない、と感じたら、その連鎖は削って下さい。
逆に、足りないと感じたら、好きな言葉を継ぎ足していって下さい。
そして、自分の「連想詞」のネットワークをどんどん構築していって下さい。
詳細は「連想詞について」をご参照下さい。
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****参照:(注551136):(大宮4).ふた方にいひもてゆけば玉くしげ のメモ:
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ここまで。
以下、(注)
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