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(玉鬘20).若葉(若菜)さす野辺の小松をひきつれて もとの岩根をいのるけふかな
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この本は「教科書」「参考書」の類ではありません。
皆さんに「教える」のではなく、どちらかと言うと、皆さんと「一緒に考える」ことを企図して書かれた本です。
また、私の主観も随所に入っていますが、私はこの方面の専門家でもありません。
ですから、
<効率よく知識を仕入れる><勉強のトクになるかも>
などとは、間違っても思わないようにして下さい。
いわゆる「学習」「勉強」には、むしろマイナスに働くでしょう。
上記のことを十分ご了解の上で、それでもいい、という人だけ読んでみて下さい。
ただし、
教科書などに採用されている、標準的な解釈の路線に沿った訳例は、参考として必ず示してあり、
その場合、訳文の文頭には、「@」の記号が付けてあります。
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時々「(注)参照」とありますが、それは末尾の(注)をご参照下さい。
ただし、結構長い(注)もあり、また脱線も多いので、最初は読み飛ばして、本文を読み終えたのちに、振り返って読む方がいいかもしれません。
なお、(注)の配列順序はバラバラなので、(注)を見るときは「検索」で飛んで下さい。
あちこちページを見返さなくてもいいように、ダブる内容でも、その場その場で、出来る限り繰り返しを厭わずに書きました。
その分、通して読むとクドくなっていますので、読んでいて見覚えのある内容だったら、斜め読みで進んで下さい。
電子ファイルだと、余りページ数を気にしなくて済むのがいいですね。
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(玉鬘20).若葉(若菜)さす野辺の小松をひきつれてもとの岩根をいのるけふかな13.txt
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要旨:
(玉鬘20)の和歌に含まれる、
「小松」<子><子孫>や、
「もとの岩根」<親><祖先>という表現は、
<血筋>というものを連想させる。
頭中将を実父に、光源氏を養父に持つ玉鬘が、
初春の「子(ね)の日」の祝いに、子連れで源氏のもとを訪れ、そこで詠んだ歌について、
<血筋>への連想を背景として、解釈を試みた。
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目次:
(玉鬘20).若葉(若菜)さす野辺の小松をひきつれて もとの岩根をいのるけふかな
メモ:
語彙、語法・文法、
連想詞の展開例など
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では、始めましょう。
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源氏四十の儀で、玉鬘が源氏に贈ったお祝いの和歌です。
ちなみに当時は四十歳を超すと、「翁」と呼ばれ、長寿とされました。
「四十の賀」「五十の賀」など十年ごとに長寿の祝いが行われます。
(玉鬘20).若葉(若菜)さす野辺の小松をひきつれて もとの岩根をいのるけふかな
「小松引き」<正月の初子の日に、小松を引いて長寿を祈る行事>
「さす(差す)」サ行四段自動詞<(木の枝や葉が)伸びる><(雲が)湧き上がる><(潮が)満ちてくる><(色を)帯びる>
「紫草(むらさき)」<紫草>は、地に根を良く張り、まるで群落が地下でつながっているように見えます。
「紫根(しこん)」と呼ばれるその根から紫色の染料を採ります。
「紫のゆかり」など、親の種(くさはひ)から生える実生は、地上では離れていても、地中の根は繋がっているようなイメージがあったのでしょうか。
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紫の一本ゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る(古今、雑上、867、よみ人知らず)
紫の根延ふ横野の春野には君を懸けつつ鶯鳴くも (万葉集10、1825、作者未詳)
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「根」は血筋の例えにもなります。
「岩」は、<磐石で、永久不変のもの>の例えに用いられます。
「岩根」「岩が根」<大地に根を下ろしたような大きな岩>
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種しあれば岩にも松は生ひにけり 恋をし恋ひば逢はざらめやも (古今和歌集、恋、よみ人知らず)
種はあれど逢事かたき岩の上の松にて年をふるはかひなし (後撰和歌集、恋、よみ人しらず)
日本の岩には、"一枚岩"はなく、殆どの岩には割れ目が出来ているため、種子さえあれば岩の上にマツが生えることは十分に可能。
(有岡「資料 日本植物文化誌」)
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(玉鬘20)A.
若葉を出す野辺の小松の根を引くにつけ、根本の大岩との繋がりを思う今日です。
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後述するように、「いは(岩)」と「いは(言は)」は、掛詞として常用されます。
***「いは」「言はじ」*******
かくとだに思ふ心を岩瀬山 下ゆく水の草隠れつつ (新古今1088)
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***「いは」「言はむ」*************
君をこそ神もあはれといはし水 外より出でぬ流れと思へば (新続古今2090)
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「石清水(いはしみづ)八幡宮」も「いは(言は)」との掛詞となります。
ちなみに、
「八幡神社」は<源氏の氏神>であり、
その総本社である、大分県の「宇佐八幡神宮」は、<応神天皇>と<神功皇后>を祀っています。
詳細は下記和歌のファイルをご参照下さい。
***「うさ(憂さ)」「うさ(宇佐)」「こと(琴)」********
(光源氏85).別れしに悲しきことは尽きにしを またぞこのよのうさはまされる
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「いは(岩)」は「いは(言は)」を通じて、「いはしみづ(石清水)八幡宮」をも連想させます。
「石清水八幡宮」「八幡神社」<源氏の氏神>
「清水」「みづ(水)」「みつ(見つ)」<皇統の「純血」に冷泉帝という「水」を流し込んだ源氏>
詳細は下記和歌のファイルをご参照下さい。
***「真清水」「水」***************
(夕霧17).なれこそは岩もるあるじ見し人のゆくゑは知るや宿の「真清水」
(雲居雁4).なき人のかげだに見えずつれなくて心をやれるいさらゐの「水」
(古今集294).ちはやぶる神代も聞かず竜田川 唐紅に「水」くくるとは (伊勢物語)
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玉鬘には、相次いで二人の子が生まれました。今日はその子たちも連れてきています。
松の二葉は、玉鬘の二人の子を思わせます。
松の根は親との絆を思わせ、源氏の益々の繁栄(茂り栄えること)と、末永く続く血筋を祈る気持ちが込められているようです。
@(玉鬘20)B.
若葉を出す野辺の小松(ふたりの子供)をともに連れて、もとの岩根(光源氏)の長寿をお祈りする今日です。
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ところで、
平安京の造作に当たって、各氏族は自前の資力・労力で門を造営し朝廷に献上しました。
その際、各氏族の名前と類似する音韻を持つように門の名前が付けられました。
***「氏族」と「門」の名前 <音韻類似による連想> **********
氏族名:門の名前
「おほとも(大伴)」:応天門
「みぶ(壬生)」:美福門(呉音で「ミフク」)
「わかいぬかい(若犬甘)」:皇嘉(くわうか)門(呉音で「ワウカ」)
「やま(山)」:陽明(やうめい)門
「たけべ(建部)」:待賢(たいけん)門
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これを見ると、当時の人々の「音韻」の類似による<連想>の幅が、現代人の想像よりはるかに豊かであったことが分かります。
ちなみに、「応天門の変」では、大伴善男が源信を犯人に仕立て上げようとして、大伴氏の門である「応天門」にあえて放火した、と言う説もあります。
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上述の「小松引き」と並ぶ初春の年中行事に、「若菜摘み」があります。
***「正月」「若菜」**************
(「枕草子」第二段)
正月。一日は、まいて空の景色うらくと珍しく、かすみこめたるに、世にありとある人は、姿容心ことにつくろひ、君をもわが身をも祝ひなどしたるさま、殊にをかし。
七日は、雪間の「若菜」青やかに摘み出でつつ、例はさしもさる物目近からぬ所にもてさわぎ、白馬見んとて、里人は車きよげにしたてて見にゆく。
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「若菜」<春先に生え出た食用の野草><正月の初めての子(ね)の日に食べる新菜>
「若菜」は<邪気を除く縁起物>として、宮中では内膳司から七種の若菜を吸い物にして天皇に奉りました。
「若菜摘み」とは、その若菜を摘む、正月(現在の二月後半に相当)恒例の行事です。
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「若葉」を「若菜」とする写本もあります。
「わかな(若菜)」は「わがな(我が名)」を連想させます。
濁点を打つ習慣の無かった当時、これらはともに「わかな」と表記されました。
「わがな(我が名)」<私の名><自分の名前><自分の血筋>
***「玉鬘」「祖(おや)の名」*********
(万葉集 3/0443).玉鬘 いや遠長く 祖(おや)の名も 継ぎ行くものと、、、、
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挿す
若菜 差す 岩根 今日
わかな さす 野辺の小松をひきつれて もとの いはねを いのる けふかな
わがな 指す 言はね
我が名
分かぬ?
「分く」には、<区別する><判別する>の意味があります。
「わかな(若菜)」の音韻は、「わかぬ(分かぬ)」をも連想させることは、興味を引きます。
「わかぬ(分かぬ)」 = 「分く」+ 打消「ず」連体形
= <分からない>
「さす(指す)」<指す><指差す><目指す>
「玉鬘」<頭中将の実子><源氏の養子>
「小松」<玉鬘の子><頭中将の実の孫><源氏の育ての孫>
「わがな(我が名)」<私の名><自分の名前><自分の血筋>
「わかぬ(分かぬ)」<分からない><(玉鬘の子たちは源氏と頭中将の)どちらが本当のおじいちゃんか判別できない>
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玉鬘の実父は頭中将(内大臣)です。光源氏は、実は養父に過ぎません。
優しい夫と子宝に恵まれ、今でこそ幸せ絶頂の玉鬘ですが、ここに至るまでは紆余曲折の前半生でした。
玉鬘は、頭中将の<隠し子>としてこの世に生を受けました。
そして、玉鬘の実母である夕顔は、頭中将の正妻から様々な圧迫を受け、さらに、
源氏と関係したために、源氏の愛人であった六条御息所からも妬まれ、
玉鬘がまだ赤子同然の幼い頃に、夕顔は六条御息所の生霊にとり殺される、という禍々しい最期を迎えました。
そして、玉鬘は母親の死後すぐ筑紫に下向することとなり、さらに求婚者から逃げるようにまた京に戻る、など、波乱に満ちた前半生を送りました。
つまり、夕顔の死、引いては玉鬘のその後の幸福とは言い難い人生については、
源氏にも当然大きな責任があり、養育はそのせめてもの罪滅ぼし、という側面もあったわけです。
とは言え、源氏が引き取って、貴族社会の文化や、教養作法など、貴族生活の諸々について、理想的な教育を施したおかげで、今は将来有望な男性を夫にし、子宝にも恵まれ、幸せを手にしたと言っていいでしょう。
というより、身分云々はさておき、いわゆる<一般的な女性としての幸福>を、最終的に手にしたのは、
源氏物語に登場する女性の中で、中宮(皇后)になった明石姫君と玉鬘だけ、といっても過言では無いほどです。
まるで、八人の愛人の内、一人を除いて全てが不幸な生涯を送ったピカソのようです。
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さて、
上述のように、「いは(岩)」と「いは(言は)」は、掛詞として常用されます。
******「古典文法総覧」p.670 ******************
以下では、否定語の無いところに否定語を補っています。
すなわち、正反対の意味になるということです。
かくとだに思ふ心を岩瀬山 下ゆく水の草隠れつつ (新古今1088)
「いは」と「言はじ」が掛詞とされる。
君をこそ神もあはれといはし水 外より出でぬ流れと思へば (新続古今2090)
「いは」と「言はむ」が掛詞とされる。
否定語を補うことすら許すのは、さすがに「得手勝手」「ご都合主義な」読解姿勢であるように感じられますが、慣習ではこれも認められています。
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「いはね(岩根)」を「言はぬ」「言はね」「言はねど」としてみましょう。
ちなみに、
上代では、已然形は単独で、順接、逆接の条件として用いられました。
また、
係り結びの係助詞「こそ」がなくても、文を已然形で終止させることがあります。
これを「已然形終止」と言います。
***「已然形終止」********************
(小田勝「古典文法総覧」p.92)
(男女の仲は崩れ始めると)なごりなきやうなることなどもみなうちまじるめれ。(源氏物語「椎本」)
これ(この歌)やこの腹立つ大納言のなりけんと見ゆれ。(源氏物語「宿木」)
つれなくのみもてなして御覧ぜられ奉り給ふめりしか」と(右近は源氏に)語り出づるに。(源氏物語「夕顔」)
わが方ざまに(自分の婿にしようと)思ふべかめれ。(源氏物語「紅梅」)
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挿す
若菜 差す 岩根 今日
わかな さす 野辺の小松をひきつれて もとの いはねを いのる けふかな
わがな 指す 言はね
我が名 言はぬ
分かぬ?
「わがな(我が名)」<私の名><自分の名前><自分の血筋>
「小松」<玉鬘の子><頭中将の実の孫><源氏の育ての孫>
「さす(指す)」<指す><指し示す><指差す><目指す>
「分かぬ」<分からない><(玉鬘の子たちは源氏と頭中将の)どちらが本当のおじいちゃんか判別できない>
(玉鬘20)C.
「我が名」<私の名><玉鬘の血筋>を指差して、
(どちらが本当の親か?と聞く)、
「小松」<玉鬘の子><頭中将の実の孫><源氏の育ての孫>たちを引き連れて、
(今日の源氏の四十の賀(長寿のお祝い)にやって来ましたが)、
根もと(祖先)がどちらとは「言はね」<言わないけれど>、
内大臣<生みの親:藤原氏>の幸せも、光源氏<育ての親:源氏>の幸せも、ともに祈る今日の「子の日」ですよ。
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我々がふだん目にする松(アカマツやクロマツ)は葉が二本一組になっていますね。
ゴヨウマツ(五葉松)では五本、カラマツ(落葉松)では二十~三十本が一組になっています。
源氏の明石での<隠し子>明石姫君も、実母から養母に引き取られるとき、「ふたばの松」に例えられました。
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(明石15).末遠きふたばの松にひきわかれいつか木だかきかげをみるべき
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「ふたばの松にひきわかれ」とは<実の親>と<育ての親>に引き裂かれる苦悩の象徴なのかもしれません。
冷泉帝も明石姫君も薫も、みな<生みの親>と<育ての親>の存在に悩みました。
それは玉鬘も同じです。
貴族社会は身分が血筋で決まるため、おそらく今の我々には想像し難いほど、自らの出自にこだわらざるを得なかったことでしょう。
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当時の摂関政治においては、娘を天皇に嫁がせ、娘が皇子を産むと、父親は外戚(外祖父)として摂政や関白となり、政治権力を手にすることが出来ました。
そのような、后候補にさせるための娘を「后(きさい)がね」と言います。「后がね」は権力を手にしようとする貴族にとって何より大切な<持ち駒><実弾>でした。
源氏が実子の明石姫君のほか、六条御息所の娘(のちの梅坪女御)や内大臣の娘玉鬘を養子として引き取ったのには、もちろん「后がね」として使いたい思惑があったことでしょう。
それだけをみれば、「源氏は、自分自身のために<育ての親>になっただけじゃないか」と皆さんは思われるかもしれません。
しかし、子を立派に育て、良縁に結びつけることは当時も今も、気の抜けない苦労の連続であったはずです。
それは育児や教育のみにとどまりません。
将来有望な婿の選別や、悪い虫がつかないように、また変な噂が立たないよう、常に周囲に目配せすることも不可欠だからです。
なにせ、后候補となるライバルはわんさといるわけですから。
梅坪女御も玉鬘も、ある程度成長してから引き取ったので、その辺りの苦労は多少割り引かれるとしても、それでも打算だけで他人の子の面倒を見る苦労が続けられるものでもないでしょう。
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あなた、引き取るったって、犬や猫じゃないんだから。
子供を育てるって、本当に大変なことよ。
(映画「海街ダイアリー」)
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自分自身も、ふたりの子供を持つに至った玉鬘は、それを実感していたのではないでしょうか。
「もとの岩根(言はね)を祈る今日かな」を(玉鬘20)Cのように解釈したのはそんな理由からです。
玉鬘の場合、実の父内大臣は、当人に悪意はなかったにせよ、夕顔をはらませただけで、結果として玉鬘の養育には一切関わらなかったのですから、なおさらです。
この歌に対する源氏の返歌は以下をご参照下さい。
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(光源氏185).小松原末のよはひに引かれてや野べの若菜も年をつむべき
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ところで、当時、言葉は「ことだま(言霊)」とも呼ばれ、口にした瞬間、あるいは文字にした瞬間に「たま(魂)」を持ち、現実のものとなる、と考えられていました。
そのため、「忌み言葉」などと言って、不吉なこと、縁起でもないことを言葉にするのを、当時の人は極端に忌み嫌いました。
また、人の名前「人名」は、単なる言葉、文字列ではなく、本人の<魂そのもの>、と考えられていました。
例えば、不用意に名前を知られると、それを呪詛に用いられる、というような恐れもあり、
職務上どうしても必要な場合や、よほど親しい間柄にならない限り、本名を知らせる、ということはありませんでした。
例えば、紫式部は、父親の官職が式部丞で、書いた物語の登場人物(光源氏の妻)が紫上だから、そう呼ばれていた、というだけで、本当の本名は分かっていません。本名は「藤原香子(たかこorかをりこ)」だった、という説があるだけで、あくまでそれは道長の「御堂関白記」(道長の日記)に残る女性の名と結びつけただけの想像、仮説に過ぎません。
清少納言も、父親の官職名が少納言であったことから、そう呼ばれるようになった、というだけの、いわゆる「通称」「あだ名」の類であって、こちらも本名は不明です。
(参考:大塚ひかり「面白いほどよくわかる源氏物語」)
それは、当時の現実社会だけでなく、「源氏物語」の中の登場人物でも同じです。
例えば、光源氏は、そのまばゆいほどの美しさから、周囲が「光る君」と呼ぶようになった、というだけです。
<姓が源氏、名が光>ではありません。
桐壺更衣は、後宮の桐壺という部屋に住んでいた更衣(女御より下位の妃)だから、
藤壺宮も、同じく後宮の藤壺という部屋に住んでいた中宮だから、そう呼ばれているだけで、本名は源氏物語のどこを探しても載っていません。
六条御息所は、平安京の六条通りに自邸がある、「御息所」<皇子を産んだ女性><皇太子の妃>という意味で、これも本名ではありません。
夕顔は自宅の生垣に夕顔が生えていた、というだけ、
また、朧月夜に至っては、光源氏と初めて会ったのが、朧月夜の晩だった、というだけの話です。
このように、源氏物語の登場人物の呼び名は、基本的に全て「通称」「あだ名」に過ぎないのです。
しかし、主要登場人物の内、ただ一人、本名が物語中に記されている人がいます。
それがこの「玉鬘」で、その本名は「藤原瑠璃(るり)」君です。
***「玉鬘」<藤原瑠璃>**********
例の藤原の瑠璃君(るりぎみ)といふが御ためにたてまつる。。。
(源氏物語「玉鬘」帖)
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唯一本名が分かっている登場人物で、しかもそれが「藤原」一族であることを明瞭に示している玉鬘が、
この歌の詠み手であることは興味を引きます。
「わかな(若菜)」は「わがな(我が名)」を連想させます。
濁点を打つ習慣の無かった当時、これらはともに「わかな」と表記されました。
「わがな(我が名)」<私の名前><藤原瑠璃><藤原一族>
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「松と藤」は屏風絵の定番モチーフで、しばしば「松」は<天皇家>、それに絡まる「藤」は<藤原家>を指します。(「和歌植物表現辞典」)
******「松」<天皇家>「藤」<藤原家>「春日」「春日大社」<藤原氏の氏神>************
(後拾遺集440).千歳ふるふたばの「松」にかけてこそ「藤」の若枝は「春日」さかえめ (賀、源顕房)
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奈良の春日山にある春日大社は藤原氏の氏神です。「春日詣で」、とは春日大社参詣、とくに藤原氏の氏長者による参詣を言います。
(ちなみに源氏の氏神は八幡神社です。その総本社である大分県の宇佐八幡神宮は応神天皇と神功皇后を祀っています)
藤は花穂の連なる様子が、しばしば<波>に例えられ、「藤波」という言葉も常用されます。
「藤」<藤原氏><摂関家>
「松」<天皇家>
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(薫5 大島本).手にかくるものにしあらば藤の花 松よりまさる色を見ましや
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詳細は上記和歌のファイルをご参照下さい。
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「野辺」<野辺><野の辺り><野原><火葬場>
「野辺送り」とは<葬送>
「野辺の煙」とは、<火葬の煙>、転じて<死>を意味することがあります。
「のべ(野辺)」が「のべ(延べ)」をも連想させることは、興味を引きます。
「のべ(延べ)」<「のぶ(延ぶ)」の連用形(転成名詞)>
「延ぶ」<延ばすこと><延びること><生え伸びること><生え伸ばすこと>
「葛」という字には、「かづら」「かつ」「かど」「つら」「くず」「ふぢ」など、数多くの読み方があります。
例えば、第51代平城天皇の皇子、阿保親王を産んだのは、葛井藤子(ふぢゐのふぢこ)です。
それにしても、「ふぢゐのふぢこ」って、<どんだけ藤が好きなんだよ!>と叫びたくなりますが、それはさておき、
つる(蔓)性植物の藤は、「かづら(蔓)」を伸ばします。
しかし、一年生草本の夕顔などのか細いつると異なり、多年生木本の藤のつるは、年々肥大し、時に絡みついた本体の木を締め上げて枯らしてしまうほど、圧倒的な存在感があります。
ちなみに、「ふぢ(藤)」の音は、古来「ふし(不死)」と結び付けられたそうです。
樹齢五百年を越えるような藤も多く、なかでも春日部市牛島の藤は樹齢千年だそうです。(大貫茂「花の源氏物語」)
***「藤かかりぬる木は枯れぬるものなり。いまぞ紀氏はうせなむずる」**************
「大鏡」「道長(藤原氏物語)」
(大鏡).
内大臣鎌足の大臣、藤氏の姓賜りたまひての年の十月十六日に亡せさせたまひぬ。御年五十六。大臣の位にて二十五年。
この姓の出でくるを聞きて、紀氏(きのうぢ)の人の言ひける、
「藤かかりぬる木は枯れぬるものなり。いまぞ紀氏はうせなむずる」
とぞのたまひけるに、まことにこそしかはべれ。
「き(木)」は「き(紀)」<紀氏>を連想させます。
木
藤かかりぬるきは枯れぬるものなり。いまぞ紀氏はうせなむずる」
紀
(大鏡)B.<鎮魂>
藤(のツル)が掛かった「き(木)」「き(紀)」<紀氏>は枯れてしまうものだ。
そのうちきっと紀氏は滅んでしまうよ。
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****参照:(注224491):(玉鬘20).の「わかな(若菜)」「わがな(我が名)」<藤原氏>と「松の千歳」について
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***「万葉集」<犯罪者の歌集> **************************
まず第一に、「原万葉集」ともいうべき巻一・巻二が「持統天皇の発意により文武朝に編纂され」、、、(中略)というが、それは有り得ない。
なぜなら、前節でも述べたように、巻一・巻二には、長屋王、有間皇子、大津皇子など「国家的犯罪者」の歌が載せられている。
特に問題なのは大津皇子だ。大津は、持統によって無実の罪を着せられ処刑されたのである。その持統の命令によって作られた歌集に、編纂を命ぜられた撰者が大津の歌を採るはずがないではないか。長屋王についても同様だ。長屋王は(天武系の称徳天皇までの)持統王朝ではやはり「犯罪者」なのである。。。。
(井沢元彦「逆説の日本史3 平安建都と万葉集の謎」)
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「万葉集」は、大津皇子らのように、過去に非業の死を遂げた怨霊たちの<鎮魂>のために編まれた、と考える人もいます。
有間皇子の謀殺は、中臣鎌足と中大兄皇子の企てたものであるとも言われています。
中臣鎌足は、大化の改新の功績により、中大兄皇子から「藤原」姓を授かります。
つまり、藤原氏の祖先です。
中大兄皇子に尋問された有間皇子は、
「天と蘇我赤兄が知っているでしょう。私は何も知りません。」
と答え、処刑されました。
****(注557781)参照
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「大化の改新」の後、即位した名ばかりの孝徳天皇は、中大兄皇子に難波に置き去りにされて失意の内に寂しく崩御しました。
有間皇子は、そのとき14歳でした。
そして、つなぎとして、孝徳天皇の姉が、皇極天皇として即位しました。
しかし、孝徳天皇の第一皇子の有間皇子は、舒明天皇の第二皇子の中大兄皇子よりも皇位に近く、
中大兄皇子がその存在を疎ましく思っていたことは、確かに事実なのでしょう。
「初子の日」とは、<新年の最初の子の日>のことですが、
毎年この日に「若菜摘み」や「小松引き」の正月行事を行います。
「初子の日」の「初子(はつね)」が「初子(うひご)」を連想させることは興味を引きます。
「初子」<初めての子><第一皇子>
直前の地の文:
***「子の日」<初子の日>***********
(地の文).
人よりことに、数へ取りたまひける今日の「子の日」こそ、なほうれたけれ。
@(地の文)A.
あなたが誰よりも先に私の年齢を数えてお祝いして下さった今日の子の日は、やはり却って恨めしい気持ちです。
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有間皇子(孝徳天皇の皇子)は、蘇我の赤兄の罠にはまり、あらぬ謀反の濡れ衣を着せられ、
19歳で命を絶たれることになりました。
それは、中臣鎌足と中大兄皇子の企てたものであろう、とも言われています。
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(万葉集 02/0142).家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る (挽歌 有間皇子)
「し」副助詞<強意>
@(万葉集 02/0142)A.
家にいたら食器に盛るご飯だが、草を枕に旅する身なので、椎の葉に盛ることよ。
***「草枕」「手枕」「石枕」*****************
「草枕」<草を枕にすること>とは「旅」を導く枕詞になります。
ちなみに、
「手枕(たまくら)」<腕枕>は<男女の共寝>
「石枕(いはまくら)」<石の枕>は<永眠する時の枕>
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この歌は、奈良から紀ノ川を下り、海に出て海岸沿いを、済明天皇の行幸先の和歌山の白浜まで連行される道すがらで詠まれました。
尋問の後、有間皇子は処刑されました。
「旅」<白浜まで連行される旅><刑死までの護送>
「いひ(飯)」と「しひ(椎)」の音韻の対比が鮮やかです。
「し」は「死」を連想させます。
ちなみに、
「いひ(家)」「いは(家)」「いはろ(家ろ)」は<上代東国方言>で<家>の意味になります。
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(万葉集 20/4343).我ろ旅は旅と思ほど家(いひ)にして子持ち痩すらむ我が妻愛しも (玉作部廣目 防人歌)
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ちなみに、椎の木で染める「椎柴」の布は、喪服に用いられるようになりました。
紫式部は、この歌を、濡れ衣で刑死した有間皇子の鎮魂の観点から<読み替え>た上で、(薫5)の引き歌にした、
と想定(妄想)して、試しに訳してみましょう。
(薫5).手にかくる ものに「し」あらば 藤の花 松よりまさる 色を見ましや
(万葉集 02/0142)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅に「し」あれば 椎の葉に盛る
死
「いひ(家)」「しひ(椎)」
(万葉集 02/0142)B.<鎮魂>
家にいたら食器に盛る「いひ」<ご飯>だが、護送の旅の末に「死」があるので、「しひ」<椎>の葉に盛ることよ。
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ちなみに、護送の末に有間皇子が処刑された場所は、
「紀伊の国」、現在の和歌山県の海沿いの町、その名も「海南市」の、
「藤白(ふぢしろ)の坂」<海南市藤白神社の近く>です。
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ところで、
「かひ(貝)なき海」「しほ(塩)ならぬ海」は<淡水湖>、とくに「淡海」「近江」<琵琶湖>を指します。
***「かひ(貝)なき海」「しほ(塩)ならぬ海」**********
(光源氏137).わくらばに行きあふみちを頼みしも なほ「かひなし」や「しほならぬ」海
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「かひなき(貝無き)海」<貝のいない海>は<淡水湖>、とくに「淡海(あはみ)」「近江(あふみ)」<琵琶湖>を指します。
もっとも、実際には淡水湖にも貝は生息していますが、まあ確かに、海岸ほど生物種は多くはありません。
「かひなき(貝無き)海」は<琵琶湖>を連想させます。
琵琶湖岸は、日本の命運を決する、幾多の合戦の戦場となってきた、文字通り「死の海」「血の海」でした。
***「かひなき(貝無き)海」「たちかさね(太刀重ね)」********
(源典侍3).うらみても言ふ「かひぞなき」「たちかさね」引きてかへりし波のなごりに
「たちかさね(立ち重ね)」<(波が)立ち重なって>
「たちかさね(太刀重ね)」<(兵士が)太刀を重ね合って>
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壬申の乱では、東国から兵を募った大海人皇子軍が、大友皇子軍を琵琶湖東岸の北から南へと追い立て、最期は近江大津京まで追い詰めました。
大津京は火に包まれ、大友皇子は自害しました。
壬申の乱で大友皇子が戦死し、第38代天智系の皇統は断絶しました。
詳細は、以下の和歌のファイルをご参照下さい。
***「あま(海人)」「かひなき(貝無き)海」*******
(明石上3).かきつめて「あま」のたく藻の思ひにも今は「かひなき」うらみだにせじ
「あま(海人)」<大海人皇子><天武天皇>
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(玉鬘20)の和歌の、直前の地の文が興味を引きます。
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(地の文).
見るかひあるさましたまへり。
@(地の文)A.
(玉鬘の美しさは)、見ごたえのあるご様子である。
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有間皇子を護送する一行は、奈良から紀ノ川を下った後、
海に出て海岸沿いを南へと、済明天皇の行幸先の和歌山南部の白浜温泉(牟婁(むろ)温泉、現在の白浜町)まで南下しました。
そして、白浜で天皇らの尋問を受けた後、有間皇子はまた海岸沿いを北へと引き戻され、途中の藤白坂(現在の海南市)で処刑されました。
つまり、有間皇子の「死出の旅」は、ずっと海岸沿いの旅でもあったわけです。
その途上で詠まれたのが、万葉集「挽歌」の冒頭を飾る、すぐ後で触れる二首の挽歌です。
***「松」「磐」「岩」**************
(万葉集 02/0141).磐白(いはしろ)の浜松が枝を引き結び ま幸くあらばまた帰り見む (挽歌 有間皇子「結び松」)
(万葉集 02/0142).家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る (挽歌 有間皇子)
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中大兄皇子の皇統を断った壬申の乱は、
<琵琶湖>、すなわち「かひ(貝)なき海」「しほ(塩)ならぬ海」<淡水湖>の岸辺で戦われました。
逆に、中大兄皇子の皇統の出発点に位置する、有間皇子の「死出の旅」は、終始海を臨む、海岸沿いの旅でした。
「みる(見る)」は「みる(海松)」を連想させます。
「みる(海松)」<海藻の総称><海辺の松の木>
詳細は下記和歌のファイルをご参照下さい。
***「みる(海松)」「うみまつ(海松)」**********
(光源氏129).海松や時ぞともなきかげにゐて何のあやめもいかにわくらむ
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中大兄皇子の皇統の出発点に位置する、有間皇子の海岸沿いの「死出の旅」の観点から、
この地の文を解釈してみましょう。
見る 甲斐
みる かひ ある さま したまへり。
海松 貝
(地の文)B.<鎮魂>
「みる(海松)」や「かひ(貝)」があるような、(海岸の旅の)ご様子だった。
(有間皇子は海岸沿いの旅の末に殺された!)
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「野辺の小松」<野辺送り(葬送)となった有間皇子>
「わがな(我が名)」<私の名前><藤原瑠璃>
「さす(指す)」<指し示す>
「ひく(挽く)」<(死人を)挽いて>
「引き連れて」<(謀反人を)引き連れて><護送して>
「挽歌」とは、<葬送のとき、棺を載せた車を挽く人たちが歌う歌>のことです。
ちなみに、万葉集の第二巻、「挽歌」の部立ての冒頭を飾るのが、この有間皇子の歌です。
***「磐」「岩」「松」***********************
(万葉集 02/0141).磐白(いはしろ)の浜松が枝を引き結び ま幸くあらばまた帰り見む (挽歌 有間皇子「結び松」)
@(万葉集 02/0141)A.
岩代の浜松の枝を結び合わせて無事を祈るが、もし幸運にも帰って来ることが出来たなら、またこれを見れるだろう。
(万葉集 02/0142).家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る (挽歌 有間皇子)
@(万葉集 02/0142)A.
家にいたら食器に盛るご飯だが、草を枕に旅する身なので、椎の葉に盛ることよ。
「しひ(椎)」<椎の木>
「いひ(家)」<上代東国方言><家>
(万葉集 02/0142)B.<鎮魂>
家にいたら食器に盛る「いひ」<ご飯>だが、護送の旅の末に「死」があるので、「しひ」<椎>の葉に盛ることよ。
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詳細は上記和歌のファイルをご参照下さい。
平安当時の人々にとって、「挽歌」と言えば、この万葉集の有間皇子の歌が、まず思い浮かんだことでしょう。
そこに、「岩」と「松」の言葉がともに現れるのは興味を引きます。
「旅にしあれば」は「旅に死あれば」を連想させます。
「たび(旅)」は「だび(荼毘)」<火葬の煙>をも連想させます。
「野辺」は<火葬>「だび(荼毘)」を連想させます。
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ちなみに、
上代では、已然形は単独で、順接、逆接の条件として用いられました。
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(順接) 家離りいます吾妹を停めかね 山隠しつれ心どもなし (万葉集、3-471)
(逆接) 大舟を荒海にこぎ出弥舟たけ わが見し子らがまみは著しも (万葉集、7-1266)
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また、
係り結びの係助詞「こそ」がなくても、文を已然形で終止させることがあります。
これを「已然形終止」と言います。
***「已然形終止」********************
(小田勝「古典文法総覧」p.92)
(男女の仲は崩れ始めると)なごりなきやうなることなどもみなうちまじるめれ。(源氏物語「椎本」)
これ(この歌)やこの腹立つ大納言のなりけんと見ゆれ。(源氏物語「宿木」)
つれなくのみもてなして御覧ぜられ奉り給ふめりしか」と(右近は源氏に)語り出づるに。(源氏物語「夕顔」)
わが方ざまに(自分の婿にしようと)思ふべかめれ。(源氏物語「紅梅」)
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「もとの言はね」<祖先のことは言わない><藤原氏の祖先、中臣鎌足のことは言わない>
わかな 指す 引き 連れて いはね 今日
若菜 さす 野辺の 小松 を ひき つれて もとの岩根を いのるけふかな
わがな 差す のべ 子待つ 挽き つれで 言はね? きゃう
我が名 鎖す 延べ 連れで 言はぬ 京
分かぬ? 刺す
(玉鬘20)D.<鎮魂>
「わがな(我が名)」<私の名前><藤原瑠璃>が指し示す<藤原一族>が、
「野辺の小松」<野辺送り(葬送)となった有間皇子>を「引き連れて」<護送して>、(謀殺した。)
そのもととなった(のは中臣鎌足の陰謀だが)、そのことは、
「言はね」<言わない>と願う、今日の「初子の日」頃ですよ。
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(玉鬘20)の和歌に含まれる、
「小松」<子孫>や、
「もとの岩根」<祖先>という表現は、
<血筋>というものを、強くイメージさせます。
身分によって人生の過半が決められてしまう、古代の社会において、
彼ら貴族にとって<血筋>とは、何ものにも勝る<死活問題>だったのでしょう。
今でこそ笑って済ませられる思い出話に変わったのかも知れませんが、
玉鬘を入内させようとしていた源氏の目論見は、鬚黒大将の突然の割り込みにより、
いわば、<トンビに油揚げをかっさらわれる>ように台無しにされ、その時の源氏は大変気落ちしました。
しかし、<天皇家に入内する>という養父源氏の期待がはずれても、
玉鬘自身は、夫の愛情にも子宝にも恵まれ、
別に皇后になれなくとも、女性としては十分に幸せだったのかも知れません。
恐らく、可愛い子が二人もいたこの時点では、少なくともそう実感していたのではないでしょうか。
この和歌は、(玉鬘20)Cの解釈のように、
<血筋><家門>に拘るよりも、
大切な価値、大きな幸福が、人間にはある、少なくとも女性にはある、
と言っているようにも見えます。
ところで、紫式部が源氏物語を執筆していた、まさにその時代は、
「藤原氏」が栄華の絶頂を極めていた道長の時代でもあります。
そんな時代を背景としていながら、
源氏物語中で唯一、「藤原」と明示された名前を持つ、
すなわち「藤原一族」を象徴するとも言える玉鬘が、
良くも悪くも、<血筋><家門>に拘るより大切な価値が、人間にはある、
と言っているわけです。
ここで試みたような想像の内容が正しいか否かはさておき、上記の解釈は、
「わがな(我が名)」<私の名前><藤原瑠璃>の始祖でもあり、また、
「わかな(若菜)」<愛しい我が子たち>の始祖でもある、
「もとの岩根」<祖先><藤原氏始祖><中臣鎌足>の悪行も、
めでたい今日の「子(ね)の日」「子(こ)の日」だけは忘れて、
ただただ実父も養父も、全ての人々の幸いを祈りましょう、
と言っている、(玉鬘20)Dの解釈にも通じるように思えます。
****(注771141)参照
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メモ:
語彙、語法・文法、
連想詞の展開例など
あくまでこれは「タタキ台」として、試みに私の主観を提示したものに過ぎません。
連想に幅を持たせてあるので、自分の感覚に合わない、と感じたら、その連鎖は削って下さい。
逆に、足りないと感じたら、好きな言葉を継ぎ足していって下さい。
そして、自分の「連想詞」のネットワークをどんどん構築していって下さい。
詳細は「連想詞について」をご参照下さい。
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****参照:(注772246):(玉鬘20).若葉(若菜)さす野辺の小松をひきつれて もとの岩根をいのるけふかな のメモ:
語彙、語法・文法、
連想詞の展開例など
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ここまで。
以下、(注)
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(注771141)
「子(ね)」が「子(こ)」を連想させることは興味を引きます。
***「子子子?」**************
嵯峨天皇は、あるとき戯れに、
「子子子子子子子子子子子子」
は何と読むか、小野篁に尋ねました。
すると小野篁は、
<猫の子の子猫、獅子の子の子獅子>
と答えました。(宇治拾遺物語)
「子」には「こ」「し」「ね」などの読み方があります。
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「竹の子」に例えられる柏木は、「ねこ(猫)」がきっかけで三宮の姿を垣間見、さらにその猫を三宮の「形代」として愛玩しました。
地下茎を伸ばして<処女懐胎>で増殖する竹にとって、「ね(根)」は「こ(子)」そのものです。
「ねこ(猫)」は「根=子」という暗号ではないでしょうか。
「竹」「根=子」<処女懐胎><不義の子>の連想を誘うサインとして、紫式部は「ねこ(猫)」を柏木と三宮の出会いの場に登場させたのだろう、と私は思います。
竹が「ね(根)」を伸ばし、「よ(節)」を継いで成長するさまは、確かに、
「子を<代々(よよ)>重ねていく」イメージ「子子子子子子子子子子子子」に重なります。
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(注557781)
***「天児屋命」<中臣氏(のち藤原氏)の遠祖>**********
「日本書紀」神代上第六、第七段、(天岩戸)
天岩戸に立て籠もってしまった天照大神を誘い出すために、アメノウズメノミコトが岩戸の前で踊りを舞った。
ここで中臣氏(のち藤原氏)の遠祖である「天児屋命(あめのこやねのみこと)」と斎部(忌部いんべ)氏の遠祖「太玉命(ふとたまのみこと)」は、天の香具山の五百箇(いおつ)の真坂木(サカキ)を掘り出し、枝に神宝を取り付けて祈祷した。そして、天照大神が岩戸から出るや否や、天児屋命と太玉命は岩戸に注連縄を引き渡し、二度と戻らないよう大神に告げた。
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「天」は「天児屋命」<中臣氏(のち藤原氏)の遠祖><中臣鎌足>
を連想させます。
「もとの岩根」は<天岩戸>をも連想させます。
中大兄皇子に尋問された有間皇子は、
「天と蘇我赤兄が知っているでしょう。私は何も知りません。」
と答え、処刑されました。
「天」は「天児屋命」<中臣氏(のち藤原氏)の遠祖><中臣鎌足>
を連想させます。
有間皇子の謀殺は、中臣鎌足と中大兄皇子の企てたものであるとも言われています。
「万葉仮名」<表音文字>ではなく、通常の漢字<表意文字>としての解読:(梅澤恵美子「額田王の謎」)
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(万葉集01/0009).莫囂円隣之大相七兄爪謁気我が背子がい立たせりけむ厳橿が本 (額田王)
,***** ******* わがせこが いたたせりけむ いつかしがもと
,雑歌 作者:額田王 紀州 和歌山 難訓 厳橿 斎橿 植物,,,,,
有間皇子を陰謀にはめ死に追いやったのは中大兄皇子であったことを、額田王は隠しつつ伝えている。(梅澤恵美子「額田王の謎」)
そして、中大兄皇子を裏で操っていたのは中臣鎌足(藤原鎌足)だった。(関裕二「藤原氏の悪行」)
(万葉集01/0009).
栄枯盛衰はいつも隣り合わせにあって、円のように一巡して回りめぐるもの。
紀温湯(きのゆ)の地から、天帝の車(北斗七星)に乗って行ってしまった有間皇子。
そのあなたが天空から放つ矢が、元凶のもととなった天智に打ち込まれ、
(栄枯盛衰の自然の理によって)また新たな世がめぐって来るでしょうから。
(梅澤恵美子「額田王の謎」)
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