YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

キブツを去り、エルサレムへ~聖地・エルサレムの旅

2021-12-31 06:57:17 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
△しばしば出会って来たアーロンだがエルサレムが最後になったー写真はヴェネチアにて。

・昭和44年1月14日(火)曇り時々雨(キブツを去り、エルサレムへ)                 
 晴れていたら、死海へ再挑戦で行くつもりであったが、やはり天候が怪しく、断念した。イスラエルは雨季に入ったのか、ここ3日間、悪天候が続いた。
 色々な思い出や体験が出来、そして多くの友達にも知り会えた。又私に対するキブツの持て成しは、同国人や色々な国の一時滞在者と変わりなく扱ってくれた。食事内容も良く、労働していると三度の食事がとても楽しみであった。そんな仲間達やキブツを去る事は本当に辛く、そして寂しい感じがした。しかし私は旅人であり、17日にイスラエルからイランへの航空予約をしてあるので、いつまでもここに居られなかった。
  昼時、農作業から帰って来た仲間達に別れの挨拶をした。この時に仲間と住所交換した。又オランダ人のバートからは、「中近東、南西アジアは危険な地域だから護身用に」と言って、刃渡り20cmの登山用ナイフを貰った。彼等と共にキブツでの最後の昼食を取り、その後別れた。彼等は本当に良い人達であった。2・3日後に、バートやジョアン達もキブツを去ると言っていた。
『残ったキブツの仲間達も寂しくなるなぁ。でも又新しい仲間が来るから、そうでもないのかな』とも思った。
  キブツ管理事務所に寄って、予定通り本日でキブツを退去する旨、そしてハッゼリム・キブツの心ある持て成しに対し感謝し、キブツを去った。
「イスラエルに来た時、又ここのキブツに立ち寄って下さい」と管理人は言ってくれたが、再び来られる機会があるか、疑問であった。
  キブツ前からヒッチして、エルサレムへ。ヒッチはとてもイージーで、難なくエルサレムに到着した。
 ユースに宿泊したらその夜、あのアーロンが談話室に居た。
「ハィ、アーロン。又会いましたね」と言って彼の所へ。
「ハロー、Yoshi。元気で旅をしていますか。それにしても私達はよく巡り逢いますね」と彼も言って、我々は握手をして再会を喜び合った。
「一寸ビールを飲みに行こう」とアーロンが言うので、近くのレストランへ行った。レストランで2人の再会を祝し乾杯した。それから今までの旅の事、キブツの事等を話した。
「これからイランへ行く」と私。
「私は再びギリシャへ行きます」と彼は言った。
今まで4回も再会出来たのは、同じルートを我々は旅をしていたからであった。しかし、これでルートは完全に左右に分かれるので、再びアーロンと出会う事はあるまいと思った。
 そもそも彼と最初に会ったのが、ヴェネチアのユースであった。翌日、我々は鈴木と共に市内観光をした。2度目はアテネのユースで、3度目はクリスマス・イヴのベツレヘムの混雑したテント小屋の酒場兼食堂で、そして今回で4度目の再会となった。彼は明日、早めにテルアビブへ行くと言う事であった。我々は旅の無事を祈って再び乾杯した。私はこちら(外国)に来てから、多くの旅人と出会い、そして別れて来た。『旅とは、つくづく出会いであり、そして、別れである』と実感した。エルサレムの夜は、静かに過ぎて行った。
           

最後の農作業~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-29 08:47:46 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和44年1月12日(日)曇り(最後の農作業と小田君からの手紙)
 7時にボンに起こされ、彼と食堂へ行った。朝食はいつもと変わらなかったが、朝から卵、野菜サラダ、ヨーグルトや果物が食べられ、私にとって贅沢であった。
 私のジャガイモ収穫農作業は、今日で最後となった。風があったので、顔中が泥埃だらけになってしまった。ここ何日間は晴れていても以前より暖かくなく、裸になれなかった。段々と寒くなって来たようだ。4時に一日の作業、そして私のキブツの仕事も終り、ホッとした。いつもの様に食堂からオレンジを貰って部屋で食べた。そして昨年の12月23日にキブツから支給された残りのブランディーを全部飲んでから、シャワーを浴びた。
 それにしても、今日は落ち着かない日であった。『去る』と言う事は、いつもながら寂しさと、今後の旅の不安を感じた。
  今日、妹の手紙と共に船で横浜からナホトカへ行った時の同部屋の1人、小田君の手紙が同封されて来た。元気でいるとの事で、人事(ひとごと)ながら安心した。彼は200ドル持っただけで、ヨーロッパへ行くと言っていた。詳しくは、『第2章ソ連の旅の船旅』で書きました。その時、彼の勇気、行動力に私は羨ましさを感じた。

死海へヒッチで行こうとしたら・・・~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-28 14:11:13 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
   △ラクダ、ロバ、そして羊の群れが行き交う~ベエルシェバの郊外にて。

・昭和44年1月11日(土)晴れ(死海へヒッチで行こうとしたら・・・)
 昨日、仕事が終ってからエンディとDead Sea(死海)へ行く予定であったが、取り止めたので今日、私1人で行く事にした。
  6時半に起き、朝食を軽く取ってキブツ前からヒッチをした。キブツ前の道は、日中でもポツンポツンと車が走っている程度であった。この道の左方面はネゲヴ砂漠へ、そしてアカバ湾に面するイスラエルでも南の重要な港Eilat(エイラト)へ通じる道であった。20分位待って右方面の車をゲットし、ベエルシェバに着いたのは8時であった。                                                                           
 歩いて町の郊外へ出た。死海への道は未舗装(土漠の道)であった。イスラエルは人々、建物、社会生活、そして雰囲気も西洋的な感じがするが、ここは確かにアジア地域であり、アラブ、若しくは中東的な雰囲気が漂っていた。泥で出来ている家々、通りはラクダ、ロバ、羊の群れが行き交い、その糞の臭いが漂っていた。人々はイスラエル人の他に、パレスチナ人やアラブ系の人も多く見られた。
ヨーロッパ的環境(西欧社会)から急にアラブ的環境(アラブ社会)に変わると、私の感覚は付いて行けなくなり、チョッピリ不安な気持がした。おまけにヒッチを開始してから1時間過ぎても、2時間過ぎても、私を乗せてくれる様な車は、1台も通らなかった。
 私が街道に立っていると、イスラエルの軍人が近寄って来た。彼と2言3言、言葉を交わしたら、「シェルート(乗合タクシー)で行け」と2ポンド渡され、断る暇もないくらい素早く去って行った。私がお金を乞う仕草をしたり、言葉を発したり、或いはお金に困っている顔をしたりした訳でもないのに、如何して彼はお金をくれたのか、私は分らなかった。日本でも『困っている人を見掛けたら手を差し延べる』と言う道徳的観念がある。確かになかなか車が停まってくれないので、困っている様な顔をしていたかもしれなかったが、お金に困っていた訳ではなかった。ユダヤ教の宗教心やその教えからなのか、或はユダヤ人の道徳心からこの様な行為となったのであろうか。それともここから先は軍の監視が行き届かない危険な地域なので、「シェルートで行きなさい」と言う警告の意味であったのか。いずれにせよ死海へのヒッチの旅は、時間が経つにつれて『楽しみからチョッと不安、不安から心配へ、そして危ないかも』と私の心は移り変わっていた。
  街道に立ってから2時間半過ぎた頃か、乗用車が向こうから遣って来た。私は例の如く、ヒッチ合図をその車に送った。車が停まり、中に3~4人の男達(私はヨルダン人と見た)が乗っていた。彼等は、頭を布(クゥトラ)で覆って、体全体を純白な布を被ったアラビア風の格好(カンドゥーラ)をしていた。そんな恰好をしていたドライバーが車内から出て来た。
私は英語で、「死海へ行きたいので、乗せて下さい」と彼にお願いした。
「死海まで連れて行ってやるから、金を出せ」と言った。ヨルダン人にしては上等な車に乗り、英語が話せ、しかも身なりも立派そうであるが、「金を払えば乗せる」と言うのであった。
「私は貴方の車に乗りません」と言って、彼に行く様に促した。
「私の車を逃したら、この道は車が走っていないから行けないぞ。それでもいいか」と彼は言い残し、土煙を巻き上げて走り去って行った。
 あのヨルダン人の雰囲気は、イスラエル人やヨーロッパ人とは一寸違うのであった。アラビアン ナイトの強盗団ではないが、もし乗ったら有り金を全部巻き上げられ、砂漠の中に放り投げられる様な、そんな感じがした。そして私の心は、終に『危ないかも』から『危険』に変わった。時刻は既に11時を過ぎた。3時間経っても一向に前に進めなかった。こんな状態で、もし行けたとしても、今日中にキブツへ戻れるのか分らなかった。しかも、明日は私の最後の農作業日なので、100%戻りたかった。この様な状況や条件が、私の死海行きを断念させ、キブツに戻らしてくれた。
  午後、ナンシー、ジョアン、そしてエンディと写真を撮ったりして過ごした。


    △左から私、ナンシーそしてエンディ~私の部屋の前にて


同部屋のフランクと喧嘩~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-27 09:24:28 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
   △同部屋のフランコと喧嘩~キブツにて Painted by M.Yoshida

・昭和43年12月29日(日)晴れ(同部屋のフランクと喧嘩)
 今日、同部屋で北アイルランド人24歳のフランクと喧嘩をした。何日か前に、「そうですか」(Is that so?)と言う日本語をフランクに教えました。そうしたらここ2・3日、フランクは朝から晩まで私と話をする度に、そして私の顔を見る度に、「そうですか」とそればっかり言っていた。多分、彼からすれば初めて覚えた日本語が珍しいのか、或いはふざけて言っているのであろうと、最初は私もその様に受け取っていた。でも今日は度重なるので『もうバカにされている』、と感じて来て少し腹が立っていた。
  キブツでは、オレンジをいつでも食べられる様にと、食堂入口付近に山盛りで置いてあった。ジャガイモ畑の農作業が終り、食堂に立ち寄り『部屋でオレンジを食べよう』と2個ばかり貰い、フランクと歩いていた。そしたらそのオレンジ1つを落としてしまい、コロコロと彼の前に転がった。そのオレンジを彼は蹴って、逃げてしまった。人が食べようとした物を蹴っ飛ばすとは何事か、もう完全に頭に来た。砕けたオレンジを片付けてから部屋に戻った。
「フランク、如何して私が食べようとしたオレンジを蹴ったのだ」と強い口調で詰った。
「ソリー、Yoshi。ボールと間違えてしまった」と彼はふざけた態度、口調であった。
「覚えておけ、フランク。2度と私を怒らす様な事はするな。もし私を怒らす様な事をしたら、君をぶん殴るからな」ときっぱり言い放った。
 その後、ロンドンで買ったリーダースダイジェストの本を読んでいたら、ウンコがしたくなったので、外にあるトイレへ行った。大便用のトイレは2つあり、左側をノックしてからトイレに入った。しかし木製のラッチが壊れていて、中からドアが閉まらなかった。一旦出て、もう一つの方をノックしたら、フランクが入っていた。私は仕方なくラッチが掛からない方のトイレを使用した。
 ラッチが故障していたので当然、トイレのドアは完全に閉まらず、少し開いている状態であった。私がトイレ使用中、フランクはトイレから出て来て、私が使用中のそのドアを足で蹴った。その調子にドアが〝私のおでこ〟に当たった。痛くはなかったが、彼はその行為を3回も繰り返した。おでこに当たったのは1回だけで、後は手で避けていた。私は完全に頭に来た。日本に居た時でも、こちらに来てからも、こんな屈辱、侮辱を受けた事は無かった。トイレ後、喧嘩・決闘になるかもしれない、その覚悟で彼をぶん殴ってやろうとしたら、何処へ行ったのか、彼は部屋にも居なかった。
 その後、シャワーを浴びにシャワールームへ行ったら、フランクが隣でシャワーを浴びていた。
「おいフランク、如何してあんな事をしたのだ。ドアが私のおでこに当ったぞ。しかも3~4回もだ。君は最低な男だ!」
「君は私が今まで会ったイギリス人の内で一番バカな男だ!」
「大学を卒業したって、ふざけるな!やっている事は最低だよ!」
「夕食後、君をぶん殴る。私は本気だ、覚悟しろ!」
「You are a bloody bugger. Son of a bitch」(相手を罵声する時に使う最も汚い言葉)と、立て続け彼に罵声を浴びせてやった。彼は何も言い返せず、そそくさとシャワールームから出て行った。
 シャワーを浴びて部屋に戻ったら、彼は既に居なかった。私は食堂へエンディ等と共に行った。彼はポツンと1人で食べていた。我々は同じテーブルで食事を取った。私の隣にエンディが座った。
「エンディ、このキブツにディスガスティングな(胸糞悪い)奴が居るのだ」と私。
「フー?誰が」と彼。
「フランクだよ。実は・・・」と言って私は事の一部始終をエンディに話した。私の余り上手くない英語の話を、彼は黙って聞いてくれた。それだけで彼が私を理解してくれたと思い、嬉しかった。
 食後、部屋に戻ると、又もフランクの姿は見当たらなかった。彼は私から逃げ回っている感じがした。実際、喧嘩になれば大怪我をするかもしれないし、負けるかもしれない。私も怖いのであった。出来れば喧嘩はしたくなかった。しかしあそこまで侮辱されて、何もしなければ男の恥じだ。ここは外国、色んな国の人がキブツに居るし、ある意味(国際的観念からすれば)で日本人、又は日本がフランクにバカにされた、と言う感じがした。私は彼と喧嘩せざるを得なかった。フランクは私より背が高く、体格も一回り以上あり、髭を生やし、それはバイキングの風貌で、見た目は強い感じがした。しかし喧嘩と言うものは、『ポジィテブとアクテブな言葉と行動、所謂ハッタリが大事』である事を私は承知していた。従ってこれは日本であろうが、外国であろうが関係ない、ハッタリと捨て身の覚悟が勝利をもたらすと思った。 
  暫らく部屋に居たが、今夜もジョンの所でパーティがあると言うので、私も行って見る事にした。多分、フランクもそこへ行っているであろうと思った。私は農作業靴に履き替えた。この靴は登山靴と同じで底が厚く、皮製で重かった。喧嘩は動き易く軽い靴が要求されるが、彼を蹴っ飛ばすには好都合の靴であると思った。
ジョンの部屋に行くと、12名程(女性は4名)が集まっていた。案の定、フランクもドア近くのベッドに座っていた。私は彼の前に立ち、そしていきなり大声で、「ヘイ、フランク。私は君に何か悪い事をしたか。それなのに君は如何してあんな事をしたのだ。いいか、君は4回トイレのドアを蹴り、私のオデコを打ち付けたのだぞ。これは私を侮辱した事であり、私を侮辱したと言う事は、日本人を侮辱した事と同じだ!」と捲くし立てた。
「日本人として我慢できない。表へ出ろ!この靴で君を蹴っ飛ばしてやるから!」と右手で彼の胸倉を掴(つか)んで、外へ出るよう促した。
「如何したのだ、Yoshi。何かあったのか」集まった仲間達は私の剣幕に騒ぎ始めた。私はエンディに皆に説明する様に促した。エンディは私が怒っている事の顛末を皆へ説明した。皆は分ったらしく、黙って頷いていた。
私は再びフランクの胸倉を掴んで、「オイ、フランク、表へ出ろ!日本人が強い事を、見せてやる!(Hey Frank, get out of the room!  I show you as we Japanese are strong)。」と雄叫びを上げた。フランクは何も言わなかった。ただ彼は、「Fuck off」(「クソッタレ、あっちへ行け」と言う汚い言葉)と言っているだけであった。
 その瞬間、皆のリーダー的存在のジョンが近寄って来て、
「Yoshi、一寸待て。」
「フランク、君が悪い、Yoshiに謝れ。」 
「Yoshi、フランクが謝れば許してやるか。」と言って仲裁に入った。他の何人かも「フランク、Yoshiに謝れ」と言う声が上った。
  実際に2人だけになって本当に喧嘩して、そして怪我をして旅が出来なくなったら何にもならないのだ。私としては人前でフランクが恥を斯き、私の面子が立てば一番良いので、この仲裁に異論はなかった。                                                   それで私は、「フランクが謝ってくれれば私としては、それでOKだ」と言った。               
そうしたら、「アイム ソリー」(ご免なさい)とフランクはベッドに座ったまま口先だけで2度言った。
「それなら日本式で謝れ。私が教えてやる」と言って土下座で謝るよう、フランクに教えようとした。
「チョット待て、Yoshi。日本とヨーロッパでは謝り方が違うから良いではないか。それに、ここは日本ではなくイスラエル。そして集まっている仲間はアメリカ人、カナダ人そしてヨーロッパ人、だからヨーロッパ式で良いではないか」とジョンが言った。
「それなら、如何してフランクはベッドに座ったまま謝っているのだ。あの口先だけの謝り方がヨーロッパ式なのか。私はそうは思わない」と私言った。ジョンは黙った。
「おい、フランク。君が喧嘩したいならいつでも相手になってやる」と私はキッパリ言い放った。
すると今度、フランクはちゃんと立って、「アイム ソリー」と言って、私に握手を求めて来た。私も手を差し伸べ、そして握手をした。                                         これ以上私が怒っては楽しいパーティが台無しになってしまうし、皆に悪いと感じ取った。私はとにかく言いたい事は言ったし、フランクは皆の前で恥をかき、謝った。そして私の面子は立ち、彼との喧嘩に勝ち、私は大いに満足した。
 暫らくして、フランクはパーティから抜け出し、何処かへ行ってしまった。
「フランクはいやらしい奴だ。それにケチで、この間のパーティ代も払っていないのだ。Yoshiは記念コインをプレゼントしてくれた。有り難う」とジョンは言った。
「ジョン、仲裁してくれて有り難う」と私は彼に心からお礼を言った。
「Yoshiは正しい。勇気ある男だ」とエンディも言ってくれた。
「エンディ、私の言いたい事を皆に説明してくれて有難う」と彼にも感謝した。
 フランクの評判は、仲間内でも良くなかった。それ以後、同じ部屋でもフランクと余り口を聞かなくなった。勿論、彼の口癖であった日本語の「あ、そうですか」も発しなくなった。そして一週間後の1月5日、彼は黙ってキブツから去って行った。

ジョンの誕生日パーティ~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-26 07:14:12 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
△左からナンシー、私そしてジョアン~私の部屋の前にて(建物の後ろ側は土漠の小高い山が連なっている。)

・昭和43年12月27日(金)晴れ(ジョンの誕生日パーティ)                        
 穏やかな日、今日もジャガイモの収穫作業であった。                                                                  
夜、ジョンの所でパーティがあると言うので、行って見たら皆が集まっていた。聞けば、ジョンの誕生日だとの事。それではと思い、オリンピックの100円記念硬貨を持っているので、部屋に取りに行って彼にプレゼントした。彼は大変喜んで受け取った。
  このパーティでの飲み物は瓶ビールであった。これは仲間がベエルシェバまで買いに行ったのである。同じ部屋のフランクも参加していた。一時滞在者の我々だけのグループで、何度かこの様なパーティ(集まり)があった。ビールだけで、いつもツマミは無かった。パーティは飲むのが目的ではなく、お喋りをしたり、歌を歌ったりして楽しんだ。私の片思いのナンシーは、片時も離れずジョンに寄り添っていて、口惜しかった。

キブツ仲間と相撲を取る~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-25 06:24:20 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和43年12月26日(木)雨後曇り(鶏小屋の清掃作業)                        6時に起きた。雨が降っていたので、今日のジャガイモ収穫作業は中止になった。その代わり朝食後、作業は鶏小屋の清掃作業になった。臭かったが、我々は小屋をきれいにした。
 作業後、私は相撲のルールを仲間に教え、相撲を取った。勿論、私は皆に勝ったが、馬鹿力のあるジョンだけには上から羽交締めされ、相撲ルールにない技でギブアップして負けた。

キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問(その2)~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-24 07:23:58 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和43年12月24日(火)晴れ(キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問)
 (その1)からの続きです。その1はキブツの仲間達とキリスト降誕の地・ベツレヘムに来ました。降誕キリスト教会とキリストの生れた洞窟室を見物しました。以後(その2)になります。

 この後、我々キブツ仲間はレストランへ行ってビールを飲もうと言う事で、ある店に入った。店は大勢の人で混んでいたが、「小瓶1本1ポンドは高い」と言う事でその店を出て、60アゴロ(52円)で飲める他の店を見付けた。ここの店と最初の店とは大して変わらないのに、どうして値段が余りにも違うのか。アラブ人は人を見て値段を替える、油断出来ない民族の様であった。
  ベツレヘムは、六日戦争(第三次中東戦争)前までヨルダン領であったので、顔を白い布で覆った多くのヨルダ人を見掛けた。レストラン経営者や従業員もアラブ人(パレスチナ人、ヨルダン人)であった。イスラムの世界では、「アルコールを販売してはいけない、飲んではいけない民族」と聞いていたが、イスラエル領になって、欧米人にビールを販売する様になったのか。聞く所によると、「ヨルダンの首都・アンマンでさえ全くアルコール類は無い」と言うのであるのに、ベツレヘムではその方面に於いてイスラエル化、商業化しているようであった。                                                                                                                                                                                                                                                              
我々の仲間は次第に別々に分かれて行動し、私の傍にキブツ仲間は誰も居なくなってしまったので、私も店を出た。降誕教会前の広場は、相変わらず混雑していた。ビールで酔っ払ったのか、多くの欧米人の若者は、「メリー・クリスマス」と言ってバカ騒ぎをする者、或は若い女性に抱き付きハシャイデいる者も現れた。真のクリスマス イヴ、或は厳格なクリスチャンは、イブにバカ騒ぎ、乱痴気騒ぎをする夜ではない、と言う事を私は承知していたが、ある反面、欧米人は陽気で屈託がなかった。所で、日本人は勿論、欧米人の一般旅行者は、誰も見かけなかった。
 帰りの件について、キブツの人からも仲間からも、何にも聞いていなかった。私は当然、『今夜、皆と一緒に帰る』とばかり思っていたので、気にしてなかった。広場周辺は大勢の人で賑わっているが、狭い地域であるから、仲間を捜せば直ぐ見付かるであろうが、私は強いて捜さなかった。
 私は再び店に入った。所で、ここの全ての店は、我々がイメージしている様な(上品な)店ではなかった。雑然としていて、安そうなテーブルとイスがただ置いてあるだけで、飾りも何も無かった。そして店の明りは薄暗い裸電球がポツン、こちらにポツンとぶら下がっているだけで、店内は薄暗かった。この辺りは一等地、しかも由緒ある教会やキリストの生まれた場所の近くで、この様な店だけであった。歴史あるこの町は、まだ(国際的に)観光地化されてなかった。
 私は、雑然したそんな店のテーブルに座っていたら、アテネの空港で出会い、テルアビブまで一緒の飛行機に乗り合わせたシーラおばさんが、知人の方らしい人と共に店へ入って来て、私の前を通り過ぎた。ベツレヘムのこんな所の店でシーラおばさんに会えるなんて、私は夢にも思わなかったので一瞬、眼を疑った。しかし確かにシーラおばさんだ。ここで出会えるなんて、とても不思議な感じがした。
私は大きな声で「Mrs. Sheila」と叫んだ。彼女も気が付き、私に近づいて来た。我々は手を取り合い、再会を喜び合った。「ハイ、Yoshi。又会えて嬉しいです。今、何をしているのですか。」と彼女。
「私も再会出来て嬉しいです。ハッゼリムキブツに滞在しています。今日、私はキブツの仲間とクリスマスイヴを過しにここに来ました。」と私。
「そうですか。大いに楽しんで下さい。エルサレムに来た時は寄ってください。私の住所を知っていますよね。」と彼女。
「はい、住所を書いて貰ったメモを大事に持っています。」と私。
「今夜は連れが居ますので失礼しますが、ビールでも飲んで下さい。」と言って店員に私の為にビールを注文してくれた。
 世の中は狭いとはこの事なのか。そう言えば、鈴木と言う日本人と共にヴェネチア観光をしたカナダ人のアーロンと先程逢ったばかりであった。彼とはアテネでも逢っているので、これで3回目であった。この時、私はキブツの仲間達と飲んでいたし、アーロンも気を使ってくれたのか、お互い「ヤアー」と言って手を上げただけであった。 
  ベツレヘムは寒いので、私は夜を明かすつもりはなく、ヒッチで帰る事にした。夜の11時を過ぎていたにも拘らず、ベツレヘムの町は賑わっていた。雑踏を通り抜け、エルサレム方面の夜道を歩いていたら、郊外で同部屋のピーターが前を歩いていた。彼も同じ様に一晩過ごす気分になれないので、「ヒッチで帰る」と言うのだ。我々は一緒に帰る事にした。                                       
 深夜のヒッチは効率が全く悪く、5時間30分以上費やし、翌朝ベエルシェバの郊外に到着した。郊外からキブツへ行く道をトボトボ歩いていたらバスが遣って来たので、二人はそのバスをヒッチしてキブツ前に辿り着いた。                                                                   
 深夜のヒッチで寝不足、疲れていたので、今日25日は一日中ベッドの中で過ごした。他の仲間達は何時に帰って来たのか、分らなかった。25日は特に休みの日でないのに、我々仲間は誰も作業に出なかった。

キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問(その1)~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-23 14:20:02 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和43年12月24日(火)晴れ(キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問)
 今日はクリスマス イヴであった。所がイスラエルはキリスト誕生の地・聖地にも拘らず、休みどころか普通と変わりなく、我々はジャガイモ収穫作業をしなければならなかった。ガッカリしたのは私だけでなく、他の仲間達も同じであった。
 お昼に食堂へ行くと、「夕方、Bethlehem(ベツレヘム)へ連れて行って貰えるから、午後の農作業は早めに終り」の情報が届いた。皆大いに喜びで、午後の農作業に従事した。
 作業は3時前に終った。シャワーを浴びた後、他の仲間と共に食堂前に集合した。キブツから1人6ポンドのお小遣い(原則キブツは無賃金で、この様な事は最初で最後)、そしてイスラエル軍及びベツレヘム陸軍総督のクリスマス セレモニーの招待状が手渡された。管理者から「招待状は、身分・安全を保証される物であるから、決して紛失しないように。」との注意があった。
 私は仲間のピーター、フランク、ジョン、ロス、フレッド、エンディ等と共にキブツのマイクロ車に乗り込んだ。私は聖地・ベツレヘムでのクリスマス イヴ、そしてベツレヘムとはどんな所なのか、大いにワクワク感があった。キブツで働くイスラエル人は、ユダヤ教徒なので運転手以外、誰も同行しなかった。
 ベツレヘムは、イエス キリストの降誕の地、エルサレムから15キロ程南下したヨルダン川西岸地域にあり、昨年の六日戦争で占領した古くから存在する町であった。我々の車は、一端北上してエルサレムへ行き、エルサレムで他のキブツ滞在者の人達と共にバスに乗り換え、南下した。
 エルサレムへの途中は、快適なドライブであったが、エルサレムからベツレヘムへは、警察や軍の厳しい警戒に度肝を抜かれた。ベツレヘム郊外で軍の検問所でバスは停車した。すると自動小銃の銃口を我々に向けて、複数の兵士がバスに乗り込んで来た。兵士達は我々の手荷物検査や車内点検をする一方、他の兵士達がバスの車体下まで点検していた。今まで経験した事もない、見た事もない厳しい警戒態勢に私はビックリした。この厳しい検査、点検は、ベツレヘムの町へ入る手前で、もう一度行なわれた。
 我々は、町に入って直ぐバスを降り、町の中心地へ歩いて行った。既に薄暗くなっていたが、街角(交差点)と言う街角全て、装甲車や土嚢を積んで陣地を作り、機関銃を構えていつでも撃てる体制をして、多くの兵士が睨みを効かせて警戒していた。警備・警戒状態は、そればかりではなかった。あちらこちらの建物の屋上から、機関銃の銃口が通りの群集に向けて構えられていた。まるで戦争中であるかの様に感じられた。無理もない、ここは6日戦争で占領したヨルダン川西岸の町、安全・安心できる地域でないと言う事、イスラエルはまだ臨戦態勢中であった。そんな状況であったが、周りの建物は古風的に溢れ、中世のアラブ世界そのものを感じた。石造りの古い教会(降誕教会)やイエス誕生の建物前は広場になっていて、そこを中心にその周辺地域は、老若男女の訪問者や欧米の若者達で賑わっていた。ただし外国人一般観光旅行者は見られなかった。
 我々はその教会を参拝した後、キリストが誕生したと言われる建物に入った。建物内部を入って行くと、裸電球が点いた薄暗い洞窟になっていて、我々は頭を岩にぶつけない様に腰を屈めて進んだ。さらに進みその奥に『馬小屋らしき跡』があり、そこがイエス キリストが生まれた場所とされていた。そこはかび臭さと古い歴史感が漂う、何の飾り気も無い、ただの『馬小屋の跡』(「キリストは馬小屋で生まれた」と言われているので、私も馬小屋の様に見えた。)であった。
 しかし実際は馬小屋で生まれたのではなかった。ここにキリスト生誕について、ほんの一部を記して置く事にした。
[BC4年、ナザレからヨセフとマリアは住民登録の為、ベツレヘムに来ていた。泊まる宿が無かった彼等は、ナザレで自分達が住んでいるのと同じ様な洞窟を見付けて仮の宿とした。冬だから追い込まれた羊や山羊が回りに蠢(うごめ)いていたことであろう。仮の宿とする事が出来たのは、その家畜の群れの主人である羊飼いの温情のお陰だったかも知れない。
 その夜、おさな児(キリスト)は、ユダの山里なる洞窟で産声をあげた。おりしも冬であったから洞窟の外では、尾根越しに冷たい風が唸りをあげていた。母は布に包んで寒さ凌ぐ為に『飼い葉桶』に寝かせた。
 飼い葉桶からの連想が『馬小屋』を生み、実際に馬小屋を作り、生きた牛や馬を使って降誕祭(クリスマス)を祝い始めたのは誰であろう、アッシジのフランシスコ(1181~1226年)であった。これがルネサンス絵画を通して世界中に広まり、私達の脳裏に焼きついたのだ。
 イスラエルのユダ、サマリア、イドマヤの山々に木らしい木は無く、石灰岩質の地盤だから洞窟が多い。そういった洞窟が住居ともなり、仮の宿とも、冬場の雨風を避ける家畜小屋代わりともなっていた。現在も羊飼い達が、羊や山羊を天然の洞窟に追い込み、共棲している光景によく出会う。・・・・][ ]内は、著者・河谷龍彦の「イエスキリスト」(河出書房新社)より。
 実際にイスラエルの自然環境は、10キロ、20キロたらずで変化する。ベツレヘムは、ハッゼリムキブツから60キロ程北(地中海から50キロ内陸部)、標高600~700mの山岳地帯である。昼間の農作業中は温かい陽気であっても、夜は寒い。ましてここベツレヘムは特に寒く、私は我慢が出来ないので、夜中にキブツに帰らざるを得なかったほどであった。
 そんな事で冬暖かく夏涼しい洞窟は、羊飼い、羊、そして一時的な宿としての旅人にとっても最適な空間と言えた。馬と言えば、馬は多量の草や水を必要とするので、砂漠地域では適さないのだ。砂漠の地域に馬はいないのだ。これは2,000年前も変わらないと思う。それに洞窟内の天井が低いので、馬が背を屈めて出入りしたのか。我々は背を丸め、腰を屈めて洞窟内を歩いた。羊用の飼い葉桶からいつの間にか馬の飼い葉桶、そして洞窟から馬小屋になってしまった。いずれにしてもクリスマス イヴにキリストの聖地・ベツレヘムに、又その誕生の場所にも来られた事は、イスラエルに来た甲斐があった。
*その2へ続く(明日掲載します)

 

ジャガイモの収穫作業~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-22 09:08:27 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和43年12月15日(日)晴れ~23日(月)晴れ(ジャガイモの収穫作業)
 7時前に起き、食事をしてからジープに乗ってジャガイモの収穫作業に行った。9人も一緒にジープに乗ったので、ぎゅうぎゅう詰の状態であった。
 ジャガイモ畑は広く、そしてその向こうは、木一本もない半砂漠の小高い山並みが幾重にも連なっていた。ジャガイモ収穫作業は、キブツ人が大きなトラクターを運転し、掘削機見たいな機械でジャガイモを掘り起こし、振いに掛けてベルトコンベアーで運ばれて来たジャガイモと共に泥の塊や石ころが混ざって来るので、我々の作業は左右に分かれ、その泥の塊や石ころを手で取り除く作業であった。そしてベルトコンベアーの先に麻袋が設置されていて、ジャガイモだけが袋の中へ入って行く様になっていた。従って我々が手を抜くと、泥の塊や石が混ざってジャガイモ袋に入ってしまうので、機械とベルトコンベアーが動いている間は、手を休める事が出来なかった。
 いずれにしても、荒地・砂漠化した土地を開墾し、最近ジャガイモ畑にしたらしく、石がまだたくさんあったし、畑そのものもが、まだ充分耕されていない状態であった。作業は、中腰の前屈みの状態でするので腰が疲れ、又作業を半日しているだけで、顔が土埃で真っ白になってしまった。11時近くになると、私はお昼が待ち遠しかった。
 お昼は一端キブツへ戻り、手や顔を洗ってから昼食を取った。労働をしていると、食事や休憩時間は尊いものであると感じた。今日12月15日の昼食は、ハムカツにご飯が出た。午後の作業は1時から始まり、終りはいつも3時半から4時頃であった。一日の労働が終るとホットした。
 それからここ1週間、作業内容は変わらず、ジャガイモ収穫の泥石の取り除き作業であった。毎日天気が良く、温暖な気候であった。12月中旬になっても日中は裸になっても寒くなかった。                         午前10時と午後2時の休憩の時は、私と同じ一時滞在者のアメリカ人、カナダ人やヨーロッパ人の仲間との語らい、或いはふざけ合うのも楽しいものであった。又、畑の真ん中で裸になって寝そべり、澄み切った空を見上げるとスカッと感じた。
 我々がそんなノンビリした状態であっても、警戒態勢なのか、上空には複数の戦闘機がいつも飛び交っていたし、遠くの方で時々砲撃音が聞こえていた。国境周辺では戦闘状態が続いているのか、そう思うとここは大丈夫なのか、チョッピリ不安であった。
  23日(月)の夜、フランクとピンポンをして過ごした。部屋に戻ったら、キブツから有り難い事にクリスマス・プレゼントとして各自1本、ブランディーが支給され、嬉しかった。

イスラエルの休日の日~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-21 15:21:24 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和43年12月14日(土)晴れ(イスラエルの休日の日)
 今日はユダヤ教の教えから来るユダヤ人のシャバス(安息日)の日で、公官庁、商店、レストラン等も休みの日であった。しかし、休みの日でもキブツの食事担当の人は働いていた。その代わり振り替えて休める。日曜日は労働する日で、一週間で土曜日だけが休みであった。従って、一時的滞在者にとってもキブツ人にとっても土曜日は、貴重な日であった。
  その最初の休みは一日中、本(深田久弥の「中東の砂漠を自動車で走破」)を読んだり、日記を書いたり、イギリスの友達(シーラ、マリアン、ジャネット)、日本の友達そして家族に手紙を書いたりして過ごした。手紙を書くのは1ヶ月振り、否それ以上であった。
 後日、N君の手紙によると、私がイスラエルのキブツに居るとは想像外の様であったらしく、彼は私が船で帰国途中(予定通りなら、そうであった)だと思っていた。