YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

アテネの人々の話~ギリシャのヒッチの旅

2021-12-07 13:38:00 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・アテネの人々の話(古代文明の栄光とあの美男美女は何処へ)
 ギリシャは、スペインやイタリアと同様にシエスターがあり、12時から午後の4時頃まで店を閉めていた。
 街を歩いていると、アテネ市民の内のかなり多くの人は、何の為なのか、数珠をジャラジャラと弄んでいた。その光景は不思議であった。
 結婚について、女の人が持参金を多く持って行かないと結婚が出来ないとか、男もそれを目当てに結婚をする、と言う話を聞いた。
 旧街や裏通りの茶店は薄暗い雰囲気で、汚れた安物のテーブルと椅子が店の中や外に置いてあり、それに座って、或いは道端で人々は『水たばこ』と言う30cm程の長さの瓶の中にボコボコと煙(泡のように見える)が出ているのを、太いゴム ホースを使って、物思いに耽る様に吸っていた。その光景はまるでアヘンを吸っているかの様に見えた。
 又、人々が道路上でボサーと長時間座っていたり、輪になってサイコロを転がして遊んでいたりする光景を街の至る所で目にした。或いは、何もしないでボサーと立っている多くの大人達、若しくはいつ買ってくれるのか分らないのに、宝くじを売っている大人もいた。この様に一般的に余り働いていない多くの男性が目に付いた。
 そうかと言えば、学校へ行っている様子もない、多くの子供達が働いているのを見掛けた。
 それと男性の数と比較して、街に女性姿が余りにも見掛けなかった。どうしてであろう、不思議であった。
 ギリシャは、経済が停滞していて、働く職場が無いのだ。そして見掛けだが、或いはこんな言い方をして申し訳ないが、彼等の顔をよく見ると、何かをしようとする意欲が無さそうだし、頭が切れそうな人がいない様に見受けられた。アテネの人々、そしてギリシャ人は、何の生き甲斐を持っているのであろうか。
 この国は軍事独裁政権下であり、尚且つ経済・産業の発展の遅れ、結婚のあり方、教育、或は貧困の格差等を考えた時、今度は民衆によるクーデターが起こってもおかしくない現状であった。 
 ギリシャはヨーロッパだから、もっとヨーロッパ人に似ていると思っていた。しかしどちらかと言えば、トルコやイラン人の中近東人に似ていた。あの古代ギリシャの彫刻の様なヨーロッパ人的なきりっとした面構えと同時に、品性溢れた顔立ちの男性は、何処へ行ってしまったのだろう。女性もそうだ。ミロのヴィーナスの様な美しい体、顔立ちの良い女性、あの様な美女は何処へ行ってしまったのだろう。
 無理もないのか。マケドニアやローマ人に侵略され、或は400年以上に渡るトルコ帝国に支配され、混血を重ねて来て純粋な古代ギリシャ人の血を引く人がいなくなったのであろう。人は勿論、街の様子や雰囲気は、西洋と中近東がミックスされた感じ、否寧ろギリシャは中近東やアラブに近い感じがした。    
 パルテノン神殿を造った高い文明を誇った古代ギリシャを思う時、あの面影は何処へ行ったのか。余りにも現在のギリシャの姿は悲しいし、そして割り切れない感じがした。


旅をしていると色んな人と出逢うものだ~ギリシャのヒッチの旅

2021-12-06 10:22:26 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月29日(金)~12月6日(金)(アテネ滞在と今後の旅程)
 私は今後の旅について、来た道を戻ってテッサロニキからトルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インド、マレーシア、タイを経由してシンガポールへ旅立つべきか、或いは寄り道してIsrael(イスラエル)へ行こうか、迷っていた。
 アテネに着いてから今後の旅程について悩んでいると、ある日本人から「イスラエルのキブツは良いぞ。食事は好きなだけ食べられるし、部屋は勿論、生活必需品全て与えられる。仕事は農業関係だが、ただお金は貰えない」と言う話であった。
『手持金を減らさないで一つの所でゆっくり過ごせたら良いなぁ』と思ったし、又次の理由でイスラエルへ行く事にした。
  • ロンドンに居る時、陸続きでイスラエル行きを考え、シリアやレバノンの査証収得に動いていたが、「戦争状態でシリア、レバノンからイスラエルへ渡れない」との事であり、陸続きで行くのを断念した経緯があった。
  • もう少しで私の誕生日(12月10日)、そして直ぐにクリスマスから正月になるので、クリスマスや正月休暇もあると思うので、ゆっくり何処かのキブツで過ごしたい。
  • キリスト教の聖地・イスラエル(パレスチナ)で、クリスマスを過ごすのも魅力である。
  • キブツで色々な体験もして見たい。
  • それにM&M商船のシンガポール、又はバンコクからの出航は3月上旬なので、急いでそこへ向かって旅立つ必要もない、等々であった。 
 イスラエルへ行くのに如何なる国境からも行けないので、アテネからは船か飛行機を利用する以外に行く方法がなかった。私は417ドル相当のM&M乗船券引き換え証を持っているので、それを使ってエール・フランスの飛行機で行けるし、そしてテルアヴィヴまでの航空運賃は86ドルであった。
 そんな訳で11月29日午後、イスラエル大使館へ査証申請に行ったら、「街のその辺にあるインスタント写真機で撮った写真では駄目だ」と言われた。仕方なく、写真撮影専門店へ行って、査証申請用写真を撮った。45ドラクマ(約450円)、意外と高かった。それに出来上がりまで3日間掛かった。
私はエール・フランス営業所で航空券を作って貰ったり、JALへ行って相談、話を伺ったり、或は、トルコ航空営業所で諸情報を得たりして、写真及び査証の出来上がりを待った。
中近東では20ドルのトラベラーズチェックを一々その国のお金に両替していたら、手数料や時間的なロスもあり、又それらの国では1国で20ドルも使わないので、トラベラーズチェックの一定額をアテネでドルに現金化しておいた。  
 大学を休学してこちらを旅している長倉は、私が11月28日到着の前3日間、病気になってユースで臥せていたと言う。彼は現在、元気になった。私がアテネに到着した日、2人でコニャックを飲みにレストランへ行ったが、彼とその後もちょくちょく、ユースの裏手にあるそのレストランで食事をし、又大いに語り合った。
よく利用するこのレストランは、下町の一般庶民を対象とした大衆食堂なのでしゃれた、綺麗な感じでなかった。どちらかと言えば、薄暗い感じの雑然とした店であった。大体20ドラクマで食べられ、出される料理も値段の割に美味しく、私は満足していた。他のホステラーもよく食べに来ていた。その後、長倉は12月3日、テルアビブで再会を約束(?)し、イスタンブールへ向けて旅発って行った。
 長倉がユースを去った後、日本人が9人もこのユースに遣って来た。ユースに9人も日本人が宿泊する機会があったのは、初めてであった。ユース滞在中、その内の数人(3~4人)と、アテネの街へ散策に出掛けた事もあった。アテネの街の中心は、シンタグマ広場からオモニア広場に架けてであり、その間を2本の大通りが並行して走っていた。その2本の通りに沿って、銀行、国会議事堂、ホテル、国立博物館、アテネ大学、国立図書館、レストラン、カフェ店、商店等があり、街を形成していた。気の合った仲間達と語らいながらのアテネ散策は、私にとって何よりも楽しい一時で、今までの旅の寂しさを癒してくれた。
 所でその9人の内、日高(パリ、リヨン、ニース、ジェノバ、ベネチア、そして今回で6回目)、 藤森(ニースで逢った)、寺島(愛知県知多郡横須賀町出身、大学生で登山をする旅人。以前どこで逢ったか忘れた)、そして鈴木とアーロン(ベネチアで共に観光巡りした)とも再会できた。お互いに再会した時は、「やあー、又逢いましたね」と言って、握手をしてお互いの再会を喜び合った。そして、お互いの旅の話題で話は盛り上がった。ヒッチで行き先が同じだと、よく逢うものだと本当に感心した。
皆は、中東方面へ行くのであろうか。それともヨーロッパは、寒くなって来たので南下して来たのか。「旅は道ずれ、世は情け」と言うが、私も彼等も同じ行き先・方向でも、「一緒に旅をしよう」と言う言葉は一度も無かった。比較的安全なヨーロッパに於いては、気ままな一人旅の方が良い事が分かっていた。そんな意味からも、私は彼等の行き先に、余り関心が無かった。しかし、情報によると中近東やインド辺りは、複数で旅をした方が安全・安心の様であった。これらの地域は、盗難事故、或いは、身の危険もあるらしいとの事であった。
 話は変わるが、旅券の渡航先にイスラエルが未記入の為、査証申請が出来なかった。12月2日、日本大使館へ渡航先追加記入をして貰いに、ユースで知り合ったある日本人と共に行った。この際、合わせて東南アジア諸国を追加記入して貰った。
 我々はこの時、日本大使館でギリシャ移住の日本女性と出逢った。話によると彼女は、ギリシャ人の船員と結婚して、こちらに来てまだ1個月と少しだと言う。その彼女が、「私の家に遊びに来て下さい。味噌汁をご馳走します」と言って、我々を家に誘ってくれた。彼女は日本語の飢え、或いは、故国が恋しくなって我々日本人を誘ったのか。いずれにしても味噌汁の誘惑に負けた我々は、彼女の後に付いて行った。彼女の家は海岸近くで、ギリシャでは高級住宅の部類に入る幾つかある建物の内の一軒家であった。
 家には義母(勿論ギリシャ人)が居て、私達を迎えた。でも、内心は快く思っていなかった様に見受けられた。それはそうであろう。結婚したばかりの新妻が何処の馬の骨だか分らない、先程2・3言葉を交わしただけで家に引きずり込んで来るのを見て、お義母さんは訝ったのであろう。
 何れにしろ、一般のギリシャ人の家より広く、そして立派であった。主人は、船員だと言っていたが、どんな船に乗っているのであろうか。漁船か、貨物船か、それとも豪華客船の船長なのか船員なのか知らなかった。彼女の話しによると、1回航海に出て行くと、中々帰ってこないらしい。彼女は寂しいので、話し相手が欲しかったのであろう、と推測した。
 彼女が作ってくれたオカズの無い味噌汁とご飯(日本米)がこんなにも美味しいとは、改めて自分は、日本人である事を再認識した。7月出国以来、ロンドンの日本レストランでシーラと食事をした時と今回で味噌汁とご飯は、2度目であった。
 3人で世間話をしていたら、西武や東急の話も出て来た。西武と言えば堤康次郎であり、東急は後藤啓太。色々な点で共通していたが、好色な点(女好き)でも似ていたのだ。そして彼女の口から、「堤さんも、後藤さんもよく知っているのですよ。2人一緒の時、箱根や新橋のお座敷によくお呼ばれされていました。そんなお座敷で、聖徳太子(1万円札)の札束で顔を撫でられ裸踊りをさせられたり、立ちもしないのに蒲団に一緒に寝かされたりした事があったのよ。老いて益々女好きよね。アハハハハ」とこんな事を聞かされた。
ギリシャのアテネで私が勤めていた会社の元会長の裏話を、当事者本人から聞かされるとは、夢にも思っていなかったので、本当にビックリした。しかし会長の女好きは、社員皆知っているので別に驚かないが、アテネで当事者の女性から聞かされたので、驚きであった。
彼女が芸者関係の女(男相手の仕事)であった事の方が、以外であった。『なるほど、それでギリシャ人とそんな関係で知り合ったのかな』と私も想像を働かした。しかしこの場に於いて私が故堤康次郎の経営していた会社の社員であった事など、一言も口に出さなかった。
 その後、我々3人はマージャンをして過ごした。私と共に味噌汁とご飯をご馳走になったその日本人は、メガネを掛けた30歳位の男性であった。大学卒業後、ある貿易会社に入社したが、退職して旅に出て既に2年半と言う人物であった。それにしても、旅をしていると色んな人と出逢うものだ、とつくづく思った。

美術品の話~ギリシャのヒッチの旅

2021-12-05 09:34:18 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・美術品の話
 ギリシャは、アテネのみならず国中のあちこちに、又エーゲ海の島々や地中海のクレタ島に数多く遺跡があり、まさに遺跡と美術の宝庫なのだ。
 それにも拘わらず、その方面の知識も関心も無く、私が尋ねたのは、アクロポリスの丘とアテネの国立博物館だけであった。興味、関心がある人にとっては、折角そこまで行ったのに、『勿体ない』と思うでしょう。しかし、私にとっては、『それらは猫に小判』なのだ。もっとこの国の歴史や美術を勉強しておけば良かった、とつくづく思った。
 そんな私はアテネの国立博物館へ行ってた。古代の彫刻が主であり、中には幾つかの模写もあった。しかし、誰もが足を止める様な有名な物は無かった(私が知らないだけ)。

以下、私の独り言・・・
 古代パルテノン神殿に飾ってあった数々の彫刻が、ロンドンの大英博物館に陳列されていたし、又ミロのヴィーナスを始め有名な彫刻がパリのルーブル博物館に飾られていた。
これらの美術品は、あるべき所に在ってこそ、その価値があると思うのだ。例えば、名古屋城の金の鯱鉾(シャチホコ)は、名古屋城天守閣の屋根の棟の両端に取り付けてあってこそ、その価値があるもので、それが又、『お城の美』でもあると思うのだ。それがルーブルや大英博物館で『金の鯱鉾』を見たって何の意味がないのだ。それと同じだと思うのだ。
 イギリスやフランスは、それらギリシャの美術品を如何して手に入れたのか、不思議でたまらない。しかし、良く考えると不思議でも何でもないのかも。この世の中(世界)は、力のある国が武力によって、或は戦利品として他国の絵画、骨董品、彫刻等の美術品を掻き集め、自国の博物館に展示している。 
 極端かも知れないが、この様に掻き集められた美術品等はある意味に於いて、『博物館は美術品の墓場、美術品はただの陳列品』になってしまったと、この様に感じて来てしまった。
私は思うのだ。それらの美術品類は元々あるべき所にあってこそ、その存在意義があり、真の美が奏でるのだと。

ギリシャ、アテネの印象の話~ギリシャのヒッチの旅

2021-12-04 14:30:39 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・ギリシャ、アテネの印象の話

 ユーゴスラビアからアテネへ来る途中の車の中から、或はアテネに滞在してギリシャ人の着ている物、生活実態、道路、交通事情、街の商業の様子等を見て、先ず感じた事は、想像していたより人々の暮らしは、貧しそうであった。
 物価は安く、旅行者にとって大変有り難いが、経済が停滞している証なのか。外国に来てから私は分ったのであるが、物価が安い国は、一般的に経済が停滞して、人々の暮らしは貧しいのであった。
 それから、私が見たギリシャの国境からアテネまでは、全体的に木々(森林)が無かった。山々は石ころだけで、禿山になっていた。自然保護林、森林がなければ、大雨による防災は如何なのか、或いは飲料水の確保は如何なのか、等々の疑問があった。
 アテネは、私が想像していたよりこじんまりした都市であった。ヨーロッパの一都市にも拘わらず、一部の地域を除いて都会的雰囲気がなく、何処となく田舎の感じであった。だから、私にとっては違和感がなく、返って親しみを感じた。
 私が旧市街や裏通りを歩いていると、子供達が寄って来て、「モンゴル人か日本人か」と時々、尋ねられた。如何して彼等の口からモンゴル人が出てくるのか、不思議で仕方がなかった。彼等にとっては、東の最果ての地、日本人が珍しいのか、或はモンゴル帝国がギリシャやイタリアまで征服したモンゴル人に何らかの念を感じているのか。ともかく、私が「ジャパニーズだ」と言うと、「ヤポネ(日本人だ)、ヤポネ(日本人だ)」とはしゃぐのであった。彼等は、私に対してバカにしている、或は非難している感じでなかった。むしろ、フレンドリーな気持を持って接して来ているのだ、と感じた。
 又ある時、通りを歩いていたらタクシーが寄って来て止まり、ドライバーが車から降りて、わざわざ私に「日本人か」と聞いて来た。私が「日本人だ」と言うと、「この車はトヨタの車で、とてもグッドだ」と言って走り去って行った。『だから如何なのだ』と覚めた見方をすれば、それまでだが、彼にして見れば、その一言が言いたく、わざわざ車を止めたのだ。ギリシャ人は、日本(人)に対して親近感とある種の憧れを感じているのだと私は感じた。又、その様に言われて悪い気はせず、寧ろ、日本を誇りに感じるのでした。

アクロポリスの丘とパルテノン神殿の話~ギリシャのヒッチの旅

2021-12-03 06:30:19 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
     △アクロポリスの丘にて(左が私)

・アクロポリスの丘とパルテノン神殿の話
 私はアテネに着いた翌日の11月29日、市内地図を片手に持ち1人パルテノン神殿を見に出掛けた。アテネはロンドンやパリの様な大都会と言う程ではなく、主な観光史跡や観光に関する施設は、殆んど歩いて行ける範囲にあり、バスを使う程ではなかった。そして、この都市はアクロポリスの丘を中心に形成され、何処からでもアクロポリスの丘とパルテノン神殿を望む事が出来た。 
 地図を頼りに街を散策しながら、アクロポリス方面へ向かった。その丘の少し急坂な小道と石段を上ると、忽然目の前に巨大な神殿が飛び込んで来た。しかし、2,000有余年の風雪の為か、ローマ帝国やトルコ帝国の略奪、破壊の為か、残っているのは屋根を支える一部の枠組みと建物を支える巨大な石柱のみであった。そして、神殿の周りには、崩れたか破壊されたのか、その建造物の多くの部位が雑然と、言い方を替えればゴロゴロと放置されているのであった。
 そして私は大理石の階段を上り、その神殿の前に立つと唖然としたのであった。柱の始点上と建物の枠(破風)の間にある壁画は、古代アテネの姿が描かれていて、私の胸に迫る物を感じさせたのだ。全面の石柱と建物横の石柱の本数と柱間のバランスの良さ、それは離れて神殿を見た方が、その均整の取れた美しさが余計分る。
 そして、何と言っても私の魂を圧倒したのが柱の高さと言い、その幅と言い、その巨大な白大理石柱が真っ青な空に向かって美しく雄大に建っていて、そして、その青と白のコントラストが見事であった。私は、古代ギリシャの建築技術の高さ、そして、美的感覚の豊かさに、改めて認識させられた。
 パルテノン神殿をどんな表現で言い表したら良いのか、私には分らない。『ただ神殿の壮麗さ、荘厳さ』のみでは、物足りなかった。2,000年以上経ち、しかも、人為的に破壊されても尚且つ、アクロポリス神殿は人々の“心”(魂)を奪う程の美しさがあった。しかし、私はそれを伝える言葉が見付からなかった。


    △アクロポリスの丘からアテネ市街を望む

 このアクロポリスの丘からアテネ市街が一望出来た。古代ギリシャの国王達も、私と同じようにアテネを見下ろしていたと思うと、2,000年以上の時空を飛び越えて、私も古代のアテネ人になった錯覚を覚えるのであった。私はいつまでも丘に立ち、アテネ市街を望みながら、古代ギリシャに想いを馳せた。
 アクロポリスの丘の近くで昼食(日本の焼き鳥風の串焼きとパン、14ドラクマ)を取った。帰りは道に迷い大分、道草を食ってしまった。



ギリシャの歴史の話~ギリシャのヒッチの旅

2021-12-02 15:50:25 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・ギリシャの歴史の話
 ギリシャ、アテネを理解する上で、その歴史を簡単に記しておく事にする。
 アテネは、古代ギリシャの数あるポリス(都市国家)の中でも良好な港を持ち、エーゲ海を始め地中海の貿易、交通の拠点として富を築き栄えて来た。その繁栄の基に、紀元前776年古代オリンピック大会が行なわれるようになった。
 紀元前5世紀に入るとエジプトからインドまで支配下に置いていたペルシャ大帝国の侵入を受け、ペルシャ戦争になった。アテネの兵士は果敢に戦った。特にマラトンの戦い、サラミスの海戦に於いて勝利をもたらした。
Marathon(マラトン)は、アテネの東北約40キロの所に位置した古戦場地で、ペルシャ軍が上陸したがアテネ軍が撃破した所なのだ。この戦いの勝利をアテネに知らせる為、使者が一気に40キロ程(42.195km)を走り続け、報告後絶命したとの事。現在のマラソン競技はここから始まった。
 ペルシャ戦争でアテネを守り、守護神・アテナを祀るためアクロポリスにパルテノン神殿を建立した。アクロポリスは、アテネ王国の城砦で、絶壁の丘になっている為に要害堅固、外敵に備える城塞であった。
ここにアテネを中心に絢爛たる文明の華が咲き誇ったのだ。又、アテネの高い知性はソクラテス、プラトン、アリストテレス等の哲学者を生んだのであった。
 紀元前431年~404年頃、アテネは同じギリシャの都市国家・スパルタに敗れ、ギリシャは群雄割拠に入るが、それによる各都市国家は疲弊し、マケドニアに侵入され、ギリシャは征服された。
 ギリシャはその後、ローマ帝国、東ローマ帝国に征服され、特に15世紀から19世紀前半までの400年以上の長期に渡るトルコ帝国の支配下に置かれた。その古代の繁栄はすっかり失われ、ギリシャ全土は一層廃墟し、パルテノン神殿を始めアクロポリス周辺の遺跡は破壊された。
 その後ギリシャは、トルコ帝国との独立戦争を経て、1832年立憲君主国として独立した。第一次世界大戦後の一時期、共和国と成ったが、1935年に王政に復した。
しかし、昨年(S42年)4月11日に軍事クーデターが起こり、現在ギリシャは『軍事政権』になっている。    


チェコ スロヴァキア人と「プラハの春」後を話し合う~ギリシアのヒッチの旅

2021-12-01 09:28:22 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
△アテネ市内に入ると、アクロポリスの丘とその丘の頂にある古代遺跡・パルテノン神殿が我々を迎えてくれた。           

       ギリシャのヒッチの旅(古代文明の栄光と現実)

・昭和43年11月28日(木)晴後曇り(国境から一気にアテネへ)  
*参考=ギリシャの1ドラクマは、約10円(10レプタは、1円)。 
 昨夜泊まった場所は、マケドニアの Gevgelija(ゲヴゲリヤ)と言う、国境の町の郊外であった。今日、このモーテルから国境を歩いて越えようと思い、出立した。
30分以上歩いていたら、ユーゴのカスタム オフィス(出入国管理事務所)の検問が設けられていた。そこを何の問題なく、通過した。その管理事務所を過ぎたら、上り坂になって来た。この辺りは、小高い山が幾つか連なっていた。道はトラックが通れる幅があったが、チョットしたハイキング コース(道は舗装されてなく、山道であった)の感じであった。
 ここまで来ると大分、温かくなっていた。あれから相当南下して来たし又、大陸性気候から地中海性気候に変わったのであろう。暖かな太陽が燦々と降り注ぐハイキング コースの国境中間地点を1人で歩く気分は、最高であった。『旅は良いなぁ』と心から感じた。
気分良く歩いていると、道の端に鉄砲の弾が落ちていた。如何してこんな所に弾が落ちているのだろうか、不思議であった。ユーゴ~ギリシャ間の国境を歩いて越えた記念に拾い上げ、大事にしまい込んだ。
 向こうからギリシャの民族衣装を着て、鉄砲を担いだ国境警備兵1名がやって来た。彼に尋ねると、「ギリシャのカスタム・オフィスは、まだ1キロ先」との事であった。
 又歩き出すと、土埃を上げて1台の乗用車がやって来た。ヒッチ合図をすると車は停まり、中に中年男性2人が乗っていた。同乗をお願いすると、快諾してくれたので私は後部座席に乗り込んだ。そして彼等と共にギリシャの出入国管理事務所を通常の手続きで通る事が出来た。
 ドライバーは、チェコ スロヴァキア人、助手席に座っているもう1人の男性は、ユーゴ人(クロアチア人)であった。2人はチェス(西洋将棋)の国際大会に参加する為、Athens(アテネ)へ行くので、『シメタ、これで一気にアテネへ行かれるぞ』私は内心大喜びした。
 彼等は最初の町で両替の為、ある銀行に立ち寄った。私もついでにトラベラーズチェック20ドル分を現金化(720ドラクマ)した。日本を発って、何回両替した事か。国境を通過する度に通貨単位(一番分かり辛かった国はイギリスであった。)が変わるので、換算方はいつも最初おかしかった。
 お金を交換して後、我々は一路アテネへ。途中、彼等に昼食やお茶をご馳走になってしまった。いつも昼抜きなので助かった。お金を出されるのは抵抗を感じるが、奢ってくれるのは、大歓迎であった。
 彼等は、今年の夏にソ連軍がプラハに軍事侵攻した件について、今のソ連のやり方に相当不満を持っていて、文句を言っていた。この軍事侵攻によってチェコ・スロヴァキアの民主化運動は、完全に潰されたのだ。
私が感じた事であるが、ソ連を始め、チェコでもユーゴでもかなり民主化・自由化の思想が国民(特に若者の間で)に共感を得ているようであった。共産思想に基づく社会主義社会が今以上に発展するのか、それは疑問であった。それは今回の旅を通して、多くの国の人々の様子を見て、私はそう思った。貧しい現状であっても、自由と民主的ならば人々の顔は、もう少し晴れやかなのだ。
実際にソ連人よりは、ユーゴ人の方が晴れやかさ、活き活きさがあった。それは寧ろ、ユーゴの方が自由化されていたから、と思うからであった。その国の人々を戦車や銃で抑え付けても、抑え続けられるものでない事は、歴史が既に証明しているではないか。
当然、この2人の様なインテリー、又はハイ クラス(この2人は、生産労働者ではなく、この様な高級な車に乗って国際チェス大会に参加し、しかも英語が話せる人であるので、その様に感じた。)の部類に属している人は、余計に今回の事を面白くないと感じたのであろう。 
私は彼等からこの件について意見を求められ、「I agree with your opinion. And I think Soviet troops should withdraw from Prague and all Czecho-Slovakia over.(貴方の意見・考え方と同じです。そして全てのソ連軍部隊はプラハ、そしてチェコ・スロヴァキア中から撤退すべきだと私は思います。)」と言ったら彼等は、満足な顔して私に握手を求めて来た。
 ギリシャのドライブは、快適であった。しかしギリシャの家々や人々の様子を車の中から垣間見て、経済が立ち遅れているのか、私が想像していた以上、ギリシャは貧しそうに見えた。実際、ユーゴ人(クロアチア人)の紳士も、「マケドニアやギリシャは貧しい。クロアチアやチェコ・スロヴァキアの方が余程良い」と言っていた。でも彼の発言に私は違和感があった。と言うのは、マケドニアもクロアチアもユーゴではないのか。自分の国の事をまるで他国の事の様に言っていた。人種・宗教や共和国等が違うと連邦共和国としての1つの国家として、その国民として成り得るのは難しいのであろうか。宗教も言語も同じ単位民族である日本人には、想像出来ない難しい国民意識の相違が存在していたのだ。私はそれをほんのチョット垣間見たのであった。だからと言って、クロアチアもチェコ・スロヴァキアも社会主義経済を取っている国であるが、その思想を彼等は肯定も否定もした訳ではなく、ただ比較しただけであった。
 アテネへ行く途中、左折Thessaloniki(テッサロニキ)への道路標識があった。Istanbul(イスタンブール)やTeheran(テヘラン)へ行くには、当然降りなければならない重要な交通の要所であった。一瞬迷ったが、取り敢えず予定通りアテネへ行く事にした。
 午後4時30分(アテネ時間5時30分、ロンドン標準時刻より1時間繰り下がった。)頃にアテネ市内に入ると、アクロポリスの丘とその丘の頂にある古代遺跡・パルテノン神殿が我々を迎えてくれた。
国境で運良く彼等にピック アップして貰い、500キロ程を一気にアテネまで来られた。私の予想では、『国境から2~3日目にアテネに入れれば』と思っていたので、大いに助かった。アテネ中央付近で降ろして貰い、何度も礼を言って彼等と別れた。
 ユースへ行くのに、『NO2のバスが便利である』と聞いていたが、NO2のバスを見付けるのに、街の中をウロウロしなければならなかった。やっと見付けバスに乗った。私はギリシャ語が分らないが、アテネ市民はバスに乗っている間、或は道が分らない時など近寄って来て、親切に教えてくれた。ギリシャは好きになれそうな国の印象を得た。
 所で、私の頭の中では、『ロンドン~アテネ間ヒッチで1ヶ月間』と思っていたが、10日以上早く、19日目でアテネに着いた。どんよりとした厚い雲に覆われたロンドン、1人陰気臭い部屋に閉じこもり、あれこれ今後の旅について考え、心配している内に不安が募った。そして最後は、居てもたっても居られない状況になってしまった。しかし行動に移してからの方が、余程気が楽であったし、『やれば何とかなるもの』と言う事が分かる様な気がした。
このロンドン~アテネ間ヒッチの旅は、楽しい時もあれば、苦しい辛い時もあった。でも辛い時も楽しい様な気がした。又その事が返って良い思い出になると思った。シンガポールまで、まだまだ旅は続くのに、何だかもう随分長い間、旅をしている気がしてならなかった。
 夜、ユースで知り会った長倉さん(長倉恭一さん、以後敬称省略。埼玉県志木市出身。後に文人・永倉万治、平成12年に死去)とコニャックを飲みに行った。無事にアテネに到着したのだし、無性にお酒が飲みたい気分だったので、自分に奢ってしまった。


おばちゃん達と子供達を引き連れて万屋へ~ユーゴスラビアのヒッチの旅

2021-11-30 06:24:32 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
△荒涼とした大地の旅は人恋しい心境になる(この絵を二度使用)ーPainted by M.Yoshida

・昭和43年11月27日(水)晴(「おばさんの家に泊めて」と懇願)
 ここは、Leskovac(レスコヴァツ)と言う地方都市の郊外であった。昨夜、遠く右方向の高い位置に幾つも灯が見えたのは、この町の夜景であった。このレストラン兼キャンプ場は、その町から坂を下りて来て丁字路の右脇に位置する所にあった。
 軽く食事を取り、ゆっくりコーヒーを飲んでからレストランを後にした。30分間ヒッチした後、トラックをゲットした。割かし直ぐに乗せて貰う事が出来た。200キロぐらい乗せて貰い、Titov Veles(ティトフ ヴェレス)辺りで降ろされた。
 私は既にマケドニア共和国に入った。ここ(ティトフ ヴェレス)は、首都・スコピエからかなりの離れており、南下したした所であった。そしてスコピエはこの街道から大分離れているので、通って来なかった。ここからギリシャの国境へは、後150キロ程の所まで来たのでした。
 セルビアの南部、そしてマケドニアに入ってから村々(町を通らないので、その様子は不明。たいして変わらないと思う)、そして人々の様子は一段と貧しそうであった。家々の作りは貧弱で、しかも大人も子供達も着ている物は、余りにもお粗末であった。履物も履き疲れた様な物で、中には履物も買えないのか、裸足でいる多くの子供達を見受けた。大分南下したので寒さも少し和らいで来た感じであるが、それでも朝夕、素足の子供達にとっては冷たいであろう。
チート大統領の高い理想の下に推し進められている社会主義政策も、共和国、或は地域によってこれほどまでに現実的にギャップ(格差)があるのか、私は悲しい思いがした。
 ティトフ ヴェレスから2台目の車に50~60キロ程、乗せて貰った。降ろされた場所、その周りの景色は原野であった。時折強い風が吹き、草木をザワザワと騒がせた。淋風が私の心の中を通り過ぎて行った。人恋しさが一段とするのでした。
 1時間経ち、2時間過ぎても車は来なかった。ユーゴ人自慢のハイ ウェイに、全く交通量が無かった。この国の第一級の主要道路がこの様な状態であるなる、他の国道、特に地方道路は泥んこ道で全く車が通らないのも頷けた。人の移動や物流の無さが、南部セルビア、特にマケドニアの人々・子供達の服装や履物までも影響している、と感じた。
 私は街道端にじっとして、やって来る自動車を待つ事に我慢出来なかったので、『小樽の人よ』の歌を歌いながら街道を歩き始めた。そんなに重たい訳でもないのに、いやにリックが肩に喰い込み、カバンの重さが堪えた。何処まで歩けば村や町に辿り着くか、宛てなど無かった。ただ、歩き続けるだけで気が紛れた。
いつしか日が沈み、寂しさが更に一段と募って来た。今日も昼抜きの旅であった。疲れた。早く、何処でも良いから休みたかった。如何してこんなに辛い、そして寂しい旅をしなければならないのか、この旅にどんな意義があるのか等、自問・自答しながら歩いた。シンガポールまでの道程は、果てしなく遠かった。しかしもう少しでギリシャに入るのだ。そこには古代から栄えた、そして私の第1の目的地であるAthens(アテネ)があるのだ。もう少しだ、頑張らなければならなかった。
 車は、相変わらず通らなかった。私は歩き、そして又、歩き続けた。暗くなりかけた頃、終に附近に何軒かの家々が点在している村に辿り着いた。食料品店(?)の前で7~8人のおばさん達がお喋り(井戸端会議?)をしていて、そして15人程の子供達も何かして遊んでいた。おばさんや子供達は、薄汚れたボロボロの服を着て、子供達は履物も履いてなかった。余りにも貧しそうで、まさしく物資の無さ、購買力の無さを見た。
 いずれにしても、おばさん達や子供達が集まっている所へ私が突然現れたので、皆ビックリした様子であった。そしておばさんや子供達が私の周りに集まって来て、私の一挙手一投足の様子を物珍しそうに見ていた。私は見世物小屋のサルになってしまった感じであった。
日本人(東洋人)が珍しいのか、リックを背負った貧乏旅行者が珍しいのか、おばさんや子供達の目は、好奇心で満ちていた。腹が減っていたのでパンを買おうと店の中へ入って行った。皆もゾロゾロ付いて来て、店の中は一機に満員状態になってしまった。食料品店と言っても、日本の昭和20年代~30年代初め頃に於ける田舎の万屋(雑貨屋)の様な感じで、店内は薄暗く良く見えないし、雑然として何も無かった。もちろんパン類も売れ切れたのか、見当たらなかったし、口に入れる様な物も無かった。
 私はおばさんや子供達を引き連れて店から出た。夕方の5時過ぎ、既に暗くなって来た。寝る所が心配になって来た。私の周りに集まっている1人のおばさんに、ジェスチャ交じりで「この辺りに宿泊所、寝る所、ホテルがありませんか。もしなければ、おばさんの家に泊めて下さい」と尋ねた。他のおばさんにも、「私は疲れた。眠りたいのです。お金は持っています。おばさんの家に泊めて!!」とジェスチャと英語で必死の思いで訴えたが、通じなかった。
「私は、宿泊所を捜しているのだ。ここに無ければ、寝る場所をどなたか提供して下さい。お金を持っているから」と私は更に皆に訴えた。おばさん達は、私が何を言っているのか、キョトンとただ面食らっている様子であった。
すると、「あそこで聞いてみろ」と言わんばかりに、子供達が私を誘導するように万屋の隣にあるうす汚い貧弱な食堂(?)へ案内された。店に誰か1人いた。店主に聞く(実際はお互いに言葉が通じなかった)と、宿泊はしていない感じであった。
更に粘って村民のおばさん達に、ホテル、宿泊施設を捜している事を訴え続けた。すると男の人が現れ、「1キロ先にキャンプ場がある(?)」と言うのであった。しかしスラブ語だか、セルビア語か分らない言葉で言われたので、定か(確か)でなかった。しかし既におばさん達に訴えても埒があかないので、歩いて行って見る事にした。
 交通量が無い、真っ暗な街道を歩いていると間もなく、こちらに車が向かって来た。必死な思いでヒッチ合図をしたら、幸運にも止まってくれた。あれ程車が来なかったのに、歩き出して直ぐに車が来て止まってくれたのは、あの村人が私の事を他の人に話して、助けに来てくれたのかも知れない、と最初はそう思った。暗がりではっきり分らなかったが、私より少し年上の感じがする男性2人が乗っていた。聞くと、「我々はGevgelija(国境の町)へ行きます。モーテルがあり、貴方はそこに泊まる事が出来る」と英語で言うので乗せて貰う事にした。彼等は少し英語が話せた。それにしても、何と幸運な事か。昨夜にしろ、今晩にしろ、斯かる状態(土壇場)になっても物事は何とかなるものだ。私にはまだ運が付いていると思った。
 乗用車でない小型トラックに、私が真ん中に乗るよう誘導された。右側にドライバー、私が真ん中、左側にもう1人の男と言う配列になった。真中に座ってから、『失敗した』と思った。辺りは真っ暗、交通量も全く無かった。『両方から襲われ、金品を巻き上げられるのでは』と猜疑心に襲われたのだ。
 ヒッチを始めて夜、男性2人の同乗車に乗ったのは、初めてであった。そしてこんな席順で乗ったのも初めてであった。ドライバー1人の場合、運転中に襲う事は出来ないし、停車してから襲って来た場合、片方のドアから充分逃げられる可能性もあるし、銃器を持っていなければ抵抗も出来る。しかし、挟まれていたら停車しても逃げられないし、抵抗しても、もう一方から攻撃が来る。そんな状態を考えたので、『真ん中に座ったのはマズカッタ』と思った。
 実際、私は貧乏な旅人、現金は大して持っていなかったし、後はキャノン カメラ(2万円で昭和38年暮れに買った物)と腕時計だけだ。「出せ」と言えば、出せば良いのだ。トラベラーズチェックやM&Mの乗船引き替え券は、彼等にとって価値が無いのだ。下手に抵抗して殺され、その辺の山中に投棄されたらそれまでだ。決して死体は見付からない。1人のバカな日本人がユーゴにて消息不明になるだけである。割り切ったら、恐怖や不安は無くなった。
 本当は、彼らの親切心から私を乗せてくれたのだ。『強盗の類』と思われたら侵害であろう。2人は、私と話がしたいので、真ん中に乗るように誘導したと分った。それは乗って暫らく経って、彼等の言動は友好的であったからでした。
 途中、この車は昨夜と同じにエンコしてしまった。しかし、今度は直ぐに再出発が出来た。昨夜の事を思うと、本当に参った。この車で80~90キロ位乗せて貰った。彼等は、道路際にあるモーテルまで私を連れて来てくれた。『強盗の類か、と疑ったりしてごめんなさい』と心の中で謝った。でも一時、恐怖を感じたのも確かであった。
 部屋代は、25ディナール(約630円)で、ユーゴのお金を全て使い果たして宿泊した。ザグレブで泊まったペンションの2倍以上、高いが仕方なかった。
この頃の私はその料金・価格が適正なのか、否かについて考えず、ユーゴ人や西洋人に言われた通りに支払っていた。如何してかと言うと、西洋人(イタリア人以外)は料金・値段を吹っ掛けない、と信じていたからでした。

昼食抜きの理由の話~ユーゴスラビアのヒッチの旅

2021-11-29 15:52:43 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昼食抜きの理由の話
 前にも書いた様な気がするが再度、何故昼食を食べずに旅をしているのか、その理由を話したいと思います。
 ヒッチ ハイクは、基本的に食べたくても食べられないのだ。誰かに乗せて貰っている間は、お昼だからと言って、レストランや食料品店へ寄って貰う訳にいかなかった。又、降ろされた場所に食料品店や食堂、レストランがあれば良いのだが、無かった。私はヒッチ中、街の中以外に食料品店、食堂・レストラン、ドライブインを見掛けなかった。
 特にユーゴのこの街道は、町から離れているので、それらしき店が無いのも当然であった。それでは前の日に用意しておけば良いのであるが、泊まったユース等の近くに食料品店があれば良いのだが、大体に於いて無かった。それに前の日に準備しておくのも億劫であったし、第一金が掛かる。食べられなければ食べない、それで我慢をする事が出来た。
 最近(ロンドンを去ってから)、昼抜きは習慣になっていた。だからと言って、朝夕の食事をしっかり取っていると言う訳ではなかった。栄養不足、或は抵抗力の低下から、『病気にならなければ良いが』と願うだけであった。
 
*因みに出国時の体重は64キロあったが、帰国時は57キロになっていた。

ヤンキー スピリットの話~ユーゴスラビアのヒッチの旅

2021-11-29 07:24:45 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・ヤンキー スピリットの話
 今朝(1968.11.26)、共にユースを出たアメリカ人は、インドやパキスタンをヒッチした、大ベテランの旅人であった。その彼は5年間、世界中旅をしているとの事であった。
 それにしても男女問わずアメリカ人は、何処へ行っても気後れせず旅をしているので、いつも感心するのであった。アメリカ人根性(ヤンキー スピリット)は、あの西部劇に見られる開拓魂から来ているのであろうか。日本人に無いポジィテブな面がある、と思われる。
アメリカ人は何処へ行っても母国語の英語が使えるし、外国人と接しても〝気後れしない態度〟(異人との接触・交流に慣れている民族)、経済的にも我々よりずっと恵まれているので行動の範囲が広く、そして、『我々が世界をリードしている』と言う自負を持ち、あの体格で闊歩していた。
アメリカ人の精神、言語、社交性、経済、自負、体付き等は、日本人と比べて優位な点が多くある。彼等の行動力があるのは、その様な理由で納得するが、私にとっては羨ましい限りであった。