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YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

私が見た事・感じた事 in London~パブの話

2021-09-30 06:28:52 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・パブの話
 
 パブ(Public House)には、Public Bar(パブリック バー)、Lounge Bar(ラウンジ バー)、そしてSalon Bar(サロン バー)があった。ただ単に「パブ」と言った場合は、このパブリック バーを指します。パブを強いて日本語に訳せば「大衆酒場、或は居酒屋」が適当な言い方でしょう。
 パブリック バーはロンドン郊外や下町に点在し、一般民衆や労働者を対象にした酒場でした。そのパブリック バーへ入ると、床はコンクリート、テーブルは粗末な作り、そして室内は何の飾りっ気もなかった。タバコの煙が充満している中で、人々はビールを飲み、そして会話を楽しんでいる、そんな感じがするのが特徴であった。
ラウンジ バー、或いはサロン バーは、ロンドンの繁華街界隈に点在し、上品な雰囲気の中で高級感を楽しみながら、静かに飲みたい人々が対象となっていた。昔、上流階級の紳士淑女が対象とされていた、と言う。従って店内の装飾は凝っていて、床は絨毯が敷き詰められ、テーブルや椅子もクラシック調(ヴィクトリア調的)の由緒あるものを感じた。
 要するに酒場のスタイルが分かれてあるのは、階級制度の名残でもあるが、今では自分の好きなスタイルのパブを利用出来ます。
パブリック バーで飲むのか、ラウンジ バー又はサロン バーで飲むのか、その時の条件しだいで選択されるべきです。気安さ、又は酒代を考えたら、或いは民衆の雰囲気を感じたいのならパブリック バーの方を選択すべきであり、格調、或いは静かな気分で飲みたいならラウンジ バー又はサロン バーであろう。しかし服装には注意した方が良さそうだ。
 イギリスはウィスキーの本場であるにも拘らず、パブリック バーでもラウンジ バーでも酒の主役はビールであった。ウィスキーを飲んでいる人は、私の見た範囲でいなかった。
 初めてカナダ人とラウンジ バーへ行った時、ビールの注文は彼がしました。ロンドンで2回目にパブへ行った時、私が「ビァ、プリーズ」と言っても、ビールは出て来なかった。出て来たのは、バーテンの早口英語で最初、理解出来なかった。
ソ連、北欧、フランス、スペインやイタリアでは、「ビァ プリーズ」と言うと、小瓶のビールを出してくれたし、ミューヘンやウェールズでは大ジョッキで出してくれた。所がロンドンでは違っていた。バーテンは「ビールの種類は何になさいますか。ラガー、ビター、スタウト等が御座いますが」とか、「瓶のビールにしますか、それともジョッキにしますか」、又「ジョッキは一杯にしますか、それとも半分ですか」と、お客の飲みたい種類のビール、飲み方を事細かく聞いて来た。
大概の人は、「A pint of lager beer, please」と言って、ジョッキのラガー ビールを注文していた。私もたどたどしい英語でバーテンに注文した。これは日本の各種メーカーのビン ビール、又はウェールズで飲んだビールに味が近かった。「ラガー」と言う言葉を日本で聞いた事があるので、普通のビールをラガーであると理解した。
3度目以降は要領を覚えて、ラガー ビールを注文する事にした。目的のビールが出され、市民の中に混じって飲んでいると、私もロンドン市民になった、或はイギリス人に似て来た様な錯覚になるのでした。又、この一時が侘しい私のロンドン生活での「オアシス」でもありました。   
 多くの人はジョッキ1杯を注文していたが、中には半分注文し、それを舐めるように飲んで、長時間に渡ってパブに入り浸っている人もいた。
 バーテン(男性、女性、或いは店のおばさんやその主人)から出されたビールにその都度お金を支払い、カウンターで立って飲んでも、テーブルまで自分で運んで飲んでも、どちらでも良かった。パブリック バーは、チップが要らないので気を使う必要もなく、又経済的にも助かった。   
 不思議な事に、ビールを飲むのに『酒の肴』がないのが、イギリスの酒場であった。日本では考えられない事なのだが。私は彼等がそれらを注文、若しくは食べているのを1度も見掛けなかった。 
感心する事は、日本の酒場の様に人の迷惑にも拘わらず大声を出したり、酔ってクダを撒いたり、と言う人に出会った事がなかった。パブリック バー或はラウンジ バーは、市民の社交場であった。
 そうそう、「階級制度」と言えばシーラの話によると、今でも歴然と王様から平民まで分かれ、その階級制度が存在し、生活に深く根付いているとの事であった。しかし、短い滞在期間ではどの様にそれらが影響をしているのか、私には知るよしもなかった。


ウィンピーレストランの収入と生活支出の収支決算の話

2021-09-29 09:51:15 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・ウィンピーレストランの収入と生活支出の収支決算の話
  • オックスフォード店=1968年9月21日から10月2日まで計10日間(午後4時から11時まで。9月23日、30日は月曜日で休み。週6ポンド)。従って合計10ポンド
  • ヴィクトリア店=10月4日の計1日(正確の労働時間不明で2時間程度かな)。 
  • アールス コート店=10月5日から6日まで計2日間(正確の労働時間不明で2時間以下)。但し、9月29日から10月5日までの1週間分は、無断欠勤や出張で労働時間が不確定の為、賃金は非常に少なかった。        
・ボンド ストリート店=10月8日から11月2日まで計23日間(11時から午後7時まで。10月14日、21日、28日は月曜日で休み。週約10ポンド12シリング)。従って合計約42ポンド8シリング。
☆ボンド ストリート店の賃金明細を示すと週基本給~£13.7s.9d、差し引かれたものはイ~年金4s、ロ~その他16s.8d、ハ~税金£1.15s、 差引週賃金~£10.12s.1d(10ポンド12シリングと1ペニー=約1万604円)であった。
○収入~約54ポンド(①+②+③+④)
○支出~部屋代~24ポンド(週3ポンド×8週分)、日本料理店食事代~5ポンド3シリング、写真現像代~5ポンド10シリング(たまげるほど高かった。横浜出航からロンドン観光した写真現像代金。シーラとロンドン観光した写真は全て現像できなかった。何者かに私のカメラを悪戯され、中に収まっていたフイルムを駄目にされた。折角シーラに会いに来て、彼女及び彼女と一緒に撮った写真は一枚も無い。残念悔しい)、その他~ジャンパー代、ジーパン代、リック代、食料品代(週2ポンド程度)、生活用品代、事務用品代、地図代、郵便代、トランクの船便代、ビール代、タバコ代、査証代、査証用写真代、コレラの予防接種代、交通費代(週1ポンド)等々。
○決算~ロンドン滞在は大幅ではないが、結局赤字。
9月21日から11月2日までの皿洗いの仕事は、今後の旅の資金作りに全くならなかった。少ない残り手持金が多少減った程度で済んだのがせめての慰めであった。

*イギリスのお金は、1pound(1ポンドは約1,000円。正確には1,004円)は20shillings(1シリングは約50円)、20シリングは240pence(単数はペニー、複数になるとペンスと言う。それで1pennyは4円)、240ペンスは960farthings(1ファースィングは約1円)であった。
また通常の呼び方の他に硬貨の種類によって、sovereign(「ソヴリン」と言って1ポンドの金貨)、crown(「クラン」5シリング)、florin(「フロリン」2シリング)、half-crown(「ハーフクラン」2シリング6ペンス)等がある。普通の硬貨の種類は5s、2s、1sそして6d、3d、1/2d、1d、があった。
 その他に注意する事は、£は数字の前に、sやdは数字の後に書く事や、ペンス(単数はペニー)の前に「アンド」を入れて読む事になっていた。
 イギリスのお金は慣れないと複雑なので、最初の頃私はお金の計算方に悩まされた。


ウィンピー ハウス レストランの仕事~ボンド ストリートのウッドストック店の話(その2)

2021-09-28 06:26:11 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
*ボンド ストリートのウッドストック店の話(その1)からの続きです。

 このレストランで感心させられるのは、労働時間が本当に厳守されていた事であった。午後7時の終りの時間になると、仕事がまだ残っていてもマダムが、「フィニッシュ」と言って、皆の仕事を終らせていた。あと何枚か洗えば、翌日に持ち越す必要がないのに、7時になると切り上げていた。お店の方でも7時に終えるように準備し、又その時間帯まで居そうなお客さんには前もって承知していただき、7時になった途端切り上げ、7時10分に全従業員は店から退出していた。日本では考えられない程、時間が守られていた。私を含めて時間にルーズな日本人には、この状態を理解出来るであろうか、と思った。
 勤務時間は11時から午後7時までだから、レストランで昼食と夕食の2食分が食べられ、前より食事代や作る手間が助かった。そんな理由で、私は朝食を部屋で軽く食べてから出勤していた。
こちらのレストランに来て以来、あちこちと出張される事もなく、労働時間は一定し、仕事はバカ忙しくなくラジオを聞きながら出来るし、マネージャーは良いし、全ての面で前のレストランより良かった。それに1日1時間労働時間が延びたが賃金も週4ポンド上って10ポンドになり、経済的にも随分助かった。全ての面で良くなったので、10月3日のストライキ(無断欠勤)は、結果的に正解であった。多分、頑張ったとしても前のレストランでは、精神的にも肉体的にも最後まで持たなかったであろう。
 労働許可証を持たない為なのか、税金関係の為であるのか分らないが、賃金明細書の名前の欄は、Yoorgood(ヨールグッド)で処理されていた。この件については、前のマネージャーから事前に話があり、私も承知していた。
ここのマネージャーは私の名前が言い辛いからか、「Joy(ジョイ)」と言うニック ネームを付けられ、彼女及び他の者から「Joy」と言われていた。私は「Joy」と呼ばれても、別にそれでも構わなかった。
 元会社の先輩の岡田さんにお願いしてあった、M&Mの乗船券引換証で船でもエール フランス航空会社の飛行機でも使える乗船券変更手続が完了し、先日彼からその書留が届いた。これにより、私はいつでもロンドンを去る事が出来るようになった。
・1968年11月2日(土)~本日限りでウッドストック ウィンピー ハウス レストランを辞める事にした。いつもの通り今朝もジャガイモを煮て、これにマーガリンを付け、コーヒーで朝食を済ませた。侘しい食事内容であったが、2回レストランで食べられたから我慢して来られた。
 10時頃部屋を出て、ピカデリー・ラインの最寄り駅“Holloway Road”(ホロウェイ・ロード)駅からセントラル・ラインのボンド・ストリート駅で下車し、歩いて2分でレストランに着いた。通い慣れたこの経路もこれで最後であると思うと、感慨も一塩であった。
 今までこんな事がなかったのに出勤したら、今日に限って休みでないのにマネージャーのレーミンさんと黒人で私の相棒のホーさんは休んでしまった。
 ここの皿洗いの仕事は暇ではないが、私1人でホーさんの分まで働いたので今日は、特に忙しかった。それでも2時過ぎたら、一服する事が出来た。
 ロンドンでの仕事探しは大変であったし、前の店の皿洗いはバカ忙しく、全く面白くなかった。ここの相棒のホーさんは、短気で何だかんだ言われた事もあったが、直ぐ仲良くなって、最後まで順調にやって来られた。気が利くタイニー、ふざけ合ったタイニー、彼とも終りだ。何だかんだ言っても、今日で全て終りであった。
 皿洗いの仕事は、例えイギリス政府の労働許可証が下りたとしても、私にとっては既に働き続ける意義さえなかったので、今日の日が来るのが本当に待ち遠しかった。
 店の皆さんに仕事の合間に別れの挨拶を済ませておいたので、7時になったら仕事を皆さんと共にきっかり終りにした。お世話になって別れの挨拶を言えなかったマネージャーのレーミンさんと相棒のホーさんに後日、挨拶する事にした。
 予定通りロンドンに滞在出来たのも、こちらのレストランにお世話になったお陰だと思う。そう言う意味で再度思うのだが、10月3日のストライキは、正解であった。
・11月5日(火)~日本大使館へ行った帰りに、先週分の賃金を受け取る為、ウッドストック ウィンピー ハウスに立ち寄った。そしてマネージャーやホーさんに別れの挨拶をした。帰り際にマネージャーから最後のウィンピー料理をご馳走になった。
私は9月21日から11月2日まで、私の休日日を除いて計36日間働いた事になった。私の手は、油と洗剤液でかさかさに荒れてしまった。元に戻ったのは、2~3週間後であった。


ウィンピー ハウス レストランの仕事~ボンド ストリートのウッドストック店の話(その1)

2021-09-27 09:38:47 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・ボンド ストリートのウッドストック店の話
・10月7日(月)~休みの日。
・1968年10月8日(火)~久し振りにオックスフォード店へ午前9時に行った。マネージャーから「本社の方へ行ってくれ」と言われた。私は『何であろうか』とチョット不安を感じながら、通りの向こう側にある事務所(ウィンピー本社)へ行った。そうしましたら男性社員から今後の仕事場を命ぜられた。やはり同系のレストランのWoodstock Wimpy House Restaurant(ウッドストック ウィンピー ハウス レストラン)であった。その場所はボンド ストリート(オックスフォード ストリートからピカデリー ストリートへ結ぶ道)にあって、前の店からポンド ストリートを50~60m入った所で割かし近い職場を割り当ててくれた。私は以後11月2日の辞めるまで、ここで働く事が出来た。 
 ウッドストック店の規模は、前の所の半分以下であった。しかも主要繁華街ではないので客の入りは前より少なく、バカ忙しさはなかった。その点は有り難かった。3時を過ぎると、休憩時間外でもタバコが吸える一時もあった。以前は忙し過ぎて、全くそんな時間はなかったから、その点もこちらのレストランは、有り難かった。
 前の店は24時間営業であったが、この店の営業時間は11時から午後7時までであった。従って従業員の労働時間内で出来たので、その点も大変有り難かった。
店のメンバーは、女性のマネージャー1名、ウェイトレス4名、調理人兼飲み物を作る人3名、皿洗い2名であった。
マネージャーの名前は「Mrs. J. Laming」と言い、皆に「ミセズ レーミン」と呼ばれていた。彼女は心配り(こころくばり)や、優しいさがあり、前のマネージャーより断然、良かった。
例えば、私がミルク タンクを落として、ミルクをこぼしてしまった時や、皿を落として割ってしまった時等、けっして怒る事はなかった。又、私がシーラの所へ遊びに行く時、マネージャーは「お土産に」と言って、店のケーキを持たせてくれた。前の店にはない家庭的な雰囲気があって、これも彼女の人柄であった。
 ウェイトレス4名は、イタリア系、フランス系のようで、純然たるイングランド人はいない様であった。1ヶ月近く働いたのにはっきりしないのは、お店は1階で皿洗い室は地下にあったから、彼女等と接触、会話する機会は殆んどなく、1人も名前を覚えられず又、覚える必要もなかったからでした。
 調理人とドリンク係3名は、全てパキスタン人であった。一番若い人は「タイニー」と言って3人の中で一番ひょうきん者、彼とは一番仲が良かった。他の2名は、名前すら覚えなかった。
 私と同じ皿洗いの人はアフリカ人のおばさんでした。歳は45前後、真っ黒な顔なので、年齢は 実際良く分らなかった。名前は「ホー」と言ってどちらかと言えば、短気で怒りっぽい性格であった。最初、薄気味悪かったが、一緒に働いている内に同じ人間、我々黄色人や白人と変わらない事を認識する始末であった。仕事の内容や方法は前と変わらなかったが、ここでは私も自動皿洗い器を扱った。
 お客に出す料理は前と同じでウィンピーやフィッシュ&チップスで、後は飲み物であった。“生野菜料理”(野菜サラダ)は、地下の皿洗い室で作る事になっていたので、私も何度か作りました。しかし、決して『衛生的である』とは思えなかった。と言うのは、レタスを洗わないで、そのままお客に出していた。生野菜を食べると寄生虫が湧くと言われ、子供の頃は、生野菜を食べた事がなかった。叉、成人になっても生で食べる場合、良く洗って出す(食べる)のが常識的な考えでした。
 所で、何と言っても良かったのは、仕事場が地下にあったので、他の従業員と隔離されていたことでした。ナイフ、フォークや食器類の移動は、昇降用リフトを使用し、それに、他の従業員は遣って来なかった。隔離されていたので気が楽で、私と相棒のおばさんは、ラジオを聞きながら仕事が出来た。ビートルズの全盛期、スウィッチをオンにすればビートルズの歌声が流れていた。私の部屋にテレビは勿論、ラジオも無かったので結構メディアにも飢えていた。お陰様でビートルズ等の歌を聞きながら仕事が出来たので、返って仕事が楽しかった。

*ボンド ストリートのウッドストック店の話(その2)へ続く

ウィンピー ハウス レストランの仕事~オックスフォード ストリート店の話(その4)

2021-09-26 08:30:06 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・・・学生時代にイギリスは、「ゆりかごから墓場まで」と言われるほど社会保障が充実している国であると教わった。労働党が強い、労働者意識が高い、労働条件が整っているイギリスであっても、私の様な皿洗い如きの仕事人は、労働者としての身分、資格、労働条件等、何も保証されていないのであった~ウィンピー ハウス レストランの仕事~オックスフォード ストリート店の話(その3)の続きです。

オックスフォード ストリート店の話(その4) 
 ロンドンの街で多くのアフリカ人、パキスタン人、インド人、アラブ人その他の国の人々が、危険、辛い、重労働等の仕事に従事しているのを見掛けた。彼等も同じように低賃金、低労働条件で何の保証もされず働いている様であった。そこには明らかに差別待遇が存在し、私はこれらがイギリスの社会・政治問題に発展する危惧を感じ得なかった。
 アールス コートのレストランへ行く前に、ヴィクトリア店のマネージャーから先週分の賃金として6ポンド(約6,000円)を受け取った。『あの仕事量の割には、安過ぎる』としみじみ感じた。
 シーラの話では、失業者でも手当を週15ポンド位は貰っているとの事。どの位の期間、失業手当が貰えるのか分りませんが、割の合わない仕事であったら失業中の方がよっぽどマシのようで、彼等が働かないのも頷けるのでした。
 いずれにしてもあの時に、週7ポンドの貸し部屋を契約しなくて本当に良かった。もし契約していれば家賃を払い切れないで、生活が出来ない状態であったのだ。『真夜中にミルスおじさんに出会えて本当に良かった』と改めて思った。
 ・1968年10月6日(日)~今日もアールス コート店へ出張した。ここ3日間、仕事場が定まらず、面白くない日々であった。人間は可笑しなもので、低賃金で仕事がバカ忙しいのも嫌であったが、仕事場が定まっていないし、仕事が1日2~3時間程度で終ってしまう、折角行っても金に成らないのも辛いものであった。
 仕事の面、生活の面に於いてもストレスが溜まり、気が休まる事はなかった。しかも、ロンドンの天候は毎日どんよりとした陰うつな日々が続き、それと合間って私の気分も冴えなかった。ロンドンが面白くなくなって来た今日この頃、英語学校へ通う夢は、既に消えていた。

ウィンピー ハウス レストランの仕事~オックスフォード ストリート店の話(その3)

2021-09-24 21:02:50 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
(その2)の最後のあらすじ・・・
 10月3日(木)、私は疲れ果ててしまい、無断で休んでしまった。責任感も何もあったものでなかった。私が担当している仕事がどれだけ忙しいか、「見せしめも時には必要だ。ストライキだ」とそれ程まで思った。
 
(その3)
 ・1968年10月4日(金)~いつもの様に午後4時にレストランへ行った。マネージャーから、「昨日はどうして休んだのだ」と言われた。「頭が痛かった」と言い訳をして逃れたが、既に私のポジションは剥奪されていた。オックスフォード店には9月21日から10月2日まで、月曜日を除いて10日間働いただけであった。
 幸いにも首にならず、直ぐにヴィクトリア地区の同系レストランへ出張を命じられた。住所を教えて貰ったが、その場所への行き方、交通地理が分らず、何回も聞きながらやっと辿り着いた。
 地下鉄やバスを使って行ったのであるが、自腹を切ってしまった。指定された場所以外の場所へ出張を命じる場合は、交通費を出すのが当然であると思った。会社がケチなのか、臨時雇いの私をバカにして出さないのか、請求しなかったから出さなかったのか、私には分からなかった。『交通費を請求すれば良かった』と後で悔やんだ。
 ・10月5日(土)~昨日来た時、「明日、午前9時に来てくれ」と言われ、今日もヴィクトリア店に来た。しかしここでの私の仕事は全くなかった。今度はEarls Court(アールス コート地区)のレストランへ又、出張を命ぜられた。
 昨日の事もあったので、マネージャーに、「私はお金を持っていません。そこへ行くまでの交通費を下さい」と今度は請求したら、キッチリ片道のバス代を渡してくれた。
『出張時間は、労働時間に換算されるべきだ』と思っていた。しかし後日、給与明細を見たら含まれていなかった。「出張時間も労働時間に含めるべきだ」と労働条件を主張したいのであるが、そこまでは言いませんでした。否、私は彼等にそれを主張する、そこまでの英語力がなかった、と言った方が正解であった。それにしても、『全くケチな会社だ』とつくづく思った。
 学生時代、イギリスは「ゆりかごから墓場まで」と言われるほど社会保障が充実している国であると教わった。しかし労働党が強い、労働者意識が高い、労働条件が整っているイギリスであっても、皿洗い如きの仕事人は、労働者としての身分、資格、労働条件等、何も保証されていないのであった。

*ウィンピー ハウス レストランの仕事~オックスフォード ストリート店の話(その4)へ続く

                



ウィンピー ハウス レストランの仕事~オックスフォード ストリート店の話(その2)

2021-09-24 17:14:36 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
*オックスフォード ストリート店の話(その1)からの続き

 皿洗いの仕事は相変わらずバカ忙しく、クレージィ気味であった。各自の仕事は分担されていて、忙しいからと言って私の仕事の手助けは、してくれなかった。だからと言って、他の仕事が暇であると言う訳ではなく、同様に忙しかった。しかし特に皿洗いの私の仕事は、忙しさが違った。
 ウェイター、ウェイトレスは注文を取り、それらをテーブルへ運び、そして後は私の所へ片付けるだけ。ジュースやコーヒーを作る人は、出来上がったジュース類をレバー操作してコップに注ぐだけの仕事(これが一番楽な仕事)。調理人は、出来上がっている物を大きいオーブンで温めるだけの仕事。相棒の皿洗い人は、皿洗い機の中に皿を並べ、ボタン一つでそれらを自動的に洗い、乾燥までして、後は取り出すだけであった。この作業は、同じ皿洗い人でも手が荒れないし、楽であった。
 私の仕事は、ウェイターやウェイトレスが片付けた食べ散らかしの残り物を処理し、ナイフ、フォーク、スプーン、紅茶やコーヒー カップ、又はジュース類のグラスを洗剤で一つ一つ手を使って洗い、水で洗剤を洗い落とし、又一つ一つ乾いた布で拭く作業であった。私の仕事が一番複雑で量も多く、非常に忙しかった。しかしその割に一番低賃金の様であった。「これらは機械で洗っても綺麗にならない」と言う事で、手で洗っていた。しかし洗っても次から次へと息をつく暇もない程の忙しさであった。しかも洗剤を使うので手が荒れだし、その上、油が手の甲に付着して3~4日で〝手が荒れて来た〟(実際、この仕事を辞めてからも手に付いた油は2・3週間経っても落ちなかった)。
ゴム手袋を使えれば良いのであるが、皿洗い機への皿の出し入れやナイフ、フォーク類を拭くので、ゴム手袋を使っていられなかった。第一、その手袋がなかった。そして時間によっては洗う物が増え過ぎて、お客に出すナイフやカップ等がなくなる程で、マネージャーやウェイトレスから、「ハーリ アップ、ハーリ アップ」と言って急がされた。だからと言って手抜きし、汚れが残ったフォークやナイフ類を出せなかった。これほど凄い忙しさ、クレージィな仕事は、他になかった。私は疲れ、最初の1日(9月21日)で、皿洗いの仕事が嫌になった。又、忙し過ぎて私の相棒のパキスタン人と怒鳴りあったりするが、言葉がお互いに通じず、その方からの気苦労も大変であった。そんな日々の連続であるにも拘らず、1日1ポンドの低賃金、頭に来るのは当然であった。
 狭い食器洗い場をゴキブリの様に這いずり廻る毎日で終に10月3日(木)、私は疲れ果ててしまい、無断で休んでしまった。責任感も何もあったものでなかった。私が担当している仕事がどれだけ忙しいか、「見せしめも時には必要だ。ストライキだ」とそれ程までに思った。

                 *(その3)へ続く

ウィンピー ハウス レストランの仕事~オックスフォード ストリート店の話(その1)

2021-09-23 15:53:24 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
                    △フィッシュ アンド チップス

ウィンピー ハウス レストランの仕事

・オックスフォード ストリート店の話
 9月21日に色々あったが結局、仕事に就いた。最初の話の中で労働時間は、午後の5時から11時まで、1日1ポンド4シリングと言う条件であった。しかし最初の出勤日に、私が早く仕事に慣れるように4時から仕事を始めた為、そしてマネージャーの要請により、翌日からも午後4時から11時までする事になった。
1週間遅れで賃金を貰った時、1日に付き税金等で4シリング差し引かれていた。それにしても、安いアルバイト代に税金を徴収されるとは、私は全く知らなかったし、支配人も何も言ってくれなかった。1日〝7時間勤務〟(その内の1時間休憩の6時間労働。休みは月曜日)で1日1ポンド(週6ポンド)になっていた。
 本当に低賃金で頭に来た。それで又何か言ったら、「辞めてもいいですよ」と言われかねないので、私はどうすることも出来ず諦め、我慢するより仕方なかった。しかし私の休みは11月2日に仕事を辞めるまで、月曜日は変わらなかった。 
 このレストランは、地下鉄のボンド ストリート駅を降りて、ボンド ストリートからオックスフォード ストリートに出て、直ぐ左側の所であった。ボンド ストリートは、オックスフォード ストリートとピカデリー ストリートのメイン道路を結ぶ通りであり、ピカデリー ストリートを出ればそこから王立美術館、ピカデリー サーカス、トラファルガー広場、そしてバッキンガム宮殿等の観光名所が幾つもあった。
したがって、私が働く事になったこのレストランは、店内は広く150人程入れるし、また地下にも客席があった。立地条件が良いので、いつもお客さんで賑わっており、24時間営業をしていた。
本社(イギリスウィンピー社)は、このレストランの通りの向かい側にあり、ロンドンだけでも幾つもレストラン経営をしていた。
 ウィンピー ハウス レストランの“料理〟(大袈裟に言うほどの料理でないが、イギリスでは立派な料理かも知れません)の代表的な物は、「Wimpy and chips」と言って、アンパン程の大きさのパンにオニオン、ハンバーグ、トマト、レタス、チーズ等挟んだサンドイッチ(後に日本に上陸したマクドナルド ハンバーガーの様な食べ物と理解して良い)とポテトフライを添えた料理、そして「Fish and chips」と言って、タラをパン粉で包み、油で揚げてポテトフライを添えた料理が主流であった。料理は皿に盛られナイフとホークで食べます。これにミルク、コーヒー、ティー、コカ コーラ、又はジュース類等であった。   
 私のシフトの人員配置は、あのマネージャー1人、ウェイター兼任のサブマネージャー2人、ウェイトレス5~6人、調理人はパキスタン又はインド人2人、コーヒーやジュース類を作るパキスタン人2人、そして皿洗い人は45~50歳位のパキスタン人と私の2人でした。
 一度だけウェイトレスをしているアイルランド人の女性から、忙しい合間を縫って声を掛けてくれた事があった。その内容は、彼女が日本人と文通をしている話であった。以後、お互いに仕事中であり、忙しく全く話せる機会がなかった。彼女の名前、日本人の住所や名前等を聞きだせなかったのは残念であった。
 レストランの仕事をしていたお陰で、食事代は随分助かった。部屋で朝昼兼用の食事をし、夕食はレストランで好きなだけウィンピーかフィッシュ アンド チップスに飲み物を付けて食べていた。したがって仕事をしている期間、「腹が減って仕方ない」と言う事はなかった。これだけは、「まぁまぁ」であった。自分で作った食事だけでは、体力的に持たなかったでしょう。
 そんなある日(1968年10月1日)の午後9時頃、私と年齢が同じ位の「大金さん」(仮称以後敬称は省略)と言う日本人が、職を求めてこの店に飛び込んで来た。彼は英語が下手なのか、マネージャーが私の所に来て、「仕事は無いので断ってくれ」と頼まれ、その旨を彼に伝えた。彼は残念そうな顔をしていた。私も同胞同士で共に働ければ良かったのに、と思うと残念であった。彼はいかにも腹が減っていそうな顔をしていた。聞くと「まだ夕食を食べていない」との事であった。私はマネージャーに頼んで、店の奥でウィンピー料理を食べさせて上げた。彼は余程腹が減っていたのか、「美味しい、美味しい」と喜んで食べた。私は困っている同胞に、何か良い事をした様な気分で嬉しかった。
 それによく聞くと、午後10時近くになるのに、彼は「今夜泊まる所がない」と言うではないか。まるで私と同じ様な境遇であった。気の良さそうな人でもあり、困っている時はお互い様と思い、「シングル ベッドだけど今夜、一緒に寝るか」と言ったら、「是非お願いします」と言う事で泊めて上げる事にした。彼は私の仕事が終る11時迄、店の奥で待っていた。
 仕事が終り、彼と共にアパートの下車駅近くのパブに立ち寄った。お金の余裕はないが、私と彼の為に、時には奢っても良いかな、と思った。イギリスに来て日本人とビール(大ジョッキ2つで2シリング5ペンス、約120円)を飲んだのは初めてであるし、彼と長く日本語を話したのも初めてであった。
シングル ベッドへ入ってからも、大金さんとの話は尽きなかった。本当に色々な事を話し、お互いに日本語で話をするのが飢えていた、と言う感じであった。彼は私と同じように6年間営団地下鉄に勤めて、2年間電気専門学校に通っていたとの事。それにしても本当に気が合って話し込み、寝たのは深夜の2時頃になってしまった。
 一夜が明け、彼は10時近くに出て行った。彼は自分で仕事を見付けるとの事、これも又、彼の道なのだ。私は「幸運を祈る」と言って見送った。大金さんとの一夜の出逢いであり、そして永遠の別れになった。

                         *その2へ続く

仕事と部屋探し~ミルスおじさんのお陰で部屋が見付かる

2021-09-22 08:28:32 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・昭和43年9月22日(日)曇り(ミルスおじさんのお陰で部屋が見付かる)
 恐怖の一夜が明けたが、何も起こらなかった。2人とも同時に起きた。彼は尿瓶を持ってトイレへ行き、その排尿を流した。昨夜の『チュル、チュル』と言う異様な音は、トイレが家の中にあるにも拘らず、彼はそこまで行かないで、私の頭の上で尿瓶の中に大きな音がしないよう、少しずつ『チュル、チュル』と用を足していた。その音が恐怖心を抱いていたとは、まったく滑稽であり、親切にしてくれた彼に疑いを抱いたとは、恥ずかしい限りであった。
 彼の話しによると、「夜中にトイレで用を足すと、排水音で隣人に迷惑を掛けるから、いつも枕元に尿瓶を置いて、用を足したくなったらそれを使っている」との事であった。イギリス人は隣近所に迷惑を掛けないよう、生活音には常に注意しているのであった。私は彼等の心遣いに感心したのでした。 
 彼はベーコン エッグの美味しい朝食をご馳走してくれた。彼の名前は、Mr. Albert Mills(アルベート ミルスさん)、奥さんはおらず(未婚で独身)1人で年金生活をしているとの事でした。如何して結婚をしなかったのか、尋ねようと思ったが、しなかった。それは大きなお世話であり、昨夜遅く出逢った私が、聞くべき事柄ではなかった。
 彼の部屋は12畳程の部屋に台所、トイレ兼浴室の間取りであった。朝食後、ティーを飲みながら「私は貸し部屋を捜しているのです。この附近で安い部屋を借りたいのですが、どうしたら良いのですか」と彼に聞いた。
「そうですか、分りました。それでは私が部屋を探して上げよう」と言ってくれた。本当に嬉しく、有難かった。昨夜、私は彼を枕探しの類と疑ったりして、本当に申し訳なく、心の中で謝った。
 ゆっくりティーを飲んだ後、彼はここからそんなに遠くない住宅街の中にあるレント ルーム一覧表掲示板に私を案内してくれた。彼は安そうな部屋を2・3ピック アップし、公衆電話ボックスから家主さんへ電話して、週3ポンドの貸し部屋を探してくれたのでした。 
「それではYoshi、これが週3ポンドの部屋の住所だ。詳しくは家主さんと話し合うように」と言ってミルスさんは、メモ書きした物を手渡してくれた。
「泊めて下さったり、食事を頂いたり、そして部屋を探して下さったり、本当に有り難う御座いました。御恩は生涯忘れません。落ち着いたら又、寄らせて頂きます。本当に有り難う御座いました」と何遍もお礼を言って別れた。
 ミルスおじさんがメモ書きした住所を頼りにその場所へ早速、契約しに行った。イタリア系の家主のおばさんが出て来て、部屋へ案内をしてくれた。その部屋は3階で、広さ12畳程であった。部屋に備えられている物は、バス、シングル ベッド、タンス、テーブル、椅子、小物入れ引き出し、暖炉(暖炉にはガスストーブが設置されていた)、ガスコンロ、鍋類、ナイフ、フォークまで揃っていた。因みにおばさんは背の高さは普通、太り気味タイプ、イタリア人丸出しで早口で話す人であった。
 日本では部屋を借りる時、生活するのに色々な所帯道具を揃えなければならないが、イギリスでは話をよく聞けば、部屋と共にそれらが付いてワンセットになっている、との事であった。テーブル、椅子やタンスは、貧弱な物ではなかった。寧ろ、しっかりした物であった。部屋に対する概念が日本と違うので、驚いたり感心したりした。                                            トイレは2階と3階の中間、そして、バスは別部屋にあるが、これを使用する場合、別途料金が掛かった。                                       
裸一貫で来たのであるが、その日から何も用意せずに生活が出来たので、本当に有り難かった。それに昨日尋ねて行ったアルチュウェイの貸し部屋の半分以下、ここの週3ポンドの部屋は、最高に有り難かった。それと、おばさんが週2回、掃除をしてくれるとの事であった。
 私がここを借りる事に決めたら、「部屋代は、前払いです」と言うので即払った。おばさんは、私の個人的な事(国籍、名前等)を何にも聞かないし、日本の様に『敷金だ、権利金だ』と言う事もなかった。前払いをしたので契約は、成立したのだ。次の週も部屋を借りたいなら、その前に払えば良いのであった。
 契約成立後、昨日部屋を借りる事に迷っていたアルチュウェイの家主さんの所へ行って、預かって貰ったトランクを取りに行った。それにしても昨日、直ぐに契約しなくて夜、向こうから契約を断り、そして真夜中の街でミルスさんに出逢った事が反って幸いした。
 アルチュウェイから戻り、私は疲れていたのでベッドで少し寝た。その後、軽い食事をしてからウィンピー ハウス レストランへ仕事に出掛けた。それにしても本当に、ミルスおじさんに出逢えて良かった。仕事も見付かったし、これで何とかロンドンでやって行ける目途が付いた。『良かった。本当に良かった』とつくづくそう思った。

仕事と部屋探し~寝る所がなく、深夜の街を彷徨う

2021-09-20 17:37:51 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
               △真夜中のロンドン郊外でミルスおじさんと出逢う(Painted by M.Yoshida)

・昭和43年9月21日(土)曇り(寝る所がなく、深夜の街を彷徨う)
 ユースを去り、トランクを提げてアルチュウェイの貸し部屋を訪ねた。家主が出て来て色々と説明してくれた。部屋代は週7ポンドであるが、週給幾らなのか分からず、迷って直ぐに決められなかった。3箇所の内一番安くても7ポンド、しかし良く考えたら高いと思った。レストランの仕事が5時から11時迄で週幾らくれるのか、分ってから決めても遅くないと思った。家主に考える猶予とトランクを預かってくれるようお願いし、その場を去った。{決断のなさが自分に振りかかり、深夜の1時になっても泊まる所がなく街を、そんな羽目になろうとは、この時は分らなかった・・・}
 5時から仕事なので近くの公園でよく考え、そして幾ら貰えるのか確認する必要があるとの結論に達した。その後、週幾ら貰えるのか聞く為に午後2時頃、ウィンピー ハウスへ行った。怖い顔をしたマネージャーは、「5時から11時まで働いて24シリング(1ポンド4シリング、約1,200円)」と言った。安い労働賃金であった。いつ休みなのか分らないが、丸々1週間働いても8ポンド8シリングではないか。週7ポンドの部屋代を払うと、残りは1ポンドと少々だけになってしまう。これではどう考えても生活して行けない。私はマネージャーに、「部屋と食事を提供してくれれば、お金はいりません」と言った。その方が私にとってベターであるのだが、マネージャーは「そんな条件は駄目だ」と言うのであった。私は「5時から11時まで働いて24シリングは安過ぎる。私はそれでは働きません」と言って店から出て来てしまった。
本当に迷うし、そして疲れた。今日の泊まる所を確保してないし、今後の予定の目途が全く立てられなかった。私は公園でよく考えてみる事にした。
 部屋代が7ポンド、週給(休みの日を入れないでの概算)で8ポンド8シリングであるから、残は1ポンド8シリングとなる。1日2食(3食取るほど計画は立たず)として、1食は夕食時間帯に働くので、何か食べさせてくれるであろうと推測して、1日1食の食事代で済む。倹約すれば何とか遣って行ける感じであった。又、折を見てもっと安い部屋へ引っ越せば良い事であった。英語学校へ行く希望は、最低でも半年~1年通わないと意味がない。それだけの期間延長をしてくれるのか。その延長条件として、雇用者の労働証明書と移民局の労働許可証が必要であるが、潜りの皿洗いの仕事に雇用主や政府が発行、発給してくれるか、疑問が残るのであった。 
いずれにしても、『乗船券から航空券併用の変更手続きの為の必要相当期間が1ヶ月間と推測した。そして1ヶ月間生活が出来て、手持金がなるべく減らなければ、それはそれで良い』との結論に達した。それに、『方々の職業斡旋所へ何回行っても職は見付からず、そして折角のホテルの仕事も不採用。自分で見付けた皿洗いの仕事が例え安賃金でも目途が立つなら』と本当に迷った末、決断した。
 私は店に仕事を頼みに行ったり、そして賃金が安いからと言って仕事を断ったりして、はっきりしない自分であった。そして再びお願いしに行くのは、厚かましいやら恥ずかしいやらで、自分自身おかしいと思ったが、仕方なかった。
 ウィンピー ハウスの店へ4時頃、三度行った。「今までの条件で良いから働かせて下さい」とマネージャーにお願いした。彼女は変な顔をしましたが、取り敢えず、「OK」と言ってくれた。
既に4時を過ぎていたので私は、そのまま仕事に就いた。店の奥で休憩兼食事時間として30分程休んだ以外、深夜11時まで働いた。仕事の内容は今日1日だけでないので、後に詳しく書く事にした。
 ウィンピー ハウス レストランを出たのは、11時10分過ぎであった。街の人並も途絶え、真夜中の様相になろうとしていた。
今夜の泊まる所は、あのアルチュウェイの貸し部屋であった。契約は保留になっていたので、泊まれるかどうか非常に不安であった。とにかく行って見なければ分らないので地下鉄に乗って行った。
 着いたのは、既に11時40分を過ぎていた。家主さんの所の呼び鈴を押したらまだ起きていて、直ぐ出て来てくれた。私は『良かった。助かった』と思った。そして「週7ポンドで構いませんから、今夜から泊まりたいのでお願いします」と言った。
「君が決めなかったので、他の方に使用して貰う事に決めました。既にその方は、部屋を使っています」と家主が言った。私は愕然とした。既に深夜の0時近くになるのに、今夜の泊まる所がなかった。
「私は今夜、泊まる所がありません。何処でも良いから1泊させて下さい」と縋る想いで何度もお願いした。
家主は「ベッドがない。申し訳ないが泊まらせる事は出来ない」の一点張りで返ってくる言葉は、私にとってこの上なく冷たかった。諦めるより仕方なく、「お願いですから、トランクを今夜だけ預かって下さい」と家主さんに頼み、そこから退去するより方法がなかった。
 とっくに午前0時を過ぎていた。途方に暮れ、泣き出したいくらいであった。どうすれば、本当にどうすれば良いのだ。心配、不安、心細さ、そして情けなさが混じり合った感情が漂って来た。
タクシーを使ってホテルを探せば容易であろうが、今の私にとって、その様なお金を出せる状況ではないので、タクシーやホテルを利用したくなかった。シーラの所へタクシーで行って泊めて貰う何てとんでもない、これも出来ない事であった。恥ずかしいし、惨めな格好を彼女に見せたくないし、真夜中にそんな事をしたら彼女にとって非常に迷惑な事なのだ。それに、既に遅すぎてユースやペンションに宿泊出来る様な時間帯ではなかった。
 それでは如何して一晩過せばよいのか、じっとしていると夜は冷えてくるのだ。試しに通りの軒下で寝てみた。石の冷たさ、硬さが直接身体に伝わり、寒くて寝ていられなかった。これでは病気になってしまう。
 私はアルチュウェイ通りをロンドン中央に向かって歩き、そして疲れたので軒下で休み、冷えて、又、歩いた。こうなったら一晩中、歩き続ける覚悟であった。
 既に時刻は、1時半から2時近くになっていた。通りには人は勿論、車も殆ど走っていなかった。ロンドン中央まで歩き続けるつもりであったが、道がここで二股に分かれていた。どちらの道を選べばよいのか思案していたら、向こうから帽子を被り、ステッキを持った初老の紳士が近づいて来た。私はその紳士に、「ロンドンの中央に行くには、どちらの道を選べば良いのですか」と尋ねた。
「こちらの道だが今頃、如何して、何しに行くのか」と紳士は聞いて来た。
「今夜、寝る所がなく困っているのです。そこまで歩いて行き、軒下か公園の芝生の上にでも寝ようと思っているのです」と私は答えた。
「ロンドンの中央まで行くのは、ここからまだ遠いです。ベッドは1つしかないけれども、良かったら私の家に来ませんか」と紳士は言った。その様に言ってくれた紳士が、神様に見えた。家の中で一夜過ごせれば、何処でも良かった。「有り難う御座います。是非、お願いします」と彼に感謝した。『地獄に仏』とは、この事かと思った。そして、『本当に良かった、助かった』と言う思いで一杯であった。
彼に従って付いて行った。彼の家は会った場所から5分とかからなかった。表通りから幾つかの小さな道を通り、5階建ての集合住宅の建物が幾つか建ち並ぶある棟の1階に彼の部屋があった。
 電気の下で彼を良く見ると、60歳後半の感じに見えた。彼は今夜、遅くまでパブで飲んでいて、偶然私と出会ったとの事でした。真夜中にも拘らず、わざわざコーヒーを入れてくれた。冷え切った私の身体にコーヒーの温かさ、それのみならず、彼の心の温かさも伝わって来る様な思いであった。
 既に2時半は過ぎていたであろう、寝る事にした。軒下のコンクリートや石の上で寝るよりは、よっぽど良いが、シングル ベッドに大人が2人寝るのは、確かにきつかった。そして彼が寝返りをする度にベッドが振動した。
 彼は本当に良い人で、親切であった。しかし人は皆が皆、信用できるとは限らない。彼を疑って悪いと思いながら、一抹の不安が湧いて来た。その不安が横になってから増幅した。
彼は私の懐中を狙う枕探し、若しくはその類ではないかと疑い、私は旅券(命の次に大事な物)、現金、トラベラーズ チェック、乗船券を腹巻の奥に仕舞い込み、盗られまいとそれらを抱えるように寝た。それでも不安は、消えなかった。彼の仲間が隠れていて、刃物でも持って出て来て、「金を出せ」と言って、私の首を刺しに来るのではないかと想像すると、横になっていても目が余計に冴えて眠れなかった。
 午前4時前(正確な時刻は不明)だと推測するが、真っ暗な部屋の中で『チュル、チュル』と言う異様な音が耳に入った。彼はベッドに居なかった。辺りを見回した。しかし真っ暗闇で直ぐには何も分らなかったが、私の頭の上にうっすらと人影らしき物が見えた。『チュル、チュル』と怪奇な音が闇の中を通して私の耳に響き渡った。先程からの不安が恐怖に変わった。殺されるのでは、驚愕が過ぎった。