YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

チェコ スロヴァキア人と「プラハの春」後を話し合う~ギリシアのヒッチの旅

2021-12-01 09:28:22 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
△アテネ市内に入ると、アクロポリスの丘とその丘の頂にある古代遺跡・パルテノン神殿が我々を迎えてくれた。           

       ギリシャのヒッチの旅(古代文明の栄光と現実)

・昭和43年11月28日(木)晴後曇り(国境から一気にアテネへ)  
*参考=ギリシャの1ドラクマは、約10円(10レプタは、1円)。 
 昨夜泊まった場所は、マケドニアの Gevgelija(ゲヴゲリヤ)と言う、国境の町の郊外であった。今日、このモーテルから国境を歩いて越えようと思い、出立した。
30分以上歩いていたら、ユーゴのカスタム オフィス(出入国管理事務所)の検問が設けられていた。そこを何の問題なく、通過した。その管理事務所を過ぎたら、上り坂になって来た。この辺りは、小高い山が幾つか連なっていた。道はトラックが通れる幅があったが、チョットしたハイキング コース(道は舗装されてなく、山道であった)の感じであった。
 ここまで来ると大分、温かくなっていた。あれから相当南下して来たし又、大陸性気候から地中海性気候に変わったのであろう。暖かな太陽が燦々と降り注ぐハイキング コースの国境中間地点を1人で歩く気分は、最高であった。『旅は良いなぁ』と心から感じた。
気分良く歩いていると、道の端に鉄砲の弾が落ちていた。如何してこんな所に弾が落ちているのだろうか、不思議であった。ユーゴ~ギリシャ間の国境を歩いて越えた記念に拾い上げ、大事にしまい込んだ。
 向こうからギリシャの民族衣装を着て、鉄砲を担いだ国境警備兵1名がやって来た。彼に尋ねると、「ギリシャのカスタム・オフィスは、まだ1キロ先」との事であった。
 又歩き出すと、土埃を上げて1台の乗用車がやって来た。ヒッチ合図をすると車は停まり、中に中年男性2人が乗っていた。同乗をお願いすると、快諾してくれたので私は後部座席に乗り込んだ。そして彼等と共にギリシャの出入国管理事務所を通常の手続きで通る事が出来た。
 ドライバーは、チェコ スロヴァキア人、助手席に座っているもう1人の男性は、ユーゴ人(クロアチア人)であった。2人はチェス(西洋将棋)の国際大会に参加する為、Athens(アテネ)へ行くので、『シメタ、これで一気にアテネへ行かれるぞ』私は内心大喜びした。
 彼等は最初の町で両替の為、ある銀行に立ち寄った。私もついでにトラベラーズチェック20ドル分を現金化(720ドラクマ)した。日本を発って、何回両替した事か。国境を通過する度に通貨単位(一番分かり辛かった国はイギリスであった。)が変わるので、換算方はいつも最初おかしかった。
 お金を交換して後、我々は一路アテネへ。途中、彼等に昼食やお茶をご馳走になってしまった。いつも昼抜きなので助かった。お金を出されるのは抵抗を感じるが、奢ってくれるのは、大歓迎であった。
 彼等は、今年の夏にソ連軍がプラハに軍事侵攻した件について、今のソ連のやり方に相当不満を持っていて、文句を言っていた。この軍事侵攻によってチェコ・スロヴァキアの民主化運動は、完全に潰されたのだ。
私が感じた事であるが、ソ連を始め、チェコでもユーゴでもかなり民主化・自由化の思想が国民(特に若者の間で)に共感を得ているようであった。共産思想に基づく社会主義社会が今以上に発展するのか、それは疑問であった。それは今回の旅を通して、多くの国の人々の様子を見て、私はそう思った。貧しい現状であっても、自由と民主的ならば人々の顔は、もう少し晴れやかなのだ。
実際にソ連人よりは、ユーゴ人の方が晴れやかさ、活き活きさがあった。それは寧ろ、ユーゴの方が自由化されていたから、と思うからであった。その国の人々を戦車や銃で抑え付けても、抑え続けられるものでない事は、歴史が既に証明しているではないか。
当然、この2人の様なインテリー、又はハイ クラス(この2人は、生産労働者ではなく、この様な高級な車に乗って国際チェス大会に参加し、しかも英語が話せる人であるので、その様に感じた。)の部類に属している人は、余計に今回の事を面白くないと感じたのであろう。 
私は彼等からこの件について意見を求められ、「I agree with your opinion. And I think Soviet troops should withdraw from Prague and all Czecho-Slovakia over.(貴方の意見・考え方と同じです。そして全てのソ連軍部隊はプラハ、そしてチェコ・スロヴァキア中から撤退すべきだと私は思います。)」と言ったら彼等は、満足な顔して私に握手を求めて来た。
 ギリシャのドライブは、快適であった。しかしギリシャの家々や人々の様子を車の中から垣間見て、経済が立ち遅れているのか、私が想像していた以上、ギリシャは貧しそうに見えた。実際、ユーゴ人(クロアチア人)の紳士も、「マケドニアやギリシャは貧しい。クロアチアやチェコ・スロヴァキアの方が余程良い」と言っていた。でも彼の発言に私は違和感があった。と言うのは、マケドニアもクロアチアもユーゴではないのか。自分の国の事をまるで他国の事の様に言っていた。人種・宗教や共和国等が違うと連邦共和国としての1つの国家として、その国民として成り得るのは難しいのであろうか。宗教も言語も同じ単位民族である日本人には、想像出来ない難しい国民意識の相違が存在していたのだ。私はそれをほんのチョット垣間見たのであった。だからと言って、クロアチアもチェコ・スロヴァキアも社会主義経済を取っている国であるが、その思想を彼等は肯定も否定もした訳ではなく、ただ比較しただけであった。
 アテネへ行く途中、左折Thessaloniki(テッサロニキ)への道路標識があった。Istanbul(イスタンブール)やTeheran(テヘラン)へ行くには、当然降りなければならない重要な交通の要所であった。一瞬迷ったが、取り敢えず予定通りアテネへ行く事にした。
 午後4時30分(アテネ時間5時30分、ロンドン標準時刻より1時間繰り下がった。)頃にアテネ市内に入ると、アクロポリスの丘とその丘の頂にある古代遺跡・パルテノン神殿が我々を迎えてくれた。
国境で運良く彼等にピック アップして貰い、500キロ程を一気にアテネまで来られた。私の予想では、『国境から2~3日目にアテネに入れれば』と思っていたので、大いに助かった。アテネ中央付近で降ろして貰い、何度も礼を言って彼等と別れた。
 ユースへ行くのに、『NO2のバスが便利である』と聞いていたが、NO2のバスを見付けるのに、街の中をウロウロしなければならなかった。やっと見付けバスに乗った。私はギリシャ語が分らないが、アテネ市民はバスに乗っている間、或は道が分らない時など近寄って来て、親切に教えてくれた。ギリシャは好きになれそうな国の印象を得た。
 所で、私の頭の中では、『ロンドン~アテネ間ヒッチで1ヶ月間』と思っていたが、10日以上早く、19日目でアテネに着いた。どんよりとした厚い雲に覆われたロンドン、1人陰気臭い部屋に閉じこもり、あれこれ今後の旅について考え、心配している内に不安が募った。そして最後は、居てもたっても居られない状況になってしまった。しかし行動に移してからの方が、余程気が楽であったし、『やれば何とかなるもの』と言う事が分かる様な気がした。
このロンドン~アテネ間ヒッチの旅は、楽しい時もあれば、苦しい辛い時もあった。でも辛い時も楽しい様な気がした。又その事が返って良い思い出になると思った。シンガポールまで、まだまだ旅は続くのに、何だかもう随分長い間、旅をしている気がしてならなかった。
 夜、ユースで知り会った長倉さん(長倉恭一さん、以後敬称省略。埼玉県志木市出身。後に文人・永倉万治、平成12年に死去)とコニャックを飲みに行った。無事にアテネに到着したのだし、無性にお酒が飲みたい気分だったので、自分に奢ってしまった。