YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問(その1)~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-23 14:20:02 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和43年12月24日(火)晴れ(キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問)
 今日はクリスマス イヴであった。所がイスラエルはキリスト誕生の地・聖地にも拘らず、休みどころか普通と変わりなく、我々はジャガイモ収穫作業をしなければならなかった。ガッカリしたのは私だけでなく、他の仲間達も同じであった。
 お昼に食堂へ行くと、「夕方、Bethlehem(ベツレヘム)へ連れて行って貰えるから、午後の農作業は早めに終り」の情報が届いた。皆大いに喜びで、午後の農作業に従事した。
 作業は3時前に終った。シャワーを浴びた後、他の仲間と共に食堂前に集合した。キブツから1人6ポンドのお小遣い(原則キブツは無賃金で、この様な事は最初で最後)、そしてイスラエル軍及びベツレヘム陸軍総督のクリスマス セレモニーの招待状が手渡された。管理者から「招待状は、身分・安全を保証される物であるから、決して紛失しないように。」との注意があった。
 私は仲間のピーター、フランク、ジョン、ロス、フレッド、エンディ等と共にキブツのマイクロ車に乗り込んだ。私は聖地・ベツレヘムでのクリスマス イヴ、そしてベツレヘムとはどんな所なのか、大いにワクワク感があった。キブツで働くイスラエル人は、ユダヤ教徒なので運転手以外、誰も同行しなかった。
 ベツレヘムは、イエス キリストの降誕の地、エルサレムから15キロ程南下したヨルダン川西岸地域にあり、昨年の六日戦争で占領した古くから存在する町であった。我々の車は、一端北上してエルサレムへ行き、エルサレムで他のキブツ滞在者の人達と共にバスに乗り換え、南下した。
 エルサレムへの途中は、快適なドライブであったが、エルサレムからベツレヘムへは、警察や軍の厳しい警戒に度肝を抜かれた。ベツレヘム郊外で軍の検問所でバスは停車した。すると自動小銃の銃口を我々に向けて、複数の兵士がバスに乗り込んで来た。兵士達は我々の手荷物検査や車内点検をする一方、他の兵士達がバスの車体下まで点検していた。今まで経験した事もない、見た事もない厳しい警戒態勢に私はビックリした。この厳しい検査、点検は、ベツレヘムの町へ入る手前で、もう一度行なわれた。
 我々は、町に入って直ぐバスを降り、町の中心地へ歩いて行った。既に薄暗くなっていたが、街角(交差点)と言う街角全て、装甲車や土嚢を積んで陣地を作り、機関銃を構えていつでも撃てる体制をして、多くの兵士が睨みを効かせて警戒していた。警備・警戒状態は、そればかりではなかった。あちらこちらの建物の屋上から、機関銃の銃口が通りの群集に向けて構えられていた。まるで戦争中であるかの様に感じられた。無理もない、ここは6日戦争で占領したヨルダン川西岸の町、安全・安心できる地域でないと言う事、イスラエルはまだ臨戦態勢中であった。そんな状況であったが、周りの建物は古風的に溢れ、中世のアラブ世界そのものを感じた。石造りの古い教会(降誕教会)やイエス誕生の建物前は広場になっていて、そこを中心にその周辺地域は、老若男女の訪問者や欧米の若者達で賑わっていた。ただし外国人一般観光旅行者は見られなかった。
 我々はその教会を参拝した後、キリストが誕生したと言われる建物に入った。建物内部を入って行くと、裸電球が点いた薄暗い洞窟になっていて、我々は頭を岩にぶつけない様に腰を屈めて進んだ。さらに進みその奥に『馬小屋らしき跡』があり、そこがイエス キリストが生まれた場所とされていた。そこはかび臭さと古い歴史感が漂う、何の飾り気も無い、ただの『馬小屋の跡』(「キリストは馬小屋で生まれた」と言われているので、私も馬小屋の様に見えた。)であった。
 しかし実際は馬小屋で生まれたのではなかった。ここにキリスト生誕について、ほんの一部を記して置く事にした。
[BC4年、ナザレからヨセフとマリアは住民登録の為、ベツレヘムに来ていた。泊まる宿が無かった彼等は、ナザレで自分達が住んでいるのと同じ様な洞窟を見付けて仮の宿とした。冬だから追い込まれた羊や山羊が回りに蠢(うごめ)いていたことであろう。仮の宿とする事が出来たのは、その家畜の群れの主人である羊飼いの温情のお陰だったかも知れない。
 その夜、おさな児(キリスト)は、ユダの山里なる洞窟で産声をあげた。おりしも冬であったから洞窟の外では、尾根越しに冷たい風が唸りをあげていた。母は布に包んで寒さ凌ぐ為に『飼い葉桶』に寝かせた。
 飼い葉桶からの連想が『馬小屋』を生み、実際に馬小屋を作り、生きた牛や馬を使って降誕祭(クリスマス)を祝い始めたのは誰であろう、アッシジのフランシスコ(1181~1226年)であった。これがルネサンス絵画を通して世界中に広まり、私達の脳裏に焼きついたのだ。
 イスラエルのユダ、サマリア、イドマヤの山々に木らしい木は無く、石灰岩質の地盤だから洞窟が多い。そういった洞窟が住居ともなり、仮の宿とも、冬場の雨風を避ける家畜小屋代わりともなっていた。現在も羊飼い達が、羊や山羊を天然の洞窟に追い込み、共棲している光景によく出会う。・・・・][ ]内は、著者・河谷龍彦の「イエスキリスト」(河出書房新社)より。
 実際にイスラエルの自然環境は、10キロ、20キロたらずで変化する。ベツレヘムは、ハッゼリムキブツから60キロ程北(地中海から50キロ内陸部)、標高600~700mの山岳地帯である。昼間の農作業中は温かい陽気であっても、夜は寒い。ましてここベツレヘムは特に寒く、私は我慢が出来ないので、夜中にキブツに帰らざるを得なかったほどであった。
 そんな事で冬暖かく夏涼しい洞窟は、羊飼い、羊、そして一時的な宿としての旅人にとっても最適な空間と言えた。馬と言えば、馬は多量の草や水を必要とするので、砂漠地域では適さないのだ。砂漠の地域に馬はいないのだ。これは2,000年前も変わらないと思う。それに洞窟内の天井が低いので、馬が背を屈めて出入りしたのか。我々は背を丸め、腰を屈めて洞窟内を歩いた。羊用の飼い葉桶からいつの間にか馬の飼い葉桶、そして洞窟から馬小屋になってしまった。いずれにしてもクリスマス イヴにキリストの聖地・ベツレヘムに、又その誕生の場所にも来られた事は、イスラエルに来た甲斐があった。
*その2へ続く(明日掲載します)