YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

おばちゃん達と子供達を引き連れて万屋へ~ユーゴスラビアのヒッチの旅

2021-11-30 06:24:32 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
△荒涼とした大地の旅は人恋しい心境になる(この絵を二度使用)ーPainted by M.Yoshida

・昭和43年11月27日(水)晴(「おばさんの家に泊めて」と懇願)
 ここは、Leskovac(レスコヴァツ)と言う地方都市の郊外であった。昨夜、遠く右方向の高い位置に幾つも灯が見えたのは、この町の夜景であった。このレストラン兼キャンプ場は、その町から坂を下りて来て丁字路の右脇に位置する所にあった。
 軽く食事を取り、ゆっくりコーヒーを飲んでからレストランを後にした。30分間ヒッチした後、トラックをゲットした。割かし直ぐに乗せて貰う事が出来た。200キロぐらい乗せて貰い、Titov Veles(ティトフ ヴェレス)辺りで降ろされた。
 私は既にマケドニア共和国に入った。ここ(ティトフ ヴェレス)は、首都・スコピエからかなりの離れており、南下したした所であった。そしてスコピエはこの街道から大分離れているので、通って来なかった。ここからギリシャの国境へは、後150キロ程の所まで来たのでした。
 セルビアの南部、そしてマケドニアに入ってから村々(町を通らないので、その様子は不明。たいして変わらないと思う)、そして人々の様子は一段と貧しそうであった。家々の作りは貧弱で、しかも大人も子供達も着ている物は、余りにもお粗末であった。履物も履き疲れた様な物で、中には履物も買えないのか、裸足でいる多くの子供達を見受けた。大分南下したので寒さも少し和らいで来た感じであるが、それでも朝夕、素足の子供達にとっては冷たいであろう。
チート大統領の高い理想の下に推し進められている社会主義政策も、共和国、或は地域によってこれほどまでに現実的にギャップ(格差)があるのか、私は悲しい思いがした。
 ティトフ ヴェレスから2台目の車に50~60キロ程、乗せて貰った。降ろされた場所、その周りの景色は原野であった。時折強い風が吹き、草木をザワザワと騒がせた。淋風が私の心の中を通り過ぎて行った。人恋しさが一段とするのでした。
 1時間経ち、2時間過ぎても車は来なかった。ユーゴ人自慢のハイ ウェイに、全く交通量が無かった。この国の第一級の主要道路がこの様な状態であるなる、他の国道、特に地方道路は泥んこ道で全く車が通らないのも頷けた。人の移動や物流の無さが、南部セルビア、特にマケドニアの人々・子供達の服装や履物までも影響している、と感じた。
 私は街道端にじっとして、やって来る自動車を待つ事に我慢出来なかったので、『小樽の人よ』の歌を歌いながら街道を歩き始めた。そんなに重たい訳でもないのに、いやにリックが肩に喰い込み、カバンの重さが堪えた。何処まで歩けば村や町に辿り着くか、宛てなど無かった。ただ、歩き続けるだけで気が紛れた。
いつしか日が沈み、寂しさが更に一段と募って来た。今日も昼抜きの旅であった。疲れた。早く、何処でも良いから休みたかった。如何してこんなに辛い、そして寂しい旅をしなければならないのか、この旅にどんな意義があるのか等、自問・自答しながら歩いた。シンガポールまでの道程は、果てしなく遠かった。しかしもう少しでギリシャに入るのだ。そこには古代から栄えた、そして私の第1の目的地であるAthens(アテネ)があるのだ。もう少しだ、頑張らなければならなかった。
 車は、相変わらず通らなかった。私は歩き、そして又、歩き続けた。暗くなりかけた頃、終に附近に何軒かの家々が点在している村に辿り着いた。食料品店(?)の前で7~8人のおばさん達がお喋り(井戸端会議?)をしていて、そして15人程の子供達も何かして遊んでいた。おばさんや子供達は、薄汚れたボロボロの服を着て、子供達は履物も履いてなかった。余りにも貧しそうで、まさしく物資の無さ、購買力の無さを見た。
 いずれにしても、おばさん達や子供達が集まっている所へ私が突然現れたので、皆ビックリした様子であった。そしておばさんや子供達が私の周りに集まって来て、私の一挙手一投足の様子を物珍しそうに見ていた。私は見世物小屋のサルになってしまった感じであった。
日本人(東洋人)が珍しいのか、リックを背負った貧乏旅行者が珍しいのか、おばさんや子供達の目は、好奇心で満ちていた。腹が減っていたのでパンを買おうと店の中へ入って行った。皆もゾロゾロ付いて来て、店の中は一機に満員状態になってしまった。食料品店と言っても、日本の昭和20年代~30年代初め頃に於ける田舎の万屋(雑貨屋)の様な感じで、店内は薄暗く良く見えないし、雑然として何も無かった。もちろんパン類も売れ切れたのか、見当たらなかったし、口に入れる様な物も無かった。
 私はおばさんや子供達を引き連れて店から出た。夕方の5時過ぎ、既に暗くなって来た。寝る所が心配になって来た。私の周りに集まっている1人のおばさんに、ジェスチャ交じりで「この辺りに宿泊所、寝る所、ホテルがありませんか。もしなければ、おばさんの家に泊めて下さい」と尋ねた。他のおばさんにも、「私は疲れた。眠りたいのです。お金は持っています。おばさんの家に泊めて!!」とジェスチャと英語で必死の思いで訴えたが、通じなかった。
「私は、宿泊所を捜しているのだ。ここに無ければ、寝る場所をどなたか提供して下さい。お金を持っているから」と私は更に皆に訴えた。おばさん達は、私が何を言っているのか、キョトンとただ面食らっている様子であった。
すると、「あそこで聞いてみろ」と言わんばかりに、子供達が私を誘導するように万屋の隣にあるうす汚い貧弱な食堂(?)へ案内された。店に誰か1人いた。店主に聞く(実際はお互いに言葉が通じなかった)と、宿泊はしていない感じであった。
更に粘って村民のおばさん達に、ホテル、宿泊施設を捜している事を訴え続けた。すると男の人が現れ、「1キロ先にキャンプ場がある(?)」と言うのであった。しかしスラブ語だか、セルビア語か分らない言葉で言われたので、定か(確か)でなかった。しかし既におばさん達に訴えても埒があかないので、歩いて行って見る事にした。
 交通量が無い、真っ暗な街道を歩いていると間もなく、こちらに車が向かって来た。必死な思いでヒッチ合図をしたら、幸運にも止まってくれた。あれ程車が来なかったのに、歩き出して直ぐに車が来て止まってくれたのは、あの村人が私の事を他の人に話して、助けに来てくれたのかも知れない、と最初はそう思った。暗がりではっきり分らなかったが、私より少し年上の感じがする男性2人が乗っていた。聞くと、「我々はGevgelija(国境の町)へ行きます。モーテルがあり、貴方はそこに泊まる事が出来る」と英語で言うので乗せて貰う事にした。彼等は少し英語が話せた。それにしても、何と幸運な事か。昨夜にしろ、今晩にしろ、斯かる状態(土壇場)になっても物事は何とかなるものだ。私にはまだ運が付いていると思った。
 乗用車でない小型トラックに、私が真ん中に乗るよう誘導された。右側にドライバー、私が真ん中、左側にもう1人の男と言う配列になった。真中に座ってから、『失敗した』と思った。辺りは真っ暗、交通量も全く無かった。『両方から襲われ、金品を巻き上げられるのでは』と猜疑心に襲われたのだ。
 ヒッチを始めて夜、男性2人の同乗車に乗ったのは、初めてであった。そしてこんな席順で乗ったのも初めてであった。ドライバー1人の場合、運転中に襲う事は出来ないし、停車してから襲って来た場合、片方のドアから充分逃げられる可能性もあるし、銃器を持っていなければ抵抗も出来る。しかし、挟まれていたら停車しても逃げられないし、抵抗しても、もう一方から攻撃が来る。そんな状態を考えたので、『真ん中に座ったのはマズカッタ』と思った。
 実際、私は貧乏な旅人、現金は大して持っていなかったし、後はキャノン カメラ(2万円で昭和38年暮れに買った物)と腕時計だけだ。「出せ」と言えば、出せば良いのだ。トラベラーズチェックやM&Mの乗船引き替え券は、彼等にとって価値が無いのだ。下手に抵抗して殺され、その辺の山中に投棄されたらそれまでだ。決して死体は見付からない。1人のバカな日本人がユーゴにて消息不明になるだけである。割り切ったら、恐怖や不安は無くなった。
 本当は、彼らの親切心から私を乗せてくれたのだ。『強盗の類』と思われたら侵害であろう。2人は、私と話がしたいので、真ん中に乗るように誘導したと分った。それは乗って暫らく経って、彼等の言動は友好的であったからでした。
 途中、この車は昨夜と同じにエンコしてしまった。しかし、今度は直ぐに再出発が出来た。昨夜の事を思うと、本当に参った。この車で80~90キロ位乗せて貰った。彼等は、道路際にあるモーテルまで私を連れて来てくれた。『強盗の類か、と疑ったりしてごめんなさい』と心の中で謝った。でも一時、恐怖を感じたのも確かであった。
 部屋代は、25ディナール(約630円)で、ユーゴのお金を全て使い果たして宿泊した。ザグレブで泊まったペンションの2倍以上、高いが仕方なかった。
この頃の私はその料金・価格が適正なのか、否かについて考えず、ユーゴ人や西洋人に言われた通りに支払っていた。如何してかと言うと、西洋人(イタリア人以外)は料金・値段を吹っ掛けない、と信じていたからでした。

昼食抜きの理由の話~ユーゴスラビアのヒッチの旅

2021-11-29 15:52:43 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昼食抜きの理由の話
 前にも書いた様な気がするが再度、何故昼食を食べずに旅をしているのか、その理由を話したいと思います。
 ヒッチ ハイクは、基本的に食べたくても食べられないのだ。誰かに乗せて貰っている間は、お昼だからと言って、レストランや食料品店へ寄って貰う訳にいかなかった。又、降ろされた場所に食料品店や食堂、レストランがあれば良いのだが、無かった。私はヒッチ中、街の中以外に食料品店、食堂・レストラン、ドライブインを見掛けなかった。
 特にユーゴのこの街道は、町から離れているので、それらしき店が無いのも当然であった。それでは前の日に用意しておけば良いのであるが、泊まったユース等の近くに食料品店があれば良いのだが、大体に於いて無かった。それに前の日に準備しておくのも億劫であったし、第一金が掛かる。食べられなければ食べない、それで我慢をする事が出来た。
 最近(ロンドンを去ってから)、昼抜きは習慣になっていた。だからと言って、朝夕の食事をしっかり取っていると言う訳ではなかった。栄養不足、或は抵抗力の低下から、『病気にならなければ良いが』と願うだけであった。
 
*因みに出国時の体重は64キロあったが、帰国時は57キロになっていた。

ヤンキー スピリットの話~ユーゴスラビアのヒッチの旅

2021-11-29 07:24:45 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・ヤンキー スピリットの話
 今朝(1968.11.26)、共にユースを出たアメリカ人は、インドやパキスタンをヒッチした、大ベテランの旅人であった。その彼は5年間、世界中旅をしているとの事であった。
 それにしても男女問わずアメリカ人は、何処へ行っても気後れせず旅をしているので、いつも感心するのであった。アメリカ人根性(ヤンキー スピリット)は、あの西部劇に見られる開拓魂から来ているのであろうか。日本人に無いポジィテブな面がある、と思われる。
アメリカ人は何処へ行っても母国語の英語が使えるし、外国人と接しても〝気後れしない態度〟(異人との接触・交流に慣れている民族)、経済的にも我々よりずっと恵まれているので行動の範囲が広く、そして、『我々が世界をリードしている』と言う自負を持ち、あの体格で闊歩していた。
アメリカ人の精神、言語、社交性、経済、自負、体付き等は、日本人と比べて優位な点が多くある。彼等の行動力があるのは、その様な理由で納得するが、私にとっては羨ましい限りであった。

旅の心情~ユーゴスラビアのヒッチの旅

2021-11-28 08:47:00 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
△寒風が吹く荒涼とした原野をギリシャに向けて歩を進める私- Painted by M.Yoshida

・昭和43年11月26日(火)晴後曇(寒風吹く中のパンク事故)
 ヘンリーは「もう一泊する」と言う。私は5年間も世界中を旅しているアメリカの旅人(昨夜遅く、ユースに到着した)と共にユースを去り、ベオグラード郊外の街道に出た。彼は私と反対のイタリア方面へ向かって行った。地理や方向感覚が分からず、それに言葉の障害でユースへ辿り着くにも、郊外へ出るのもいつも苦労をするが、それでいて何とはなしにユースに着くし、又自分の行きたい方向への道路に着くから不思議であった。
 この道路は、2車線で整備され、絶対的に交通量が少ないが、平面交差が多い所為か、今日100キロと行かない内に2度、交通事故の惨劇を見てしまった。いずれにしても、『私が乗っている車だけは、事故を起こさないよう、事故に遇わないよう』と祈るだけであった。
2台目の車から降りる際、リックから○〇○が車の中にこぼれてしまった。ドライバーにえらい物を見られた様で慌てて拾い上げた。私はユーゴにこんな品質の良い物は無いだろうと思い、乗せてくれたお礼に3個プレゼントした。
 所で大都市以外、いつも降ろされる場所は、何も無い原野か畑の真ん中であった。だから、時に2・3軒の農家がある所に降ろされただけで、『そこに人が住んでいる』と思うだけで、何か癒された。 
そして今、車から降りると原野に寒風が吹いていた。今日も昼食抜きだから、余計に寒さを感じた。特に、手の冷たさが一段と堪えた。こんな事ならロンドンに居た時、或は割かし物価の安いイタリアで手袋を買って置けば良かったと、何回も後悔した。しかし、イタリアに入ったらポカポカな陽気であったので、スッカリ忘れていたのか、買う意思は全く無かった。そしてベオグラード滞在中は、衣類関係が割かし高めで、これから南下するので我慢出来るであろうと思った。そんな事で、ロンドンを去る日から手袋が欲しかったが、今だに持って無かった。
 道路端にじっと立っていると寒いので、トボトボ歩きながら、そして寂しさを紛わらす為、「会いたい♪気持がまま♪ならぬ♪♪、北国の街は♪冷たく♪遠い♪♪』と『小樽の人よ』を歌いながら、ヒッチした。
車は通らない、来ても素通りしてしまい、何時間も車をゲット出来なかった。1時間、2時間歩いても、周りの様子は何ら変化しなかった。ただ寒いので片方の手をジーパンのポケットに入れて、もう一方の手で手提げバッグを持ち、それを交互に手を暖めながら、リックを背負って、ただ歩いた。 
 それにしてもユーゴのヒッチの旅は、寒い上に如何して寂しいのか。如何してこんな苦労をしなければならないのか、自分で嫌に成る程であった。出来れば今直ぐ、このまま飛んで行って、日本へ帰りたい気持が湧いた。お風呂にゆっくり入った後、コタツに入りテレビを見ながら熱燗で一杯やれたら、どんなに嬉しいであろうか。凄く平凡な事が大切であり、そんな平凡な暮らしが出来る事が、とても幸せである様な気がして成らなかった。
しかし、ただ帰っても自分で納得した旅でなければ、意味が無いし、悔いも残る。今帰っても、私自身が充分に旅をした、と言う実感がまだ無い様な気がした。だから、『今はもっと旅を続けなければ』と言う、その一途であった。
 それでも3台目、4台目と乗り継いで来て、Nis(ニーシュ)を過ぎた辺りまで遣って来た。5時を過ぎて辺りは、夕闇が迫っていた。そして今夜の寝る場所は、まだ決まっていないので、いつもの事ながら不安が漂った。
遠くに2つ3つ家の灯が見えた。温かい家庭がそこにあり、平和に暮らしているユーゴの国民がいる気がしてならなかった。私みたいな流れ者(最近、私自身そんな気持にもなって来た感じであった。)にとっては、暗くなると家庭の灯りを見ただけで、そこに幸せそうに暮らしている人が羨ましかった。私も今日の旅を終りにして、そこの家庭に泊めて貰いたい、そんな誘惑に駆られる気持になった。原野の寒風の中、今夜の泊まる所も定まらず、6時を過ぎても暗闇の中を、寒さ凌ぎに街道を歩き続けた。
 そんな時、遥か向こうから来る車のヘッド ライトが見えた。必死の思いで、しかも願いを込めてヒッチ合図をした。大型トラックが減速し、50m程行過ぎて止まってくれた。助かった思いで、本当に有り難かった。 
15分か20分位同乗していたら、突然車が止まってしまった。ドライバーが降り、暫らく経っても運転席に戻って来なかった。如何したのか疑問に思い、私もトラックから降りて行った。見ると、トラックの左後輪2つの内1つがパンクしたらしく、彼は寒風の中、タイヤの点検中であった。
私は乗っていて、パンクに全く気が付かなかったが、彼は気が付いたのだ。タイヤ交換作業の為、私も大きいタイヤを保持する手助けをしたが、腹が減って力が出ないありさまであった。おまけに言葉が通じ合わず、運転免許を持っていない私は、当然タイヤ交換をした事が無かったので、彼の手助けが全く出来なかった。せめて私の出来る事と言ったら、彼と同じ寒風の中、彼の傍でじっと作業をしているのを見守るか、懐中電灯を彼の手元に照らすだけであった。それにしても、寒風の中での交換作業は、長かった。私は寒くて仕方なかった。彼も苛立ち始めて来たのが分った。1時間経っても直らなかった。
タイヤが直るのか、如何なのか。8時が過ぎてこれから今夜の泊まる場所が確保出来るのか、私も不安と苛立ちが募った。そして、寒風の中での立ち尽くし、寒さの為に手や足の感覚が無くなりつつあった。『たった20分程乗っただけで、こんな思いをするのなら、乗らなければ良かった』と後悔の念も沸いて来た。
それから間もなく、やっとタイヤ交換が終了した。トータル的に交換作業は、1時間半以上費やしてしまったようだ。でも再出発出来て、本当に良かった。灯り1つ見えない真っ暗な原野に放り出されたら、凍え死んでしまうのではないか、と思う様な状態であった。
 再出発して後、運転中にも拘わらず、45歳位のおじさんに「安いホテルに連れて行って下さい。ホテルがないのなら、おじさんの所に泊めて下さい」と英語とジェスチャで、懸命に彼にお願いした。しかし彼は私の言った事、願っている事が分ったのか、如何なのか、私には分らなかった。
トラックに1時間余り乗っていると、やがて遠く右手前方高台の家々の灯が見える所に来た。何処かの町であった。周りが闇夜であるから一軒一軒の灯が明るく感じられた。
彼はその町へ行くらしく、本道から右折する交差点箇所手前で車を止めた。そして彼は、「この角を曲がるので、ここで降りろ」と手真似した。
私はこんな所で降ろされたら大変だと思い、寝る真似をして、「ホテルへ連れて行くか、貴方の家に泊まらせて下さい。」と必死に訴えた。すると彼は、前方を指差した。レストランらしき店が確かに見えた。彼のジェスチャから判断して、そこで宿泊出来るらしい事が分った。
彼に心から感謝を述べ、大型トラックから降りようとしたら、彼はお金(2・3枚の札、札の種類は分らなかった)を出して、私に「あげる」と言うのであった。『車に乗せて貰い、しかもお金まで貰っては申し訳ない(ハシタナイ)』と思い、気持だけを受け取った。私は彼にお礼を何遍も言ってトラックを降りた。
 私は貧乏な旅人、本当は1ディナール(25円)でも10パラ(2円50銭)でも喉から手が出るほど欲しかった。実際に寒風の中、タイヤ交換で懐中電灯を照らすのを手伝い、又、交換中1時間30分も寒い中、彼の傍に居たのだ。彼は作業を手伝った私に対する感謝の気持で、お金を出したのかもしれないのだ。しかし、だからと言って安易に受け取る事は、私の気持として出来なかった。
  シーラの実家のウェールズを去る時、1ポンド紙幣1枚であったが、気持からシーラのお母さん(マミ)は、餞別として私に差し上げたかったに違い。私も本当は欲しかったが、あの時も有り難くお断りした。マミは家事の合間に、午前・午後とも近くのストアで働き、又夜はクラブで給仕として働いていた。シーラの家は、決して豊かでなかった。家計の為に一生懸命働いているマミから1ポンドであっても、私はいただく気持になれなかった。
 『お金を余り持って無い、或は無くなったから』と言って、私の方から人に恵を請うたり、或は人のお金や物を盗んだりしてまで、旅をしたいと思わなかった。『もしそんな事をしたら、私の旅そのものの意義、想いが失われる』と自身思っていた。
私は、『旅は苦労して、自分で道を切り開いて行く事。そのプロセスの中で多くの体験や経験して行く事が大切である』と思っていた。この事は、日本を出発前の私の旅に対する、基本的な考え方であった。
 私は今現在、イギリスのロンドンを発って、アテネに向かって欧州大陸を旅している。毎日、色々な面で苦労しながら旅をしている。辛いし、寂しいし、空腹で情けないし、そして寒さも加わり大変なのだ。しかし、だからと言って本当にこの旅が嫌になってしまった、と言う訳ではなかった。この様な旅をして見たいと思っていたし、考えてもいた。従って、『辛い、淋しい、大変』と言う類(たぐい)の言葉・表現が日記の中に随所書いたが、ある反面、私はそんな旅を楽しんでいるのであった。
 話は脇にそれたが、私はトラックから降り、ドライバーに教えて貰ったレストラン(ユーゴのこの街道沿いに店があるのが、珍しかった。大きな町が直ぐ近くにある証拠だと思った。)へ行った。9時を大分過ぎていたが、中に入ると2・3人の客が居た。店の主人が出て来て尋ねると、「宿泊も出来る」との事であった。私は内心ホットした。店内にストーブが赤々と燃えていて、私の冷え切った身体を温めてくれた。
主人が英語を話せるのも有り難かった。泊まる場所は、店の裏側に幾つかのバンガローがあって、その1つに案内された。そこにリックを置いて、再び店に戻り、遅い夕食を取った。今日は辛い、そして寒い旅であった。腹も非常に減っていたので、暖を取りながら美味しく食事が取れた。
 主人はコイン収集しているので、私に自分が集めたコインを自慢げに見せた。その中には、外国のコインも含まれていた。
 彼は、「日本のコインを持っていたら交換して欲しい」と言うので、100円貨幣とユーゴの10ディナール(約250円)と交換した。因みに100円貨幣は、東京オリンピック記念硬貨であった。主人のサービスが良かったので、勿体ないがほんの気持であった。私は、『何かの役に立つ』と思い、数枚持って来ていた。
  バンガローに戻った。部屋に暖房が効いてないので、身体は直ぐに冷えてしまった。ベッドに潜っても寒さの為、中々寝付かなかった。

旅人の話~ユーゴスラビアのヒッチの旅

2021-11-26 10:13:33 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・旅人の話
 ヨーロッパのユース、或いはその他の所で、各国の多くの旅人と出逢って来た。一番見かけたのがアメリカ人、その次にカナダ人、イギリス人、オーストラリア人と、如何してか英語を母国語としている国が目立った。そして次にドイツ人、フランス人、オランダ人、北欧人でした。黒人に逢ったのは、スウェーデンのユースの時に1回だけであった。南米人、ソ連及び社会主義諸国の人、そしてアジア人の旅人とは、一度も会わなかった。
 『旅をする』と言う事は、経済的裏付けがないと出来ないので、目立ったのは先進諸国、所謂アメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリアを含む西ヨーロッパの人々であった。そして、後進国の人達は、経済的、政治的に旅が出来ない現状であった。そう言う意味に於いて、日本人に割りと多く出逢ったのは、後進国ではなくなり、先進国の仲間入りになったと捉えるべきなのか。一般勤労者の経済的現状を見ると、日本が先進国の仲間入りになったかは、疑問であった。日本の労働賃金の低さに加えて、円の安さ、持ち出しドルや円の制限、海外渡航の制限等、海外旅行に関してだけでもその環境は、必ずしも先進国と言えるものではなかった。
 では、何故先進国でないのに、多くの日本人の旅人と出逢ったのか。これは、『外の世界を見てみよう』と言う維新、富国強兵社会、日中・太平洋戦争、そして敗戦を経てその後の政治・経済が多少安定して来たそのプロセスに於ける日本人の開かれたエネルギーで、その先駆者が小田実氏やミッキー安川氏であり、その影響を受けたのが我々であった。〝一部を除いて〟(学生運動で大学が休講になったノンポリやブルジュア学生)、若者達は金銭的に余裕があって来ているのではなかった。話を聞くと皆それなりに苦労して、覚悟して来ているのであった。又、旅費を稼ぐ為にコペンハーゲンやアムステルダムで会った若者は、片道分の旅費しか持って来ず、こちらでなんとかして旅費を作り、各国を回ろう、と言う決意した気持で遣って来たのだ。
 若者達は、仕事を辞めても、学校を辞めても、或は休学しても、金が無くとも、こちらで何でも良いから働いてでも、「外の世界を見てみたい、体験したい」と言う、私と同じ一種の憧れ・夢があったのだと思うのだ。従って日本は、先進国でないがこの様な理由で、4番目位に多くの日本人の旅人と出逢った。
 1人で各国を旅する日本人には、私と同じ様なので親近感があった。その次に親近感があったのは、カナダ人でした。彼等は正直でおごりがなく、逆に言えば謙虚さがあり、何となく日本人の意識に一番近かった。だから、私はカナダ人が好きだ。そのカナダ人と今日、観光へ行って来た。

ベオグラード観光と盗難事件~ユーゴスラビアのヒッチの旅

2021-11-25 14:19:40 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月25日(月)晴れ後曇り(ベオグラード観光と盗難事件)
 今日、昨晩知り会った感じの良いカナダ人のヘンリーと共に市内、そしてベオグラードの古城見物に出かけた。その古城は、市の北端ドナウ川とサヴァ川の合流した場所にあった。古城から市街、ドナウ川とサヴァ川の眺めが、とても素晴らしかった。又城内には、中世の刀剣、鉄砲、絵画、骨董類等、数多く展示された博物館があった。素晴らしい古城にも拘わらず、観光客は少なかった。そしてドナウ川から吹く風は、強く冷たかった。
 ユースに着いたら相棒のヘンリーが、「リックの中からトランジスター ラジオが無くなっている」と騒ぎ始めた。「Yoshiも調べた方が良い」と言うので、私もリックの中を調べた。すると、確かにある筈の万年筆が無くなっていた。
部屋には3人宿泊していて、私とヘンリー、それとヨルダン人であった。午前中、私とヘンリーは彼が部屋に居る間に街へ出掛けた。そして夕方、我々がユースに帰って来たら、既に彼も部屋に居た。そんな訳で、ヘンリーはヨルダン人の彼に、「リックの中に入れておいたトランジスター ラジオが無いのだ。そして彼のリックからも万年筆が無くなっているのだ。貴方が盗んだのだろう」と詰問した。
「私は先ほど帰って来たばかりで、何も知らない」とヨルダン人は惚けた。
ユースは我々ホステラーが外出中、部屋の鍵を掛ける事はしないし、誰でも部屋へ入る気になれば入れた。しかもリックは鍵が付いてないので、簡単に盗む事は可能であった。その様な訳で、他の者が部屋に入って、盗ったかも知れないのだ。しかし一番怪しいのは、ヨルダン人であったが、決定的な証拠は無かった。
 所で、何かを盗まれたのは、これで3回目であった。1回目は、北欧のユースで折りたたみ傘がいつの間にか無くなっていた。私は盗まれたと思っている。しかもそれは、日本人であると。大体欧米人は、多少の雨では傘を差さない習慣がある。しかも、夏の好天が続く時期に、欧米人の旅人が傘を盗んでまでもする行為とは、考え難かった。
2回目は、正露丸であった。パリまであった正露丸が、その後いつの間にか無くなっていて、腹が痛くなったイタリアのサヴォーナで気が付いた。正露丸は黒い丸い粒で臭いし、服用すると苦いのだ。これが何だか欧米人には分らないし、分らない物を盗る人はいないと思うのだ。薬の入れ物を見て、『正露丸』と一目で判るのは日本人なのだし、盗ったのは日本人以外、考えられなかった。お陰でサヴォーナ、ピサ、そしてロンドン滞在中に腹痛で散々な目にあった。せめて正露丸があったなら、あんなにも苦しまず済んでいたにちがいと思うと、悔しくて堪らなかった。
 そして今回で3回目であった。私は万年筆で良かったが、トランジスター ラジオは、彼にとってさぞ悔しかったであろう。ペアレント経由で警察沙汰にして、今日中に出て来るのか疑問だし、私は明日、去る身であった。そしてヨルダン人が怪しいと言っても、証拠が無いのに調べてくれるのか。もし調べて、出て来なかった場合はどうなるのか。返って〝名誉毀損〟(社会主義国に於いても、個人の人権が保障されているのか。)で薮蛇になるのでは、との推測もした。
 ヘンリーは私より怒っていたが、我々は諦めるしかなかった。そして、「アラブ人は手が早いし、嘘をつく。彼等を余り信用しない方が良い」とヘンリーは忠告してくれた。
 話しによると、彼はヨルダンでは学校の先生をしていて、現在留学の為に当地に来て、数日間ここに滞在している、との事であった。彼は昨夜から同じ部屋に居たが、3人だけなのに愛想がなく、人を寄せ付けない雰囲気を持ち、何を考えているのか分らないのであった。学校の先生であるにも拘らず、そんな雰囲気を持った人物(本当に学校の先生だか、眉唾物であった)であった。私はここに来て、初めてアラブのヨルダン人と出逢った。先入観であるが、『アラブ人は、日本人や欧米人と違った違和感のある人種である』という認識を持った。そしてアラブ人の第一印象は、悪かった。

ユーゴ スラビアの話~ユーゴスラビアのヒッチの旅

2021-11-25 14:12:19 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・ユーゴ スラビアの話
 ユーゴは、複雑な国家なのだ。その理由は、一つの国家であるが、2つのアルファベット文字を持ち、3つの宗教があり、4つの言葉があり、5つの民族が共存し、そして共和国が6つもあるからであった。
 『バルカン(半島)は、世界の火薬庫』と学校で教わった事があった。各共和国は、第2次世界大戦以前にも、何回かの戦火を経験し、分裂と混乱を繰り返して来た。大戦中、ナチス・ドイツに侵略されたが、チートがパルチザンを結成し、勇敢に戦い、侵略から解放に導いたのだ。
大戦後、その偉大な指導者・チート大統領によりこの複雑な国家が統一され、そしてユーゴは、ソ連とは一味異なった社会主義を目指しているのであった。それは、同じ社会主義国家であるが、ユーゴの方がソ連と比べて自由な雰囲気に溢れている様な感じがしたし、ある一面、西ヨーロッパ的な感じもした。
ユーゴは、共産圏国家でありながら、入国の際に査証が要らないのだ。そして、イタリアからの入国は、全く“フリッパー”(特別な入国出国審査、手続き、或は、係官の厳しい検査、質問等もなく、気楽に入出国出来る状態の意味で、我々旅人の隠語)の状態であったので、私の想像外であった。ソ連人の表情は、けばけばしさを感じたが、ユーゴの人々の表情は、その様な所は微塵もなく、むしろ明るい感じがした。ベオグラードの中央広場やアメリカ領事館とアメリカ文化センター附近は、多くの若者が集まっていて、活気に満ちていた。彼等は、西ヨーロッパの雰囲気を楽しみ、憧れているかの様であった。
 チートは、イタリアのトリエステに隣接する国境の村からリュブリャーナ、ザグレブ、ベオグラード、ニーシュ、ヴラニエ、そして、スコピエを経てギリシャに至る、ユーゴの国土の真ん中に、北から南に縦断する道路を造ったのだ。ユーゴにとっては、過ってない画期的な道路であり、この大動脈は、リュブリャーナ以外、幾つかの大都市と多くの小都市を縫うように通っているのであった。
我々から見たらこの道路は、平面交差の一般的な2車線道路であるが、彼等はこれをハイ ウェイ(高速道路)と言っていた。近い将来、西ヨーロッパから多くの観光客が訪れ、又、ユーゴとヨーロッパの間で、そして、ギリシャ、トルコ、中近東諸国とヨーロッパ間の中継基地として、多くの物流や人の往来が活発になり、ソ連より寧ろユーゴの方が経済発展する可能性があるのでした。この様に色々な視点から、ユーゴは、ソ連と少し異なった“チート的社会主義”(ソ連型社会主義とヨーロッパ型社会民主主義を融合したもの)を目指しているようであった。
 しかし、現実的には、確かに街の中を観察して見ると消費物資は貧しさが見られ、衣類や“高級品”(カメラ、時計、テレビ等)の品質は悪かった。しかも、値段の方もたいそう“割高感”(日本と同じ位の値段)があった。そんな訳で、彼等の着ている物は貧弱で、女性は化粧して“ファッション”(ミニ・スカート等)を楽しむ、そんな雰囲気は感じられなかった。
 社会主義国には関係ないのか、街には高級レストランや宝飾店も見られなかった。又、街の中は広告宣伝看板灯等の商業的ネオンや街灯が無く、夕方になれば街全体が暗く、淋しさが漂う感じがして、そんな所はソ連と同じであった。
もう少しこの首都の様子ついて述べると・・・、市中央のロータリーの通路と緑地帯等はよく整備されていて、又、充分にその空間が保たれヨーロッパの雰囲気があった。しかし、市内見物していた時、アベックは見当たらず、恋を語り合う事も出来ない社会状況の様であった。雰囲気的にもっとオープンに私は感じたのだが。
何はともあれ、リュブリャーナ、ザグレブ、そして、ベオグラードを北から南へと縦断して垣間見たユーゴの様子を見て、何かを感じる事が出来たのであった。

ピーチカと美味しいワイン~ユーゴスラビアのヒッチの旅

2021-11-23 15:53:31 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
 ・昭和43年11月24日(日)曇り(ピーチカと美味しいワイン) 
 中年のおばさんが起こしに来た。時計を見ると、まだ5時半前ではないか。いくらなんでも起きるには、まだ早過ぎた。早く起こされたので、「ブゥブゥ」独り言を言いながら、又ベッドへ潜ってしまった。
 6時前、又おばさんが入って来て、「わぁわぁ」訳の分らない事を大声で言いながら今度は、叩き起こされた。何がどうなっているのか、まだわめき散らしていた。私は何も悪い事をしていないのに、如何して怒っているのか、面食らってしまった。如何もそのおばさんの様子から、「もう遅いので直ぐ起きて、部屋から出て行ってくれ」と言っているようであった。仕方がなく、ペンションを出た。私は宿泊施設で6時(おばさんにしてみれば、こんなに遅くまで寝ていて、と言う感じであった。)に追い出されたのは、生まれて初めてであった。
 日曜日の朝6時と言うのに、街全体が起きていて、昨夜と全く異なり活気があった。昨夜のカフェテリアで朝食を取ろうと思って入って見ると、既に大勢の人がいた。
ここの国の人々は、朝は早く起きて、夜は早く寝る、『早寝早起きの国民。又は早起きは3文の得』を身上(習慣)にしている、或は国策にしていると見受けた。従って5時半や6時に起きるのは、寝ボスケの部類で、これでは私が早く起こされても仕方ないと納得した。
 今日のヒッチは、そんな訳で7時30分頃から始まった。こんなに早くから開始したのは、初めてであった。
街の中の街道をBeograd(ベオグラード)方面に向けて歩いていると、ヒッチ合図をしないのに、むこうから若者2人が乗っているオンボロ車が直ぐに止まってくれた。しかし200~300m走ってヨロヨロと止まってしまった。古い車なので故障したのかな、と思った。幸いにも20分位で直り、100キロ程乗せて貰った。
 ユーゴ人は、よく〝この国道〟(トリエステの国境を越えた所からリュブリャーナ、ザグレブ、ベオグラード、スコピエ経由のユーゴ中央を横断してギリシャへ至る、片道一車線の道路。)を「ハイ ウェイ」と言って、自慢していた。この国道は、10年計画でつい最近完成された。他の道路と平面交差で、道幅も日本の一般道路と同じ位で、到底ハイ ウェイ(高速道路)と言える道路ではなかった。ただ走っている車が少なく、高速で走れるが、殆どの車はせいぜい60キロぐらいで、そんなにスピードを出していなかった。
 この道路以外の他の道路は、全く整備されていなかった。従ってこの道路から分かれて他の町に通じる道路は、砂利道か濛々と砂埃を上げて行く様な凸凹道であった。村に通じる道は、雨が降った後ではないのに、グジャグシャな泥んこ道が、延々と続いた状態であった。そんな道路なので、彼等にとってこの道路は自慢の国道であり、ハイ ウェイなのであった。州都や首都の道路は、ヨーロッパの先進国に比べても引けを取らないが、いずれにしても、郊外へ出ればこの国道以外は、そんな状態の道であった。そして、ユーゴの北部に比べて南部は、もっと酷い状態の道路であった。
 日本でも昭和38年頃は、国道17号線でも東京から本庄までは整備されていたが、その先、高崎や前橋の市街地以外、砂利道や泥んこ道であった。43年現在でも、地方では、殆んどその様な道なので、ユーゴと比較して日本の道路だって自慢出来なかった。
 何はともあれ、原野や山地が延々と続くその真っただ中をこの素晴らしいハイ ウェイ(?)をドライブ出来るのは、楽しいものであった。そしてこの国道はギリシャに入る国境の町まで、街の中を通らなかった。
 ともあれ2台目は、35キロ程乗せて貰った。3台目は、トラックに乗せて貰った。このドライバーは陽気なおじさんで、言葉は通じなくても乗っていて楽しかった。看板に女性が描かれたり、女性が歩いていたりすると、看板や女性達に向かって「ピーチカ、ピーチカ」と言って、はしゃぐのであった。私は、ピーチカを良い女、又はカワイコチャンと言う意味だと思い、女性を見ると「ピーチカ、ピーチカ」と言って、運転席で彼と共にはしゃいだ。
 余談であるが、後にイスラエルのキブツに滞在した時、そのキブツ仲間の1人にユーゴの女性が居たので、彼女に「ピーチカとはどんな意味ですか」と尋ねた。すると彼女は自分の性器を指差して、「Cunt(Omankoの意味)の事よ」と教えてくれたのであった。私は彼女にユーゴのドライバーとの状況を話して、2人で大笑いしたのでした。意味も分らないで使うと、後で物笑いになる可能性もあるし、場合によっては、侮辱の原因になる事もあるので、注意しなければならなかった。
話を戻すが、そんな助平な言葉とも知らない事を良い事に、大声を上げてはしゃぎながらのドライブも、そのドライバーの心の気安さが感じられたからであった。又このドライバーは汚い新聞紙に包んであったワインを取り出し、飲みながら運転していた。運転中、酒類を飲まない方が良いに決まっているが、私は別に飲んだからと言って、危ないとは思わなかった。この道路は整備されているが、何しろ余り車が走っていないので、車同士の正面衝突等の事故は無いと思っていた。あるとすれば、畑の中か原野に突っ込む事故があるかも、と言った程度であった。
おじさんは、「このワインは自分で作った地酒で、とても旨い。」と私に一生懸命説明した。それで、おじさんがラッパ飲みした、しかも薄汚れた瓶のワインを私に、「飲め、飲め」と勧めた。
それではと思い、1飲みご馳走になった。それが思った以上に旨かったので、もう1飲みご馳走になってしまった。それは、私がフランスでよく飲んでいた2フランのワイン、或いは3・4ヶ月前マドリードへの車中で飲んだワインよりも、旨いワインであった。そして、そのワインの舌から喉に染み渡る旨さは、夜になっても余韻が残っていた。私は、過ってこれほど旨いワインを飲んだ事が無かった。
 この面白いドライバーにベオグラードまで乗せて貰いたかったが、100キロ程乗って、残念であるが降ろされてしまった。降ろされた場所は、道路際に2軒民家があるだけで、周りは一面の畑であった。おじさんの運転する車は、本道から分かれ、何処までも続く凸凹の泥んこ道をヨタヨタしながら去って行った。
 ここで暫らくの間、次の車をゲット出来なかった。それから間もなくして突然、何処からとなく中年女性の村民2人が現れた。何処かへ行くらしく、マナー違反である事を知らないのか、私の手前でヒッチを始めた。村民達には勿論、自家用車が無く、乗合バスも走ってないので、彼女達の移動手段はヒッチであった。そして直ぐ車が止まり、彼女達を乗せた走り去り、私だけが畑の中に取り残された。
 暫らくして今度は、高級乗用車が止まった。紳士風の人が顔を出して、「金を出したら乗せてあげる」と言うので勿論、断った。ヒッチをしている旅人に如何してお金を請求するのか、理解出来なかった。金持ちの人(高級車に乗っているので、そう思った)がヒッチ ハイカーに金をせびるとは、何とケチなのか、呆れてしまった。こんな人に出逢ったのは、ヒッチの旅をして今回が初めてであった。
 そうこうしている内に、4台目のドイツ青年の車が止まってくれて、ベオグラード(セルビア共和国の中心地、ユーゴの首都)まで乗せて貰った。
市内の中心に位置する場所であろうか、彼はトラベル インフォメーション オフィス(旅行案内所)前で降ろしてくれた。これは、「今夜の宿泊所をここで紹介して貰いなさい」と言う、彼の私に対する親切行為と理解した。
 案内所の男性スタッフに聞いてみると、安いホテルで41ディナール(1,030円)であった。私にとって高かったので、やはりユースに泊まる事にした。彼にユースの場所を教わり、市内観光マップを貰って案内所を出た。しかし、ユースの行き方を教えて貰ったが、直ぐ道順を忘れてしまった。ベオグラードは大都会、しかも東も西も方向感覚が全く分らない私に、「あー行って、こー行って、あー行く」と教わっても結局、分らなかった。多くの人に尋ねたが、英語は通用しなかった。私は何回も何回も同じ事を尋ね、市電を再三乗り継ぎ、そして人々の指差す方向を頼りに郊外にあるユースにやっと辿り着いた。この時はさすがにホットした。言葉が通じない初めての都会や大きい町では、毎度のパターンであった。
 同じ部屋に旅人のカナダ人(名前はヘンリー)が居て、直ぐに親しくなった。彼と近くのレストランへ夕食を食べに出掛けた。
ユースに戻ると、地方から集まって来たと思われる(一目見て、着ている物がお粗末であったから)ユーゴの若者達が食事を取りながら、歌を歌ったりして過ごしていた。それを見た彼は、「食事が貧しそうだが、よく楽しそうにしていられるね」と言った。確かにその食事内容を見ると、その通りであった。私も毎日、貧しい食事内容であるから、何とも言えない。ただ私は、「食事が貧しくても、皆で楽しめればそれで良いのでは」と言った。彼は「You are right」と言って納得した。
その後、我々がロビーで寛いでいたら、先ほどのグループと思われる20歳前後の女性達が集まって来た。日本人が珍しいのか、ヘンリーより私に興味があるらしかった。彼女達は、都会的に洗練された服装や髪型、或いは振る舞いではなかった。(こんな言い方は失礼であるが)まさしく地方の農村からやって来た様な、やぼったい感じであった。でも彼女達は皆、純粋、純情その者の様な感じがした。
 その中で、ほんの少し英語が出来る女性が2人いて、私に「何処から来たのですか」、「何人ですか」、「ユーゴは如何ですか」等々の質問攻めに遭い、もててしまった(?)。彼女達は富士山、切腹、空手等の日本についての知識を披露した。大した事を知らないのでガッカリしたが、逆に我々日本人はどれだけユーゴの事について知っているであろうか。多くの日本人は、何にも知らないのではなかろうか。我々の国際、外国に対する知識は、そんなものなのだ。その2人の女性が文通を希望しているので、お互いの住所を交換し、私が帰国後、文通をする約束をした。
 今日のヒッチの旅は、ザグレブからベオグラードまで約430キロであった。


荒涼とした原野を越えて~ユーゴスラビアのヒッチの旅

2021-11-23 15:53:31 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
  △ユーゴスラビアに入った途端、荒涼とした大地に変わり寂しさが漂う
 
    ユーゴスラビア・ヒッチの旅(荒涼とした原野を越えて)

・昭和43年11月23日(土)晴れ(社会主義国・ユーゴスラビアに入る)
*参考=ユーゴの1Dinar(ディナール)は25円、1Para(パラ)は25銭

 歴史あるトリエステの町から道幅の狭い石畳の道路を国境に向かって歩いた。両側は、古い建物が建ち並んでいて、ユーゴスラビア(正式名称はユーゴスラビア社会主義連邦共和国。以後「ユーゴ」と言う。)へ行く主要道路であるが、走っている車は無かった。
道は上り坂になっていて、その途中、小さな食料品店があった。お昼用のパンを買おうと思い、店に入った。その店は田舎の商いで、店内は薄暗かった。声を掛けたら奥から出て来たおばさんは私を見た途端、「店から出て行け」と言った様な大声と素振りで、売るのを断られてしまった。
如何しておばさんは、あんな態度を取ったのであろうか。私の身なりを見てお金が無さそうに見えたのか、物乞い者に見えたのか、強盗の類に見えたのか、はたまた、私が東洋人であるが故の偏見からだったのか。それは、まるでマルセイユで受けた感じと同じで、嫌な感じであった。如何して人間は身なりや、服装、或は人種偏見で人を判断するのか。又、乞食の様に何か恵んで貰いたく、店に入ったのではないのだ。食料品を買うぐらいの金は持っているのに、外見だけであしらわれるのは悔しかった。しかし天気は良いし、気持だけは晴ればれであった。私は国境に向けて歩を進めた。
 国境までもう少しと言う所で、1台の乗用車が遣って来た。その車に乗せて貰った。イタリアの出入国管理事務所もユーゴの出入国管理事務所も旅券を見せるだけで、出国、入国が出来た。社会主義国ユーゴは、出入国に関して西ヨーロッパと同様に、思ったより簡単であった。国境を越えて500m程走って、私は降ろされてしまった。このドライバーはここに用事があって来たので、先には行かないとの事であった。私は折角乗せて貰ったので、多いに長距離を期待したのであったが、国境を車で越えただけで、1キロも乗っていなかった。。それならドライバーは、如何して私を乗せたのであろうか。500mでも1キロでも乗せたかったのか、冷やかしであったのか。これから先の旅が案じられた。
 所で、私はソ連のナホトカからハバロスク、モスクワ、レニングラードを見聞して来た。従ってある程度、社会主義国について理解しているので、ユーゴに於いてもそれ程変わりないと思っていた。ユーゴは社会主義国だから、ヒッチの旅も今までの西ヨーロッパの様に全ての面で上手く行かどうか不安もあり、且つ、ある意味で苦しいと言うか、厳しい旅になるであろう事は感じ取っていた。
とにかく、私はユーゴの国境の小さな村に入った。両替所でイタリアのお金リラを多少持っていたので、ユーゴのディナールに変えた。そして近くの共同マーケット(個人経営ではなさそうであった)に入り、お昼用にパン1個(固いパンでコッペパンの2倍程の大きさ)とユーゴ産の瓶詰めジャムを買った。周りの買い物客は、日本人(東洋人)が珍しいのか、それとも私の旅姿が面白いのか、私に視線を注ぎ、買い物している間、私は注目の的になってしまった。それは、彼等の嫌悪感から来るものでないから、私も嫌な感じがしなかった。
マーケットからブラブラと歩き、直に家も見当たらない街道に来た。その先は、車が走って無い1本のアスファルト道路が一直線に伸び、そして見渡す限りの原野が広がっていた。そこは国境から距離にして1キロもない、西ヨーロッパの光景とまったく違っていた。冷たい風が草木を揺らし、何か果てしない荒涼とした原野の真っただ中に放り出された様で、寂しさ、不安さが沸いて来た。
 車が来るまで道の端に腰を下ろし、先程買ったパンにジャムを付けて昼食を取る事にした。苺ジャムの美味しい味がするパンが、私の喉から胃の中に入って行った。日本の甘みのある水っぽいジャムではなく、濃い苺そのままの味であった。
 ここに来て初めて車が近づいて来た。今度いつ通るか分らないので、立ち上がって願いを込めてヒッチ合図をした。しかし、私の願いと裏腹に、車は通り過ぎて行った。又、腰を下ろし、パンを食した。冷たい風が、『ヒュー』と鳴って草木を騒がせ、いっそう荒涼としたものを感じた。忘れた頃に又、車が来たが、そのまま素通りして行ってしまった。1時間経っても2時間経ってもゲット出来なかった。お昼を過ぎたばかりにも拘らず、既に夕方の感じがして来て、寂しさも一段と増して来た。
『もし今日、車が止まらず、次の町まで行けなかったら何処に泊まれば良いか』
『国は広いし、次の町まで歩いて行くには途方もなく遠い。歩いて行ける訳がない』
『それでは、この国境の村に泊まる所があるのか。どう見ても、そんな宿泊施設がある感じではなかった』
『それでは歩いて国境を渡り、トリエステへ戻るのか』
昼を過ぎたばかりで、既にこんな事を考え始めた。そんな状況だが、気持だけは愚図愚図しておれない心境であった。じっとしていると焦りだけが先に出てしまっていた。旅費の心細さが、不安を煽っていた。
 それでも私は、いつ来るとも分らない車に期待しながら、道路端で待った。すると1台の車が又、国境方面から来た。これを逃したら、今度いつ来るのか分らない、『必死の思いでヒッチ合図』を送った。大きな魚が掛かった手応えを感じて、ググッと車を手元に引き寄せた。止まってくれたのだ。すかさず、「Ljubljana(リュブリャーナ)までお願いします」と言ったら、OKの言葉があった。私は、『助かった』との思いで一杯であった。これで先に進めるのだ。じっとしているのは、堪らないので本当に有り難かった。
 ドライバーは、ギリシャ人の神父さんであった。それにしても走っている車は、本殆んど無かったが、道は良く整備され、快適なドライブになった。
神父さんが、「昼食を食べたか」と言うので、「まだです」と答えると、チキンとパンを出してくれた。肉を食べるのは久し振り、栄養を付けさせて貰った。
 それほど高い山ではないが、山岳地帯に入ると雪が積もっていた。車は野を越え、山を越え、快適なドライヴであった。国境の村はずれで、あれ程色々な事を心配し、不安な状況が嘘の様に何処かへ飛んで行ってしまった。いつもヒッチの旅は、そんな状況、心境変化の繰り返しであった。
 いつしか車は、リュブリャーナ(スロベニア共和国の首都)に入った。神父さんは、「今日はZagreb(ザグレブ)まで行く」と言うので、私も願ったり叶ったりで便乗させて貰った。実際に今日、ザグレブまで行けると思ってもいなかったので、内心は大喜びであった。
車内から見るユーゴの家々は、西ヨーロッパより一目瞭然に貧しく見えた。又、リュブリャーナは、それなりの都会的であったが、街の中はやたらと多くの警察官や兵隊の姿が目に付き、何となく暗い感じ(ソ連と同じ共産圏の重苦しさ)がした。
 リュブリャーナを過ぎ、快適なドライヴが続いた。夕方、トリエステから約250キロ進んだザグレブに到着した。街の中央で下ろして貰い、感謝の気持で神父さんに絵葉書1枚を渡した。
 ザグレブは、クロアチア共和国の首都。ユーゴでは、第2の都市で街は、流石に大きかった。歴史を積み重ねた様な古い石造りの建物が整然と両側に建ち並んでいた。世界第二次大戦中、ユーゴはドイツに侵略され、至る所破壊されたと聞いていたが今、車や目抜き通りを歩いて見て、そんな感じは全く無かった。
 しかし土曜日なのに、そして大都会なのに大通りに人影はまばら、街の様子は静かであった。逆の言い方をすれば活気が全く無く、経済・商業活動が滞っている感じがした。
 大通りを歩いている数人に安いホテルを尋ねたが、英語が全く通じなかった。暫らくの間、街の中をウロウロせざるを得なかった。そうしたら、向こうから歩いて来た中年女性から、「Can I help you?」と声を掛けられた。私は「はい、安いホテルを捜しているのです」と言うと、彼女は近くにある建物を教えてくれた。教えられたその建物へ行ったら、BOAC(英国航空会社)の事務所に入ってしまった。突然、私が入って来たので皆もビックリとした様な、或は、怪訝そうな顔付きで私を見た。場所違いであったか、何も尋ねず出て来てしまった。
その建物を出ると直ぐに、ユーゴの紳士が近づいて来た。私が尋ねもしないのに彼は、安いホテルとレストラン(両方とも街の中央付近のメイン通りにあった)を教えてくれて、そこまで案内してくれた。両方ともBOACから割りと近かった。でも如何して彼は、私が願っている事が分ったのであろうか、不思議でならなかった。ユーゴ人は愛想が良く親切な人がいて、好きになれそうな国である感じがした。
案内されたのはホテルでなく、ペンションであった。1室4~5人が寝られるのに宿泊者は、私1人であった。宿泊のみの値段は、13ディナール(330円)、値段の割に部屋やベッドは上等であった。荷物を部屋に置き、教えて貰った近くのレストラン(実際はカフェテリアであった。色々な料理が並べられ、自分の好きな物をお盆に取って、最後にお金を払うシステム。この様な店は日本にまだ無かった)へ夕食を食べに行った。店は、7割程度お客さんが入っていた。私が入った途端、皆の視線を感じたが、意に介さずテーブルに着いて食べた。久し振りに美味しい料理を腹いっぱい食べて、11ディナール(280円)であった。これは確かに安かった。
 カフェテリアを出てペンションへ真っ直ぐ帰ったが、ユーゴ第2の都市・ザグレブの中心街は、官庁街ではないのに午後7時半を過ぎたかどうかの時間帯で全ての通りは、既に人の気配が無く、静まり返っていた。まさに「不気味」と言う言葉が当てはまる状態であった。大都会の土曜日の夜と言えば、色々な意味で街は、活気付くものなのに、まるで正反対の寂しい感じがした。しかも、広告等商業的ネオンも無いので街全体が暗く、あたかも真夜中の様であった。1口で言えば、ソ連と同じ印象を受けたが、それは無理もなかった。私は今まで西ヨーロッパの資本主義諸国にいたのに、急に社会主義国へ入ったので、余計にその様に感じた。いずれにしても、社会主義国に対してマイナス的ないメージを持っているのは、むしろ私を含めて我々が知らない内に資本主義的ブルジュア思想にタップリ侵されているからであろうか。一夜の憂さを晴らす華やかな、或は賑やかな歓楽街のバー、キャバレー等の飲み屋街、「お客様は神様です」と言い含め、人間の欲望を逆手に取って無きなしのお金を吸い取る商業的行為、及び繁華街等々の存在。我々勤労者・労働者にとって、それらの存在が本当に価値ある、幸せになる条件であるのか。
 明日も何が起こるか、どんな旅になるのか分らないのだ。難しい事を考えず、早め(9時前に寝たのは外国に来て始めて)に寝る事にした。


イタリア国境の町にやっと辿り着く

2021-11-22 09:37:48 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月22日(金)晴れ(イタリア国境の町にやっと辿り着く)
 又、日高と共にユースを去り、乗合舟に乗った。しかし鉄道のサンタ ルチア駅近くで下船しなければならないのに、駅を間違えて3駅乗り越し、50リラ又払って戻った。無駄なお金を費やしてしまった。
その乗り越した訳は、美しい大運河・カルナ グランテに見惚れてウッカリしていたのだ。それにしても美しいヴェネチアを1泊しただけで去るのは、残念な気持で一杯だ。金銭的余裕があればゆったりと、もう2~3泊程したかった。
 リベルタ橋を渡って本土に戻らなければならないので、ターミナルからバスに乗った。そうしたらリヨンのユースで逢い、翌日共にバスに乗って郊外へ出た、あのカナダ人男女2人が乗っていた。我々は周りの乗客がいるにも拘らず、大きな声で再会を喜び合った。聞けば、昨夜は同じユースに居たと言う。そして私や日高と同じく、ユーゴスラビアのベオグラードに向かうとの事であった。
橋を渡りTrieste(トリエステ)方面の街道で我々は下車した。そして日高やカナダ人男女と元気で旅をしようと、握手して別れた。日本人と別れる時の言葉は、「ごきげんよう。良い旅を(して下さい)」、又、外人の場合は、「Good luck(to you)」と言って別れるが、私の気持はいつも万感の思いであった。昨日、親しくヴェネチア観光したのに今朝、既にユースで鈴木やアーロンと別れ、そして今、再び彼等と別れた。
それにしても別れは、いつも寂しいと言うか、悲しいと言うか、チョッと言葉に言い表せない心境であった。いつ、又逢えるのか、保証の無い旅、そして永遠の別れになるのが常なのだ。その方が確立は高い。旅は、いつも一期一会なのだ。人との別れ、1人旅の寂しさ。今回の旅は、『旅とは、切ないもの』と言う事を私に教えてくれた。しかし、「旅は1人に限る」。矛盾している様だが、それが正論なのだ。
 イタリアの国境の町・トリエステまで180から200キロの道程だ。明日、社会主義国のユーゴスラビアへ入る予定だ。
シンガポールまでの旅は、まだ始まったばかりなのに長期間が過ぎた様な、長い間旅をしている気がしてならなかった。そして、何処まで行けば旅が尽きるのか。まるで『果てしない旅路』の中に入り込んでしまった、或はさすらいの旅の様な、そんな感じがしてならない今日この頃であった。
1台目の車は、500メートル程走ったら、道が違うので直ぐに降ろして貰った。2台目の車は、今日の予定の半分、100キロ位乗せて貰った。この男性ドライバーは英語が話せたので、色々な話が出来て楽しかった。どちらかと言えば、全くお互いに言葉が通じ合わず、無言で長時間ドライバーの脇に乗せて貰う場合、私としても苦痛である。でも少しでも言葉が通じ合えば、楽しいヒッチの旅になるのであった。
トリエステまで後80キロ位の所で降ろされた。ヒッチする場所は、知らない町の街角、郊外、畑の中、山の中、海岸、そして原野等、色々な場所で暫し立ちつくすのは、毎度の事であった。しかし、ここまで来ると少し状況が今までと違った。西ヨーロッパの国境付近と違って、隣の国はソ連圏の影響が強い国・ユーゴとなり、人や物の往来が極端に少なくなっていたのか、また車の往来が激変していた。
車がやっと来たとしてもヒッチ合図しても止まってくれず、3台目は中々ゲット出来なかった。何気なく空を見上げれば、浮雲がポッカリ浮かんで、あたかも自分の旅の様であった。
2時間以上経って夕方近く、やっとゲット出来た。今日の目的地・トリエステまで、あと約35キロ地点のMonfalcone(モンファルコネ)と言う小さな町までであった。そして郊外へ移動した。
時刻は既に午後6時半を過ぎ、辺りは暗くなって来た。暗くなって来ても泊まる所が決まってないと、何となく落ち着かなかったし、寂しい感じがした。この事は何日たっても慣れなかった。
 車が通らない郊外の暗い街道で、8時になっても車をゲット出来ず、困った状態であった。もう少しでユースがあるトリエステであるのだが。私は近くのモンファルコネの町まで引き返し、ホテルに泊まる事に決めた。既に静まり返った小さな寂しい町、通りには人っ子1人、歩いていなかった。この町にホテルがあるのか不安であったが、尋ねる事も出来なかった。
リックを背負い片手でバッグを持ち、静まり返った暗い街をトボトボ歩いていたら、トリエステ方面に行く車がこちらに向かって来た。そこまで行くのか如何か分らなかったが、祈る想いでヒッチ合図を送った。暗く見辛いのにも拘らず、運良く車は止まってくれた。聞いたら、トリエステまで行くとの事で乗せて貰う事にした。『地獄に仏』とは、この事か。本当にホッとした心境であった。
30~40分程でトリエステに到着した。ドライバーは、「今夜何処に泊まるの」と聞くので、「ユースに泊まります」と言った。ドライバーは、土地の方なのかユースの住所を示すと、その場所を知っていて、ユースまで連れて来てくれた。しかしユースは利用期間が過ぎ、閉まっていた。私はガッカリしてしまった。利用者の少ない冬季期間は、ユースによって閉めてしまう所もあるのだ。仕方ないので、ホテルに泊まる事にした。ドライバーの方に、「私をホテル・インホメーション・オフィスまで連れていって下さい」とお願いした。地図上で町の名の所が二重マルになっていたので宿泊施設のある、それなりの町であると判断した。ドライバーに私はそのオフィスまで連れて来て貰った。別れる時、最後まで親切にしてくれた彼に厚く礼を述べると共に、私が持っている日本の絵葉書1枚を感謝の気持として渡した。
 午後10時になっていたが、運良く案内所はオープンしていた。案内所内には、この町の色々保養施設、観光名所、ビーチ、娯楽施設等の案内用パンフレットが置いてあった。この町は、保養地で有名な所らしい。係の人に安いホテルをお願いしたら、ここから近い1,200リラのホテルに予約が出来た。
 部屋は狭い感じがしたが、真っ白なシーツと枕カバーは、清潔感があった。サヴォーナ(8月8日)のホテルで止まった時は、800リラの階段下の狭い部屋であった。この部屋はその時よりも広く、居心地も良かった。
 一時はどうなるのか不安であったが、今夜もベッドに寝られる事になった。お世話になった先程のドライバーに心の中で感謝した。それにしても、ヒッピー まがいの貧乏旅行者がホテルに泊まって、従業員はどう感じたであろうか。リックを背負い、髪の毛を3ヶ月間以上伸ばし放題のボサボサ、そしてジャンバーにジーパン スタイルでは、高級ホテルでないが入る時、どうも敷居が高い感じた。
 11時、ベッドに入った。おやすみなさい。