ちょこっとGUM

今、自分が出来ること。やれること。それを精一杯やっていかなくちゃ!!

コラム記事【7/14(~7/11)】

2024年07月15日 07時48分45秒 | マリーンズ2024
≪7/14≫


ロッテ・種市篤暉の熱投に「スーパーエース」の声

 ロッテ・種市篤暉投手の奮闘をファンが称えている。13日は本拠地でのオリックス戦に先発登板。初回に3連打を浴びるも、8回119球7安打無失点、10三振の力投で今季5勝目を掴んだ。

 種市は今季、5月以降で4勝1敗。防御率は5月が0.90、6月が1.88、7月が1.29と抜群の安定感を誇る。セイバーメトリクスの観点からプロ野球の分析を行う株式会社DELTA(https://1point02.jp/)のデータによると、勝利貢献度を示す「WAR」は阪神・才木と同じく12球団トップタイの2.4をマークしており、チームの躍進を支えている。

 種市は2016年ドラフト6位でロッテに入団。2020年の9月中旬に右肘のトミー・ジョン手術を受け、2021年はリハビリに専念していた。2022年に実戦復帰を果たすと、その後は順調に成績を残している。

 この日の熱投を「パーソル パ・リーグTV」が「【熱き10奪三振】種市篤暉『ストレートの強さ素晴らしく……8回無失点で今季5勝目!』」と題して映像を公開すると、ファンからは「球界一の投手」「これぞエース」「かっこよすぎる」「スーパーエース」「安定感あった」「メジャー行けそう」「素晴らしい」などの声が上がった。

 さらには「打てるものなら打ってみろ! という気持ちの入った投げっぷりが本当に見ていて凄いなと感じました」「さすがうちのエース」「ろうきの代わりは種市」などの声も見られた。

(Full-Count編集部 データ提供:DELTA)

データ提供:DELTA http://deltagraphs.co.jp/
 2011年設立。セイバーメトリクスを用いた分析を得意とするアナリストによる組織。書籍『プロ野球を統計学と客観分析で考える デルタ・ベースボール・リポート1~3』(水曜社刊)、電子書籍『セイバーメトリクス・マガジン1・2』(DELTA刊)、メールマガジン『1.02 Weekly Report』などを通じ野球界への提言を行っている。集計・算出した守備指標UZRや総合評価指標WARなどのスタッツ、アナリストによる分析記事を公開する『1.02 Essence of Baseball』(https://1point02.jp/)も運営する。

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≪7/14≫


 「数少ない打席をよりよくするためにという意識で、簡単にアウトにならないことだったり、自分の持ち味である粘りを出したり、そう言ったところは1打席、1打席意識して打席に立つようにしています」。

 ロッテ・小川龍成は1打席1打席を大切にした結果、ここまで69試合、43安打、11打点、24得点、21四球、12犠打などあらゆる数字で昨季を上回っている。

 『2番・遊撃』でスタメン出場した13日のオリックス戦では2打席目まで無安打も、4回の第3打席にレフト前に適時打を放つと、第4打席がライト前、第5打席がセンター前に安打を放ち猛打賞を達成。スタメン出場した10日の楽天戦から打席に立った試合では2試合連続で猛打賞達成となった。7月は月間打率驚異の.611、出塁率は.682、OPSは1.293をマークする。

 小川は昨年11月に行われたZOZOマリンスタジアムでの秋季練習から“三遊間に低いライナーで打てる感覚”を身に付けるために必死にバットを振ってきた。その成果が結果に結びついている。

「結果が試合で出るようになってきて、自信になりつつあるんですけど」としながらも、「まだ短期間の結果でしかないので、それをもっともっと長く続けられるように。もっともっと確率よくできるように意識して練習したいと思います」と気を引き締めた。

 小川は5月14のオリックス戦から6月1日の15試合連続負けなしの期間に存在感を高め、その間の打率は.319。5月26日のソフトバンク戦から5月31日の阪神戦にかけて5試合連続マルチ安打、5月31日の阪神戦では6打席全て出塁し、4-4の10回二死満塁の第6打席、押し出し四球を選び、チームはサヨナラ勝ちした。

 しかし、6月は「ちょっと打ち出してから、もっと打ちたいとか、ヒットを求める気持ちが大きくなってしまった」と月間打率.163と大きく数字を落とした。「もう1回改めて自分のできることをしっかりやろうとコーチの方とも話し合って、そこの意識を変えた結果がいい方向につながったかなと思います」と原点に立ち返り、7月に入ってから再び調子を取り戻した。

 7月に入り厳しい暑さの日が多い。夏場の戦いを乗り切るために小川は「ストレッチ、入浴、湯船に浸かって、冷水浴びて交代浴とかそう言ったところは自分自身で考えてしっかりやるようにしています」とのこと。

 「今まで通り自分のできることをして少しでもチームに貢献して頑張りたいです」。昨季までは代走・守備固めがメインも、バットで結果を残し、チャンスをモノにした。好不調の波を小さくし、シーズン最後まで粘りのある打撃を披露して1試合でも多くスタメン出場したい。

取材・文=岩下雄太

(ベースボールキング)

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≪7/14≫


 首位を走るソフトバンクと2位ロッテとの3連戦(みずほペイペイドーム福岡)が15日から始まる。両者の開きは14日現在で7ゲーム差。7月2日の時点で12・5ゲーム離れていた差を大きく縮めて迎える“首位攻防戦”だ。デイリースポーツウェブ評論家の野田浩司氏は「注目すべきは初戦」と語る。

  ◇   ◇   

 昔は3ゲーム、5ゲーム縮めるのに1カ月かかると言われていたのに。あっという間に5ゲームも差が詰まりましたね。

 14日の試合はソフトバンクもロッテも負けたから、実際には7月2日から13日までの、わずか11日間で縮めたことになる。

 福岡で行われる15日からの3連戦は、急上昇してきたチームと急降下しているチームとの直接対決だから“ひょっとしたら”という空気が漂ってますね。

 ロッテ打線はソトの加入が大きいが、佐藤都志也や小川の成長、高部の復帰が大きい。ベテラン角中も元気だし、岡もよく打っている。以前までは山口や安田の成長がカギを握るのかなと思っていたが、そうじゃないチームになってきている。

 粘りがあり、しぶとい打撃をするチームであるのに変わりはなく、チーム打率は2割5分を超えていて、ソフトバンクと遜色がない。

 特に今年は球界全体が「投高打低」と呼ばれ、守り合いの重苦しい試合が多い。ゲームの流れが、なかなか変わりにくい展開が続く中でロッテは結構、試合の流れを変えている印象がある。

 (7月に入って8勝3敗のロッテ。3勝7敗のソフトバンク。2日に12・5に広がったゲーム差は14日現在で7)

 まだ差はあるけど、仮にロッテが直接対決3連戦で3連勝でもすれば、ペナントレースは分からなくなる。逆に3連敗してしまえば、盛り上がりも一気にしぼんでしまうかな。

 今年のソフトバンクは柳田抜きでも余裕で首位を突っ走ってきたが、中継ぎ陣の綻びや打線の停滞で、夏場に入ってさすがに失速してきたね。

 それまでは“ここで打てば”という場面でしっかり打っていたし“ここで抑えれば”という場面できっちり抑えていたが、今はその逆の結果になるケースが目につく。

 昨年は夏場の大型連敗で失速してしまったが、長いペナントレースを何事もなく無事に終えるのは難しいからね。

 (1963年には西鉄が14・5ゲーム差を引っくり返して優勝したという例があるが…)

 それは分からないが、球宴前の山場という意味で、この3連戦に注目したい。特に初戦が見ものですね。ソフトバンクにすれば、初戦さえ取れば3連敗はなく、一気に縮められることはないですから。

 ソフトバンクは去年も含めてここ数年、悔しい思いをしてきている。ロッテも毎年、上位に顔を連ねるだけの地力をつけてきているし、面白い内容の試合が期待できるのではないか。

 仮にロッテが3連勝すれば、ほかのチームの闘志にも火が付くはず。パ・リーグの火を消さないという意味で、ここはロッテの踏ん張りに期待したいところだね。

(デイリー)

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≪7/11≫


ロッテ小川龍成はパ二塁で1位のWAR「2.3」、UZR「5.2」

 ロッテ4年目の26歳・小川龍成内野手が攻守に躍動している。10日の楽天戦(ZOZOマリン)では3安打3得点で大勝に貢献。今季は貢献度でパ・リーグ二塁手でトップの数値をマークしており、ファンは「覚醒しましたね」「マジで凄いな」と声をあげている。

「2番・遊撃」で出場した小川は初回無死二塁でセーフティバントを決め、敵失を誘発して先制点を演出。初回8得点の猛攻を呼び込んだ。その後は2つの四球を選び、6回と7回には中前打。4打数3安打2四球3得点と躍動した。
 前橋育英高、国学院大を経て2020年ドラフト3位で入団。昨年までの3年間で打率.111(81打数9安打)、出塁率.240だった。しかし今季はここまで二塁で34試合、遊撃で7試合に先発出場するなど、計67試合で打率.278(144打数40安打)、出塁率.367と急成長。特に7月は打率.615(13打数8安打)と打ちまくっている。

 セイバーメトリクスの観点からプロ野球の分析を行う株式会社DELTA(https://1point02.jp/)のデータによると、打撃、走塁、守備、投球を総合的に評価して選手の貢献度を表す指標「WAR」で小川は「2.3」。パ・リーグの二塁手でトップの数値を誇る。

 さらに守備全般での貢献を示す指標「UZR」はパ二塁でトップの「5.2」。2位の楽天・小深田大翔内野手が「1.6」と大差をつけており、初のゴールデングラブ賞も視界に捉えている。進化する26歳。SNSでは「7月打撃成績、とんでもない事になってる」「目に見えて成長してる」「それにしても凄いな」とファンからコメントが寄せられている。

(Full-Count編集部 データ提供:DELTA)
データ提供:DELTA http://deltagraphs.co.jp/
 2011年設立。セイバーメトリクスを用いた分析を得意とするアナリストによる組織。書籍『プロ野球を統計学と客観分析で考える デルタ・ベースボール・リポート1~3』(水曜社刊)、電子書籍『セイバーメトリクス・マガジン1・2』(DELTA刊)、メールマガジン『1.02 Weekly Report』などを通じ野球界への提言を行っている。集計・算出した守備指標UZRや総合評価指標WARなどのスタッツ、アナリストによる分析記事を公開する『1.02 Essence of Baseball』(https://1point02.jp/)も運営する。

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≪7/11≫


初芝清氏は1990年の“千葉マリンこけら落とし”で初本塁打

 ロッテ一筋17年間プレーし、「ミスターロッテ」と称された初芝清氏は現在、社会人野球「オールフロンティア」で監督を務める。プロ4年目の1992年からロッテは本拠地が川崎球場から千葉マリンスタジアム(現・ZOZOマリン)に移り、チーム名も「ロッテ・オリオンズ」から「千葉ロッテ・マリーンズ」に変わった。“お引っ越し”にまつわる思い出を語った。

 初芝氏は選手間で話がちらほらと飛び交った頃の記憶を辿る。「最初は“らしいよ”くらいの情報しか出なかった。川崎から移転するかもしれないよ、みたいな感じでしたね。でも千葉だし、どうなんろう、と」。どちらかと言えば懐疑的だった。

 千葉・幕張にある千葉マリンは1990年に開場した。「こけら落とし」はプロ野球オープン戦で、3月24日の巨人対ロッテ。「僕らはビジターでした。本拠地になるかもしれない球場なのにビジター。だから移転の噂を聞いていても、どうなの? と思っていました」。とはいえ、初芝氏はこの一戦でマリン第1号本塁打を放って賞金をゲット。その後に「幕張のファンタジスタ」とも呼ばれる雄姿を既に披露していた。

 川崎球場が本拠地だった1991年7月31日、重光昭夫・球団社長代行(現オーナー)が千葉移転を表明した。この日、ロッテは初めて千葉マリン主催ゲームを行っていたのだが、西武に2-3で惜敗。ここでも初芝氏は「7番・三塁」で先発出場し、3打数1安打1打点と気を吐いた。本拠地移転は、秋のオーナー会議で正式に決まった。

 関東地方でも川崎と千葉では、かなり離れている。「僕は川崎で一人暮らしでした。千葉に移転するのが結婚する時期と丁度重なったので、それを機に千葉で奥さんと一緒に住みました」。他の選手はどうだったのか。「当初は川崎方面から通う人もいましたね。ナイターの翌日がデーゲームならば、球団が手配してくれて千葉のホテルに泊まれます。でもデー、デーだと帰らなきゃいけなかった」。生活の基盤を整える苦労もあった。

 チーム名が「マリーンズ」となり、ユニホームが一新された。「オリオンズ」時代は胸にブロック体で「LOTTE」の赤い文字だったのが、筆記体で「Marines」のピンク色に。「あの頃の球界にはピンクって、まだ無かった色でした。そういうのも新しい感じで、みんな『おー、ユニホームが何かこれまでと違うぞ』とか言ってましたね」と笑う。

八木沢監督が率いたマリン元年は4月に首位も失速…2年連続最下位に

「千葉ロッテ」の船出は、新しい指揮官が率いた。球団OBで、前年の1991年まで西武投手コーチを11年間担った八木沢荘六監督。初芝氏にとっては、これまでは敵対していたチームの頭脳だ。興味津々で質問してみた。

「監督、ライオンズから僕はどう見えていたんですか?」

 指揮官はこう答えた。「最初のストライクを空振りかファウルで取ったら、次の投球では絶対に振らないんだよ。ストライクでもボールでも。100パーセント近く出ているデータがあったんだ。お前がファウルを打ったら楽だった。振ってこないから簡単に2ストライク目が取れる。西武の投手には『次は真ん中に放れ』と指示していたよ」。

 初芝氏は述懐する。「八木沢さんの話を伺い、へー、そうなんだと本当にびっくりしましたね。そういうデータも西武は取ってるんだ、と。ロッテも資料としてデータは配られるけど、そこまではやってないですから。全体ミーティングは、あんまり記憶にないですし。ミーティングをやらない事に違和感がなかったです」。王者との違いを痛感させられた。

 幕張名物の強風には、やはり戸惑った。「試合をすればする程、とんでもない風と分かってきました」。驚愕した場面があった。「西武戦でセカンドが辻(発彦)さん、一塁がキヨ(清原和博)、捕手が伊東(勤)さん。誰が打ったかまでは覚えてないけど、右翼への大飛球が投手とキャッチャーの間に落ちた。辻さんも後ろを向いたんですよ。ピッチャーも打球が飛んで行ったと思ってたから捕れない。それだけ押し戻されるのです」。

「千葉ロッテ」の1年目は、4月を首位で通過した。新しい環境、ユニホーム、監督で強烈な旋風を巻き起こしたはずが、シーズンが終わってみると2年連続の最下位。「現場は『今年はいけんじゃねーの』という気にはなりました。それが5月が始まると『あー、やっぱりか』。落ちるの早いんですよね。連敗し出すと止まらない」。初芝氏が自身初のAクラスを体験するのは、まだ先のことだった。

(西村大輔 / Taisuke Nishimura)

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≪7/12≫


バレンタイン氏が1995年に監督就任…激減した練習量

「僕の中で、あれ以上の打席はないですね」。ロッテ一筋17年間で強打の内野手として“ミスターロッテ”と称され、社会人野球「オールフロンティア」で監督を務める初芝清氏。シーズン最後の打席で打点王のタイトル&打率3割を掴み、プロ7年目にして初めてチームのAクラス入りの喜びを味わった1995年を回想した。

 この年は、メジャーで監督経験を持つ陽気な米国人が指揮を執った。ボビー・バレンタイン監督だ。初芝氏は「ちょっと捉え方が難しいですけど、“べースボール”っていう感じ」と表現する。「練習をやって築き上げたものが日本の野球。ボビーは練習は試合に向けた途中の過程だ、とそんな風かな。だから練習が必ず良いという感じではないです」。それまでやってきたスタイルとは正反対だった。

 当時40代半ばのバレンタイン監督は、まずはキャンプで日本式のメニューに取り組んでみせた。「ボビーもまだ若かったから、自ら特守を受けたんです。1000本ノックみたいな。選手がやっている事を体験するわけです」。その上で「そんなに練習したら疲れるのではないですか? とか問い掛けるのです」。ボビー流を徐々に推進した。

 チームは表立った練習量が激減した。個人練習をすれば「ストップ!」「ダメ!」の声。「どうしても調子が悪い時は、練習して何とか良い方向に持っていこうとするじゃないですか。ボビーは逆。悪い時に練習したらもっと悪くなる。気持ちや頭の中をリセットしなさい、と。それが良いのか悪いのかは分からない」。選手は困惑するばかり。「物足りない。みんな隠れて練習していましたね」。

 監督を招聘した広岡達朗GMは現役時代、巨人の名ショートとして鳴らした。還暦を越えていたGMもキャンプで実技を披露していた。「現役選手より動きが速く、凄いんですよ」。技術に加え、状況に応じた対応を説いた。「土なら基本的にはショートバウンドでゴロを捕るんですけど、広岡さんは『違うんだよ。マリンは人工芝でイレギュラーしない。バウンドが途中で上がって来る所でも捕りゃいいんだよ』と仰って」。野球理論を教わった。

 シーズンが進むにつれ、2トップの“ズレ”が目立ち始めた。「広岡さんは練習をやらせたい。ボビーはやらせたくない……というのも変ですけどね。僕らの目の前で、どうこうは全然なかったですが、ギクシャク感はありました」と認める。「でもそこら辺は、僕らには関係ないところですから」。

シーズン最終戦の最終打席で本塁打…手にした“2つの勲章”

 4月は最下位スタート。だが、次第に浮上して2位でフィニッシュした。選手たちはボビー流を理解していったのか。初芝氏は「いや、理解はしてないのでは」。理由を「日替わりなんですよ。打線が」と説明する。

「昨日は4番で、きょうは7番とか。前日に打ってるのにスタメンを外れているとか簡単にあった。打順には役割があります。どの打順を打つのか、試合に出るのか出ないのか。最初の頃は、みんな戸惑ってましたね」。それでもチーム成績は上昇した。「ボビーも途中からはクリーンアップは、固定でいきましたから」。堀幸一、フリオ・フランコ両内野手、初芝氏の中軸が安定したことで、文字通り打線が「線」として繋がっていった。

 シーズン最終戦の9月28日の西武戦。初芝氏には勲章2つが懸かっていた。試合前の79打点は日本ハムの田中幸雄内野手と並ぶリーグトップ。打率も.302で初めて3割に手が届く。ただし4打数無安打だと3割を逸してしまう。「打点しか頭になかったです」。優先順位は明確だった。

 3打数無安打で迎えた8回2死。走者はいない。「ホームランを打つしか打点は稼げない」。集中力を研ぎ澄ませてラストチャンスに臨んだ。「ピッチャーは豊田(清)。ここに絶対こう真っ直ぐが来て、これをつかまえる。予想通りのボールが来て左中間へ一発。弾道までイメージした通り。僕の中で、あれ以上の打席はないですね。本当に最高潮でした」。最終的には田中、オリックスのイチロー外野手と3人で分け合う形で打点王。そして3割もクリアできた。

 チームもAクラス。お得意のジョークで僚友と奮闘したシーズンを締める。「それにしても最後の試合は、だーれも俺の前に走者が出やしない。堀、フランコなんてリーグ打率2位と3位で並んでるのに。まー、出やしない」。3回は3番・堀が3ランで走者を全て還してしまい? 続くフランコは単打。それ以外は初芝氏の打席で、走者は不在だった。

 最終戦はビジターの西武球場。左翼席のロッテファンから「ボビー」コールが起き、指揮官も頭を下げて感謝した。しかし、バレンタイン監督のロッテ最初の采配は、ひとまず1年で終了することになる。

(西村大輔 / Taisuke Nishimura)

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≪7/13≫


1997年に開幕スタメンから外れた初芝清氏「説明なく不信感しかなかった」

 ド派手に変身した。強打の内野手で「ミスターロッテ」として愛され、現在は社会人野球「オールフロンティア」の監督を務める初芝清氏は31歳シーズンの1998年、髪を金色に染めて臨んだ。いったい何があったのか。

「1年前の事があるんです」。初芝氏は、元を辿れば1997年シーズン序盤が理由だったと明かした。

 近藤昭仁監督が就任したこの年、初芝氏にとって怒髪天を衝く事態が起きた。4月5日の日本ハムとの開幕戦(東京ドーム)。先発メンバーに名前がない。入団2年目の1990年から継続していた開幕スタメンが途切れた。

「オープン戦で打ってないとかでもない。そこで結果を求められる年齢でもないですし。ずーっと、レギュラーでやっていますからね。それなのに何も言われないで、外されました。もう不信感しかなかったです」

「3番・三塁」に起用された五十嵐章人は、後に全ポジション出場と全打順本塁打を記録する程のユーティリティで左打者。相手エース・西崎幸広は右腕。新監督は奇襲作戦を仕掛けたのか。しかし、初芝氏は主砲で、相手投手の左右、相性などは超越した“チームの顔”なのだ。

打ってもダメ出しばかり「あれしか打てんもんな」…コーチに辟易

「開幕2日前の練習で、五十嵐が外野からサードに来ていたんです。いや、まさかね、と思ったら……。(首脳陣から)説明も何もなかった。それで腹が立ちました」

 五十嵐は開幕戦で2ランを放ち、途中交代。2戦目は先発サードからライトに回った。初芝氏はその試合で代打から登場し、2打数1安打。3戦目の大阪ドームでの近鉄戦では三塁のスタメンに入り、4戦目では中軸で1号アーチをかけてみせた。

 シーズンは始まったばかり。ネガティブな感情を吹き飛ばすホームランのはずだった。ところが、である。「お前、あれしか打てんもんな」。ベンチで祝福を受ける中、あるコーチが信じられない言葉を発したという。

「ブチ切れました。その試合の後も好打しても『あー、あれしか打てんよね』。そればっかり言うんですよ。そこからは、もう嫌々でやってて。本当に申し訳ないけれど、何にもやる気が出なくて……。応援してくださるファンがいるし、家族もいる。だから頑張らなきゃいけないんですけど」

 さらには脱臼で離脱した。「あー、ラッキー。これで離れられるわ。そんな感じの気持ちになってましたね」。75試合出場にとどまり、打率.211はプロ17年間でワーストだった。

打ってもダメ出しばかり「あれしか打てんもんな」…コーチに辟易

 辛い時期を経て迎えた翌1998年。開幕を目前に控え、身だしなみを整えるべく行きつけの理容室に足を運んだ。通常は初芝氏が席に座るや「いつもの」と合図するだけでスタートする。この日に限って、マスターが「あのー、初芝さん、“ブリーチ”しますか?」と髪の毛の色を変える提案をしてきた。

「僕は“ブリッジ”と聞こえたんです。“ブリーチ”は知らなかった。パーマか何かの名前かな、と思った。僕はパンチパーマ世代じゃないですか。おー、久しくやってないからいいかな、と。じゃあ、お願いしますと伝えました」。任せて眠りに落ちた。

 どのくらいの時間が過ぎたのだろう。「ハイ、できましたよ」との声がして目が覚めた。どれどれと鏡を見たら「真っ金金ですよ! 向こうは『ちゃんと注文通りですよ』と言ってました」。大笑いで回想する。

 チーム練習が待っていた。「怒られるよなぁ、って考えたんですが。前年の事もあるし、まあ怒られてもいいか、と」。球場の駐車場に着くと、指揮官とばったり。「うわー、一番最初に監督に会っちゃったよ」と“お叱り”を覚悟した。だが「おおっ、いいね、それ」と褒めてくれるではないか。「じゃあ、いいや。俺このままで、と」。

 初芝氏は球史を顧みる。「プロ野球の日本人選手で金髪って、それまでいなかったのでは。たぶん僕が日本人第1号だと思います」。結果的に気分一新の良い機会となっていたようだ。

(西村大輔 / Taisuke Nishimura)

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≪7/14≫


1998年のロッテはNPBワースト18連敗…初芝清氏「メディアとファンが増えた」

 強打の内野手として「ミスターロッテ」と呼ばれ、社会人野球「オールフロンティア」で監督を務める初芝清氏。1998年のマリーンズは最下位に終わった。「あの連敗が途中で止まっていればというのは、ありましたけどね」。プロ野球ワーストの18連敗(1分けを挟む)を喫したシーズンを回顧した。

 初芝氏は、髪を金色に染めて2年ぶり開幕スタメンに復帰した。チームも4月は首位と、順風満帆で船出した。ところが、6月13日にホームの千葉マリンでオリックスに屈すると、歴史的な“暴風雨”に巻き込まれた。故障者が相次いだリリーフ陣が手薄となり、負の連鎖が始まった。

 初芝氏は、当初は平然としていたという。「野手の方は全く何てことない。バッター陣は、打てなくて負けている感覚がなかった。点は取っているし。惨敗は何試合かあったぐらいで、抑えられているって事はありませんでしたからね」。1分けを含む悪夢の19試合で零封負けは2度しかない。5得点以上は7度で、その内1度は2桁得点を奪った。

 連敗にある意味、慣れっこだったこともある。「やっぱり連敗グセが取れないというのは、ずっとあった訳ですから。9、10連敗なんて毎年するようなチーム。まあ、いつも通り。いつも通りって言っちゃいけないんですけど」。1989年の入団以来、この時点で1度しかAクラスが経験がなかった。

 しかし、未体験ゾーンにまで突入した。「大連敗がさらに、でしょ。どうしようもできないよね、みたいな雰囲気でした。だから、俺たち何か変なことはしてないよなって言ってました」。14連敗で迎えたダイエーとの試合前。本拠地の球場内に選手、首脳陣の現場だけでなく球団フロントまで一緒にお祓いを受けた。それでも現実は変わらない。

ファンに感激「苦しい状況でも足を運んでくれた」

 あまりにも有名なワースト更新の「七夕の悲劇」。オリックス戦(神戸グリーンスタジアム=現ほっともっとフィールド神戸)に先発した“ジョニー”こと黒木知宏投手は3-1の9回2死、カウントでも追い込む。あと1球。そこで同点2ランを浴び、立てなくなった。

「これで連敗が止まったなって安心感を持ってました。そしたらドーンでしょ。みんな『イヤーッ』と」。まだ同点。延長に入ったのだが、ロッテは初芝氏、フリオ・フランコ内野手の主力が既に退いていた。勝機に乏しく、サヨナラ満塁本塁打を喫した。

 連敗を重ねる毎に報道陣の数が増す皮肉。問われる内容も連敗の事ばかり。「メディアの人が増えましたね。おい、普段から来いや、とそれは思いますよね。でも別に記者がどうだこうだとかはなかったですよ」。球場の中での変化には普通に対応できた。

 観客席の変化には感激した。「神戸にあんなに人が集まったところを見たことがない。お客さんがあれ程までに苦しいチーム状況でも足を運んでくれた。あの連敗のおかげか分からないけれど、ロッテのファンが増えましたものね」。最高のファンと認識した。

チーム打率リーグ1位、防御率2位で最下位…監督の辞任コメントに「あー?」

 初芝氏は、この年は打率.296、25本塁打、86打点。怪我などに泣かされ、自身ワーストとも言える1年前とは見違えるばかりの成績を残した。「前年に開幕スタメンを外されたりした首脳陣に対しての、もう意地でした。ほら、見てみろって感じでプレーしていました。結果的に発奮材料になったのかもしれませんけど」。

 加えてシーズン中にFAの権利を満たした。「もう絶対に出ていってやる、と思ってました。でも宣言しても成績が悪ければ、どこも獲ってくれない。好成績を収めなきゃならない、そういう部分はありました」。今でもファンから「ミスターロッテ」と愛される初芝氏だが、移籍もやむなしの複雑な気持ちを抱えていた。

 ロッテは最下位ながら優勝した西武から9.5ゲーム差。パ・リーグは稀に見る大混戦だった。「あの連敗が途中で止まっていれば……というのは、ありましたけどね」。チーム打率はトップ、防御率も2位だった。

 近藤昭仁監督は、「もっと強いチームで監督をやりたかった」と会見で語り辞任した。「あれは選手もみんな、『ええーっ』『あー?』ってなりましたね」と初芝氏。翌年以降もユニホームが変わることはなかった。

(西村大輔 / Taisuke Nishimura)

(以上 フルカウント)



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