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今、自分が出来ること。やれること。それを精一杯やっていかなくちゃ!!

拾い読み★2010-216≪千葉&長野@高校野球≫

2010年07月26日 06時36分00秒 | スポーツあれこれ
 

中川1安打“歓封”成田20年ぶり夏切符!
第92回全国高校野球選手権大会(8月7日から、甲子園)の地方大会は25日、34大会で94試合を行った。千葉大会決勝では成田のエース中川諒投手(3年)が7回まで無安打の快投。春夏連続出場を狙った東海大望洋を1―0で下して20年ぶり7度目の出場を決めた。長野は松本工が初出場を決めるなど全国6地区で代表が決まった。26日は21大会で41試合が行われ、西東京など11大会で決勝が行われる。
両手を広げてナインを待ち受ける。夢じゃない。甲子園だ。マウンドを守り抜いたエース中川の雄叫びが、千葉マリンに響き渡った。
「実感はないんですが、叫んでしまいました。甲子園ですね。力まず自分の投球ができました」
20年ぶりの夏切符が懸かった一戦で最高の投球を見せた。今大会5試合でチーム打率・359だった東海大望洋打線を、スライダーとチェンジアップも織り交ぜて手玉に取った。7回まで無安打投球。8回先頭の岩堀に右前打を許してスタンドからため息が漏れたが、集中力は切れなかった。2死二塁からこの試合最速の139キロで長友を空振り三振に仕留めた。1安打無四球で11奪三振の完封ショー。すべての三振を鋭い直球で奪った。
07年センバツ。当時中学生だった中川はスタンドで成田―広陵を観戦。唐川(ロッテ)の快投に酔いしれて「唐川さんの後輩になり、日本一になる」と決めた。その後ベネズエラの世界大会にも出場した右腕は08年3月、成田の練習場で卒業間近の唐川から「唐川侑己、背番号1」と記された同校のタオルを授かった。「背番号1を君に託す」の言葉は胸に刻まれている。唐川の投球フォームを参考にする中川だが、尾島監督は「唐川と中川の類似点は、投げろと命じた試合をすべて投げること」と話す。昨秋千葉大会2回戦、1―13と大敗した習志野戦では、左足の疲労骨折を隠して投げ抜いた。エースは簡単にマウンドから降りない。背番号1を背負う男は、1900年創部の伝統校のエース魂をしっかり継承している。
ナインは7月から成田山新勝寺に毎朝お参り。ノーシードからの大願成就を祈念した。願いは通じた。「(夏は甲子園に出場していない)唐川さんを超えてしまいましたね」と笑った中川。真夏の大舞台で成田の名を全国にとどろかす。
◆中川 諒(なかがわ・りょう)
1992年(平4)7月17日、千葉県茂原市生まれの18歳。白井小3年時に高根ニュースターズで投手を始める。白井中では佐倉シニアで3年時に日本代表としてベネズエラの世界大会3位。成田1年夏からベンチ入り。最速143キロ。好きな言葉は「美」。好きな食べ物は鳥肉。遠投90メートル。握力右65キロ、左60キロ。視力は両目とも2・0。家族は両親と妹。1メートル80、79キロ。右投げ右打ち。
▼成田
文武両道が目標。OBにハンマー投げの室伏広治。


「唐川2世」成田・中川、偉大な先輩超え夏切符…千葉大会
全国6大会で決勝が行われ、千葉では成田が東海大望洋を1―0で下し、20年ぶり7度目の甲子園出場を決めた。OBのロッテ・唐川が観戦する中、「唐川2世」ことエース右腕・中川諒(3年)が8回無死まで無安打の快投。11三振を奪い、1安打で完封した。26日には11大会で決勝が行われる。
腹の底から叫んだ。唐川2世こと最速143キロ右腕の中川が両手を上げ、マウンドに仁王立ちした。9回2死、首を振って投げた強気の速球に、最後の打者のバットが空を切った。三振だ。20年ぶりの夏を射止め、ナインの手で3度、宙に舞った。
同校OBのロッテ・唐川投手をまねた左足をゆっくり上げるフォーム。しっかりためた力をボールに伝え、8回先頭まで無安打に抑えた。5番・岩堀智紀(2年)に二塁頭上を越えるポテンヒットを許したが、「記録は意識しませんでした」。1死二塁の唯一のピンチは、この日最速の139キロで連続三振。昨冬に通常より100グラム重い球を1日置きに約60球投げ、スピードが10キロ以上増した。11個の三振は、すべて「一番自信のある」直球で奪った。4回の失策と合わせ、許した走者はわずか2人。1安打無四球完封で締めた。
2年前の春、運命的出会いがあった。入学直前に野球部グラウンドを見学。ロッテ入団が決まった唐川と偶然、居合わせた。07年春センバツで生観戦した、あこがれのエースから「野球部に入れよ」と声をかけられ、「背番号1」のサイン入りタオルを贈られた。宝物を寮の自室に飾り、背中を追いかけた。
動画サイト「You Tube」などを利用して、唐川の投球映像をDVD3枚に録画。フォームの研究を繰り返した。決勝前も見て「テンションが上がりました」。先輩も鍛えた陸上のハードルを使った股(こ)関節の柔軟性を高めるトレーニングも実を結んだ。
7月は毎朝午前5時に起床し、部員全員で成田山に必勝祈願。唐川が一塁側の成田応援席で見守る前で、打撃でも2安打で決勝のホームを踏み、先輩もなし得なかった夏切符をつかんだ。中川は「唐川さんを超えた感じがします」と不敵に笑った。
ロッテ・唐川侑己投手「エースの中川君は常に堂々とした投球をしていた。危なげない投球で本当に素晴らしい投手。唐川2世と呼ばれているみたいですが、自分は夏ベスト16止まり。間違いなく彼の方が素晴らしい投手です。すごい刺激を受けました。甲子園では1球1球、ワンプレーを大切にしながら、精いっぱい頑張ってください」
◆成田(成田市)1898年創立の私立校。生徒数は1016人(うち女子379人)。創部は1900年。甲子園は春2度、夏は今回が7度目。部員数は64人。主なOBに陸上ハンマー投げ・室伏広治。


成田V!“唐川2世”中川諒が1安打完封
2010年夏、ついに怪物が登場した-。成田・中川諒投手(3年)が25日、東海大望洋との千葉大会決勝で1安打11奪三振の快投を演じた。1-0で勝った成田は、1990年以来20年ぶり、7度目となる夏の甲子園出場。OBでもあるロッテ・唐川侑己投手(21)にそっくりの投球フォームから“唐川2世”と呼ばれる成田の「諒クン」が、大先輩も踏むことができなかった“夏のマウンド”にあがる。
中川が灼熱のマウンドで雄たけびをあげる。これが合図だった。エースのもとへナインが駆け寄る。20年ぶりの歓喜。尾島監督の胴上げに続き、中川も3度、真夏の空に舞った。
「ノーヒッターは意識しなかったけど、直球を投げれば打たれない自信がありました」
2万観衆の前に、この夏の“怪物”は出現した。111球、1安打の完封ショー。七回までは無安打投球。八回、先頭の岩堀(2年)に右前へのポテンヒットを許したが「ほとんどノーヒットノーラン」の快投だった。
唐川2世と呼ばれる中川。自らその道を選んだ。中学時代、成田高野球部のグラウンドを見学した際、唐川からサイン入りのタオルをもらった。同時に「成田で野球をやろう」と口説かれて入学を決めた。タオルは今でも寮の部屋に飾っている。
「唐川さんのゆったりとした左足の上げ方が、格好いいからマネています」
必死で追いかけた3年間。足の上げ方だけではない。スリークオーター気味に、やや右ひじを下げるフォーム。唐川の投球DVDを目に焼き付け、シャドーピッチングで体にたたき込んだ。
特訓も重ねた。昨年の12月から、通常より100グラム重い約240グラムの硬球を使い、1日おきに50球ほど投げ込んだ。
MAXは139キロ止まり。球種は直球とスライダーの2つだけ。それでもこの日は11奪三振。あこがれの先輩と同じ、初速と終速の差が少ない「打者の手元で伸びるストレート」で、頂点にかけあがった。
「唐川さんを超えた感じです。甲子園でも、一戦ずつ大切に投げて、野手を安心させる投球をしたい」
中学1年の春、甲子園のスタンドからマウンドの唐川を見つめた。今度は自分が、偉大なOBも果たせなかった“夏のマウンド”へ。怪物が聖地に乗り込む。


<夏の高校野球>成田が20年ぶり甲子園出場 千葉
第92回全国高校野球選手権千葉大会は25日、千葉マリンスタジアムで決勝があり、成田が東海大望洋を1−0で降し、20年ぶり7回目の夏の甲子園出場を決めた。
◆成田・中川、相手の強力打線に被安打1本
○…成田のエース中川は、春夏連続出場を目指す東海大望洋の強力打線を七回まで無安打に抑えた。「ノーヒット・ノーランは意識していなかった」が、八回、先頭打者に右前打を許した。結局、被安打はこの1本のみ。抜群の制球と伸びのある直球を武器に11三振を奪い無四球完封。06、07年のセンバツで好投したOBの唐川侑己(ロッテ)も千葉マリンスタジアムで観戦し、後輩の活躍に目を見張った。
◆成田(千葉) 1898年創立の私立。甲子園での最高戦績は47年夏と52年夏の4強。06、07年にセンバツ出場。


成田、20年ぶりの夏!投手戦制す/千葉
成田V「唐川2世」中川11K/千葉大会


長友1失点好投も…東海大望洋、春夏連続ならず
東海大望洋のエース長友は10安打されながら1失点と踏ん張ったが、打線が1安打と沈黙して春夏連続出場はならなかった。
中川の直球を狙うよう指示を出した相川監督は「外角の制球が良くて簡単にストライクを取られ、うちの選手が戸惑っていた」と脱帽。長友は「(適時打を)打たれた1本以外は悔いはない。(中川の)直球は凄く伸びてきていた」と目を真っ赤にしながら前を向いた。



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9回2死から追いついた!松本工“劇的”初切符
松本工のプロ注目右腕・柿田が176球を投げ切り、初の甲子園を劇的な逆転勝利で決めた。
全国最多36度目出場を狙う松商学園との近隣対決。2点リードされた9回2死無走者から、4番柿田の右翼線二塁打など中軸の3連打で追いつき延長戦に持ち込むと、10回に上原の適時打で勝ち越した。
柿田は今大会、3試合の延長戦を含む全6試合60回計832球を1人で投げ抜いた。スタミナ不足を解消するためにこの冬、学校までの往復14キロを自転車からランニングに替えた努力が実った。「ほかの代表校に低めのストレートがどれくらい通用するか試したい」と大舞台に闘志を見せる。中村監督も「柿田は凄い。うまく調整できれば活躍するでしょう」と、MAX142キロ右腕で信州旋風をもくろむ。
▼松本工
1939年創立の県立校。校訓は「錬磨創造」。


松本工、創部66年目初甲子園!エース柿田が6試合60回完投!!…長野大会
全国6大会で決勝が行われ、長野では松本工が名門・松商学園に勝利。プロ注目の143キロ右腕・柿田裕太(3年)が全6試合60イニングを投げ抜いた。26日には11大会で決勝が行われる。
柿田、柿田、雨、柿田―。底知れぬ馬力で松本工を史上初の甲子園に導いた柿田は、仲間と抱き合った。「気力でいくしかなかった。本当にうれしい」。涙が勲章だった。大会初戦から1人で投げ抜き、計60イニングの6連続完投で“信州の鉄腕伝説”を作った。
名門・松商学園に、最速143キロの直球とスライダーで勝負。延長10回を5失点ながら大量失点は許さなかった。今大会中に2度の延長戦を経験。「5回くらいから(右)肩が上がらなくなってきた」。痛みに耐え、逆転劇を呼び込んだ。
絶体絶命だった。2点を追う9回2死から、3連打で同点。延長10回は上原健士朗(3年)の勝ち越し打が飛び出し、「最後の最後で味方が打ってくれてうれしかった」と力投が報われた。
鍛えた肉体に強いハートが宿る。練習量が減る冬場は自宅から学校まで往復14キロを走り込み、下半身を強化。試合の朝はマリナーズ・イチローを見習って「朝カレー」を必ずペロリ。この日も母・美幸さん(43)が作る野菜たっぷりの特製カレーを食べて、厳しい暑さを乗り切った。
初めて聖地を踏む中村定史監督(61)は「今大会は一番いい投手がいた。いい状態なら甲子園でも面白い」とエースを信頼。信州が生んだタフネス右腕は「他校を圧倒したい」と大舞台でもマウンドを譲る気はない。
◆柿田 裕太(かきた・ゆうた)
1992年8月27日、長野県生まれ。17歳。明善小1年から野球を始め、小3から投手。明善中時代は松本南シニアでプレー。松本工では1年春からベンチ入り。180センチ、75キロ。右投右打。
◆松本工(松本市)
1939年創立の県立共学校。生徒数600人(女子18人)。野球部は45年創部。甲子園は春夏通じて初出場。部員数は53人。主なOBに御子柴進(阪神スコアラー)。


松本工が初の甲子園出場決める/長野
第92回全国高校野球選手権大会・長野大会(25日、松本市野球場)松本工が古豪・松商学園を延長十回、6-5で破り、春夏を通じて初の甲子園出場を決めた。
松本工は三回に2点を先制。四回に追いつかれると六、七回にも追加点を3点をリードされた。しかし八回に1点を返すと九回に2点を奪って同点に。延長十回、上原の右前打で二塁から佐野が生還し、決勝点となる1点を奪った。
追い付いた直後の九回、松本工のエース柿田は「絶対0点に抑える」と気合を入れた。直球は中盤までとは格段に違っていた。
準決勝まで5試合を1人で投げ抜いた。疲れは隠せない。球威が落ちた中盤につかまり逆転された。しかし、打線が驚異的な粘りをみせ、2点を追う九回2死から追い付く。大事なその裏。受ける捕手の大熊が「復活した」と評する直球で二つの三振を奪って延長戦に持ち込み、十回の勝ち越しにつなげた。
決勝戦を含め、6試合60イニングを投げ切った柿田。苦難を乗り越え、たくましくなったその直球を、夢舞台でも投げ込むつもりだ。


“400メートルご近所対決”松本工 名門を延長戦で倒し初出場
高校野球の長野大会決勝は25日、松商学園と松本工で決勝で対戦し、9回に2点差を同点とした松本工が延長10回に1点を挙げ、そのまま逃げ切り、春夏通じて初の甲子園切符を手にした。
1県1代表制が正式に採用された1978年以来、初の松本市内同士の激突。両校は松本市内を流れる薄川付近にあり、その距離は約400メートル。まさに白熱した“ご近所対決”だった。

ホントにご近所なんで…(笑)


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