ちょこっとGUM

今、自分が出来ること。やれること。それを精一杯やっていかなくちゃ!!

拾い読み★2016-115≪山本功児さん記事≫

2016年04月24日 07時27分00秒 | マリーンズ2016


山本功児さん死去 早すぎる64歳 ロッテ元監督、長嶋巨人第43代4番
 巨人、ロッテでプレーし、ロッテ監督も務めた山本功児氏が23日午後1時41分、肝臓がんのために北九州市内の自宅で死去した。64歳だった。山本氏は巨人、ロッテで計13年間プレーし、引退後はコーチ、監督など指導者を歴任。熱血で、かつ人情味のあふれる人柄は誰からも慕われた。昨年の育成ドラフト2位でDeNAに入団した長男・武白志(むさし)内野手(18)のために移住した九州の地で、永い眠りについた。
 さぞや無念だったろう。山本氏は長男・武白志が1軍でプレーする姿を見ることなく、天国へと旅立った。北九州市内の自宅で取材に応じた美砂子夫人は、「昨年8月下旬に入院して、そこから入退院を繰り返していました」と話した。今年3月12日に退院。しかしその際、山本氏は「もう、病院には戻りたくない」と訴えたという。この日の午前中に昏睡(こんすい)状態に。武白志は球団の許可を得て21日に自宅に戻っており、息を引き取った時には父の大きな手を握りしめていた。
 背番号44。忘れがたいバイプレーヤーであり、熱血漢で知られる指導者だった。75年ドラフト5位で篠塚和典(当時は利夫)、中畑清(スポニチ本紙評論家)らと同期で巨人に入団。一塁には王貞治という不動のレギュラーがいる中で、外野手も兼ねながら活躍した。79~80年には第43代4番打者として7試合に出場。ロッテに移籍した84年には、初めて規定打席に到達してリーグ9位の打率・301をマークした。堅実な一塁守備でダイヤモンド(現ゴールデン)グラブ賞を2度受賞。球宴にも82、85年と出場した。
 指導者としてはロッテ監督以外にも打撃コーチ、2軍監督などを歴任。とことん選手に付き合う熱い指導で福浦、サブローらを育て上げた。人情味あふれる真っすぐな人柄で、多くの関係者から慕われた。熱血漢ゆえに指揮官時代は審判に詰め寄ることもたびたびで、オープン戦でも退場処分を受けたほど。ファンはその熱い姿に声援を送った。巨人1年目の76年春季キャンプ。山本氏は当時の長嶋茂雄監督から何度もチャンスをもらい、「どんな選手も体験で強くなる」と痛感したという。自身も2軍から昇格した選手は即起用し、ミスを犯しても必ず次のチャンスを与えた。
 08年には慢性心不全を発症。入退院を繰り返す中で山本氏が選択したのが、神奈川から福岡への「移住」だった。武白志が13年に九州国際大付に進学。しかし寮生活になじめず体重が15キロ近く減った。父は「俺はもう、どこに住んだっていい。息子が困っているんだったら近くに住もう」と夫人とともに福岡に移り住んだ。昨夏も体調が優れない中、甲子園で観戦。武白志が大阪偕星学園戦で2打席連続アーチを放った際には「よう打ったよ。1本目の時は涙が出た」と喜んだ。再入院したのはその直後だった。
 ロッテ監督を務めた5年間は全てBクラス。しかし退団から2年後の05年に、山本氏の指導で成長した選手らの手によってチームは日本一に輝いた。幼少時から父の背中を見て、練習にも付き添ってもらった武白志が、今度は亡くなった山本氏の遺志を継いでいく。

 ◆山本 功児(やまもと・こうじ)1951年(昭26)12月25日、兵庫県生まれ。三田学園では3年センバツ8強。法大、本田技研鈴鹿を経て75年ドラフト5位で巨人入団。控えの一塁手として、1年目から貢献し開幕3戦目の4月6日大洋戦で初出場(代打)。84年ロッテに移ると正一塁手として同年から2年連続ゴールデングラブ賞に輝き88年オフに引退した。翌年からはコーチとなり97、98年は2軍監督、99年からは1軍監督に昇格し、03年まで指揮。古巣の巨人でも04年に2軍、05年に1軍でいずれもヘッド兼打撃コーチを務めた。左投げ左打ち。現役時1メートル86、84キロ。

元担当記者が山本氏を悼む つえをバットに 病床から武白志に最後の助言
 とにかく「情」の人だった。
 ロッテの監督時代。福岡遠征では現役時代から通う中洲の屋台「大政」に顔を出すのが常だった。そこを狙って担当記者やロッテファンまで駆けつけたが、嫌な顔もせず招き入れてくれた。屋台でファンと飲み交わし、本気で議論する監督など、その後も見たことはない。
 巨人からの移籍組。だが、ロッテの2軍監督時代、スタッフを守るため重光昭夫オーナー代行に「自分はともかく生え抜きは大事にしてやってください」と直談判した。すると重光オーナー代行から「君のことも生え抜きと思っている」と言われ感動。「その時、巨人のことは忘れないかんと思った」と後に聞いた。
 最後の望みは愛息・武白志君のユニホーム姿を見ることだった。病院で寝込んでいた3月1日。卒業式に出席するため福岡に戻った息子と、わずかな時間ながら病室で対面した。「武白志、頑張れ」。握手を交わし、別れた二人は互いに涙を流したという。この時、すでに死期が近いことを悟っていたのだろう。
 後日、功児さんは病院のベッドに横たわりながら最後の力を振り絞って、アドバイスを送っている。妻・美砂子さんの携帯電話の動画を通じ、つえをバットに見立て「こう使うんだ」とヘッドの利かせ方を力説した。野球人・山本功児らしい最後のアドバイス。武白志君の胸にずっと刻まれるに違いない。合掌。 (01年ロッテ担当・白鳥健太郎 現スポーツ部デスク)

有藤氏 山本氏の訃報に「若いのに残念のひと言」
 かつてロッテでともにプレーした有藤通世氏(スポニチ本紙評論家)は、山本氏の訃報に「(体調が)良くないとは聞いていたが…。若いのに残念のひと言」と話した。
 有藤氏がロッテ監督だった88年に山本氏は現役を引退。89年には指揮官と打撃コーチという関係で、「野球に対して真面目。本当に熱心で、打撃のことをよく勉強していた。自分の型にはめるのではなく、選手個々に合わせた指導法だった」と当時を振り返った。

山本氏長男所属のDeNA高田GM「本人が一番無念だと思う」
 DeNAの高田繁GMは2週間前に山本氏から電話があったことを明かし「その時は元気だった。退院したと聞いていたんだけどね…。早いし、残念だね」と話した。
 巨人時代にともにプレーし、今季から長男の武白志が育成選手としてチームに所属している。「彼からは厳しく指導してくれと言われた。早く元気になって、息子が活躍するのを楽しみにしていたと思う。本人が一番無念だと思う」と沈痛な表情を浮かべた。

恩師逝く…教え子ら別れ惜しむ ロッテ小林投手コーチ「育ててくれた」
元ロッテ監督の山本功児氏の死去を受け、ロッテ時代の教え子ら関係者が別れを惜しんだ。
 ロッテの小林雅英投手コーチは「僕を育てて、我慢して使ってくれた方。ご冥福を祈るしかない」と肩を落とした。小林コーチを抑えとして起用したのが当時ロッテ監督の山本氏だった。通算228セーブを挙げ「功児さんのおかげで今の立場にいる」と話した。
 ロッテの堀幸一打撃コーチは「非常に熱い方だった。ゆっくり休んでいただきたい」と語り、サブロー外野手は「全てのことを教えてくれた父親のような存在。悲しい気持ちでいっぱい」と惜しんだ。
 巨人時代の同僚で、現在は山本氏の長男、武白志内野手を育成選手として預かるDeNAの高田繁ゼネラルマネジャーは「2週間前に電話があって、息子を厳しく指導してくれと言われた。息子を教えたりしたかっただろう」と語った。
(以上 スポニチ)

元ロッテ監督の山本功児氏が死去 64歳肝臓がん
 プロ野球の巨人、ロッテでプレーし、ロッテで監督を務めた山本功児(やまもと・こうじ)氏が23日午後、肝臓がんのため、北九州市内の自宅で死去した。息子の武白志選手が育成選手として所属するDeNAが発表した。64歳。兵庫県出身。葬儀・告別式などの日程は未定。
 兵庫・三田学園高から法大に進み、本田技研鈴鹿(現ホンダ鈴鹿)を経て1976年にドラフト5位で巨人入り。84年にロッテに移籍し一塁に定着すると打率3割1厘を記録し、翌年も2割9分3厘。この2年間はゴールデングラブ賞にも選出された。88年限りで現役引退。通算成績は1217試合で打率2割7分7厘、64本塁打、369打点。オールスターゲーム出場2度。
 引退後の89年からはロッテで打撃コーチや2軍監督などを歴任し、99~2003年は監督を務めた。打撃指導に定評があり、ロッテの福浦和也選手ら多くの主力を育てた。巨人でも1、2軍でコーチを務めた。

王会長「守備うまく…巧打者」元同僚山本氏の死悼む
 ソフトバンク王貞治球団会長(75)が山本功児氏の死を悼んだ。
「突然の訃報に驚いています。巨人で長嶋監督時代に一緒にプレーしましたが、うらやましいほどに守備がうまく、打撃は名前の通り、まさに功(巧)打者でした。引退後もロッテの監督をされるなど、野球界の発展にも貢献されました。まだお若かったのに大変、残念です。心よりご冥福をお祈りいたします」。
(以上 日刊)



元ロッテ監督・山本功児氏、がんで死去…長嶋氏「これからというときに」
 巨人、ロッテで一塁手、外野手として活躍し、1999-2003年にはロッテで監督を務めた山本功児(やまもと・こうじ)氏が23日、肝臓がんのため、北九州市内の自宅で死去した。64歳。大阪府出身。現役時代は勝負強い打撃でオールスターに2度出場したほか、一塁での堅実な守備でゴールデングラブ賞も2度獲得。多くのファンに愛された「背番号44」が静かに天国へ旅立った。
 志半ばだった。午後1時41分。山本氏は北九州市内の自宅で息を引き取った。死因は肝臓がん。夫人の美砂子さんは「昨夏の甲子園終了後から入退院を繰り返し、3月12日に退院。最期は本人の希望で自宅療養していました」と打ち明けた。
 今年、DeNAの育成選手として息子の武白志(むさし、18)はプロ野球選手になった。チームから自宅に戻るよう指示され、3日前に父と対面。山本氏はがんであることを告知されていたという。
 巨人時代のチームメートだったDeNAの吉田孝司編成スカウト部長(69)は「『育成の分際で帰ってくるな。もっと練習しろ』といって帰ってくるのを止めていたが、息子を送り出した」と説明。「2月に見舞いに行ったときは『腹にたまった水を抜くとよくなる』といっていた」と振り返った。
 高田繁ゼネラルマネジャー(70)も「3年前には春のキャンプで臨時コーチをやってもらったけど、元気だった。息子が一人前になって、教えられたらいいな、とも言っていた」と早すぎる死を悼んだ。2013年オフには一部で「DeNAのヘッドコーチ就任」と報じられたが、美砂子さんは「とても引き受けられる体調ではなかった」と明かした。
 山本氏は兵庫・三田学園高3年時の1969年にセンバツで8強入り。同年のドラフトで南海(現ソフトバンク)から3位指名を受けたものの、法大に進学。卒業後は本田技研鈴鹿(現ホンダ鈴鹿)でプレーし、76年にドラフト5位で巨人に入団した。
1メートル87、80キロと恵まれた体で左の大型野手と期待されたが、一塁には王貞治がいた。それでも外野手や代打で出場。勝負強い打撃には定評があり、7試合で「第43代4番」を務めた。
 81年8月26日の巨人-中日(後楽園)では代打として遊撃後方へ飛球を放ち、中日・宇野勝が捕れずに頭に当てた“ヘディング事件”は今も珍プレーとして語り継がれる。トレードでロッテへ移籍した84年に初めて規定打席に達し、リーグ9位の打率・301をマーク。一塁手としては同年から2年連続でダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を受賞し、「背番号44」は多くのファンに愛された。
 引退後の89年からロッテで2軍監督などを歴任し、99-2003年は監督を務めたが、一度もAクラスに届かず。それでも指導に定評があり、投手として入団した福浦を野手に転向させ、巨人でも1、2軍でコーチを務めた。
 武白志が福岡・九国大付高へ進学したことを機に北九州市へ引っ越し。息子は「(父は)帰りたいと思う」と母に伝え、以前住んでいた横浜市で葬儀・告別式を執り行うことになったという。山本氏は息子の心づかいで住み慣れた街に戻り、巨人、ロッテなど多くの球界関係者に見送られる。

巨人・長嶋茂雄終身名誉監督「以前から悪いと聞いていましたが、こんなに早く亡くなってしまい、びっくりしています。あんなに楽しみにしていた息子さんがベイスターズに入って、これからというときに亡くなってしまうとは…。人柄がよく、先輩からかわいがられ、後輩からも慕われていました」

ソフトバンク・王貞治球団会長「巨人で長嶋監督時代に一緒にプレーしましたが、うらやましいほどに守備がうまく、巧打者でした。まだお若かったのに、大変残念です」

★葬儀日程
 山本功児氏の通夜は25日午後6時から、葬儀・告別式は26日午前9時半から、いずれも横浜市青葉区あざみ野南1の2の6、シティホール江田で。喪主は妻、美砂子(みさこ)さん。

山本 功児(やまもと・こうじ)
 1951(昭和26)年12月25日生まれ。大阪府出身。三田学園高から法大、本田技研鈴鹿(現ホンダ鈴鹿)を経て1976年ドラフト5位で巨人入団。84年にロッテに移籍し、88年に現役引退。オールスターゲーム出場2度、ゴールデングラブ賞(一塁手)2度。引退後はロッテで打撃コーチなどを歴任し、99年から2003年まで監督。巨人でもコーチを務めた。左投げ左打ち。長男の武白志(むさし)はDeNAの育成選手。

ロッテ・福浦「恩人です。寂しい」

山本氏が2軍打撃コーチ時代に投手から打者に転向したロッテ・福浦
「今の自分があるのも山本さんのおかげ。恩人です。寂しい」

ロッテ・サブロー
「入団したときからファームですべてのことを教えてくれた父親みたいな存在の人。悲しい気持ちでいっぱいです」

ロッテ・小林投手コーチ「現役時代に抑えをやってみるかといわれたのが、当時の山本監督。博多の屋台でいろいろ教えてもらったことが思い出です」

ロッテ・堀打撃コーチ「若いころ、先輩に遠慮するな、自分が引っ張っていけとよくハッパをかけられました。コーチの立場になってみると、大事なことを教わりました」

法大の先輩にあたる黒田正宏・元阪神ヘッドコーチ(サンケイスポーツ専属評論家)
「息子さんの将来を楽しみにしていた。すごく礼儀正しい人だった」 

法大で後輩だった阪神・高代ヘッドコーチ
「体が悪いとは聞いていました。お悔やみしかありません」

堀内恒夫・元巨人監督「現役時代は長いリーチと柔らかい打撃で、私が好きなタイプの打者。とにかく野球が好きで熱い。おとなしそうに見えて熱血漢でした。私が監督(2004、05年)の時にヘッドコーチ兼打撃コーチとして手伝ってくれて、本当にありがとうと言いたい」

巨人OB会長の柴田勲氏「一緒にやったのは5、6年だったかな。守備がうまくてね。おとなしい人間だった」

巨人で同僚だった中畑清・前DeNA監督
「日米大学野球で一緒に渡米して以来の戦友。(巨人で)私が一塁のポジションを奪う形になったときも、嫌な顔ひとつしない。チームを思って行動できる人だった。武白志の成長を見守っていきたい」

山本氏がコーチを務めていたころを振り返った巨人・高橋監督
「チームがなかなか勝てないときで苦しいときでした。もっと僕らがいい成績を残し、いい思いができればよかった。僕も(当時の)苦しい経験というのが今も生きていると思いますし、これからも生かしていければ、と思います」

巨人・村田ヘッドコーチ
「優しい先輩だった。残念としか言いようがない」

山本功児氏、『浩二さん』とやじられても…「僕は“ニセコージ”でいい」
突然届いた山本功児氏(享年64)の訃報。故人を知る巨人、ロッテ、法大などの関係者は、早すぎる死を悲しんだ。また、巨人ヘッドコーチ時代の2005年に親交があった塚沢健太郎記者(44)が当時を振り返った。
体調が悪いとは聞いていたが、まだ若すぎる。残念な思いでいっぱいだ。
 子供のころにファンだった功児さんを初めて取材したのが、2005年の巨人ヘッドコーチ時代。遠征先では食事によく誘ってもらい、一緒にバッティングセンターにも行った。
 この年は5位。コーチ退任後、巨人戦の解説で広島を訪れた功児さんとお好み焼き店へ。広島で「山本こうじ」といえばもちろん、ミスター赤ヘルの山本浩二さんだ。
 おかみさんと名前の話になると、「山本浩二さんは法政(大学)の先輩で尊敬していますから。僕は“ニセコージ”でいいんです。よく広島や甲子園でやじられましたけど、僕は関西人ですから。ああいうジョークはOKです」。器の大きい人だった。
 その半面、ロッテ監督時代にはオープン戦で退場になったこともある熱血漢。巨人のヘッドコーチを務めていた2005年8月4日の広島戦では7番で起用された清原和博が本塁打を放った後、ベンチ前でハイタッチを拒否したことを執拗に聞いた他社の記者と口論になった功児さんを、止めに入った私が突き飛ばされたこともあった。
 火がつくと、周りがみえなくなってしまう。翌日、その話をすると「悪かったな…。殴られなくてよかったな」と謝られ、冷や汗をかいたことを思い出す。
 近年はプロ野球界と距離を置いていた。DeNAに入団した息子の武白志(むさし)に小学生時代から英才教育を施し、プロ野球選手に育て上げた。教えることが大好きだった功児さん。もう一度ユニホームを着て、指導する姿を見たかった。 (西武担当・塚沢健太郎)
(以上 サンスポ)

山本功児さん、肝臓がん64歳で死去 長嶋巨人、代打の切り札
 巨人、ロッテで活躍し、現役引退後はロッテ監督や巨人のヘッドコーチなどを務めた山本功児氏が23日午後1時41分、肝臓がんのため北九州市内で死去した。64歳だった。1976年に巨人入り。長嶋巨人の下で代打の切り札として活躍。84年に移籍したロッテでは中軸を務めた。99~2003年にはロッテ監督を務めた。ここ数年は、体調を崩して入退院を繰り返していた。長男はDeNAの武白志(むさし)内野手(18)。葬儀・告別式などの日取りは未定。
 山本さんはこの日午前、北九州市の自宅で昏睡(こんすい)状態となった。最期は美砂子夫人に見守られ、武白志選手の手を握りながら、静かに息を引き取った。苦しんだ様子もなく、とても穏やかな表情だったという。
 2008年から慢性心不全の治療を受けていた。武白志選手が九州国際大付へ進学した13年、横浜市から北九州市へ転居。14年ごろから再び体調を崩し、入退院を十数回繰り返した。
 そんな中、身を削って、愛息を応援した。昨年7月、「(14年に続いて)武白志をもう一度、甲子園へ行かせたい」と、夏の高校野球福岡大会中、病院にも行かず球場のスタンドで声をからした。昨秋から体調を崩して、再び入院。今年3月12日に退院した後は「頑張って歩けるようになって、横浜へ息子を見に行く」と決意。自宅で懸命に闘病していた。
 山本さんは中学時代から183センチ、75キロの体格を誇った。三田学園高3年の69年、1学年下の淡口憲治(元巨人)とクリーンアップを組んでセンバツ8強。同年ドラフトで南海から3位指名を受けるも、東京六大学野球に興味を持ったこともあって入団を拒否。法大、本田技研鈴鹿を経て75年ドラフト5位で巨人に入団した。1年目から代打および一塁・王貞治のバックアップとして1軍で活躍し、76年の長嶋巨人V1に貢献した。
 79、80年には第43代4番打者を計7試合務め、4番で通算29打数11安打の打率3割7分9厘、2本塁打。81年の巨人・中日戦(後楽園)で、遊撃・宇野が飛球を頭部に受けてボールが大きく跳ねる“珍プレー”があったが、この飛球を打ったのが山本さんだ。84年に三宅宗源投手とのトレードでロッテへ移籍。落合博満とともに打線を支え、初めて規定打席に到達。2年連続でダイヤモンド・グラブ賞(現ゴールデン・グラブ賞)を受賞した。
 88年の現役引退後、99~2003年にロッテ監督。いずれの年もBクラスに終わったが、福浦、サブロー、里崎、小林宏らを辛抱強く起用し、05年優勝の礎を築いた。04年に巨人2軍ヘッド兼打撃コーチ、05年に同1軍ヘッド兼打撃コーチとして堀内巨人を支え、06、07年にはスポーツ報知評論家も務めた。

 ◆山本 功児(やまもと・こうじ)1951年12月25日、大阪府生まれ。三田学園高から69年ドラフトで南海に3位指名されるも、法大へ進学し、ベストナイン2度。日米大学野球にも2度選出された。本田技研鈴鹿(現ホンダ鈴鹿)を経て、75年ドラフト5位で巨人に入団。84年ロッテへトレード移籍し、88年引退。引退後はロッテのコーチ、2軍監督を経て、99~2003年にロッテ監督。04、05年は巨人のコーチを務めた。

ロッテ・福浦「野球人生の恩人」教え子、元同僚が悲しみの声…山本功児さん悼む
 山本功児さんの死去を受け、ロッテ時代の教え子らが別れを惜しんだ。ロッテ監督としては5年間で通算勝率4割7分9厘と優勝争いに絡むことがなかったが、退任2年後の05年、育てた主力がバレンタイン監督の下で日本一を達成した。
 01年のパ・リーグ首位打者、福浦和也内野手は入団時に山本さんが2軍打撃コーチで、投手から野手への転向を勧められた。2軍監督だった山本さんに送り出されて1軍デビューし、1軍で監督となった恩師の下で首位打者になった。「今の自分があるのは山本さんのおかげ。恩人です。野球人生の最後まで見届けてほしかったのですが、寂しいです」
 ロッテの小林雅英投手コーチは「僕を抑えで使う決断をした人。我慢して使って、プロとして育ててもらった。ご冥福を祈るしかない」と肩を落とした。小林コーチを抑えとして起用したのが山本さんだった。通算228セーブを挙げ「功児さんのおかげで今、僕はこの立場にいられる。感謝しています。ウィニングボールを渡したときのうれしそうな顔が思い浮かびます」と語った。

山本功児さん死去に長嶋終身名誉監督「みんなに愛される素晴らしい人柄」
 巨人、ロッテで活躍し、現役引退後はロッテ監督や巨人のヘッドコーチなどを務めた山本功児氏が23日午後1時41分、肝臓がんのため北九州市内で死去した。64歳だった。1976年に巨人入り。長嶋巨人の下で代打の切り札として活躍。84年に移籍したロッテでは中軸を務めた。

 ◆巨人・長嶋茂雄終身名誉監督「以前から体調がすぐれないと聞いてはいましたが、あまりに突然で言葉が見つかりません。現役時代から、みんなに愛される素晴らしい人柄の持ち主でした。一昨年の冬、巨人時代の仲間たちと一緒に食事した時に、野球に打ち込む武白志君のことを熱く語っていた姿が忘れられません。1軍で活躍する日を楽しみしていたはずです。それを思うと、余計に残念です」

 ◆ソフトバンク・王貞治球団会長「突然の訃報に驚いています。巨人で長嶋監督時代に一緒にプレーしましたが、うらやましいほどに守備がうまく、打撃は巧打者でした。野球界の発展にも貢献されました。まだ若かったのに大変残念です」

 ◆巨人・高橋由伸監督「(05年に1軍の)ヘッドコーチでね、チームはなかなか勝てない時で苦しい時だったけども、もっと僕らがいい成績を残して、いい思い出をとできれば良かったんですが。僕は当時の苦しい経験が今も生きていると思いますし、これからに生かしていければいいと思います」

 ◆中畑清氏(前DeNA監督。76年に山本氏と同期で巨人入団)「73年に日米大学野球で一緒に渡米して以来の戦友。よくかわいがってもらった。81年に私が一塁のポジションを奪う形になったときも嫌な顔ひとつしない。チームや仲間のことを思って行動できる人だった。少しでも恩返しになるなら、武白志の成長を見守っていきたい。故人の一番の心残りだろうから」

 ◆巨人・村田真一ヘッドコーチ(巨人でともにプレー)「声もかけてもらったし、優しい大先輩というイメージしかない。自分が19か20歳の時に『おう、頑張れよ』と声をかけてもらった。優しい人だった」

 ◆仁志敏久氏(元巨人)「(Vを逸した後の04、05年の)チームが難しい時期に来られて、選手との距離感も難しかったと思うが、いつも選手にはすごく優しくて、選手の邪魔をしないようにしてくれていた、温かい人だった」

 ◆侍ジャパン・小久保裕紀監督(巨人に在籍していた05年に山本さんがヘッドコーチ)「小さい頃から巨人ファンだったのでいつも見ていた。息子が支配下登録されることが、恩返しになると思う」
(以上 報知)

山本功児氏が死去 64歳、早過ぎる…
 巨人、ロッテでプレーし、ロッテで監督を務めた山本功児(やまもと・こうじ)氏が23日午後、肝臓がんのため、北九州市内の自宅で死去した。息子の武白志内野手(18)が育成選手として所属するDeNAが発表した。64歳。大阪府出身。葬儀・告別式などの日程は未定。現役時代の通算成績は1217試合で打率・277、64本塁打、369打点。オールスターには2度出場した。
 山本氏は兵庫・三田学園高から法大に進み、本田技研鈴鹿(現ホンダ鈴鹿)を経て1976年にドラフト5位で巨人入りし、第43代の4番を務めた。84年にはロッテに移籍し一塁に定着すると打率・301を記録し、翌年も・293。この2年間はダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)にも選ばれた。
 88年限りで現役を引退し、89年からはロッテで打撃コーチや2軍監督などを歴任し、99~2003年は監督を務めた。打撃指導に定評があり、ロッテの福浦ら多くの主力を育てた。巨人でも1、2軍でコーチを務めた。
 熱い男だった。口癖は「若いときはとにかくバットを振るしかないんだ」。とことん選手に付き合う熱血コーチとして打者育成の手腕が高く評価された。ロッテ監督としては5年間で通算勝率・479と優勝争いに絡むことがなかったが、退任2年後の2005年、育てた主力がバレンタイン監督の下で日本一を達成した。
 01年のパ・リーグ首位打者、福浦は入団時に山本氏が2軍打撃コーチで、投手から野手への転向を勧められた。2軍監督だった山本氏に送り出されて1軍デビューし、1軍で監督となった恩師の下で首位打者になった。「今の自分があるのは山本さんのおかげ。恩人です。野球人生の最後まで見届けてほしかったのですが、寂しいです」と話した。
 ドラフト7位から主力に成長したまな弟子を引き合いに「せっかく福浦というお手本がいるんだから、みんな見習ってほしい」と話したように、監督時代の山本氏はガッツを表に出さない若手に厳しかった。負けが込み「もっと悔しがらないと。悔しければ、もっと努力しようと思うんだ」と話したこともあった。審判員に詰め寄ることもたびたびで、ファンはその熱い姿に声援を送った。

功児氏、生前に「息子に厳しく…」
 巨人、ロッテでプレーし、ロッテで監督を務めた山本功児(やまもと・こうじ)氏が23日、肝臓がんのため、北九州市内の自宅で死去した。DeNAの高田繁GM(70)が盟友と最後に話したのは2週間前だった。東京ドームで取材に応じた。
 「確か2週間前くらい前、電話があった。元気だったよ。『息子に厳しくやってくれ』と頼まれた」。高田GMが最後に聞いた言葉は、育成の長男・武白志を託すものだった。
 現役時代は巨人のチームメートとして5年間一緒にプレー。「バッティングも勝負強かった。駒田が出てくるまで、ファーストなら一番上手だった」と当時を振り返った。
 体調を崩してからは、武白志の成長を楽しみにしていたという。「息子がプロに入って、こっち(横浜)に戻ると言っていた。もともと息子について福岡に行ったんだから。直接指導するのを楽しみにしていたんじゃないの?本人が一番無念だと思う」と故人の心中を推察していた。
(以上 デイリー)

山本元監督の訃報に際し、謹んでお悔やみ申し上げます。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 拾い読み★2016-114≪コラム記事≫ | トップ | 拾い読み★2016-115 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

マリーンズ2016」カテゴリの最新記事