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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




日本と国交がない、承認していない国として以下の国々が挙げられる。(国際連合加盟国の1か国以上から国家の承認を請けている国家のうち)

中華民国(台湾)、 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、パレスチナ国、 北キプロス・トルコ共和国、アブハジア共和国、南オセチア共和国、マルタ騎士団、サハラ・アラブ民主共和国、ニウエ

各々について理由や考え方があるが、これは必ずしも永続的なものではない。例えばソマリアについて、1991年の内戦後の暫定政府を日本政府は国家として承認していなかったが、2012年8月に暫定政権の統治が終了して発足したソマリア連邦共和国政府を正式に承認することになった。

さて、2011年3月に日本はクック諸島を国家として承認した。この時の外務省の報道発表は以下のとおりである。

クック諸島の国家承認 - 外務省
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/23/3/0325_09.html

1. 本25日(金曜日)の閣議で,ニュージーランドと自由連合関係にあるクック諸島を国家承認することを決定しました。
2. 今後,国際場裡における協力を含め,クック諸島との関係を強化していく考えです。


自由連合とは、対等な国家間で外交や防衛などの権限を委任する関係であり、「アメリカ合衆国 - パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦」「ニュージーランド - クック諸島・ニウエ」の2例がある。
日本はアメリカと自由連合関係にあるパラオ共和国、マーシャル諸島共和国、ミクロネシア連邦について既に国家承認しているが、ニュージーランドと自由連合関係にあるクック諸島とニウエについては承認がなかった。クック諸島とニウエの住民はニュージーランドの市民権を持つため、国家の三要素の内「人民」を充たさず、独立国としての性格が曖昧であるという理由によるものだ。しかし、それではクック諸島を承認し、ニウエを承認しないのは整合性が取れないことになる。クック諸島が近年積極的な外交の働きかけを展開しており、承認する国が増えたからという環境によるもののようだ。

さて、クック諸島とニウエはともにニュージーランド王国を構成する自治領域であり、ニュージーランドと自由連合の関係にある。
ニュージーランド王国は、ニュージーランド、クック諸島、ニウエ、トケラウ、ロス海属領(南極)からなる。ロス海属領はニュージーランドが領有権を主張している南極の地域なので、総面積はニュージーランドよりも広いが実質的には基地だけである。
残るクック諸島、ニウエ、トケラウを間単に比較すると基本データは以下のとおりである。

 クック諸島 (Cook Islands)  首都:アバルア 人口:10,447人(2013年) 面積:236 km2
 ニウエ (Niue)  首都:アロフィ 人口:1,229人(2013年) 面積:260 km2
 トケラウ (Tokelau)  首都:なし 人口:1,353人(2013年) 面積:10 km2



各々についてもう少し具体的に見てみると、クック諸島は面積が236km2で、世界で8番目に小さい国だ。南太平洋ポリネシアに点在する15の主要な島からなる。ニュージーランド本土からは2000km以上離れていてかなり遠い。クック諸島の国民はニュージーランドの市民権およびパスポートを持っており、ニュージーランド人としての権利を持っている。
2001年以降諸外国との外交関係の樹立を積極化させ、現在は国連に加盟する31か国およびバチカン、欧州連合と外交関係を締結した。

クック諸島政府公式サイトは以下のとおりで、とてもトロピカルだ。
http://cook-islands.gov.ck/



ニウエは面積が260km2。経済の低迷により、2000人程度あった人口は徐々に減少しているという。ニウエは世界最大のサンゴ礁の島で、海面上約60メートルに渡って石灰岩の断崖がそそり立ち、その地形がほぼ島全体を縁取っている。
主産業はパッションフルーツなどの農業だが、農地不足、水不足に加えてサイクロンにたびたび襲われる状況であり、ニュージーランドへ移住する住民が増加している。観光が期待されるが、魅力的な観光資源に恵まれず、またサイクロンにより国営ホテルが壊滅する被害を受けるなど、限定的となっており、外貨獲得手段として、切手の販売や、ccTLDのnuドメイン販売などを行っている。
ニウエは2007年に中華人民共和国、2012年にはインドと外交関係を樹立しており、この2ヵ国は独立国として承認している。

ニウエの概要や歴史については、以下のサイトにある放送 (歴史の授業) がとても詳しい。
世界一周!チラ見の世界史 ≪第030時間目≫ニウエの歴史
http://tabitabi-podcast.com/sekachira/?p=646



トケラウは面積が10km2で、これは独立国 (バチカン市国 0.44km2、モナコ公国 2km2)、保護領、自治領を含めて5番目の小ささになる。アタフ島、ヌクノノ島、ファカオフォ島の三つの環礁からなる。
ニュージーランド本土から4000kmも離れており、また空港がないので訪問手段は船しかなく、サモアのアピアから24~36時間かかる。
わずかに農業と漁業が行われているが、自給的なものが中心であり、そのため島内での民間雇用は厳しく、出稼ぎ者からの送金や仕送りに頼る部分が大きい。
地理的にサモアとつながりが深いため、例えば2011年にサモアが標準時の日付を1日進める動きに合わせ、トケラウも標準時を変更した。

ニュージーランドが国連からトケラウの自決権を認めるように求められているため、2006年と2007年にトケラウの住民投票によって自由連合へ移行が問われたが、60%(2006年)が賛成だったものの必要な2/3を満たせずに現状維持となっている。これは上記のような地理的、経済的な要因が大きそうだ。



このようにニュージーランド王国の3つの「くに」は、現状では 1. 認められた国家:クック諸島、2. 認められていない国:ニウエ、3. 自治領:トケラウ ということになるが、これは流動的であり、クック諸島のが認められた国家となったように、今後ニウエやトケラウのステージが上がることは充分に考えられる。そのための鍵となるのは経済であり、個人レベルでの観光や関心が「国家」の創造に繋がるかもしれない。今後の動きに注目したい。



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未来の予測について、確かなものというのは全くないが、人口増減や年代別構成をもとにした将来人口推計はマクロに捉えると比較的可能性の高い予測であると考える。そして、将来人口推計は世界や各国の経済、医療、福祉、環境、食料など様々な問題に対して重要な対策指標となる。

日本の人口が1億人を突破したのは1966年3月のことだが、その頃(1965年)の人口ピラミッドは以下のようなものだった。戦争による人口の落ち込みのがある世代(1939年、1945-1946年)があるが、1947-1949年の第1次ベビーブーム世代が15~19歳世代となり、近い将来に希望が見える構成だった。実際にこの世代が日本経済の発展を中心となって支えていった。この年の日本人の平均寿命は男性68.4歳、女性72.9歳で、合計特殊出生率は2.14だった。



データ:世界の人口ピラミッド(1950~2100年)
http://populationpyramid.net/ja/%E4%B8%96%E7%95%8C/

現在(データの関係上2010年)の日本の人口は1億2700万人で、以下のようなピラミッドである。上記の第1次ベビーブーム世代(60~64歳)と、1970-1974年の第2次ベビーブーム(35~39歳)の世代が多く、少子化の影響で壺型になっていることがよくわかる。この年の日本人の平均寿命は男性79.6歳、女性86.4歳で、合計特殊出生率は1.39だった。これでは年金制度は維持できない。



日本は典型的な先進国型であり、医療の進化、晩婚化、女性の社会進出などにより、必然的に少子高齢化を迎えている。このまま進むと2050年には75~79歳世代が最も人口が多くなり、更に2100年には全ての世代が少子化傾向の中で生まれたことになり、結果としてどの世代も同じような構成になってしまい、人口は8400万人程度にまで減ると見られている。こうなると経済市場としてボリュームは期待できない。

 

さてその2100年には、世界全体の人口は現在の約70億人から約108億人に増えると予測されている。そして地域別の人口構成は激変する。



日本経済新聞 2011年5月5日 2100年 人口分布が激変 アフリカ急増、全体の35%
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM04043_U1A500C1FF2000/

国連が公表した世界人口推計(2010年版)は、地域別の人口分布が2100年までに大きく変わると予測した。世界総人口にアフリカ地域が占める比率は2100年に35%となり、11年現在比20ポイント増になる見通し。アジアは依然トップだが、比率は同15ポイント減の45%へ低下する。経済格差や食料・水不足などの問題への地球規模での取り組みが一段と重要性を増しそうだ。
国連推計では現時点で世界人口の42%が出生率の低い少子化国に居住している。少子化国には日本、ロシア、ドイツ、ベトナムのほか中国、イランが含まれる。一方で、持続可能な世界のためには、アフリカを中心とした多産国での出生率引き下げが欠かせないとの見解を示している。

2100年の国別人口トップ10は次のとおり。

世界と主要国の将来人口推計
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1151.html

1. インド  15.5億人
2. 中国  10.9億人
3. ナイジェリア  9.1億人
4. 米国  4.6億人
5. インドネシア  3.2億人
6. タンザニア  2.8億人
7. パキスタン  2.6億人
8. コンゴ  2.6億人
9. エチオピア  2.4億人
10. ウガンダ  2.0億人

このようにナイジェリアの9.1億人 (現在は1.6億人) など、アフリカ諸国が数多くランクインする。日本経済新聞の記事にあるように人口の1/3はアフリカ人になると推測される。
この中で私が注目しているのは西アフリカの内陸国・ニジェールだ。現在の人口は約1600万人だが、合計特殊出生率が7.15(2005~2010年)と、極端な数字で世界一である。従って現在の人口ピラミッドは以下のような山型であり、2100年には人口が2億人に達すると見られている。2010年から2100年にかけての増加率は世界で唯一10倍を超える。

 

しかし、これは予測ではなく警告と捉えるべきものである。実際問題としてニジェールの子どもたちは深刻な食料危機に面している。

Save the children 【PICK UP!】ニジェールの食糧危機と子どもたち
http://www.savechildren.or.jp/scjcms/everyone.php?d=706

【ニジェールの子どもたち 基礎情報(2008年現在)】
- アフリカにおける最貧国のひとつ。
- 5歳未満の子どもの死亡率: 1,000人に167人が死亡。世界で13番目に高い。 ※参考:日本では1,000人に4人が死亡。
- 5歳未満の子どもの43%が慢性的な栄養不良に苦しんでおり、50%が栄養不良により死亡。その他に、死亡原因として、マラリア、下痢、感染症など。
- 7人に1人の女性が出産に伴い死亡している。

ニジェールでは、干ばつや未発達の農業システム、人口の増加、貧困などに起因した食糧危機が慢性的かつ構造的に発生しています。また、この10年間で状況は改善されつつありますが、医療サービスの不足も問題となっています。子どもは2歳までに栄養不良を経験すると心身の発達に大きな影響を受けることから、これらの問題は大きな課題となっています。
2000年9月に国連ミレニアム・サミットにおいて合意されたミレニアム開発目標には、2015年までに5歳未満児の死亡率を1990年の3分の1に削減することを掲げられています。上述したニジェールの状況は、このミレニアム開発目標を達成するには、未だ遠い数値となっています。
2010年5月現在、ニジェールでは、雨不足による生産量の激減と食糧価格の高騰により、例年にも増して深刻な食糧危機が発生しており、120万人の子どもたちが栄養不良のリスクにさらされています。また、これから突入するマラリアの流行時期とあいまって、子どもの死亡率がさらに高まる恐れがあります。セーブ・ザ・チルドレンは、この危機に際し、ニジェールの子どもたちおよびその家族に対して、食糧・生計支援や栄養・保健事業を行っています。特に、栄養・保健事業では、5歳未満の子どもの死亡率を削減することを目指し、子どもや出産期の女性に対して質の高いヘルスケアの提供を行うとともに、コミュニティや政府当局の参画を積極的に促進することで、中長期的な子どもの死亡率削減につながることを期待しています。

ニジェールの食料や医療の状況が改善し、その上で経済も着実に成長し、国家として健全な形で適切な人口を抱えるようになってほしい。この記事や私の寄付が少しでも役立てば幸いだ。



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私は廃線・廃駅好きで、何度か関係する記事をこのブログでも書いているが、基本的に廃線というのは地上線であって地下鉄の廃線の例はないと思っていた。地下鉄は都市部で、従来あった路面電車等の代替交通手段として多大な総工費をかけて建設するものなので、簡単に廃線になることはないだろうと。(厳密には都営浅草線には終点・西馬込の先に馬込車両工場引込線跡があるが、これは地上線扱い) 東京など地下鉄が遅れただけで大混乱となるのだから、廃線など考えられない。

しかし、海外に目を向けると、地下鉄の廃線事例がいくつかあるので驚かされる。
地下鉄発祥の地ロンドンでは、トンネルの掘りなおしによる路線・駅の移転や、郊外に延びたインターアーバン路線が廃止された例がある。また廃線ではないが、1869年に開業したイーストロンドン線は、2007年12月から延伸工事により一時閉鎖し、バスでの代替運行がされていたが、2010年5月にロンドンオーバーグラウンド(主に地上を走るロンドン市内・近郊区間の鉄道ネットワーク)の一部として再開業している。ロンドンの地下鉄の廃線は、長い地下鉄の歴史の中での再編と言えるだろう。
一方で、都心部の地下鉄で、全く代替路線への更新のない廃線の例がある。アメリカ・ニューヨーク州ロチェスター市の地下鉄だ。

ロチェスターはニューヨーク州北西部、オンタリオ湖岸に位置する都市で人口は21万人、ニューヨーク、バッファローに次ぐ州第3の都市だ。ロチェスターを中心とする都市圏の人口は100万人を超える。
この街の地下鉄は1928年に開業したが、30年ももたずに1956年に廃止された。

ロチェスター地下鉄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84

ロチェスター地下鉄は1928年に開業し、1956年に廃止された。それまで市内を走っていた路面電車を地下化したものであり、車両も路面電車タイプのものであった。同地下鉄は路面電車路線のみならず、ニューヨーク州内のインターアーバン路線とも接続していた。日本の地下鉄直通運転の原型ともいえる。
ロチェスターの地下鉄は、1900年のルート変更により使用されなくなったエリー運河の跡地にトンネル躯体を埋め込むことで建設された。トンネルの上はブロード・ストリートという通りになったが、地下構造になったのは都心部の数マイルで、残りの部分は河床部分に立体交差の軌道が敷設されるという構造であった。
インターアーバンとの直通運転は開業3年後の1931年、インターアーバン路線の廃止により断絶してしまった。地下鉄はその後主に通勤客の輸送に用いられ、第二次世界大戦期には4両編成の電車も運行された。しかし、旅客の減少が続いたのと、路線の東側半分をロチェスター都心部を避けて建設されることになった高速道路の接続道路にしたいという思惑もあり、旅客営業は1956年に廃止された。
ロチェスター地下鉄はインターアーバンとの直通運転を念頭において建設されたことから、貨物輸送を考慮した構造になっていた。そのため、残る西側半分に関しては、貨物鉄道の市内乗り入れの引込み線として使用が続けられ、ゼネラル・モーターズやガネット社の貨物輸送用として1996年まで存続した。
ロチェスターには高速鉄道の計画がいくつか存在するが、それらはこの廃止になった地下鉄トンネルを再利用するものである。他にも地下鉄トンネルの地下歩道化などが検討されている。



Rochester Wiki - Abandoned Subway
http://rocwiki.org/Abandoned_Subway

The Rochester Subway was plagued by limited resources and a transportation and land-use system that already was becoming more and more automobile-oriented. Rochester abandoned all surface streetcars by 1940, leaving the subway as a single line of what had been a much more comprehensive system. While ridership peaked during WWII due to gasoline and rubber rationing, it quickly declined after the war. The region's population was growing, but in an auto-oriented way as new, low density developments sprawled across suburban towns far from the route of the subway, which was never extended.

In addition, the subway suffered from the meandering, northwest to southeast route that was pre-determined by the route of the old Erie Canal. While this route had advantages for a long-distance canal built in the 1810s and 1820s, it was not necessarily a good route for intra-city transit in the 20th century. Federal funds sought to extend the eastern terminus to Monroe Avenue in Brighton in the 1930s were denied.

By the late 1940s and early 1950s, plans were developed for the system of high-speed expressways in and around Rochester. The eastern part of the subway route was chosen for a portion of Interstate 490. With declining ridership and governmental policies that supported private automobile over public transportation, there was little resistance to the abandonment of the subway. Passenger service ceased June 30, 1956.


20世紀前半のアメリカにおけるmotorizationの流れに共存できなかった、と言えるだろう。

さて気になるロチェスター地下鉄の路線だが、以下のようにCity Hallを中心として、北西のGeneral Motorsから南東のRowlandsまでを結んでいる。街を南北に流れるジェネシー川を渡るルートだ。この記事のカバー写真はCity Hall駅でのもので、Rowlands行きの電車であることがわかる。



もし、地下鉄が存続していたらロチェスター市の地下鉄・鉄道網は以下のようになっていたかもしてない(青い路線が実際に運行していた地下鉄)。こうなるとグレーター・ロチェスター国際空港やオンタリオ湖のビーチパーク、そして都市部が結ばれてかなり便利だったのだが。



そして、ロチェスター地下鉄のDVDも販売されている。地下鉄が走っている動画もあり貴重な映像だ。



時は流れ、現在の都市交通は車からライトレールへ移っている。ロチェスターの地下鉄が形を変えてでも復活することを願いたい。



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スカイツリーが東京の新名所としてすっかり定着した感がある。ご存知のとおりスカイツリーは高さ634mで自立式電波塔としては世界一の高さである。しかし、ドバイのブルジュ・ハリーファという160階(!)建ての高層ビルが高さは828mなので、スカイツリーは人工構造物としては現在世界第2位となる。




さて、世界一高い建築物の推移を調べてみると、これはなかなかおもしろい。

ブルジュ・ハリーフは建設中の2008年から世界一だが、その前はアメリカのノースダコタ州ブランチャードにあるKVLY-TV塔(629m)が世界一だった。(現在は第3位になっている) このKVLY-TV塔は1963年に完成当時も世界一であったが、その後1974年にポーランドのワルシャワラジオ塔(646m)にその座を譲り、また1991年に世界一に返り咲いている。なぜならワルシャワラジオ塔は倒壊したからだ。

ワルシャワラジオ塔
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AA%E5%A1%94

ワルシャワラジオ塔(ポーランド語:Maszt radiowy w Konstantynowie)はかつてポーランドのマゾフシェ県プウォツク郡ゴンビンのコンスタンティヌフという集落にあった高さ646.38mの電波塔。1991年8月8日、支線の設置に伴う補修中の人為的ミスにより倒壊した。ブルジュ・ハリーファが建築中の2008年5月19日に649.7mに達するまで、人工建造物としては史上最高の記録を保持していた。
1970年7月に建造開始され、1974年5月18日に完成した。はしごとエレベーターを備えていたが、エレベーターで最上部に上るには30分を要した。自立型の塔ではなく、3角柱の鉄塔を3方向に設置された支線(ワイヤー)の張力で固定する方式(支線型)の塔であったが、補修中の作業ミスにより支線の張力のバランスが崩れて倒壊した。


この倒壊の瞬間というのはさすがに映像がないが、倒壊後の映像 (現地のドキュメンタリー?) があったので見てみよう。



このように世界一高い建築物の高さは、1963 - 1974年 629m、1974 - 1991年 646m、1991 - 2008年 629mと後戻りしたことになる。人類の技術は必ずしも進化するだけではない、ということを示しているようだ。
実は、高層建築物に関して、このような後退現象は中世にもあったようだ。この時代の世界一高い建築物はいずれも教会だが、以下のように推移している。

世界一高い建築物の変遷
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%B8%80%E9%AB%98%E3%81%84%E5%BB%BA%E7%AF%89%E7%89%A9%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7

1311 - 1549年 160m イングランド・リンカン リンカン大聖堂 1549年に嵐により尖塔が崩壊
1549 - 1625年 159m エストニア・ターリン  聖オーラフ教会 1625年に落雷により尖塔が崩壊
1625 - 1647年 151m ドイツ・シュトラールズント 聖マリア教会 1647年に落雷により尖塔が崩壊
1647 - 1874年 142m フランス・ストラスブール ストラスブール大聖堂
1874 - 1876年 147m ドイツ・ハンブルク 聖ニコライ教会
1876 - 1880年 151m フランス・ルーアン ルーアン大聖堂
1880 - 1884年 157m ドイツ・ハンブルク ケルン大聖堂

このように、世界一の高さの教会の尖塔が崩壊するという事態が続いた結果、世界一高い建築物の高さは三度にわたって後退している。結局1311年に完成したリンカン大聖堂の160mという高さを超えたのは、1884年にアメリカ・ワシントンDCにできたワシントン記念塔(169m)であり、実に573年もの間高さの更新がなかったことになる。

さて、そのリンカン大聖堂は、1072年にウィリアム1世の命令により建設が始まり1092年に最初の聖堂が完成したが、その建物の多くは火事や地震で崩れてしまい、1185年の地震を機に大幅に建て直されたという。そして1311年に中央の塔が完成し、その当時は尖塔が載っていたとのことだ。



Lincoln Cathedral - History
http://lincolncathedral.com/building/history/

It was in 1092 that this first Cathedral at Lincoln built by Bishop Remigius was consecrated. Remigius, a Benedictine monk was the first Norman Bishop of the largest diocese in medieval England, extending from the Humber to the Thames. The cathedral of this diocese had been at Dorchester, near Oxford, but in 1072 William instructed that the Bishopric should be moved to Lincoln.

A castle had already been established in Lincoln by William, located in the south-west corner of the old Roman upper city. The new cathedral was built of Lincolnshire oolitic limestone opposite the castle in the south-east corner.

In 1141, or possibly earlier, there was a fire which severely damaged the Cathedral. An earthquake caused structural damage to Lincoln Cathedral in 1185. St Hugh (Bishop of Lincoln, 1186-1200) began work on reconstructing the Cathedral in 1192. He used the Gothic style, where pointed arches, ribbed vaults and flying buttresses made it possible to make larger windows (for stained glass) and larger roof spans.

Between 1307 and 1311 the central tower was raised to its present height. Then around 1370 to 1400 the western towers were heightened. All three towers had spires until 1549 when the central tower’s spire blew down. It had been the tallest building in the world.



さて、未来に目を向けると、現在のブルジュ・ハリーファの世界一時代は比較的短いかもしれない。まず今年2013年に中国湖南省長沙市で838mの「空中城市」と呼ばれるビルが建設される予定だ。このビルは工期が3ヶ月とか7ヶ月とか言われている。
さらに、クウェートの「ブルジュ・ムバラク・アル=カビール」(1,001m、2016年竣工予定)、バーレーンの「ムルジャン・タワー」(1,022m)、ドバイの「ナキール・タワー」(1,400m)、サウジアラビアの「キングダム・タワー」(1,600m)、さらにドバイの「ドバイ・シティ・タワー」(2,400m)といった高層ビルの計画があるという。
高さだけを競うよりも、歴史にならって一歩後退したり、のんびりと世界一更新を目指すような大らかさがほしいものだ。



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かつてのホテルが廃墟となってしまう例は数多い。神戸の摩耶観光ホテルのように廃業して廃墟となるケースや、岡山県の王子アルカディアリゾートホテルのように完成前に計画が頓挫してそのまま廃墟となるケースもある。

摩耶観光ホテル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%A9%E8%80%B6%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB

忘却炉 王子アルカディアリゾートホテル
http://korouka.blog47.fc2.com/blog-entry-9.html

それぞれ固有の経緯があると思うが、ホテル、特にリゾートホテルの廃墟というのは何とも物悲しいものだ。かつての関係者や宿泊者にとっては何とも複雑な思いだろう。

海外に目を向けても解体ができずに残された廃墟は数多い。そしてその最大のものはドイツのプローラだろう。



プローラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9

プローラ(Prora)はドイツのバルト海に面した島、リューゲン島にナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が計画した保養所・海水浴場である。この海水浴場が有名である理由は、砂浜に面した松林の中に長さ4.5kmにわたって伸びている、「Koloss von Prora(プローラの巨人)」と呼ばれるコンクリート製のビル群の存在である。

一棟500mの長さのビルが8つ連なる巨大建築は、1936年から1939年にかけて、ナチスの労働者組織ドイツ労働戦線の下部組織・歓喜力行団(Kraft durch Freude、KdF、国民に余暇活動を供給した組織)が巨大保養施設として建設を進めたものであった。それぞれのビルは全く同じ形をしており、20,000人の労働者が休暇を過ごすために計画されていたが、ついに使用されることはなかった。プローラは残存している第三帝国の建築の中でも、その統一感とヒューマンスケールを超える巨大さが印象的な建物で、ナチス建築の典型といえるものである。

プローラは労働者のリゾートとして計画され、ドイツの全ての労働者が浜辺で休暇を楽しめるようにするために2万人もの保養客を収容する宿泊棟が設計された。全ての部屋がバルト海に面している。後の計画では、二つの造波プール・劇場・映画館と2万人の宿泊客全員分の座席があるフェスティバル・ホールも予定された。大型客船のための埠頭も同時に予定されている。1937年のパリ万国博覧会では、このプローラの保養所計画は建築部門のグランプリを受賞している。



1936年、リューゲン島と本土とを結ぶ橋・リューゲンダム橋が建設され、プローラ建設も始まった。
1939年、第二次世界大戦が始まるとプローラ建設も中止された。長大な宿泊棟、劇場と映画館はがらんどうのまま放置され、埠頭は埋め立てたまま建設中止、その後ろに予定されたプールとフェスティバル・ホールは建設されなかった。英米軍によるハンブルク空襲が始まると、ハンブルクから多くの避難民がリューゲンに疎開し、プローラの居住棟の一つに入った。終戦間際にはドイツ空軍の女性補助部隊隊員や武装警察の教育施設となり、さらに東ヨーロッパからの避難民の受け入れにも活用された。
1945年、ソ連軍がリューゲン島一帯を占領し、プローラはその基地となった。プローラのビルは一部がソ連軍の爆破訓練に使われ、東ドイツ政府の手で解体する案もあったが頑丈な上に巨大なため撤去にはいたらず、戦災難民の一時居住施設、次いで国家人民軍の駐屯地として利用が続けられた。どっしりとした無味乾燥なビル群は6つが残存し、ドイツ再統一後は観光スポットとなっている。

プローラの一部は博物館として、ナチスの巨大リゾート建設計画やその背景となった諸政策に関する展示を行っている。また2006年にはビル群のうち2棟の売却が決まり、別荘やショッピング施設、文化施設として再利用する計画が進んでいる。2011年7月4日にプローラのビルの一部を利用したユースホステルが開業した。



プローラが位置するリューゲン島はバルト海に面したとても人気のリゾート地で、是非訪ねてみたいところでもある。

Rügen
http://www.ruegen.de/

昨年開業したこのユースホステルも比較的評価が高いようだ。

Hostelling INternational - Youth Hostel Prora
http://www.hihostels.com/dba/hostels-Prora---Youth-Hostel-Prora-022645.jp.htm#tabs=0

廃墟好きとしてはとても関心のある建築物だが、プローラはこのまま廃墟として残るにはあまりにも巨大すぎる。是非とも有効な再生を期待したいものだ。



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昨今の中国経済の成長で、経済・商業・政治に関する世界の地図は大きく変わった。
その影響で文字どおり地図が変わった例として橋を挙げることができる。世界の長い橋事情は中国を軸にここ数年で大きく変わった。

世界で最も長い橋と言えば、永らくアメリカ・ルイジアナ州のポンチャートレイン湖コーズウェイ(Lake Pontchartrain Causeway、38.4km)だった。

Lake Pontchartrain Causeway
http://en.wikipedia.org/wiki/Lake_Pontchartrain_Causeway

The idea of a bridge spanning Lake Pontchartrain dates back to the early 19th Century and Bernard de Marigny, the founder of Mandeville. He started a ferry service that continued to operate into the mid 1930s. In the 1920s, a proposal called for the creation of artificial islands that would then be linked by a series of bridges. The financing for this plan would come from selling homesites on the islands. The modern Causeway started to take form in 1948 when Ernest M Loeb Jr envisioned the project. Due to his lobbying and vision the Louisiana Legislature created what is now the Causeway Commission. The Louisiana Bridge Company was formed to construct the bridge, who in turn appointed James E. Walters, Sr to direct the project.

The original Causeway was a two-lane span, measuring 23.86 miles (38.40 km) in length, that opened in 1956 at a cost of $30.7 million. A parallel two-lane span, 1/100th of a mile (15 m) longer than the original, opened on May 10, 1969 at a cost of $26 million. The Causeway has always been a toll bridge. Until 1999, tolls were collected from traffic going in each direction. To alleviate congestion on the south shore, toll collections were eliminated on the northbound span. The standard tolls for cars changed from $1.50 in each direction to a $3.00 toll collected on the North Shore for southbound traffic only.




http://g.co/maps/kfz4j

Google Mapの地図や航空写真で見ると、ポンチャートレイン湖を南北に一本の線が貫く感じでとても美しい。
このようにポンチャートレイン湖コーズウェイは「連続して水上に架かる橋("continuous")」でありそのカテゴリーでは現在でも世界最長なのだが、2011年に竣工された青島膠州湾大橋(Jiaozhou Bay Bridge、42.5km)が「連続しない水上に架かる橋("aggregate")」として上回ることになった。

Jiaozhou Bay Bridge
http://en.wikipedia.org/wiki/Jiaozhou_Bay_Bridge

Jiaozhou Bay Bridge is a roadway bridge in eastern China's Shandong province. It transects Jiaozhou Bay, connecting Huangdao District, the city of Qingdao and Hongdao Island (the bridge is "T" shaped with 3 entry/exit points, see map). Opened on 30 June 2011, it reduces the road distance between Qingdao and Huangdao. The bridge opened at the same time as the nearby Qing-Huang Tunnel, both part of the Jiaozhou Bay Connection Project.

Jiaozhou Bay Bridge is 42.5 kilometres (26.4 mi) long, making it according to Guinness World Records the world's longest bridge over water (aggregate length) as of July 2011. The longest bridge over water "continuous length" is the Lake Pontchartrain Causeway, the difference being the latter runs continuously over water while Jiaozhou Bay Bridge has parts over land. It is estimated Jiaozhou Bay Bridge is over water for 25.5 kilometres (15.8 mi).



http://g.co/maps/j27ce

比較的新しいせいかGoogle Mapの地図では出てこないが、航空写真を拡大して見るとその様子が確認できる。中国山東省青島にある膠州湾をクロスして青島(東側)、紅島(北側)、黄島(西側)を結ぶもので、立体交差が特徴的だ。これだけの規模の海上ジャンクションというのはなかなか他に思い当たらない。是非青島を訪問してドライブをしてみたいものだ。
せっかくなので動画も見ておこう。



参考までに日本で長い橋(水上橋)としては、アクアブリッジ(東京湾アクアライン) 4,384m、明石海峡大橋 3,911m (吊り橋としては世界最長) が挙げられる。比較すると42.5kmというのは何とも桁違いだ。

さて、ここまでは水上橋に関するの記録だが、陸橋を加えると更に長い橋が5つもある。2012年3月現在の順位で並べると次のようになる。
 1  丹陽-昆山特大橋 (中国) 164.8km 2010年竣工
 2  天津特大橋 (中国) 113.7km 2010年竣工 
 3  渭南渭河特大橋 (中国) 113.7km 2008年竣工
 4  バンナ高速道路 (タイ) 54.0km 2000年竣工
 5  北京特大橋 (中国) 48.2km 2010年竣工

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7_%28%E9%95%B7%E3%81%95%E9%A0%86%29

このうちの4つが中国で最近建設された鉄道橋である。そして丹陽-昆山特大橋(Danyang Kunshan Grand Bridge)は世界最長の橋である。

Danyang Kunshan Grand Bridge
http://en.wikipedia.org/wiki/Danyang%E2%80%93Kunshan_Grand_Bridge

The bridge is located between Shanghai and Nanjing in East China’s Jiangsu province. It includes a 9-kilometre long (5.6 mi) section over water that crosses Yangcheng Lake in Suzhou. It was completed in 2010 and opened in 2011. Employing 10,000 people, construction took four years and cost about $8.5 billion. Danyang?Kunshan Grand Bridge currently holds the Guinness World Record for the longest bridge in the world in any category as of June 2011.




http://g.co/maps/dsvad

これもGoogle Mapの航空写真で確認できる。陸橋なのでわかりにくいが、北西から南東に長い一本線が延びている。さすがに起点・終点の確認は難しい。
この橋は2011年6月に開通した北京と上海を結ぶ全長1,318kmの京滬高速鉄道の高架橋だ。陸橋なのでやや地味な印象は否めない。
しかし、164.8kmというのは東京=静岡 (東名高速)とほぼ同じ距離と考えると、やはりものすごい。

このように中国のインフラ事業は、これまでの各国のものとはスケールが全く異なる。そしてこの後もしばらくインフラ投資が進められると思われ、今回調べた長い橋の記録もまた塗り替えられることだろう。たまにチェックする価値がありそうだ。


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私は地図が大好きで、1日中地図を眺めていても飽きることはない。Google Mapでも、地形図でも、古地図でも何でも好きである。
さて、我々は既に世界地図が存在し、また世界中の情報にあふれた時代に生きているが、情報がない時代に世界地図をつくるということは極めて至難の業である。自分の住んでいる、或いは権力の及ぶ範囲の地図は正しく描けてもそれだけでは世界地図にはならない。従ってわからない部分は想像で描くことになる。

知られている最も古い世界地図は、紀元前600年頃のバビロニアの世界地図である。



バビロニア(Babylonia)は、メソポタミア南部を占める地域で、首都はバビロン。そしてこの世界地図でもバビロンが描かれている。
この地図は北が上で、二重の円が描かれており、内円の内側が陸地、外円と内円の間が海、外円の外側が対岸の陸地である。ただし対岸の陸地は想像上のものであり、その説明も空想的なものだ。内円の上半分に描かれた横長の長方形がバビロンで、内円の内側に書かれたたくさんの小円は他の有力都市を表している。
つまり、この地図は世界地図を意図したものではあるが、現実世界と一致しているのはバビロンと周辺都市、周辺地理のみである。当時の行動や情報の範囲からすればこれが限界であろう。

紀元前3世紀のエラトステネスは、地球の大きさを初めて測定した人物として知られているが、地球が球形であることを前提にして測量を利用した地図を作った。



地図には経緯線に相当する線が描かれている。またこの時代には、アレクサンダー大王(アレクサンドロス3世、在位紀元前336年-前323年)の遠征記録が伝わっていたため、インド付近までの地理が詳しくなっている。

そして紀元2世紀には古代ローマのの天文学者、数学者、地理学者、占星術師であったプトレマイオスによってプトレマイオス図が描かれた。



プトレマイオス図
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B9%E5%9B%B3

プトレマイオス図は2世紀のローマ帝国で既知となっていた世界を表した地図である。 この地図では、等間隔に引かれた経緯線が描かれている。技法としては、円錐図法が使われたことに特色がある。
カナリア諸島を経度0度として東へ180度、南北は赤道を挟んで80度がカバーされる。ただし東西は実際より長く見積もられている。これは当時は精巧な時計が無く、経度の測定が困難だったためと考えられる。
地図には2つの大きな内海が認められる。一つは地中海であり、もう一つは東が南シナ海まで広がるインド洋である。描かれている主な地域にはヨーロッパ、中東、インド、セイロン島、インドシナ半島、さらにその先に中国がある。


世界地図を作ろう 地図の歴史 古代 プトレマイオスの『地理学』
http://atlas.cdx.jp/history/ancient.htm#PTOLEMIOS-NO-TIRIGAKU

大地が平らであると考える人々はもちろん、自分が住む町や国家を地図に描くだけであった人々も、投影法を考慮することはありませんでした。縮小するだけでよかったのです。投影法は大地を球体と考え広大な地域を表わそうとするときになって初めて発生する問題なのです。
世界を正しい位置関係で表そうとして投影法の問題を考えたのは、プトレマイオス・クラウディオスです。地理学者としてのプトレマイオスは、全8巻に及ぶ『ゲオグラフィア(地理学)』を著わしています。地球に関する数理地理学的な問題や地図作製の方法が論じられるとともに、当時知られている限りの地点について経度と緯度を推定して記しています。さらに世界地図と多くの地域図も含まれています。まさに古代地理学の集大成です。
投影法については正しい比例で表すことを重視して、一種の正距円錐図法を考案しています。また経緯線も導入していました。ちなみに角度の表現に度分秒を使うことを考案したのもプトレマイオスです。しかし測量されたデータが皆無に近く、旅行者の話などから位置を推定したため、地点の位置については大きくずれています。こうしてできあがった世界地図では、西はカナリア諸島から東は中国の西安まで、北はスカンジナビアから南はナイルの源流まで、ほぼ全地球の4分の1を描いていました。
データは不正確であったものの、投影法の考慮、経緯線の導入、座標による位置付け、などがなされた最初の地図であり、近代地図の基礎と言えるでしょう。ヨーロッパ文化圏では近代になるまで、これを越える成果は現われませんでした。方法論としてだけでなく、その後の地図の多くが、大航海時代にいたっても、プトレマイオスの地図に書き加える形で描かれているのです。
プトレマイオスはまた“地理学とは、知られている全世界を、そこに介在する現象ともども絵によって表現することである”と書いています。彼がどんな現象を想定していたのか定かではありませんが、これはまさに現在の主題図の概念を表わしています。


このようにプトレマイオス図は傑出したものであり、紀元前6世紀のバビロニアの世界地図から、2世紀のプトレマイオス図まで古代の世界地図は確実に進化を遂げていた。しかし、世の中の一般的技術のな発明・開発・改良と異なり、ヨーロッパの世界地図の精度はここから後退してしまう。その原因はキリスト教の教義による世界観が強制されたことであり、中世では世界は幾何学的な構造であるという世界観が再び主流となってしまった。その典型的なものはTO図である。



世界地図を作ろう 地図の歴史 中世 キリスト教の世界観 TO図
http://atlas.cdx.jp/history/middle.htm#KIRISUTOKYONO-SEKAIKAN

このころ作られた数少ない世界図には実用的な価値(位置や道程を表わす機能)は全くなく、キリスト教の世界観を表わすための象徴的なものでした。代表的な世界図は“TO図”とよばれるものです。これは初期のギリシアの地図の影響を受けたもので、オケアノスの海に囲まれた円形の大地を表わす“O”の中に、地中海とナイル川とドン川(ロシア西部を南流し黒海に注ぐ)を表わす“T”が描かれて、大陸が3つに分けられています。上半分がアジアで、左下がヨーロッパ、右下がアフリカです。エルサレムが中心に配置され、上端である東の果てには“エデンの園”が想像されました。地名も聖書に記されている場所がいくつか書かれているだけのものです。

その後大航海時代になり、15世紀末から16世紀初頭にかけて、コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランなど歴史上偉大な業績を残した航海者たちにより、それまでヨーロッパとアフリカ北部、アジアの限られたところしか知られていなかったヨーロッパ人の知識が世界中に達し、この世界観の劇的な拡大が地図は大きな変化を遂げた。
またメルカトル図法など投影法や測量技術の進化により、ようやく世界地図の大勢ができあがることになった。また印刷技術の発明によって世界地図は一般にも普及することになった。

とはいえ、世界地図の失われた1000年というのは人類の歴史に大きな影響を与えたことだろう。
もし2世紀のプトレマイオス図以降順調に世界地図が進化を遂げていたら、その地図をもとに全く違う歴史をつくった人物が現れたかもしれない。その結果行政面での世界地図は現在のものと違っていたかもしれないのである。より空想を働かせながら世界地図を眺めるようにしよう。


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社会にとって高齢化というのは様々な問題を抱えるが、個人にとって長寿・長生きというのはやはりめでたいものである。
一般的に人間の寿命の限界は120歳と言われているが、実際にその年齢を超えて生きた方は2人しかいない。泉重千代(日本)とジャンヌ・カルマン(フランス)だ。

泉重千代さんは慶応元年6月29日(1865年8月20日)生まれで、1986年2月21日に120歳で亡くなった。江戸時代生まれの最後の方でもある。



健康長寿ミュージアム 泉重千代
http://www.pdfworld.co.jp/museum/shiryo/izumi/izumi.html

その記録を1995年に塗り替え、122歳164日という公式記録史上最も長生きをした人物がジャンヌ・カルマンである。



ジャンヌ・カルマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3
http://en.wikipedia.org/wiki/Jeanne_Calment

兄は97歳、父は94歳、母は86歳まで生きた。夫(1942年没)、娘 (イヴォンヌ(Yvonne)、1934年没) と孫(1963年没、モーターバイク事故)を超えて長生きした。
国際的に有名になったきっかけは、1988年にゴッホの百年記念の際、直接会った人としてインタビューを受けた時に、カルマンがゴッホの事を「汚くて、格好も性格も悪い人」だったと語った事であった。
114歳の時に本人役で映画「Vincent and Me」に出演して史上最年長の女優にもなった。


Calment's remarkable health presaged her later record. At age 85, she took up fencing, and at 100, she was still riding a bicycle. She was reportedly neither athletic, nor fanatical about her health. Calment lived on her own until shortly before her 110th birthday, when it was decided that she needed to be moved to a nursing home after a cooking accident (she was having complications with sight) started a small fire in her flat.

However, Calment was still in good shape, and was able to walk until she fractured her femur during a fall at age 114 years and 11 months, which required surgery. After her operation, Calment needed to use a wheelchair. She weighed 45 kilograms (99 lb) in 1994. Calment became ill with influenza shortly before her 116th birthday. She smoked until the age of 117, only five years before her death. Calment smoked from the age of 21 (1896), though according to an unspecified source, she smoked no more than two cigarettes per day.


泉重千代は焼酎好き、そしてジャンヌ・カルマンは喫煙者だったそうで、酒・タバコが寿命を短くするという通説はこの2人には全く当てはまらないようだ。

さて、長寿の記録というのは、グレゴリオ暦への換算、戸籍制度の不備、社会的混乱などのために、過去の記録はなかなか把握が難しい。そのため神話や伝説ではない実在の人物の中でも、非公式記録であればもっと長寿者がいる。

例えば、アゼルバイジャンのシラリ・ミスリモフは、1805年生まれの1973年没で、168歳まで生きたとされている。
1973年の死亡に関しては報道がされたのだが、その出生については、1805年生まれというパスポートがあるそうだが、確かな記録とはいいがたいようだ。



Biography of Centenarian Shirali Mislimov
http://www.trivia-library.com/b/biography-of-centenarian-shirali-mislimov.htm

そして実在した記録がある人物として最も長寿なのは中国の植物学者の李青曇(り せいうん、Li Ching-Yuen)で、何と256歳まで生きていたとされている。



Li Ching-Yuen
http://en.wikipedia.org/wiki/Li_Ching-Yuen

Li Ching-Yuen was supposedly born in 1677 in Qi Jiang Xian, Szechuan province.
By his own account, he was born in 1736. However, in 1930, Professor Wu Chung-chieh of the University of Chengdu discovered Imperial Chinese government records from 1827, congratulating one Li Ching-Yuen on his 150th birthday, and further documents later congratulating him on his 200th birthday in 1877. In 1928, a New York Times correspondent wrote that many of the old men in Li's neighborhood asserted that their grandfathers knew him when they were boys, and that he at that time was a grown man.


"Tortoise-Pigeon-Dog" Article From the May 15, 1933 issue of Time magazine.
http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,745510,00.html

当時の清国政府が1827年に150歳、1877年に200歳の祝辞を上げているということが真実であれば本当に256歳まで生きたことになり、この写真は1927年で250歳の時のものということになる。いずれにしてもちょっと考えにくい話であるが、このような歴史上の人物がいたことは記憶しておこう。

それにしても120歳とか250歳とかまで生きるとしたらどのような人生になるのだろうか。老後のためにいくら蓄えておけばいいだろうかという現実的な問題が気になってしまう。



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この世に生まれたからには一国の王になりたいという考えは、洋の東西を問わず昔から誰もが抱くものであり、故に人類は権力・土地・血をめぐる争いを繰り広げてきた。
一方でこのような正攻法からちょっと外れて、自分で国家をつくってしまおうという考えをする人物もおり、実際に自分や国家をつくってしまった例も多い。いわゆるミクロネーションである。

ミクロネーションは、実際の独立運動や民族自決運動による国家ではなく、個人または家族によって小規模に行なわれるものである。個人的には協調性を欠く行動という印象が拭えないのだが、一方でミクロネーションに関する研究は幅広く行われていおり、調べていくとMicronationのwiki (Lomwiki) などというサイトも見つかりちょっと驚いた。(しかも見た目がほとんどWikipedia)

Lomwiki, the micronation encyclopedia
http://www.listofmicronations.com/lomwiki/index.php/Main_Page

ミクロネーションの中で有名なのは「シーランド公国」だろう。北海の南端、イギリス南東岸から10km沖合いに浮かぶ島国(?)だ。

Principality of Sealand (公式URL)
http://www.fruitsofthesea.demon.co.uk/sealand/

世界飛び地領土研究会 非公認の国々 シーランド公国
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/hikounin/sealand.html



元イギリス陸軍少佐で海賊放送の運営者だったパディ・ロイ・ベーツが1967年に独立宣言をし40年以上になるが、その間クーデターや火災や、売却宣伝などいろいろ話題を提供してる。人口は4人だが、サッカーのナショナルチームも持っているという。

さて、過去に存在したミクロネーションの中で気になる国がひとつある。1964年に設立されたニューアトランティス Repunbic of New Atlantisがそれで、なぜならその設立者が「老人と海」で有名なアーネスト・ヘミングウェイの実弟レスター・ヘミングウェイなのである。先ほどのLomwikiを参照してみよう。

Lomwiki, the micronation encyclopedia Republic of New Atlantis
http://www.listofmicronations.com/lomwiki/index.php/Republic_of_New_Atlantis

The Republic of New Atlantis was a micronation created by Leicester Hemingway (1 April 1915 - 13 September 1982), the younger brother and biographer of writer Ernest Hemingway.
As the location of what he would later describe as "the world's smallest political entity", Hemingway chose a site above a small seamount in what were then international waters, 12.87 kilometres southwest of Jamaica.
At the time of it's foundation, on 4 July 1964, the territorial pretensions of New Atlantis anticipated the future construction of a large, habitable man-made island; in practice they were limited to a 2.44 x 9.14 metre bamboo raft, which Hemingway anchored to the floor of the Carribean Sea with the aid of an old Ford engine block.
The project came to an abrupt end in 1966, when the raft was destroyed during a tropical storm.




この国家の名前となった"ニューアトランティス"は、17世紀にフランシス・ベーコンによって書かれた未完のユートピア小説のタイトルと同じであり、この小説では科学技術の発達したユートピア世界と理想の国家が描かれている。
また、"アトランティス"といえば、古代ギリシアの哲学者プラトンが記した、大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことである。この大陸は強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされている。

僅かな期間とはいえ実存した"アトランティス"は、大陸どころか国土面積が22平方メートルというワンルームマンション並のものであり、そしてあっけなく嵐で倒壊してしまった。伝説と現実の大きなギャップを感じる。やはり国家を担うには一個人の力だけでは到底手に負えないようだ。



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3年ほど前にウガンダを旅した。
ウガンダは東アフリカの内陸では珍しく水と緑が豊かな大地で、イギリスのチャーチル元首相がアフリカの真珠と称した国だ。チャーチルは、第2次世界大戦時にドイツ軍の攻撃に悩まされていて、一時的な首都の移転を検討し、その移転先がウガンダのカンパラだったそうだ。
私が旅したのは東部のムバレ、ビクトリア湖に近いジンジャ、首都カンパラなどだったが、ムバレ近郊のシピ滝、ジンジャ近郊のブジャガリ滝など水の豊富さを感じることができた。

さてウガンダの首都カンパラの外れに、世界遺産にも指定されている「カスビのブガンダ歴代国王の墓」(カスビ・トーム)がある。いや正確にはあったと言うべきだ。なぜならこの遺産は今年の3月に焼失してしまったからだ。

asahi.com ウガンダの世界遺産、カスビ王墓が全焼 放火の見方
http://www.asahi.com/international/update/0318/TKY201003180215.html

首都カンパラ郊外にある世界遺産「カスビのブガンダ王国歴代王の墓」が16日夜、火災で全焼した。ウガンダ当局が原因を捜査中だが、放火との見方が出ている。
カスビ王墓は、18~19世紀に栄えたブガンダ王国を統治した4人の王を埋葬している。1882年にムテサ1世が宮殿として建造した建物が、その死去後、墓として使われ始めた。直径31メートル、高さ7.5メートルの巨大な円錐形のかやぶき小屋のような外観が特徴。ウガンダが1962年に英国から独立した後も、ブガンダ王家の聖地として敬われ、2001年に世界遺産に登録された。
地元紙によると、16日午後8時半ごろ出火。れんがの壁部分だけを残して焼け落ちたという。再建の見通しは立っていない。出火直前、不審な人物や車両の出入りが目撃されているという。
王家の子孫であるブガンダ王家の現当主は「王国」の自治を政府に要求しているが、政府は「王家は伝統的、文化的な存在に過ぎない」と退け、両者は対立している。




国で唯一の世界遺産に登録された文化遺産の焼失、特にガンダ民族にとってこの墓所は伝統的な拠り所であり、このショックは計り知れないことだろう。

私はカンパラ市内から1時間以上歩き、最後に急な坂を上ってようやくここにたどり着いたのだが、その割にこの墓所は地味で、ちょっとがっかりしてしまった記憶がある。しかし焼失してしまったとなると話は別で、在りし日の姿を頭に思い浮かべながら、その歴史的な意義を再認識しなければならない。
ということでこの墓所に眠る国王たちの「ブガンダ国」について調べてみよう。

『世界飛び地領土研究会』 「消滅した国々」 ブガンダ王国
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/buganda.html

1300年ごろ 建国
1894年8月27日 イギリスの保護領となる
1961年1月1日 ブガンダがイギリスからの独立を宣言するが、実行されず
1962年10月9日 ウガンダがイギリスから独立。ブガンダはウガンダ内の王国として存続
1966年5月20日 ブガンダがウガンダからの独立を宣言
1966年5月24日 ブガンダ王の宮殿がウガンダ軍に占領され、王国消滅

ビクトリア湖とアルバート湖、エドワード湖などに囲まれたウガンダ一帯は、肥沃な土地が広がり古くから農耕民族が定住していたが、やがて西から牛牧民が侵入して先住民を征服し、ブニョロ王国やブガンダ王国、トロ王国、アンコーレ王国などが鼎立していった。これらの王国のうち当初はブニョロ王国が強大だったが、17世紀半ばを頂点に衰え始め、代わって台頭したのがブガンダ王国だった。

1884年から85年にかけて列強諸国がベルリン会議を開きアフリカの分割を決め、89年から90年にかけてイギリスとドイツでビクトリア湖を境にしたお互いの勢力圏を決めると、ウガンダへのイギリスの進出は再び盛んになってくる。この頃ブガンダではザンジバルなど沿海部からアラブ商人によってイスラム教がもたらされ、一方でヨーロッパ人宣教師によってキリスト教が広まってきた。ブガンダ王のムワンガ2世は、これら新しい宗教への改宗者を処刑するなどして弾圧していたが、イスラム教に改宗した兄弟たちに追放されてしまった。王座を追われたムワンガ2世に手を差し伸べたのがイギリスとフランスで、ムワンガ2世はキリスト教徒軍を率いて王位を回復し、ヨーロッパとの結びつきを深めることになった。
イギリスは当初、ウガンダもケニアと同じくイギリス東アフリカ会社に統治させようと、会社に遠征軍を派遣させた。遠征軍がまず到着したブガンダでは、ムワンガ2世は会社に従うことを受け入れたが、イスラム教徒が多いブニョロでは激しい抵抗を受けて征服できなかった。このため東アフリカ会社では「軍事支出がかさんで採算に合わない」と撤退し、イギリス政府が保護領にして従来の王国(土侯国)を残したまま統治するように泣きついた。こうしてイギリスは仕方なく1894年にブガンダ王国を保護領にした。
ムワンガ2世の息子のダウディ・クワ2世は、抵抗を続けるブニョロ征伐に協力してイギリスとの関係を固め、1900年には総理、大蔵、法務の3大臣からなる行政府と立法議会を開設して、近代的な統治システムを確立し、ブガンダは諸王国の中でも特別な存在となった。



1953年、イギリス本国の植民地相が東アフリカ連邦(ウガンダ、ケニア、タンガニーカ)結成の可能性をほのめかすと、「白人支配の連邦を作られてはたまらない」と黒人たちは猛反発。ブガンダでは単独での独立を求める声が高まり、時のブガンダ王のムテサ2世(写真)は、イギリスのウガンダ総督に対して「ブガンダ独立と、そのスケジュールを明らかにしてくれ」と要求したところ、総督はムテサ2世を逮捕してロンドンへ送ってしまった。
このムテサ2世の帰還要求という形で独立運動が盛んになり、イギリスは仕方なく2年後にムテサ2世をブガンダへ送り返し、独立へ向けた交渉が始まったが、すっかり自信を深めたブガンダ王国は王国存続のためにあれこれ画策し始めた。そして1961年1月にブガンダ王国はイギリスから単独で独立すると宣言した。

もっとも、歳入の約半分をイギリスからの交付金に頼っていたブガンダ王国は本気で独立するつもりはなかったようで、「独立日」の1月1日になっても何も起きずじまい。しかしブガンダの強硬姿勢は十分伝わって、ウガンダを連邦制としブガンダ王国は連邦構成国、ブニョロなど他の3王国を準構成国とすることなどの条件で、1962年10月9日にイギリスからウガンダ(連邦)が独立することが決まった。

独立後のウガンダ(連邦)では、ムテサ2世が象徴的な大統領となり、ブガンダ以外を地盤とするウガンダ人民連合(UPU)のオボデが首相となった。連邦と王国の共存はスムーズにいったかと思ったが、ブガンダ王国とブニョロ王国の対立が表面化した。その後1966年2月の連邦議会で「金や象牙の密輸に関与している」という指摘をされたオボテ首相は、憲法を停止し、大統領の権限を強化した暫定憲法をつくって自ら大統領に就任してしまった。
これに対しブガンダ議会は5月20日、「ウガンダ連邦政府は10日以内にブガンダ王国から立ち去ること」と、事実上の独立宣言をした。もっともウガンダ(連邦)の首都カンパラはブガンダ王国にあるわけで、首都から立ち退くことは無理があり、これは1961年のイギリスからの独立宣言と同じでポーズということだったようだ。
しかし5日後にアミン大佐(のちの大統領)に率いられた部隊がブガンダの宮殿を急襲して占領し、ムテサ2世はイギリスへ亡命、ブガンダ王国は崩壊した。

他の3王国も1967年に廃止され、単一共和国となったウガンダでは1971年にアミン少将(大佐から昇進していた)がクーデターを起こしてオボデを追放し、その後「食人大統領」として世界に名を馳せた恐怖政治を敷いた。

その後1993年にはブガンダやその他3王国の王(の後継者)たちが「伝統的もしくは文化的リーダー」として復権したが、王国の復活ではなく、王たちはある種の特権が認められたものの、行政や立法、地方自治体などの権限はなく政治活動も禁止されている。


植民地からの独立の動きと他民族国家の民族間紛争が深く噛合って何とも複雑だ。しかし、全く民主的でない政治的手法はほめられたものではない。
「カスビのブガンダ王国歴代王の墓」は、上記の解説には出てこなかったムテサ1世のわらぶき屋根の宮殿(1882年建立)がそのまま墓所となったもので、ここにムワンガ2世、ダウディ・クワ2世、ムテサ2世も葬られている。
ここまで見てみると、冒頭の墓所の焼失の記事にある、王国の自治を要求するブガンダ王家の子孫と、「王家は伝統的、文化的な存在に過ぎない」とう政府の対立も理解できるようになる。墓所の焼失の真相はまだ明らかではないので、放火と断定する気はないが、いずれにしても世の中の事象を理解するためにはその経緯を充分に理解しなければならないことを改めて感じる。



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