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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




世界の都市の人口を調べる場合に、市域の人口を見る場合と、主要都市地域近くの郊外都市も含んだ都市圏の人口を見る場合では大きく異なる。市域人口では重慶 約30百万人、上海 約24百万人、北京 約22百万人、デリー 約17百万人が上位だが、都市圏人口では東京が約38百万人で首位となる。東京の人口は約9.5百万人だが、都市圏人口には横浜、さいたま、千葉も含まれる。しかし都市圏の定義はさまざまであり、その方法によって数値は変わってくる。

このように人口統計のある現代でも、都市の人口というのはなかなか特定が難しい。ましてや統計記録のない時代の人口の推計は難しいのだが、都市の人口は歴史を学ぶ上で最も興味のある要素のひとつである。そこで考古学者たちによる紀元前の人口の推定をみてみよう。
Wikipediaには各考古学者の人口推定が記載されているが、表がわりかにくいので、各年代のランキングの形で纏めてみた。

歴史上の推定都市人口
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E4%B8%8A%E3%81%AE%E6%8E%A8%E5%AE%9A%E9%83%BD%E5%B8%82%E4%BA%BA%E5%8F%A3

Ian Morris (2010年) [IM]
イアン・モリス (Ian Morris) 著『Why the west rules—for now』 人口は行政上の市域人口ではなく、都市的地域に対応する。東洋・西洋でそれぞれ最大の人口を有すると推測される都市の人口のみが算出されている。
George Modelski (2003年) [GM]
ジョージ・モデルスキー (George Modelski) 著『World Cities: –3000 to 2000』 人口は行政上の市域人口ではなく、都市的地域に対応する。全般的にChandlerの推定値よりも信頼性が高いが、紀元1000年以降の都市に関してはあまり推定人口を算出していない。
Tertius Chandler (1987年) [TC]
ターシャス・チャンドラー (Tertius Chandler) 著『Four Thousand Years of Urban Growth: An Historical Census』。人口は行政上の市域人口ではなく、建物が連続的に存在する都市的地域に対応する。歴史上の全世界の都市約2,500箇所について推定人口を算出している。


今から約10000年前のBC8000以前から西暦元年まで順を追ってみていきたい。



世界最古の都市はパレスチナ東部のイェリコ (Jericho) とシリア北部のムレイベット (Mureybet) と言われている。その後BC6500年頃にトルコ南部のチャタル・ヒュユク (Çatalhöyük) は最大で人口10,000人に達したと言われている。

BC3000~2000年頃には、古代メソポタミアの都市国家であるウル (Ur)、ウルク (Uruk)、ギルス (Girsu)、ラガシュ (Lagaš) が大都市として多くの人口を擁した。
BC2000~1000年頃には、エジプト第19王朝のラムセス2世によるペル=ラムセス (Pi-Ramesses) をはじめとしたエジプトの各都市が栄え、一方で殷墟 (Yinxu) など中国の都市も上位にランクされた。



BC300年頃になるとカルタゴ (Carthage) が50万人の大都市となり、またインド東部のマウリヤ朝の都市パータリプトラ (Pataliputra) の人口が40万人となった。
そしてBC100年頃にアレクサンドリア (Alexandria) の人口が100万人に達した。(諸説あり)

アレクサンドリア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2

エジプトのアレクサンドリアはギリシアのマケドニア王であったアレクサンドロス大王によって、紀元前332年に建設された。アレクサンドロスの死後は、その部下だったプトレマイオス1世がエジプトを支配し、古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝の首都として発展した。一時は人口100万人を超えたともいわれ、そのため「世界の結び目」と呼ばれた。

以前取り上げたが、アレクサンドリアには世界の七不思議の一つに数えられる巨大な大灯台があったと言われている。もともとこの「不思議」は「必見のもの」の意味で、紀元前最大の100万人都市に相応しい建築物だったと言えよう。



そして西暦元年頃には、ローマ帝国の首都ローマ (Rome) が100万人が居住する世界最大の都市となった。それに伴いフォロ・ロマーノが整備され、ローマは権力の中心としての都市開発が進展した。

尚、BC7000~600年の世界総人口は500~1000万人、西暦元年は2~4億人と推計されている。

世界人口の推移と推計:紀元前~2050年
http://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/Data/Popular2005/01-08.htm

アレクサンドリアとローマはこの時代で稀有な大都市で、その後しばらく100万人都市は誕生していない。同じ資料に基づくと、紀元前から大都市だった長安 (Chang'an) がAD700年頃に100万人 (出典[IM][GM])、唐末期から長安に代わって栄えた開封 (Kaifeng) がAD1000年頃に100万人 (出典[IM])、762年に新都に定められた計画都市であるバグダード (Baghdad) は西暦1000年頃に人口120万人 (出典[GM]) と、AD1000年頃までは100万人都市は3都市のみである。
それが2018年では、世界の人口は約75億人、1000万人以上の都市圏人口を抱える都市が37都市、100万人以上だと526都市と、約1000年で人口が爆発的に増加し、また都市への集中が進んでいる。

Demographia World Urban Areas 14thAnnual Edition: 201804
http://www.demographia.com/db-worldua.pdf

都市人口の推移は1万年にわたって人類がどれだけ繁栄し、また生活を変えていったかをよく示している。これからの1000年、2000年も代々繁栄となるのだろうか。



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東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊してから、まもなく30年となる。「東ドイツ」「西ドイツ」という国名の響きもすっかり過去のものとなった。
その東西ドイツの対立のひとつの例として「ルフトハンザ」を取り上げてみたい。伸井太一氏の『ニセドイツ1 ≒東ドイツ製工業品』 (社会評論社、2009年) を主に参照する。

「ルフトハンザ」と言えば、当然ドイツのフラッグキャリアとされる「ルフトハンザドイツ航空」(ドイツ語: Deutsche Lufthansa AG) をイメージするだろう。
その前身は1926年に設立された Deutsche Luft Hansa A.G. である。

Deutsche Luft Hansa
https://en.wikipedia.org/wiki/Deutsche_Luft_Hansa

Deutsche Luft Hansa A.G. (from 1933 styled as Deutsche Lufthansa and also known as Luft Hansa, Lufthansa, or DLH) was a German airline, serving as flag carrier of the country during the later years of the Weimar Republic and throughout Nazi Germany.
Even though Deutsche Luft Hansa was the forerunner of modern German airline Lufthansa (founded in 1953), there is no legal connection between the two.


Deutsche Luft Hansa A.G. はナチス時代を通じてドイツ空軍と密接な関係を持ったとして戦後は完全に解体されたが、その再開をめぐって東西でふたつの「ルフトハンザ」」が誕生することになったのである。

『ニセドイツ1 ≒東ドイツ製工業品 』 P84~89 飛行機:煩雑 (ハンザ・ツー) な二つのルフトハンザ

東ドイツでは、1950年代前半から徐々に民間航空事業の再開準備がソ連との協議の下で進められ、1955年5月1日(メーデー)に合わせて。東独政府主導の民間航空が開始されることが決定した。その2か月後の7月1日には、社名をルフトハンザとして、東ドイツ内務省の管轄化で運営されることとなる。
さて、ここである難儀が生じる。実は、東独ルフトハンザに先立つこと3か月、西ドイツにも「ルフトハンザ」が公式に再建されていたのだ。よって、同盟でほとんど同じロゴマークの航空会社が、世界にふたつ存在することになった。これでは各国の空港運営側も利用客も大変だ。つまり、搭乗・到着ゲートなども、「どっちの」ルフトハンザの情報なのかややこしくて仕方ない。
ただし実際は、すでに西側諸国を中心に西独のルフトハンザが「公式な」国際航空会社として承認されていたので、はなから東独のルフトハンザに勝ち目はなかったと言える。西独側は、東独ルフトハンザを企業名の盗用だとして抗議し、逆に東独側はこの抗議は巧妙な東独封じ込めの戦略だと西の政策を非難した。
さすがにこのような状態が続くことは東独の民間航空事業に悪影響しか及ぼさないので、1963年にやむなく東独のルフトハンザは、東独のもうひとつの航空会社であるインターフルークに統合され消滅したのである。


鶴のロゴマークは戦前のDeutsche Luft Hansa A.G.のロゴマークを両社とも採用したものだが、既に登記された商標・マークを使用するとは現在では考えられないお粗末な対応である。
ここで思うのは、東ドイツはルフトハンザをもう3か月早く再建できなかったのかということである。当時から経済的あるいは技術的には敵わなかったはずだが、社名の登記が先行すれば西ドイツに対して優位な立場に立てたはずである。もっともその場合は、西ドイツの航空会社は最初から「ルフトハンザ」ではなかったと思われ、また「ルフトハンザ」は1991年に東西ドイツ統一に伴い営業を終了した東ドイツの国営航空会社という歴史になっただろうが。

さて、名前をめぐる争いで劣勢だった東独ルフトハンザだが、起死回生策として独自の旅客機開発を目指していた。それがバーデ152である。

バーデ152
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%87_152

バーデとはこの航空機の設計者であるブルノルフ・バーデ(Brunolf Baade)のことであり、僅か2機が飛行用に製造された。
最初の試作機の初飛行は1958年12月8日に行われ35分間飛行した。1959年3月4日にオッテンドルフ=オクリラで行われた2度目の飛行で着陸接近の始めに墜落し、全搭乗員が死亡した。墜落の原因は公表されなかったが、燃料系統は傾斜状態ではテストされないことから燃料系統に起因する問題であることが最も考えられる原因である。
飛行テストは2番目の試作機で続けられた。3番目の試作機は地上テストのみに使用された。
旅客機としての飛行テストは1961年初頭にはほぼ終了し、東ドイツの国営航空会社ドイツ・ルフトハンザ用の4機の生産に入った。この時点で東ドイツ政府は全ての航空機産業の活動を停止させた。自国が開発したツポレフ Tu-124を売り込んでいたソビエト連邦が他国からいかなる旅客機をも購入したがらず自国航空機産業の開発に更なる援助をしたためだった。




The Vintage Wings of Canada : The Baade 152
http://www.vintagewings.ca/VintageNews/Stories/tabid/116/articleType/ArticleView/articleId/554/The-Baade-152.aspx

このバーデ152のプロモーション映像がある。


1960年の映像のようだが、飛んでいる機内の映像には見えないし、シートベルトはしていないし、向かい合って座っている点が気になる。前年に墜落した試作段階の飛行機に乗客を載せて飛行することはないだろう。
結局バーデ152が東独ルフトハンザあるいはインターフルークの機体として就航することはなかった。以下のようなおもちゃのモデルしか存在しない。



東独ルフトハンザ、およびバーデ152に見られる旅客機開発の挫折は一例ではあるが、経済力や技術力で東の劣勢は明らかであった。やはりどこかのタイミングで社会主義体制の崩壊は必然であったと言えるだろう。



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1984年に公開されたヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』はカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した珠玉のロードムービーだ。
原題は『Paris, Texas』であり、すなわち「テキサス州パリス」という意味だ。主人公のトラヴィスの母がテキサス州パリスの出身という設定だ。
「テキサス州パリス」は同州ラマー郡の郡庁所在地で、人口約2.5万人の小さな町だ。しかし映画の中ではこの町が出てくるシーンはない。



町の名物として (?)、赤いカウボーイ帽をかぶったエッフェル塔のレプリカ (約21m) がある。



この映画のおかげで「テキサス州パリス」はとても有名になったが、「パリス」はテキサス州だけでなく (表現は悪いが) 至る所にある。以下のサイトによるとアメリカには市・町・非法人地域 (unincorporated area、地方自治体に属さない地域) で25の「パリス」が存在する。

Paris (disambiguation)
https://en.wikipedia.org/wiki/Paris_(disambiguation)

この中には「ニューヨーク州パリス」もある。ニューヨーク州オナイダにある82平方kmで人口4400人ほどの小さな町で、ゆかりのあるIsaac Paris大佐にちなんで命名されたとのことだ。



その「ニューヨーク」もニューヨーク州だけでなく全米に存在する。フロリダ州、アイオア州、ケンタッキー州、ミズーリ州、そして再びテキサス州だ。
「テキサス州ニューヨーク」は人口わずか20人ほどの非法人地域だ。

New York, Texas
https://en.wikipedia.org/wiki/New_York,_Texas

New York is an unincorporated community in Henderson County, Texas, United States, about 11 miles east of Athens
New York was first settled around 1856 by James C. Walker, Davis Reynolds, Jesse M. Forester, and A. M. Otts at a location south of the present site. The present site was settled in 1873. The community was reportedly named either by T. B. Herndon as a joke or by Reynolds because of his hopes for the town's future.




ちなみにその逆の「ニューヨーク州テキサス」もあるのがややこしい。こちらはニューヨーク州のオズウィーゴ郡の村で、人口は200人ほどだ。

Texas, New York
https://en.wikipedia.org/wiki/Texas,_New_York

Texas is a hamlet in Oswego County, New York, United States, near the southeastern corner of Lake Ontario. It is officially part of the town of Mexico.
The hamlet's name became Texas some time between 1820 and 1860. The present name is after the territory of Texas.




さらにテキサス州には「パリ」「ニューヨーク」だけでなく、「ロンドン」「ダブリン」「ベルリン」「ローマ」「アムステルダム」「アテネ」「ベオグラード」「モクスワ」「デリー」など、世界中の様々な地名を冠した市・町・非法人地域がある。

https://en.wikipedia.org/wiki/London,_Texas
https://en.wikipedia.org/wiki/Dublin,_Texas
https://en.wikipedia.org/wiki/Berlin,_Texas
https://en.wikipedia.org/wiki/Rhome,_Texas
https://en.wikipedia.org/wiki/Amsterdam,_Texas
https://en.wikipedia.org/wiki/Athens,_Texas
https://en.wikipedia.org/wiki/Belgrade,_Texas
https://en.wikipedia.org/wiki/Moscow,_Texas
https://en.wikipedia.org/wiki/Delhi,_Texas

そして「東京」もあった。「Tokyo」でないが「Tokio」という名前の非法人地域が存在する。

TOKIO, TX (TERRY COUNTY)
https://tshaonline.org/handbook/online/articles/hnt24

Tokio is at the intersection of U.S. Highway 82/380 and a local road, seventeen miles west of Brownfield in extreme western Terry County. The town was founded around 1908 and may have been named by Mrs. H. L. Ware for the capital of Japan. In 1912 a post office was opened with Mrs. Ware as postmistress, and in 1929 the community reported a population of fifteen. Located in a farming region with nearby oil and gas fields, Tokio kept its post office and a small population through the early 1990s. In the 1940s it reported about three businesses and 125 residents. From the 1950s through 1990 the town had an estimated population of sixty. In the early 1990s Tokio reported a post office and four businesses. The population dropped to twenty-four in 2000.



その「Tokio, Texas」は今やゴーストタウンとなっている。(Ghost Town Listが存在することが凄い)

TEXAS GHOST TOWN LIST
http://www.texasescapes.com/Texas-Ghost-Towns-A-to-Z.htm



テキサス州を舞台として様々な『○○、テキサス』という映画をつくることができるかもしれないが、この動画のような映画では残念すぎる。やはり『パリ、テキサス』が一番しっくりとくるようだ。



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このブログは、あまり分野を特定せずにいろいろと調べごとをして、わかったことを記録している。記事のテーマがすぐに決まることはなく、関連するいろいろな内容を調べて纏められそうなものを掘り下げている。
ソースは基本的にはネットが中心で、今の世の中たいていのことはネットで調べることができると言っても過言ではないが、それでもはっきりしたことがわからなかったり、ソースによって記載内容が異なることもある。当然だが私はその分野に精通しているわけではないので、なるべく合理的に判断できる内容で記事を纏めている。

さて、今回調べた内容はほとんど正確なことがわからなかったということを予め断っておく。
かなり以前に、在任期間がわずか20分だったというポルトガル王国ブラガンサ公のルイス・フェリペについて調べたことがあるが、昨年タイのプミポン国王が在任70年で88歳で亡くなったことを受け、在任期間が長い首長について調べてみたが、これは極めてはっきりしないようだ。

ギネスブックによると以下のような記載がある。

Guinness World Records - Longest ever reigns
http://www.guinnessworldrecords.com/world-records/longest-ever-reigns

Who : Phiops II, Minhti, King of Arakan,, Musoma Kanijo
Where : Arakan

Minhti, King of Arakan, which is now part of Myanmar (formerly Burma), is reputed to have reigned for 95 years between 1279 and 1374.

The longest documented reign of any monarch is that of Phiops II (also known as Pepi II or Neferkare) a Sixth-Dynasty pharaoh of ancient Egypt. His reign began c. 2281BC, when he was 6 years of age, and is believed to have lasted c. 94 years.

Musoma Kanijo, although not a monarch, was chief of the Nzega district of western Tanganyika (now part of Tanzania) and reputedly reigned for more than 98 years from 1864, when aged 8, until his death on 2 February 1963.


このようにPhiops II (ペピ2世)、Minhti (Min Hti) 、Musoma Kanijo という時代も地域も全く異なる3名の君主が出てくる。この3名や国家・歴史について調べてみた。

最も古いのは、エジプト古王国時代最後の王朝であるエジプト第6王朝のファラオ (王) のペピ2世(ネフェルカラー・ペピ、Pepi II Neferkare) だ。

ペピ2世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%942%E4%B8%96

ペピ2世は紀元前2383年頃 (紀元前2278年が正と思われる)、僅か6歳でファラオに即位した。ペピ2世は100歳まで生き、実に94年の在位期間を保ったとされている。彼は後世のエジプトでは長寿の代名詞として知られるようになった。
ペピ2世の治世の間に州侯の勢力はますます拡大した。増大する官吏の人件費を確保するために、元来葬祭儀礼等に関わるピラミッド都市などの管理職や領地を、給与・恩賞として分与する政策を採っていた。この方法は少なくとも各官吏の職権と給与を確保する手段としては有効であり、第6王朝の長期安定と対外遠征の勝利はこうした措置によって得られた強力な官吏に支えられたものであった。しかしこれは長期的には官吏の勢力を王の手の及ばない規模まで拡大させた。既に第6王朝の初期から州侯職を世襲する有力家系が発生しており、ペピ2世の治世後半にはこれら州侯に対する中央政府の統制は急激に緩んだ。
ペピ2世が死去する頃には中央集権国家としてのエジプト第6王朝は既に有名無実のものになっていた。彼の死後相次いで王位についたメルエンラー2世とネチェルカラーは共に極めて短期間のうちに王位を失っている。




この写真はペピ2世と母のアンクネスペピ2世の像だ。またタイトルの写真はエジプト・サッカラにあるペピ2世のピラミッドだ。

尚、94年とという在位は紀元前3世紀の古代エジプトの歴史家・マネトの記録によるものだが、エジプト神聖文字の「9」と「6」が似ていることなどから、実際の統治期間は64年だったのではないかとの説も存在している。常識的には6歳で即位して64年と考える方が自然だが、さすがに古すぎて確かなことはわからない。

2人目のMin Htiは現在のミャンマー・ラカイン州にあったアラカン王国の王だ。

アラカン王国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3%E7%8E%8B%E5%9B%BD

アラカン王国は、ビルマのアラカン地方(現在のミャンマーのラカイン州)にあった仏教の王朝(紀元前2666年 - 1785年)。首都はダニヤワディー、ワイタリ、レイムロ、ミョーハウン (現ミャウウー)。首都はさまざまに移り変わったが、1429年にミン・ソー・モンが王権を樹立したのち、1430年にミョーハウン (現在のミャウウー) に定まった。
王国は大航海時代をラカイン族の黄金時代と看做しており、ミョーハウンが商業港として重要な位置を占めるようになると、アラビアやヨーロッパとの広範囲な海運に組み込まれた。
1666年、ムガル帝国にチッタゴンを奪われると、17世紀を通じて衰退を続けた。この王国では内乱・暴動・王の追放が非常に一般的であった。彼らがアジアで覇を唱えた時代の間、ポルトガル人がアラカンに一時的に施設を得た。
1785年1月2日、マハ・タンマダの治世、内部分裂していた王国が侵略してきたビルマのコンバウン朝に首都を占領され、滅亡した。その際、マハムニ仏は戦勝品としてビルマ人に奪われた。
しかし、緩衝国として機能していたアラカンが陥落したことによって、膨張主義のビルマとイギリス東インド会社の領土が直接接触した結果、緊張が将来暴発する舞台を設定してしまった。様々な地政学的諸問題が、以前にビルマに戦勝品として奪われたマハムニ仏を理由に、第一次英緬戦争を引き起こすこととなった。




実際は1429年の王権樹立をもって王国 Kingdom of Mrauk U (地図の緑色) の設立とするようで、これ以前の記録は正確ではないが、ラカイン族は自身の民族史を紀元前3325年まで遡って、1785年の最後の支配者に至るまでの227人のアラカン王国の君主を明らかにしている。
その中の1人がMin Htiで1279年から1374年まで95年にわたって統治したとされている。

List of Arakanese monarchs
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Arakanese_monarchs

一方で以下のサイトではMin Htiの在位は1385年までの106年だったと記録されている。
95年にしろ106年にしろ、この時代にそんな長寿というのは考えられず何かが間違っているのだが、実際にこのような記録が残されていることは事実である。

About Arakan
http://aboutarakaneng.blogspot.jp/2011/10/arakana-buddhist-kingdom-of-southeast.html

The history of Arakan from the 9th to the 13th centuries AD is still hidden in the dark. It is generally referred to as the Lemro period. Lemro means 'four cities' in Arakanese, and indeed this is the period of a succession of four cities whose names were Pin-sa, Pa-rein, Khreip and Laung-krak. Lemro is also the name of the river along which these cities were situated. Apart from the last one of these cities, not much is known of the other ones, where there have been no archaeological excavations at all. There has been as yet no serious study of the chronology of the period. We have at the moment only various dynastic lists whose dates do not match each other.
The greater part of the 14th century, for example, is covered by the reign of a king who is said to have reigned for a total of 106 years (Min Hti 1279-1385).




尚、この写真は1676年に描かれた "View of Mrauk U" である。華やかなイメージが伝わってくる。

最後はギネス記録上で98年と最も在位期間が長いMusoma Kanijo (ムソマ・カニヨ) だが、19~20世紀と比較的最近であるにもかかわらず、この人物に関する記録は全く出てこない。
国家君主というわけではなく、現在のタンザニアのヌゼガ地区 (Nzega District、人口は2012年で約50万人) の部族制社会の族長とのことだ。



1864年に8歳で即位し1963年2月2日に亡くなるまで98年在位ということで、具体的ではあるが統治の実態はわからない。
この間のタンザニアの歴史としては、19世紀半ばのオマーン帝国時代に始まり、1880年代のヨーロッパの帝国主義列強のアフリカ分割によるイギリス、そしてドイツ植民地時代 (ドイツ領東アフリカ)、第一次世界大戦後のイギリスとベルギーによる委任統治、そして第二次世界大戦後の1961年12月9日のタンガニーカとしての独立までを見届けている。内陸の一地方の族長とはいえ、タンザニアの歴史そのものと言っていい人物だ。 
但し、タンガニーカは1964年にザンジバル人民共和国と合併してタンガニーカ・ザンジバル連合共和国となり、その後国名を改めて現在のタンザニア連合共和国となったので、ムソマ・カニヨは現在のタンザニアの国の形は知らずに亡くなったこととなる。

「最も在任期間が長い君主」という史実は当然1人しか該当しないのだが、わからないことや曖昧なことがあるからこそ歴史は面白いと言えるだろう。



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アメリカとメキシコの国境が話題になっている。この国境線は約3,200kmに及ぶ。即ち日本列島の最北端 (択捉島) と最西端 (与那国島) の直線距離の3,294kmとほぼ同じであり、そのあまりのスケールの大きさがわかるだろう。
ちなみに世界で最も長い国境線はアメリカ=カナダ間で8,891kmだが、アラスカとの国境を除くと6,416kmとなる。従って単一の国境線という観点ではロシア=カザフスタン間の6,846kmの方が長い。南北に延びるアルゼンチン=チリ間の国境は5,150kmだ。いずれも日本の感覚ではイメージできない。

一方で世界で最も短い国境線は、アフリカのザンビア=ボツワナ間で僅か150mとなる。そしてここは世界で唯一4ヵ国の国境が近接する地点でもある。



この国境は川幅約400mのザンベジ川の中に存在するのだが、ザンビア=ナミビア=ボツワナとボツワナ=ジンバブエ=ザンビアの三国国境がそれぞれ存在し、その間がザンビア=ボツワナの国境線 (150m) で繋がれているという形となる。従ってとても惜しいのだが、この国境点は四国国境とは言えない。
ちなみに、国境の町はザンビア側もボツワナ側もカズングラ (Kazungula)と呼ばれ、この2つの町を結ぶカズングラ・フェリーが運航している。



またこのフェリーに代わって橋の建設が計画されており、これは日本の政府開発援助によるものである。

JICA ODA見える化サイト カズングラ橋建設事業(ザンビア)
https://www.jica.go.jp/oda/project/ZM-P5/index.html

ボツワナとザンビアを通る南北回廊は、南部アフリカ地域で重要な運輸回廊の一つですが、ボツワナ・ザンビアの国境を流れるザンベジ川で隔てられており、南部アフリカ地域の経済開発上のボトルネックとなっていました。この協力では、ザンベジ川を渡河する橋梁建設と国境管理施設の建替えと併せて、税関、出入国管理、検疫などを両国で一本化するワン・ストップ・ボーダー・ポスト(OSBP)化による国境通過手続き迅速化も支援します。これにより、輸送の効率化を図り、南北回廊周辺地域における物流の改善および経済開発の促進に寄与します。

外務省 カズングラ橋建設計画プロジェクト位置図
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/24/10/pdfs/20121010_01_01.pdf

さて、このように四国国境は現存はしないのだが、歴史的には例がある。
近代における事例として、1839年から1920年の中立モレネの北端のファールゼルベルク (Vaalserberg) が挙げられる。これはオランダ・ベルギー・プロイセン・中立モレネの (中立モレネを国としてカウントするという前提で) 四国国境だった。
それでは中立モレネとはどのような国であったのだろうか。

モレネ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AC%E3%83%8D

中立モレネ (Neutral Moresnet) は、ドイツとベルギーの国境に1816年から1920年にかけて存続した共同主権地域。面積3.5km2の小さな領域。モレネが存続したのは、ドイツ国(当初はプロイセン王国)とベルギー(当初はオランダ)が、互いに他方の主張する領有権を認めなかったことによる。この地帯は両国が等しく統治権をもち、中立地帯とされた。
ナポレオン戦争の終結後、1814年から1815年にかけて開催されたウィーン会議は、ヨーロッパの秩序回復・諸国間の勢力均衡を掲げて領土の再配分を行った。
ウィーン会議で新たに設立されたネーデルラント連合王国(オランダ)とプロイセン王国との国境線も、このとき画定されることになった。両者はほぼ従来の境界線を踏襲することで合意したが、アーヘンの南西に位置するモレネ一帯をめぐって争いが生じた。この地域には、亜鉛・真鍮の加工のために必要な菱亜鉛鉱の鉱山があったためである。
1815年12月以降、プロイセンとオランダの代表はアーヘン近郊で会合を行い、1816年6月26日にモレネを3分割することで合意に達した。
東部はプロイセンに帰属、西部はオランダに帰属、そして中部は将来あらためて合意が結ばれるまで当面のあいだ両国の共同統治区域とした。双方の軍隊をこの区域に進駐させることは禁じられ、中立地帯にとして共同管理が行われることとなった。




このように、モレネの中部は北のファールゼルベルクを頂点とする鋭い三角のような形となり、中立モレネとしてプロイセンとオランダによる共同管理が行われた。その後1830年にベルギー独立革命、および1839年のロンドン条約調印によって、ベルギーのオランダからの独立が認められ、中立モレネ西側のオランダ領部分はベルギーの領土となり、中立モレネにおけるオランダの役割もベルギーが引き継いだ。
その結果として、中立モレネの北端のファールゼルベルクはオランダ・ベルギー・プロイセン・中立モレネの四国国境となったのである。

しかし、1914年8月にドイツがベルギーに侵攻し、中立モレネは1915年にプロイセン王国に併合された。しかしこれは国際的な承認はなかった。
1918年11月に、フランスとドイツの間で休戦が成立し、ドイツ軍はベルギーとモレネからの撤退を迫られた。1919年6月のヴェルサイユ条約によってベルギーに帰属することが決定され、1920年1月に中立モレネは正式にベルギー領に編入され「ケルミス」と名を変えた。そしてこれをもって4ヵ国国境は世界の地図から消えた。
その後ケルミスは第二次世界大戦時にドイツによる再占領があったが、1944年にベルギーへ復帰している。
そして現在でもファールゼルベルクは、ドイツ・ベルギー・オランダの三国国境となっている。



三国国境は世界に約176ヶ所 (国境未確定の地点がある) 存在するが、四国国境となると途端に例がなくなってしまう。国境線が十字にクロスすれば四国国境ができそうなものだが、現実はそんなに単純なものではない。
カズングラ橋の建設を機会に、ボツワナ・ザンビア・ナミビア・ジンバブエは国境を少しだけずらしたら面白いのではないかと思うが、さすがに無理だろうか。


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ギネスブック公認の、停車駅間における営業列車の平均速度記録は以下のように変遷している。

ミドルエッジ 新幹線とTGV、どっちが速かった?高速鉄道、最高速度記録の歴史。
https://middle-edge.jp/articles/I0000948

1932年 Cheltenham Spa Express(イギリス)・・・115km/h
1933年 フリーゲンダー・ハンブルガー(ドイツ)・・・124km/h
1964年 ル・ミストラル(フランス)・・・132.1km/h
1965年 新幹線ひかり(日本)・・・162.8km/h
1973年 エタンダール号(フランス)・・・163km/h
1983年 TGV(フランス)・・・214km/h
1997年 新幹線のぞみ(日本)・・・261.8km/h
2005年 TGV(フランス)・・・263.3km/h
2007年 TGV(フランス)・・・279.3km/h

走行試験であれば400km/h超、さらに磁気浮上式であれば600km/h超の記録もあるが、停車駅間における営業列車の平均速度は、実際に乗る鉄道の速さという点で意義がある。
Cheltenham Spa Expressは蒸気機関車、フリーゲンダー・ハンブルガーはディーゼル機関車であり、昔は120km/h程度が限界であったが、新幹線の誕生とともに高速化が進み、新幹線とTGVが争っているという構図だ。1997年に新幹線のぞみ(500系)で広島-小倉間で平均261.8km/h (営業最高速度は300km/h) を記録したが、現在はTGVが記録を保持している。

この中でひとつだけ聞き慣れないのは、1973年に新幹線ひかり (0系) から営業列車平均速度記録最速の座を奪ったエタンダール号である。

Étendard (train)
https://en.wikipedia.org/wiki/%C3%89tendard_(train)

The Étendard was an express train that linked Paris and Bordeaux in France. Introduced in 1968, it was operated by the Société Nationale des Chemins de fer français (SNCF), and was initially a Rapide.
The train's name, L'Étendard (literally, "The Standard") is the French word for "banner", and commonly refers to military banners, as carried on parades and into battle.
From 1971 to 1984, the Étendard was a first-class-only Trans Europ Express (TEE), and between 1973 and 1975, the southbound service was an international train linking Paris with Spain. It reverted to being a two-class Rapide in June 1984 and was discontinued entirely with the introduction of TGV service between Paris and Bordeaux, in 1990.
The Étendard's core route was the 584 km long Paris–Bordeaux railway. The train normally ran daily except Sundays southbound and daily except Saturdays northbound.
Starting in 1973, the Étendard's southbound route was extended along the Bordeaux–Irun railway line to terminate in Irun, Spain, and its northbound route was extended to start in Hendaye, France, stations located on opposite sides of the French–Spanish border. During the summer timetable periods, these extensions were served on all operating days (six days a week), except certain holidays. During other seasons, the portion between Bordeaux and Irun or Hendaye usually operated only one day a week: southbound on Saturdays, northbound on Sundays. These extensions lasted until 1975.
The Étendard was usually hauled by one of SNCF's 1.5 kV DC, Class CC 6500 electric locomotives.


このようにエタンダールは1970年代にTrans Europe Express (TEE) として活躍した列車だ。1981年にTGVがパリ - リヨン間で開業し、その後役割を終えることになったが、(ギネス記録上は) 営業列車平均速度記録最速の座を10年にわたって記録した。
エタンダールを牽引していたフランス国鉄CC6500形電気機関車は、1969年から1974年にかけて製造されたフランスを代表する電気機関車であり、映像を確認することができる。



そしてエタンダールを含めたTrans Europe Express (TEE) もまた20世紀の偉大な鉄道遺産である。

TEE
https://ja.wikipedia.org/wiki/TEE

Trans Europ Express, 略称TEEは、1957年から西ヨーロッパで運行されていた列車の種別である。
TEEは本来、国際的に活動するビジネス客を主な対象として設定された列車である。また第二次世界大戦後に急速に発達した航空機や自動車に対抗できる速度や利便性、快適性を追求した列車でもある。
TEEでは出入国管理や税関検査などの手続きは原則として車内で走行中に行なえるようになっており、国境駅での長時間停車は不要になった。また食堂車を連結するか、もしくは車内の厨房からケータリングサービスが行なわれた。列車によっては車内からの電話や秘書によるタイプセットなどのサービスが行なわれるものもあった。
ほとんどの系統でTEEは1日に1往復から2往復程度であり、早朝に始発駅を出て昼頃に終着駅に着き、逆向きの列車は夕方に発車して深夜に到着するというダイヤが組まれた。これはビジネス客の出張利用を想定し午後を目的地での仕事に使えるようにしたためであり、昼間を列車の中で過ごすことはあまり想定されていない。

TEEの構想を提案したのはオランダ国鉄の総裁であったF.Q.デン・ホランダー(Frans den Hollander)である。彼は1953年10月30日の記者会見で、Europa Express(ヨーロッパ急行)という新たな国際列車を提唱した。これはすべて一等車からなる高速の気動車列車で、当時の旅客機と同等以上の内装を有し、国境で乗務員を交代することなく運行されるべきものとされた。デン・ホランダーは、300kmから500km程度の距離では列車は航空機に所要時間の面で優位に立てると考えた。また彼はこのころ国営航空会社KLMの役員も兼ねており、当時急速に発展していた航空業界のサービスを鉄道に取り入れようという意図もあった。一等専用としたのは、当時の航空運賃では二等旅客は航空機を選ぶことはないと考えられたためである。
ベルギー国鉄、ドイツ連邦鉄道、フランス国鉄、イタリア国鉄、ルクセンブルク国鉄、オランダ国鉄、スイス連邦鉄道、オーストリア連邦鉄道がTEEのメンバーとなり、1957年6月からTEEが運行された。その後スペイン国鉄、デンマーク国鉄もメンバーに加わった。

TEEの最高速度は1957年当時はすべて140km/hであったが、電車や電気機関車を用いることにより1960年代には160km/h程度まで向上した。1960年代後半には日本の新幹線の影響を受けてヨーロッパでも鉄道の高速化に関心が高まった。1970年代にはフランスや西ドイツの多くの路線でTEEの最高速度が200km/hに引き上げられた。中でもパリ - ボルドー間のTEEアキテーヌ、エタンダールは表定速度が151.5kmに達し、TGV以前のヨーロッパでは最も速い列車であった。

1987年5月にヨーロッパの国際列車の新たな種別としてユーロシティが誕生し、元TEEであった国際インターシティの多くはユーロシティとなった。また、イタリアの国内列車のTEEもこの時全てインターシティに置き換えられて廃止された。これによりTEEとして残っているのはゴッタルド(チューリッヒ - ミラノ)とフランス国内の4往復のみとなった。ゴッタルドは1988年9月25日のダイヤ改正をもってユーロシティに種別変更され、「一等車のみからなる国際列車」としてのTEEは消滅した。フランス国内のTEEも次々と二等車を含むコライユまたはTGVに置き換えられた。最後までTEEとして残ったのはパリとトゥールコワンをリール経由で結んでいた一往復であるが、これも1991年5月31日の運行を最後に廃止された。
TEEが本来の目的を果たした期間は決して長くはなかったが、ビジネスユーザをターゲットとしたその上質のサービスは、鉄道におけるサービスレベルの向上に貢献した。また、各国が競ってサービス向上に努めたことも特筆されよう。これらの要素は、後のインターシティや、現在の高速鉄道にも引き継がれている。



技術やニーズの変化に伴ってサービスが形を変えることは世の常であり、TEEがあったからこそ現在のヨーロッパそして世界の高速鉄道があると言うことができる。高速鉄道は今後世界各地に広まり、磁気浮上式を含め技術も向上し営業列車平均速度記録が更新されていくことは間違いないが、10年に渡って新幹線よりも高速を誇ったエタンダールをしっかり記憶しておこう。


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海の道しるべである灯台から放たれる光は陸にいる者も魅了する。写真の被写体としてもとても美しい。
当然だが灯台の歴史は古く、記録に残る最古の灯台は紀元前7世紀にエジプトのナイル河口の寺院の塔上で火を焚いたことが起源とのことだ。

灯台は必ずしも高さが求められるものではない。しかし高くて雄大な灯台はより遠くから目にすることができることも事実である。そこで灯台の高さについて調べてみよう。

世界一高い灯台はしばらくは106mの横浜マリンタワーだった。1961年に竣工した同タワーは頭頂部には灯台としての機能も併せ持っていた。しかし実際に近隣を航行する船舶に対し灯台としての重要度はあまり高くなく、灯台の機能は2008年7月28日未明をもって休止し、9月1日に廃止された。



現在世界一高い灯台は、1990年に建てられたサウジアラビアのジッダにあるジッダ灯台 (Jeddah Light) で、133m (436ft) の高さを誇る。
趣きはあまり感じられないものの、特徴的な形状で際立っている。



しかし、ジッダ灯台は歴史上最も高い灯台ではない。 
エジプトのアレクサンドリア湾岸のファロス島にかつて存在したとされるアレクサンドリアの大灯台 (Lighthouse of Alexandria) は全高134m (440ft) あったとされる。これが事実なら僅かだがジッダ灯台よりも高かった。

アレクサンドリアの大灯台
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AF%E5%8F%B0

紀元前332年、アレクサンドロス3世 (アレキサンダー大王) によってナイル河口にアレクサンドリアが建造された。アレクサンドロスの死後、エジプトは彼の部下であるプトレマイオス1世の統治下に置かれ、ここにプトレマイオス朝が開かれた。プトレマイオス朝はアレクサンドリアを首都としたが、この都市の周辺は平坦な土地が広がっており、沿岸航行や入港の際に陸標となるものが何もなかった。そのためプトレマイオス1世は陸標となる灯台の建造を決定した。紀元前305年から工事を開始し、完成したのはプトレマイオス2世の代だった。(紀元前280年頃)
灯台の全高は約134メートル。ギザの大ピラミッド (147m) を除くと建造当時は地球上で最も高い人工物の一つだった。建材には大理石が用いられ、ブロック状に切り出したものを積み上げていった。形状の異なる三つのセクションで構成されており、方形の基層部の中央に塔があり、下層部は四角柱、中層部はひとまわり細い八角柱、上層部はさらに細い円柱形だった。頂点には鏡が置かれ、日中はこれに陽光を反射させ、夜間は炎を燃やして反射させていた。
796年の地震で大灯台は半壊し、その後の1303年と1323年の地震で完全に崩壊した。1480年頃、跡地に灯台の残骸を利用して要塞が建造され、大灯台は完全に消滅した。しかし、アレクサンドリアの大灯台は、世界の七不思議の中では現在残るギザの大ピラミッドに次いで存続した建造物である。




1994年に海底で遺構が発見され、現在もこれらがアレクサンドリアの大灯台の遺構かどうかを確認する為の検証作業が行われており、この先も新たな事実がわかってくるだろう。

個人的な関心事は存在よりも高さであり、すなわち紀元前3世紀に134mもの高さの灯台を建てることができたか否かである。
以前にも調べたが、紀元前2566年に建てられたギザの大ピラミッド (147m) が長く世界一高い建築物であり、これを超える建物の誕生は1311年のリンカン大聖堂 (160m) まで待たなければならない。さらに嵐や落雷で尖塔が崩壊するなどして、中世においては世界一高い建物は数回にわたって後退している。
もしアレクサンドリアの大灯台が本当に134mの高さを有していたなら、ジッダ灯台をもってしても現在の我々は未だに紀元前3世紀に追いついていないということになる。今後の解明を見守っていきたい。世界の七不思議は徐々に解き明かされるのだ。


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都市直下型の大震災が発生したらどうなるか、というのは地震の多い日本で我々が常に抱えている不安材料である。1995年の阪神・淡路大震災では神戸をはじめとした多くの町、2011年の東日本大震災では東北の多くの町が被害にあっており、その復興はまだ途上である。
さて、海外には災害によって首都が壊滅してしまった例がある。イギリスの海外領土であるモントセラト (Montserrat) の首都プリマス (Plymouth) は、1995年から1997年にかけ発生した火山の噴火により壊滅してしまった。

モントセラトはカリブ海の火山島で、総面積102平方キロで人口は約5,000人 (かつては12,000人ほどいた)。海外領土なので国とは言えないが、独自の行政も営まれている。現在の首相はDonaldson Romeo氏だ。住民はアフリカ系黒人が96%を占め、産業はバナナなどの農業が中心だ。
2002年のFIFAワールドカップ日韓大会の決勝と同じタイミングで、当時FIFAランク最下位のモントセラトと、ひとつ上 (=ブービー) のブータンの間で「もうひとつの決勝戦」が行われたのを覚えている人も多いだろう。



1493年にコロンブスの2回目の航海の際に発見され、スペインのモンセラート修道院にちなんで「サンタ・マリア・デ・モントセラテ」(Santa María de Montserrat)と命名された。しかしスペインは入植せずに、1632年にイギリス人プロテスタント入植者たちによってイギリスの植民地となった。
その後1782年にアメリカ独立戦争でフランスが占領するも、直ちにイギリスに返還され、また1958年には西インド連邦の一州となるも、1962年に同連邦が解体し再びイギリスの植民地になるなど、基本的に歴史を通じてイギリスの支配下にある。
首都プリマスは、以前の人口は4,000人以上で、重要な東カリブ上での船の停泊地のひとつだった。イギリス風の町並みだった。いくつか写真が確認することができる。





しかし、モントセラトは自然災害を受けやすく、1989年にはハリケーンが直撃し島の9割以上に被害をもたらした。
そして、1995年7月18日に島の南部になる活火山・スーフリエール・ヒルズ (Soufrière Hills) が噴火し、島民の2/3が避難し、イギリスが救助のため軍艦を派遣する事態となった。
その後1997年に再びスーフリエール・ヒルズが噴火し、プリマスが火山灰に覆われるなどして壊滅的被害を受けた。



その結果、首都機能を失い、人々はプリマスを放棄し、その後は人口0人のゴーストタウンとなってしまった。臨時首都は火山噴火の影響がほとんどない島北部にブレイズ (Brades) に設置され、さらに北部のリトルベイ (Little Bay) に新首都を設置する計画が進められている。

2003年や2006年にも大噴火を起こすなど、スーフリエール・ヒルズの火山活動は続いていて、プリマスがガスと地熱がひどく人が住める状況にはない。侵入も禁止されており、元の住民が物を取りに来ることも許されない。
一方で、観光局の「Must Do / Places to See」にはスーフリエール・ヒルズやプリマスが掲載されており、それが訪問の目当てとなることも事実である。(このブログのきっかけもそうだが...)
いつも思うのだが、被災地を旅するのは、地元の方としては経済的には助かるのだろうが、訪問する立場としてはどうしても申し訳ない気持ちがありすっきりしない。

モントセラト観光局
http://www.visitmontserrat.com/places-to-see/

詳しい状況は以下の記事や訪問記から知ることができる。

Montserrat, Island Partially Abandoned After Volcano Eruption, Is Slowly Being Consumed By Nature
http://www.huffingtonpost.com/2013/10/08/montserrat-volcano-eruption_n_4059709.html?utm_hp_ref=travel&ir=Travel

大噴火によって首都が壊滅したままの国、モントセラトに行ってきた
http://sekaishinbun.net/2013/07/19/montserrat/

どの大きさの国であれ、首都機能を持った町が一瞬で壊滅してしてしまう影響は計り知れない。関係者の精神的な苦痛は大きいだろう。
モントセラトはその後も火山活動が継続して立ち入れない状況にあったために、必然的に首都や島の南部を放棄するしかなかったが、我々が同様な状況になった時にどのような対応ができるだろうか。
2011年の東日本大震災からも月日が立ち、徐々に人々の問題意識が薄れている感があるが、政府も企業も家庭でも常に有事のことを考えたしかるべき準備が必要だ。



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世の中で新しいものがなかなか古いものに取って代わることができない例として大学を挙げることができる。
大学を新しく設立し、すばらしい教授陣を招き、魅力的なキャンパスや設備を揃えたとしても、伝統校よりも学生が集まるとは考えにくい。なぜなら (語弊あるかもしれないが) 学生が大学に求めるものは、学問そのものよりも人的なネットワークだからであり、長きにわたって優秀な人材を輩出していう伝統校に学生が集まることは自然で、それが学問の質も高めることにも繋がる。
それでは、「現存している世界で最も古いもの大学は?」と問うと、答えはイタリアのボローニャ大学となり、イギリスのオックスフォード大学、スペインのサラマンカ大学がこれに続く。

List of oldest universities in continuous operation
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_oldest_universities_in_continuous_operation

1088年に設立されたボローニャ大学は最古の総合大学であり、現在は規模においてイタリア国内第2位の大学である。世界の大学の原点とされ、「母なる大学」とも称されれている。但し、正確な創立年は定かでなく、1888年にイタリアの国民的文学者であるジョズエ・カルドゥッチらが立ち上げた委員会の調査によって、1088年が創立年であるとされ創立800周年が祝われた。
2位のオックスフォード大学も、創立時期はよく解明されていない。全てが一気に構成されたのではなく、徐々に形成されたものと考えられている。少なくとも1096年には講義が行われていたという証拠がある。
従って、ボローニャ大学が1088年創立というのは取ってつけた感があり、もし委員会が1897年に行われたら1097年を創立年としたかもしれず、その場合はオックスフォード大学が最古になっていたかもしれない。。 とはいえその議論は不毛であり、この2校は歴史が長いことは間違いない。

さて、上記のリストは近代西欧語の大学 (英語のUniversity、ここでは総合大学と称する) としてのリストである。大学を総合大学でなく高等教育機関と考えれば、より歴史を遡ることができ、現存している大学の中にもボローニャ大学よりも歴史が長い大学がある。
世界最古の大学としてギネスに登録されているのが、モロッコ・フェズのアル=カラウィーン大学である。同校はイスラム世界の学院・高等教育機関であるマドラサとして859年に創設され、その後長い間マドラサ、そしてイスラム世界の教育の中心としての役割を果たし、1963年に現在のモロッコの大学システムに組み込まれ改組された。

University of al-Qarawiyyin
http://en.wikipedia.org/wiki/University_of_al-Qarawiyyin



The University of al-Qarawiyyin is a university located in Fes, Morocco. The al-Qarawiyyin mosque-religious school / college was founded by Fatima al-Fihri in 859 with an associated school, or madrasa, which subsequently became one of the leading spiritual and educational centers of the historic Muslim world. It was incorporated into Morocco's modern state university system in 1963. It is the oldest existing, continually operating and the first degree awarding educational institution in the world according to UNESCO and Guinness World Records and is sometimes referred to as the oldest university.

Education at al-Qarawiyyin University concentrates on the Islamic religious and legal sciences with a heavy emphasis on, and particular strengths in classical Arabic grammar/linguistics and Maliki law, although a few lessons on other non-Islamic subjects such as French, English, and even IT are also offered to students.


http://www.alquaraouiyine.com/en/

しかし更に歴史のある現存の大学がある。チュニジア・チュニスにあるジトゥナ大学で、その設立は737年だ。この大学も同様に1956年に現在の大学として改組された。 (なぜ最古と認定されていないかはさすがにわからない)

University of Ez-Zitouna
http://en.wikipedia.org/wiki/University_of_Ez-Zitouna



Ez-Zitouna University is located in Montfleury, Tunis. It is claimed to be the oldest teaching establishment in the Arab world, since the Ez-Zitouna madrassa was founded in 737 as the teaching arm of the Olive-Tree Mosque (Djemaa ez-Zitouna) and has been in continuous existence since then.
Following Tunisia's Independence, the modern Zitouna University was established on April 26, 1956.


http://www.uz.rnu.tn/en/

この両校と比較するとやや歴史が浅いが、エジプト・カイロのアル=アズハル大学も同様な歴史を有しており、988年にマドラサとして設立され、1961年に改組されて総合大学となった。世界中のイスラム教徒あこがれの大学である。

アル=アズハル大学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%82%BA%E3%83%8F%E3%83%AB%E5%A4%A7%E5%AD%A6



アル=アズハル・モスク(971年建立)に付属するマドラサとして988年に設立された。アズハルは「最も栄えある」の意味。
創立当初からの伝統では、イスラーム法学を志す者に対して誰にでもいつでも門戸を開放するという趣旨から、入学随時・出欠席随意・修業年限なし、という3原則を守っていた。プラトン、アリストテレスなどギリシア哲学の研究が行われ、大学院にあたるコースも行っており、世界で最初の成熟した大学とみなされている。
1961年、学院は改組されて総合大学となり、伝統的なイスラーム学・イスラーム法学・アラビア語学の3学部に加えて、新たに医学部・工学部・農学部および女子大学が設置された。2000年には大学にキング・ファイサル国際賞イスラーム奉仕部門が授与された。


http://www.azhar.edu.eg/En/index.htm

このように、いずれもマドラサを起源として現在も総合大学とし現存するイスラム世界の3大学は、ボローニャ大学やオックスフォード大学よりも歴史が長いと言える。そしてその中でも最も歴史があるのはジトゥナ大学である。

また、イタリアの医学の名門であるサレルノ大学も、歴史を8世紀まで遡ることができる。しかし、残念なことに1811年に法令によって閉校となり、1944年に再開されたという経緯がある。永続されていればジトゥナ大学に比肩する伝統校になっていたと考えられる。

Universita degli Studi di Salerno A short history of the university
http://www.unisa.it/english/index



The University of Salerno has very ancient origins as it is one of the oldest universities in Europe together with Paris and Bologna.
The Salerno School of Medicine was founded in the 8th century and was the principal institution in Europe for the study of medecine, reaching its utmost splendour during the Middle Ages. The School marked an enormous step forward in the evolution of medical science and easily fitted into the city of Salerno, which had been thriving economically and culturally since it had been part of Magna Graecia.
The university remained active until 1811, when it was closed by royal decree under the Napoleonic government of Joachim Murat.
In 1944 the university was re-opened by king Vittorio Emanuele II, and the Istituto Universitario di Magistero "Giovanni Cuomo" was founded, which became state-controlled in 1968 as the Facolta? di Magistero of the University of Salerno.

ちなみに、アメリカで現存の最古の大学は1636年のハーバード大学、日本は1684年の東京大学 (江戸幕府が設立した研究機関である天文方を起源と考えた場合で、大学としての設立は1877年であり、その場合は1858年創立の慶応義塾大学が最古となる) だから、高等教育機関の歴史という点ではイスラム社会や西欧に一日の長がある。
そしてどの国のどの大学であれ、学生はその歴史を汚さずに、更に積み重ねるように心がけなければならない。



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日本と国交がない、承認していない国として以下の国々が挙げられる。(国際連合加盟国の1か国以上から国家の承認を請けている国家のうち)

中華民国(台湾)、 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、パレスチナ国、 北キプロス・トルコ共和国、アブハジア共和国、南オセチア共和国、マルタ騎士団、サハラ・アラブ民主共和国、ニウエ

各々について理由や考え方があるが、これは必ずしも永続的なものではない。例えばソマリアについて、1991年の内戦後の暫定政府を日本政府は国家として承認していなかったが、2012年8月に暫定政権の統治が終了して発足したソマリア連邦共和国政府を正式に承認することになった。

さて、2011年3月に日本はクック諸島を国家として承認した。この時の外務省の報道発表は以下のとおりである。

クック諸島の国家承認 - 外務省
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/23/3/0325_09.html

1. 本25日(金曜日)の閣議で,ニュージーランドと自由連合関係にあるクック諸島を国家承認することを決定しました。
2. 今後,国際場裡における協力を含め,クック諸島との関係を強化していく考えです。


自由連合とは、対等な国家間で外交や防衛などの権限を委任する関係であり、「アメリカ合衆国 - パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦」「ニュージーランド - クック諸島・ニウエ」の2例がある。
日本はアメリカと自由連合関係にあるパラオ共和国、マーシャル諸島共和国、ミクロネシア連邦について既に国家承認しているが、ニュージーランドと自由連合関係にあるクック諸島とニウエについては承認がなかった。クック諸島とニウエの住民はニュージーランドの市民権を持つため、国家の三要素の内「人民」を充たさず、独立国としての性格が曖昧であるという理由によるものだ。しかし、それではクック諸島を承認し、ニウエを承認しないのは整合性が取れないことになる。クック諸島が近年積極的な外交の働きかけを展開しており、承認する国が増えたからという環境によるもののようだ。

さて、クック諸島とニウエはともにニュージーランド王国を構成する自治領域であり、ニュージーランドと自由連合の関係にある。
ニュージーランド王国は、ニュージーランド、クック諸島、ニウエ、トケラウ、ロス海属領(南極)からなる。ロス海属領はニュージーランドが領有権を主張している南極の地域なので、総面積はニュージーランドよりも広いが実質的には基地だけである。
残るクック諸島、ニウエ、トケラウを間単に比較すると基本データは以下のとおりである。

 クック諸島 (Cook Islands)  首都:アバルア 人口:10,447人(2013年) 面積:236 km2
 ニウエ (Niue)  首都:アロフィ 人口:1,229人(2013年) 面積:260 km2
 トケラウ (Tokelau)  首都:なし 人口:1,353人(2013年) 面積:10 km2



各々についてもう少し具体的に見てみると、クック諸島は面積が236km2で、世界で8番目に小さい国だ。南太平洋ポリネシアに点在する15の主要な島からなる。ニュージーランド本土からは2000km以上離れていてかなり遠い。クック諸島の国民はニュージーランドの市民権およびパスポートを持っており、ニュージーランド人としての権利を持っている。
2001年以降諸外国との外交関係の樹立を積極化させ、現在は国連に加盟する31か国およびバチカン、欧州連合と外交関係を締結した。

クック諸島政府公式サイトは以下のとおりで、とてもトロピカルだ。
http://cook-islands.gov.ck/



ニウエは面積が260km2。経済の低迷により、2000人程度あった人口は徐々に減少しているという。ニウエは世界最大のサンゴ礁の島で、海面上約60メートルに渡って石灰岩の断崖がそそり立ち、その地形がほぼ島全体を縁取っている。
主産業はパッションフルーツなどの農業だが、農地不足、水不足に加えてサイクロンにたびたび襲われる状況であり、ニュージーランドへ移住する住民が増加している。観光が期待されるが、魅力的な観光資源に恵まれず、またサイクロンにより国営ホテルが壊滅する被害を受けるなど、限定的となっており、外貨獲得手段として、切手の販売や、ccTLDのnuドメイン販売などを行っている。
ニウエは2007年に中華人民共和国、2012年にはインドと外交関係を樹立しており、この2ヵ国は独立国として承認している。

ニウエの概要や歴史については、以下のサイトにある放送 (歴史の授業) がとても詳しい。
世界一周!チラ見の世界史 ≪第030時間目≫ニウエの歴史
http://tabitabi-podcast.com/sekachira/?p=646



トケラウは面積が10km2で、これは独立国 (バチカン市国 0.44km2、モナコ公国 2km2)、保護領、自治領を含めて5番目の小ささになる。アタフ島、ヌクノノ島、ファカオフォ島の三つの環礁からなる。
ニュージーランド本土から4000kmも離れており、また空港がないので訪問手段は船しかなく、サモアのアピアから24~36時間かかる。
わずかに農業と漁業が行われているが、自給的なものが中心であり、そのため島内での民間雇用は厳しく、出稼ぎ者からの送金や仕送りに頼る部分が大きい。
地理的にサモアとつながりが深いため、例えば2011年にサモアが標準時の日付を1日進める動きに合わせ、トケラウも標準時を変更した。

ニュージーランドが国連からトケラウの自決権を認めるように求められているため、2006年と2007年にトケラウの住民投票によって自由連合へ移行が問われたが、60%(2006年)が賛成だったものの必要な2/3を満たせずに現状維持となっている。これは上記のような地理的、経済的な要因が大きそうだ。



このようにニュージーランド王国の3つの「くに」は、現状では 1. 認められた国家:クック諸島、2. 認められていない国:ニウエ、3. 自治領:トケラウ ということになるが、これは流動的であり、クック諸島のが認められた国家となったように、今後ニウエやトケラウのステージが上がることは充分に考えられる。そのための鍵となるのは経済であり、個人レベルでの観光や関心が「国家」の創造に繋がるかもしれない。今後の動きに注目したい。



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