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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 



 

このブログではたまに現在 (=執筆時点) のことを取扱うが、しばらくして状況が変わってしまうことがあり、定期的にアップデートをしなければならない。
ということで、2017年11月に記した 「東京の野菜生産状況」 (データは主に2015年) について前回同様に野菜ナビの統計 (https://www.yasainavi.com/graph/) を参照しながらアップデートしようと思う。

まず全国の野菜収穫量のランキング (2021年) だが、じゃがいも、キャベツ、だいこん、たまねぎ、はくさい というトップ5の順位には変動がない。但し、じゃがいもは240.6万トン→217.5万トン、だいこんは143.3万トン→125.1万トン、たまねぎは126.5万トン→109.6万トンなど収穫量が減っている。キャベツは146.9万トン→148.5万トン、はくさいは89.46万トン→89.99万トンと微増ではあるが、野菜全体の収穫量が減少傾向であることは変わらない。

上位5野菜の輸入に関しては、たまねぎは横ばいだが、じゃがいもの輸入が増加傾向にある。とはいえ4.7万トンであり、全体の出荷量 (217.5万トン) からすると割合は低い。全体的にあまり輸入が増えている感じではない。野菜の場合は鮮度や容量・重量の関係で輸入が難しいこともあるだろう。円安が進んでいることを考えると、野菜生産は国内回帰の流れになりそうだが、人口減少で消費量が逓減することが課題だろう。

そして東京の状況だが、前回同様にJA東京中央会の「東京農業の概要」を参照していると、農業全体で東京の耕地面積は7,400ha(2013年)→6,290ha(2023年)、また農家戸数は11,224戸(2015年)→9,567戸(2023年) と減少している。前回時点で65歳以上の割合が過半数だったので、約10年で農業をやめた方が多くいたと思われる。

収穫量の最も多い野菜は引き続きだいこんだが、 11千トン(シェア0.8%)→8.4千トン(シェア0.7%) と減っている。キャベツも10千トン(シェア0.7%)→8.4千トン(シェア0.4%) と減ってしまった。
その中で小松菜は、8.6千トン(シェア7%)→8.4千トン(シェア7%) は比較的安定した収穫量を維持している。
そして、前回東京が収穫量トップとして紹介したルッコラだが、いつの間にか収穫量がゼロになってしまっている。調べたところ、前回紹介した2014年(H26)時点では44トンで1位だったが、2016年(H28)から収穫量データがなくなってしまった。生産が全くなくなったとは思えないが、いずれにしてもトップとして君臨するという状況ではないようだ。

地域の入れ物 ルッコラの生産量の都道府県ランキング
https://region-case.com/rank-h26-product-arugula/
https://region-case.com/rank-h28-product-arugula/
https://region-case.com/rank-H30-product-arugula/
https://region-case.com/rank-R2-product-arugula/

さて、野菜に加えて、東京の果物生産状況についても見てみよう。野菜ナビの姉妹サイトである果物ナビの統計 (https://www.kudamononavi.com/graph/) を参照する。
東京は2020年時点でブルーベリーが収穫量で第1位であることがわかる。但し、2018年は長野が首位だったようで順位の入れ替わりも激しいようだ。

読売新聞オンライン 2022/12/19 ブルーベリー収穫量、東京都が全国1位https://www.yomiuri.co.jp/economy/20221219-OYT1T50059/

東京都内の収穫量は、2015年に30年以上トップに君臨していた長野県を抜いて全国1位に躍り出たことはご存じだろうか。その背景を調べてみると、ブルーベリーの特性と都内ならではの理由があった。
都内でブルーベリーを手がける農家が増えたのは、観光農園の発展と大きな関係がある。
ブルーベリーは、収穫後に「追熟」することはほとんどない。熟した実を収穫してすぐ食べるのが一番おいしいとされる。一方、収穫は一粒一粒を手で摘む作業で、1人では1日20キロ程度が限界だ。そこで思いついたのが、客がブルーベリー狩りを楽しみつつ、結果的に収穫を助けてくれる観光農園だった。「収穫で苦労するのではなく、レジャーとしても楽しめる農業にできたことが大きい」と語る。
都内の特徴は「収穫」のうち市場などへの「出荷」が少ないこと。2019年は収穫量が372トンだったのに対し、出荷 (加工向けを含む) したのは136トン。市場などに出荷するのではなく、都内の栽培農家が消費者に近い立地を生かし、観光農園として成功していることが、数字からも裏付けられている。

実際に東京で少し郊外に行くと、ブルーベリー農園が目立ち、私も夏にはブルーベリー摘みを楽しんでいる。そして東京のブルーベリーは、その特性を活かした生産であることがよくわかる。

またパッションフルーツもシェアが3位と上位につけている。南国のイメージの強いパッションフルーツで、小笠原など東京の島しょ部かと思いきや、八王子で積極的に生産が行われている。

八王子パッションフルーツ生産組合 公式ホームページ 生産組合の概要
https://hachioji-passion.tokyo/kumiai_gaiyou/

八王子市といえば、東京都内 (島しょを除く) において、農産物栽培面積、および生産金額ともにナンバー1を誇ります。それだけ、様々な農産物があるわけですが、名産といわれる農産物がないともいわれています。
そこで、何か名産品を作ろうということで、若手農業後継者が集い、パッションフルーツを名産品とすべく活動を開始しました。
八王子市内では、平成19年ごろからパッションフルーツの栽培を始めました。生産組合員の1人が小笠原にて農業研修に訪れた際に、パッションフルーツと出会ったのがきっかけです。その後、少しずつ生産者が増え、現在13名の若手農業後継者が、パッションフルーツの栽培をしています。

パッションフルーツの全体の生産量が少ないこともあるが、自分たちの生産が直接的にシェアに繋がるという状況は、生産者にとってモチベーション向上に繋がるだろう。
パッションフルーツといえば八王子、と認識されるようになるまで頑張ってもらいたい。

このトピックについてはまたしばらく後にアップデートして、農作物や果物の生産状況を確認しようと思う。

 



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ご存じのとおり日本は地下資源に恵まれず、その一例としてエネルギー自給率は低い。例えば石油はほぼ輸入に頼っている。その中でわずかだが石油の国内生産が行われていることは以前このブログで触れた。

一方日本において豊富に採取できる地下資源も存在する。石灰石とヨウ素 (ヨード) がその代表格だ。

石灰石は自給率100%を誇っている。

石灰石鉱業協会 - 石灰石鉱業の紹介
https://www.limestone.gr.jp/introduction/index.htm

石灰岩は、主に方解石(炭酸カルシウム・CaCO3)という鉱物から出来ている岩石です。石灰岩を鉱業的に資源として取り扱う場合は鉱石名として「石灰石」と呼びます。日本には全国各地に石灰岩が分布しており、200以上の石灰石鉱山が稼動しています。
石灰石は全国で年間約1億4千万トン生産されています。採掘方法としてはほとんどの鉱山で露天採掘でのベンチカット採掘法が採用されています。また、石灰石鉱床の多くは山地に分布しているため、ベンチカットと立坑を組み合わせた方式が一般的です。
石灰石の主要な用途はセメント原料です。日本では年間約7,900万トンの石灰石 (全出荷量の47%) がセメント向けに出荷されています。セメントは石灰石、粘土、けい石、鉄滓などをキルンで焼成し、石膏を添加し粉砕して製造されます。セメントは様々な建築や土木工事などに広く使われており私たちの生活に無くてはならない基礎資材です。


セメントの他にも、コンクリート用骨材や鉄鋼 (製鉄所の高炉に鉄鉱石やコークスと共に投入され、鉄原料中の不純物と化合してスラグをつくる) などで使用されている。
また石灰石は人体に安全で、カルシウム分そのものが栄養素であることから、こんにゃくやパンなどさまざまな食品の加工、添加用に使用されている。

但し、石灰石は日本のみでなく世界各地で大量に産出されるため単価が安く、また重くてかさ張るため輸出入はあまり行われない。そのため日本の石灰石は地産地消型で輸出は僅かである。

一方で日本が世界的に高いシェアを誇り、海外への輸出も多い地下資源はヨウ素 (ヨード) である。

事業構想オンライン 2014年1月号 世界シェア2位の実力、千葉県産ヨード
https://www.projectdesign.jp/201401/pn-chiba/001032.php

千葉県を中心とする南関東一帯の地下には「南関東ガス田」という巨大な天然ガス田が存在します。この天然ガスは水溶性で、かん水(塩水)に溶解し地中に埋蔵されており、千葉県の茂原市を中心とした地域で採取されています。このかん水に含まれる元素がヨードです。ヨードは海水などにも含まれますが、微量のため抽出は経済的に不可能です。一方、かん水には海水の約2000倍のヨードが含まれ、濃縮・精製が可能です。日本最大の水溶性ガス田を持つ千葉県は、ヨード生産量も日本一です。
2012年の全世界での生産量は3万2000トンと推測されます。ほとんどをチリと日本が占め、日本は約30%にあたる9500トンを生産しています。そのうち千葉県は国内生産量の75%を占めています。

ヨードは工業、食品、医薬、農業などあらゆる産業で活用される資源です。ヨードの用途開発が急速に進み、新市場が成長しています。
代表例がレントゲン撮影に利用される造影剤です。ヨードのX線吸収機能に着目し、従来品よりも格段に造影能力が高い「第三世代」と呼ばれる造影剤が開発されました。
次に工業用触媒や液晶関連の需要です。レインコートやテーブルクロス等の撥水剤を製造する過程でヨードが使われます。また、液晶テレビやスマートフォンの偏光フィルムにもヨードが使用され、その優れた偏光作用を利用して鮮明な画像が得られることで、皆様の豊かな生活に役立っています。
また医療産業や先端産業でも活躍しています。ヨードは非常に幅広い化合物としての特性を持っており、今後の研究でさらなる用途拡大が期待できます。
ヨードは我々の生存と成長に不可欠な元素で、摂取量が少ないとヨウ素欠乏症になり、甲状腺肥大や脳障害、発育不全などの原因となります。世界ではヨード欠乏症予備軍は16億人と言われ、日本ヨード工業会では、社会貢献とヨード産出国の責務として、新興国へのヨード支援を行ってきました

この「南関東ガス田」は日本国内の天然ガス埋蔵量の約9割を占めるのだが、その範囲は以下の地図のとおりで東京都心、川崎市、京葉地区も含まれる。かつては東京での生産も行われていたが、ガス採掘に伴う地下水汲み上げが地盤沈下を招いたことから採掘は規制されたそうだ。というか、地価を考えたらさすがに割が合わないだろう。

地下資源はエネルギー資源だけではなく、また日本にも豊富な地下資源はある。ぜひ石灰石とヨウ素の用途を拡めて貴重な資源を最大限活用していきたい。

 



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知的財産権の中で、知的創造物に関する権利である「特許権」「実用新案権」「意匠権」「著作権」はいずれもその存続期間が設定されている。一方で営業標識に関する権利である「商標権」は更新を行うことによってその権利が継続される。従って更新を継続すれば半永久的に権利を維持することが可能である。ブランドは永続するものであるから更新による権利の継続は当然である。

日本の商標に関する最初の法規は、1884年6月に公布された商標条例である。
その後1899年に最初の商標法が制定され、これにより商標条例は廃止された。この商標法 (旧法) は、1909年と1921年の2回の全部改正を経て、現行の商標法が1959年に新たに制定されたことに伴い廃止された。

商標法 (旧法) のもとで最初に登録された登録商標は以下の4件であり、いずれも1884年10月1日に出願され、1885年6月2日に登録されたものだ。
全てが図形商標であり見ただけではよくわからないが、第1号となったのは一番右側の京都府の平井祐喜による「膏薬丸薬 (こうやくがんやく)」であった。

同じ1885年の8月14日には日本での最初の特許登録がされている。1889年には最初の意匠権も登録されており、明治維新を機に日本での知的財産権の法整備が進んだことがわかる。

さて、既述のとおり商標権は更新することによって継続することが可能だが、「膏薬丸薬」は更新されておらず既に失効している。
一方で現在も有効な登録商標で最古のものは、1902年5月に出願され1902年7月に登録された「寿海」 (登録番号第1655号) である。

権利者は兵庫県神戸市の「百萬石酒造株式会社」となっている。しかし同社の事業は「沢の鶴株式会社」が継承しており、以下のように紹介されている。

沢の鶴 自慢の日本酒 寿海
https://www.sawanotsuru.co.jp/site/nihonshu/jukai/

歴史と文化、今に伝わる灘の男酒。「それは、七代目市川団十郎のサインに始まった」 
天保年間 (1840年頃) 上方で愛飲した灘の地酒。蔵元から菰樽にサインをねだられ、俳名「寿海」の文字と市川家の家紋である三升を記した。
「寿海」は、現在登録されている中で、一番古い商標といわれています。

ちなみに七代目市川団十郎 (團十郎、1791~1859) は、江戸時代後期の歌舞伎役者だが、天保の改革のあおりを受けて1842年に江戸から追放されたことで有名である。「派手な私生活と実物の甲冑を舞台で使用した」という罪状だが、実際は人気歌舞伎役者を処罰することで改革への意識を示そう、というものであった。

一方で、出願が「寿海」よりも前になされたものの、登録が遅れたために日本初となれなかった商標がある。
1890年7月に出願され1910年8月に登録された「九重」(登録番号第521号)で、愛知県碧南市の九重味淋株式会社が権利者だ。

九重味淋株式会社 九重に出逢うー江戸時代から続くみりんメーカー
https://kokonoe.co.jp/meet01

九重味淋の創始者である石川八郎右衛門信敦(石川家第二十二世)が、みりんの製造を手がけたのは安永元年(1772年)のことです。
以来、九重では、本みりん造りに最適な大粒の「もち米」、蔵人の伝承の技がいきた「米こうじ」、清酒造りにも似た醸造方法から丁寧に蒸留した「本格焼酎」を用いて、脈々と品質本位の醸法を受け継いできました。
250余年、伝承の技に磨きをかけ、技術の向上をめざす、その歴史をともに刻んできたのが『九重櫻』です。代々ご愛用いただいている老舗も多く、大正から昭和にかけて開かれた全国酒類品評会では唯一の名誉大賞に輝くなど、数多くの賞も授与いたしました。
より秀でた上品な甘味と旨味、醸造特有の芳醇な香り。食を彩るにふさわしい調味料を、これからも造りつづけていく所存です。

「九重」の商標が出願から登録まで20年もかかった理由は以下のように推測されている。

サムライツ 現存最古の日本の商標
https://samuraitz.com/weblog/trademark/2020/

おそらくですが、これは当時の法制度が関係していると考えられます。
日本で最初の商標に関する法令は、1884年6月7日に公布された商標条例です。この商標条例が、明治天皇の勅令により、1888年に全面改正されました。
この商標条例は、まだ法律とは言えないくらい、整備されていないものだったんですね(おそらくですが)。
それで、1890年に出願された「九重」の方は、この整備されていない商標条例の下で出願された商標なので、きちんと出願のていを成していなかったか、審査がされなかったのだと推測されます。
その後、1899年に、最初の商標法が制定されて、やっと内容が整備されてきました。だから、その後の1902年に出願された「寿海」の方は、審査する体制も整った上での出願だったので、すぐに登録されたのではないかと考えられます。
結果として、「九重」より12年も後から出願された「寿海」の方が現存最古の登録商標ということになりました。
※配信時点の判例通説等に基づき、個人的な見解を述べています。唯一の正解ではなく、判断する人や時期により解釈や法令自体が変わる場合がありますので、ご注意ください。

現在であればこのような不遇は裁判沙汰だろうが、法整備の段階におけるエピソードとしてこれもまた歴史ということだろう。
いずれにしても上記2件ともまだ現役の商標であり、今後も更新されて権利が継続されていくことだろう。日本最古のブランドとしていつまでも大事にしていきたい。

 



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世界有数の都市である東京の礎を築いた歴史上の功労者が、太田道灌と徳川家康であることには誰も異論はないだろう。

太田道灌 (1432~1486) は室町時代後期の武将で、学者としても一流だったと言われている。 経緯の詳細は割愛するが、道灌は1457年に房総の千葉氏を抑えるため、両勢力の境界である当時の利根川下流域に城を築く必要がり、武蔵国豊嶋郡 (概ね現在の山手線の範囲) に江戸城を築城した。



当時は荒れた土地だったこの地に道灌が城を築いた理由は以下のように言われている。

江戸東京探訪シリーズ 江戸幕府以前の江戸 太田道灌の江戸城
http://www5e.biglobe.ne.jp/~komichan/tanbou/edo/edo_Pre_6.html

今でもその地名が残っていますが、当時このあたりには 千代田村、宝田村、祝田村 と呼ばれる小さな村がありました。 それらの村が後々まで繁栄する縁起のいい名前であったことや、 このあたりから眺める富士や海辺が絶景であったことを道灌は気に入っていたようです。
もちろんそればかりではありません。江戸は奥羽へ通ずる要衝の地であること、 荒川の存在によって水運の便に恵まれ、川越と江戸とを結ぶ重要な交通路が確保できること、 さらに荒川は敵の侵入を防ぐ格好の自然の要害であることなどを見抜いていたようです。
実際、時代は下って、江戸 (徳川時代の) となり、東京となり、しかも天皇が住む日本最大の都市になったのですから、 先見の明があったというか、100年の計を考えていたと言うか、道灌の英断と言わざるを得ません。


その後1590年に天下統一を果たした豊臣秀吉が、関東を治めるために徳川家康に江戸行きを命じた。
当時の江戸は江戸湾沿いの地帯は満潮になれば海水が入り込み、 潮が引けば葦や萱などが生い茂る湿地帯になり、また後ろには山や武蔵野の林に覆われた原野が広がり平坦な土地は極めて少ない、と伝えられている。しかし家康は僅かな期間で江戸に大都市を築いた。

江戸東京探訪シリーズ 江戸幕府以前の江戸 家康の江戸の町作り
http://www5e.biglobe.ne.jp/~komichan/tanbou/edo/edo_Pre_8.html

1590年に江戸に移った家康は、まず江戸の土地を広げるために、大規模な江戸湊の埋立を行いました。 神田山を切り崩し、切り崩した土で日比谷入江を埋立てました。 数多くあった汐入地も埋め立てました。
切り崩された神田山の跡地は平坦な人の住める土地に変わりました。 今も、高台の神田駿河台として昔の名残を留めています。
また、家康は、上水道の整備も積極的に行いました。平川は、江戸市中へ物資を運ぶ輸送路として、さらに江戸城を守るための濠としても 利用されましたが、神田山を切り崩した際に平川を隅田川に合流させ、江戸城外堀として機能させると同時に 江戸市中へ水を運ぶ上水としても活用しました。(後の神田上水です)




このように1603年に江戸幕府を開く前の大がかりな工事によって、江戸を日本一の都市にするための準備が進められた。

そしてこの時期に江戸で創業し現在も残る老舗企業が1596年(慶長元年)創業の 「豊島屋本店」である。

豊島屋本店について
https://www.toshimaya.co.jp/brand

豊島屋 (昭和より豊島屋本店) は東京において最古の酒舗で、慶長元年 (1596年) に創業者豊島屋十右衛門が、江戸の中心部神田鎌倉河岸 (現在の千代田区内神田) で酒屋兼居酒屋を始めたのが起源です。
十右衛門は白酒作りを始め、その評判は江戸中に広まりました。白酒は甘いお米のリキュールで、当時の女性に大変御好評をいただきました。
創業当時の慶長年間 (1596~1615) には、徳川家康の天下普請により江戸城の大拡張がなされました。鎌倉に集積され江戸に運ばれた石材、木材が陸揚げされる場所が鎌倉河岸で、そこには多くの人々が集まりました。
鎌倉河岸の豊島屋では、お酒とおつまみで人気の豆腐田楽を安く提供し、大変な賑わいだったと言われています。また、十右衛門が作った白酒は、江戸中の御評判をいただき、お雛祭の前は白酒のみを販売致しました。
また豊島屋は、空いた酒樽を味噌屋等に販売して利益を出しておりました。これにより、豊島屋はお酒を安く販売することが出来ました。事業が拡大すると共に、豊島屋は幕府御用達となりました。
これまで豊島屋は、創業以来お酒を核として事業を進めて参りましたが、その間、口伝の家訓である「お客様第一、信用第一」を常に守って参りました。豊島屋の行動指針は「不易流行」で、これまで守るべきものは頑なに守り、変えるべきものは大胆に変えて参りました。

江戸時代後期に出版された「江戸名所図会」(えどめいしょずえ) という江戸の名所紹介にも、「豊島屋酒店」の文字が確認できる。



「江戸・東京で3代、100年以上、同業で継続し、現在も盛業」が条件の「東都のれん会」は現在53店が加盟しているが、この中で最も古くから (しかも幕府の開府前から) 江戸で営業しているのは豊島屋本店である。 (虎屋は室町時代後期 (1526年?) の創業だが、1869年に東京遷都に伴って東京にも進出したもの)

東都のれん会
https://www.norenkai.net/

さらに豊島屋本店は、居酒屋のルーツとも言われている。

社会実情データ図解 図録▽東京の飲食店・江戸の料理店
https://honkawa2.sakura.ne.jp/7840.html

一説に居酒屋のルーツは鎌倉から来た材木商たちが家康の江戸築城に使う建築部材を取り仕切っていた鎌倉河岸で1596年に酒屋兼量り売りの一杯飲み屋をはじめた「豊島屋本店」(現在も酒問屋兼地酒屋として存続)といわれる。豊島屋がブレークしたのは1736年に清酒と豆腐田楽を原価で安く提供し、その結果生じた空樽を売って利益とする新商売が当ってからであり、この頃に酒屋が居酒屋的となったとされる。

このように、江戸幕府の開府前に創業し、江戸の地形の変化と町の発展とともに歩み、市民に酒と文化を提供してきた豊島屋本店は、ぜひ長きにわたって東京を見守っていただきたい。



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「倒産」は法律用語ではないが、何らかの法廷倒産手続きが行われた時点、または不渡手形・小切手の発生による銀行取引停止処分を受けた時点で企業は倒産したとみなされる。
倒産処理手続きの法的整理には、大きく清算型の「破産 (全ての会社が対象)」と「特別清算 (株式会社のみ)」、再建型の「民事再生 (全ての会社が対象)」「会社更生 (株式会社のみ)」がある。
清算型は、事業を解体し、資産の全てを売却し、得られた資金で債権者に可能な限り弁済し、会社を消滅させてしまうものである。
再建型は、債権者の権利を調整した上で、会社事業の継続を実現し、継続した事業から得られる収益を通じて会社債権者に弁済するものである。

「民事再生」は再生手続き開始要因となる事実、すなわち (1) 破産の原因となる事実が生ずるおそれがある場合、(2) 弁済期にある債務を弁済することとすれば、その事業の継続に著しい支障をきたすおそれがある場合、に申し立てできる。手遅れになることを防ぐために「おそれがある場合」に申し立て可能となっている。
その後債務者 (民事再生手続き申し立て者) は再生計画書を作成し、債権者集会で可決されれば、再生計画が遂行される。
「会社更生」は対象が株式会社のみであり、再生手続きが開始されると管財人が選任されるなどの相違はあるが、会社事業の継続を目的としている点は「民事再生」と共通している。



以上が規定であるが、実際に民事再生や会社更生を手続きを申請した場合に、再生計画はうまくいくのだろうか。

会社更生手続きの最も顕著な成功事例は日本航空 (JAL) だろう。

nippon.com 再上場JAL、破綻から再生に至る道のり
https://www.nippon.com/ja/currents/d00051/

JALの経営危機に対する対応として、国土交通省は2009年8月、有識者委員会を設置し、JAL自身に経営改善計画を策定させる形の緩やかな解決を図った。しかし、ちょうどこの直後に民主党政権が誕生し、特に前原誠司国土交通大臣の強力なリーダーシップのもとで、政府がJAL問題に極めて積極的に関与することとなった。
JALは2010年1月に会社更生法の適用を申請し、その後支援機構の企業再生支援委員長で、これまで多くの倒産企業の管財人を務めてきた瀬戸英雄弁護士の指揮下、経営の建て直しが進められた。更生計画に基づき、金融機関による債権放棄(5215億円)と支援機構からの公的資金の注入(3500億円)を受け、株式は100%減資された。
JAL再生の上で何よりも大きいのは、京セラ創業者の稲盛和夫氏がJAL会長に就任し、采配を振るったことだろう。京セラを「アメーバ方式」で世界的企業に成長させた稲盛氏の経営手腕による貢献は大きい。例えば、これまでJALでは、収支を見る上では路線ネットワーク全体を単位として捉えてきており、個別の路線収支は重視されてこなかった。これに対して稲盛氏は個別の路線収支の把握の重要性を徹底した。そして、特に幹部社員を中心として、経営感覚の向上を図ることをセミナーなどの実施を通して徹底させてきた。稲盛氏の存在なくしては、JALの経営改革はかなり難しいものとなっていたに違いない。
2010年3月期には1337億円の営業赤字だったJALは、2012年3月期に2049億円の営業黒字を計上するなど、想像もできなかったようなV字回復を遂げた。それも、世界的に見てもまれにみるような好業績を挙げるに至っている。

JALは2012年9月19日に東京証券取引所に再上場した。会社更生法申請から約2年半での驚異的な企業再生と言えよう。



とはいえ全ての再生計画がうまくいくはずはない。
2017年に発表された東京商工リサーチによる『「民事再生法」適用企業の追跡調査 (2000年度-2015年度)』を参照する。

東京商工リサーチ 民事再生法」適用企業の追跡調査 (2000年度-2015年度)
https://www.tsr-net.co.jp/news/analysis/20170113_07.html

東京商工リサーチでは、2000年4月1日から2016年3月31日までに負債1,000万円以上を抱え民事再生法を申請した9,406件(法人、個人企業含む)のうち、進捗が確認できた法人7,341社を対象に経過日数や事業継続の有無を追跡調査した。
民事再生法の「申請から開始決定」の期間は、2000年度は平均40.9日だったが、2015年度は同13.2日と27.7日短縮している。「開始決定から認可決定」までの期間も2000年度の同231.1日が、2015年度は同196.4日へ34.7日短縮し、手続きの迅速化が図られている。
しかし、民事再生法の適用を申請した7,341社のうち、70.9%(5,205社)は申請後に吸収合併や破産・特別清算などで消滅し、生存企業は29.1%(2,136社)に過ぎない厳しい現実も浮き彫りになった。

民事再生法の適用を申請し、手続進捗が確認できた7,341社のうち、「民事再生開始決定」が下りた企業の割合(開始率=開始社数÷手続社数)は96.1%(7,053社)だった。また、「認可決定」が下りた企業の割合(認可率=認可社数÷手続社数)は80.2%(5,890社)で、大半は「認可決定」までこぎつける事が可能だ。

消滅した5,205社の内訳は、合併が189社(構成比3.6%)、解散が621社(同11.9%)、破産が1,909社(同36.6%)、特別清算が34社(同0.6%)、廃業や休業、存在が確認できないものが2,452社(同47.1%)だった。
民事再生「終結」前に消滅した企業は2,216社(構成比42.5%)、民事再生「終結」後に消滅した企業は2,989社(同57.4%)で、民事再生の「終結」で裁判所の監督が外れてからの消滅が6割近くを占めた。申請から4年以降を経ても「倒産」のマイナスイメージを払拭できずに経営改善が難しい状況を示している。


これを表にしてみると以下のようになる。サマリーすると、開始率は96.1%、認可率は80.2%だが、生存率は29.1%となる。



ネガティブな内容になってしまい恐縮だが、これが現実だ。民事再生の道があるとはいえ、やはりビジネスモデルに行き詰りマイナスイメージがついてしまうとその払拭は難しそうだ。
やはり「おそれがある場合」よりも早く手を打っておかないといけないということだろう。


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日本の通貨の製造は、紙幣は国立印刷局、硬貨は造幣局で行われている。ともに財務省が所管の独立行政法人で、職員の身分は国家公務員である。
このように政府の機関が通貨を発行することは我々の感覚では当然のように思われるが、必ずしもそうではない。

イギリスでは民間企業であるデ・ラ・ルー公開有限会社が紙幣印刷を担っている。

デ・ラ・ルー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC
https://en.wikipedia.org/wiki/De_La_Rue

デ・ラ・ルー公開有限会社(De La Rue plc)は、セキュリティ印刷・製紙・紙幣鑑別システムを扱うイギリスの企業。
高度なセキュリティ印刷技術・製紙技術を持ち、それを強みとした150種以上の紙幣製造を請け負う。デ・ラ・ルーの紙幣が採用されている銀行はイラク中央銀行、イングランド銀行、グアテマラ銀行、ケニア中央銀行、スコットランド銀行、スリランカ中央銀行、フィジー準備銀行、マケドニア共和国国立銀行、マン島政府、ロイヤルバンク・オブ・スコットランド等がある。


In 1995, the company acquired Portals Limited which had been listed on the London stock market since 1904. For almost 300 years Portals had been one of the leading banknote paper manufacturers in the world, having manufactured banknote paper for the Bank of England since 1724.



そのデ・ラ・ルー社だが、必ずしも経営が順調ではないようで倒産危機にあるという報がある。

Coin Post (2019/12/10) - 英造幣局が倒産危機か、マネーのデジタル化が要因の一つとの見方も
https://coinpost.jp/?p=122092

イギリスに拠点を置き、紙幣やパスポート製造を行うデ・ラ・ルー公開有限会社が、倒産の危機に瀕しているとの声明を発表した。BBCが報じた。
同社によれば、事業再生に失敗した場合破綻リスクもあるとのことだ。デ・ラ・ルー社は株主への配当を停止しており、会計年度前半には損失を計上している。
同社は紙幣印刷業者として150年にわたり、英国ポンドの造幣の役割を担当し、現在では世界140の中央銀行を対象に紙幣の印刷を行い、全世界で2,500人規模の従業員を抱えている。最近では、同造幣局は新20ポンドの印刷を行うことが決定されている。
2019年9月28日までの6か月間で、前年同期の710万ポンドの利益と比較して、1,210万ポンドの税引前損失を報告したデ・ラ・ルー社だが、Markets.comで市場分析を行うNeil Wilson氏は、その経営不振の理由について、同社による「杜撰なマネジメントや悪手が主な理由」と分析を行っている。その他にも、マネーのデジタル化などが進み、中央銀行による紙幣の需要が減少している点や、取引先数に比べ競合他社が多い点などもその理由として挙げられている。


またアメリカのドル紙幣も、現在はアメリカ合衆国製版印刷局 (Bureau of Engraving and Printing、BEP) が製造しているが、かつては民間会社であるアメリカン・バンクノート社 (American Bank Note Company) が担っていた。

アメリカン・バンクノート社
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%E7%A4%BE

1795年、創業間もないアメリカ合衆国造幣局で最初の公式彫版家ロバート・スコットが、Murray, Draper, Fairham & Company (後にScot's three partnersとなる) を創業した。この会社は、建国間もない人口増加中のアメリカで金融機関の発達と共に繁栄した。1857年恐慌後の1858年4月29日、国内で最も有名な機密印刷会社7社がアメリカン・バンクノート社に合併し、本社はニューヨーク市に置いた。それから2年もたたずに、別のいくつかの機密印刷会社も合併した。

最初の紙幣は南北戦争勃発時に、米国財務省によって発行された。議会は1861年7月17日と8月5日に「Demand Notes (要求紙幣)」 60万ドルを認可する法案を可決した。政府との契約の下で、新しい紙幣一般には「グリーンバックス」と呼ばれる紙幣が、ナショナル・バンクノート社とアメリカン・バンクノート社が製造することとなった。$4、$10、$20の紙幣が製造され、合計枚数は725万枚となった。
1862年の米国通貨の初期生産に続いて、アメリカン・バンクノート社は115か国の外国紙幣に販路を見出した。
1877年、連邦議会によって制定された法律に基づき、米財務省印刷局が発行する通貨のすべてをアメリカン・バンクノート社単独で生産を行うことが決定した。1879年に第二の大きな統廃合が行われ、ナショナル・バンクノート社とコンチネンタル・バンクノート社が吸収合併されることとなった。



現在でもアメリカン・バンクノート社 (AB Corp) は3D Printing、FinTechなど様々なサービスを提供している。

American Banknote Corporation
https://abcorp.com/

ABCorp’s history dates back to 1795, more than 225 years. We started out as secure printers – designing & producing better, more counterfeit-resistant currency for the First Bank of the United States. Our products & services have changed, but secure envelopes everything we do. Today, we design, manufacture, and personalize contactless credit cards, 3D print highly detailed prototypes & parts, and use digital content to elevate the customer experience in a secure envelope. These are just a few of the things we do.

他にも多くの民間の印刷・造幣企業が、外国の中央銀行から紙幣や硬貨の製造委託を受けている。
全ての国の政府が紙幣や硬貨に求められる最高峰のセキュリティ技術を持ち合わせているわけではないため、高い技術を求めて製造を民間企業に委託することは理にかなっている。
デジタル化やキャッシュレスの流れの中で、今後の紙幣や硬貨の動向を見守っていきたい。


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日本のエネルギー自給率は9.6% (2017年) と他のOECD諸国と比べて低く、特に石油の自給率は0.3%であり、ほとんどを輸入に依存している。
しかし完全に0%ではなく、すなわち小規模ではあるが国内での石油生産は行われている。

『日本書紀』には西暦668年に越後国より天智天皇に「燃ゆる水 (燃水) 」が献上されたという記述があり、古代から石油の存在を確認することができるが、国内での油田の本格的な開発は1869年2月に鉱山開採出願許可 (行政官布告) および開坑規則公布が発効されてからである。
正式に油田の開発が認められた後で、最初に商業生産が行なわれた油田は長野県の浅川油田である。

浅川油田
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%B7%9D%E6%B2%B9%E7%94%B0

浅川油田の石油採掘は少なくとも江戸時代中期まで遡り、1753年に国学者の瀬下敬忠が著した『千曲之真砂』が文献への初出である。1847年の善光寺地震では天然ガスが噴出し、一帯は「新地獄」と呼ばれた。
1871年、水内郡桑名川村 (現 飯山市) の石坂周造は、日本初の石油会社とされる長野石炭油会社(後、長野石油会社に改称)を設立し、この地で石油の商業生産を開始した。日本初となる石油精製所は妻科村石堂町(現 長野市北石堂町)の刈萱山西光寺境内に置かれ、伺去真光寺村(現 長野市真光寺)の油井から荷車や馬で原油を運んだ。
設立翌年に新設備を導入するも生産量は思うように増えず、5年後には精油所が焼失するなどし、1881年に長野石油会社は倒産する。その後は工場の燃料などに細々と利用されてきたが、1973年に採掘を終え、200余年の歴史に幕を下ろした。

現在では石油井戸跡として深井戸ポンプが残っている。現在の長野駅の近くに製油所があったことは興味深い。

山側 長野市の「浅川油田」を採掘して日本最初の石油会社と製油所が設立された!?
https://yama-gawa.com/?p=5481



石坂周造は幕末の志士で幕末から明治にかけて5年間投獄されていたが、明治になって赦免されて民間事業に取り組み石油産業の祖となった。明治維新による世の中の変化を痛感する。
この長野石油会社は事業を拡大して、静岡県の相良油田でも開発に取り組んでいた。

相良油田
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B2%B9%E7%94%B0

相良油田は、1872年2月に海老江の谷間で油くさい水が出ることと聞いた、元徳川藩士の村上正局によって発見されたことに始まる。同年3月には、静岡学問所の外国人教師エドワード・ウォーレン・クラークによって、それが石油と判定された。
1873年5月には、手掘りにより採油が始まった。1874年には長野石炭油会社によって、日本で最初の機械掘りが行われた。最盛期の1884年頃は約600人が働き、年間721キロリットルが産出されていた。採油を停止したのちの1980年11月28日には静岡県指定文化財(天然記念物)となり、今では「油田の里公園」として周辺が整備されている。




同じ時期に新潟県で開発されたのが新津油田である。

新潟市秋葉区 新津油田
https://www.city.niigata.lg.jp/akiha/about/kankou/oil/yuden.html

この地域には、古くからの石油が地表ににじみ出ているところがあり、くそうず(草水)と呼ばれ、越後七不思議の一つにも数えられていました。
明治になるとこの稼人のなかからも近代的な石油事業に着手するものが現れました。金津村の草水稼人、庄屋中野家の貫一はその中の一人でした。中野貫一は1874年に借区開坑願を政府に提出し、金津地区で開坑しこの地方の開発の端緒となりました。そして1875年に石油精製の許可を申請しこの地方の原油を精製販売を始めました。
採油方法として手掘りが長く行われてましたが、その後工業化により採油は飛躍的に増大しました。1903年頃の新津油田では会社・組合・個人を含めた操業者が100以上を数えるほどになりました。1917年には年産12万キロリットルで、産油量日本一となりました。
その後は減少し、平成8年で採掘が終了しました。




中野貫一は「石油王」と呼ばれた人物で、1906年に金津村村長、1911年からは帝国議会衆議院議員を務め、1918年には中野財団を設立し教育や社会福祉事業を始めた。
新津油田の一帯は「石油の里公園」として整備され、邸宅及び庭園が中野邸美術館として開放されている。



しかし浅川油田、相良油田、新津油田をはじめ明治時代に開発された油田は既に生産を終了している。現役で最も産出量が多いのは秋田県の八橋油田 (やばせゆでん) だ。



プラントエンジニアのおどりば 国内最大の油田「八橋油田」~住宅街の現役油田~
https://yuruyuru-plantengineer.com/japan-oil-field-yabase/

八橋油田は昭和30年代には年産30万キロリットルを生産していたが、昭和40年代以降に産油量が急激に衰退し現在の産油量は当時の1割にすら満たない。それでも国内最大である。
このような状況で、今後の日本の産油を担う期待が向けられるのは新潟の南桑山油田だ。

TECH+ 2015年6月22日 新潟県の南桑山油田に新規油層 - 生産量が現在の3倍に増加する可能性
https://news.mynavi.jp/article/20150622-a522/

国際石油開発帝石は6月22日、新潟県の南桑山油田で厚さ約24mの新規油層を発見したと発表した。
同油田は、新潟県新潟市秋葉区大関から同県五泉市北部に位置し、2004年以来約16万キロリットルの原油が生産されている。今回、探掘井を掘削した結果、深度3900m付近で新規油層を発見した。
今後、同坑井で得られたデータなどの解析を進め評価作業を行うとともに、生産に向けて2016年度に同油層に対して追加的に掘削作業を実施する予定。この追加的掘削作業が成功すれば、同油田の生産量が現在の日量300~380バレルから約3倍に増加することが期待されるという。




その後の経過についてのニュースがないので実現したかどうかはわからないが、3倍増なら国内最大の生産量も見えてくる。
いずれも小規模で、ほとんどを輸入に依存する構図は変わらないが、国内の石油生産を絶やさないでほしい。


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世の中の多くの人が毎日ニュースで日経平均株価を目にしているだろう。日本の株式市場の代表的な株価指標であり、政府の経済統計にも用いられている。
株式指数には、組入銘柄の時価総額合計を基準となる一時点での時価総額合計で除算して求める「時価総額加重平均型株価指数」と、組入銘柄の株価合計を除数で除算して求める「株価平均型株価指数」があるが、日経平均株価は後者であり、東京証券取引所第一部に上場する約2000銘柄の株式のうち225銘柄を対象にしている。
ここのところバブル崩壊後の最高値を記録しており、景気の実感とはマッチしていないが、日々の株価の動きは誰もが気になるところだ。

では、日経平均株価を初日まで遡るとどうなるのだろうか。

日本初の公的な証券取引機関は1878年に創設された東京株式取引所 (渋沢栄一らが発起人) で、その後全国の11株式取引所 (東京・大阪・横浜・名古屋・京都・神戸・博多・広島・長崎・新潟・長岡) が1943年に統合され日本証券取引所が発足した。しかし戦争下で売買は行われず1947年に解散し、その後1949年4月1日に東京証券取引所が設立され5月16日に売買立会が始まった。
この時点ではまだ株価指標はなかったが、翌1950年9月7日に平均株価の計算が開始され、売買開始の1949年5月16日まで遡って算出された。それが176円21銭で、採用銘柄の単純平均株価であった。当初は「東証第1部修正平均株価」という名称だった。
1952年に年率+118.38%で前年の166.06円から362.64円になるなど、その後も戦後の経済成長とともにどんどん上昇していった。
一方で東京証券取引所は1969年の東証株価指数(TOPIX)公表開始の翌1970年6月で東証第1部修正平均株価を打ち切り、7月から日本経済新聞社が後を継いだ。「NSB225種平均株価」「日経ダウ平均株価」を経て、1985年から「日経平均株価」という名称が使われている。

1949年からの全推移グラフは以下のとおりだ。 よく知られるようにバブル期の1989年12月29日の38915円が最高値で、これは初値の221倍となる。また最高値以前と以後のグラフの違いが著しい。

日経電子版 「古希」迎えた日経平均 戦後経済史を映し出す:なるほど日経平均70周年
https://indexes.nikkei.co.jp/atoz/2020/09/70thanniv1.html



それでは、諸外国の株価指数の起源はどうだったのだろうか。
現在のような株式を売買する証券取引所の起源はオランダで、1602年にオランダ東インド会社が発行した株式がアムステルダム証券取引所で売買された。しかしヨーロッパ各国の証券取引所の株価指数はオランダのAEXは1983年、ドイツのDAXは1988年、イギリスのFTSE100は1984年など総じて新しい。アジア各国や外の地域も同様で、21世紀以降に新設された株式指標も多い。
そんな中で最も古い株価指数は、1896年5月26日に開始されたアメリカの「ダウ工業株30種平均 (Dow Jones Industrial Average) 」である。いわゆる「ダウ平均株価」「ニューヨーク‣ダウ」だが、この「ダウ」は創始者の人名である。世界でも最もニュースで名前を呼ばれる人物ではないだろうか。

チャールズ・ダウ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A6

チャールズ・ヘンリー・ダウ(Charles Henry Dow, 1851年11月6日 - 1902年12月4日)は、アメリカ合衆国のジャーナリスト・証券アナリスト。
ハイスクールを中退後、新聞記者になる。主にニューヨーク証券取引所での相場に関する記事を執筆し、その取材の経験から「株価は全ての事象を織り込む」というダウ理論を提唱。テクニカル分析の先駆者の一人となる。
1882年にはエドワード・ジョーンズやチャールズ・バーグストレッサーと共にダウ・ジョーンズを設立、当初は手書きの経済ニュースレターをウォール街の経済関係者に配布し始める。このニューズレターがやがて発展し1889年7月に『ウォールストリート・ジャーナル』となる。1896年にはニューヨーク証券取引所の株価動向を示す指標として同紙にダウ・ジョーンズ工業平均株価を掲載し、これは今日に至るまで証券関係者に幅広く活用されるようになった。




ダウ・ジョーンズ社による株価指数は、すでに1884年以降Dow Jones Averageの名称で公表されていたが、当時のアメリカの産業構造を反映し、鉄道事業者が中心の構成でり、19世紀末の経済発展を受け、従来のダウ平均 (輸送株中心) と分離する形で、1896年に農業、鉱工業などの12銘柄により、Dow Jones Industrial Averageの算出が新たにスタートものである。1896年以前を含めた初期の数値標について以下の記載がある。

Dow Jones Industrial Average - History - Early Years
https://en.wikipedia.org/wiki/Dow_Jones_Industrial_Average#Early_years

When it was first published in the mid-1880s, the index stood at a level of 62.76. It reached a peak of 78.38 during the summer of 1890, but ended up hitting its all-time low of 28.48 in the summer of 1896 during the Panic of 1896. Many of the biggest percentage price moves in the Dow occurred early in its history, as the nascent industrial economy matured. In the 1900s, the Dow halted its momentum as it worked its way through two financial crises: the Panic of 1901 and the Panic of 1907. The Dow remained stuck in a range between 53 and 103 points until late 1914. The negativity surrounding the 1906 San Francisco earthquake did little to improve the economic climate; the index broke 100 for the first time in 1906.

そしてダウ平均は当初は以下の12の銘柄から構成された。(1928年から30銘柄となった)
1. American Cotton Oil Company 現在のUnileverの一部
2. American Sugar Refining Company 現在のDomino Foods (Domino Sugar)
3. American Tobacco Company 1911年の独占禁止法訴訟で解散
4. Chicago Gas Company 1897年にPeoplesGas Lightに買収された
5. Distilling & Cattle Feeding Company 現在のMillennium Chemicals
6. General Electric ゼネラル・エレクトリック
7. Laclede Gas Company 現在のSpire Inc
8. National Lead Company 現在のNL Industries
9. North American Company 1946年に米国証券取引委員会によって解散された電力会社持株会社
10. Tennessee Coal, Iron and Railroad Company 現在のU.S. Steel
11. United States Leather Company 1952年に解散
12. United States Rubber Company 1990年にミシュランがタイヤ事業を買収

特筆すべきはゼネラル・エレクトリックで、一時指定銘柄を外れたこともあったが1907年以降組み入れられていた。しかし2018年に除外されてしまった。これも時代の流れだろうか。

ダウ工業株30種平均の全推移グラフ (2016年まで) は以下のとおりで、単位の縮尺を調整しないと示すことができないほど伸びている。

Apollo Wealth Management - 120 Years of the Dow Jones Industrial Average
https://apollowealth.com/one-chart-120-years-of-the-dow-jones-industrial-average/



この後もさらに伸び続け、2000年11月24日には史上初めて30,000ドルを超えた。これは初値の478倍というレベルだ。
このように見ると、株式指標の推移を歴史として見るにはいいと思うが、株価の動きが経済の実態に則しているとは言い難い。街角で肌で感じる景況感が一番しっくりくるのは疑いない。


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日本は2018年時点で中国、アメリカ、ドイツに次いで世界第4位の輸出大国であり、輸入でもアメリカ、中国、ドイツに次いで第4位となる。貿易総額は30年前の1988年から比べると、約2.8倍になっている。主な輸出品は何と言っても自動車で約15%を占めるが、現地生産も進んでおり今後の動向はわからない。輸入品は原油がトップという構造は長い間変わらない。

歴史の授業で習うとおり、日本は江戸時代の鎖国政策により貿易も出島 (オランダ・中国)、対馬藩 (朝鮮)、薩摩藩 (琉球)、松前藩 (アイヌ) に限定されていたが、1853年のペリーの来航ののちに1858年に締結された日米修好通商条約によって、幕府は横浜、新潟、神戸、長崎、箱館を開港した。同様の条約は英仏蘭露とも結ばれて、安政五カ国条約とも呼ばれた。そしてここから日本の産業そして国全体が大きく変化した。

以下の資料はペリー来航以来の貿易額の推移と主な出来事を記しているが、これによると条約の翌年の1859年は輸出輸入各々が1百万ドルという規模だった。通貨価値がわからないので直接的な比較はできないが、翌1860年には輸出5百万ドル輸入2百万ドル、明治元年の1868年には輸出20百万ドル輸入15百万ドルと、年々取引額が大きく増加していった。

横浜税関の歴史(参考2)貿易額の推移と主な出来事
https://www.customs.go.jp/yokohama/history/history150_ref2.pdf



また1860年の横浜港の輸出入品目は以下のように、輸出は生糸が中心で茶が続く。一方で輸入は綿織物、毛織物が大半だった。神戸港の1868年の記録では「小銃および付属品」が輸入の2位となっているが、江戸時代末期ごろに西欧軍事技術の研究が盛んになり各種の銃砲が積極的に輸入されるようになったものだ。

横浜税関の歴史(参考3)横浜港の主要輸出入品目
https://www.customs.go.jp/yokohama/history/history150_ref3.pdf
神戸港 開港~明治(1868 年~1911 年)
https://www.customs.go.jp/kobe/00zeikan_top.htm/150toukei/2_meiji.pdf





しかし、長く鎖国政策をとっていた日本が開国してすぐに円滑に貿易や経済政策を行えるわけはなく、様々な困難が待ち構えていた。
まず、幕府が定めた金と銀との交換比率は諸外国に比べて著しく金が割安だったために、大量の金が日本から流出し、その結果インフレを招いた。

日本のインフレーション 幕末のインフレーション
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3#%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

近世初頭に佐渡金山や土肥金山などでゴールドラッシュがあった日本では、その後の鎖国で貿易量が大幅に減った結果、国内に金が蓄積され市場の金は比較的豊富だった。幕末の頃でも日本の金銀比価は約1:10と金安で、さらに名目貨幣である一分銀が多く流通していたため擬似金銀比価は約1:5となり、これは金銀比価が約1:15だった当時の欧米列強からは羨望された。
安政の仮条約で通商が始まると、列強は日本に大量の銀を持ち込み、小判を買い漁った。これを本国で鋳潰して公定価格で売るだけで大儲けができるからである。これで金の大量流出が起こり、幕府は流出を防ぐため金の含有量を3分の1に圧縮した万延小判を発行し、ようやく金の流出を止めた。ところが正貨の貨幣価値が3分の1に下落したこと、また諸外国との貿易の開始によって国内産品が輸出に向けられたため、幕末期の日本経済はインフレーションにみまわれた。また諸藩の軍備近代化のための輸入増加に伴う通貨流出等の相乗効果で物価が騰貴して、庶民の暮らしは苦しくなった。これが江戸幕府崩壊の一つの原因と言われている。


また、生糸などの輸出品は国内市場よりも貿易市場の方が高値で取引されていたため、生産地と市場を仲立ちしていた在郷商人が江戸などの大都市の問屋ではなく、直接開港場へ生産品を卸すようになり流通がマヒした。また輸出需要の増加に対し生産供給が追いつかず、全般的に物価が高騰した。このような状況で発令された貿易統制法令が「五品江戸廻送令」である。

五品江戸廻送令
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%93%81%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%BB%BB%E9%80%81%E4%BB%A4

江戸の問屋商人らの要望も受けた江戸幕府は、1860年に生糸、雑穀、水油、蝋、呉服の5品目について、必ず江戸の問屋を経由する法令 - 五品江戸廻送令 - を発出した。この法令は、江戸問屋の保護と物価高騰の抑制を目的としていたが、すぐに列強各国から、条約に規定する自由貿易を妨げると強い反発を受けた。また、在郷商人らも依然として港へ直接廻送を続けたため、法令の効果はあがらなかった。
だが開国の反動から攘夷鎖国への傾向が出てきたことを背景に、1863年から幕府は同法令の本格施行を強め、その結果、生糸輸出が減少するなど次第に実効が現れていった。しかし列強各国は幕府へ同法令の撤回を強く迫り、一方幕府内部からも生糸の輸出に税金をかける形で抑制した方が幕府財政の改善にも繋がるとする意見も出された。このため、幕府も開国の流れを止めるのは得策でないと判断し、実質的に同法令は放棄されることとなった。


日本の生糸産業は明治時代に様々な取組が進められた結果、大正時代に飛躍的に拡大した。官営模範工場富岡製糸場とともに、輸出先の米国が求める高品質の生糸の生産を実現し、我が国の近代化に大きく貢献したが、それはこの貿易統制法令を乗り越えた結果である。



また生糸と並んで主力輸出品であった日本茶は、開港当時から順調に輸出量を増加させたが、品質問題で躓いた。

日本茶輸出促進協議会 日本茶輸出の歴史
http://www.nihon-cha.or.jp/export/trends.html

1610年オランダの東インド会社が、平戸からヨーロッパに日本茶を輸出したのが我が国の最初の輸出です。黒船来航後、各国と修好通商条約を結び、1859年重要な輸出品として181トンが輸出され、以後重要な輸出品として我が国の産業形成に寄与することとなりました。明治に入るまでの輸出の状況は下図のとおりです。



日本茶 輸出
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%8C%B6#%E8%BC%B8%E5%87%BA

1867年にはサンフランシスコと香港・日本をつなぐ太平洋航路も開通し、明治に入ると輸出量が激増、茶価も高騰した。主な輸出先はイギリスとアメリカで、明治末年まで生産量の60%以上を輸出していたが、明治中期まで再製所を欧米人が独占経営しており、日本の茶商は外国人商社に売り渡すことしかできなかったため大きな利益とはならず、粗悪茶が横行し、1883年にはアメリカが日本茶の輸入禁止条例を発効、輸出は激減した。1908年にアメリカが輸入茶に高率な関税を課したことで日本茶は危機的状況を迎え、同時に19世紀半ばにイギリスがインドなど植民地での茶の栽培を成功させたことで紅茶が主流になっていき、そのイギリス植民地産紅茶がアメリカ市場へも進出し、日本茶の輸出量は減少していった。

静岡県立中央図書館 戦前の茶輸出
https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/50/1/ssr4-53.pdf

粗製茶には、乾燥が不十分なもの、そのために色が悪くて変色したものや輸送の間に腐敗してしまったもの、他の植物を茶葉に擬製したものやそれを良茶に混ぜたもの、茶箱に土砂を混入して重量または容量を増加したものなど様々あるが、どれもお茶とはよべないものであり、海外における日本茶の信用を低下させていた。粗製茶に対する取り締まりは厳しく行われたが、一向に後を絶たなかった。
また生産費を減少させる方法として機械製造が導入されるようになったが、当初の製茶機械はまだ改良を要する部分が多く、火の入り方が良くなかったため結果として粗製茶ができあがった。特に火入れが不十分なため時間がたつと茶が変質してしまうという代物であった。
このような状況に対し、アメリカ合衆国大蔵省より1911年に「米国粗悪不正茶及着色茶輸入禁止に関する大蔵卿訓令」が出され、よりいっそう取り締まりが厳しいものとなった。工業が十分に発展しているとは言い難い当時の日本にとって、海外に輸出できるものは一次加工品しかなかったが、戦前の「メイド・イン・ジャパン」は粗悪品の代名詞だった。


やはり何事も最初からうまくはいかない。このような経験が近代~現代日本の貿易と産業の発展につながったことは間違いないだろう。


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企業の競争力は知的財産によって生み出されることが多くなっている。近年のヒット商品を見ると、アイデア、デザイン、ブランドなどが優れているものが多く見られる。
せっかく作りだしたアイデア、デザイン、ブランドが簡単に模倣されてしまってはいけない。これらの知的財産を保護する権利が知的財産権であり、これには産業財産権である「特許権」「実用新案権」「意匠権」「商標権」、文化的創作に関する「著作権」がある。
「特許権」は「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度なもの」を保護する。近年日本では年間で30万件以上出願されて、約20万件が登録されている。

特許の取得手続きの流れとしては、まず出願書類 (願書、明細書、特許請求の範囲、要約書、図面(任意)) を特許庁に提出する。それを受けて特許庁では方式審査を行い、書類が決められた形式を満たしているかを審査する。方式審査終了後1年6ヵ月経過すると (申し出により早めることも可能) 出願公開となり「特許公報」に掲載される。しかしそれだけではダメで、出願から3年以内に実態審査を請求する必要があり、この審査に合格すると特許査定となり、そのあと所定の特許料を納付することで特許権の登録がされる。
最短で特許を取得したい場合は、出願と同時に審査請求をすることになる。すぐに審査請求書を提出すれば1年2ヵ月程度で結果が通知される。個人や中小企業の場合は早く審査をしてもらうこともでき、早い審査ならば2ヶ月程度で結果が通知されるそうだ。いずれにしても年間で約30万件も出願があるような状況では審査は大変だろう。

それでは、特許制度ができた最初のタイミングでは、どのような経過で審査がされたのだろうか。

特許庁 産業財産権制度の歴史
https://www.jpo.go.jp/introduction/rekishi/seido-rekishi.html

江戸時代には、新しい事物の出現を忌避する傾向があったといわれており、1721年(享保6年)に公布された「新規法度」のお触れは、「新製品を作ることは一切まかりならぬ」というものでした。開国により欧米の特許制度が紹介され、1871年(明治4年)我が国最初の特許法である専売略規則が公布されました。しかしながら、当時の国民は特許制度を理解し利用するに至らず、当局においても運用上の問題が生じたため、翌年その施行は中止されました。
その後、特許制度整備の必要性が再認識される一方で、近代化の実を示す必要があったため、高橋是清初代専売特許所長の尽力により、1885年(明治18年)「専売特許条例」が公布されました。特許第1号は7月1日東京府の堀田瑞松により出願された「堀田式錆止塗料とその塗法」でした。
以後、順次特許制度が整備されるとともに、明治38年には実用新案法が整備されました。大正10年の改正では、それまでの先発明主義から先願主義に移行し、その後、昭和34年にこの大正10年法が全面的に改正され、現行特許法、現行実用新案法となりました。


ここのあるように特許第1号は、堀田瑞松(ほったずいしょう)による「堀田式錆止塗料とその塗法」である。堀田瑞松は現在の日本化工塗料株式会社の創業者だ。

日本化工塗料 日本の特許第一号について
http://www.nippon-kako.co.jp/patent.html

この特許は専売特許条例が施行された7月1日に出願されて、8月14日に登録されている。8月14日は「特許の日」となっている。
しかし認められた特許のうち、同じく7月1日に出願されたものは12件あり、そのうち6件は同じ8月14日に登録されている。「堀田式錆止塗料とその塗法」は登録番号が第1号であるが、必ずしも最初の特許とは言えない。

知財アナリストのひとりごと 知られざる特許の旅 忘れ去られた特許第2号
http://oukajinsugawa.hatenadiary.jp/entry/2015/07/08/060000

惜しくも特許第1号になれなかった専売特許を見てみましょう。(原紙は旧字体で書かれていますが、わかりやすいように私のほうで極力現在の漢字に直しています)



なぜこのように、登録日にばらつきが出ているのかは、審査が難しかったのか、何か出願に瑕疵があったのか、など、今となっては「藪の中」??ですね。


当時は現在の先願主義ではなく、先発明主義が採用されていたが、出願された特許の発明日を特定することは難しかったと思われるため、必ずしも発明日順に登録されたというわけはないだろう。そこで特許第1号となってもおかしくなかった12件のうち、8月14日に登録されたものの第2~5号となった特許について見てみよう。 (残念ながら特許第6号の松井兵治郎ほかによる「工夫かんざし」については具体的な情報を得られなかった)
特許第2~4号を同時に取得したのは高林謙三だ。

高林謙三
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9E%97%E8%AC%99%E4%B8%89

1859年に欧米列強と通商条約を結んだ日本の輸出品は生糸と緑茶しかなく、貿易の不均衡は拡大する一方であった。川越は河越茶(狭山茶)の産地で、また茶葉は当時、薬でもあった。後に農商務大臣に提出した履歴書に高林は、茶の増産こそが国家百年の大計である、とその思いを記している。
「茶の振興が急務」と一念発起した高林は、1869年、川越に林野を買って開墾して茶園経営を始めた。しかし従来の手揉製茶法では、緑茶の量産は無理で生産費用ばかりが増大し製茶業者たちは困窮を続けた。「茶葉の加工を機械化するしか道はない」と高林は、私財を投じて製茶機械開発に全人生を賭けることになる。
1881年、高林は茶壺の中の茶が壺が動くたびに動くのをヒントに焙茶器開発を思いつき、3年間の試行錯誤で回転円筒式の「焙茶機械」を考案、焙炉製より品質が優り茶葉が無駄にならない器械で、今日も茶店の店頭にある。続けて高林は「生茶葉蒸器械」と「製茶摩擦器械」を発明。
1885年、専売特許法が施行されると直ちに出願し、それぞれが日本の特許第2号・第3号・第4号となった。民間発明家としては日本初の特許取得者である。高林はその後も「改良扇風機」や「茶葉揉捻機」で特許を取得した。


公益社団法人農林水産・食品産業技術振興協会 100年をこえて稼働する製茶機の発明者、高林謙三
https://www.jataff.jp/senjin3/24.html



宮本孝之助の回転式稲麦穀機は、難しくて長期間を要する作業であった脱穀を人力機械化することを可能にしたものである。

足踏み式回転脱穀機の発明 : 特許資料からみた成立前史 近藤雅樹
https://minpaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=4180&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1

「稲麦扱機械」(特許第5号)
セノハコキ (千歯扱き) を回転させる足踏み式回転脱穀機のアイテアは、思いのほか早く出現していた。宮本孝之助の考案した「稲麦扱機械」(特許第5号) は、専売特許条例が施行された当日の明治18年7月1日に出願されていた。満を持して出願した自信作だったのたろう。
そのアイデアは機械としての構造を理論的には構成しており、充分に現実味を感しさせる。しかしこの機械に結実したアイテアの欠陥は、これを人力によって稼動させようとした点にある。実際に稼動させたとしても、考案者の宮本か予期した成果をあげることは困難たったように思う。この機械を使いこなすには、かなりの熟練を要しただろうから。とはいえ足踏み式回転脱穀機の初出てある「稲麦扱機械」には、早くも人力機械として完成したセノハコキの理想的な形態が描きたされている。




このように見ていくと、特許の審査過程や登録順が決まった経緯は全くわからない。おそらく当時は深い理由はなかったのだろうが、後世になると第1号だけが史実としてハイライトされてしまう。
日本では鎖国の影響もあり特許に対する理解が遅れたが、明治維新後に特許制度整備の必要性が高まり、それまでに考案されたアイデアが1885年7月1日の専売特許条例施行とともに多く出願された、という背景の理解が重要だ。



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