goo blog サービス終了のお知らせ 
My Encyclopedia
知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




私は地図が大好きで、1日中地図を眺めていても飽きることはない。Google Mapでも、地形図でも、古地図でも何でも好きである。
さて、我々は既に世界地図が存在し、また世界中の情報にあふれた時代に生きているが、情報がない時代に世界地図をつくるということは極めて至難の業である。自分の住んでいる、或いは権力の及ぶ範囲の地図は正しく描けてもそれだけでは世界地図にはならない。従ってわからない部分は想像で描くことになる。

知られている最も古い世界地図は、紀元前600年頃のバビロニアの世界地図である。



バビロニア(Babylonia)は、メソポタミア南部を占める地域で、首都はバビロン。そしてこの世界地図でもバビロンが描かれている。
この地図は北が上で、二重の円が描かれており、内円の内側が陸地、外円と内円の間が海、外円の外側が対岸の陸地である。ただし対岸の陸地は想像上のものであり、その説明も空想的なものだ。内円の上半分に描かれた横長の長方形がバビロンで、内円の内側に書かれたたくさんの小円は他の有力都市を表している。
つまり、この地図は世界地図を意図したものではあるが、現実世界と一致しているのはバビロンと周辺都市、周辺地理のみである。当時の行動や情報の範囲からすればこれが限界であろう。

紀元前3世紀のエラトステネスは、地球の大きさを初めて測定した人物として知られているが、地球が球形であることを前提にして測量を利用した地図を作った。



地図には経緯線に相当する線が描かれている。またこの時代には、アレクサンダー大王(アレクサンドロス3世、在位紀元前336年-前323年)の遠征記録が伝わっていたため、インド付近までの地理が詳しくなっている。

そして紀元2世紀には古代ローマのの天文学者、数学者、地理学者、占星術師であったプトレマイオスによってプトレマイオス図が描かれた。



プトレマイオス図
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B9%E5%9B%B3

プトレマイオス図は2世紀のローマ帝国で既知となっていた世界を表した地図である。 この地図では、等間隔に引かれた経緯線が描かれている。技法としては、円錐図法が使われたことに特色がある。
カナリア諸島を経度0度として東へ180度、南北は赤道を挟んで80度がカバーされる。ただし東西は実際より長く見積もられている。これは当時は精巧な時計が無く、経度の測定が困難だったためと考えられる。
地図には2つの大きな内海が認められる。一つは地中海であり、もう一つは東が南シナ海まで広がるインド洋である。描かれている主な地域にはヨーロッパ、中東、インド、セイロン島、インドシナ半島、さらにその先に中国がある。


世界地図を作ろう 地図の歴史 古代 プトレマイオスの『地理学』
http://atlas.cdx.jp/history/ancient.htm#PTOLEMIOS-NO-TIRIGAKU

大地が平らであると考える人々はもちろん、自分が住む町や国家を地図に描くだけであった人々も、投影法を考慮することはありませんでした。縮小するだけでよかったのです。投影法は大地を球体と考え広大な地域を表わそうとするときになって初めて発生する問題なのです。
世界を正しい位置関係で表そうとして投影法の問題を考えたのは、プトレマイオス・クラウディオスです。地理学者としてのプトレマイオスは、全8巻に及ぶ『ゲオグラフィア(地理学)』を著わしています。地球に関する数理地理学的な問題や地図作製の方法が論じられるとともに、当時知られている限りの地点について経度と緯度を推定して記しています。さらに世界地図と多くの地域図も含まれています。まさに古代地理学の集大成です。
投影法については正しい比例で表すことを重視して、一種の正距円錐図法を考案しています。また経緯線も導入していました。ちなみに角度の表現に度分秒を使うことを考案したのもプトレマイオスです。しかし測量されたデータが皆無に近く、旅行者の話などから位置を推定したため、地点の位置については大きくずれています。こうしてできあがった世界地図では、西はカナリア諸島から東は中国の西安まで、北はスカンジナビアから南はナイルの源流まで、ほぼ全地球の4分の1を描いていました。
データは不正確であったものの、投影法の考慮、経緯線の導入、座標による位置付け、などがなされた最初の地図であり、近代地図の基礎と言えるでしょう。ヨーロッパ文化圏では近代になるまで、これを越える成果は現われませんでした。方法論としてだけでなく、その後の地図の多くが、大航海時代にいたっても、プトレマイオスの地図に書き加える形で描かれているのです。
プトレマイオスはまた“地理学とは、知られている全世界を、そこに介在する現象ともども絵によって表現することである”と書いています。彼がどんな現象を想定していたのか定かではありませんが、これはまさに現在の主題図の概念を表わしています。


このようにプトレマイオス図は傑出したものであり、紀元前6世紀のバビロニアの世界地図から、2世紀のプトレマイオス図まで古代の世界地図は確実に進化を遂げていた。しかし、世の中の一般的技術のな発明・開発・改良と異なり、ヨーロッパの世界地図の精度はここから後退してしまう。その原因はキリスト教の教義による世界観が強制されたことであり、中世では世界は幾何学的な構造であるという世界観が再び主流となってしまった。その典型的なものはTO図である。



世界地図を作ろう 地図の歴史 中世 キリスト教の世界観 TO図
http://atlas.cdx.jp/history/middle.htm#KIRISUTOKYONO-SEKAIKAN

このころ作られた数少ない世界図には実用的な価値(位置や道程を表わす機能)は全くなく、キリスト教の世界観を表わすための象徴的なものでした。代表的な世界図は“TO図”とよばれるものです。これは初期のギリシアの地図の影響を受けたもので、オケアノスの海に囲まれた円形の大地を表わす“O”の中に、地中海とナイル川とドン川(ロシア西部を南流し黒海に注ぐ)を表わす“T”が描かれて、大陸が3つに分けられています。上半分がアジアで、左下がヨーロッパ、右下がアフリカです。エルサレムが中心に配置され、上端である東の果てには“エデンの園”が想像されました。地名も聖書に記されている場所がいくつか書かれているだけのものです。

その後大航海時代になり、15世紀末から16世紀初頭にかけて、コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランなど歴史上偉大な業績を残した航海者たちにより、それまでヨーロッパとアフリカ北部、アジアの限られたところしか知られていなかったヨーロッパ人の知識が世界中に達し、この世界観の劇的な拡大が地図は大きな変化を遂げた。
またメルカトル図法など投影法や測量技術の進化により、ようやく世界地図の大勢ができあがることになった。また印刷技術の発明によって世界地図は一般にも普及することになった。

とはいえ、世界地図の失われた1000年というのは人類の歴史に大きな影響を与えたことだろう。
もし2世紀のプトレマイオス図以降順調に世界地図が進化を遂げていたら、その地図をもとに全く違う歴史をつくった人物が現れたかもしれない。その結果行政面での世界地図は現在のものと違っていたかもしれないのである。より空想を働かせながら世界地図を眺めるようにしよう。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« イリューシン... タイムマシン... »