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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




ゲーム業界では、ハードウェアがゲームを動かすための基盤である一方、ソフトウェアはプレイヤーが実際に楽しむコンテンツであり、ソフトウェアの質がハードウェアの成功を左右する重要な要素となっている。
100年遡ってラジオの普及においても、ハードである受信機の技術の革新のみでなく、放送のコンテンツが重要な役割を果たした。

世界初のラジオ放送は、1906年12月25日にアメリカのマサチューセッツ州ブラントロックで、カナダ人発明家のレジナルド・フェッセンデン (Reginald Aubrey Fessenden、1866~1932年) によって行われた。
レジナルド自身が 「さやかに星はきらめき (O Holy Night)」 をヴァイオリンの伴奏で歌い、聖書のルカの福音書第2章の一節を朗読するというもので、約1.6km離れた地点でも受信された。この再現は以下のようなものだ。



しかし当然のことだが、一般家庭にラジオは普及しておらず、この放送を聞くことができたのは沿岸を航行する船の無線技師たちだけだった。

ラジオの技術については、1904年にジョン・フレミング (John Ambrose Fleming) によって真空管技術が開発され無線通信の性能が大きく向上し、また1906年にリー・ド・フォレスト (Lee De Forest) が三極管を発明し、これによって信号の増幅ができるようになった。三極管はトランジスタが発明される1948年までラジオの開発にとって非常に重要な要素となった。

そのような中で登場したのがフランク・コンラッド (Frank Conrad、1874~1941年) である。

フランク・コンラッド
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89



ウェスティングハウス電気製造会社でいくつかの特許を取得する技術者だったコンラッドは、無線電信にも関心を持つようになり、1916年7月に電波を管理する商務省電波局より実験局8XKのライセンスを取得した。そしてピッツバーグ自宅ガレージに送信機を設置し、8kmほど離れた会社の工場に受信機を置いて無線実験を繰り返した。
第一次世界大戦の終戦後、中波長の無線電話送信機を組み立てて定時送信を開始し、その受信を500km離れたボストン在住の知人に依頼した。間もなくコンラッドの定時送信はアマチュア無線家たちの間で評判となった。
1920年9月29日に、ピッツバーグの新聞The Pittsburgh Pressやでデパートに、「木曜夜10時頃から20分ほど、フランク・コンランドさんが無線で音楽コンサートを定期放送しています。当店ではこれを聴ける完成品受信機を10ドルからの価格で展示販売中です」 という広告が掲載された。
これを見たウェスティングハウス社のデイビス副社長は、コンラッドが自宅から無線電話の定期放送をしていることは知っていたが、それが受信機の販売ビジネスにつながるとは考えてなかったため、この広告を見て驚いた。さっそくコンラッドらを召集して、我々が良い番組を提供すれば受信機が売れるはずだと皆に説いた。すなわち受信機を販売するためのソフトウェア (番組コンテンツ) の提供である。 (ちなみに、広告に掲載された受信機はウェスティングハウス社のものではなかった)
デイビス副社長が、11月2日に行われる合衆国大統領選挙においてハーディング候補対コックス候補の開票速報が放送可能かを問うと、皆はできると断言した。こうして放送用100W送信機の設計・製作に着手し、あわせて東ピッツバーグ工場の屋上に掘立て小屋のスタジオと送信アンテナの建設がはじまった。
1920年11月2日20時、世界初の商業ラジオ放送局といわれるKDKAが放送を開始した。KDKAは同局に付与された呼出符号で、そのまま放送局の名前となった。
ピッツバーグ・ポスト社から入ってくる開票数字を広報部のローゼンバーグが読み上げ、速報と速報の間はレコード音楽でつなぎながら、真夜中過ぎまで続いた。コンラッドは緊急事態に備え自宅の予備機の前で待機していた。受信機が設置された教会や会社幹部宅に大勢の人が集まりこれを聴いた。放送は大成功だった。このように大統領選挙の速報報放送は、従来の新聞や電報では得られなかった速報性で市民に衝撃を与え、ラジオ放送が市民の日常に根ざすきっかけとなった歴史的な出来事となった。


しかしそれだけでは立ち上がったラジオ局が存続できるわけではない。受信機が普及するようになり、一部のファンだけでなく多くの市民が放送を楽しめるようになると、そのニーズに対応する放送を提供する必要がある。まさにラジオ放送の黎明期に、KDKAは以下のような内容の放送を行った。

KDKA (AM) - History 1920s
https://en.wikipedia.org/wiki/KDKA_(AM)#1920s

(翻訳) 初期のプログラミングでは、ウェスティングハウスの従業員で構成されたバンドによるライブ音楽パフォーマンスがよく行われた。
1921年1月2日、カルバリー・エピスコパル教会からの宗教的な礼拝を放送し、最初の遠隔放送を行った。カルバリーの礼拝はすぐに定期的な日曜日の夜の提供となり、1962年まで続けられた。
1921年1月15日、KDKAはピッツバーグのデュケイン・クラブからハーバート・フーバーによるヨーロッパ人救援に関する演説を放送した。
1921年7月2日、ニュージャージー州で行われたジャック・デンプシー対ジョージ・カーペンティアのヘビー級ボクシングの試合を生放送する手配をし、30万人が放送を聞いた。(KDKAは補足的な役割)
1921年8月5日、ピッツバーグ・パイレーツ対フィラデルフィア・フィリーズの試合を放送した。KDKAはメジャーリーグのプロ野球の試合を放送する最初のラジオ局となった。その年の秋、同局はカレッジフットボールの試合を放送する最初の局となった。
1922年、KDKAは政治ユーモア作家のウィル・ロジャースを初めてラジオに出演させた。



特に人々の関心を集めた番組は、日曜礼拝中継 (Church Services) で、ピッツバーグ市内の教会とKDKAのスタジオ間に敷設した専用線を経由して日曜礼拝を生中継した。その結果、礼拝に行きたくても体が不自由だったり、何かの都合で家を空けられない人などから、このサービスを絶賛する礼状が毎日束になってKDKAに届いたそうだ。



世の中のニーズに対して、技術とサービスで解決策を提供するとこと、そしてハードの普及においてコンテンツが極めて重要であることはこれからも鉄則となりそうだ。



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初心者が気軽に試すことができないスポーツの代表格はスキージャンプだろう。素人からすると、スタート地点から見るコースは垂直の崖のようで足がすくむし、約90km/hで空に飛び立つというのはまさに自殺行為だと思う。
ゆえにスキージャンプの起源は、「ノルウェーで罪人にスキー板をはかせて山の上から突き落とした」 という処刑方法説もあるが、実際は1840年ごろのノルウェーのテレマーク地方で遊びから自然発生的に発展したという説が有力だ。
一方で、スキージャンプには「前史」がある。1808年11月22日にオラフ・ライによる史上初めて記録されたジャンプで、9.4メートル(31フィート) は最初の公式世界記録である。

オラフ・ライ
https://en.wikipedia.org/wiki/Olaf_Rye

(翻訳) オラフ・ライ (Olaf Rye、1791~1849) はノルウェー・デンマークの軍人。 1804年、ライはクリスティアニア (現在のオスロ) のノルウェー地籍軍団の士官候補生として軍歴を始め、1813年に大尉に任命された。
オラフは1840年にダンネブロ勲章のナイトにノミネートされ、1848年にダンネブロゴルデネンス・ヘーデルシュテグンを授与された。1849年、ライは少将として従軍し、シュレスヴィヒ・ホルシュタインの町の包囲を破ったフレデリシアの戦いで決定的な役割を果たしたが、この戦いで亡くなった。


60 Jahre Weltrekordler! Olaf Rye, der erste Skispringer
https://www.laola1.at/de/red/wintersport/skispringen/60-jahre-weltrekordler--olaf-rye--der-erste-skispringer/

(翻訳) 1808年11月22日、兵士たちはアイツベルク近くのレクム農場に人工の要塞を建設し、オラフは驚いた観客の前で松のスラットに身を投げ、ジャンプに立ちました。 当時の市長イェンス・エドヴァルト・ヒョースから受け継がれているのが、「彼は雪の山でできた人工ジャンプでスキー板の上に立ち、激しく走り、15キュビト (9.44m) のジャンプをした」というものです。
ライのばかげた行動はある時点で忘れられてしまったが、2007年に出版されたスキージャンプの歴史書「Lengst gjennom lufta」で再び着目され、充分な証拠とともにFISが世界記録を認めた。



スキージャンプ競技を知っている現代の我々は感覚が麻痺しているが、前例も技術も科学も何もない状態でスキーを履いて9.4mジャンプするというのは「ばかげた行動」とは言え相当な勇気が必要であり、また周囲にとって衝撃的だったと思われる。
そしてスキージャンプを発展させ、ライの記録から60年後に新記録を打ち立てたのがソンドレ・ノーハイム (ソンドレ・ノーハイム) だ。

ソンドレ・ノーハイム
https://en.wikipedia.org/wiki/Sondre_Norheim

(翻訳) ソンドレ・ノーハイム (Sondre Norheim、1825~1897) はノルウェーのスキーヤーであり、近代スキーの先駆者、テレマークスキーの父として知られている。
ソンドレはレクリエーション活動としてダウンヒルスキーを始め、そのスキルで地元で有名になった。ソンドレは、さまざまなビンディングや、ターンを容易にするために側面が湾曲した短いスキー板など、新しい機器を設計することにより、スキー技術に重要な革新をもたらし、また現在のスキーのプロトタイプであるテレマークスキーを設計した。
ソンドレは同時代の人々からスキー芸術の達人と見なされていました。彼は普通のスキーとジャンプとスラロームを組み合わせた。彼の評判は高まり、やがてスキーやスラロームなどのノルウェー語が世界中に知られるようになった。



そもそも「スキー」の語源はノルウェー語 (薄い板の意味) であり、スキー競技におけるソンドレやノルウェーのスキーヤーたちの影響の大きさを知ることができる。
そのソンドレの新記録は1868年3月8日に、ノルウェーのブルンケベルクのハウグリバッケン (Hauglibakken) という丘での19.5m (64フィート) というものだ。
ソンドレの記録は1879年にオラフ・ホーガン (Olaf Haugann) が20.7m (68フィート) に更新されるまで11年間破られなかった。その後は記録が頻繁に更新され、1913年に50m (51.5m Ragnar Omtvedt)、1936年に100m (101.5m Josef Bradl) を超える記録が生まれた。
1930年代の国際大会の映像があるので見てみよう。



現在の世界記録は2017年3月18日に、オーストリアのステファン・クラフト (Stefan Kraft) がノルウェーのヴィケルスンジャンプ競技場で記録した253.5m (832フィート) だ。 女子はスロヴェニアのニカ・プレヴツ (Nika Prevc) が2025年3月14日にノルウェーのヴィケルスンジャンプ競技場で記録した236.0m (774フィート) を記録したばかりだ。
また非公式記録ではあるが、日本の小林陵侑選手が2024年4月24日にアイスランドで特設ジャンプ台を使用して291.0m (955フィート) を飛んだ。これは一見に値する。



そもそもスキージャンプ競技は飛行距離を競うものではないし、また安全性を重視し装備ルールについて厳格であるが、それでも今後も飛行距離記録は更新されることだろう。この分野でも人類の技術の進歩の歴史を見守っていこう。



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地図地理好きにとって変わった国境や県境は興味深いものだ。
変わった県境のひとつに、新潟県・山形県にまたがる山脈に福島県に制定された飯豊山 (いいでさん) 神社とその登山道のために、福島県が割り込んだ三県県境が挙げられる。ここは是非訪問したい。



同様に国境でも「回廊地帯」と呼ばれる領土から伸びた廊下のような細長い領土がある。飛び地となる領土と結ぶためなどいくつか目的があり、以下のような例が挙げられる。

ワハーン回廊 (アフガニスタン)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%9B%9E%E5%BB%8A



ここではナミビア共和国のカプリビ回廊を取り上げる。地図上の不自然さからとてもインパクトが大きい。

カプリビ回廊 歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%93%E5%9B%9E%E5%BB%8A#%E6%AD%B4%E5%8F%B2

カプリビ回廊は、1890年にイギリスとの領土交換交渉を行ったドイツの首相レオ・フォン・カプリヴィにちなんで命名されている。カプリヴィは、ドイツ領南西アフリカからアフリカ東海岸のタンガニーカへ通じるルートであるザンベジ川へのアクセスを得るため、カプリビ回廊の併合を行った。この併合は、ドイツがザンジバルの権益を放棄する代わりに北海のヘルゴラント島やカプリビ回廊などを得たヘルゴランド=ザンジバル条約の一部として行われた。
カプリビ回廊は軍事的にも重要であった。1970年から1979年の南ローデシア紛争、1965年から1994年のアフリカ民族会議による南アフリカ政府に対抗する活動、アンゴラ内戦において、この小さな地域は他地域への回廊として多くの武力行使と侵入が絶えず繰り返された。1990年代後半には、独立紛争 (カプリビ紛争) も発生している。



これには、19世紀末にヨーロッパの列強はアフリカやアジアでの植民地獲得競争を繰り広げてという時代背景がある。
1884年にドイツ帝国がナミビア (当時は「南西アフリカ」でカプリビ回廊を含まない) を植民地としたが、ドイツはアフリカ大陸を横断してインド洋の進出を目指しており、アフリカ大陸の縦断を目指すイギリスと対立をしていた。
そこでドイツはヘルゴランド=ザンジバル条約によって、現タンザニアのザンジバル島をイギリスに譲渡する代わりに、イギリスから東海岸への通路となるザンベジ川が接しているカプリビ回廊を入手した。この条約は両国の植民地政策における重要な合意であり、アフリカにおける勢力均衡を図るためのものであった。

しかし、海へと繋がると思われたザンベジ川の川下にはヴィクトリア滝を筆頭にいくつもの滝や急流があったため、インド洋まで船で渡ることは不可能であった。ヴィクトリア滝は1855年にイギリスの宣教師であり探検家でもあるデイヴィッド・リヴィングストンが発見したものであり、ドイツがカプリビ回廊を取得してもインド洋には抜けられないことをイギリスは知っていて交渉をしたのかもしれない。

その後第一次世界大戦後にナミビアは南アフリカ連邦の委任統治下に置かれ、1966~1990年のナミビア独立戦争を経て1990年3月21日に独立を果たしたのだが、カプリビ回廊は現在もナミビアの一部である。この地域は他地域への回廊として多くの武力行使と侵入が絶えず繰り返されるなど、軍事的にも重要な地域となっている。一方で野生生物が多く棲息しているほか、鉱物資源も確認されている。

このような政治的策略に振り回されたのはロジ族である。

ロジ族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B8%E6%97%8F

ロジ人は19世紀にロジ王国を建設し、ザンベジ川上流域に勢力を伸ばした。1890年6月に英国とバロツェランド協定を結び、ロジ王国は英国の保護下に入ったものの、間接統治を受け、ある程度の独立性を保ち続けていた。1990年の民主化とともに再び分離・自治要求が起きている。現在でも王国組織は存在しており、リトゥンガが乾季の王宮から雨季の王宮へと移動するクオンボカ祭りはザンビアでもっとも大きな祭りである。



ロジ族はシロジ語 (ロジ語) という言語を持つ民族グループで、総人口は約156万人だが、ザンビアに約132万人のほか、ジンバブエに約17万人、ナミビア (カプリビ回廊) に約4万人、ボツワナに約2万人、アンゴラに約1万人と、5ヵ国に点在してしまっている。
当然だが民族としての結びつきは強く、カプリビ回廊のロジ族 (カプリビ回廊の人口の4割程度) のナミビア本土への繋がりは薄い。そんな中で1994年に結成されたカプリビ解放軍が、1999年8月にカプリビ地区の分離のために反乱を起こしたが、ナミビア政府に鎮圧されてしまい、その後ナミビア政府の報復を恐れたロジ族が難民となった悲しい歴史がある。

回廊地帯各地にはそれぞれの歴史・事情があり、単に変わった国境として片付けてはいけないが、まずは関心をもって理解をすることが我々にできることだ。



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私が日常生活の中で気になる日本語の誤用は「電車」だ。 「電車に乗ります」に対して「〇〇線は電車でなく気動車ですよ」と返答すると反応が冷ややかだ。
一般的に「電車」は鉄道あるいは列車の意味で誤用されてしまっている。これは仕方のない面もあり、都市部では鉄道はほぼ電車である。例えば東京都内には旅客用の気動車路線はなく、近郊でも千葉県の小湊鉄道・いすみ鉄道・JR久留里線、埼玉県のJR八高線の高麗川駅以北のみである。

日本の最初の鉄道が、一般的に言われている1872年の新橋~横浜間ではなく、その前に既に国内各地で走っていることは以前このブログで取り上げた。当然だが、これらは電車ではない。
それでは最初の電車がどこかというと、1895年に開業した京都電気鉄道の伏見線である。

京都電気鉄道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93

京都は明治維新以後、天皇や公家が東京に移り住み寂しさが漂うようになっていた。そのため、京都市民の中からこのまま街が衰退することを憂慮し、産業の振興を呼びかける声があがった。
それに伴い、琵琶湖疏水と呼ばれる水路工事、更にはそれを用いた日本初の水力発電などが実施された。路面電車の運転計画は、その水力発電によって供給される安価で潤沢な電力を基にして立てられるようになった。
なお路面電車は、1890年の第3回内国勧業博覧会のとき、会場となった上野公園において東京電燈が5月4日からアメリカ製の電車で試験運転を行い披露された。

琵琶湖疏水の工期途中の1889年に、工事主任技師の田辺朔郎と上下京連合区会議員の高木文平は、疏水の水力利用についての視察のためアメリカへ赴いた。帰国後2人は水力利用は発電を主とするのがよいとの報告を行い、それに基づき蹴上発電所の設置など疏水工事の計画修正がなされた。その渡米時に2人は水力発電とともに、電気鉄道を見ている。
蹴上発電所の運転が始まると、高木文平らは1892年に電気鉄道の敷設を府知事に出願し、その後1893年に内務省へ電気鉄道の敷設を出願した。そして1894年2月に電車敷設の事業を行うための事業者として京都電気鉄道が設立され、路線の建設が開始された。
翌1895年2月1日、初の路線として東洞院塩小路下ル-伏見下油掛間を開業させた (距離約6.4km)。

わかりいくいが、「東洞院塩小路下ル (七条停車場)」は現在の京都駅中央口 (北側) を出て京都タワーの東のところ、「伏見下油掛」は現在の京阪本線の伏見桃山駅と中書島駅のから500mほどのところで後に「京橋」と改称された。
ともに電気事業鉄道発祥地の碑が建っているのだが、七条停車場は東海道線踏切りの南側であり、この碑よりも50mほど南側に位置するようだ。(当時の京都駅の線路は現在よりも北側を通っていた)

ということで、この伏見線が日本で最初の電車となるが、新しい技術ゆえに以下のようないろいろな問題があったようだ。

運行開始当初、路線は全線単線で19箇所に交換所が設けられたが、閉塞の概念がなかったことから時計に沿って電車を走らせていた。しかし時計の精度が低くまた遅延も多発ぎみで、単線区間に両方向から来た電車が同時進入して立往生し、どちらが交換所まで戻るかで運転士・乗客による罵倒・取っ組み合いの喧嘩がよく起こった。更に曲線区間で見通しが悪い場合は、正面衝突まで引き起こした。また、道路の幅が狭く電車の開業後も道路を横断する人が絶えなかったことから、開業2か月後には轢死事故が発生した。
そのため電車の安全対策を迫られ、京都府によって電気鉄道取締規則が制定された。これに伴い、街角や曲線区間には昼間は旗、夜間は灯火によって単線区間に同時に2列車が進入しないよう監視する信号人を置き、また電車には運転士と車掌のほか、市街地などの危険な区間では電車の前を先行して走り(当時の最高速度は12.9km/hであり走っても先行が出来た)歩行者に安全を知らせる告知人 (前走り/さきばしり) を乗せた。告知人は子供が多く登用され、昼は赤旗を、夜は提灯を持って、街角や人の多い場所で電車を降り、先行して電車の通行を告知した。しかし、走行中の電車からの飛び乗り・飛び降りを強いられる上、夜間は全線先走りが義務づけられるなど重労働で、また告知人が電車に轢かれる事故が多発した。

運転開始当初、蹴上発電所の電力を使用していたが、この発電所はこびり付いた藻を取り除くため月2回 (1日・15日) 停電日があったほか、保守点検のため年に数日の送電停止が行われており、電車も運休していた。これを解消するため、1899年に東九条村 (京都市南区東九条東山王町) へ自社の火力発電所が設置され、運休もなくなった。

それでも1895年に京都で開催された内国勧業博覧会が活況で、その後京都市の人口が増加したこともあり、利用者は増えた。伏見線は1904年には勧進橋から稲荷への支線が開設され、京都市内から伏見稲荷大社への参拝客を輸送した。また同年には油掛から中書島まで延伸された。また京都電気鉄道は他にも順次路線を拡張した。

これを受けて他にも電気鉄道会社を設立する構想も上がったが、2代目京都市長・西郷菊次郎の方針を受けて今後の電気鉄道は市営で建設することとなり、また市が京都電気鉄道を買収することも決まった。
市営の路面電車は1912年6月から4路線7.7kmの運行が開始された。その後1918年7月1日付けで市による京都電気鉄道の買収により、軌道21.1km 車両136両が市に引き継がれた。

その後京都市電の路線は戦後に至るまで延長され、最盛期の1957年に76.8kmとなり、乗客も1963年に一日平均564,488人の利用があった。
しかし他の大都市同様に1960年代からの自動車の急速的な普及により路面電車は邪魔者扱いされ定時運行もできなくなり、乗客も減少し経営が難しくなった。また京都では地下鉄への期待もあったことから市電は順次廃止となり、最終的に1978年に全廃となった。

1970年 (営業終了の年) の伏見線の貴重な映像があるので見てみよう。

また1968~69年に稲荷支線を含む沿線各所で撮影された貴重な写真もある。 伏見駅付近での京阪電車との平面交差は是非見てみたかった。

市電のある風景・京都 (1)伏見線
https://www7b.biglobe.ne.jp/~railbus/0251Inari.html
https://www7b.biglobe.ne.jp/~railbus/0252Fushimi.html

向日葵写真館 伏見・稲荷線
http://geo.d51498.com/himawari_syashinkan/kyouto-husimi-inari-1970-3.html

現在の京都はバブル期に建設された市営地下鉄東西線の費用が膨らんで財政が苦しい状況にある。一方でオーバーツーリズムの問題も抱えており、路面電車の全廃の是非を問う声もあるようだ。
なるほど現在であれば宇都宮ライトレールのようなLRT (Light Rail Transit) や、バス専用路線 (BRT : Bus Rapid Transit) など、より良い選択肢があるようにも思うが、これを今嘆いてもしょうがないだろう。
常に人々は今の状況で将来に向けてよりよい方策を考えているのであり、未来から指摘してはいけない。

 



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2024年のノーベル平和賞は日本原水爆被害者団体協議会が受賞した。被爆者の立場から核兵器廃絶を訴え、核兵器のない世界を実現するための努力と核兵器が二度と使用されてはならないことを証言によって示してきたことが受賞理由である。唯一の被爆国である日本からの主張としてとても尊敬する活動であり、心から受賞を祝福したい。

さて、このような現在の感覚からは考えられないのだが、1950~60年代は 「核時代(アトミック・エイジ)」 と呼ばれ、原子力に関して明るい未来が描かれていた。まだ原爆被害の甚大さが生々しい記憶として残っていた時代であり、なぜそのような思想となったのか理解に苦しむが、巨大なエネルギーとしての原子力への期待があったのだろう。
そして軍事利用だけでなく民生利用としても期待されて研究が進められた。その中には原子力飛行機、原子力機関車、原子力自動車もあった。各々について調べてみよう。

原子力飛行機
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F

主として軍事目的の利用が考えられ、冷戦下で、効果的かつ強力な核兵器運搬手段として、主にアメリカ合衆国とソビエト連邦で一時真剣に開発が検討された。 超長時間滞空を可能にするものと期待された反面、本来軽量を求められる航空機と放射線遮蔽体の重さは相容れず、乗員の被曝、大気汚染、万一の墜落時の核汚染物質拡散など、課題は山積していた。
アメリカ空軍では、遮蔽性能検証用の実験機NB-36H (写真) が実際に試作され、模擬原子炉を搭載して通常動力による飛行試験も行われたが、データ収集のみに終わった。
また、実験機・記録機シリーズのひとつのX-6の改造において、熱交換には金属ナトリウムによる間接冷却法が当初検討されたが、技術上・重量上の問題から、大気による直接冷却法が次善策として浮上した。これは吸入した大気を炉心に導入し、熱膨張させ噴流として推進する計画だったが、放射能汚染が発生するなど余りに危険なため机上案のみで放棄された。
ソ連も原子力飛行機を開発しており、改造したTu-95ターボプロップ戦略爆撃機に小型原子炉を搭載したTu-119で試験していた。
Tu-119は、クズネツォフNK-14原子力エンジンを搭載していた。実際に飛行中に原子炉を稼動させ、1965年に初飛行したといわれている。一部情報によれば48時間連続して原子炉を稼動させることに成功したとされ、乗員は被曝せず生還できたというが、実際にはその大半が数年のうちに亡くなったようである。
結局アメリカでもソ連でも原子力飛行機は実用化されなかった。

原子力飛行機は日本では開発されなかったものの、、1956年に近鉄あやめ池遊園地で行われた「楽しい生活と住宅博覧会」で、見物客が内部に入ることが可能な「原子力飛行機」の実物大模型が展示されたという。

伊達の眼鏡 by まちもり散人 未来が明るかった頃 原子力飛行機に未来の希望が乗っていた高度成長夜明け前
https://datey.blogspot.com/2015/03/1072.html

一方で原子力機関車は日本でも計画がされた。

原子力機関車
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%BB%8A

1950年代ごろ、鉄道の動力といえば蒸気機関による蒸気機関車、内燃機関によるディーゼル機関車、電力による電気機関車などがあった。そのうち前2者は燃料の補給に難があり、エネルギー効率もよいものではなかった。後者は電化のために架線や発電所・変電所などの送電システムに莫大な初期投資が必要であるなどの弱点があった。そのため、燃料補給も長期間必要とせず、地上設備に投資しなくてもよい方法として原子力機関の導入が検討された。しかし、原子炉から発生する放射能の遮蔽材が多く必要になるため超大型機関車になることなど、経済性や安全性の問題のため、設計段階から先には進まなかった。

日本は、第二次世界大戦敗北後、いかなる核研究と開発も禁止されていたが、1954年に平和利用については解禁された。国鉄鉄道技術研究所は諸外国で原子力機関車が検討されている趨勢や、政府による原子力利用の動きなどから、とりあえず技術的可能性を検討するため、調査目的として計画案として練られたのがAH100型原子力機関車であった。
AH100型は当時国鉄が開発したEH10形電気機関車に相当する3,000HPの在来線用貨物機関車で、全長29.8m、自重179tとEH10形よりもはるかに巨体であった。原子炉は濃縮ウラニウムを用いる熱中性子均質形で熱出力15600kWのもので、原子炉から熱交換器で送られた熱で加熱した圧縮空気でタービンを駆動して発電機を回し、主電動機で機関車を駆動させようというものであった。なお減速材にはベリリウム、伝熱媒体に液体リチウム、遮蔽体に軽量化できるポロン鋼パラフィン層状体を採用するとしていた。
最終報告書は1957年にまとめられたが、実現可能であるとしつつも、新造費用がかかりすぎるうえに、技術的課題が多すぎるとして難しいとした。そのうえで、原子力発電および電化に取り組む方が現実的であると結論された。

もし完成したら以下のようなイメージだったようだ。平均時速は50km、最高時速は95kmだそうで、これでは一般の気動車とそれほど差がないように思われる。

またソ連では科学アカデミーは1950年代に原子力機関車が計画された。これは4500mmという超広軌道 (日本では主に1067mmの狭軌) での超大型客車で、時速200km超でモスクワ~レニングラードを3時間程度で走るというものだった。実現していたらいろいろな点ですごかったと思う。

他にも、アメリカ・原子力委員会の設計によるX-12 (1954年)、アメリカ・サザン鉄道のタービン式原子力機関車 (1955年)、西ドイツ・ドイツ連邦鉄道によるガス冷却炉を搭載した原子力機関車 (1955年) などの計画があったが、いずれも実現しなかった。冷戦下で様々な技術競争が繰り広げられた中で実現しなかったのだから、技術面・安全面・経済面で問題が多すぎたのだろう。

この核時代の流れを受けて、原子力自動車も開発が進められた。

原子力自動車
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A

1950年代頃、自動車の動力といえば内燃機関によるガソリン自動車、ディーゼル自動車、トロリーバスのような電力による電気自動車などがあった。当時は原子力には輝かしい未来があると信じられていた時代で原子力飛行機や原子力機関車のように現在の感覚からすれば滑稽とも思えるような用途への適用が真剣に検討されていた時期であった。
そのような時代だったため、フォード車で提案されたフォード・ニュークレオン等の一連の原子力自動車の構想は当時としては特異な発想ではなかった。しかし、50年代の技術力では自動車の動力に原子炉を利用した場合に発生するエネルギー変換や廃熱などの問題を解決することは不可能だった。やがて原子力の負の側面が顕在化すると提案されなくなった。

フォード・ニュークレオン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3

フォード・ニュークレオン (Nucleon) はフォード・モーター社が1958年に発表した原子力自動車のコンセプトカーである。ニュークレオンは内燃機関ではなく、車体の後方に設置された小型原子炉から動力を得るように設計されていた。ニュークレオンの特徴は車体後部にある一対のブームの間に吊り下げられたパワーカプセルである。このカプセルには動力となる放射性物質のコアが内蔵されており、要求される性能や走行距離によって、自由に交換できるように設計されていた。
ニュークレオンの乗用部は、区切りのない一枚フロントガラスと、一体整形のリアウィンドウと、カンチレバールーフによる天井を特徴としていた。天井の先端と支柱基部には空気取り入れ口が設けられていた。極端に後部が張り出した車体は、運転手と乗客を後部の原子炉から保護するためである。いくつかのスケッチでは、ニュークレオンにはリアフェンダーから生えた尾翼が描かれていた。
駆動機関は原子炉によるパワーモジュールと一体を成しており、電気式トルクコンバータが当時使われていた駆動機関の代用を果たす筈であった。搭載するコアの大きさによっては、ニュークレオンは8000 km以上の距離を再補給なしに走破できるとされていた。燃料補給の代わりに、寿命を終えたコアは交換ステーションへ運ばれる。ニュークレオンの設計者達は、交換ステーションがガソリンスタンドに取って代わると予想していた。
ニュークレオンは実際には生産されず、また実物が組み立てられることもなかったが、1950年代のアトミック・エイジのシンボルとして今なお健在である。

ニュークレオン以外にもいくつか1950~60年代に原子力自動車のコンセプトカーがいくつか発表されたが実用化はされなかった。

実際に仮に実用化できたとしても原子力飛行機や原子力機関車には怖くて乗れないし、原子力自動車が街中を走っていたら周りは大迷惑である。

チェルノブイリ原発事故や東日本大震災での福島第一原発事故などを知っている現代の我々からすると、いずれもとても愚かな計画と思える。しかし、このように段階を踏むことによって世の中は発展するものなのだ、と考えることにしよう。

 



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