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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




日本で一番高い山は富士山である。ここでいう「高い」は「標高」のことであり、海面の延長であるジオイドからの距離とすることが一般的であり、海抜とも呼ばれる。
一方で、近接した2地点の高度差を「比高」といい、段丘の高さや山脈上に噴出した火山の高さなどのように、海抜高度で表わすよりも河床からの比高や基盤山脈と火山山頂の比高で表す方が有効なことがある。
地質学的にどうかではなく、実際に立っている位置から見上げた山の高さという点で、標高よりも比高の方が山の大きさのイメージに近いはずである。

富士山は南側は田子の浦に面しており、海抜0m地点が山麓といえるので比高も標高と同じ3,776mとなるが、北側の富士五湖方面からは、例えば山中湖湖面は標高980mなので以下のような山中湖から見る富士山の比高は3,776-980=2,796mとなる。



同様に世界一高いエベレスト (チョモランマ) は標高8,848.86mだが、比高はまわりを囲むチベット高原の北の麓から4,600m、南の麓から3,600mであるので、南方面から見た富士山とそれほど変わらないとも言える。

この比高で捉えたときにエベレストを上回るのは、アラスカにあるデナリ (Denali) である。

デナリ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%8A%E3%83%AA

デナリは、アメリカ合衆国アラスカ州にある山で、アラスカ山脈、アメリカ合衆国、北アメリカ大陸の最高峰。標高は6,190.4m。山名は、英語由来のマッキンリー山(英語: Mount McKinley)と長らく並立していたが、2015年よりデナリが正式な呼称となった。「大きな山」「高きもの」「偉大なるもの」を意味する。
デナリはエベレストよりも大きな山体と比高を持つ。エベレストの標高はデナリより2,700mも高いが、チベット高原からの比高は3,700m程度に過ぎない。一方、デナリはふもとの平地の標高は600m程度であり、そこからの比高は5,500mに達する。




デナリは、植村直己が1970年に世界で初めて単独で登頂し、世界初の五大陸最高峰登頂者となり、その後1984年に冬期として世界初となる単独登頂をしたが、下山中に消息不明となり命を落とした山である。

一方で、標高よりも比高が高い山がある。ハワイ島にあるマウナ・ケア山 (Mauna Kea) だ。ハワイ語で「白い山」の意であり、冬になると山頂が雪に覆われる。



Geology.com - Highest Mountain in the World
http://geology.com/records/highest-mountain-in-the-world.shtml

Mauna Kea, a volcanic mountain on the island of Hawaii, has an altitude of 4,207 meters (13,803 feet) - much lower than Mount Everest. However, Mauna Kea is an island, and if the distance from the bottom of the nearby Pacific Ocean floor to the peak of the island is measured, then Mauna Kea is "taller" than Mount Everest.
Mauna Kea is over 10,000 meters tall compared to 8,848 meters for Mount Everest - making it the "world's tallest mountain."




このようにマウナ・ケア山は、裾野にあたる太平洋の海洋底から測ると、10,203メートルの高さがあり、エベレスト山を抜いて世界で最も高い山である。

また、同じくハワイ島に位置するマウナ・ロア山も世界一の山である。



allhawaiiオールハワイ 世界一長い山?マウナロア
https://www.allhawaii.jp/article/1248/

マウナロアは標高4,169メートルです。高さではマウナケアに若干劣るとはいえ、実は、マウナロアは別の意味で世界一の山。それはこの山の大きさ、体積です。ハワイ島の面積の半分を占める広大なマウナロアは、なんと地球で一番体積が大きい山。そのあまりの重さに、ハワイ島は創世以来、8キロメートルも地盤沈下したといわれています。ちなみにマウナロアとはハワイ語で長い・広い山という意味。まさにこの山にぴったりの名前ですよね。



具体的にはマウナ・ロア山の体積は約75,000 km3であり、富士山 (1,400 km3) の50倍以上の大きさとなる。
もし地球に海がなかったら、マウナ・ケア山が世界で最も高い山、マウナ・ロア山が世界で最も大きい山ということになるだろう。

そしてマウナ・ケア山は車で山頂まで登ることができる。

ヤマレコ マウナ・ケア山(参加ツアーの車で頂上まで登坂)
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-294233.html

マウナ・ロア山は途中から車道が通じていないため、徒歩で山頂まで登る必要がある。もちろんタフな登山ではあるが不可ではないようだ。ハワイ島を訪問した方には、ぜひ世界一の山への登山やドライブをお勧めしたい。


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世の中の多くの人が毎日ニュースで日経平均株価を目にしているだろう。日本の株式市場の代表的な株価指標であり、政府の経済統計にも用いられている。
株式指数には、組入銘柄の時価総額合計を基準となる一時点での時価総額合計で除算して求める「時価総額加重平均型株価指数」と、組入銘柄の株価合計を除数で除算して求める「株価平均型株価指数」があるが、日経平均株価は後者であり、東京証券取引所第一部に上場する約2000銘柄の株式のうち225銘柄を対象にしている。
ここのところバブル崩壊後の最高値を記録しており、景気の実感とはマッチしていないが、日々の株価の動きは誰もが気になるところだ。

では、日経平均株価を初日まで遡るとどうなるのだろうか。

日本初の公的な証券取引機関は1878年に創設された東京株式取引所 (渋沢栄一らが発起人) で、その後全国の11株式取引所 (東京・大阪・横浜・名古屋・京都・神戸・博多・広島・長崎・新潟・長岡) が1943年に統合され日本証券取引所が発足した。しかし戦争下で売買は行われず1947年に解散し、その後1949年4月1日に東京証券取引所が設立され5月16日に売買立会が始まった。
この時点ではまだ株価指標はなかったが、翌1950年9月7日に平均株価の計算が開始され、売買開始の1949年5月16日まで遡って算出された。それが176円21銭で、採用銘柄の単純平均株価であった。当初は「東証第1部修正平均株価」という名称だった。
1952年に年率+118.38%で前年の166.06円から362.64円になるなど、その後も戦後の経済成長とともにどんどん上昇していった。
一方で東京証券取引所は1969年の東証株価指数(TOPIX)公表開始の翌1970年6月で東証第1部修正平均株価を打ち切り、7月から日本経済新聞社が後を継いだ。「NSB225種平均株価」「日経ダウ平均株価」を経て、1985年から「日経平均株価」という名称が使われている。

1949年からの全推移グラフは以下のとおりだ。 よく知られるようにバブル期の1989年12月29日の38915円が最高値で、これは初値の221倍となる。また最高値以前と以後のグラフの違いが著しい。

日経電子版 「古希」迎えた日経平均 戦後経済史を映し出す:なるほど日経平均70周年
https://indexes.nikkei.co.jp/atoz/2020/09/70thanniv1.html



それでは、諸外国の株価指数の起源はどうだったのだろうか。
現在のような株式を売買する証券取引所の起源はオランダで、1602年にオランダ東インド会社が発行した株式がアムステルダム証券取引所で売買された。しかしヨーロッパ各国の証券取引所の株価指数はオランダのAEXは1983年、ドイツのDAXは1988年、イギリスのFTSE100は1984年など総じて新しい。アジア各国や外の地域も同様で、21世紀以降に新設された株式指標も多い。
そんな中で最も古い株価指数は、1896年5月26日に開始されたアメリカの「ダウ工業株30種平均 (Dow Jones Industrial Average) 」である。いわゆる「ダウ平均株価」「ニューヨーク‣ダウ」だが、この「ダウ」は創始者の人名である。世界でも最もニュースで名前を呼ばれる人物ではないだろうか。

チャールズ・ダウ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A6

チャールズ・ヘンリー・ダウ(Charles Henry Dow, 1851年11月6日 - 1902年12月4日)は、アメリカ合衆国のジャーナリスト・証券アナリスト。
ハイスクールを中退後、新聞記者になる。主にニューヨーク証券取引所での相場に関する記事を執筆し、その取材の経験から「株価は全ての事象を織り込む」というダウ理論を提唱。テクニカル分析の先駆者の一人となる。
1882年にはエドワード・ジョーンズやチャールズ・バーグストレッサーと共にダウ・ジョーンズを設立、当初は手書きの経済ニュースレターをウォール街の経済関係者に配布し始める。このニューズレターがやがて発展し1889年7月に『ウォールストリート・ジャーナル』となる。1896年にはニューヨーク証券取引所の株価動向を示す指標として同紙にダウ・ジョーンズ工業平均株価を掲載し、これは今日に至るまで証券関係者に幅広く活用されるようになった。




ダウ・ジョーンズ社による株価指数は、すでに1884年以降Dow Jones Averageの名称で公表されていたが、当時のアメリカの産業構造を反映し、鉄道事業者が中心の構成でり、19世紀末の経済発展を受け、従来のダウ平均 (輸送株中心) と分離する形で、1896年に農業、鉱工業などの12銘柄により、Dow Jones Industrial Averageの算出が新たにスタートものである。1896年以前を含めた初期の数値標について以下の記載がある。

Dow Jones Industrial Average - History - Early Years
https://en.wikipedia.org/wiki/Dow_Jones_Industrial_Average#Early_years

When it was first published in the mid-1880s, the index stood at a level of 62.76. It reached a peak of 78.38 during the summer of 1890, but ended up hitting its all-time low of 28.48 in the summer of 1896 during the Panic of 1896. Many of the biggest percentage price moves in the Dow occurred early in its history, as the nascent industrial economy matured. In the 1900s, the Dow halted its momentum as it worked its way through two financial crises: the Panic of 1901 and the Panic of 1907. The Dow remained stuck in a range between 53 and 103 points until late 1914. The negativity surrounding the 1906 San Francisco earthquake did little to improve the economic climate; the index broke 100 for the first time in 1906.

そしてダウ平均は当初は以下の12の銘柄から構成された。(1928年から30銘柄となった)
1. American Cotton Oil Company 現在のUnileverの一部
2. American Sugar Refining Company 現在のDomino Foods (Domino Sugar)
3. American Tobacco Company 1911年の独占禁止法訴訟で解散
4. Chicago Gas Company 1897年にPeoplesGas Lightに買収された
5. Distilling & Cattle Feeding Company 現在のMillennium Chemicals
6. General Electric ゼネラル・エレクトリック
7. Laclede Gas Company 現在のSpire Inc
8. National Lead Company 現在のNL Industries
9. North American Company 1946年に米国証券取引委員会によって解散された電力会社持株会社
10. Tennessee Coal, Iron and Railroad Company 現在のU.S. Steel
11. United States Leather Company 1952年に解散
12. United States Rubber Company 1990年にミシュランがタイヤ事業を買収

特筆すべきはゼネラル・エレクトリックで、一時指定銘柄を外れたこともあったが1907年以降組み入れられていた。しかし2018年に除外されてしまった。これも時代の流れだろうか。

ダウ工業株30種平均の全推移グラフ (2016年まで) は以下のとおりで、単位の縮尺を調整しないと示すことができないほど伸びている。

Apollo Wealth Management - 120 Years of the Dow Jones Industrial Average
https://apollowealth.com/one-chart-120-years-of-the-dow-jones-industrial-average/



この後もさらに伸び続け、2000年11月24日には史上初めて30,000ドルを超えた。これは初値の478倍というレベルだ。
このように見ると、株式指標の推移を歴史として見るにはいいと思うが、株価の動きが経済の実態に則しているとは言い難い。街角で肌で感じる景況感が一番しっくりくるのは疑いない。


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オセロゲームはボードゲーム研究家・長谷川五郎氏によって開発されて1973年にツクダから発売された。19世紀にイギリスで開発されたリバーシに依拠しているかどうかの議論があるがここでは触れない。
オセロは運の要素がなく、2人のプレイヤーが互いに知恵を絞って実力だけを頼りに勝敗を決する。ゲームのルールは極めてシンプルだが、多数の戦術が生み出されている。「覚えるのに一分、極めるのに一生」というのキャッチフレーズがまさに当てはまる。
オセロは世界的に普及しており、2015年時点で世界36の国と地域に連盟があり、世界競技人口は約6億人と推計されているそうだ。ルールがシンプルで比較的短時間でプレーできるので老若男女問わず愛好者が多い。またひっくり返す様を「オセロのように」と表現することも多く、日常的にも浸透している。
世界選手権も1977年から実施されている (残念ながら2020年は中止)。2018年のオセロ選手権で当時11歳の福地啓介君が優勝しプラハから帰国する際に搭乗したANA機の機長は従前の最年少記録保持者の谷田邦彦氏 (1982年に15歳で優勝) で、谷田氏が機内アナウンスで福地君を称え自己紹介をしたエピソードは広く紹介された。



さて、オセロはゲーム理論において「二人零和有限確定完全情報ゲーム」に分類される。

二人零和有限確定完全情報ゲーム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E4%BA%BA%E9%9B%B6%E5%92%8C%E6%9C%89%E9%99%90%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E5%AE%8C%E5%85%A8%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0

二人零和有限確定完全情報ゲーム (ふたり ゼロわ (or れいわ) ゆうげん かくてい かんぜんじょうほう ゲーム) は、ゲーム理論によるゲームの分類の一つ。
二人:プレイヤーの数が二人
零和:プレイヤー間の利害が完全に対立し、一方のプレイヤーが利得を得ると、それと同量の損害が他方のプレイヤーに降りかかる
有限:ゲームが必ず有限の手番で終了する
確定:サイコロのようなランダムな要素が存在しない
完全情報:全ての情報が両方のプレイヤーに公開されている という特徴を満たすゲームのことである
二人零和有限確定完全情報ゲームの特徴は、理論上は完全な先読みが可能であり、双方のプレーヤーが最善手を指せば、必ず先手必勝か後手必勝か引き分けかが決まるという点である。実際には選択肢が多くなると完全な先読みを人間が行う事は困難であるため、ゲームとして成立する。


囲碁、将棋、チェス、五目並べなどのボードゲームがこれにあたるが、囲碁は対局者が合意しないと無限に継続したり、将棋・チェスは千日手の扱いが定かでなかったりするので、厳密には該当しない。
小学生の時に誰もが遊んだ三目並べ(○×ゲーム)で、慣れたプレーヤー同士だと後手がミスをしない限り絶対に引き分けになることを知っている方は上記の特徴の意味がよく理解できると思う。



オセロの複雑性 (ゲーム木複雑性) はおよそ10の58乗とのことだ。有限ではあるが、果てしない数字だ。
理論上は双方が最善手ならば先手必勝・後手必勝・引き分けのいずれかの結論が下せるはずだが、2019年時点では未だにコンピュータによる完全解析はされていない。しかし、盤面を4×4に縮小したオセロでは3対13で後手の必勝、盤面を6×6に縮小したオセロでは16対20で後手の必勝ということがわかっており、8×8のオセロは最善進行で引き分けになる可能性が高いと予想されているそうだ。経験的にオセロの引き分け (32対32) の確率は数%と思われるので、これはとても興味深い。

オセロはシンプルなルールがコンピュータのプログラミングに適しているため、これまで数々のコンピュータ・プログラムが開発されてきた。そしてその実力は人間をはるかに上回っており、世界チャンピオンでもコンピュータオセロには敵わない。逆に多くのプレーヤーがコンピュータオセロを研究に活用するようになり、オセロ戦術が大きく進歩している。
ちなみに一般的なプレーヤー (けっこう強いと思う) がコンピュータオセロソフトの24手読みと対戦すると以下のような感じだ。



個人的には毎年の世界オセロ選手権で (ではなくてもいいが公式の大会として)、コンピュータオセロソフト部門を新設し、各社のオセロソフトが競う場があると面白いと思う。話題にもなるし、公式な認定となることでコンピュータオセロソフトの開発にさらに磨きがかかり、オセロを通じてAIの進化が促進されるように思う。
そして、その決勝戦が引き分けになった時は、二人零和有限確定完全情報ゲーム・オセロの完全解析が達成されたということになるのではないだろうか。


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夏季オリンピックにおいて第1回(1896年)のアテネから途切れることなく実施されているのは、陸上、競泳、体操、フェンシング、自転車である。
自転車はこのブログで取り上げたとおり、当初の自転車は前輪が大きい不安定な乗り物であり、現在の自転車の「ローバー安全型自転車 (Rover Safety Bicycle)」が発売されたのは1885年のことだ。その後わずか10年ほどでオリンピックの競技になったことになる。

実際は安全型自転車が登場する前の1868年5月31日にパリ郊外のサンクルーで行われた1200mのレースが最初の自転車競技とされている。記録は定かでないが優勝者はイギリス人のジェームス・ムーア (James Moore) で以下のような木製のフレームに鉄製のタイヤの自転車であった。 



さらに1869年11月7日にはパリ〜ルーアン間でロードレースが行われ、これもJames Mooreが優勝した。距離は123km、タイムは10時間45分であったので、平均時速11.4km/hとなる。ママチャリで街中を走るぐらいのスピードだが、自転車の性能を考えるとかなり早いし、乗り心地は最悪だったと思う。

前述の安全型自転車が1885年、空気入り自転車用タイヤが1888年に登場すると、その後も続々と開発が進み現在の自転車の原型がほぼ完成し、自転車の利用者、そして自転車競技の人口が劇的に増えた。1892年には現在も行われているベルギーの「リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ」が開始されている。この流れでオリンピックにも採用されたようだ。

では初期のオリンピックの自転車競技の成績をもとに、自転車の性能の推移を考察してみたい。しかし陸上や水泳と違ってオリンピックの自転車競技は大会ごとに種目が頻繁に変更され同一種目での比較ができない。そこでオリンピックの歴代記録をもとに時速を求めてみよう。

Olympic Cycling Track - Sprint individual men
https://www.olympic.org/cycling-track/sprint-indivual-men



1896年のアテネオリンピックには5ヵ国から19選手が集まった。この中でポール・マッソン (Paul Masson) が4種目、レオン・フラマン (Léon Flameng) が1種目で金メダルを獲得した。2人の写真は以下のとおり (左がLéon、右がPaul) だが、2人の自転車を見ると確かに現在の自転車の原型といえるだろう。



この頃に風をどう読むかや位置取りをめぐる駆引きがどの程度あったかはわからず、速度からだけでは判断できないが、長距離系で30km/h以上のスピードを出せたようだ。
この大会では「12時間レース」があり、7選手が参加したが完走できたのは2選手のみだった。金メダルのアドルフ・シュマール (Felix Adolf Schmal) と銀メダルのフレドリック・キーピング (Frederick Keeping) はトラックを約900周して1周差で勝敗がついたようだ。これはあまりにも過酷すぎる。当然のように「12時間レース」は廃止となった。



1900年のパリオリンピックには7ヵ国から72選手が集まり、スプリントと25kmとポイントレースが行われた。この25kmのタイムと速度は当時としては早すぎるのはないかと思われる。レースの写真は以下のとおりだ。





1900年のセントルイスオリンピックにはアメリカの18選手だけが参加した。そのためか速度的にそれほど特筆すべきものはない。1/4マイル、1/3マイル、1/2マイル、1マイルというように短距離の種目が細かく分かれたが、全てマーカス・ハーリー (Marcus Latimer Hurley) が優勝し、メダリストの顔ぶれも同じとなった。



少し後のものになるが、1912年ストックホルムオリンピックのロードレースの映像があった。初期の自転車レースのイメージがわかるだろう。



その後は競技が不成立となったりトラックレースが行われなかったりしたが、1920年以降は男子個人スプリントが種目として継続しており、推移がわかる。タイムはラスト200mのもので、優勝タイム(決勝戦タイム)なので、当然だがレースの駆け引きもありその大会のベストタイムとは限らない。



このようにかつては50km/h台だったものが、21世紀になって70km/h台へと進化している。現在スプリントの世界記録は79.1km/hで、近い将来80km/hを超えるだろう。
一方で安全型自転車と空気入り自転車用タイヤが開発されてわずか10年程度の1896年のアテネオリンピックの時点で、既に充分な性能を持った自転車でレースが行われていたことが確認できた。人間のパワーとスピードの向上、自転車の技術の革新は流れの中で起きており、まだまだ進化が続くだろう。



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このブログではタイムリーな話題を取り上げることはほとんどない。10年以上前の古い記事にも多くのアクセスをいただいているし、年月が経ってからこの記事にアクセスする方も多いだろう。しかし今回は今月の話題を取り上げる。
未来のこの記事の読者のためにブログを書いている「2020年8月」について触れておくと、世界は依然として新型コロナウイルス (Covid-19) の猛威の前に苦しんでいる。2020年1月に最初の死者が出てから、8月25日までに世界で死者83万人、感染者2450万人となっている。有効なワクチンはまだなく、開発されても行き渡るまでには時間がかかるだろう。本来は東京オリンピック・パラリンピックが今月行われていたはずだが、1年延期となった。それでも開催は難しいだろう。
経済面では4~6月のGDP成長率がアメリカ-32.9% 日本-27.8%など大きく落ち込み、2008年のリーマンショックを超えて、1929年の世界恐慌と比較されるレベルだ。コロナ禍が直接の原因ではないが、安倍首相が8月28日に辞任を表明した。次期首相がだ誰になるかはわからない。11月のアメリカ大統領選もどうなるかわからない。

未来の読者の方にとって上記の内容はどう映るだろうか。「そんなこともあったね」で軽く流せる未来になるか、「まだまだ序盤だね」とより深刻な未来になるか、全く先が読めない。

その新型コロナウィルスによる経済的影響は、国家の財政破綻が議論されてしまうようなレベルにある。しかし議論を超えて既に2020年8月に新型コロナウィルスによって滅亡してしまった国家がある。「ハット・リバー公国」である。

オーストラリア最古のミクロ国家、コロナ禍で消滅
https://www.cnn.co.jp/world/35157991.html

オーストラリアで50年前に「建国」されたミクロ国家「ハット・リバー公国」が、新型コロナウイルスの影響で終焉を迎えた。
自称公国のハット・リバーは独自の旅券を発行し、オーストラリアに対して宣戦布告したこともある。近年では一風変わった観光地として主に知られていた。
だが、コロナ禍で観光収入が減るなど経済が影響を受けた上、納税額が膨らんだこともあり、オーストラリアへの屈服を表明せざるを得なくなった。

ハット・リバーがミクロ国家として誕生したのは1970年。「君主」の故レオナード・ケースリー氏はこの年、法律の抜け穴を利用したと主張して、西オーストラリア州の人里離れた地域に公国を設立した。75平方キロの農地に建国されたハット・リバーは、面積こそマカオの2倍以上だが、人口は30人にも満たない。
オーストラリアからは国家としての正式承認を受けていないものの、ハット・リバーは独立国として活動。政府は査証や運転免許証、旅券、通貨を発行し、国章や国旗を作成したほか、米国やフランスを含む10カ国の13ヵ所に海外拠点を構えていたとされる。

だが、そんな試みは終わりを迎えた。
レオナード公が昨年2月に死亡すると、後には米ドル換算で215万ドル(約2億2800万円)の未払い納税額が残った。息子で後継者のグラエム・ケースリー公は先週、土地を売って納税債務の支払いに充てる方針を明らかにした。
ケースリー氏はCNNの取材に、国を解体することになり打ちのめされていると吐露。「父親が50年かけて築いてきた国を廃止せざるを得なくなり、非常に悲しい」と語った。


「オーストラリアのハット・リバー公国」や「未払い納税額」など、国家に関する記事として意味不明だが、「ハット・リバー公国」は以前このブログでも取り上げたミクロネーションであり、実態はオーストラリア西部の農家かつ観光地である。



ハット・リバー公国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%BC%E5%85%AC%E5%9B%BD

ハット・リバー公国(Principality of Hutt River)は、レオナード・ジョージ・ケースリー(Leonard George Casley)が独立国と主張していた、オーストラリア大陸西部の広大な小麦畑を中心とした地域である。
1969年10月、西オーストラリア州政府が小麦の販売量割当を決定した際、ケースリーの農場に割り当てられた販売量が十分なものではなかったため、他の5つの農場と連携し政策に反対し、西オーストラリア州総督のダグラス・ケンドルーに法案撤回の請願書を提出した。しかし、請願書は無視され、さらに州政府が地方の農地を取り返す権利を認める法案の審議が進められたため、ケースリーは「経済・土地が奪われる危機に瀕した際には分離独立することが出来る」という国際法の規定に基づき独立の準備を進めた。
ケースリーは「販売量割当の修正または52万オーストラリア・ドルの補償金が支払われない場合、オーストラリアから独立する」と西オーストラリア州政府に最後通告するが、これに対する返答が得られなかったため、1970年4月21日に自身が所有する75平方キロメートルの土地を「ハット・リバー公国」としてオーストラリアからの独立を宣言した。ケースリーは「ハット・リバー公レオナード1世」を名乗るようになるが、独立宣言以降も「自身はエリザベス2世の忠実な臣下である」と発言している。

レオナードの独立宣言に対し、オーストラリア総督のポール・ハズラックは「西オーストラリア州憲法に関する問題には連邦政府は介入出来ない」と発言し、西オーストラリア州政府は連邦政府が介入しない限りハット・リバーへの対応を行わないと決定した。オーストラリア首相のウィリアム・マクマホンは「領土侵害」として訴追するとしたが、レオナードは「国際条約に基いた独立」と反論し、オーストラリアの方針を無視して小麦を売り続けた。

1976年、オーストラリア郵便局はハット・リバーの郵便物の処理を拒否すると通告した。さらに、オーストラリア国税庁がレオナードに対し納税を要求したことを受け、1977年12月2日にレオナードはオーストラリアへの宣戦を布告したが、数日後には停戦を宣言している。

2017年2月、レオナードは息子のグライム (Graeme Casley) へ譲位した。2019年2月、先代「ハット・リバー公」レオナードが死去した。

2020年8月3日、グライムは「公国」の解散を宣言した。新型コロナウイルスの影響で1月より「国境」を閉鎖せざるを得ず、観光収入が断たれたために、オーストラリア政府への租税の支払いの目処が立たなくなったためという。グライムは土地を売り払い、納税に充てるという.「ハット・リバー公国」が独立を宣言してから50年で、再びオーストラリアが実効支配を回復することになった。




以下の映像でだいぶイメージがつかめると思う。



パスポートチェックがあったり、ビザ (入園料) があったりと本当の入国手続きさながらである。他のミクロネーションにも共通するが、国王(?) たちは皆とても凝り性でやることが徹底している。そうでないと一国の主にはなれないのだろう。
国境が封鎖されて、ビザ代や土産物売上といった国家収益が失われてしまっては、国家の破綻もやむを得ないところか。譲位を含めて50年続いたのは充分に立派だと思う。
未来の歴史教科書には、2020年は新型コロナウィルス、そしてハット・リバー公国の終焉の年として記録されていることだろう。


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