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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 



 

ノーベル賞の資格の1つとして、受賞者が生存していることがある。
詳しく経緯を見ると1973年以前は受賞者候補に挙げられた時点で本人が生存していれば、故人に対して授賞が行われることもあった。例えば1931年のエリク・アクセル・カールフェルト (文学賞)、1961年のダグ・ハマーショルド (平和賞) は授賞決定発表時に故人であった。
しかし1974年以降は、授賞決定発表の時点で本人が生存していることが条件となった。2011年に、医学生理学賞に選ばれたラルフ・スタインマンが授賞決定発表の3日前に死去していたことがのちに判明したが、特別に正式な受賞者として認定されることが決まった。

ということで、基本的にノーベル賞の受賞者は生存であり、華やかに授賞式が行われるもの、と考えていいだろう。当然だが受賞の喜びの声が聞けるのは生存者だけである。
しかし逆に言うと、ノーベル賞に値する功績があったとしても、本人が亡くなっている場合は賞が授与されない、ということだ。候補者の選定段階で生存者のみから絞りこんでいると思われるため、実際にはそのような例は歴史上多くあるだろう。
そして、ノーベル賞の選考期間は以前と比べて長くなっている。

日本経済新聞 2016年6月10日 ノーベル賞、もらうまで29年
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO03424910Z00C16A6TJN000/

科学の大きな発見があってからノーベル賞が授与されるまでの期間は、徐々に長くなる傾向にある。
2016年版の科学技術白書は、1940年代以降に科学分野のノーベル賞を受賞した447人について、受賞理由となった科学の発見から受賞まで何年かかったか調査した。1940年代は平均18.5年。1950年代に15.1年と早くなったがその後伸び続け、2010年代には29.2年に達した。
受賞が遅くなっているのには主に2つの要因があると、政策研究大学院大学の原泰史さんは分析する。一つは時代が進むにつれて研究開発の幅が広がり、ノーベル賞に値する研究者が増えたこと。いわば「順番待ち」の状態になっている。もう一つは、ノーベル賞委員会が本当の第一発見者が誰かを重視しており、「慎重に調査しているため」だと原さんはみる。論文を分析し、大勢の科学者に聞き取り調査する。

 

人類の寿命が延びているとはいえ、功績から授賞までの期間が長くなればなるほど、先に述べた功績があっても受賞できないリスクが高まるだろう。
その功績から受賞までの期間の最長記録は「55年」であり、2例ある。1966年に生理学・医学賞を受賞したペイトン・ラウス (Francis Peyton Rous、1879年10月5日 - 1970年2月16日) と、1986年に物理学賞を受賞したエルンスト・ルスカ (Ernst August Friedrich Ruska、1906年12月25日 - 1988年5月27日) である (厳密にはペイトン・ラウスの方が長い)。この2人の功績と受賞までの経緯を見てみよう。

ノーベル賞で辿る医学の歴史 がんとの闘い~ラウス肉腫ウイルス発見から55年目の受賞
https://epilogi.dr-10.com/articles/1388/

ペイトン・ラウスは彼はアメリカの病理学者で、1911年に腫瘍ウイルス (がんウイルス) を発見し、その約半世紀後の1966年にノーベル生理学・医学賞を受けました。実は、これほどまでに時間を要したのには理由があります。
1926年、ヨハネス・フィビゲルという病理学者ががん研究で初のノーベル賞を受賞しました。その研究は、がんの原因を寄生虫とする「寄生虫発がん説」というもの。しかし現在、がんの原因が寄生虫でないのは周知の事実。フィビゲルの説は残念ながら間違っていたのです。
フィビゲルの研究を誤りだと見破るのは、当時の技術では難しかったと考えられており、現在も賞は取り消されていません。けれども、ノーベル財団はこの誤りによほど懲りてがん研究に対する評価を厳しくしたのでしょうか。この件からしばらく、がん研究に対するノーベル賞授与はありませんでした。新しい技術を認め評価する難しさに、昔の人々もまた悩まされていたことがうかがえます。
それから40年経った1966年、がん研究において2番目にノーベル賞を受けたのがラウスです。腫瘍ウイルスを発見した功績が認められ、受賞が決まりました。
がんの存在は古代ギリシアの時代から確認されていましたが、その原因は長らく謎のままでした。20世紀に入ると、西洋医学の世界では「感染症は特定の微生物 (細菌) により引き起こされる」という説が一般的になりました。そこで研究者たちは、がんも細菌による感染症であると考えるようになります。当時この考えがあったからこそ、フィビゲルの寄生虫説は支持されたのです。
その一方で、ラウスはがんの原因を「細菌より小さな何か」だと考え、研究を経て見事に腫瘍ウイルスの存在を突き止めます。ラウスによる腫瘍ウイルスの発見は、その後のがん研究に大きく影響しました。当時、定説の細菌ではなく「細菌より小さな何か」だとするラウスの研究は冷笑されたといいます。それから55年。ノーベル賞受賞の連絡を受けた時、ラウスは87歳の高齢となっていました。定説を疑い、周りの目にも負けず自身の信念を貫抜くことは、多様性が認められつつある現代でも難しいこと。約100年も前であればなおのこと、その道のりは苦難の連続だったのではないでしょうか。


 


ここにもあるとおり、ノーベル賞は取り消されることはない。そのため選考に慎重になり、功績から受賞までに時間を要する例である。

エルンスト・ルスカは電子顕微鏡に関する基礎研究と開発で受賞したが、その電子顕微鏡の歴史とともに経緯を見ていこう。

電子顕微鏡 電子顕微鏡の歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E9%A1%95%E5%BE%AE%E9%8F%A1#%E9%9B%BB%E5%AD%90%E9%A1%95%E5%BE%AE%E9%8F%A1%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

磁場の電子線に対するレンズ作用を実験で示したのは1927年ドイツのハンス・ブシュである。最初の電子顕微鏡は1931年にベルリン工科大学のマックス・クノールとエルンスト・ルスカが開発した。シーメンスの科学ディレクターだったドイツ人のレインホールド・ルーデンベルクが1931年に特許をとり、1938年に電子顕微鏡を売り出す。走査型電子顕微鏡は1937年マンフレート・フォン・アルデンヌによって製作された。1950年代から多くの分野で活用され、さらに短波長の電子線 (加速電圧の向上) などによって性能は向上した。

 

ここにある「走査型電子顕微鏡」は、観察対象に電子線をあてそこから反射してきた電子ビームから得られる像を観察する顕微鏡である。
また似た言葉の「走査型トンネル顕微鏡」がある。これは対象の近くに非常に細い針 (プローブ) を近づけ、針と対象物の間に流れる電流が針と対象との距離によって変化することを利用して、対象の微細な凹凸を測定するというものだ。どちらも電子ビームや針の先端は「点」なので、一点を観察しただけでは像にはならず、平面像を得るためには電子ビームや針を縦横にZ字状に動かして面全体を観察する必要があり、これを「走査」と言う。 (と調べて記述してみたが、全く理解できていない)
この「走査型トンネル顕微鏡」は1982年に、スイスのハインリッヒ・ローラーと、西ドイツのゲルト・ビーニッヒによって開発された。当初は性能や原子レベルの観測結果に懐疑的な意見もあったが、それまで構造の解明がなされずに30年近く論争の的となっていたシリコン表面の構造解明の手掛かりを、彼らの装置の観測結果をもとに得ることができたため、1986年に2名はノーベル物理学賞を受賞した。これは功績からの期間が4年と短い。

そして同じく1986年にエルンスト・ルスカが、1931年の電子顕微鏡の基礎研究と開発でノーベル賞を受賞した。
このことから、「走査型トンネル顕微鏡」という功績が機会となり、その源である「電子顕微鏡」の基礎研究・開発を改めて評価しノーベル賞を授与した、と考えることができる。
尚、エルンスト・ルスカの共同開発者であったマックス・クノールは1969年に亡くなったため受賞資格がなかったが、その時点で生存していれば当然ノーベル賞を受賞していたことだろう。 (以下がエルンスト・ルスカ (右) とマックス・クノール (左) による最初の電子顕微鏡の写真である)

革新的な発明の基礎を築いたとしても、実用化、活用化に長い時間を要することや、その評価ができる時代になっていない、ということは当然あるわけで、マックス・クノールのように最初の開発者が受賞できない事例は数多くあるだろう。
ペイトン・ラウスとエルンスト・ルスカは、条件が整ったタイミングがかろうじて間に合った、と言うことができる。
従って、「生存していること」というノーベル賞の条件は不平等であり、それ以上に問題なのは人類が歴史上の功績を正しく把握できないということに繋がっていることなる。授賞式の華やかさよりももっと大事なことがあるはずだ。
もしあなたがノーベル賞の手応えのある発明を成し遂げたら、あとはひたすら長生きできるように規則正しい生活を送った方がいいだろう。

 



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このブログではたまに現在 (=執筆時点) のことを取扱うが、しばらくして状況が変わってしまうことがあり、定期的にアップデートをしなければならない。
ということで、2017年11月に記した 「東京の野菜生産状況」 (データは主に2015年) について前回同様に野菜ナビの統計 (https://www.yasainavi.com/graph/) を参照しながらアップデートしようと思う。

まず全国の野菜収穫量のランキング (2021年) だが、じゃがいも、キャベツ、だいこん、たまねぎ、はくさい というトップ5の順位には変動がない。但し、じゃがいもは240.6万トン→217.5万トン、だいこんは143.3万トン→125.1万トン、たまねぎは126.5万トン→109.6万トンなど収穫量が減っている。キャベツは146.9万トン→148.5万トン、はくさいは89.46万トン→89.99万トンと微増ではあるが、野菜全体の収穫量が減少傾向であることは変わらない。

上位5野菜の輸入に関しては、たまねぎは横ばいだが、じゃがいもの輸入が増加傾向にある。とはいえ4.7万トンであり、全体の出荷量 (217.5万トン) からすると割合は低い。全体的にあまり輸入が増えている感じではない。野菜の場合は鮮度や容量・重量の関係で輸入が難しいこともあるだろう。円安が進んでいることを考えると、野菜生産は国内回帰の流れになりそうだが、人口減少で消費量が逓減することが課題だろう。

そして東京の状況だが、前回同様にJA東京中央会の「東京農業の概要」を参照していると、農業全体で東京の耕地面積は7,400ha(2013年)→6,290ha(2023年)、また農家戸数は11,224戸(2015年)→9,567戸(2023年) と減少している。前回時点で65歳以上の割合が過半数だったので、約10年で農業をやめた方が多くいたと思われる。

収穫量の最も多い野菜は引き続きだいこんだが、 11千トン(シェア0.8%)→8.4千トン(シェア0.7%) と減っている。キャベツも10千トン(シェア0.7%)→8.4千トン(シェア0.4%) と減ってしまった。
その中で小松菜は、8.6千トン(シェア7%)→8.4千トン(シェア7%) は比較的安定した収穫量を維持している。
そして、前回東京が収穫量トップとして紹介したルッコラだが、いつの間にか収穫量がゼロになってしまっている。調べたところ、前回紹介した2014年(H26)時点では44トンで1位だったが、2016年(H28)から収穫量データがなくなってしまった。生産が全くなくなったとは思えないが、いずれにしてもトップとして君臨するという状況ではないようだ。

地域の入れ物 ルッコラの生産量の都道府県ランキング
https://region-case.com/rank-h26-product-arugula/
https://region-case.com/rank-h28-product-arugula/
https://region-case.com/rank-H30-product-arugula/
https://region-case.com/rank-R2-product-arugula/

さて、野菜に加えて、東京の果物生産状況についても見てみよう。野菜ナビの姉妹サイトである果物ナビの統計 (https://www.kudamononavi.com/graph/) を参照する。
東京は2020年時点でブルーベリーが収穫量で第1位であることがわかる。但し、2018年は長野が首位だったようで順位の入れ替わりも激しいようだ。

読売新聞オンライン 2022/12/19 ブルーベリー収穫量、東京都が全国1位https://www.yomiuri.co.jp/economy/20221219-OYT1T50059/

東京都内の収穫量は、2015年に30年以上トップに君臨していた長野県を抜いて全国1位に躍り出たことはご存じだろうか。その背景を調べてみると、ブルーベリーの特性と都内ならではの理由があった。
都内でブルーベリーを手がける農家が増えたのは、観光農園の発展と大きな関係がある。
ブルーベリーは、収穫後に「追熟」することはほとんどない。熟した実を収穫してすぐ食べるのが一番おいしいとされる。一方、収穫は一粒一粒を手で摘む作業で、1人では1日20キロ程度が限界だ。そこで思いついたのが、客がブルーベリー狩りを楽しみつつ、結果的に収穫を助けてくれる観光農園だった。「収穫で苦労するのではなく、レジャーとしても楽しめる農業にできたことが大きい」と語る。
都内の特徴は「収穫」のうち市場などへの「出荷」が少ないこと。2019年は収穫量が372トンだったのに対し、出荷 (加工向けを含む) したのは136トン。市場などに出荷するのではなく、都内の栽培農家が消費者に近い立地を生かし、観光農園として成功していることが、数字からも裏付けられている。

実際に東京で少し郊外に行くと、ブルーベリー農園が目立ち、私も夏にはブルーベリー摘みを楽しんでいる。そして東京のブルーベリーは、その特性を活かした生産であることがよくわかる。

またパッションフルーツもシェアが3位と上位につけている。南国のイメージの強いパッションフルーツで、小笠原など東京の島しょ部かと思いきや、八王子で積極的に生産が行われている。

八王子パッションフルーツ生産組合 公式ホームページ 生産組合の概要
https://hachioji-passion.tokyo/kumiai_gaiyou/

八王子市といえば、東京都内 (島しょを除く) において、農産物栽培面積、および生産金額ともにナンバー1を誇ります。それだけ、様々な農産物があるわけですが、名産といわれる農産物がないともいわれています。
そこで、何か名産品を作ろうということで、若手農業後継者が集い、パッションフルーツを名産品とすべく活動を開始しました。
八王子市内では、平成19年ごろからパッションフルーツの栽培を始めました。生産組合員の1人が小笠原にて農業研修に訪れた際に、パッションフルーツと出会ったのがきっかけです。その後、少しずつ生産者が増え、現在13名の若手農業後継者が、パッションフルーツの栽培をしています。

パッションフルーツの全体の生産量が少ないこともあるが、自分たちの生産が直接的にシェアに繋がるという状況は、生産者にとってモチベーション向上に繋がるだろう。
パッションフルーツといえば八王子、と認識されるようになるまで頑張ってもらいたい。

このトピックについてはまたしばらく後にアップデートして、農作物や果物の生産状況を確認しようと思う。

 



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多くの日本人にとって英語の習得は頭の痛い問題であろう。
英語がネックで自分の表現が制限されてしまうケースが数多くある。多くの時間をかけて英語を勉強してきたのに。
そもそも英語は言語なのだから、我々の日本語同様にネイティヴスピーカーは特に労せずに英語を使っているわけで、不公平感が甚だしい。
日本人が英語の勉強に費やす時間と費用を他にまわすことができれば、日本の生産性や経済力はもっと上がっていたのではないか。
と常々思う。

この問題について、2000年初めに当時の小渕総理大臣が施政方針演説で、「21世紀を担う日本人はすべて英語を自在に使えるようにすべきである」 という旨の発言をし、同総理の私的諮問機関である 「21世紀日本の構想」懇談会は「英語の第二公用語化」を提言し、国民的議論の必要性を訴えた。
しかしこの議論が盛り上がることはなく、具体的な検討が進められることもなかった。
2001年の飯塚成彦氏の「英語の第二公用語化は可能か」 (白鷗大学論集) という論文に詳しく取り上げられている。

英語を日本の公用語とするチャンスがあったとすれば、誰もが考えるとおり、それは終戦直後のGHQ統治下での強要であったろう。
実際にそのような計画は進められた。

漢字廃止論 戦後初期
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%AD%97%E5%BB%83%E6%AD%A2%E8%AB%96#%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%88%9D%E6%9C%9F

太平洋戦争終結後、1948年に「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」という偏見から、GHQのジョン・ペルゼルによる発案で、日本語をローマ字表記にする計画が起こされた。同年3月、連合国軍最高司令官総司令部に招かれた第一次アメリカ教育使節団が3月31日に第一次アメリカ教育使節団報告書を提出し、学校教育の漢字の弊害とローマ字の利便性を指摘した。正確な識字率調査のため民間情報教育局は国字ローマ字論者の言語学者である柴田武に全国的な調査を指示、1948年8月、文部省教育研修所(現・国立教育政策研究所)により、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男女を対象とした日本初の全国調査 「日本人の読み書き能力調査」 が実施されたが、その結果は漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり、日本人の識字率が非常に高いことが証明された。
柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、「識字率が低い結果でないと困る」 と遠回しに言われたが、柴田は 「結果は曲げられない」 と突っぱね、日本語のローマ字化は撤回された。
しかし、後に問題を作成した国語学者たちは、実は平均点が上がるよう、難しく見えるが易しい問題を出したとも語っている。

柴田武は、日本語の表記に使用する文字をローマ字 (ラテン文字) にすべきだという国字ローマ字論者であり、この計画がローマ字表記化を目論んでいたことは想像できる。
尚、上記の 「平均点が上がるよう、難しく見えるが易しい問題を出した」 という点は以下に記載がある。

PRESIDENT Online 日本人から漢字を取り上げ、ローマ字だけにする」戦勝国アメリカが実行するはずだった"おそろしい計画" 日本人の識字率の高さが、日本語を救った
https://president.jp/articles/-/64646?page=4

1万7000人が対象で、90点満点で平均点は78.3点だった。たとえ問いに対する答えは誤っていても、識字率そのものはほぼ100%に近かったのである。
この結果は、GHQのローマ字論者を黙らせるに十分であった。平均点が50点以下なら、ローマ字社会になっていたかもしれないと語りぐさになっている。
これは裏話になるが、問題を作成した国語学者たちは「実は平均点が上がるよう、難しく見えるが易しい問題を出した」とこっそり漏らしていた。

これが良かったのか悪かったのかはわからないが、史実として日本語のローマ字表記への移行はなされなかった。この計画が実際に採用されていたら、次段階として英語の公用語化の話が進んでいた可能性は大いにある。

海外に目を向けると、一般的に、母国語でなく英語を公用語に制定している国はかつての英米の統治を経験している国が多く、また多言語国家であったり、教育環境の関係で中高等教育では教授言語が英語となる、などの事情がある。
日本の英語公用語化は現実問題としては難しいようだ。

ちなみに、国立国語研究所のチームが2022年に、1948年の 「日本人の読み書き能力調査」を現代に合わせて表現や語彙を修正して、岡山県の自主夜間中学校でテスト (参加者は10~80代の生徒28人とスタッフ15人) を行った。結果は生徒の平均点は79.3点でスタッフは87.9点だったそうだ。問題のサンプルも掲載する。

産経ニュース 日本の識字率、今も高い? 戦後調査から70年、全国実施目指す 国立国語研究所
https://www.sankei.com/article/20220910-LEPJ6RHQJBPRXFVNDEBNI2Y24M/

 

さて、国字ローマ字論は明治時代の初期から唱えられていた。1885年にはローマ字を推進する団体として 「羅馬字会」 (ろーまじかい) が設立された。(なぜ漢字で表記しているのか、とツッコミたくなる)
1910年には、歌人で国語学者の土岐善麿が歌集の 『NAKIWARAI』 を発行するなど、ローマ字による文学作品も発行された。

その後の詳細は割愛するが、その中では「ヘボン式」「訓令式(日本式)」で意見の相違があり、その後いくつかの団体に分かれたり、団結したりしたようだ。1921年から活動していた 「日本ローマ字会」 は、会員の高齢化による減少により2023年3月に解散した。一方で同じくローマ字運動を展開する 「日本のローマ字社」 は活動を続けている。

その 「日本のローマ字社」 のホームページを参照すると、日本語のローマ字化が実現していた世界が少し体験できる。

公益財団法人日本のローマ字社 Kôeki Zaidan Hôzin Nippon-no-Rômazi-Sya
http://www.age.ne.jp/x/nrs/

右側のローマ字表記だけでの読解はかなり厳しい。訓令式なのでさらに違和感がある。まぁ慣れの問題化で、世の中が全てこの表記だったら、ふつうに読み書きをしているだろうが。

結局、どのような経緯があったにせよ、現実に今どのようになっているかを受け止めて、その中で対応していくしかないのだ。

 



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サッカーJリーグが1993年に開始 (発足は1992年) された当時のチームは、いつしか「オリジナル10」と呼ばれるようになった。
私が大ファンだった横浜フリューゲルスは消滅 (統合) してしまい、現存するのは9チームである。2024年シーズンでは鹿島アントラーズ、浦和レッドダイヤモンズ、東京ヴェルディ (当時は川崎)、横浜Fマリノス (当時はマリノス)、名古屋グランパスエイト、ガンバ大阪、サンフレッチェ広島がJ1、ジェフユナイテッド市原・千葉 (当時は市原)、清水エスパルスがJ2で戦っている。
30年の歴史の中でリーグの勢力図は常に変化しているが、やはりオリジナル10の存在感は強い。

それでは世界最古のリーグであるイングランドのイングリッシュ・フットボールリーグの「オリジナル」は、その後どのような道を歩んでいったかを見ていこう。

English Football League / History
https://en.wikipedia.org/wiki/English_Football_League#History

(翻訳・編集) 1880年代初頭は、多くのクラブがチームの競争力を高めるためにプロ選手への対価を支払うことが行われており、アマチュアサッカー協会の規約の法律を守っているクラブはそれを軽蔑していた。
長い議論を経てイギリスのサッカー協会は1885年7月20日にプロ化を許可した。そして、多くのクラブがプロになるにつれて、安定した収入を確保する方法が検討されるようになった。
1888年3月22日、バーミンガムを本拠地とするアストン・ヴィラのスコットランド人ディレクター、ウィリアム・マグレガー (William McGregor)は、いくつかのクラブ宛てに手紙を書き、リーグ戦の創設を提案した。このアイデアは、1887年にイギリスのメディアで発表された。

このリーグは単に「Football League」と称された。参加チームは以下の12チームであり、これらが「オリジナル12」となる。

ランカシャー地方チーム
 アクリントン (Accrington FC) ランカシャー州 アクリントン 1876年創設
 ブラックバーン・ローヴァーズ (Blackburn Rovers FC) ランカシャー州 ブラックバーン 1875年創設
 バーンリー (Burnley FC) ランカシャー州 バーンリー 1882年創設
 ボルトン・ワンダラーズ (Bolton Wanderers FC) グレーター・マンチェスター州 ボルトン 1874年創設
 エヴァートン (Everton FC) リヴァプール 1878年創設
 プレストン・ノースエンド (Preston North End FC)ランカシャー州 プレストン 1880年創設
ミッドランド地方チーム
 アストン・ヴィラ (Aston Villa FC) ウェスト・ミッドランズ州 バーミンガム 1874年創設
 ダービー・カウンティ (Derby County FC) ダービー 1884年創設
 ノッツ・カウンティ (Notts County FC) ノッティンガム 1862年創設
 ストーク (Stoke FC) ストーク=オン=トレント 1863年創設
 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン (West Bromwich Albion FC) ウェスト・ミッドランズ州 ウェスト・ブロムウィッチ 1878年創設
 ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズ (Wolverhampton Wanderers FC) ウェスト・ミッドランズ州 ウルヴァーハンプトン 1877年創設

「オリジナル12」にロンドンのチームはない。ランカシャー地方やミッドランド地方のチームが多いのは、18世紀から19世紀にかけての産業革命において、同地方が重要な地域であったことを表している。

そして最初の1888-89シーズンのリーグ戦が1888年9月8日から翌春にかけて行われた。各クラブはホームとアウェーで22試合を戦い、勝利で勝ち点2、引き分けで勝ち点1が与えられた。(但し当初は勝ち数で競うことが想定され、勝ち点制度はシーズンが開始されてから採用された)
そして最初のシーズンの結果は以下のとおりであった。

https://www.worldfootball.net/schedule/eng-premier-league-1888-1889-spieltag/22/

プレストン・ノースエンドが18勝4分と圧倒的な強さを誇り、初代のリーグチャンピオンとなった。同チームはその年のFAカップ (1871年に創設された最古のカップ戦) でも初優勝を果たし、二冠に輝いている。
得点王はプレストン・ノースエンドのジョン・グッドール (John Goodall) で21試合に出場して21点をあげている。

得点ランキング2位もプレストン・ノースエンドのジェームス・ロス (James D. Ross) であり、いかに得点力の秀でたチームだったかがわかる。

その年は降格はなく、翌1889-90シーズンも同じ12チームで行われた。

https://www.worldfootball.net/schedule/eng-premier-league-1889-1890-spieltag/22/

プレストン・ノースエンドが15勝4分3敗で2シーズン連続での優勝を果たした。2位エヴァートンとの勝ち点差は2と混戦のシーズンだった。

最初の2年で3つの国内タイトルを手にしたプレストン・ノースエンドだが、その後1937-38シーズンでFAカップを獲得したものの長く低迷し、現在はEFLチャンピオンシップ (最上位であるプレミアリーグの一つ下のディビジョンで実質2部) に所属している。

さて、イングランドサッカーのリーグ構成は「サッカーのピラミッド」と称され、トップレベルから下位レベルまで相互連携での再編がされる。当時は自動降格ではなく、Re-electionとして審議や投票がされる形だった。
そして2年連続最下位となったストークは下位のFootball Allianceへ降格となった。
そのストーク (現在はストーク・シティ) も現在EFLチャンピオンシップに所属している。1971-72年のリーグカップで国内タイトルを手にしており、直近では2017~18シーズンまでプレミアリーグに所属していた。

「オリジナル12」の他のチームのその後を見ていこう。

2023-24シーズンでは、4チームが最上位のプレミアリーグに所属している。(ちなみにプラミアリーグの創設は1992-93シーズンで、それまではイングリッシュ・フットボールリーグのディビジョン1が最高位)
その中で最も実績があるのはエヴァートンで、一時低迷し1950年に2部に降格するも、1953年に1部に復帰しその後最上位リーグに所属し続けている。フットボールリーグで9回優勝しているが、プレミアリーグとなってからは優勝がない。2022-23シーズンは17位だった。
アストン・ヴィラは、国際タイトルのUEFAチャンピオンズカップ (現UEFAチャンピオンズリーグ) を1981-82シーズンに獲得している。国内では2016-17から2018-19シーズンは降格したが、現在はプレミアリーグに復帰している。フットボールリーグで7回優勝しているが、プレミアリーグとなってからは優勝がない。2022-23シーズンは7位だった。
ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズは、1950年代にフットボールリーグで3回優勝したが、その後は長らく2部リーグが主戦場で、2013年には3部リーグに降格した。2017年に中国企業に買収されて以降は成績が好転してプレミアリーグに定着している。2022-23シーズンは13位だった。
バーンリーは、フットボールリーグで2回優勝したが、その後長く低迷した。2009-10シーズンで34年ぶりに最上位リーグ復帰し、その後降格と昇格を繰り返している。2022-23シーズンにEFLチャンピオンシップで優勝しプレミアリーグ復帰を決めた。

EFLチャンピオンシップ (実質2部) には2チームが所属している。
ブラックバーン・ローヴァーズは、プレミアリーグに初年度から所属して1994-95シーズンに優勝し、現時点で「オリジナル12」で唯一のプレミアリーグ優勝チームだが、2011-12を最後になかなか復帰できていない。
ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンは、近年はプレミアリーグとチャンピオンシップを行き来するエレベーターチームとなっており、直近では2020-21シーズンをプレミアリーグで戦ったが単年で降格してしまった。

EFLリーグ1 (実質3部) とEFLリーグ2 (実質4部) には3チームが所属している。
ダービー・カウンティは、かつてはプレミアリーグに所属し、2007-08シーズンにプレミアリーグに復帰したが、その後はチャンピオンシップでの戦いが続き、2021-22シーズンで23位でEFLリーグ1への降格となった。
ボルトン・ワンダラーズは、長く低迷の後に2001-02シーズンから2011-12シーズンまでプレミアリーグに所属したが、その後チャンピオンシップ・リーグ1・リーグ2での昇降が続いている。
ノッツ・カウンティは、最後に最高位リーグに所属していたのは1991-92シーズンで、2018-19シーズンはリーグ2で23位となりクラブ史上初めてナショナルリーグ (実質5部) に降格した。2023-24シーズンでリーグ2に復帰している。

そして、アクリントンは早々に解散してしまった。

Accrington F.C.
https://en.wikipedia.org/wiki/Accrington_F.C.

(翻訳・編集) 1888年4月17日にフットボールリーグを結成した当初の12チームの1つだった。アクリントンのベストシーズンは1889-90年の6位だった。しかし、1892-93シーズンは15位 (16チーム中) に終わり、トレントブリッジでの シェフィールド・ユナイテッドとの テストマッチに1-0で敗れ降格した。その後、アクリントンは2部リーグでプレーすることなくリーグを脱退し、フットボールリーグ創設クラブの中でリーグを永久に去る最初のクラブとなった。
ランカシャーリーグでの最初のシーズン終了後、アクリントンはフットボールリーグへの再選を申請したが落選した。クラブは1896年までリーグ外での活動を続けたが、1月14日に行われたランカシャー・シニア・カップのダーウェン戦で12対0の大敗を喫しついに解散した。

日本よりも100年以上長い歴史の中で、各チームがそれぞれに長い歴史を積み重ねてきたことがわかる。
イギリス、そしてヨーロッパにおいてクラブ間の競争はより厳しいものとなっているが、オリジナル12の現存11チームにはいつまでも歴史と伝統を積み重ねてほしい。



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歴史上でこれまでさまざまな国家が成立し、その多くは既に消滅している。
その中で名前だけ聞くと映画や漫画かと思えてしまうような「海賊共和国」(1706~1718年) という国家が、現在のバハマの首都ナッソーで存在した。

「海賊共和国」を語る前に、当時の「海賊」について理解する必要がある。
海賊は、海上を航行する船舶を襲撃して暴行や略奪など航海の安全を脅かす行為をする者のことだ。一方で15世紀半ばから17世紀半ばまでの大航海時代を経て航路が世界規模になり、国家がカバーしなければならない海域が広大となり、海軍の能力が及ばなくなった。そこで諸国が海軍力を補うために民間船に私掠勅許状を与え、敵国の艦船を拿捕することを許して海賊行為を奨励した。
この私掠勅許状を得た個人の船は「私掠船」(しりゃくせん)と呼ばれる。厳密には私掠船は海賊ではないが、国家公認の海賊と捉えることもできる。
政府としては私掠勅許状を発行するだけなので大きな負担はないが、一方で統制がきかずに、同盟国や母国籍の船まで襲う者や、本物の海賊に転身する者も現れた。

そして「海賊共和国」は「私掠船」の乗組員が設立した国家である。

海賊共和国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD

18世紀初めにスペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパ諸国間で行われた「スペイン継承戦争」において、1703年と1706年にフランスとスペインの連合艦隊によってイギリス領バハマのナッソーが攻撃され、島は多くの入植者たちによって事実上放棄され、イギリスの統治機構も撤退した。そして、ナッソーは私掠船の乗組員らに引き継がれることとなった。海賊らはフランスとスペインの船舶を襲撃したが、両国の艦隊もまたさらに数回に渡ってナッソーを攻撃した。海賊たちは、ナッソーに自治権を確立し、事実上の自分たちの共和国を設立した。
1713年までにスペイン継承戦争は終わったが、多くのイギリス所属の私掠船の乗員らは、それを知るのが遅かったり、無視して、そのまま海賊行為を続けた。失業した多くの私掠船の乗組員らはナッソーにやってきて共和国に加わり、海賊たちの数が膨大に増えることに繋がった。
1718年に海賊退治の使命を受けたウッズ・ロジャーズが総督としてナッソーに着任してイギリスの支配を回復するまで、西インド諸島における海賊活動の拠点として、貿易と海運に大きな混乱をもたらした。

海賊共和国は当初イギリスの私掠船乗組員だったベンジャミン・ホーニゴールド (Benjamin Hornigold) と、カリブ海で活動していたトマス・バロウ (Thomas Barrow) が自治を行った。その後にジャマイカ総督からの正式な私掠免許を持つヘンリー・ジェニングス (Henry Jennings) が指導者的な役割を担った。
海賊共和国が「共和国」として維持されていたのは、海賊たちが「海賊の掟」と呼ぶ規則によって活動していたことがひとつの要因である。この掟に基づいて、海賊たちは自分たちの船を民主的に動かし、略奪を平等に分け合い、公平な投票によって自分たちの船長を選んでいた。海賊の多くは私掠船の廃業者や反乱を起こした元船員たちであったが、出身や国籍を問わずに平等なメンバーになることができた。

そして既述のとおり1718年にウッズ・ロジャーズが着任したが、その際にロジャーズは海賊を辞めるならば恩赦を与えると彼らに布告した。この申し出を受けたものの中に当初の海賊共和国の指導者だったホーニゴールドがおり、地理を熟知するホーニゴールドは「海賊狩り」としてかつての仲間たちを追跡した。そして10人の海賊が彼に拘束され、そのうち9人が処刑された。これによってイギリスは支配権を再確立し、バハマでの海賊共和国を終わらせた。

さて、海賊共和国が輩出した最高の海賊はエドワード・ティーチ (Edward TeachまたはEdward Thatch)、いわゆる「黒髭」だろう。

黒髭
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E9%AB%AD

エドワード・ティーチは1716年頃にベンジャミン・ホーニゴールドの手下となって彼の拠点であるナッソーに移住した。ホーニゴールド配下の時代では、後に拿捕したスループ船の船長に任命されて海賊船団の一角を構成するなど、共に多数の略奪行為を重ねる。その後ティーチは海賊団の実権を握り、残った船団を統率するようになる。
1717年11月、ティーチはフランスの商船ラ・コンコルド号を拿捕し、これを「アン女王の復讐号 (Queen Anne's Revenge) 」と名付けて40門の大砲を乗せ、海賊団の旗艦とした。ここからティーチは海賊としての知名度を上げ、その豊かな黒いアゴ髭と恐ろしい外見から「黒髭 (Blackbeard)」と渾名された。ティーチの海賊団はその後も勢力を拡大し、1718年5月にはカロライナ植民地のチャールズタウンの港を封鎖し、人質をとって町に要求を突きつけるなど悪名を轟かせた。しかし、翌6月にノースカロライナ州ボーフォート近くの砂州でアン女王の復讐号と他1隻が座礁・損傷し、放棄しており、海賊団からボネットが離脱するなど、海賊団は大幅に縮小した。
イギリスによる対海賊政策が強化される情勢の中で、ティーチはノースカロライナ植民地の総督チャールズ・イーデンの恩赦を受け、カロライナ植民地のバスの町に移住する。しかし、間もなくティーチはイーデンの黙認下で海賊活動を再開しした。この動きによって、隣地のバージニア植民地総督のアレクサンダー・スポッツウッドに目をつけられ、彼の執拗な捜査の結果、1718年11月22日の激しい戦闘によって黒髭は、何人かの手下たちと共に殺害された。
ティーチは、自分が望む反応を相手から引き出させるためにイメージ作りをするなど、ただ力に頼るだけではない計算高いリーダーだった。現代ではステレオタイプの専制的な海賊のイメージがあるが、実際には船員らの合意を得て命令を下し、また、捕虜を傷つけたり殺したというような記録はない。後世においては黒髭のキャラクターは、ジャンルを問わない多くの創作物において典型的な海賊像としてインスピレーションを与えた。

黒髭は、「腕利きの船乗りであると同時に、非道この上ない悪人で、大胆さにおいても彼の右に出るものはいなかった。彼は想像を絶するような残忍な悪事をためらいもなく行う男であった。海賊一味の親玉になるべくしてなった男と言っていいだろう」 と称されている。
エピソードのひとつに、自室で操舵手ら3人と酒を飲んでいる時に、テーブルの下でこっそり小銃を引き抜き、ロウソクの火を吹き消して仲間に向けて発砲し1人に重傷を負わせたことがある。その時に「時には手下の1人も殺さなければ、お前たちは俺様が誰か忘れてしまうだろうからな」と言い放ったとのことで、自分のイメージを高めることを計算的に行っていたことがうかがい知れる。

以下の肖像はティーチの死後の1736年の「海賊史」にて描かれたものだが、「激しく凶暴な目つきであった」などの特徴を捉えているものであり、またその後の長きにわたって"黒髭"、そして"海賊"に対する多くの人の印象に結びついている。

1718年の黒髭の死は海賊の歴史の転換点になったと言われる。ヨーロッパ諸国は海軍の兵力を強化し圧力をかけ、海賊たちは安全な拠点を失った。その後生き残った海賊はカリブ海から逃げ出し、その多くは西アフリカを目指して守りの手薄な奴隷商人を襲ったという。
17~18世紀にかけての歴史学上で「海賊の黄金時代」と呼ばれる世界において、海賊共和国と黒髭は極めて象徴的な存在だったと言えるだろう。



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