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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




今の時代に生きていてよかったと思うことはいろいろあるが、最も恩恵が大きいものは医学の進歩だろう。人類の長寿化の最大の要因は医学の進歩であり、日常生活においても病院や医療行為が怖いと感じることはなくなってきている。

昔はどうだったかというと、例えば江戸時代の医療事情は以下のようなものだ。

お江戸の科学 江戸時代の東洋医学
https://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/05/kaisetsu2.html

江戸後期に西洋医学が輸入される前の東洋医学は、人体の構造をあまり重要視していなかった。人間の健康は五臓六腑の調和によるとした。五臓六腑を支えるのが「気」で、五臓六腑の調和が崩れた状態が「病気」とみた。
内科に関して東洋医学では、望 (目で診る)、聞 (音や臭いで判断する)、問 (症状を質問する)、切 (脈診と腹診) の四診が基本の診察方法だった。中でも脈をとる「脈診」と腹部に触れる「腹診」を重要視した。
診察を終えると症状に合わせて薬剤を調合し、患者に与える。医療は基本的に、五臓六腑の調和を取り戻すための内服薬を処方した。




一方で既に日本にも西洋医学は伝わっていた。1557年にポルトガルのLuis Almeidaが豊後 (現在の大分県) で治療を行ったのが最初とされる。しかし当初は西洋医学を習得できる医師はおらず、また当時の西洋医学のレベルでは東洋医学で診察結果に大きな差はなかったようだ。
その後江戸時代後期になると日本の医師たちは東洋医学に西洋医学の実証主義を取り入れていった。

山脇東洋 (1705~1762) は五臓六腑説に疑問を抱いており、1754年に死刑囚の解剖に立会い、この観察に基づいて1759年に日本初の解剖書『蔵志』を発刊した。日本の医学はここから人体の構造に着目するようになった。
杉田玄白 (1733~1817) と前野良沢 (1723~1803) は1771年に解剖に立会い、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』に描かれた解剖図の正確さに驚ろかされた。そして4年の歳月をかけて翻訳本の『解体新書』を刊行し、医学界に大きな影響を与えた。



そしてこれらの効果により日本の医学は大きな進歩を遂げたが、その一例として華岡青洲 (はなおかせいしゅう、1760~1835) によって行われた全身麻酔での手術は、欧米諸国よりも40年以上も早く実施されたことが挙げられる。

華岡青洲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%B2%A1%E9%9D%92%E6%B4%B2

医学書の中で特に影響を受けたのが永富独嘯庵の『漫遊雑記』であった。そこには乳癌の治療法の記述があり「欧州では乳癌を手術で治療するが、日本ではまだ行われておらず、後続の医師に期待する」と書かれているのを知ったことが後の伏線となる。この時、乳癌を根治するほど大きく切るのは、患者が受ける耐えがたい痛みを解決しなければ不可能だ。麻酔法の完成こそ、癌の医療を進歩させる最重要の課題と考えた。
手術での患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考え、麻酔薬の開発を始める。実母と妻の妹が実験台になることを申し出て、数回にわたる人体実験の末、大きな犠牲の上に、全身麻酔薬「通仙散 (つうせんさん)」を完成させた。
1804年11月14日、大和国宇智郡五條村の藍屋勘という60歳の女性に対し、通仙散による全身麻酔下で乳癌の摘出手術に成功した。
1952年、外科を通じて世界人類に貢献した医師のひとりとして、アメリカ合衆国のシカゴにある国際外科学会付属の栄誉館に祀られた。



一方で華岡青洲の手術よりもはるか前の1689年に高嶺徳明 (たかみね とくめい、1653~1738) によって既に全身麻酔による手術がされたという説もある。

高嶺徳明
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B6%BA%E5%BE%B3%E6%98%8E

中国語が堪能で、福州へ渡り、琉球王府の中国語通事となった。中国医師の黄会友を訪ねて、補唇術を学んだ。1689年5月に帰国し、同年11月20日、琉球王国王孫の尚益に口唇裂手術を施し治癒させた。沖縄学学者東恩納寛惇・金城清松は同手術が全身麻酔を施した上で行われたと指摘し、事実であれば日本史上最古の全身麻酔手術例となるが、史実である確証はない。

『琉球王国 人物列伝』によると、中国人医師の黄会友 (こうかいゆう) が補唇治療を行っていることを耳にし、中国語を完璧に理解する徳明は補唇の技術を取得することが命じられて黄会友に弟子入りし、秘法と秘伝の巻物を授けられて帰国し、また尚益の口唇裂手術は大成功で、尚益の子供ですら傷跡に気付かなかったと言われている、とのことだ。



この真偽について展開することはしないが、正確に確認できる記録である華岡青洲の手術が、西洋で初の全身麻酔による手術である1846年のアメリカでウィリアム・T・G・モートンによる手術よりも40年以上早く行われたことは確かなようだし、さらにその100年以上前に高嶺徳明によって全身麻酔による手術が行われるだけの下地があったと言えるだろう。

さて実際の麻酔の状況について以下のような記事がある。

華岡青洲の麻酔
https://www.wakayama-med.ac.jp/med/bun-in/seishu/anesthesia.html

華岡青洲が開発した麻酔方法は、曼陀羅華 (まんだらげ)、別名チョウセンアサガオなど数種類の薬草を配合した麻酔薬「通仙散」を内服するというものでした。チョウセンアサガオは3世紀頃の中国で麻酔薬として使われていたと言い伝えられていましたが、具体的な配合や使い方に関する記録は何も残っていませんでした。青洲はチョウセンアサガオに数種類の薬草を加え、動物実験だけでなく母と妻の協力による人体実験を繰り返し、実に20年の歳月をかけて通仙散を開発しました。
青洲の麻酔は、通仙散が飲み薬であるために麻酔が聞き始めるまでに約2時間、手術を始められるまでに約4時間後、目覚めまでに6~8時間と、現在の麻酔と比べて格段の時間を要するものでした。


これだと麻酔が効いているのかどうか、或いは手術中に効き目が薄れないか不安になりそうだが、麻酔が患者・医師双方に大きなメリットをもたらしたことは間違いない。

このように海外からの学問や技術を取り入れて、短期間にさらに発展させるのは昔から日本の得意とするところであり、全身麻酔の例も誇らしいものだ。 
現在我々が安心して医療に臨めるのは、この時代の医師たちの功績の延長であると言えるだろう。ただただ感謝である。



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「倒産」は法律用語ではないが、何らかの法廷倒産手続きが行われた時点、または不渡手形・小切手の発生による銀行取引停止処分を受けた時点で企業は倒産したとみなされる。
倒産処理手続きの法的整理には、大きく清算型の「破産 (全ての会社が対象)」と「特別清算 (株式会社のみ)」、再建型の「民事再生 (全ての会社が対象)」「会社更生 (株式会社のみ)」がある。
清算型は、事業を解体し、資産の全てを売却し、得られた資金で債権者に可能な限り弁済し、会社を消滅させてしまうものである。
再建型は、債権者の権利を調整した上で、会社事業の継続を実現し、継続した事業から得られる収益を通じて会社債権者に弁済するものである。

「民事再生」は再生手続き開始要因となる事実、すなわち (1) 破産の原因となる事実が生ずるおそれがある場合、(2) 弁済期にある債務を弁済することとすれば、その事業の継続に著しい支障をきたすおそれがある場合、に申し立てできる。手遅れになることを防ぐために「おそれがある場合」に申し立て可能となっている。
その後債務者 (民事再生手続き申し立て者) は再生計画書を作成し、債権者集会で可決されれば、再生計画が遂行される。
「会社更生」は対象が株式会社のみであり、再生手続きが開始されると管財人が選任されるなどの相違はあるが、会社事業の継続を目的としている点は「民事再生」と共通している。



以上が規定であるが、実際に民事再生や会社更生を手続きを申請した場合に、再生計画はうまくいくのだろうか。

会社更生手続きの最も顕著な成功事例は日本航空 (JAL) だろう。

nippon.com 再上場JAL、破綻から再生に至る道のり
https://www.nippon.com/ja/currents/d00051/

JALの経営危機に対する対応として、国土交通省は2009年8月、有識者委員会を設置し、JAL自身に経営改善計画を策定させる形の緩やかな解決を図った。しかし、ちょうどこの直後に民主党政権が誕生し、特に前原誠司国土交通大臣の強力なリーダーシップのもとで、政府がJAL問題に極めて積極的に関与することとなった。
JALは2010年1月に会社更生法の適用を申請し、その後支援機構の企業再生支援委員長で、これまで多くの倒産企業の管財人を務めてきた瀬戸英雄弁護士の指揮下、経営の建て直しが進められた。更生計画に基づき、金融機関による債権放棄(5215億円)と支援機構からの公的資金の注入(3500億円)を受け、株式は100%減資された。
JAL再生の上で何よりも大きいのは、京セラ創業者の稲盛和夫氏がJAL会長に就任し、采配を振るったことだろう。京セラを「アメーバ方式」で世界的企業に成長させた稲盛氏の経営手腕による貢献は大きい。例えば、これまでJALでは、収支を見る上では路線ネットワーク全体を単位として捉えてきており、個別の路線収支は重視されてこなかった。これに対して稲盛氏は個別の路線収支の把握の重要性を徹底した。そして、特に幹部社員を中心として、経営感覚の向上を図ることをセミナーなどの実施を通して徹底させてきた。稲盛氏の存在なくしては、JALの経営改革はかなり難しいものとなっていたに違いない。
2010年3月期には1337億円の営業赤字だったJALは、2012年3月期に2049億円の営業黒字を計上するなど、想像もできなかったようなV字回復を遂げた。それも、世界的に見てもまれにみるような好業績を挙げるに至っている。

JALは2012年9月19日に東京証券取引所に再上場した。会社更生法申請から約2年半での驚異的な企業再生と言えよう。



とはいえ全ての再生計画がうまくいくはずはない。
2017年に発表された東京商工リサーチによる『「民事再生法」適用企業の追跡調査 (2000年度-2015年度)』を参照する。

東京商工リサーチ 民事再生法」適用企業の追跡調査 (2000年度-2015年度)
https://www.tsr-net.co.jp/news/analysis/20170113_07.html

東京商工リサーチでは、2000年4月1日から2016年3月31日までに負債1,000万円以上を抱え民事再生法を申請した9,406件(法人、個人企業含む)のうち、進捗が確認できた法人7,341社を対象に経過日数や事業継続の有無を追跡調査した。
民事再生法の「申請から開始決定」の期間は、2000年度は平均40.9日だったが、2015年度は同13.2日と27.7日短縮している。「開始決定から認可決定」までの期間も2000年度の同231.1日が、2015年度は同196.4日へ34.7日短縮し、手続きの迅速化が図られている。
しかし、民事再生法の適用を申請した7,341社のうち、70.9%(5,205社)は申請後に吸収合併や破産・特別清算などで消滅し、生存企業は29.1%(2,136社)に過ぎない厳しい現実も浮き彫りになった。

民事再生法の適用を申請し、手続進捗が確認できた7,341社のうち、「民事再生開始決定」が下りた企業の割合(開始率=開始社数÷手続社数)は96.1%(7,053社)だった。また、「認可決定」が下りた企業の割合(認可率=認可社数÷手続社数)は80.2%(5,890社)で、大半は「認可決定」までこぎつける事が可能だ。

消滅した5,205社の内訳は、合併が189社(構成比3.6%)、解散が621社(同11.9%)、破産が1,909社(同36.6%)、特別清算が34社(同0.6%)、廃業や休業、存在が確認できないものが2,452社(同47.1%)だった。
民事再生「終結」前に消滅した企業は2,216社(構成比42.5%)、民事再生「終結」後に消滅した企業は2,989社(同57.4%)で、民事再生の「終結」で裁判所の監督が外れてからの消滅が6割近くを占めた。申請から4年以降を経ても「倒産」のマイナスイメージを払拭できずに経営改善が難しい状況を示している。


これを表にしてみると以下のようになる。サマリーすると、開始率は96.1%、認可率は80.2%だが、生存率は29.1%となる。



ネガティブな内容になってしまい恐縮だが、これが現実だ。民事再生の道があるとはいえ、やはりビジネスモデルに行き詰りマイナスイメージがついてしまうとその払拭は難しそうだ。
やはり「おそれがある場合」よりも早く手を打っておかないといけないということだろう。


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芸術の価値を金額で示すことは好きではないが、世の中には高額な金額で取引される絵画が存在し、その時点でその金額で評価されたということは事実である。
多くの日本人にとって印象深い高額な絵画の購入は、1987年の安田火災海上によるゴッホの『ひまわり』の購入だろう。ロンドンのクリスティーズで2250万ポンド (当時の為替レートで約53億円、最終的には手数料込みで約58億円) で落札した。
日本ではバブルの象徴的に報道されたが、それまで1800年以前のオールド・マスターの作品が絵画オークションの中心だったところに、初めてゴッホという「モダンな」絵画が高額売買の記録されたことに意義があった。
これを機会に絵画の取引価格が高騰し、その後30年以上で多くの絵画がより高額な価格で取引されている。また現代絵画や印象派が多くを占める傾向にある。

『ひまわり』以降の高額な絵画の一覧は以下に記されている。

List of most expensive paintings List of highest prices paid
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_most_expensive_paintings#List_of_highest_prices_paid

2022年4月時点で最も高額で取引された絵画は、レオナルド・ダ・ヴィンチの『サルバトール・ムンディ』だ。青いローブをまとったイエス・キリストの肖像画である。

サルバトール・ムンディ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3

1500年ごろフランスのルイ12世のために描かれたとみられる。後に、イギリスのチャールズ1世の手に渡ったが、1763年以降行方不明となる。
1958年にオークションに出品されたが、複製とされてわずか45ポンドで落札された。2005年に美術商が1万ドル足らずで入手した後、修復の結果ダ・ヴィンチの真筆と証明される。2008年にロンドンのナショナル・ギャラリーが世界中の権威5人に鑑定依頼。結果は賛成1、保留3,反対1であった。2011年にはロンドンのナショナル・ギャラリーで展示された。2013年にサザビーズのオークションでスイス人美術商に8000万ドルで落札された後、ロシア人富豪ドミトリー・リボロフレフが1億2750万ドルで買い取った。
2017年11月15日にクリスティーズのオークションにかけられ、手数料を含めて4億5031万2500ドル(当時のレートで約508億円)で落札された。この額は、2015年に落札されたパブロ・ピカソの「アルジェの女たち バージョン0」の1億7940万ドル(約200億円)を抜き、これまでの美術品の落札価格として史上最高額となった。
落札後の所有者は不明とされていたが、サウジアラビアの王太子ムハンマド・ビン・サルマーンが所有する高級ヨットの中にかかっていたことが2021年に報道されている。クリスティーズでの落札後は一度も一般公開されていない。




絵画として波乱に満ちた歴史を歩んでいるようだ。所有者が絵画を一般公開するしないは自由だが、くれぐれも大事に扱ってほしい。

高額ランキングとしては、2位はウィレム・デ・クーニングの『インターチェンジ』、3位はポール・セザンヌの『カード遊びをする人々』 と、現代絵画やポスト印象派が上位に続いている。多くが個人間取引であることも特徴として挙げられる。



さて、これらは取引された絵画であり、特に1800年以前のオールド・マスターの作品は通常は美術館が所有していて所蔵品が売却されるは希である。従って多くの名画の価格は「値段がつけられない」ということが実際のところである。
参考までに最高額の絵画と推定されているのはレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』で、1962年にアメリカ国内各地での展示における保険の査定が1億ドルだったそうだ。2020年の価格最低でも推定約8億6000万ドルであり、『サルバトール・ムンディ』の約2倍である。実際に取引されたら本当に値がつかないのではないだろうか。

さて、高額で取引された絵画は多くが西洋美術であるが、ここにきて東洋美術もリストアップされるようになってきた。その筆頭として現代中国画の巨匠と評される 斉白石 (せい/さい はくせき、Qi Baishi) の『十二景図屏風』 (1925年) が2017年12月の北京でのオークションで1億4080万ドルで落札された。

Qi Baishi Just Became the First Chinese Artist to Break the $100 Million Mark at Auction | Artnet News
https://news.artnet.com/market/qi-baishi-record-140m-beijing-1182881

The painter Qi Baishi has become the first Chinese artist to join the $100 million club.
A set of Qi’s ink-brush panels, Twelve Landscape Screens (1925), sold for $140.8 million at Poly Beijing. It is the highest price ever paid for a work of Chinese art at auction.
The artist—best known for his calligraphy and brush painting—created the work in 1925, when he was 62 years old, according to a description on Poly’s website. “It can be regarded as the most expressive style from Qi Baishi’s stylistic transformations but is also the largest in dimension of the twelve landscape screens format,” the auction house says.




斉白石
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E7%99%BD%E7%9F%B3

白石は湖南省湘潭県杏子塢星斗塘の貧農に生まれ、幼い頃から絵を描くことを好んだ。7歳で数カ月間、私塾に通い初等教育を受けたが家計が貧窮したため学業が継続できず放牧などの手伝いをしながら独学で絵を描いて過ごした。少年期は体が病弱で鋤などを使う農作業ができず、12歳で大工見習いになり1年後に家具職人となった。10年余、木工として生活したが、その並外れた技能によって全郷に知れ渡ったという。木工の傍ら表具師出身の蕭薌陔(伝鑫)について肖像画を習い後に美人画も描いた。
27歳になってからようやく文人画家の胡沁園に就いて本格的に画の勉強を始め、精緻な花鳥画・鳥獣画を学んだ。また詩文を陳少蕃、山水画を地元画家の譚溥に学んでいる。30歳になると書法や篆刻も独学し、文人的な資質を培った。篆刻は大工だったこともあり鑿を使うように大胆に鉄筆を揮るい、拙劣な枯れた作風とされた。
40歳以後の7年間で「五出五帰」といわれるように5度にわたり中国全土を巡遊し名山や大河を堪能した。同時に過去の名家の真筆や銘文などを実見し芸術的な視野を広げた。その後10年を「家居十年」と呼び、故郷にじっくり腰を据え読書に耽り、詩書画印の製作に没頭した。「借山図巻」・「石門二十四景」などの大作もこの頃の作品である。
故郷での争乱事件を避けて、55歳で北京に居宅を定め、売画・売印で生計を立て始めた。当時の北京は臨模や倣古を重んじ文人的素養を第一とするような保守的な風潮が色濃く、農民出身で木工だった白石は白眼視され、ときに排撃された。このような辛い状況にあって高名な画家で日本に留学経験のあった陳師曽は白石の才能を見出し芸術的な交流を深めるとともに様々な形で白石を支援した。1922年、東京で開催された日中共同絵画展に白石の作品を出典したのも陳師曽だったが、これをきっかけに白石の国際的な評価が高まった。




東京国立博物館 - 1089ブログ 斉白石作品のたのしみかた
https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2018/12/11/%E6%96%89%E7%99%BD%E7%9F%B3%E4%BD%9C%E5%93%81%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80/

斉白石の作品は『松柏高立図・篆書四言聯』 (1946年) も2011年に6550万ドルと高額で取引されている。
金額での評価の是非はともかく、世界の中で東洋美術がプレゼンスを高めることは喜ばしい。是非世界の人々に東洋の文化の奥深さをもっと知ってもらいたいのだ。


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子供の頃は近所の空き地や道路でよく野球をしたものだが、スポーツや娯楽の多様化、少子化などの社会の変化により、その光景をほとんど見ることがなくなった。
国内の野球競技人口は年々減っており、全日本軟式野球連盟によると1982年度には推定32万人だった競技人口が2020年度に約18万7000人となっているそうだ。MLBやプロ野球のレベルは高く盛り上がっているが、それを支えるプレー人口が増えないと先行きが見通せない。
また野球やソフトボールが世界的に普及していないことは既知の事実であり、世界野球ソフトボール連盟 (World Baseball Softball Confederation, WBSC) は危機感を抱いている。

そのWBSCが手軽にプレーできる野球型のスポーツとして2018年に新たに考案したスポーツが「ベースボール5」である。キューバの街中での「クアトロエスキーナ (cuatro esquinas)」というストリート野球を進化させたものだ。



まずはルールを理解しよう。



(1) バットやグローブを必要とせずにボール1つでプレーできること、(2) フィールドはおよそ20m四方とコンパクトでスペースを必要としないこと、(3) 1チームが5~8人 (試合は5人で行われる) という点が手軽なプレーを可能にしている、またピッチング、ホームラン、ファールを排除し、守備や走塁を中心としてスピード感にあふれている。
加えて男女混合でプレーすることが想定されている点がジェンダーイクオリティの時代にも合っている。

スポーツのスタートはストリートや公園での遊びであり、それをきっかけにそのスポーツをプレーしレベルを高めていくことが健全な姿と考える。従って多くの子供たちが放課後にベースボール5で遊ぶようになれば、今後の普及につながるのではないろうか。



以下に実際の公式試合 (2020年のEuropean Baseball5 Championship) のフルの動画があるが、1試合30分ほどでありその点でも気軽にプレーしやすい。



この試合はリトアニアがロシアに勝利したのだが、この大会でリトアニアとフランスはBaseball5 World Cupのヨーロッパ代表に決定した。そのBaseball5 World Cupは今年2022年にメキシコで開催される。

Baseball5 World Cup
https://en.wikipedia.org/wiki/Baseball5_World_Cup

The Baseball5 World Cup is a mixed-gender Baseball5 (B5) world championship that is to be held every two years, with the first edition to be held in 2022 and contested by 12 countries.  The 12 countries participating in each World Cup are geographically broken down as follows:
 The host nation automatically qualifies.
 3 countries from the Americas
 2 from Europe
 2 from Africa
 3 from Asia
 1 from Oceania
There are 12 countries that play a total of 50 games over 7 days. Each tournament will be played in three venues, with the 12 teams separated into two groups each playing a single round-robin, followed by a "super round" and then the finals.
Each team has five active players and eight players total on the roster, with the mixed-gender nature of the tournament requiring teams to have half of their roster to be of each gender, and at least two active players per gender in the game.




例えばアフリカでは以下のように、ケニア、ウガンダ、ザンビア、エジプト、ガーナ、チュニジア、タンザニア、ブルキナファソによる予選が行われている。
https://twitter.com/TanzaniaBaseba1/status/1505568719895941123?s=20&t=au0iQGWCRIapikVpLiu4jg

野球やソフトボールと比較して既に世界的な拡がりをみせているし、新しいスポーツなのでどこが強いのか全く見当がつかない点が面白い。
もともとの2020年12月開催から遅れ、現時点でも日程がTBDのままで大会の詳細が発表されていないことが気がかりではあるが、記念すべき第1回ワールドカップの動向に注目していこう。



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以前このブログで四国国境を取り上げ、歴史上存在した中立モレネの四国国境を紹介した。この中で「国境線が十字にクロスすれば四国国境ができそうなものだが、現実はそんなに単純なものではない」と記した。
しかし実際は、国境線が十字にクロスしている地点が存在する。但しそれは「四国国境」ではなく「四重国境」である。

その四重国境は、オランダ・北ブラバント州とベルギー・アントウェルペン州が混在する「バールレ村」にある。
以下のように全体ではオランダの域内に位置するが、ベルギー領の「バールレ=ヘルトフ (Baarle-Hertog)」 とオランダ領の「バールレ=ナッサウ (Baarle-Nassau)」 がパッチワークのように入り組んでいる。



バールレ村 歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%AC_(%E6%9D%91)#%E6%AD%B4%E5%8F%B2

低湿地だったこの地域は、12世紀末にブラバント公アンリ1世の領地であった。1198年に公爵は賃貸料を稼げる土地は手元に残し、残りの領地をブレダ (オランダ) のスコーテン家のゴッドフリートに譲渡した。現在、一方でその地域はベルギー領、他方、当時のゴットフリートが得た地域はオランダ領である。
バールレ=ヘルトフとバールレ=ナッサウにはそれぞれの選挙で決まる首長と町議会があり、警察署も教区教会も個別に置く。また両町議会が合同評議会を設けてインフラとして電気、上水道、ガスの供給を行い、高速道路の補修やごみ収集などを管理する。
双方の評議会は互いに出資して共同文化センターを建設し、共同図書館を利用できるようにした。観光局もあり、オランダとベルギーの両方の観光局が職員を置く。
商取引の法規は、オランダ領はオランダ法、ベルギー領はベルギー法のもとにある。法律の違いから長年にわたり密輸が横行したものの、1993年のヨーロッパ統合以降、「密かに持ち込んで高値で売る」ことそのものにあまり意味がなくなった。かつて第二次世界大戦後、ベルギーで品薄だったバターをオランダで買い付け、こっそりとベルギーに持ち込んで売る人は少なくなかった。現代でも形を変えた密輸は存在し、オランダでは売っていない花火をベルギーに出かけて買い、国境を越えて持ち込む人は多い。


この写真のように、オランダとベルギーの国境が町中に示されている。



現地の情報は以下の訪問記が詳しい。

旅倶楽部「こま通信」日記 バールレ・ヘルトフ~オランダの中のベルギー飛び地
https://blog.goo.ne.jp/komatsusin/e/e7a1c3df6a41a458725cc0d3bf1e798f

具体的には、以下のようにバールレ=ヘルトフ (H) とバールレ=ナッサウ (N) が混在する。まわりは全てオランダで、その中にベルギー飛び地が16箇所あり、さらにN1からN7までの7ヵ所は包領地である。



この地図の線はいずれも国境線になるが、この中で注目したいのは右下のH1とH2の接する地点で、国境線が見事に十字にクロスしている。

The Baarle Enclaves
http://www.grenspalen.nl/archief/baarle-nassau-in-english.html

In Baarle there's a special point, a so-called quadripoint. The Belgian enclaves H1 and H2 in Baarle meet each other at 1 point.
In February 2003 we visited this spot and it was well recognizable in the landscape. De Belgian fields had another type of crops. On the apparent quadripoint-spot there was a metal pipe stuck in the ground which we assumed to be a kind of bordermarker. There were no others in the vicinity and it was definitely no drainage pipe or like. If this is the REAL quadripoint, only a land-surveyor can tell.




測量に基づく正確なポイントかどうかはともかくとして、まさにここが 「四重国境」で、ベルギーとオランダの国境がクロスする地点である。特別に何かがあるわけではなく、単なる畑であるところが現実的だ。
もともと開墾された土地を残し (後のベルギー領)、未開の地を譲渡する (後のオランダ領) という区分けだったが、800年後さらにその先までその区分けが複雑な国境として残るとは、ブラバント公アンリ1世は考えもしなかったろう。このような歴史の痕跡はとても興味深い。


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