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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




この世に生まれたからには一国の王になりたいという考えは、洋の東西を問わず昔から誰もが抱くものであり、故に人類は権力・土地・血をめぐる争いを繰り広げてきた。
一方でこのような正攻法からちょっと外れて、自分で国家をつくってしまおうという考えをする人物もおり、実際に自分や国家をつくってしまった例も多い。いわゆるミクロネーションである。

ミクロネーションは、実際の独立運動や民族自決運動による国家ではなく、個人または家族によって小規模に行なわれるものである。個人的には協調性を欠く行動という印象が拭えないのだが、一方でミクロネーションに関する研究は幅広く行われていおり、調べていくとMicronationのwiki (Lomwiki) などというサイトも見つかりちょっと驚いた。(しかも見た目がほとんどWikipedia)

Lomwiki, the micronation encyclopedia
http://www.listofmicronations.com/lomwiki/index.php/Main_Page

ミクロネーションの中で有名なのは「シーランド公国」だろう。北海の南端、イギリス南東岸から10km沖合いに浮かぶ島国(?)だ。

Principality of Sealand (公式URL)
http://www.fruitsofthesea.demon.co.uk/sealand/

世界飛び地領土研究会 非公認の国々 シーランド公国
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/hikounin/sealand.html



元イギリス陸軍少佐で海賊放送の運営者だったパディ・ロイ・ベーツが1967年に独立宣言をし40年以上になるが、その間クーデターや火災や、売却宣伝などいろいろ話題を提供してる。人口は4人だが、サッカーのナショナルチームも持っているという。

さて、過去に存在したミクロネーションの中で気になる国がひとつある。1964年に設立されたニューアトランティス Repunbic of New Atlantisがそれで、なぜならその設立者が「老人と海」で有名なアーネスト・ヘミングウェイの実弟レスター・ヘミングウェイなのである。先ほどのLomwikiを参照してみよう。

Lomwiki, the micronation encyclopedia Republic of New Atlantis
http://www.listofmicronations.com/lomwiki/index.php/Republic_of_New_Atlantis

The Republic of New Atlantis was a micronation created by Leicester Hemingway (1 April 1915 - 13 September 1982), the younger brother and biographer of writer Ernest Hemingway.
As the location of what he would later describe as "the world's smallest political entity", Hemingway chose a site above a small seamount in what were then international waters, 12.87 kilometres southwest of Jamaica.
At the time of it's foundation, on 4 July 1964, the territorial pretensions of New Atlantis anticipated the future construction of a large, habitable man-made island; in practice they were limited to a 2.44 x 9.14 metre bamboo raft, which Hemingway anchored to the floor of the Carribean Sea with the aid of an old Ford engine block.
The project came to an abrupt end in 1966, when the raft was destroyed during a tropical storm.




この国家の名前となった"ニューアトランティス"は、17世紀にフランシス・ベーコンによって書かれた未完のユートピア小説のタイトルと同じであり、この小説では科学技術の発達したユートピア世界と理想の国家が描かれている。
また、"アトランティス"といえば、古代ギリシアの哲学者プラトンが記した、大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことである。この大陸は強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされている。

僅かな期間とはいえ実存した"アトランティス"は、大陸どころか国土面積が22平方メートルというワンルームマンション並のものであり、そしてあっけなく嵐で倒壊してしまった。伝説と現実の大きなギャップを感じる。やはり国家を担うには一個人の力だけでは到底手に負えないようだ。



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3年ほど前にウガンダを旅した。
ウガンダは東アフリカの内陸では珍しく水と緑が豊かな大地で、イギリスのチャーチル元首相がアフリカの真珠と称した国だ。チャーチルは、第2次世界大戦時にドイツ軍の攻撃に悩まされていて、一時的な首都の移転を検討し、その移転先がウガンダのカンパラだったそうだ。
私が旅したのは東部のムバレ、ビクトリア湖に近いジンジャ、首都カンパラなどだったが、ムバレ近郊のシピ滝、ジンジャ近郊のブジャガリ滝など水の豊富さを感じることができた。

さてウガンダの首都カンパラの外れに、世界遺産にも指定されている「カスビのブガンダ歴代国王の墓」(カスビ・トーム)がある。いや正確にはあったと言うべきだ。なぜならこの遺産は今年の3月に焼失してしまったからだ。

asahi.com ウガンダの世界遺産、カスビ王墓が全焼 放火の見方
http://www.asahi.com/international/update/0318/TKY201003180215.html

首都カンパラ郊外にある世界遺産「カスビのブガンダ王国歴代王の墓」が16日夜、火災で全焼した。ウガンダ当局が原因を捜査中だが、放火との見方が出ている。
カスビ王墓は、18~19世紀に栄えたブガンダ王国を統治した4人の王を埋葬している。1882年にムテサ1世が宮殿として建造した建物が、その死去後、墓として使われ始めた。直径31メートル、高さ7.5メートルの巨大な円錐形のかやぶき小屋のような外観が特徴。ウガンダが1962年に英国から独立した後も、ブガンダ王家の聖地として敬われ、2001年に世界遺産に登録された。
地元紙によると、16日午後8時半ごろ出火。れんがの壁部分だけを残して焼け落ちたという。再建の見通しは立っていない。出火直前、不審な人物や車両の出入りが目撃されているという。
王家の子孫であるブガンダ王家の現当主は「王国」の自治を政府に要求しているが、政府は「王家は伝統的、文化的な存在に過ぎない」と退け、両者は対立している。




国で唯一の世界遺産に登録された文化遺産の焼失、特にガンダ民族にとってこの墓所は伝統的な拠り所であり、このショックは計り知れないことだろう。

私はカンパラ市内から1時間以上歩き、最後に急な坂を上ってようやくここにたどり着いたのだが、その割にこの墓所は地味で、ちょっとがっかりしてしまった記憶がある。しかし焼失してしまったとなると話は別で、在りし日の姿を頭に思い浮かべながら、その歴史的な意義を再認識しなければならない。
ということでこの墓所に眠る国王たちの「ブガンダ国」について調べてみよう。

『世界飛び地領土研究会』 「消滅した国々」 ブガンダ王国
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/buganda.html

1300年ごろ 建国
1894年8月27日 イギリスの保護領となる
1961年1月1日 ブガンダがイギリスからの独立を宣言するが、実行されず
1962年10月9日 ウガンダがイギリスから独立。ブガンダはウガンダ内の王国として存続
1966年5月20日 ブガンダがウガンダからの独立を宣言
1966年5月24日 ブガンダ王の宮殿がウガンダ軍に占領され、王国消滅

ビクトリア湖とアルバート湖、エドワード湖などに囲まれたウガンダ一帯は、肥沃な土地が広がり古くから農耕民族が定住していたが、やがて西から牛牧民が侵入して先住民を征服し、ブニョロ王国やブガンダ王国、トロ王国、アンコーレ王国などが鼎立していった。これらの王国のうち当初はブニョロ王国が強大だったが、17世紀半ばを頂点に衰え始め、代わって台頭したのがブガンダ王国だった。

1884年から85年にかけて列強諸国がベルリン会議を開きアフリカの分割を決め、89年から90年にかけてイギリスとドイツでビクトリア湖を境にしたお互いの勢力圏を決めると、ウガンダへのイギリスの進出は再び盛んになってくる。この頃ブガンダではザンジバルなど沿海部からアラブ商人によってイスラム教がもたらされ、一方でヨーロッパ人宣教師によってキリスト教が広まってきた。ブガンダ王のムワンガ2世は、これら新しい宗教への改宗者を処刑するなどして弾圧していたが、イスラム教に改宗した兄弟たちに追放されてしまった。王座を追われたムワンガ2世に手を差し伸べたのがイギリスとフランスで、ムワンガ2世はキリスト教徒軍を率いて王位を回復し、ヨーロッパとの結びつきを深めることになった。
イギリスは当初、ウガンダもケニアと同じくイギリス東アフリカ会社に統治させようと、会社に遠征軍を派遣させた。遠征軍がまず到着したブガンダでは、ムワンガ2世は会社に従うことを受け入れたが、イスラム教徒が多いブニョロでは激しい抵抗を受けて征服できなかった。このため東アフリカ会社では「軍事支出がかさんで採算に合わない」と撤退し、イギリス政府が保護領にして従来の王国(土侯国)を残したまま統治するように泣きついた。こうしてイギリスは仕方なく1894年にブガンダ王国を保護領にした。
ムワンガ2世の息子のダウディ・クワ2世は、抵抗を続けるブニョロ征伐に協力してイギリスとの関係を固め、1900年には総理、大蔵、法務の3大臣からなる行政府と立法議会を開設して、近代的な統治システムを確立し、ブガンダは諸王国の中でも特別な存在となった。



1953年、イギリス本国の植民地相が東アフリカ連邦(ウガンダ、ケニア、タンガニーカ)結成の可能性をほのめかすと、「白人支配の連邦を作られてはたまらない」と黒人たちは猛反発。ブガンダでは単独での独立を求める声が高まり、時のブガンダ王のムテサ2世(写真)は、イギリスのウガンダ総督に対して「ブガンダ独立と、そのスケジュールを明らかにしてくれ」と要求したところ、総督はムテサ2世を逮捕してロンドンへ送ってしまった。
このムテサ2世の帰還要求という形で独立運動が盛んになり、イギリスは仕方なく2年後にムテサ2世をブガンダへ送り返し、独立へ向けた交渉が始まったが、すっかり自信を深めたブガンダ王国は王国存続のためにあれこれ画策し始めた。そして1961年1月にブガンダ王国はイギリスから単独で独立すると宣言した。

もっとも、歳入の約半分をイギリスからの交付金に頼っていたブガンダ王国は本気で独立するつもりはなかったようで、「独立日」の1月1日になっても何も起きずじまい。しかしブガンダの強硬姿勢は十分伝わって、ウガンダを連邦制としブガンダ王国は連邦構成国、ブニョロなど他の3王国を準構成国とすることなどの条件で、1962年10月9日にイギリスからウガンダ(連邦)が独立することが決まった。

独立後のウガンダ(連邦)では、ムテサ2世が象徴的な大統領となり、ブガンダ以外を地盤とするウガンダ人民連合(UPU)のオボデが首相となった。連邦と王国の共存はスムーズにいったかと思ったが、ブガンダ王国とブニョロ王国の対立が表面化した。その後1966年2月の連邦議会で「金や象牙の密輸に関与している」という指摘をされたオボテ首相は、憲法を停止し、大統領の権限を強化した暫定憲法をつくって自ら大統領に就任してしまった。
これに対しブガンダ議会は5月20日、「ウガンダ連邦政府は10日以内にブガンダ王国から立ち去ること」と、事実上の独立宣言をした。もっともウガンダ(連邦)の首都カンパラはブガンダ王国にあるわけで、首都から立ち退くことは無理があり、これは1961年のイギリスからの独立宣言と同じでポーズということだったようだ。
しかし5日後にアミン大佐(のちの大統領)に率いられた部隊がブガンダの宮殿を急襲して占領し、ムテサ2世はイギリスへ亡命、ブガンダ王国は崩壊した。

他の3王国も1967年に廃止され、単一共和国となったウガンダでは1971年にアミン少将(大佐から昇進していた)がクーデターを起こしてオボデを追放し、その後「食人大統領」として世界に名を馳せた恐怖政治を敷いた。

その後1993年にはブガンダやその他3王国の王(の後継者)たちが「伝統的もしくは文化的リーダー」として復権したが、王国の復活ではなく、王たちはある種の特権が認められたものの、行政や立法、地方自治体などの権限はなく政治活動も禁止されている。


植民地からの独立の動きと他民族国家の民族間紛争が深く噛合って何とも複雑だ。しかし、全く民主的でない政治的手法はほめられたものではない。
「カスビのブガンダ王国歴代王の墓」は、上記の解説には出てこなかったムテサ1世のわらぶき屋根の宮殿(1882年建立)がそのまま墓所となったもので、ここにムワンガ2世、ダウディ・クワ2世、ムテサ2世も葬られている。
ここまで見てみると、冒頭の墓所の焼失の記事にある、王国の自治を要求するブガンダ王家の子孫と、「王家は伝統的、文化的な存在に過ぎない」とう政府の対立も理解できるようになる。墓所の焼失の真相はまだ明らかではないので、放火と断定する気はないが、いずれにしても世の中の事象を理解するためにはその経緯を充分に理解しなければならないことを改めて感じる。



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ここのところ日本の内閣総理大臣は毎年9月に代わっている。安倍、福田、麻生とも在任は約1年だった。
日本の歴代内閣総理大臣で在任期間が最短なのは第43代内閣総理大臣・東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)で、1945年8月17日から1945年10月9日までの54日間だ。その間に9月2日のポツダム宣言調印をはじめ、武装解除・軍部解体、民主化など、敗戦処理全般を主たる任務としてこなしたが、10月4日にGHQから「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」を突き付けられ、窮した内閣は翌日総辞職したそうだ。短いとはいえとても波乱に満ちた在任期間だったということができる。

さて、国家元首の在任期間の短さを調べてみると、「20分」という全く比較にならないような記録がでてきた。ポルトガル王国ブラガンサ公のルイス・フィリペだ。

ルイス・フィリペ (ブラガンサ公)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%9A_(%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B5%E5%85%AC)

ルイス・フィリペ (Infante Luís Filipe、1887年3月21日 - 1908年2月1日、在位1908年2月1日のうち約20分) はポルトガル・ブラガンサ朝の国王。
1908年2月1日、ルイス・フィリペは父王カルルシュ1世や他の王族とともに馬車でコメルシオ広場付近を通りかかった時に急進的共和主義者の民衆により襲撃され、カルルシュ1世は即死した。この時点で王位は長男であるルイス・フィリペが継承したことになるが、彼もまた襲撃された際に重傷を負い、約20分後に死亡した。すなわちこの、襲撃され負傷してから死亡するまでの約20分間が、ルイス・フィリペが王位に就いていた期間であり、2009年時点で世界一王位に在位していた時間の短い国王である。
なお、在位期間が20分間と短い上、状況が状況であったために正式な即位式を経たわけでもないので、ルイス・フィリペを短時間ながら国王であったと見るか、王太子であり即位する前に殺害されたと見るか、意見は分かれるところである。一般には短いながら国王と見る論が有力であり、『ギネス・ブック』にも「もっとも即位していた時間が短い王」として記録されている。


ポルトガルは、古代にはローマ帝国の支配をうけ、中世にはゴート人、イスラム勢力の支配を受け、そして12 世紀にポルトガル王国が成立した。
その後15世紀末にヴァスコ・ダ・ガマによってインド航路が開かれ、ブラジルなど海外の植民地を獲得して隆盛を極めた。また日本へも進出するなど東方貿易でも大いに繁栄した。
1640年に、それまで3代にわたってスペイン・ハプスブルク家の王がポルトガル王を兼ねたいたことに対する反乱(リスボン蜂起)が起き、そこからポルトガルを統治するようになったのがブラガンサ王朝である。
ブラガンサ王朝は、ナポレオン戦争(19世紀初頭)、ブラジルの独立(1822年)、ポルトガル内戦(1828~1834年)などで動揺し、その後19世紀後半の産業革命によって台頭したブルジョアジーの間に共和主義が台頭し、1910年10月5日革命によって王制は打倒され、ポルトガルは共和国となった。

尚、ブラガンサ王朝の最後の王(即ちポルトガル最後の国王)であるマヌエル2世は、ルイス・フィリペの弟である。マヌエル2世もまた1908年の父と兄の襲撃事件の時に負傷していた。18歳で即位したマヌエル2世は、崩壊に向かうブラガンサ王家を独裁者ジョアン・フランコの内閣から守ろうと努めたが、最後は共和主義者のデモの前に屈する形となった。

270年あまりにもわたった長い王政の末に、瀕死の状態で20分だけ即位して生涯を終えた兄と、その後を受け王朝の最期を看取った弟のことを考えると何とも悲しい。数奇な運命のもとでポルトガル史に名を刻んだ兄弟に栄光あれ。

ちなみに、このルイス・フィリペの全名は、Luís Filipe Maria Carlos Amélio Fernando Victor Manuel António Lourenço Miguel Rafael Gabriel Gonzaga Xavier Francisco de Assis Bento de Bragança Saxe-Coburgo-Gotha (イス・フィリペ・マリア・カルルシュ・アメリオ・フェルナンド・ビクトル・マヌエル・アントニオ・ロレンソ・ミゲル・ラファエル・ガブリエル・ゴンザガ・シャビエル・フランシスコ・デ・アシス・ベント・デ・ブラガンサ・サクス=コブルゴ=ゴータ) というそうだ。とても20分では覚えられない。何かと話題の多い国王だ。



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国王というと、一般的なイメージはルイ14世だったりエリザベス女王だったりすると思われる。現在では立憲君主制を採用する国が多いので、国王の役割は儀礼的なものとなってきているが、外交や公式・非公式な場での発言などによる政治的な影響力は依然として大きい。
現在世界には多くの国王が君臨されているが、そのお顔を以下のサイトで拝むことができる。

王国リンク 国王写真館
http://gebokusan.hp.infoseek.co.jp/portrait/portrait1.html

この中でただ一人ダントツで若いのがブータンのジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク Jigme Khesar Namgyal Wangchuck 国王だ。

ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%B0%E3%83%9F%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%AF

第4代国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクと第3王妃との間の長男として誕生。ブータンで基本的な教育を受けた後、アメリカ・マサチューセッツのフィリップス・アカデミー、クッシング・アカデミー、ウィートン・カレッジに学び、イギリス・オックスフォード大学のモードリン・カレッジにも留学しており、同大より政治学修士号を取得している。インドへの留学経験も持つ。2006年12月14日に新国王として即位、2008年11月6日に戴冠式が行われた。

ブータンの王子として、2006年6月にタイのバンコクを訪問。プミポン国王の在位60周年式典に25ヶ国の王族と共に出席。独身であり、端正な容姿と気さくな振舞いでタイ女性の間で大人気となり、彼が去った後もタイの新聞社は、数週間に渡って「理想の男性」と呼び、彼に関する毎日の話題と写真とブータンの観光に関する記事を掲載した。また、タイでは彼の写真集も発売されている。

ブータン館 国王譲位関係ニュース
http://bhutan.fan-site.net/news.s.htm

2005年に26歳で即位して、現在28歳。実は明日21日が誕生日だ。

2008年11月の戴冠式の映像がYou Tubeに投稿されている。





国を挙げてのお祭りムードが伝わってきていい感じだ。警備らしい警備も見当たらず、国王と民衆が一緒に過ごしてるのがいい。
棒の上から相手を水の中に落とすゲーム(ボカボカドボン?)が国家の公式催事の席で行われているのは素朴すぎる。(他の動画でも出てきていた)

ちなみにジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王の父親であるジグミ・シンゲ・ワンチュク前国王も1972年に16歳という若さで即位した。
1989年に昭和天皇の大喪の礼参列のため、民族衣装「ゴ」の礼服姿で来日している。その際に、多くの首脳が日本から経済協力支援を得るため葬儀前後に日本政府との会合、即ち「葬儀外交」を行っのに対し、ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王は一切の「葬儀外交」を行わず、大喪の礼のみを行って帰国した。新聞記者がその理由を国王に尋ねると、国王は「日本国天皇への弔意を示しに来たのであって、日本に金を無心しに来たのではありません」と答えたという。
また、国民総生産のように金銭的・物質的豊かさを目指すのではなく、精神的な豊かさ、つまり幸福を目指すべきだとする考えから「国民総幸福量」(Gross National Happiness)という概念を提唱したそうだ。

さて、日本の江戸時代の情景に近いと言われるブータンだが、外国人観光客の入国を制限しており、バックパッカーとしての入国は原則として不可能だ。必ず旅行会社を通し、旅行代金として入国1日につき200米ドル以上(交通費、宿泊代、食事代、ガイド代を含む)を前払いしないとビザが下りず、またガイドが同行する必要がある。
従って私はこの先当分はブータンを旅することはなさそうだが、(自分で言うのも変だが) バックパッカーが溢れてブータンらしさが損なわれるよりいいだろう。
いつかブータンを旅することがなった際にはもう一度このブログと動画を見てみよう。



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先月ラオスを旅した。旅行中にバンコクの空港占拠が起きてビエンチャン→バンコクのフライトが欠航となった。そのためにラオスからの別の国(ベトナム、中国、カンボジアなど)へのフライトも完全に埋まってしまい八方塞がりになったが、バンコク→成田をシンガポール→成田に変更した上で、ビエンチャンからハノイまでバスで24時間かけて移動し、ハノイ→シンガポール→成田のルートで帰国した。2日ほど帰国が遅れまた余計な航空費用が発生したが、その分印象深い旅となった。

ラオスは内陸国で、近隣国と比べて目立った観光資源があるわけではないのだが、とても素朴でのんびりと過ごせる国だ。食事が美味しいのがうれしい。

さて、ラオスの主な建築物をラオスの歴史と絡めながらおさらいしてみよう。

ラオスの歴史が比較的わかってくるのは14世紀にラーンサーン(「百万頭の象」の意味)王国を建国したラーオ族が登場してからだそうだ。
ラーオ族はメコン川流域に定住したタイ系民族の一派で、「ムアン」と呼ばれる政治的なまとまりを作った。
1353年、ファーグム王がそのような諸ムアンをひとつにまとめラーンサーン王国を建国した。ファーグム王は現在のルアンプラバーンを都に定め、現在のラオスだけでなく東北タイにも版図を広げ、上座部仏教を王国統治の原理として導入した。
その後16世紀のセーターティラート王の時代に勢力がもっとも伸張した。セーターティラート王がルアンプラバーンで建立した寺院がワットシェントーンである。



またセーターティラート王は1560年にビルマの侵攻を避けるためにビエンチャンに遷都した。その際に王国の守護寺院としてタートルアンが造営された。



その後17世紀のスリニャウォンサー王の時に王国は仏教・芸術の最盛期を迎えた。
しかしスリニャウォンサー王の死後王国は、ビエンチャン王国とルアンプラバーン王国とチャムパーサック王国に分裂した。18世紀にベトナムやシャム(タイ)などの近隣王朝が勢力を増す中でラーオ族の3王国は勢力を弱め、1770年代末には全てシャムの属国或いは朝貢国として支配下におかれた。
その後ビエンチャン王国のアヌ王はシャムに反旗を翻したもののシャム軍の前に敗れ、ビエンチャン王家は廃絶された。

19世紀後半にカンボジアとベトナムを植民地化したフランスは、1893年にシャムとの間で条約を締結し、メコン川以東の現在のラオスとほぼ同じ領域をフランス植民地「ラオス」とした。
フランスはルアンプラバーン王国を保護国として王国の体制を存続させたが、国王には統治上の権限はなかった。
その傀儡国王の家族のために1909年に建立された王宮が現在ルアンプラバーン国立博物館となっている。



このルアンプラバーン国立博物館はなかなか見ごたえがあった。そしてこの並木を見た時にふと思い出したのはホッベマの「ミッデルハルニスの並木道」だ。



両者に全然関係はないが、せっかくなので次回はホッベマについて調べてみよう。



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人口統計や人口に関する諸問題に強い関心がある。
不定期に人口に関する話題や、派生する問題についても調べてみようと思う。

世界の人口
http://www.arkot.com/jinkou/index.htm#suii

このサイトによると、世界の人口は現在67億人を超えているそうだ。1900年には20億人、1960年には30億人だったようなので極めて著しい増加だ。日本は少子化・高齢化で人口減が大きな問題になっているが、世界や人類の観点からは人口増加に伴う問題の方が深刻だ。


さて、今回は人口の増加の問題ではなく、世界で最も人口の少ない国であるツバルについて調べてみた。

ツバル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%90%E3%83%AB

国名は、ツバル語で「8つの島」を意味する。これは、1978年にイギリスから独立した時にツバルで人が住める島が8つだったことに由来する。この国名には8つの島の人達が協力して国を作っていこうという意味が込められており、現地語でTUは「立ち上がる」、VALUは「8」の意味である。また、国旗のデザインにも表されている。

ツバルに人類が到達したのは紀元前のことと考えられる。トンガやサモアなど西ポリネシアから航海カヌーでやってきたポリネシア人(あるいはラピタ人)がこの島々の最初の居住者である。ヨーロッパ人が訪れたのは、1568年にスペインから来たアルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラ が最初である。植民は行われなかったが、奴隷貿易業者や捕鯨船員などがしばしば訪れていた。

ツバルは、1892年にエリス諸島という名前で、イギリスの保護領のギルバートおよびエリス諸島の一部になった。1915年にイギリスの植民地ギルバート・エリスとなった。1974年に、植民地内の人種の違いから、ポリネシア人の多いエリス諸島はミクロネシア人の多いギルバート諸島(後のキリバス)との分離を投票で決めた。そしてエリス諸島は、ツバルという名でイギリスの植民地として分離した。

1978年10月1日にはイギリス連邦の一員として独立が認められた。 1987年には国際連合の最貧国リストに掲載された。



そしてツバルは温暖化による海面上昇により沈没の危機にあることでよく知られている。このあたりは、特定非営利活動法人Tuvalu Overviewのサイトを参照してみたい。

Tuvalu Overview
http://www.tuvalu-overview.tv/

写真を見るととても美しい島々だ。人々の表情も輝いている。
アクセスが悪くなったようだが、そうなるとますます訪問してみたくなる。今後の旅先候補リストに加えておこう。
ただ、それよりもまずはツバルの問題をより理解して、我々に何ができるかを考えるべきだ。
Tuvalu Overviewの遠藤氏の講演が不定期に行われているようなので(明日11月16日にも行われる)ので、まずはこれに足を運ぶことから始めよう。



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さて、ベネズエラの現在の指導者といえばウゴ・チャベスだ。
日本ではあまり報道されないが、世界的にはとても有名な指導者なので、その生い立ちや政策について調べてみた。

ウゴ・チャベス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%99%E3%82%B9

教師だった両親がそれぞれムラートとメスティソのため、先住民インディオ、アフリカ、旧宗主国スペインの血を引いている。敬虔なカトリック信者である。1男3女の父親で大の野球好き。先妻のマリサベル・ロドリゲス夫人とは離婚したため、現在は独身。ロドリゲス前夫人によれば、「夫として、父親として何の良い面も無かった」と述べている。現在、ロドリゲス前夫人は、反チャベス運動を主導している。

軍隊時代は落下傘部隊中佐で、1989年2月17日に、カラカスでの貧困層の人民蜂起(カラカス暴動)に陸軍が出動し、蜂起者に発砲して多数の死傷者を出したことに衝撃をうけ、1992年にクーデターを試みたが、失敗し投獄された。しかし、降伏の際に行ったテレビでの会見が多くの国民に強い印象を与え、後に釈放されてからは1980年代以降推進された新自由主義経済改革と、民主行動党とキリスト教社会党の二大政党制、富裕層や労働組合幹部に独占されていた医療や福祉に不満をもつ貧困層の圧倒的支持を受け1999年に大統領に選ばれる。

大統領就任後、チャベス政権はボリーバル憲法と呼ばれる新憲法を制定し、国名をベネズエラ共和国からベネズエラ・ボリバル共和国に変更、大統領権限の強化、一院制への移行などを行った。貧困層のための無料診療制度をととのえ、キューバから2万人の医師・歯科医師の派遣を受けたり、農場主の土地を収用して農民に分配するなどの農地改革や、為替管理や統制価格の導入、石油公団への統制強化など、反米・社会主義路線を明確にした。これをチャベスはシモン・ボリバルにちなんで「ボリーバル革命」と呼ぶ。

チャベス政権の経済政策への不満、富裕層が支配するマスメディアの反チャベス報道によって、中産階級や富裕層を基盤とする民主行動党とコペイ=キリスト教社会党勢力や、チャベス当選時には与党連合の一角を占めていたかつての左翼政党「社会主義運動党」、市民団体、労働組合などの間で不満が高まっていった。その結果2001年ごろから反政府運動が激化し、国内各地でストライキや石油公団におけるサボタージュや施設の破壊行為が発生するようになった。

国内での支持は貧困層を中心に根強い。なお本人は大統領就任から貧困の撲滅を掲げているが、ベネズエラの貧困層の割合はチャベスが就任して以来減少していないという見方もある。

アメリカ合衆国に対してはきわめて批判的立場で9・11テロ後に「テロとの戦いは支援するがあらゆる方法が容認されるものではない」としてアメリカのアフガニスタン侵攻を非難した。

2006年9月20日、国連総会にて行われた一般演説において、アメリカ批判論者のノーム・チョムスキーの著書を読むよう勧めた上で、ブッシュ大統領を「悪魔」と呼んで、アメリカを批判した。これに対しボルトン米国連大使は「我々にはほかに仕事がある。コメントする問題ではない」との反応を示したが、会場においてはチャベスの演説に対して主としていわゆる「ならず者国家」からの拍手喝采が起こった。

その一方で、世界各国の首脳と外交関係を深めている。キューバのフィデル・カストロ議長とは師弟関係さながらの関係を築いているほか、ブラジルをはじめとしたラテンアメリカ諸国とも積極的に関係を進めており、2006年にはベネズエラのメルコスール入りも果たした。また、最近はイランや中華人民共和国などのアメリカと外交的に対立している国や、ベラルーシなどの遠方の国との外交も強化している。



この国連総会での演説というのは以下のものだ。
Chavez calls Bush "The Devil". UN Applauds


いきなり国連総会の演説で個人批判をしたらさすがに世界的なニュースになることは間違いない。
ついでに調べると、日本の代表が国際連合で行ってきた演説は以下のようなもので、いくつか見てみたが、極めてまっとうなことを言っている。まぁそれが普通だと思う。

外務省 国連の場における演説
http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/press/enzetsu/e_un.html

私は政治・宗教・文化には中立な立場でありのままを受け入れることを決めているので、チャベスの政策や思考についてコメントする気はないが、私を含めて世界の多くの人にとって国名と指導者名が一致している事実は評価する。
だが、前夫人が「夫として、父親として何の良い面もなかった」という述べ、反チャペス運動を主導しているという点がチャベスの人物像を表しているようだ。



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南米エクアドルとベネズエラを旅した。最大の目的地はエンジェル・フォールだ。
ベネズエラの首都カラカスから夜行バスでシウダー・ボリーバルへ行き(8時間)、そこからセスナでカナイマへ飛び(1時間)、さらにボート(計4時間)、ジャングルの徒歩(1時間)と、とにかくたどり着くのが大変だったが、落差979mの滝の雄大な姿は言葉では表現しきれない。

さて、南米のアンデス諸国を旅した際に必ず耳にする人物はシモン・ボリーバルだ。
例えば、ボリビアの国名はシモン・ボリーバルの名が由来だし、ベネズエラは多くの街の中心はボリーバル広場だし、カラカスの空港はシモン・ボリーバル空港だ。
またベネズエラは通過もボリーバル(Bs.)で、そもそもベネズエラの正式国名は1999年から「ベネズエラ・ボリバル共和国」に改称されている。

いい機会なので、改めて解放者シモン・ボリーバルについて調べてみた。

シモン・ボリーバル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%AB

*** Simon Bolivar ***
http://www2.gol.com/users/mikiyo/venezuela/simon/simon.htm

彼は1783年、カラカスの裕福な貴族の家に生まれた.両親を早くに無くしたが乳母のイポンテ、家庭教師のシモン・ロドリゲスの深い愛情によって育てられた.15歳の時に軍に入り少尉となる.

その後、学問の為にスペインにわたり、後に妻となるマリア・テレサ・ロドリゲスと出会う. 1802年にフランスへ渡り啓蒙思想に心酔.その後、再びスペインに戻りマリア・テレサと結婚する.しかし、幸せは長く続かなかった.

1年後に最愛の妻が死亡.本人の告白によればこの妻は死が転機となり、祖国解放の独立運動に身を投げることになったという.

1806年、ミランダ将軍のベネズエラ独立運動が失敗しかけているときにベネズエラに戻る.この時より、シモン・ボリバルを核とする運動が開始されることとなった.一度は国外追放になったものの、1811年7月5日にベネズエラの独立宣言が行われ、これより中南米の独立戦争が本格化していった.しかし、諸州の戦いで解放軍はスペイン軍に敗れ、一時キューバへ避難することを余儀なくされる.

ボリバルはその後コロンビアに赴き、自ら剣を取りヌエバ・グラナダ独立政府を築いた.この間ベネズエラはまだスペインの手中にあったが、1813年ヌエバ・グラナダよりベネズエラ侵攻を開始し、同年8月カラカスに入り、ベネズエラ共和国復活を宣言し、大統領に任じられた.

1815年、スペインはヌエバ・グラナダ鎮圧の為軍隊を派遣、ボリバルの軍隊は敗れ、暫くの間ハイチ等で身を潜めて計画を練り直すことになる.

1819年、再度コロンビアに赴いたボリバルは8月のボヤカの戦いでスペイン軍を破り、同年12月スペイン軍との講和後自らの提唱でエクアドル、コロンビア、ベネズエラが合併して出来たグラン・コロンビア共和国を樹立した.

その後、ベネズエラに引き返し、1821年カラボボの戦いで勝利を収めベネズエラの自由を決定的なものにした。翌年ボンボナの戦いにも勝利. 一方、ボリバルの部下のスクレも1822年エクアドルで自由を勝ち取った.

その後、ボリバルはペルーを独立に導いたパンパの戦い、アヤクーチョの戦いでも勝利した.しかし後年彼は部下達の裏切りに合う事になる. 広大なグラン・コロンビアは各国の政治家の利害対立の場と化してしまった.

この頃から胸の病いかかり、結局失意の内にコロンビアのサンタ・マルタでシモン・ボリバルは1830年に他界した.享年47歳.彼の遺骸は12年後の 1842年に故郷のベネズエラに戻ることになり、現在国立霊廟(パンテオン・ナシオナル)に眠っている.



シモン・ボリーバルがすごいのは、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビアという複数の国の解放者であることだ。しかもコロンビアから独立したパナマを加えると6ヶ国に及ぶ。
Wikipediaで「国民の父」を調べてみると、世界各国で「祖国の父」「建国の父」「独立の父」などと呼ばれている人物の一覧が出てくる。(これはすごい)

国民の父
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%81%AE%E7%88%B6

ここで見ても複数の国の「国民の父」というのはいないようだ。ここまでの偉人なら通りの名前はもちろん、2つの国の国名になっても全くおかしくはない。
しかし通貨まで「ボリーバル」にしてしまうのはどうか。事実として「ボリーバル弱含み」「ボリーバル、デノミ実施(2008/1/1)」では、偉大な解放者が浮かばれない。




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アフガニスタンには行ったことがない。バーミヤン渓谷の古代遺跡群が爆破されてしまったのは極めて遺憾だが、他にもジャームのミナレットなど見どころが多い国だ。昔は物価も安くバックパッカー天国だったそうだが、さすがに今無理に渡航しようとは思わない。
だが、リビアですら「地球の歩き方」が出版されるようになったのだから、何十年かすればアフガニスタンをふつうに旅することができる日がくるかもしれない。

ところで、アフガニスタンには「ブズカシ」(Buzkashi)というスポーツがあるそうだ。

ブズカシ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%82%BA%E3%82%AB%E3%82%B7

ブズカシは2組の騎馬隊がヤギをボール代わりにして奪い合う競技で、アフガニスタンの国技である。ペルシャ語で「ヤギを引きずる」という意味である。

もともと、生きたヤギを引き回していたが、後にヤギの皮に砂を詰め、使うようになった。

アフガニスタンは多民族国家であり、チームは民族ごとに編成される。誇りをかけての熱戦は、スポーツを禁止したタリバンの台頭や内戦により、現在では風前の灯火になってしまった。

かつてアフガニスタンでは紙幣(1979年から発行の1,000アフガニ紙幣)にも競技の様子が描かれていた。


「もともとは生きたヤギを引き回していたが」というのはすごすぎる。
更に検索してみると、ブズカシの様子を写真で示した記事があった。

AFPBB News 「ヤギをボール代わりにするスポーツ アフガニスタン国技のブズカシ」
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2341717/2560811

さらに動画を探してみると、競技の様子が出てきた。



ヤギの関連はいまひとつわからないが、全体像は少しイメージが沸いてきた。いかにも騎馬民族らしい伝統行事と言えるだろう。世の中にはいろいろな伝統や文化があり、その多様性をありのままに楽しみたい。いつの日かアフガニスタンを旅してブスカシを観る機会を持てるよう同国が復興することを望む。

ところで、この記事は当初「知らないスポーツ」として調べ始めたのだが、全く違う内容になってしまった。。。



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先日ふとブログを開設することを思いついた。日常的にいろいろな調べごとをしているので、それをブログに残せば少しでも形式的・体系的なものになるし、自分の中でも後で参照できる。ということで、いくつかのブログサービスを比較した上で、今日からはじめることにした。
今日5月6日に開始したことには全く意味はない。しかしせっかくなので5月6日について調べたところ、「1889年 - パリ万国博覧会開幕。321mのエッフェル塔が公開される」という記事があったので、まずはエッフェル塔について調べてみよう。

エッフェル塔
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E5%A1%94

フランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造されるべくコンペティションが開かれた。ここで、ギュスターヴ・エッフェルほか2者の案が採用になった。設計者がステファン・ソーヴェストル、モーリス・ケクランとされたり、エッフェルは工事を請け負ったにすぎないとされたりするが、当時ソーヴェストルとケクランは、2者ともエッフェル社の社員で、エッフェルとともにコンペに参加していた。最終的にはエッフェルが著作権者となり、この塔の名前の由来になった。

1886年6月3日、コンペティション最優秀作品として委員会が選んだのは3案あり、フェルディナン・デュテルとジャン・カミーユ・ルミジュの作品(美術館など)と、エッフェル、ソーヴエストル、ケクランらの設計図であった。満場一致の採択であり、講評は「1889年の万国博覧階用に建てられる塔は決定的な特徴をもち、金属産業の独創的傑作として出硯しなければならない。この目的に十分かなうのはエッフェル塔のみと思われる」であった。こうしてエッフェル塔建設が始まる。

建設は万博に間に合わせるため、2年2ヶ月という驚異的な速さで行われたが、1人の死者も出さなかった。

建設当時の高さは312.3m(旗部を含む)で、現在は放送用アンテナが設置されたため、324mとなっている。展望台は3つあり、高さは57.6m、115.7m、276.1mである。第2展望台までは階段でも昇ることが可能。水圧エレベーターなど、当時の基本構造は今でも現役で稼動している。鋼製ではなく錬鉄製の塔である。塔の支点の下には水平に保つためのジャッキがある。

あまりに奇抜な外見のため、建設当時は賛否両論に分かれた。反対派の文学者ギ・ド・モーパッサンは、エッフェル塔1階のレストランによく通ったが、その理由として「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と言っている。ここから、「エッフェル塔の嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」ということわざも生まれた。

なお万博後には来訪者も減ったことや、当初の契約から1909年には解体されようとしていたが、のちに軍事用の無線電波をエッフェル塔から送信することになり、そのため国防上重要な建築物ということで、現在に至るまで残っている。

現在ではパリを代表するシンボルとなっている。1991年この塔を含むパリのセーヌ川周辺は世界遺産として登録された。

いつの時代も斬新なもの、奇抜なものというのはすぐには受け入れられないようだ。予定どおり解体されていたらこの100年のパリはどうなっていただろうか。

ちなみにエッフェル塔(だけではなく世界各地の建築物)のペーパークラフトを見つけた。
http://cp.c-ij.com/japan/papercraft/building/eiffel_day_night.html



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