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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 



 

昨年2023年は高層ビルに関してさまざまな出来事があった。

まず新しい高層ビルとして東京都港区に「麻布台ヒルズ森JPタワー」 (325m) が竣工したことが挙げられる。2014年に開業した「あべのハルカス」 (300m) を抜いて日本一の高層ビルの座に就いた。
この先には2028年に東京都千代田区大手町に「Torch Tower」 (385m) が計画されており、竣工すれば日本一の座につくことになる。このビルは2023年に解体された「朝日生命大手町ビル」 (119.65m、1971年竣工) の跡地に建設されるものだ。いよいよ東京タワー (333m) を超える高層ビルが完成することになる。

一方で、浜松町駅周辺の再開発に伴い、「世界貿易センタービルディング」 (162.59m) が解体されたことも2023年の大きなニュースだ。

「世界貿易センタービルディング」 は1970年に竣工した時に、「霞が関ビルディング」 (156m) を抜いて日本一の座に立ったビルである。50年以上が経ち、そのような高層ビルが解体される時代となったといえよう。
とはいえ、100m超ビル第1号の「霞が関ビルディング」はまだまだ色あせていない。

estie マガジン 霞が関ビルディングはなぜ50年も愛され続けるのか?建物の構造に迫る!
https://www.estie.jp/products/finder/magazine/article/kasumigaseki-building

霞が関ビルディングは、フロア中央にエレベーターを置き、回遊性の高い構造にすることでオフィスのレイアウトを時代のトレンドに合わせて柔軟に変更することが可能になっています。この構造は対面のコミュニケーションが重要視される今の時代にもピッタリな空間です。また、IT化などが進む時代に合わせ、総工費約470億円を投じて3度の大規模改修を施し、最新の設備にリニューアルしています。他にも、最新のBCP(事業継続計画)を備えたり、シェアオフィス「ワークスタイリング」を展開したりするなど、まさに三井不動産グループが企業思想として大切にしている「経年優化」を象徴するような建物と言えます。
時代に合わせた改良を積み重ねることで、様々な高層ビルが建ち並ぶ今でも、高層ビルのパイオニアとして存在感を示しているのです。

さて、「世界貿易センタービルディング」 や「霞が関ビルディング」を含めて、第二次世界大戦後の日本の最も高い建築物の変遷は以下のようになる。
 ホテルニューオータニ ザ・メイン (72.1m) 1964年-1965年
 ホテルエンパイア (93m) 1965年-1968年
 霞が関ビルディング (156m) 1968年-1970年
 世界貿易センタービル (162.59m) 1970年-1971年
 京王プラザホテル本館 (179.55m) 1971年-1974年
 新宿住友ビルディング (211.381m) 1974年
 新宿三井ビルディング (223.6m) 1974年-1978年
 サンシャイン60 (239.7m) 1978年-1991年
 東京都庁第一本庁舎 (243.4m) 1991年-1993年
 横浜ランドマークタワー (296.33m) 1993年-2014年
 あべのハルカス (300m) 2014年-2023年
 麻布台ヒルズ森JPタワー (325.40m) 2023年-

このように「霞が関ビルディング」が1968年に竣工する前に日本一の高さだったのは、横浜市戸塚区の「ホテルエンパイア」 (93m) である。 

ホテルエンパイア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%A2

遊園地の横浜ドリームランドに併設される形で1965年3月28日に開業し、1995年に閉鎖された。
当初は「ホテルドリーム」の仮称で計画され、大林組により1964年4月に着工し1965年3月に竣工した。霞が関ビルディングに先駆けて建設省の高層建築物構造審査会の審査に合格した日本初の超高層ビルとして10億450万円の建設費を投じ、完成当時は地下2階地上21階、高さは建物部の軒高が77.7m、尖塔と避雷針を含めて93mであり、工事期間は僅か1年という突貫工事だった。
1995年に廃業・閉鎖されてから2005年に至るまでの10年間は、誰も手をつけることなく、廃墟と化していた。閉業当時は撤去する予定であったようだが、一年という短い期間での突貫工事の影響なども有り、アスベストが大量に使用されていたため、撤去費用が膨大なものになるというもので結局解体は行われず現在に至る。
その後、紆余曲折を経てドリームランド跡地を買収した都築第一学園が、2005年に改装工事に着手し、同学園が2006年に開校した横浜薬科大学の図書館棟になった。

建築基準法が改正されて高さ規制が廃止されたのは1963年であり、それを受けて建築された「ホテルエンパイア」は元祖超高層ビルと呼ぶことができる。 
横浜ドリームランドやモノレールについては、いろいろと取り上げられているのでここでは触れないが、元日本一高層ビルの「ホテルエンパイア」が廃墟扱いされていたことは非常に残念であった。
この「ホテルエンパイア」改め「横浜薬科大学の図書館棟」にも2023年に動きがあった。

カナロコ by 神奈川新聞 地域のシンボル、これからも 横浜薬科大・図書館リノベーション
https://www.kanaloco.jp/pr/hamayaku20231011

横浜薬科大学にそびえる図書館棟のリノベーション工事が9月末に完了した。2002年に閉園した遊園地「横浜ドリームランド」の宿泊施設を大規模に改装し、2006年に図書館として生まれ変わった高層建築で、3年を費やした今回のリノベーションにより、さらなる長寿命化が図られた。
横浜市戸塚区の國本直哉区長は「横浜ドリームランド時代から地域の方々に親しまれ、シンボルとなっている図書館棟を、これからも戸塚のシンボルとして学生、区民の皆さんと大切にしていっていただきたいと思います」と話す。

富士山、横浜、みなとみらい、江ノ島など等が一望できる「横浜薬科大学の図書館棟」は、1965年の竣工からまもなく60年となるが、これからも高台から戸塚の街を見守っていてほしい。

 



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市町村の人口ランキングが変化するのは当然だか、市町村の面積ランキングも変動がある。合併・編入などに伴うものだ。
日本一面積の大きな市町村は1955年以降長く北海道足寄町 (1408.04平方キロ) であったが、いわゆる「平成の大合併」により、2005年2月1日に岐阜県高山市 (2177.61平方キロ) がトップとなった。静岡県浜松市、栃木県日光市なども大規模な合併が行われ、北海道足寄町は面積は不変だが現在では6位まで下がっている。

一方で、日本一面積の小さな市町村は、2006年3月27日以降現在まで富山県舟橋村 (3.47平方キロ) である。これはそれまで最小だった岐阜県墨俣町 (3.39平方キロ) が岐阜県大垣市に編入されたことによるものだ。その岐阜県墨俣町は、高知県赤岡町 (1.64平方キロ) が2006年3月1日に高知県香南市に編入されて1位になったもので、1位だった期間は1ヵ月未満だった。

高山市はもともとは約139平方キロの市だったが、近隣の9町村を編入して一気に面積が約15倍となった。
この市町村合併の経緯が高山市のホームページに残されている。

高山市 市町村合併の経緯
https://www.city.takayama.lg.jp/shisei/1000058/1005247/1004042.html

1999年の市町村の合併の特例に関する法律の改正 (地方分権の推進を図るための関係法律の整備等に関する法律) により政府による市町村合併が推進され、自治体財政を支える地方交付税の大幅削減が打ち出され、返済の7割を国が肩代わりする地方債「合併特例債」を求め、市町村は次々に合併に動いた。岐阜県・高山市でも検討が進められた。

アップされている中で最も古い2001年9月の「広報たかやま」によると、「合併の方法はもちろん、合併を行うかどうかについてもまだ何も決まっていません」「現在、飛騨地域の市町村の首長や議長、経済団体などによるそれぞれの研究会が組織され研究が行われています」とある。
またこの時点での合併案は以下の3つで、決定した内容 (大野郡の白川村は外れ、吉城郡の上宝村が加わった) とは異なっている。「高山市+大野郡+吉城郡+益田郡」案が実現したら現行の約2倍の面積となっていたことになる。

最終的な合併案による高山市と9町村の比較 (2002年時点) は以下のとおりである。人口・構成・産業・面積だけ見ても典型的な中核市と郊外という構図であることがわかる。


さて2005年の合併から年月が経ち、高山市はどのように推移していったのかを見ていきたい。

日本経済新聞 2019年2月21日 合併で面積日本一、岐阜・高山の光と影(平成と中部)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41522140Q9A220C1CN8000/

行政改革で財政は安定し、豊かな自然に抱かれた国際的な観光地として人気を集める。ただ山村は人口減少に歯止めが掛からず、なお厳しい地方の現実がそこにある。
小京都とも呼ばれる高山市中心部の「古い町並み」は、平日も散策に訪れる観光客でにぎわう。人口9万人弱の市への観光客は17年で462万人。大合併があった05年より40万人近く増えた。飛騨・高山観光コンベンション協会会長は「旧町村の豊かな自然資源や温泉地が加わり、一体となって高山の魅力が増した」と合併の意義を強調する。
合併後、10市町村で計1250人いた公務員は830人に削減。積極的な行政改革により、負債返済や投資に使う市の積立金は16年に500億円を超えた。「反発もあったが、市財政を安定に導いた。合併は間違っていなかった」
高山市との合併に携わった旧村の元幹部の男性は「恩恵は少なかった。後悔している」と打ち明ける。市中心部のにぎわいに比べ、地域は過疎化が進むばかり。道路も期待したほど整備されなかったという。ただ「社会の需要、時代の流れもあり、合併は仕方なかった」と考える。
市中心部から車で1時間。旧高根村地域の人口は約320人と合併前に比べて半減した。08年には旧村で残っていた唯一の小学校、日和田小が統廃合でなくなった。同小最後の児童は8人。
地域に住む人の半数は高齢者。行政関係の仕事なども減った。

平成の合併、高山市における検証とその問題点 
https://www.city.takayama.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/016/229/shiryou2.pdf

合併で指摘されたところは、旧高山市が合併により政治的にも経済的にもしばらくは足踏みすることを余儀なくされるという点であった。
合併以後高山市の財政力は、合併特例による交付税加算や、合併特例債における償還優遇処置なども含めて財政面ではプラスに働き、経常収支比率の低下、実質収支比率の上昇と、安定した財政運営が続けられた。しかし、合併特例の緩和処置が切れると経常収支比率は84.6、実質収支比率3.9(いづれもH30年度決算)と逆転してしまった。 このことは合併後の産業政策や地域振興策が、急激な人口減少化現象などで苦しい曲面を迎えたことや地域内分権の推進や行政内分権の限界が見えてきたこと等により、合併前の懸念が改めて浮き彫りになったと言える。

もう一点人口減少と高齢化の問題は支所地域で特に進んだ問題です。  
左の表からは高山市に隣接する地域と、そうでない地域との2極分化が進んでいる事が見て取れます。荘川地域 (79.62%)、朝日地域 (77.89%)、高根地域 (48.19%)、上宝地域 (75.94%) が、この15年余りで人口を20%以上減らしています。 
この問題については、単に人口減少の問題と片づけられないのではないかと考える。その要因として、一つには就業の場が高山市に多く集中していることがある。また、役場が支所として再編され、公務の地域への貢献寄与率も低下、そのことが就業人口の減少、総人口の減少、その結果としての高齢化の進行となっているものと考えられる。 

やはり合併前に抱かれていた懸念が顕在化し、人口減と経済の停滞の中で有効な手立てがない、というのが実情だ。もちろん国全体で少子高齢化、大都市への人口集中と地方の過疎化が進んでおり、これらは高山市だけの問題ではない。

一方で日本一面積の小さな市町村である舟橋村は、富山県の市町村地図の中でその小ささが際立っているが、富山市に隣接しており、富山地方鉄道の越中舟橋駅があって利便性は高い。

その舟橋村は合併を行わないことを一貫している。

東京新聞 2020年3月2日 「平成の大合併」から10年 いま市町村は
https://www.tokyo-np.co.jp/article/3050

住民自治の精神貫く 富山県舟橋村長・金森勝雄さん
合併を選ばなかった理由の一つは教育です。村には小学校、中学校が一校ずつあります。合併したら学校は統合され、なくなってしまうのではないか。強い危機感がありました。
村内には富山地方鉄道の駅があります。平成に入ってからは上下水道やデイサービスセンター、特別養護老人ホームなどインフラ整備が進みました。ホールや入浴施設を備えた舟橋会館、駅舎と一体化し、蔵書九万冊の図書館も開館しました。施設も整い、合併するメリットがなかったとも言えます。
平成の初めには約1,400人だった村の人口は今3,100人を超えました。1989年から始めた宅地造成の成果です。富山駅から電車で約15分という利便性に加え、子育てや教育の環境が整っていることが人気を呼んで子育て世代が転入し、人口倍増につながりました。
舟橋は教育の村です。学校は特別支援学級にも対応でき、エアコンやエレベーターなどハード面も充実しています。隣接する小・中学校では一貫教育を行い、富山YMCA福祉会が運営する認定こども園では二歳児から英会話を学んでいます。
今後の課題としては、まずは人口の維持です。人口構成の問題もあります。基幹産業である農業をいかに進化させていくかも課題です。情報技術を活用し、農業を近代化させる必要があります。行政と村民が一体となり、住んでよかったと思ってもらえる村づくりに努めていきます。

ポリシーだけでなく、舟橋村が小さいながらも都市部から近く利便性に優れるという稀有な条件が単独での行政を後押ししていることは間違いない。

国全体として、また各市町村にとって何が正しいかを結論づけるのは難しい。少子高齢化という確実な流れの中で今後も自治体再編の動きが起こるだろうが、全体そして個別最適を検討し続けることになるだろう。

 



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都道府県別人口ランキングにおいて、かつて新潟県や石川県が全国トップだったこと、また首位が入れ替わることが頻繁にあったことはよく知られている。
しかし我々は「都道府県別」を現在の都道府県で考えているので、初期のランキングは感覚に合わないことが多い。
そこで1871年(明治4年)の廃藩置県から、おおよそ現在の都道府県の形ができあがる1888年までの期間について、人口と府県廃合の流れ、また地図を参照しながら見ていきたい。

廃藩置県の流れ、地図、人口データ(本籍人口を採用)は以下を参照している。またランキング上で薄緑色は編入や統合によるプラスの影響を示し、グレーは分離によるマイナスの影響を示している。

廃藩置県
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E8%97%A9%E7%BD%AE%E7%9C%8C
日本経済新聞 北関東3県は「宇都宮県」に 幻の28道府県案 (2015年9月25日) 
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO91885620Y5A910C1000000/
過去の都道府県の人口一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%AE%E9%83%BD%E9%81%93%E5%BA%9C%E7%9C%8C%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E4%B8%80%E8%A6%A7

 

 

廃藩置県は1871年7月(旧暦)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革だが、300弱の藩を廃止してそのまま国直轄の県としたため、最初の都道府県数は「3府302県」と極めて多数だった。この時点では飛地も多く、地域としてのまとまりも弱かった。

そして4ヵ月後の1871年11月(旧暦)に第1次府県統合として「3府72県」に統合された。直後の1872年1月の人口データを参照すると、首位は広島県で約92万人、2位が山口県で約83万人、3位が東京府で約78万人だった。(後述するが東京府は現在の東京都と比べて範囲が著しく狭い)
4位の「名東(みょうどう)県」は、(この時点では)現在の徳島県と淡路島である。5位の「柏崎県」は現在の新潟県上越地方、中越地方に及ぶ。

この時点での地図(北海道を沖縄は別時点)を参照すると、現在の都道府県との違いがよくわかる。

 

1872年11月に額田県(現在の愛知県東部、旧三河国および尾張国南部)が愛知県に編入された。その結果1873年1月の人口データで愛知県がトップに立った。
また1873年1月に八代県が(第1次)熊本県に編入されて白川県(現在の熊本県)となり、人口ランキングで2位となった。

 

1873年6月に前述の柏崎県が新潟県に編入された。その結果1873年1月の人口データで新潟県がトップに立った。
また1873年6月に印旛県と木更津県が統合されて千葉県となり、人口ランキングで4位となった。
また1873年2月に香川県が名東県に編入されて、名東県は人口ランキングで2位となった。しかし、香川県は1875年9月に名東県から再分離されたため、1876年1月のデータで名東県は人口が減りランキングが前年の2位から13位に下がっている。(香川県は21位)

 

1876年に第2次府県廃合が行われ、都道府県数は「3府59県」から「3府35県」に大きく減った。
地図を参照すると、東京府は依然として小さい一方で、北海道、神奈川県、石川県、堺県、愛媛県、高知県、島根県、長崎県、鹿児島県などは現在と大きく異なる。

そして1877年1月の人口データで、現在の富山県と福井県を含めて北陸地方一帯を包括することとなった石川県が首位、現在の香川県を含む四国地方北部を包括することとなった愛媛県が3位、飾磨県の編入や但馬地方の編入などで面積が広くなった兵庫県が4位と大きく順位が変動した。

 

1881年2月に堺県が大阪府に編入されたため、1882年の人口データで大阪府が2位となった。(前年は大阪府が36位、堺県は17位だった)
また人口首位だった石川県は、1881年2月に福井県が、1883年5月に富山県が分立したために、以降は順位が下がった。
結果として、1882年の人口データで新潟県が首位に返り咲いたが、その後1884年の人口データでは大阪府が首位に立った。

 

しかし、1887年11月に大阪府から奈良県が分立し、同年12月の人口データで大阪府は7位に下がった。(奈良県は41位)
その結果新潟県が再びランキング首位となった。

 

さて、江戸時代に人口100万人(さまざまな推測あり)と言われた江戸だが、廃藩置県後の人口データではあまり上位に出てこない。

以下の東京の行政区画の変遷を参照するとよくわかるが、廃藩置県後の東京府は現在の東京23区よりも狭い範囲であり、大きく変わったのは1893年の三多摩地域の神奈川県からの移管である。

東京の行政区画の変遷
https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/keikaku_chousa_singikai/pdf/tokyotoshizukuri/toukyounogyouseikukaku.pdf

この移管の結果、東京府の人口は1892年 約136万人(4位)から1892年 約161万人(2位)と増え、その後1897年に初めて首位に立った。
その後1945年に戦争での疎開の影響で北海道が首位になったことを除き、東京府・東京都が首位を続けている。

このように見ると、国全体や各地域の人口は増加する中で、都道府県の統合等の結果で順位が大きく上がったり、分立等の影響で順位が下がったり押し出されたり、ということがよくわかる。

当時の方々がどれだけ府や県に対して敏感だったかわからないが、毎年のように枠組みが動いている中ではランキングそのものに意味はなかっただろう。とはいえ今後これだけ大きな枠組みの変化は今後難しいと思われるため、記録としてはとても興味深いものである。

 



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2021年に土木学会推奨土木遺産として北海道の弾丸道路 (札幌・千歳間道路) が選出された。「積雪寒冷地や自動車高速走行のための先駆的な設計基準を導入し、北海道に限らず全国の道路改良の指標となった土木遺産」 というのが選奨理由である。

土木学会 選奨土木遺産 弾丸道路(札幌・千歳間道路) 
https://committees.jsce.or.jp/heritage/node/1148

この弾丸道路は正式には国道36号の札幌・千歳間であり、北海道の大動脈だ。
1952年12月に一級国道36号 (札幌市~室蘭市) が指定され、これに先立つ同年10月から札幌・千歳間の改修による舗装工事が始まり、道幅7.5 m・最高設計速度75 km/h という高規格道路基準の道路が1953年11月2日に、僅か13ヵ月の工期で完成された。
特筆すべきは現在では一般的なアスファルト舗装と機械施工を本格的に導入したことで効率化を実現したことである。

さて、本件で少し驚いたのは「弾丸道路」という通称で選出されたことだ。国道36号 (札幌・千歳間道路) が「弾丸道路」と呼ばれる由来は、「米軍の弾丸運搬に使われた」「弾丸のような突貫工事だった」「弾丸のように早く走行できる」など諸説ある。
しかし「弾丸道路」という言葉は、戦前の新幹線計画である「弾丸列車」の呼称と同様に、高速道路の戦前から戦後の一時期にかけての呼び名であり、弾丸のように速い自動車が走ることから名付けられたものだ。従って展開によっては「弾丸道路」は一般名詞になっていた可能性もある。
(もっとも新幹線は「Bullet Train」とも呼ばれた(ている)ものの、「Shinkansen」で充分に通用するようになっているので、やはりどこかで「高速道路」に落ち着いたと思われる)

高速道路を表す「弾丸道路」という言葉は、1954年12月の『文藝春秋漫画読本』創刊号に掲載された「サザエさん 10年後」 という一コマの漫画に登場する。(タラちゃんの妹と思われる「ヒトデちゃん」が描かれており、有名な漫画だ)

すなわち1950年代には「弾丸道路」という言葉が一般的であったことがわかる。
実際にサザエさん邸の世田谷区桜新町付近では、推進派と反対派の激しい対立があり、最終的に1955年に工事が開始され1961年に完成したということなので、まさにこの10年後の描写どおりとなったことになる。

さて、欧米諸国では第二次世界大戦以前から自動車が普及し高速道路が走っていたが、欧米に比べ自動車の普及が遅れた日本では、高速道路の建設は相当に遅れた。

日本の高速道路 高速道路の建設構想
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%AB%98%E9%80%9F%E9%81%93%E8%B7%AF#%E9%AB%98%E9%80%9F%E9%81%93%E8%B7%AF%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E6%A7%8B%E6%83%B3

高速道路建設の着想自体は実業家の菅原通済が1929年に東京 - 大阪間に自動車専用舗装道路を事業費8,000万円(当時)で建設し、民間で運営する構想を打ち出したのが最初である。この計画は一般の自動車にも有料通行をさせるという構想だったが、自動車が一般に本格普及する以前の時代で不況とそれに続く戦時体制によってまったく実現しなかった。
日本で初めて高速道路構想が持ち上がったこのころの戦前の道路計画では、弾丸よりも速く走れるという意味で「弾丸道路」と呼ばれていた。
ドイツのアウトバーンに刺激され、1938年頃から高速道路である自動車専用国道の議論が始まり、1943年に全国自動車国道計画が策定された。計画によれば、北は樺太の国境端から北海道の稚内 - 札幌 - 函館間、本州は青森 - 下関間を太平洋側と日本海側でそれぞれ結び、九州では門司 - 福岡 - 長崎間まであり、総延長は5490 km、設計速度は平坦部が150 km/h、丘陵部が100 km/hであった。

この1943年の全国自動車国道計画の中で唯一開通したのは、東京 - 御殿場の一部である「戸塚道路」 (横浜市戸塚区柏尾町(不動坂交差点) = 戸塚町 (大坂上)) である。
ここは正月の箱根駅伝の2区、9区の戸塚中継所の手前(直後)で、毎年激しい争いが繰り広げられる舞台である。

戸塚道路 歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E5%A1%9A%E9%81%93%E8%B7%AF#%E6%AD%B4%E5%8F%B2

戸塚道路は、1953年に第4次吉田内閣のもとに建設決定となった。
元々は、東京 - 御殿場間の弾丸道路の一部として計画していたが、大磯に私邸を構えていた当時の首相吉田茂が東京に向かう際に、国道1号と東海道本線が交差する戸塚駅の北側にある「戸塚大踏切」の渋滞に業を煮やし建設を指示したという逸話があり、吉田のニックネーム「ワンマン宰相」から、「ワンマン道路」あるいは「ワンマンバイパス」という異名をとった。
この道路は戸塚道路として1955年2月1日に開通し、1959年10月28日 に横浜新道へ編入され、この区間の償還が終わった1964年12月16日に無料開放された。
戸塚道路は開通以降交通量が大きく増加したが、当初は幅員が11mと狭く、またこの区間の中間に位置する矢沢交差点が平面交差でネックとなっていたのを、1968年に矢沢交差点の立体交差化、1970年に幅員が拡幅されている。

開通した1955年は上述の「サザエさん」の一コマの漫画の発行とほぼ同時期だから、戸塚道路が「弾丸道路」と称されてもよかったように思う。しかし当時は「弾丸道路」は普通名詞であったし、またやはり吉田茂の方がインパクトが強かったということだろう。

その後全国高速道路網整備が推進され、1963年7月の名神高速道路 栗東IC - 尼崎IC間 (71.7km) を皮切りに、日本の高速道路建設は本格的に推し進められて、現在の高速道路網に繋がっている。

このように国道36号の「弾丸道路」はもともとの弾丸道路とは意味合いが異なるものだが、その正当な襲名者として幅広く認知され、北海道の交通を末永く支えることを期待したい。

 



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今上天皇は第126代の天皇であるが、遡って初代の天皇は神武天皇で、紀元前660年に即位したことはよく知られている。
神武天皇は、日本神話に登場する主神である天照大神(または天照大御神、あまてらすおおみかみ) の五世孫で、日本国を建国したとされる人物だ。

神武天皇 略歴
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

『日本書紀』によると庚午年 (換算すると紀元前711年となる) に筑紫の日向で誕生。15歳で立太子 (公式に皇太子とさだめること)。
吾平津媛 (あひらつひめ) を妃とし、手研耳命 (たぎしみみのみこと) を得た。
45歳のときに兄や子を集め東征 (神武東征) を開始。日向から宇佐、安芸国、吉備国、難波国、河内国、紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲 (大和国) を征し、橿原 (現在の奈良県橿原市) の地に都を開いた。そして媛蹈鞴五十鈴媛命 (ひめたたらいすずひめ) を正妃とし、翌年に初代天皇として紀元前660年2月11日に即位した。
皇后となった媛蹈鞴五十鈴媛命との間には神八井耳命 (かんやいみみ)、神渟名川耳尊 (かんぬなかわみみ、綏靖天皇) を得た。即位76年に、崩御。




このように神武天皇は現在の宮崎県生まれである。
夫人の吾平津媛も同郷で、長く連れ添った夫が天皇に即位という大出世を果たしたものの、父親が神で母親はヤマト地方の有力者の娘だった媛蹈鞴五十鈴媛命に正妃 (=初代皇后) の座を奪われたという、極めて理不尽な待遇を受けている。現代だったら大変なスキャンダルだ。
吾平津媛は宮崎県日南市の吾平津神社で祀られている。



また神武天皇は45歳にして東征を開始したのだが、縄文時代の平均寿命は15歳、弥生時代の平均寿命は18~28歳と推定されており、相当な晩成型であったようだ。
そして51歳で天皇に即位し、そこから76年在位し紀元前585年に崩御された。
76年の在位は昭和天皇の62年を超えて歴代最長、そして127歳まで長生きされたということで人類史上最長寿でもある。。

さて、初代天皇の神武天皇が紀元前585年に崩御された後、天皇のポジションはいきなり約3年間空位となった。この間に起きたのが「手研耳命の反逆」だ。

手研耳命の反逆 (タギシミミの反逆)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%AE%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%9F%E3%81%AE%E5%8F%8D%E9%80%86

神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛命の間には、神八井耳命 (かんやいみみ)、と神渟名川耳尊 (かんぬなかわみみ) の二皇子が生まれた。紀元前619年に神渟名川耳尊は立太子されて皇太子となった。
神武天皇は紀元前585年に崩御し、翌年葬られた。皇太子の神渟名川耳尊は特に心を喪葬の事に留めていた。その庶兄である手研耳命は長くにわたる政務経験があったが仁義にそむいており、二弟を害することをはかった。神渟名川耳尊と神八井耳命はひそかに手研耳命の志を知って、これを防いだ。
神渟名川耳尊は弓矢で手研耳命を射殺そうと思った。神渟名川耳尊は、兄の神八井耳命に射殺す役目を与えた。しかし神八井耳命は手脚が戦慄し矢を射ることができなかった。そして神渟名川耳尊は兄の所持していた弓矢を掣き取り、手研耳命を射た。
神八井耳命は失態を恥じて神渟名川耳尊に皇位を譲り、紀元前581年に神渟名川耳尊は綏靖天皇 (すいぜいてんのう) として即位した。


手研耳命は神武天皇の東征に従っていたといわれるので、在位76年の神武天皇の崩御時点で既に90歳以上だったと推測される。
古事記によると、未亡人となった義母の媛蹈鞴五十鈴媛命を妻にしたとも言われる。かなりドロドロした一家だ。

また綏靖天皇の在位は紀元前581年から紀元前549年までの33年間で、51歳で即位して84歳で崩御されたこととなる。これまた当時では考えられないほど長寿だ。



第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代は「欠史八代」と呼ばれ、その多くが後世の創作によるものと見られ、欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼ無いとされる。同様に神武天皇についても実在性については議論があるが、細かいエピソードや在位期間などは神話の世界であろう。
しかし物語としても日本が誇るべき皇室の歴史の原点として、これではコンプライアンス上の問題が多すぎる。もう少しロマンにあふれた内容にできなかったか思う。



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以前このブログで日本の博物館のルーツとして湯島聖堂博覧会と京都博覧会を紹介し、その中で政府主導の博覧会である「(第1回) 内国勧業博覧会」が1877年9月に東京の上野公園で開催され、全国各地の特産品が紹介されたことを記した。
その内国勧業博覧会では、来場者は気に入ったものがあれば購入することもできたので、博覧会であると同時に買い物の場であったと言うことができる。
そして博覧会の終了後に、出品者から「売れ残った展示品を地元に持ち帰るのは大変なので何とからならないか」という声が出て、翌1878年に誕生したのが「東京府立第一勧工場」である。
その後短期間に各地に拡がった「勧工場 (かんこうば)」について、以下の文献を参考にしてまとめていきたい。

ショッピングセンターの原型・ 勧工場の隆盛と衰退 南 亮一 法政大学イノベーション・マネジメント研究センター 2020円11月11日
http://riim.ws.hosei.ac.jp/wp-content/uploads/2020/11/WPNo.234_Minami.pdf

「勧工場」 はディベロッパーが開発した建物に多くの店が出店する形態であり、現在のショッピングセンターの原型と位置づけられている。主な特徴として以下を挙げることができる。
(1) 品揃え:美術品・工芸品・雑貨を中心に多岐にわたる品揃えがされていた
(2) 大規模店舗:40以上の出店、最大の「帝国博品館」では67の出店があった
(3) 陳列販売:当時は来客の求めに応じて店奥から商品を取り出す「座売り」が一般的だったが、陳列されている商品を自由に見て回ることができた
(4) 正札販売:明示された固定価格での販売が導入された
(5) 娯楽施設要素:例えば第一勧工場は庭園・池・噴水を備え、休憩所で茶菓子を楽しむことができた
(6) 土足入場:当時は道路状況が悪く下足を脱いでの入場が一般的だったが、土足入場ができるように変更された

いずれも現在では当たり前の内容だが、百貨店の誕生前の当時としてはいずれも画期的なもので、勧工場によって日本人は初めてショッピングを楽しむということができるようになったと言える。

「東京府立第一勧工場」 は現在の千代田区丸の内の永楽ビルのあたりにつくられた官営の勧工場 (後に民営化され「東京勧工場」となった) だが、その後民営の勧工場が多く設置された。特に京橋区の銀座界隈にはで10店近い勧工場が営業した。それまで銀座は商業地としてはあまり人気がなかったが、その銀座を繁華街としたのは百貨店より前の勧工場であった。
また他の地域にも勧工場は広まり、東京以外の大都市でも設立され、大阪では心斎橋や千日前などに設置された。大阪では「勧商場」とも呼ばれた。

明治時代後期の浅草の絵葉書 (1907年頃、白黒写真に絵師が採色したもの) には、「共栄館勧工場」「梅園勧工場」「東洋館勧工場」が写っている。



明治の時計塔(東京)梅園館勧工場と共栄館勧工場
http://www.kodokei.com/ot_014_e.html

梅園館勧工場 時計塔
二階建て木造建築の屋上の洋風小型時計塔の外観は円錐形の屋根を持ち、 ローマ数字三尺の文字板は塔屋の二面に取り付けられ他の面は窓、 その下部周囲には回廊がめぐらされていたという。梅園館は大正10年(1921年)ころまで営業を続けたのち廃館、建物は同12年の関東大震災で焼失したが、 勧工場としては東京に残った最後の数館の一軒で有ろう。
共栄館勧工場 時計塔
梅園時計塔が設置されて間もなく、明治27年(1894年) に程近い並びにこの共栄館勧工場時計塔が建てられた。 場所柄、これらの勧工場にはからくり人形や派手なイルミネーションを施し呼び物となって盛業を極めた。


東京の勧工場で最後発かつ最大だったのは、1899年に汐留川のかかる新橋の袂 (現在の新橋駅近く) にできた 「帝国博品館」 であった。銀座煉瓦街にまじむ洋風の建物で屋上には時計台が設けられ、銀座を代表する風景となった。店内には洋品店、呉服店、雑貨店のほか、コーヒー店、理髪店、写真館など飲食・サービスの提供もされた。



このように市民にショッピングの機会を提供し、まちづくりに貢献した勧工場だが、急速に衰退した。1902年に東京に27あった勧工場は10年後に8に減ってしまった。その理由として以下が挙げられる。
(1) 商品や店員の質の低下
老舗や有名店の出店は自前の店を持っており、勧工場は店舗を持たない弱小業者の集まりとなった。また店員の充分な教育がなく印象を悪化させた。
(2) 呉服店系百貨店の成長
三井呉服店、大丸、そごうなどの呉服店が、武家相手の商いから百貨店への転換を行い、売り場の近代的な管理・運営により成長した。
(3) テナントの経営力不足
百貨店と比較し、勧工場には管理・運営のノウハウや、仕入れを支える流通・物流の機能がなかった。

この流れの中で 「帝国博品館」 も百貨店化を決断し、1920年にシンボルだった時計台を捨て4階建てに増築、エレベーターを設置、そして店名を「博信百貨店」に変更した。
しかし1923年の関東大震災で全焼し、その後廃業してしまった。

「帝国博品館」「博信百貨店」は現在では「博品館劇場」「博品館TOY PARK」として営業している。歴史のある「博品館」の名を冠するのは素晴らしい。

博品館TOY PARK 博品館について
https://www.hakuhinkan.co.jp/toypark/%E5%8D%9A%E5%93%81%E9%A4%A8%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/

1899年創業。前身は、帝国博品館勧工場。博品館の名前は、明治から昭和の初めまで「博品館勧工場」という銀座の名物として親しまれていました。他の勧工場がみな二階建てであったのに対し、博品館は三階建てに時計塔までついた大きな建物で、上り下りは普通の階段ではなく螺旋状の通路をめぐり歩く構造でした。
その時、日本で初めて「百貨店」ということばを使い、「百貨店」という新しいことばは博品館によって作られたと言われています。関東大震災後は百貨店営業を断念しておりましたが、創業80周年を記念して、1978年10月、現在の10階建てのビルを新築し、8階から10階を「博品館劇場」としました。
その後1982年9月に物販部門が玩具専門店の「博品館TOY PARK」としてオープン。現在は地下1階から4階までおもちゃをはじめ、ぬいぐるみ、ゲーム、ドール、バラエティーグッズなど、お子様から大人の方までの遊び心を満たすアイテムを約20万点取り揃えています。


豊富な品揃え、陳列販売、正札販売、娯楽要素など現在では当たり前に感じているショッピングのルーツ、そして銀座をはじめとした繁華街の礎となったのは、僅か20年余りだけ隆盛した勧工場であったことをよく覚えておこう。


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「レトロ・モダン近代建築」は言葉としては意味不明だが、この言葉から日本人が抱くイメージはおおよそ同じで、明治時代から大正時代にかけての西洋風建築であろう。
この多くは建築史において「擬洋風建築」(ぎようふうけんちく)と呼ばれるものだ。

擬洋風建築
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%AC%E6%B4%8B%E9%A2%A8%E5%BB%BA%E7%AF%89

擬洋風建築とは、幕末から明治時代初期の日本において、主として近世以来の技術を身につけた大工棟梁によって設計・施工された建築である。従来の木造日本建築に西洋建築の特徴的意匠や、時には中国風の要素を混合し、庶民に文明開化の息吹を伝えようと各地に建設された。明治の開始と共に生まれた擬洋風建築は、明治10年前後にピークを迎え、明治20年以降に消えており、その時期は文明開化と重なっている。
明治維新以降、ホテル・洋式工場・小学校・役所・病院など新しい機能を持った施設が、はじめは大都市にやがて全国に求められるようになっていく。西洋的な機能を持ち堅牢性を求められたこれらの施設は、洋式建築として建てられる必要があった。迎賓館や造幣局など主要な施設はお雇い外国人の手によって設計・監理されたが、その他の官庁舎や地方の施設は地域の大工の手にゆだねられた。
しかし、木造建築の伝統に育まれた日本の大工にとって、石に由来する洋式建築は未知の存在である。建築様式はおろかその用途すら分からない状況の中で、伝統技術を身につけた大工たちは、伝統の側から洋式建築を解釈し、見よう見まねで洋式建築を建設する。錦絵や実物の見聞を通じて得た情報をもとに建てられた擬洋風建築は、その時たまたま出会った建物をベースに自由な折衷や創造が加わり、塔屋や車寄せなど大まかな形は共通しながらも、一つ一つの建物で異なるデザインが生まれた。


すなわち擬洋風建築は日本の伝統的な木造建築をベースに洋風にアレンジした、日本オリジナルの建築様式と言うことができる。国宝となっている1876年に建てられた長野県松本市の旧開智学校をはじめ、多くの貴重な擬洋風建築が現在も全国に残っている。



横浜の洋式建築を参考に東京で生まれた擬洋風建築は文明開化のシンボルとなり、日本全国に広まっていった。しかし横浜・神戸・長崎・函館のような港町には擬洋風建築が映えるが、京都・奈良のような古都にはミスマッチだったのではないかとイメージする。
実際は京都は擬洋風建築や昭和初期までを含めた近代建築の宝庫である。

和樂web 日本文化の入り口マガジン 京都のレトロ・モダン近代建築とグルメスポットを巡ろう!
https://intojapanwaraku.com/travel/1578/

この中で京都における最初の擬洋風建築は、1879年に建てられた龍谷大学の大宮学舎である。

龍谷大学|宗教部|大宮学舎
https://www.ryukoku.ac.jp/shukyo/raihai/oomiya.html

龍谷大学が1639年に西本願寺学林として創設され、明治の学制改革によって「大教校」と改められるにともなって、1879年に講堂として完成しました。1964年には明治初期の洋風建築の代表例として国の重要文化財に指定されました。勤行・法要をはじめ、各種の行事・式典が行なわれます。また、仏前結婚式に利用されるなど、龍谷大学関係者にとって大切な場所となっています。
本館は一般に「擬洋風建築」といわれ、完全な洋風の建築技術がまだ日本に定着する前の、和洋折衷を取り入れざるを得なかった頃の貴重な建造物です、
外観上、石の柱が立ち並び、あたかも石造や煉瓦造のような印象を与えますが、実際は木造で石材は柱などの木部に貼り付けられています。これを「木造石貼り」といい、比較的早い時期に外国人が居住した横浜などで用いられましたが、現存するのは本館のみです。木造部分はほぼ日本の伝統的な工法によっていますが、補強にボルトなどの金物が数多く用いられ、また屋根を支える小屋組にキングポスト構造が採用されるなど、洋風建築技術も取り入れられています。




明治維新を迎えた京都で、中心地に突然現れた洋風の建築に地元の方々は新しい時代の訪れを実感したのではないだろうか。

一方で奈良は擬洋風建築との相性があまりよくなかったようで、京都より早く1877年に最初の擬洋風建築である「寧楽 (ねいらく or なら) 書院」が建てられたものの、長続きしなかった。

大和モダン建築|寧楽書院|奈良に打ち込まれた、近代化の楔
https://nara-atlas.com/construction/wooden/724/

西洋風の意匠を持つ建築は、奈良県下にはほとんど現れない。現存するものとしては明治17年落慶の「宝山寺獅子閣」にとどまる。それは、単純に設計された絶対数が乏しいというだけでなく、擬洋風建築が古都奈良の伝統文化を食い破る悪しき様式として疎まれていたことにも起因するだろう。「寧楽書院」は、そんな奈良の西洋建築嫌いの原因となった建築物といえるかもしれない。
明治5 (1872) 年ごろから、県下においては教育機関が続々と新設されており、その教員を養成する伝授所の設置が課題となっていた。当初は興福寺東室を利用しての運営であったが、建物の狭さから明治8年には興福寺食堂 (じきどう) への移転が計画された。
本建築は、「興福寺境内にある」「興福寺建築の部材を用いた」「興福寺お抱えの大工集団による」建築でありながら、「政府によって推し進められた」「洋風の外観を持つ」「学校という近代的な施設」として竣工されているという意味において、「伝統建築の敗北宣言」に等しい建築であった。
当然、奈良町民からの反発も強かったらしい。奈良県和風建築に通底して流れる「西洋建築・近代建築へのアレルギー」は、この建築に端を発しているのかもしれない。


以下が興福寺境内の絵で、右奥の洋風建築が寧楽書院だ。


寧楽書院は、1887年に奈良県が大阪府 (奈良県が堺県に合併され、堺県が大阪府に合併されていた) から再独立したのを機に、県庁の仮庁舎として利用された。その後、1895年に県庁が完成すると高等女学校校舎に移築され、1911年に解体された。いろいろ使いまわしされた形であり、龍谷大学大宮学舎をはじめとする京都の擬洋風建築と比べるとリスペクトが足りない。

その後1894年に竣工した本格西洋建築の「奈良国立博物館」も当初は不評だったようだ。

大和モダン建築|帝国奈良博物館本館|不遇の本格西洋建築
https://nara-atlas.com/construction/brick/737/

帝国奈良博物館本館 (現:奈良国立博物館なら仏像館) は、宮廷建築家片山東熊によって設計された本格派の近代西洋建築であるが、奈良県の建築物の中では今一つ評価が低い。どの観光ガイドを紐解いてみても、帝国なら博物館本館は「奈良の景観にはそぐわないと不評だった」「奈良ホテルなどの建築が和風になったのは、この博物館による景観論争がきっかけ」と記されており、もっぱら否定的な文脈で語られることが多い。



これは、当時の奈良の方々の古都・奈良に対する誇りの表れだろう。幕末から明治にかけての激動をどのように感じていたかも窺い知ることができる。いつの時代も大きな変革の受けとめ方は様々だ。



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以前このブログで、世界一高い構築物であったワルシャワラジオ塔 (646m) が1991年に倒壊したため、KVLY-TV塔 (629m) が世界一の高さに返り咲いたという記事を書いた。(この記事の中では建築物と構築物の言葉の使い方が明確でなかった)
今回は日本一高い構築物 (建築物ではない) の推移を展開していきたい。

明治時代以降の記録として、1914年に建設された茨城県日立市の「日立鉱山の大煙突」 (約155.75メートル) が当時日本一高い構築物となった。

ひたち風 日立市の大煙突、すごいんです!|ひたち風
https://www.city.hitachi.lg.jp/citypromotion/hitachikaze/topic/001/honsugo2.html

約100年前、日立鉱山の煙が近隣の植物を枯らしてしまいました。さまざまな対策が講じられるなか、久原房之助が主体となって、高い煙突をつくり煙を拡散する方法にたどり着きました。1914年12月20日、当時では世界一の高さを誇る大煙突が完成、煙の害は激減しました。
1914年3月に着工し、同年12月には完成、翌年3月に稼働していた大煙突!恐るべきスピードで作られました!
1993年2月19日に大煙突は突然、およそ3分の一を残して倒壊し、市民に衝撃を与えました。
しかし!折れてもなお、約100年前に建てられた大煙突は、現在も現役! JX金属株式会社日立事業所の設備として稼働しています。




しかしわずか2年後の1916年に、大分県大分市の「日本鉱業 (現パンパシフィック・カッパー) 佐賀関製錬所の第一大煙突」 (167.6m) が抜いた。



この大煙突は約100年を経て2013年5月(まで)に解体された。跡地には、記念として高さ1.5m部分までが残されている。

これを抜いたのは1929年に建設された愛知県刈谷市の「依佐美送信所」 (250.0m) である。
長波の使用を主とした無線送信所で、1929年に運用を開始したが、戦後は米軍に接収された。1993年に米軍より閉鎖する旨の通告を受け、翌1994年に日本に返還されたのに伴い、アンテナ鉄塔、建物は解体された。現在は依佐美送信所記念館が立てられている。

依佐美送信所
http://yosami-radio-ts.sakura.ne.jp/



その8年後の1937年に建設された埼玉県川口市の「NHK川口ラジオ放送局」(312.8m) が、その後しばらく日本一の座に君臨した。

東京発展裏話 #8 日本最高のタワーを支えた基礎構造物~NHK川口ラジオ放送鉄塔跡~
https://www.miwachiri.com/tokyo/0308_kawatwr.html

1937年に竣工し、1982年まで関東地方一円にNHKラジオ放送等を送信していた送信用鉄塔です。鉄塔そのものは老朽化と技術革新等により送信設備を埼玉県久喜市と菖蒲町にまたがる敷地に移管した事で、1984年までに解体されてしまいましたが、現在も跡地にその名残を見ることが出来ます。
日本一の巨塔の構造は、一辺3mの正三角形断面をした三角柱トラス鉄塔で、柱と主塔基部(基礎)との間に基部絶縁(巨大な磁器碍子)4柱が挟み込まれ、主塔を支える支線(ワイヤー)は7段3方向に張られていました。これが南北方向に463m離れて2基建っていました。塔の最上部、5段目、3段目にそれぞれ赤色の航空標識灯が付けられた他、南塔には4人乗りエレベータが設置され、最上部まで10分で昇る設計になっていました。軟弱地盤に建つ鉄塔の荷重1,965tを支えるため、塔を支える基礎には長さ23mの鉄筋コンクリート杭が48本打たれ、また支線を支える支線基礎は850tのコンクリートブロックが使われました。




そして1958年に「東京タワー」(333m) が建設された。 当時はビルの高さが31mに制限されていたので、高さが際立って見える。



しかし、東京タワーの高さを凌ぐ塔が10年後の1968年に2つ同時に現れた。ともに東京都小笠原村の「南鳥島ロランC局」と「硫黄島ロランC主局」である。ともに地上系電波航法システム LORAN (LOng-RAnge Navigation) 用のタワーで、アメリカ沿岸警備隊及び海上保安庁が設置し運用していたものだ。「南鳥島ロランC局」は1965年建設、「硫黄島ロランC主局」は1963年に建設されたものが倒壊して、1965年に再建されたものだ。そしてともに1968年6月に日本に返還された時に「日本一高い構築物」となった。
以下は硫黄島ロランC主局の写真で、よく注意してみると中央に塔が見える。



しかしその後LORANからより高精度な衛星系電波航法システムであるGPSへの移行が進み、硫黄島ロランC主局は1993年に解体、南鳥島ロランC局は最終的に3代まで引き継がれた後に2010年解体、硫黄島ロランC主局となった。

更にこの2つを凌ぎ、1975年には長崎県対馬市で「対馬オメガ局送信用鉄塔」(454.83m) が建設された。オメガ航法はアメリカが開発した電波航法でかつて船舶や航空機で利用されていたものである。超長波を用いることで電波到達距離が10000 kmとLORANなどと比べて格段に長く、わずか8つの送信局で地球上すべてをカバーできるものだった。その中でアジアに設置された送信局が対馬オメガ局である。
しかし、LORAN同様にGPSの普及に伴い、世界中の送信局が1997年9月に電波送信局としての運用を停止し、対馬オメガ局も1998年閉局し、1999年1月から2000年3月までに解体された。跡地はタワーの一部を保存し公園として整備されている。



つまり1999年1月から2000年3月の間のどこかで、東京タワーが再び日本一高い構築物の座に返り咲いたこととなる。(その時点で硫黄島ロランC主局は解体済で、南鳥島ロランC局の2代目と3代目は213mに縮小されていた)
そして2010年3月29日に「東京スカイツリー」(建設中) が東京タワーを抜き、そのまま現在に至っている。

こうしてみるとワルシャワラジオ塔のような倒壊もあったし、世界一の座同様に日本一の高さの後退という例もあった。特に電波航法のLORANとオメガ航法、そしてGPSへの移行は日本一の高さをめぐる争いに大きな影響を与えたことがわかる。構築物の高さは必ずしも建築技術の進歩だけによるものではないことが興味深い。
東京スカイツリーの次があるかどうかを注目していきたい。


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ディズニーランドは東京をはじめ世界に6ヵ所、ユニバーサルスタジオは大阪をはじめ世界に5ヵ所あるそうだ。一方で世界の遊園地・テーマパークで最も数が多いのは「ルナパーク」ではないだろうか。

ルナパーク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF

ルナパーク (Luna Park) は、世界各地で営業しているまたはすでに閉鎖された遊園地である。初めてのものは1903年に開園し、現在は南極大陸を除く世界中で営業している。
最初にルナパークという名前を冠したのは、アメリカ・コニーアイランドのルナパークである。汎アメリカ万博の出し物であった"月への旅行" (A Trip to the Moon) のアミューズメント・ライドの宇宙船から名前を取って「ルナパーク」と命名された。
多くのルナパークはすでに閉鎖されたが、ルナパークの名声は多くの国で受け継がれていった。


この記事のリストで営業期間が現在も続いているのは、世界で31ヵ所もある。メルボルンのルナパークは1912年開園で100年以上の歴史を持っている。
このリストにはないが、日本では前橋市の1954年開園の前橋市中央児童遊園が、2004年から「るなぱあく」として営業している。入園料無料、大型遊具が一人1回50円、木馬と小型遊具は1回10円で、日本一安い遊園地とのことである。
日本で最初の遊園地は1853年開園の「浅草花やしき」(1942年に解体され、1947年に復活して現在に至る) だが、開園当時の遊具はブランコだけだったそうだ。1911年開園の「宝塚新温泉」(後に「宝塚ファミリーランド」となり2003年に閉園) も挙げられるが、当初はプールや演舞場が中心であった。1912年開園の「ひらかたパーク」は現存する日本最古の遊園地だが、菊人形展が起源でその後に施設が充実していったものである。
しかし1910年に専門的な遊園地が開園している。「浅草公園ルナパーク」である。

ルナパーク (浅草)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF_(%E6%B5%85%E8%8D%89)

浅草公園ルナパークは、日本で最初にできたルナパークの名前を冠する遊園地である。
河浦謙一の映画会社である吉沢商店によって建設され所有されていた。ニューヨークのコニーアイランドに1903年に開業したルナパークを模して設計。 1910年9月10日、「日本パノラマ館」の跡地約1,200坪、東京市浅草区公園六区(現在の台東区浅草1丁目43番)で開業。
夜間も開いている「月の公園」といわれ、高さ15mの人工山と瀑布、天文館、木馬館(メリーゴーラウンド)、汽車活動写真館、映画館、飲食店などを設けた。 人気があり盛況であったが、1911年4月29日に漏電が原因で火災により焼失、僅か8ヶ月のみの営業であった。
上記の火災とほぼ同時期に、河浦の所有する大阪の映画館二件も不審火で焼失した。原因は放火だったとされている。この三件の火災により吉沢商店は苦境に陥り、アメリカから進出してくる海外映画産業などとの競争が厳しい状況となった。河浦は吉沢商店を375,000ドルで売却し、新しいルナパークを東京ではなく大阪に建設することを決めた。




吉澤商店主・河浦謙一の足跡 (1) - 東京国立近代美術館
www.momat.go.jp › sites › 2015/01 › 18_pp.32-63.pdf

河浦謙一(1868-1957) は、日本映画史の第一頁を飾った明治期最大の映画商社、吉澤商店の店主である。映画史の基礎文献では、活動写真(シネマトグラフ)の輸入と公開、初の国産映写機の製造、常設館第一号「電気館」の開館、最初の撮影所の建設など、草創期の主要なトピックのあちらこちらに、吉澤商店と河浦謙一の名が刻まれているのを目にすることができる。



ちなみに場所は現在の浅草演芸ホールを含む一帯で、花やしきとは目と鼻の先である。



そして、翌1912年7月に河浦は大阪でルナパークを開園した。

ルナパーク (大阪)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF_(%E5%A4%A7%E9%98%AA)

新世界ルナパークは、閉鎖した浅草ルナパークを引き継いで日本で二番目にできたルナパークという名前を冠する遊園地である。1912年に開園し1923年まで営業された。大阪の新世界にあり、敷地面積は132,000平方メートルであった。
同時期に初代通天閣がルナパーク建設予定地のすぐ北に建てられていた。こうしてルナパークのホワイトタワー(白塔)と高さ86mの通天閣がロープウェイ(索道飛行船)によって結ばれ、観客がパークの入り口へ向かう際に空中の景色を楽しめるように設計された。これはイタリアのセレッティ・タンファーニ (Ceretti&Tanfani) 社が製造した日本初の旅客用ロープウェイであった。
新世界ルナパークのアトラクションには、絶叫マシーン(サークリングウェーブ:円形のフレームに乗るところが付いていて、これが回転しながら上下する乗り物など)や、メリーゴーランド、ローラースケートホール、演芸場、活動写真館、音楽堂(奏楽堂)、不思議館、展望塔(白塔)、大衆演舞場(清華殿)、動物舎、および瀑布渓流(綾糸瀧、真澄ノ池)、噴泉浴場、円形大浴場、サウナ風呂、温水プールなどが設置されていた。
新世界ルナパークは1923年のシーズンをもって閉鎖された。1943年1月には初代通天閣が火災により損傷し、そのまま閉鎖され、材料を軍事利用するために日本政府によって解体された。戦後になって二代目の通天閣が建設され、1956年に営業を開始した。

大阪新世界串カツいっとく 新世界の歴史
http://www.to-kosan.com/rekishi/

第5回内国勧業博覧会跡地は日露戦争中に陸軍が使用したのち、1909年に東側の約5万坪が大阪市によって天王寺公園となり、西側の約2万8千坪が大阪財界出資の大阪土地建物会社に払い下げられ、ここに新世界の開発が始まった。
北から順に、恵美須町1丁目には南端中央に円形広場を設け、パリの街路に見立てた3方向の放射道路を北へ配すことになった。放射道路は西から順に「恵美須通」「玉水通」「合邦通」と命名された。北霞町には北端中央にエッフェル塔を模した塔を建て、「仲町」とも称する中心街区を形成することとし、塔は儒学者である藤沢南岳により「通天閣」と命名された。
南霞町にはニューヨークのコニーアイランドに似た遊園地を開くこととし、「ルナパーク」と命名された。1912年初代通天閣およびルナパークが完成、7月に開業した。
この時の通天閣は凱旋門の上にエッフェル塔を載せた様子を模したもので、現在とは外見が異なり、また、現在のものよりも南側にあった。通天閣とルナパークの間にはイタリアのセレッティ・タンファーニ社が製造した日本初の旅客用ロープウェイを設置し、ルナパーク内に置かれた「幸運の神」ビリケン像と共に名物となっていた。
通天閣及びルナパークの開業により、新世界には芝居小屋や映画館、飲食店が集まり出し、1915年には東に隣接する天王寺公園西部に天王寺動物園が開園、1918年には南東に隣接して飛田遊廓が開設、1919年には新世界に大阪国技館が建設され、周辺地域を含め一大歓楽街として認識されるようになる。
そんな中でルナパークは振るわず、1923年に閉園となり、跡地は大阪市電天王寺車庫に転用された。




このように、「大大阪」と呼ばれた時代に、新たな中心地に建てられた通天閣とルナパーク、そしてロープウェイはさぞかし華やかだったことだろう。圧倒的な規模のアトラクションを揃えたが、時代に恵まれずに業績が振るわなかったのは残念だ。
ちなみに、1911年開園の「宝塚新温泉」では1924年に宝塚大劇場と遊戯施設を設置した遊園地が完成したが、その遊園地は「ルナパーク」と呼ばれた。新世界ルナパークを引き継ぐような形になった。
結果として、河浦謙一によってアメリカや世界の流行をタイムリーに捉えてルナパークが開園されたが、本国のアメリカ同様にルナパークは歴史となってしまったようだ。
一方で、萩原朔太郎の詩集『遊園地にて』(1931年) は遊園地に「ルナパーク」とルビがふられている。このように、かつて日本でも「ルナパーク」が遊園地の代名詞であり、また現在でも多くの国々で営業していることを頭に入れておこう。


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たびたび話題となる女性天皇だが、歴史上は 第33代推古天皇、第35代皇極天皇、第37代斉明天皇、第41代持統天皇、第43代元明天皇、第44代元正天皇、第46代孝謙天皇、第48代称徳天皇、第109代明正天皇、第117代後桜町天皇と10代の女性天皇が存在した。
この中で斉明天皇は皇極天皇の、称徳天皇は孝謙天皇の重祚 (再即位) で同一人物であるから、女性天皇は歴史上8方ということになる。

皇極 (こうぎょく) 天皇 = 斉明 (さいめい) 天皇は推古天皇に次ぐ2方目の女性天皇であり、また初めて退位した天皇、初めて重祚した天皇ということで何かと記録的な天皇だ。まずは略歴と即位にあたっての背景を見てみたい。



斉明天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87

第30代敏達 (びだつ) 天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子の王子・茅渟王 (ちぬのおおきみ) の第一王女。母は吉備姫王。
はじめ高向王(第31代用明 (ようめい) 天皇の孫)と結婚して、漢皇子を産んだ。なお、この2人の詳細は不明。
後に630年3月1日、37歳で第34代舒明 (じょめい) 天皇の皇后に立てられる。舒明天皇との間に、中大兄皇子 (のちの天智天皇)、間人皇女 (孝徳天皇の皇后)、大海人皇子 (のちの天武天皇) を産んだ。
641年11月17日 舒明天皇が崩御する。継嗣となる皇子が定まらなかったので、642年1月15日第35代皇極天皇として即位した。49歳であった。

645年6月12日、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する (乙巳の変・大化の改新)。その翌日の6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子 (後の第36代孝徳天皇) に大王位を譲った。日本史上初の譲位 (退位) とされる。新大王の孝徳天皇より、皇祖母尊 (すめみおやのみこと) の称号が奉られた。

654年10月10日に孝徳天皇が崩御。655年1月3日、62歳のとき再び皇位に即いた。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。


歴代の女性天皇について
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai3/3siryou3.pdf

第34代舒明が641年に崩御した後、当時権勢を誇っていた蘇我氏は舒明天皇と蘇我氏の女性との間に生まれた古人大兄 (ふるひとのおおえ) 皇子の即位を望んだ。しかしながら、皇位継承の有力候補として廐戸 (うまやど) 皇子の王子である山背王 (やましろのおおえ) がいたため、ひとまず舒明天皇の皇后である皇極天皇が即位したものと見られる。
このように皇極天皇が即位した経緯には、容易に後継者を決定できなかったという状況と 蘇我氏の強い意向という事情があったものと思われる。

第36代孝徳天皇が崩御したとき、皇位継承の有力候補としては皇極天皇の皇子で当時皇太子であった中大兄皇子 (のちの天智天皇) がいた。しかし他方で孝徳天皇の皇子の有間 (ありま) 皇子も有力であったこと、或いは孝徳天皇と中大兄皇子との間に不和が生じた中で孝徳天皇が崩御したことなどから、中大兄皇子が即位することは容易ではない状況にあった。このようなことから皇極天皇が再度即位し斉明天皇になったものと見られる。




さらに慌ただしいことに在任中に計5回 (詳細不明分を含めると6回) も遷幸している。「歴史上における日本の首都は、天皇の居住地である」と考えるのであれば、天皇が居を移すことは即ち遷都である。皇極天皇=斉明天皇の遷都歴を簡単にまとめてみたい。

先代の舒明天皇が641年に崩御したのは百済宮 (くだらのみや、奈良県広陵町、奈良県桜井市など諸説あり) で、642年1月に皇極天皇も即位当時は同宮に居を構えていたが、同年12月21日に小墾田宮 (おはりだのみや、奈良県明日香村) に遷幸した。小墾田宮は第33代推古天皇が603年に築造した皇居で603年の年冠位十二階制定、604年の十七条憲法制定など重要施策が行われた宮で、皇極天皇はそこに一時的に居を移した。
しかしこれは一時的な仮住まいであり、643年4月に飛鳥板蓋宮 (あすかいたぶきのみや、奈良県明日香村) が完成すると再び遷幸した。「板蓋宮」という名前は、文字どおり屋根に板 (豪華な厚い板) を葺いていたことに由来するといわれており、ここから当時の屋根のほとんどは檜皮葺・草葺き・茅葺き・藁葺きであり、板葺きの屋根の珍しかったことがわかる。

そして飛鳥板蓋宮は、645年7月10日の乙巳の変 (大化の改新) の舞台となった。これにより皇極天皇は退位し、その後第36代孝徳天皇が即位したが、孝徳天皇は難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき、大阪市)に宮を置き、654年に崩御するまで同宮に居を構えた。
655年1月に皇極天皇は斉明天皇として62歳で重祚したが、その際に再び飛鳥板蓋宮が皇居となった。同年秋に小墾田に宮を造ろうとしたが中止となり、そうこうしているうちに同年末に板蓋宮は火災に遭い焼失してしまった。
そこで斉明天皇は飛鳥川原宮(あすかのかわらのみや、奈良県明日香村)に遷ったが、これも一時的な仮住まいで、並行して新たな宮殿建設地の選定を行っており、翌656年には岡本に新宮殿が建てられた。これが後飛鳥岡本宮 (のちのあすかのおかもとのみや、奈良県明日香村) である。この地は斉明天皇 (=皇極天皇) の夫である舒明天皇が即位してまもなく遷宮した地であり、亡き夫の旧宮地を選んだということになる。
しかし建てられたばかりの飛鳥岡本宮も火災に遭い、斉明天皇は飛鳥田中宮 (あすかたなかのみや、奈良県橿原市) に移ったとされるが、ここははっきりした記録が見つからなかった。

その後660年に朝鮮半島で百済が唐と新羅によって滅ぼされたが、百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、661年5月に筑紫の朝倉橘広庭宮 (あさくらのたちばなのひろにわのみや、福岡県朝倉市) に遷幸し百済復興の戦に備えた。これは日本史上初めて畿内地方以外への遷幸であり、唯一の九州への遷幸であった。 (尚、高知県高知市の朝倉神社の社伝では、朝倉橘広庭宮は同社にあたるとしている)
しかし斉明天皇は同年7月24日に同地で崩御した。次代の38代天智天皇 (中大兄皇子) は長い間皇位に即かず皇太子のまま政務を執ったが (=称制)、その間は難波長柄豊碕に居を構えていた。

ということで、かなり複雑な変遷となるが、まとめると以下のとおりとなる。
 皇極天皇
  百済宮 (くだらのみや) 642年1月~
  小墾田宮 (おはりだのみや) 642年12月~
  飛鳥板蓋宮 (あすかいたぶきのみや) 643年4月~
 斉明天皇
  飛鳥板蓋宮 (あすかいたぶきのみや) 655年1月~
  飛鳥川原宮(あすかのかわらのみや) 655年冬~
  後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや) 656年~
  飛鳥田中宮 (あすかたなかのみや) 不明
  朝倉橘広庭宮 (あさくらのたちばなのひろにわのみや) 661年5月~

『日本書紀』によれば、斉明天皇はしばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判したそうである。
既術のとおり後飛鳥岡本宮は建立後すぐに火災に遭ったが、斉明天皇によって営まれた多くの土木事業が動員される民衆にとって非常に不評であり、このために放火されたのではないかとする説も出ているそうだ。
まだ都が形成されていない時代に、複雑な権力争いの中で2度にわたって即位した皇極天皇=斉明天皇の絶対的な権限を示す史実といえるだろう。


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