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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




ディズニーランドは東京をはじめ世界に6ヵ所、ユニバーサルスタジオは大阪をはじめ世界に5ヵ所あるそうだ。一方で世界の遊園地・テーマパークで最も数が多いのは「ルナパーク」ではないだろうか。

ルナパーク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF

ルナパーク (Luna Park) は、世界各地で営業しているまたはすでに閉鎖された遊園地である。初めてのものは1903年に開園し、現在は南極大陸を除く世界中で営業している。
最初にルナパークという名前を冠したのは、アメリカ・コニーアイランドのルナパークである。汎アメリカ万博の出し物であった"月への旅行" (A Trip to the Moon) のアミューズメント・ライドの宇宙船から名前を取って「ルナパーク」と命名された。
多くのルナパークはすでに閉鎖されたが、ルナパークの名声は多くの国で受け継がれていった。


この記事のリストで営業期間が現在も続いているのは、世界で31ヵ所もある。メルボルンのルナパークは1912年開園で100年以上の歴史を持っている。
このリストにはないが、日本では前橋市の1954年開園の前橋市中央児童遊園が、2004年から「るなぱあく」として営業している。入園料無料、大型遊具が一人1回50円、木馬と小型遊具は1回10円で、日本一安い遊園地とのことである。
日本で最初の遊園地は1853年開園の「浅草花やしき」(1942年に解体され、1947年に復活して現在に至る) だが、開園当時の遊具はブランコだけだったそうだ。1911年開園の「宝塚新温泉」(後に「宝塚ファミリーランド」となり2003年に閉園) も挙げられるが、当初はプールや演舞場が中心であった。1912年開園の「ひらかたパーク」は現存する日本最古の遊園地だが、菊人形展が起源でその後に施設が充実していったものである。
しかし1910年に専門的な遊園地が開園している。「浅草公園ルナパーク」である。

ルナパーク (浅草)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF_(%E6%B5%85%E8%8D%89)

浅草公園ルナパークは、日本で最初にできたルナパークの名前を冠する遊園地である。
河浦謙一の映画会社である吉沢商店によって建設され所有されていた。ニューヨークのコニーアイランドに1903年に開業したルナパークを模して設計。 1910年9月10日、「日本パノラマ館」の跡地約1,200坪、東京市浅草区公園六区(現在の台東区浅草1丁目43番)で開業。
夜間も開いている「月の公園」といわれ、高さ15mの人工山と瀑布、天文館、木馬館(メリーゴーラウンド)、汽車活動写真館、映画館、飲食店などを設けた。 人気があり盛況であったが、1911年4月29日に漏電が原因で火災により焼失、僅か8ヶ月のみの営業であった。
上記の火災とほぼ同時期に、河浦の所有する大阪の映画館二件も不審火で焼失した。原因は放火だったとされている。この三件の火災により吉沢商店は苦境に陥り、アメリカから進出してくる海外映画産業などとの競争が厳しい状況となった。河浦は吉沢商店を375,000ドルで売却し、新しいルナパークを東京ではなく大阪に建設することを決めた。




吉澤商店主・河浦謙一の足跡 (1) - 東京国立近代美術館
www.momat.go.jp › sites › 2015/01 › 18_pp.32-63.pdf

河浦謙一(1868-1957) は、日本映画史の第一頁を飾った明治期最大の映画商社、吉澤商店の店主である。映画史の基礎文献では、活動写真(シネマトグラフ)の輸入と公開、初の国産映写機の製造、常設館第一号「電気館」の開館、最初の撮影所の建設など、草創期の主要なトピックのあちらこちらに、吉澤商店と河浦謙一の名が刻まれているのを目にすることができる。



ちなみに場所は現在の浅草演芸ホールを含む一帯で、花やしきとは目と鼻の先である。



そして、翌1912年7月に河浦は大阪でルナパークを開園した。

ルナパーク (大阪)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF_(%E5%A4%A7%E9%98%AA)

新世界ルナパークは、閉鎖した浅草ルナパークを引き継いで日本で二番目にできたルナパークという名前を冠する遊園地である。1912年に開園し1923年まで営業された。大阪の新世界にあり、敷地面積は132,000平方メートルであった。
同時期に初代通天閣がルナパーク建設予定地のすぐ北に建てられていた。こうしてルナパークのホワイトタワー(白塔)と高さ86mの通天閣がロープウェイ(索道飛行船)によって結ばれ、観客がパークの入り口へ向かう際に空中の景色を楽しめるように設計された。これはイタリアのセレッティ・タンファーニ (Ceretti&Tanfani) 社が製造した日本初の旅客用ロープウェイであった。
新世界ルナパークのアトラクションには、絶叫マシーン(サークリングウェーブ:円形のフレームに乗るところが付いていて、これが回転しながら上下する乗り物など)や、メリーゴーランド、ローラースケートホール、演芸場、活動写真館、音楽堂(奏楽堂)、不思議館、展望塔(白塔)、大衆演舞場(清華殿)、動物舎、および瀑布渓流(綾糸瀧、真澄ノ池)、噴泉浴場、円形大浴場、サウナ風呂、温水プールなどが設置されていた。
新世界ルナパークは1923年のシーズンをもって閉鎖された。1943年1月には初代通天閣が火災により損傷し、そのまま閉鎖され、材料を軍事利用するために日本政府によって解体された。戦後になって二代目の通天閣が建設され、1956年に営業を開始した。

大阪新世界串カツいっとく 新世界の歴史
http://www.to-kosan.com/rekishi/

第5回内国勧業博覧会跡地は日露戦争中に陸軍が使用したのち、1909年に東側の約5万坪が大阪市によって天王寺公園となり、西側の約2万8千坪が大阪財界出資の大阪土地建物会社に払い下げられ、ここに新世界の開発が始まった。
北から順に、恵美須町1丁目には南端中央に円形広場を設け、パリの街路に見立てた3方向の放射道路を北へ配すことになった。放射道路は西から順に「恵美須通」「玉水通」「合邦通」と命名された。北霞町には北端中央にエッフェル塔を模した塔を建て、「仲町」とも称する中心街区を形成することとし、塔は儒学者である藤沢南岳により「通天閣」と命名された。
南霞町にはニューヨークのコニーアイランドに似た遊園地を開くこととし、「ルナパーク」と命名された。1912年初代通天閣およびルナパークが完成、7月に開業した。
この時の通天閣は凱旋門の上にエッフェル塔を載せた様子を模したもので、現在とは外見が異なり、また、現在のものよりも南側にあった。通天閣とルナパークの間にはイタリアのセレッティ・タンファーニ社が製造した日本初の旅客用ロープウェイを設置し、ルナパーク内に置かれた「幸運の神」ビリケン像と共に名物となっていた。
通天閣及びルナパークの開業により、新世界には芝居小屋や映画館、飲食店が集まり出し、1915年には東に隣接する天王寺公園西部に天王寺動物園が開園、1918年には南東に隣接して飛田遊廓が開設、1919年には新世界に大阪国技館が建設され、周辺地域を含め一大歓楽街として認識されるようになる。
そんな中でルナパークは振るわず、1923年に閉園となり、跡地は大阪市電天王寺車庫に転用された。




このように、「大大阪」と呼ばれた時代に、新たな中心地に建てられた通天閣とルナパーク、そしてロープウェイはさぞかし華やかだったことだろう。圧倒的な規模のアトラクションを揃えたが、時代に恵まれずに業績が振るわなかったのは残念だ。
ちなみに、1911年開園の「宝塚新温泉」では1924年に宝塚大劇場と遊戯施設を設置した遊園地が完成したが、その遊園地は「ルナパーク」と呼ばれた。新世界ルナパークを引き継ぐような形になった。
結果として、河浦謙一によってアメリカや世界の流行をタイムリーに捉えてルナパークが開園されたが、本国のアメリカ同様にルナパークは歴史となってしまったようだ。
一方で、萩原朔太郎の詩集『遊園地にて』(1931年) は遊園地に「ルナパーク」とルビがふられている。このように、かつて日本でも「ルナパーク」が遊園地の代名詞であり、また現在でも多くの国々で営業していることを頭に入れておこう。


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たびたび話題となる女性天皇だが、歴史上は 第33代推古天皇、第35代皇極天皇、第37代斉明天皇、第41代持統天皇、第43代元明天皇、第44代元正天皇、第46代孝謙天皇、第48代称徳天皇、第109代明正天皇、第117代後桜町天皇と10代の女性天皇が存在した。
この中で斉明天皇は皇極天皇の、称徳天皇は孝謙天皇の重祚 (再即位) で同一人物であるから、女性天皇は歴史上8方ということになる。

皇極 (こうぎょく) 天皇 = 斉明 (さいめい) 天皇は推古天皇に次ぐ2方目の女性天皇であり、また初めて退位した天皇、初めて重祚した天皇ということで何かと記録的な天皇だ。まずは略歴と即位にあたっての背景を見てみたい。



斉明天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87

第30代敏達 (びだつ) 天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子の王子・茅渟王 (ちぬのおおきみ) の第一王女。母は吉備姫王。
はじめ高向王(第31代用明 (ようめい) 天皇の孫)と結婚して、漢皇子を産んだ。なお、この2人の詳細は不明。
後に630年3月1日、37歳で第34代舒明 (じょめい) 天皇の皇后に立てられる。舒明天皇との間に、中大兄皇子 (のちの天智天皇)、間人皇女 (孝徳天皇の皇后)、大海人皇子 (のちの天武天皇) を産んだ。
641年11月17日 舒明天皇が崩御する。継嗣となる皇子が定まらなかったので、642年1月15日第35代皇極天皇として即位した。49歳であった。

645年6月12日、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する (乙巳の変・大化の改新)。その翌日の6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子 (後の第36代孝徳天皇) に大王位を譲った。日本史上初の譲位 (退位) とされる。新大王の孝徳天皇より、皇祖母尊 (すめみおやのみこと) の称号が奉られた。

654年10月10日に孝徳天皇が崩御。655年1月3日、62歳のとき再び皇位に即いた。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。


歴代の女性天皇について
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai3/3siryou3.pdf

第34代舒明が641年に崩御した後、当時権勢を誇っていた蘇我氏は舒明天皇と蘇我氏の女性との間に生まれた古人大兄 (ふるひとのおおえ) 皇子の即位を望んだ。しかしながら、皇位継承の有力候補として廐戸 (うまやど) 皇子の王子である山背王 (やましろのおおえ) がいたため、ひとまず舒明天皇の皇后である皇極天皇が即位したものと見られる。
このように皇極天皇が即位した経緯には、容易に後継者を決定できなかったという状況と 蘇我氏の強い意向という事情があったものと思われる。

第36代孝徳天皇が崩御したとき、皇位継承の有力候補としては皇極天皇の皇子で当時皇太子であった中大兄皇子 (のちの天智天皇) がいた。しかし他方で孝徳天皇の皇子の有間 (ありま) 皇子も有力であったこと、或いは孝徳天皇と中大兄皇子との間に不和が生じた中で孝徳天皇が崩御したことなどから、中大兄皇子が即位することは容易ではない状況にあった。このようなことから皇極天皇が再度即位し斉明天皇になったものと見られる。




さらに慌ただしいことに在任中に計5回 (詳細不明分を含めると6回) も遷幸している。「歴史上における日本の首都は、天皇の居住地である」と考えるのであれば、天皇が居を移すことは即ち遷都である。皇極天皇=斉明天皇の遷都歴を簡単にまとめてみたい。

先代の舒明天皇が641年に崩御したのは百済宮 (くだらのみや、奈良県広陵町、奈良県桜井市など諸説あり) で、642年1月に皇極天皇も即位当時は同宮に居を構えていたが、同年12月21日に小墾田宮 (おはりだのみや、奈良県明日香村) に遷幸した。小墾田宮は第33代推古天皇が603年に築造した皇居で603年の年冠位十二階制定、604年の十七条憲法制定など重要施策が行われた宮で、皇極天皇はそこに一時的に居を移した。
しかしこれは一時的な仮住まいであり、643年4月に飛鳥板蓋宮 (あすかいたぶきのみや、奈良県明日香村) が完成すると再び遷幸した。「板蓋宮」という名前は、文字どおり屋根に板 (豪華な厚い板) を葺いていたことに由来するといわれており、ここから当時の屋根のほとんどは檜皮葺・草葺き・茅葺き・藁葺きであり、板葺きの屋根の珍しかったことがわかる。

そして飛鳥板蓋宮は、645年7月10日の乙巳の変 (大化の改新) の舞台となった。これにより皇極天皇は退位し、その後第36代孝徳天皇が即位したが、孝徳天皇は難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき、大阪市)に宮を置き、654年に崩御するまで同宮に居を構えた。
655年1月に皇極天皇は斉明天皇として62歳で重祚したが、その際に再び飛鳥板蓋宮が皇居となった。同年秋に小墾田に宮を造ろうとしたが中止となり、そうこうしているうちに同年末に板蓋宮は火災に遭い焼失してしまった。
そこで斉明天皇は飛鳥川原宮(あすかのかわらのみや、奈良県明日香村)に遷ったが、これも一時的な仮住まいで、並行して新たな宮殿建設地の選定を行っており、翌656年には岡本に新宮殿が建てられた。これが後飛鳥岡本宮 (のちのあすかのおかもとのみや、奈良県明日香村) である。この地は斉明天皇 (=皇極天皇) の夫である舒明天皇が即位してまもなく遷宮した地であり、亡き夫の旧宮地を選んだということになる。
しかし建てられたばかりの飛鳥岡本宮も火災に遭い、斉明天皇は飛鳥田中宮 (あすかたなかのみや、奈良県橿原市) に移ったとされるが、ここははっきりした記録が見つからなかった。

その後660年に朝鮮半島で百済が唐と新羅によって滅ぼされたが、百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、661年5月に筑紫の朝倉橘広庭宮 (あさくらのたちばなのひろにわのみや、福岡県朝倉市) に遷幸し百済復興の戦に備えた。これは日本史上初めて畿内地方以外への遷幸であり、唯一の九州への遷幸であった。 (尚、高知県高知市の朝倉神社の社伝では、朝倉橘広庭宮は同社にあたるとしている)
しかし斉明天皇は同年7月24日に同地で崩御した。次代の38代天智天皇 (中大兄皇子) は長い間皇位に即かず皇太子のまま政務を執ったが (=称制)、その間は難波長柄豊碕に居を構えていた。

ということで、かなり複雑な変遷となるが、まとめると以下のとおりとなる。
 皇極天皇
  百済宮 (くだらのみや) 642年1月~
  小墾田宮 (おはりだのみや) 642年12月~
  飛鳥板蓋宮 (あすかいたぶきのみや) 643年4月~
 斉明天皇
  飛鳥板蓋宮 (あすかいたぶきのみや) 655年1月~
  飛鳥川原宮(あすかのかわらのみや) 655年冬~
  後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや) 656年~
  飛鳥田中宮 (あすかたなかのみや) 不明
  朝倉橘広庭宮 (あさくらのたちばなのひろにわのみや) 661年5月~

『日本書紀』によれば、斉明天皇はしばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判したそうである。
既術のとおり後飛鳥岡本宮は建立後すぐに火災に遭ったが、斉明天皇によって営まれた多くの土木事業が動員される民衆にとって非常に不評であり、このために放火されたのではないかとする説も出ているそうだ。
まだ都が形成されていない時代に、複雑な権力争いの中で2度にわたって即位した皇極天皇=斉明天皇の絶対的な権限を示す史実といえるだろう。


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このブログをはじめてまだ間もない頃に「人車軌道」について取り上げた。人車軌道は1900年ごろから多く開業し全国に約30路線があった。主に (1) 重量貨物を最寄の鉄道駅から加工地に運搬するための鉄道、(2) 機械動力よりも安い人力を使った通常の鉄道 に分類できた。ともに貨物も旅客も扱ったが、人力運転の非効率性から廃止された。
現在の感覚では人が客車や貨車を押すなど信じられないのだが、静岡県の島田軌道は1898年開業、1955年休止 (1959年廃止) と60年近くも営業されていた。

当然だが「人」以外に「馬」も曳いている。1882年に日本初の馬車鉄道として「東京馬車鉄道」が開業した。その後北海道から沖縄まで全国に馬車鉄道は広まっていった。
しかし、糞尿の処理や給餌などの手間がかからない電気動力に転換される形で馬車鉄道は衰退していった。最後まで営業したのは宮崎県の銀鏡 (しろみ) 軌道で1949年まで続いた。馬車鉄道よりも人車軌道の方が後まで続いたというのは驚きだ。

それでは「牛」はどうか? 

もともと日本では馬車よりも牛車が栄えた。それは以下のような理由によるようだ。

レファレンス協同データベース レファレンス事例詳細
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000028343

どうして馬車は牛車に比べ、あまり日本では発達しなかったのか。
① 日本に伝ってきた馬文化は、朝鮮半島経由で伝わった騎馬民族郷土の文化で、ヨーロッパの戦車中心の文化とは違い、騎馬を中心に勢力圏を拡大した文化であったこと。
② 日本には野生馬を含めて馬の数が少なく、非常に貴重な動物であった。それゆえに「神馬」というように権力者の象徴となり、これに荷を牽かすという発想は生まれなかった。
③ 日本は多湿の海洋性気候のため、年間を通じて雨が多く河川も多い。また火山列島のため山地が多く、江戸時代に街道が整備されたとは言え、馬車を自由に走らせるスペースは少なかった、という気候と地形の問題。
④ 時代が変わっても高価な動物であることに変わりはなく、平民の乗馬は明治まで許されず、牛-公家、馬-武士のものとされていた。また江戸時代には戦略上の理由から、馬や車の使用について厳しい規制があり、馬車の登場する余地はなかった。
このような理由から、比較的早い時代に万が一馬車文化が入ってきたとしても、普及する余地がなかった、と記載されている。


一方で牛車は平安時代に貴族の一般的な乗り物であった。当時は移動のための機能性よりも使用者の権威を示すことが優先され、重厚な造りや華やかな装飾性が求められた。



その後も大量の物資の輸送に牛車は長く利用された。その牛車はレールの上を走ったことはあったのだろうか。
調べてみると、明治時代後期に日光で牛車鉄道が営業していたことがわかった。

とちぎレイルビュー 東武鉄道日光軌道線
http://www.asahi-net.or.jp/~se1t-imi/lr_nikkoutram/lr_nikkoutram.htm

1890(M23) 8・1 日本鉄道 宇都宮-日光間全通 古河市兵衛 足尾(神子内)-日光(細尾)に索道を敷設
1893(M26) 古河 細尾-日光駅間に牛車軌道を敷設
1910(M43) 8・10 日光電気軌道 日光-岩ノ鼻間8.0kmで営業開始


日光を漂ふ
https://nikko37.exblog.jp/20398879/

明治二十六年 (1893年) に、古河鉱業会社は輸送力の増強を計り、細尾・日光駅間に軌道を敷設して牛車を運行した。牛車軌道の開通によって、古河鉱業の細尾・日光駅間の駄馬輸送は廃止されたが、民間の日用品は駄馬の背で運ばれた。ただ、日光線 (日本鉄道) を利用した観光客も増えてくると、牛や馬の糞が道路を不潔にするということで、日光町民の批判も多くなっていた。
そんなおりの、電気軌道工事だったが、来晃する観光客を相手にする人力車夫はもちろん、仕事を奪われる牛車軌道の労働者の反対は当然予想された。

(日光軌道の一番電車が走った日)文明のシンボルとも言うべき電車を一目見ようと、町民は人垣をつくる。すると車掌の顔に見覚えがある。あれは牛車鉄道の牛ひきたちじゃないか。どうも慣れないせいか制服姿がぎこちないな。そうそう、別の牛ひきはホテルに卸す牛乳屋に商売替えしたそうだ・・・・・。なんとも賑やかな見物人たちに囲まれて、一番電車は走った。


すなわち、1877年から着手されて1881年に有望鉱脈が発見された足尾銅山で産出された銅を、索道 (ロープウェー) と牛車で日光まで運んでいたものだ。1890年代には次々と有望鉱脈が発見され、20世紀初頭には日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長しており、銅の輸送は極めて重要だったことが理解できる。
そして1910年に電気軌道の営業が開始され、置き換えられていった。(但し、牛車鉄道と電気軌道の路線は異なるルートである)

当時の地図を以下で確認することができる。

国立国会図書館デジタルコレクション 日光の栞 : 日光案内書
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764330





日本鉄道の日光駅から牛車鉄道の路線が確認できる。現在の地図を元に辿ると、東武日光駅あたりから出発して国道119号・120号を通り、大谷川を渡って国道122号で細尾に向かうルートだ。その先に足尾鉱山がある。



また当時の写真 (本記事のカバー写真を拝借) も以下で確認することができる。

あかがね会 日光の牛車鉄道について、[東武鉄道博物館]見学
http://akagane-k.sakura.ne.jp/a-kai/alacarte/alacarte/kawamura63/kawamura63.html

明治初期の鉄道開通と馬車文化の浸透が同じようなタイミングだったので、スピードを優先する鉄道に馬車が間にあったというところだろう。もし鉄道の開通がもう少し早ければ日光以外にも牛車鉄道の例があったかもしれない。いずれにしても早期に衰退する運命ではあったが。
歴史の中でほとんど埋もれてしまっている牛車鉄道の僅かな記録を後世まで残していきたい。



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鉄道の用途には大きく旅客輸送と貨物輸送があるが、当然ながらもともと貨物輸送用で営業を始めたものが旅客輸送用に転用される事例も多い。
貨物輸送の中で、砂利の貨物輸送を主目的に敷設された鉄道は、非公式な定義であるが「砂利鉄道」と称された。

砂利鉄道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E5%88%A9%E9%89%84%E9%81%93

20世紀初頭において、河川敷で採掘した砂利を建築材料などとして活用するために大都市の中心部まで輸送することは重要だった。これは、 首都圏などで鉄道が新たに建設される大きな目的の一つとなった。特に東京の都心に近い多摩川においては砂利の採掘とその鉄道貨物輸送が活発に行われた。
1920-40年代に、砂利採掘の機械化と鉄道による大量輸送により、首都圏の砂利鉄道は大正末期から昭和初期にかけて盛んになった。その反面で、砂利の採掘は川に様々な悪影響を及ぼした。堤防の破壊、河床面の低下による橋梁基礎の露出と危険、水質の汚染などである。その根本的な原因は、砂利の採掘量が上流からの供給量を上回っていた点にあったという。
第二次世界大戦を経て、戦後に砂利の採掘は再び活発になったものの、その制限は強化されるようになった。そして、1964年に、多摩川、相模川、入間川、荒川などの砂利採掘は全面的に禁止されるようになり、砂利鉄道もその役目を終えることとなった。一方、東京郊外の宅地化が進行して、通勤客などの輸送量は増大し続けた。かつて砂利の貨物輸送のために建設された鉄道は、多くの沿線住民が利用する通勤路線として発展し、その姿を大きく変えることになった。


内田宗治氏の「地形と地理で解ける!東京の秘密33 多摩・武蔵野編」(実業之日本社) のP134~143を参照しながら、もう少し詳細を展開したい。

とくに1923年の関東大震災後の帝都復興において、多摩川の砂利が多く使われた。大正時代はそれまでのレンガに代わってコンクリートの建造物が盛んに作られ始めた時期である。関東地方の河川の中で砂利生産量は多摩川が飛び抜けて多かった。多摩川の砂利にはコンクリート用として適度な弾力性持つとされる硬砂岩がたくさん含まれていた。採掘面では、砂利の堆積層が厚く広く川床も平坦という条件を満たし、更に大消費地の東京への運搬距離が短くて済む、と多摩川はまさに天の恵みのような川だった。

そして多摩川をわたる多くの鉄道が砂利を運搬し、また砂利運搬を目的に鉄道が敷設された。
最も砂利を運搬したのは、1910年に建設された貨物専用の東京砂利鉄道で、中央線国分寺駅から現在の武蔵野線府中本町駅の南側まで延びていた路線である。1920年に鉄道省が同社線を採掘権と共に買収し、中央本線下河原支線とした。同線はその後東京競馬場前駅が設けられて旅客輸送も行ったが、最終的に1976年4月に武蔵野線の府中本町までの延伸に伴い廃線となった。
また、現在の西武多摩川線も1910年に砂利運搬を目的として設立された多摩鉄道が前身である。現在の競艇場前駅(当初は常久駅)から多くの砂利が搬出された。現在の多摩川競艇場は陸掘りされた穴に水が貯まったものを整備して競艇場に転用したものである。

その他にも現在のJR南武線 (当時は南武鉄道) や京王相模原線も砂利運搬を目的として設立され、現在通勤路線として残っている。
そして1969年に廃止された東急玉川線 (愛称「玉電」) も、同様に砂利運搬を目的として設立された鉄道である。

東急玉川線 歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A5%E7%8E%89%E5%B7%9D%E7%B7%9A#%E6%AD%B4%E5%8F%B2

玉電は、1896年に玉川砂利電気鉄道により、二子多摩川付近の砂利を東京都心に輸送することを主目的として、東京市麹町区の三宅坂と玉川の間の路線開設が出願されたことを起源とする。1903年に玉川電気鉄道が設立され、1907年に渋谷 - 玉川間が開業した。
玉川から運んできた砂利を都心に輸送するため、渋谷では、都心に線路を伸ばしていた東京市電と軌道が接続され、渋谷には砂利運搬車両の留置線も設置された。1924年には玉川 - 砧間に砧線が開業し、二子橋の上流にあたる大蔵付近の砂利の輸送を開始した。このように、砂利輸送を主目的とした性格から、「ジャリ電」と呼ばれることもあった。関東大震災後の市内補修の砂利運搬には威力を発揮した。


この記事にあるとおり、渋谷には砂利運搬車両の留置線が設置され、砂利の積み下ろし場も設けられた。この具体的な場所は以下のサイトに詳しい。

平成作庭記+α タマデン「渋谷停留場」の変遷
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/12/post-cecc.html

国会図書館の近代デジタルライブラリーに、1912年の地籍図「東京市及接続郡部地籍地図」があるのを、他の調べものの折に見つけました。その、豊多摩49図「澁谷町大字中澁谷字大和田下」が、明治末期のタマデン澁谷停留場周辺の地図にあたります。



鉄道線が横方向に3条描かれていますが、一番上(西)がタマデン。その下が省線の山手線、一番下が東京市電。その下が渋谷川で、右端に暗渠化される前の支流の宇田川が描かれている。
道玄坂南の専用軌道を下ってきた線路が、大きく右に90度近く曲がった先に旅客用の停留場があり、さらにその先に続く線路が180度曲がった先に砂利の積み下ろし場があったらしいことがわかります。



また、以下のサイトで確認できるとおり、砂利の積み下ろし場はまさに現在のハチ公前広場周辺である。当時の渋谷駅は現在よりも恵比寿駅寄りであったが、その後1920年にほぼ現在の位置に移転している。

三井トラスト不動産 「渋谷駅」と乗り入れ路線の変化
https://smtrc.jp/town-archives/city/shibuya/p09.html



この地図は1911年頃を描いたものだが、その後、1923年には市電青山線の停留場が現在の「ハチ公前広場」の位置まで延伸し玉電に接続され、多摩川からの砂利輸送が便利になったとのことだ。

1885年の渋谷駅開業当初、このあたりは田畑と武家屋敷が点在する閑静な土地で、砂利積み下ろし場が設置されたことに違和感はない。その後1923年の関東大震災の後に比較的被害が少なかったこの地に多くの商人が移り住み、その後も最先端の街となった。100年前は砂利が運ばれれて積み下ろしを行っていたということを頭に入れて、現在も進む渋谷駅の劇的な変化を見守っていこう。



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以前このブログで、1862年に刊行された日本で最初の日本語の新聞である『官板バタビヤ新聞』を紹介した。同紙はオランダ政庁が贈ったバタビヤ(現在のジャカルタ)で発行された新聞(バタビヤを支配していたオランダ政府の機関紙)を、幕府の学者が翻訳・編集したもので、オランダ国内および国際ニュースが主な内容であった。

その後明治となりになり、翻訳でなく日本人の手で新聞が創作された。1868年(明治元年)に京都で明治新政府の官報として『太政官日誌』が、江戸で柳川春三などにより『中外新聞』が発行された。

早稲田大学 幕末・明治のメディア展 第1部 第3章 黎明期の新聞
http://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/bakumei/13/

期せずして東西で同時に『太政官日誌』『中外新聞』が発行されたことは、いうまでもなく、恭順か佐幕かという当時の国論分裂の様相を反映したものだといえる。国内に政治的対立がある場合、世論を自派へ誘導するひとつの武器として新聞紙の機能が重視されたのは当然であった。党派的感情があればこそ、ニュースに対する欲望がわくので、よくいわれる「新聞は読者が作る」という不変の事実も、この時から現れているのである。
明治新政府が成立するや、佐幕、尊皇の言論戦も新政府が厳重な取締令を発したので、佐幕派新聞は続々と廃刊を余儀なくされた。新政府の倒幕事業は一応完成したが、東京と名の改まった市内は社会不安がつのり、物情騒然たるものがあった。さきに厳しい新聞取締令を出した新政府も、単に治安維持のみでなく、基礎的政治様式確立の手段としても、新聞の必要なることを痛感し、明治二年「新聞紙印行条例」を公布してはじめて正式に新聞の発行を認めた。これは実に日本における最初の新聞紙法ともいうべきものである。かくして幾多の新聞が復活、創刊された。





このように多くの新聞が発行されるようになった。1870年には日本最初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊され、1872年には『東京日日新聞』(現在の毎日新聞) や『郵便報知新聞』(現在のスポーツ報知の前身) などが創刊された。



明治政府は新聞の普及が国民の啓蒙に役立つという認識から、新聞を積極的に保護する政策を取り、日本各地に無料の新聞縦覧所や新聞を人々に読み聞かせる新聞解話会を設置するなど各新聞社を支援した。
しかし、1874年の民撰議院設立建白書の提出を機会に自由民権運動が盛んになると、政治権力の保護を受けて政策や方針を擁護・宣伝する立場を採る"御用新聞"よりも、民権派の勢力が強くなり政府に批判的な論調が目立つようになった。そのため明治政府は1875年に新聞紙条例、讒謗律を制定して新聞の言論弾圧に乗り出した。
このわずか5年程度の流れをみると、明治初期は様々な大きな変化が次々と起こったことを改めて認識する。

さて、この頃の新聞は「大新聞」(おおしんぶん) と「小新聞」(こしんぶん) に分類されていた。

大新聞と小新聞
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%A8%E5%B0%8F%E6%96%B0%E8%81%9E

大新聞と小新聞は、明治時代初期(1870年代 - 1880年代)に行われた、新聞の二大別。知識階級を対象に政論を主体としたものを「大新聞」、庶民向けに娯楽記事を主体としたものを「小新聞」と呼んだ。
京浜地区で政論を主張する知識階級向け新聞には、『横浜毎日新聞』『東京日日新聞』『郵便報知新聞』『朝野新聞』『東京曙新聞』などがあったが、庶民向けの娯楽新聞も『読売新聞』『平仮名東京絵入新聞』『仮名読新聞』など続々と現れた。そして1875年末頃からそれ等に「小新聞」と言う名が付いた。政論の新聞の方は「大新聞」である。京阪地区の小新聞には、『浪花新聞』『朝日新聞』などがあった。
両者の相違は主に次のとおり。
 一面の寸法は、大新聞がブランケット判(405×546mm)で、小新聞はその半分のタブロイド判(273×406mm)。
 文章は、大新聞が漢文口調で、小新聞は総ルビの口語体。
 大新聞は政治・政論・国際関係の記事が主で、小新聞は巷の出来事・演芸・読み物の記事が主で、挿絵入り。
 値段は小新聞が大新聞の半分以下。
安くて肩の凝らない方が好まれ、1876年の時点で、小新聞の読売は大新聞の東京日日の1.5倍を売り、両者の差は年と共に広がった。
また大新聞では政党機関紙的な派閥ができ、読者そっちのけで大新聞同士が議論、中傷して世を白けさせ、部数を減らした。一方で小新聞の側では、読売と朝日が既に1879年からルビ付きの論説欄を設け、それが他紙にも広まった。
その後大新聞も小新聞的記事を載せるようになり、小新聞も社会状況に遅れないよう論説などの記事を充実させたため、両者は次第に近付き呼び分けも消滅した。

これは明治政府の新聞の普及支援政策と、その後の国民への浸透という点で極めて自然な流れであろう。どの時代も人々は易しい方に流れる。
1886年には読売新聞が小説欄を設置し、それ以降尾崎紅葉の「金色夜叉」や夏目漱石の「心」など数々の名作が新聞小説から生まれている。文化的な要素を含めて社会で新聞が確立するようになったと言えるだろう。

そして、次に人々はより世俗的なネタを好むようになる。1892年に日本初のゴシップ紙ともいうべき『萬朝報』(よろずちょうほう) が創刊された。

萬朝報
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%AC%E6%9C%9D%E5%A0%B1

1892年11月1日、黒岩涙香の手により東京で創刊される。紙名は「よろず重宝」のシャレから来ている。万朝報と新字体で表記されることもある。
黒岩は日本におけるゴシップ報道の先駆者として知られ、権力者のスキャンダルについて執拗なまでに追及。「蓄妾実例」といったプライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した。天皇皇族にはさすがに触れなかったものの権力者や華族のみならず今なら一般人とみなされるであろう商店主や官吏の妾をも暴露し、妾の実名年齢や妾の父親の実名職業まで記載していた(当時はプライバシーにはそれほどうるさくなく「俺の妾をなぜ載せない」という苦情もあったという)。一時淡紅色の用紙を用いたため「赤新聞」とも呼ばれた。また第三面に扇情的な社会記事を取り上げた事で「三面記事」の語を生んだ。
「永世無休」を掲げ、「一に簡単、二に明瞭、三に痛快」をモットーとし、低価格による販売と黒岩自身による翻案小説の連載、家庭欄(百人一首かるたや連珠(五目並べ)を流行らせた)や英文欄の創設等で大衆紙として急速に発展。1899年に発行部数が東京の新聞中第1位に達した。
1901年に「理想団」を結成。労働問題や女性問題を通じ社会主義思想から社会改良を謳って日清戦争時の世論形成をリードした。しかしその後、主たる購買者であった労働者層をめぐって『二六新報』と激しい販売競争を展開。日露戦争開戦の折、最初は非戦論を唱えていたものの、世間の流れが開戦に傾くにつれ、社論を主戦論に転じ黒岩自体も主戦論者となった。このため、非戦を固持した幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三が退社。これを機に次第に社業は傾き、黒岩の死後は凋落の一途を辿った。


古書の森日記 by Hisako 明治38年の「萬朝報」
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/25680226.html

「蓄妾実例」では、総理大臣の伊藤博文や、森鴎外、勝海舟などもスキャンダルを暴露されている。
その黒岩涙香 (1862~1920年) は、土佐出身で藩校文武館で漢籍を学び、その後英語力を身につけた。自由民権運動に携わり官吏侮辱罪により有罪の判決を受けたこともある。後に新聞記者として活躍する傍らで、翻案小説に取り組むようになる。『今日新聞』に連載した翻案小説『法廷の美人』がヒットして、たちまち翻案小説スターとなった。偶然だが先月紹介したジュール・ヴェルヌの 「Le Voyage dans la lune」を、1883年に「月世界旅行」として翻案している。



上記のとおり「赤新聞」という言葉は『萬朝報』の紙の色に起因するものだが、いわゆる「イエロー・ジャーナリズム」とほぼ一致する。

イエロー・ジャーナリズム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

イエロー・ジャーナリズム(Yellow Journalism)とは、新聞の発行部数等を伸ばすために、事実報道よりも扇情的である事を売り物とする形態のジャーナリズムのこと。
1890年代に『ニューヨーク・ワールド』紙と『ニューヨーク・ジャーナル・アメリカン』紙が、漫画「イエロー・キッド」を奪い合って載せた事に由来する。共に
扇情的な通俗記事や娯楽記事の掲載で『ニューヨーク・ワールド』紙の部数を飛躍的に伸ばしたことを見て、ウィリアム・ランドルフ・ハーストも同種の『ニューヨーク・ジャーナル・アメリカン』紙の発行を始めた。ジャーナル紙はワールド紙の半額で、よりセンセーショナルな記事を満載して部数を伸ばした。両紙による読者獲得のための熾烈な競争が始まり、1896年にハーストはワールド紙のスタッフをごっそり引き抜いた。ワールド紙日曜版の人気漫画イエロー・キッドの作者も引き抜き、臆面もなくジャーナル紙でイエロー・キッドを連載させた。ワールド紙も別の漫画家を雇いイエロー・キッドの連載を続けて対抗した。このことから、両紙は「イエロー・キッド新聞」と揶揄され、ここからイエロー・ジャーナリズムという言葉が生まれた。


まだ歴史の浅い日本の新聞が、アメリカのジャーナリズムとほぼ同時期に同じような動きを見せたことは、良し悪しはともかくとして特筆すべきことだろう。
現在の各国のメディアを見ても大同小異であり、結局古今東西問わず人々が興味を持つネタは変わらないようだ。



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東京のJR中央線と新宿通りが交差するJR四ッ谷駅前に「四谷見附橋」がかかっている。東京の中心ともいうべきところだ。
現在の四谷見附橋は1991年10月に完成したもので、その際に四ッ谷駅舎の改築、駅前広場の整備も行われたため、駅付近の様子は大きく変わった。
初代の四谷見附橋は1913年9月に架設したが、東宮御所 (現迎賓館) の近くであったため、橋の装飾にフランス式手法を採用するなど豪華な橋であった。街灯や手すりの一部が再利用されているなど、現在の橋もその概観を踏襲している。



カクヨム 31 四谷見附橋 迎賓館と調和させた橋
https://kakuyomu.jp/works/1177354054880634829/episodes/1177354054881065429

旧四谷見附橋は、1911年3月に着工し1913年10月に開通した。橋のデザインは、この地点から南にある迎賓館(当時の赤坂離宮)の外観と調和させたネオ・バロック様式となっている。この橋の高欄の上方に並んだ鉾は迎賓館の正門の柵垣の縦格子がモチーフになっている。また、高欄の中央にある装飾の鏡と花綱は、迎賓館の朝日の間の装飾に同じものが見られるという。さらに橋の高欄の中央部にある橋銘板は、迎賓館の花鳥の間の扉の上部を模したものと言われている。
明治維新になると、日本は『御雇外国人』による近代化を推し進めるが、『旧四谷見附橋』は日本人の力で欧米の首都などにある構造物に負けない素晴らしい橋が架けられることを世界に示した歴史的価値のあるものである。
1950年戦災復興都市計画事業により、新宿通りが幅員25mから40mへと拡幅することが決定した。しかし、旧四谷見附橋は昔の道幅にあわせてかけられていることから、幅員は22mしかなかった。
1974年に四谷見附橋の架け替えが決まると、地元住民や有識者による保存の要求が高まる。近世橋梁技術の貴重な交通遺産としてその文化的価値は高く、また鉄製のアーチ橋としては日本最古のものともいわれていた。
東京都は高まる保存の要求を受けて綿密な調査を行った結果、長年使用されてきたにもかかわらず、腐食や変形が少なく、更なる長期間の使用にも耐えられるとの結果を得た。その結果を受けて、保存方法について東京都は土木学会に委託して検討した結果、多摩ニュータウンの開発の中で、長池地区に復元することが決まる。


川田技法 Vo. 13 1994年1月 四谷見附橋の移設工事
http://www.kawada.co.jp/technology/gihou/pdf/vol13/13_ronbun06-1.pdf

このように (旧) 四谷見附橋は、1996年に東京八王子士の多摩ニュータウンに「長池見附橋」として移設された。橋台や親柱・欄干などは復元であるが、ほぼ以前の姿に再現されており、長池公園のシンボル的存在になっている。(「見附」という言葉は街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所(見附)などに由来したものなので、公園の川に架かる橋を見附橋と称することに違和感はあるが)



四谷見附橋は、文化的な価値の高い橋梁を移設して再利用・展示保存しているひとつの例だが、橋梁の移設は決して珍しくなく、昔から様々な目的で行われている。
以下の金沢大学大学院・梶川教授の論文では、移設橋梁として全国の88事例 (!) が挙げられている。

土木学会 鋼橋移設、既存ストックの有効活用
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/committee/steel_structure/book/55132/55132-0015.pdf

この中には長距離を移設した橋もある。顕著な例として、福岡県の矢部川橋梁から移設された、福島県会津若松市河東町と喜多方市塩川町に跨る日橋川に架かる「切立橋 (きったてばし)」を挙げる。(梶川論文にある長野県・万古川橋梁は北海道・天塩川橋梁と同時期の建設で移設ではないようだ)

産業技術遺産探訪~切立橋
http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2003/kittatebashi/kittatebashi.htm

経済産業省近代化産業遺産
この橋は1921年、「東京電灯株式會社 (現在の東京電力株式会社) 猪苗代第四発電所」の建設時に資材輸送用軌道を布設 (磐越西線・広田駅から猪苗代第四発電所の区間) した際に日橋川に架橋されたものです。
もともとこの橋梁は1890年に当時の橋梁技術の分野では先進国であったドイツで製作され、1891年に「九州鉄道 (現在のJR九州) 鹿児島本線・船小屋駅~瀬高駅間」の矢部川に架橋されていたものですが、大正時代になって列車重量が増加したためにプレハブ橋梁では耐荷重不足となり、荷重に耐えられる新しい橋梁に架け替えられた際に取り外された橋梁です。
会津地方の電源開発が進む中で、当時、「猪苗代水力電気株式會社」(東京電灯株式會社の前身) の社長であった仙石貢は、かつて「九州鉄道」の社長であり、この橋梁も九州から福島県の会津に運ばれて1921年に転用されました。猪苗代第四発電所の建設中は資材運搬用の鉄道橋梁として使われていましたが、発電所が完成した後は発電所の保守・点検用の道路橋となり、現在では一般道の橋梁として使用されながら保存されています。
当時、この型式のプレハブ橋梁はドイツから日本に11橋輸入されましたが、現存する橋梁は、この「切立橋」を含めてわずか2橋 (注:もう1橋は栃木県の古川橋) となり、歴史的建造物として大変貴重な産業技術遺産です。


この切立橋のように、かつては鉄道主要幹線の機関車荷重増加に伴って橋梁の増強が必要になる一方でローカル線建設による転用の事例が多かったようだ。他にも道路橋・歩道橋・展示保存などで、初建設から長い年月を経ても現役使用や展示されているのは嬉しい限りだ。
鉄鋼や金属資源が限られていたという時代背景もあると思うが、100年以上の昔から転用・リサイクルがされている日本の土木建築技術の高さには改めて感心させられる。



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いろいろなものの歴史を調べると、短期間のうちに革新的に技術が進化するケースに遭遇することがある。

ライト兄弟がライトフライヤー号で人類初の飛行 (具体的には最初の継続的に操縦を行った、空気より重い機体での動力飛行) を行ったのは1903年12月17日だったが、この後欧米で飛行機はより速くより高くより遠くへ飛べるよう改良が行われた。この中で特筆すべきは、フランスのアンリ・ファルマンによって1909年に設計・製作されたファルマンIIIである。

ファルマンIII
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3_III

フランスのアンリ・ファルマンによって1909年に設計・製作されたファルマンIIIは、初めて実用的に補助翼を導入し、降着装置に車輪を取付けた最初の飛行機であったとされており、航空史上、および飛行機のデザインの変容の歴史上において、その後の方向性を決定付けた重要な型の一つとして高く評価されている。1909年中にアンリ・ファルマン自身が当時の長距離飛行・航続時間の世界記録を2度更新するなど、数々の競技会に出場し記録を樹立した。
その影響で、当時ファルマン社には、イギリス・ドイツ・デンマーク・日本・ベルギーなど国外からの注文や視察・買い付けなども殺到し始めた。特に1910年型のファルマンIIIは合計130機が生産され、うち75機はフランス国外に販売された。




1910年、臨時軍用気球研究会の委員であった日野熊蔵(当時31歳、陸軍歩兵大尉)と、徳川好敏(27歳、同気球隊付工兵大尉)は、機体の選定・買い付けと操縦技術習得のためフランス・ドイツに派遣された。両大尉は新橋から4月11日に出発、シベリア鉄道経由でパリに渡った。5月末、アンリ・ファルマン飛行学校3校目のエタンプ校が開校し、両大尉は各国 (フランス、ロシア、イギリス、ドイツ、イタリア、ポーランドなど)から派遣された飛行学生ら計10数名と共に学んだ。徳川大尉は8月8日に初めての単独飛行に成功し、その後8月25日に日本からの発注で製作されたばかりの機体で免許試験に臨んで飛行を成功させ、飛行機操縦者免許状を取得した。その後機体は分解・梱包され9月15日にフランスから日本へ向かう「安藝丸」に積載の上で船便で日本に送られた。

尚、日野熊蔵は7月25日に単身ドイツに移動し、ヨハネスタール飛行場で操縦技術を学びグラーデ単葉機を購入した。
グラーデ単葉機はドイツのハンス・グラーデが製作した飛行機で、24馬力のエンジンの小型機であり、ファルマン機 (50馬力) と比べると、大きさ・重量ともに小さい。



日野熊蔵と徳川好敏はパリで落ち合った上で10月25日に帰国した。その後ファルマン機・グラーテ機ともには東京・中野の気球連隊に運んで組み立てられた。ファルマン機の輸送には牛4頭と50人を動員して丸4日間かかったと言われている。

しかし当時日本にはまだ両機を飛ばすための飛行場が存在していなかった。そこで大日本帝国陸軍の代々木練兵場 (現在の代々木公園よりも広く、現在の渋谷区神南にあるNHK放送センターから、同・宇田川町の渋谷区役所・渋谷公会堂周辺一帯までに及んでいた) が整地して使用された。 

ファルマンIII 代々木錬兵場での初飛行
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3_III#.E4.BB.A3.E3.80.85.E6.9C.A8.E9.8C.AC.E5.85.B5.E5.A0.B4.E3.81.A7.E3.81.AE.E5.88.9D.E9.A3.9B.E8.A1.8C

1910年12月、代々木錬兵場の一角に2基の天幕式格納庫が設置され、ファルマン、グラーデ両機が中野気球連隊から運び込まれた。主催者の臨時軍用気球研究会は公開飛行試験の日程を新聞などに公表した。当時、多くの一般の日本人にとって、飛行機が空を飛ぶということはまだ信じ難い出来事だった。飛行実施日は同月15日と16日、また当日が悪天候になった時のため17日・18日は予備日とされ、19日・20日には撤収や輸送が完了するという予定だった。このため15日から19日にかけての5日間で約50万人の観衆が集まり、会場の周囲には屋台なども出店する賑わいとなった。

結果的に公式な記録として、日本における初の動力飛行の日付、すなわち日本で初めて飛行機が飛んだ日は、1910年12月19日とされている。この日、代々木錬兵場において、徳川好敏大尉がフランス製の当ファルマンIII型複葉機を操縦し、日野熊蔵大尉がドイツ製のグラーデII型単葉機を操縦し、日本初の公式動力飛行に成功した。これを記念して12月19日は「日本初飛行の日」とされている。


日野熊蔵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E7%86%8A%E8%94%B5

12月14日、代々木錬兵場において滑走試験中の日野は飛行に成功し、これが日本史上の初飛行とされる。しかし、飛行機研究の第一人者として、また当時数少ない実際の航空機の飛行を見たことがある人物であったため、事実上の現場責任者として間近で注視していた田中館愛橘博士や、操縦していた日野自身も、初飛行であることを認める発言はしていない。さらに、初飛行の根拠となっている距離については、唯一「初飛行」と報じた萬朝報の記者が60mと報じたがあくまで目測でしかなく、取材していた他9紙は距離を記載しておらず初飛行とは報じていない。また、「飛行」とは翼の揚力が機体の重量を定常的に支え、操縦者が意のままに機を操縦できる状態を指すため、「飛行」ではなく「ジャンプ」であるとして、航空力学的にも初飛行とは言えないとする意見もある。

19日には“公式の、初飛行を目的とした記録会”が行われ、日野・徳川の両方が成功した。これが改めて動力機初飛行として公式に認められた。事前の報道においては、当時天才発明家などと報道されていた日野の方が派手な言動も相まって遥かに有名人であり、新聞記者も徳川には直前までほとんど取材活動をしていなかった。しかし徳川、日野の順に飛んだため、“アンリ・ファルマン機を駆る徳川大尉が日本初飛行”ということにされてしまった。これは、徳川家の血筋でありながら没落していた清水徳川家の徳川好敏に「日本初飛行」の栄誉を与えたいという軍および華族関係者の意向・圧力だったとする説がある。しかし、たとえ名家の出身であっても陸軍の方針として軍内部での扱いは平民と同じであることが原則だったため、この批判は適切ではないとする意見もある。ただし、その後徳川は後述の通り陸軍内部で厚遇され、逆に日野は冷遇されたのは事実である。
ともあれ、日野の記録は抹消され、12月19日の徳川の飛行をもって「日本初飛行の日」とされている。


まぁいろいろな事情や評価があるが、日野熊蔵大尉と徳川好敏大尉ともに功績は受け継がれており、現在代々木公園には、プレート型の標識「日本初飛行の地」と、その側に左右に大きく翼をひろげた鳥の形にデザインされた石碑「日本航空発始之地記念碑」が、さらにその前方に両名の像が建っている。



さて、日野・徳川の初飛行には間に合わなかったものの、日本初の飛行場である所沢陸軍飛行場が1911年4月1日に開設された。同飛行場での初飛行は4月5日に行われ、ファルマン機は800mの距離を高度約10mで1分20秒間飛行したと記録されている。さらに6月3日、徳川大尉の操縦で後席に山瀬中尉が同乗し、所沢-川越間の30.03kmを高度150m程で32分45秒で飛行した。これが日本国内初の都市間野外飛行とされている。



しかし、開設当初の所沢飛行場には当機をはじめ全4機の輸入機しかなかった。そのため、頻繁に練習が始まるとこの4機は酷使されすぐに飛行機が不足した。そこで1911年10月にはファルマン機を元に国内で会式一号飛行機が製作された。この機体は軍用機としては、初の国産飛行機とされている。

会式一号機
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E5%BC%8F%E4%B8%80%E5%8F%B7%E6%A9%9F

会式一号機の「会」とは「臨時軍用気球研究会」のことで、1909年7月30日付の勅令により、気球と飛行機の軍事利用の研究のため 当時の陸軍・帝国大学・中央気象台のメンバーらにより設立された 国内最初の航空機に関する公的機関である。
前述の日本初飛行の公式記録を持つフランス製1910年式アンリ・ファルマン複葉機を参考に設計されたが、ここまで同機を何度も操縦していた徳川大尉によって翼断面の形状・面積の変更と、各部を流線形にして空気抵抗を減らすことなど幾つかの変更が加えられ、機体の強度と上昇力・速度の向上が図られることとなった。 材料などは全て国内で調達されたものの、当時の日本の工業水準はまだ低く充分な加工機材も無かったため製作は主に鋸等による手作業で進められた。
製作は同1911年7月より所沢飛行場の格納庫内で開始され、10月初め頃に完成、 10月13日に大尉自らの操縦によりテスト飛行が行われ、高度50mで 時速72km/h,(最高高度は85m)と良好な成績を記録し、操縦性もファルマン機より高く評価された。
設計・製作段階から徳川大尉の功績が大きかったため、当時一般には "徳川式"と呼ばれ、その後は主に操縦訓練や空中偵察の教育などの目的で使用された。




さて、ここまでだと欧米で発明された新製品を日本も国家・軍としていち早く取り入れて、また改良を加えたという流れになるが、並行して民間でも飛行機の開発が進められていた。そして奈良原三次 (1877 - 1944) による「奈良原式2号飛行機」が、独自設計の国産飛行機として上記の会式一号機より先に飛行している。

奈良原三次
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%8E%9F%E4%B8%89%E6%AC%A1

奈良原三次 (1877 - 1944) は、東京帝国大学工学部造兵科を卒業して海軍少技士に任官し、飛行機の研究をはじめ、臨時軍用気球研究会の委員に任じられていた。1910年に自費で機体に丸竹を用い「奈良原式1号飛行機」を製作するが、エンジンの出力不足などもあり離陸できなかった。翌1911年、私有のエンジンを搭載して「奈良原式2号飛行機」を製作、5月5日に所沢飛行場にて自らの操縦で高度約4m、距離約60mの飛行に成功した。
1912年5月、千葉県の稲毛海岸に民間飛行場を開き、民間パイロットを養成し、その後日本軽飛行機倶楽部の会長に就任し、以降も後進の指導・育成にあたり、またグライダーの発達・普及などにも尽力した。




このように1910年から1911年の僅か1年程度の期間に、日本の飛行機そして航空事情は劇的な進化を遂げた。これは当時の世界情勢の下では必然と捉えることができる。
世界中で初飛行、飛行時間更新、大陸横断飛行などを競う一方で、航空機は直ちに戦争に用いられた。1911年10月には相手軍の位置を偵察するための飛行、1913年にはメキシコ革命において初の爆撃がされた。そして1914年に第一次世界大戦がはじまると、日本陸軍によって青島のドイツ軍要塞爆撃が行われた。

この時代ならではのニーズがあったことは間違いないが、日野熊蔵、徳川好敏、奈良原三次らの熱意によって、発明間もない飛行機で日本が極めて短期間に欧米と同等或いはそれ以上の技術を擁することとなったことは記憶しておきたい。



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以前このブログで日本でのテレビ放送の開始とテレビの特性を活かした番組の誕生について調べたことがある。(ジェスチャーと幸福の起伏)
今度は更に時間をさかのぼって、ラジオ放送の開始について調べてみよう。

世界で初めてラジオ放送を実現したのは、元エジソンの会社の技師だったカナダ生まれの電気技術者レジナルド・フェッセンデン (Reginald Aubrey Fessenden、1866-1932) で、1900年に通信テストに成功し、その後改良を経て1906年12月24日に、アメリカ・マサチューセッツ州の自身の無線局から自らのクリスマスの挨拶をラジオ放送した。音楽を演奏したり、聖書を朗読したりしたそうだ。なかなか粋だ。
このように世界最初のラジオ放送はクリスマス放送であり、フェッセンデンは世界最初のラジオアナウンサーだったこととなる。



その後も試験的な放送が世界各地で行われ、1920年11月2日にアメリカ・ピッツバーグのKDKA局が初めて正式な公共放送を行った。

日本でも、1922年6月に東京朝日新聞がラジオ送受信実験を行うなどの準備期間を経て、1925年3月22日 9:30に社団法人東京放送局が東京・芝浦の東京高等工芸学校内に設けた仮送信所から最初の放送を行った。第一声は「アーアー、聞こえますか。……JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始致します。」だった。 この模様はその後再現されている。当時のラジオは鉱石ラジオであり、人々はレシーバーを耳にあてて放送を耳にしていた。

NHK名作選 みのがしなつかし ラジオ放送開始
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060001_00000

時代は大正時代末期で、日本の総人口は6000万人となり、大都市の人口が大きく増加した。その中で1日100万部を発行する新聞や、雑誌の創刊が相次ぎ、また無声映画とレコードを中心に大衆文化が盛り上がっていた。その中で人々に同時大量に素早く情報を伝えるメディアとしてラジオが登場した。
1923年の関東大震災の際には正しい情報が伝わらなかったこともあり、ラジオへの期待は大きかった。

日本ラジオ博物館 ラジオ放送開始から1928年まで
http://www.japanradiomuseum.jp/meseum1.html

1925年3月22日、東京、芝浦の仮放送所からラジオの試験放送が開始され、日本のラジオ放送の歴史が始まった。同年6月1日からに大阪が仮放送を開始、7月12日には東京放送局が愛宕山に移り本放送を開始、7月15日に名古屋が本放送を開始した。都市部のみのサービスエリアであったが、本格的にラジオ放送が始まったのである。このときの受信契約者はわずか5,455にすぎなかったが、1926年には聴取者数は39万に激増した。
ラジオは、無線電信法に定める「私設無線電話」の一つとして、逓信省の許可を受ける必要があった。初期の許可書に特徴的なのは、受信機の型式が明記されていることと、「相手放送無線電話」として、東京放送局が指定されていることである。逓信当局はラジオに対しても「無線局」として「無線機の型式」と「通信の相手方」を限定した厳格な許可を与える方針だった。実際には放送局が一つだったので大きな問題はないが、ラジオのダイヤルを動かすことは禁止されていたのである。

その後同年6月に大阪、7月に名古屋でも放送が開始された。これはもともと1924年に東京、名古屋、大阪の3地域で、公益法人として各1事業者ずつラジオ放送事業を許可する方針を打ち出したことによるもので、この東京・大阪・名古屋の放送局は1926年に「社団法人日本放送協会」として統合された。すなわちラジオ放送開始の時点ではまだNHKはなかったわけだ。

それでは当時実際に何が放送されていたかというと、ニュース、特に穀物などの相場の動きが多かったようだ。最初はラジオは金融関係者や商工業者にとって情報源という要素が大きかったようだ。一方で開局5ヵ月後には、聴取者の好みを番組に反映させるために葉書による娯楽番組の嗜好調査を実施され、邦楽、演劇、洋楽などが人気となった。



当時の娯楽番組からいくつかピックアップする。
放送開始から4ヵ月後の1925年7月12日から始まった「子供の時間」は毎週月曜日から土曜日の夕方に生で放送された子供向け情報番組で、当然だが日本で初めての子供向けの番組だ。当初は東京放送局のローカルで、また各放送局が独自に子供向け番組を放送していたが、1928年から全国放送になった。
童謡などの歌、童話などが放送され、また番組のテキストとして「月刊コドモのテキスト」が発行された。これはNHKらしい。

NHK名作選 みのがしなつかし 子供の時間(ラジオ)
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060002_00000

1932年6月からは、「子供の時間」の放送の後に「コドモの新聞」も毎日5分間放送された。これは大阪中央放送局が大阪ローカルの番組として放送された「コドモ日曜新聞」が前身で、時事・科学・スポーツなどのニュースから子供向けの話題を選び、分かり易く正しい言葉で放送していたが、好評だったことから、東京中央放送局より全国放送の形で放送開始する事になったものである。
「子供の時間」はその後、1941年に国民学校令の施行に伴い番組名を「少国民の時間」に変更した。終戦後も「仲よしクラブ」(1946-47)、「子供の時間 (第2期)」(1948-63)、「なかよしホール」(1963-66) と引き継がれている。

また1925年8月13日に放送された「炭鉱の中」は、日本で初めてのラジオドラマと言われている。(舞台中継をスタジオで再現した「桐一葉」(1925年7月12日) という考え方もあり)
局内に人材がいなかったてめ、日本初の新劇の常設劇場である築地小劇場の小山内薫 (おさないかおる) に依頼がされた。
炭鉱事故で真っ暗な坑道に閉じ込められた若い男女と1人の老人。極限状態での人間心理のもつれを「聴覚だけの世界」 で鮮やかに描き出した作品である、番組冒頭に「皆さん、電気を消してお聴きください」と呼びかけてドラマが始まる。爆発や水があふれる音など、スタジオで音響効果を作る日本の本格的ラジオドラマの誕生となった。

NHK名作選 みながしなつかし 炭鉱の中
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060004_00000



これ以来ラジオドラマは新劇が手掛けることになった。築地小劇場もその後演劇界に活躍する多くの人材を輩出した。
またラジオの音響効果が飛躍的に進歩を遂げ、またNHKはラジオドラマ専門の俳優を養成して、東京放送劇団を発足させ、これが声優の始まりとされている。

その後のテレビ、ゲーム、インターネットもそうだが、常にサービスの普及にはコンテンツの充実は不可避だ。ラジオの黎明期から全盛期まで支えた子供向け番組や、ラジオという限られた手段の中で表現を最大限に工夫して発展していったラジオドラマは、メディア史として押さえておきたい。



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日本の首都は東京だ、と解されている。しかし現在の法令で「首都」について直接的な表現で定めているものはない。
1868年に江戸が東京と改称され、元号が明治となり、天皇陛下が東京に入られた。そして1869年に政府が京都から東京に移された。これらは遷都ではなく「東京奠都 (とうきょうてんと)」と称される。
そして、例えば大正時代の東京奠都の研究においては、「東京の奠都は遷都にあらず」とされ、遷都の発表はなく、今日に至るまで都を東京に遷されたのではなく、東京は京都とともに並立して帝都の首都であることは明らかであるという主張がされている。



さて、東京奠都の位置づけの議論は置いておくとして、京都も東京もその歴史の中で一時的に首都を他の都市に移ったことがある。
京都に関しては、平安時代の1180年に一時的に平安京から福原京に首都が移っている。

福原京
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E4%BA%AC

福原京は、平安時代末期の治承4年 (1180年)、平清盛の主導で造営が進められた日本の首都の通称。
場所は現在の兵庫県神戸市中央区から兵庫区北部にあたり、平氏の拠点のひとつである貿易港の大輪田泊(現在の兵庫港・神戸港西部)に人工島の経が島うぃ築き整備拡張した港を見下ろす山麓に都を置くことが計画された。
平清盛は、高倉上皇と平家一門の反対を押し切って遷都を強行したが、それは宋との貿易拡大によって海洋国家の樹立を目指したためともいわれ、都市整備が進めば平氏政権による「福原幕府」のようなものになったとも言われる。のちに福原京の建造物群は源義仲によって全て焼き払われた。

1180年6月26日、京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれ、ここに行宮が置かれた。そして平氏政権は福原に隣接する和田の地に「和田京」の造営を計画した。
当初平安京と同様の条坊制による都市を建設しようとしたが、和田は平地が少なく手狭だったため、すぐにこの計画は行き詰まってしまった。そこで同じ摂津国の昆陽野(兵庫県伊丹市)、更には播磨国印南野(兵庫県加古川市)に新しい京を造営する話が持ち上がったが、どちらの話も立ち消えとなり、7月には福原をしばらく皇居とし、道路を開通させて親平氏派の一部の人々に限り宅地が与えられることになった。しかし当時幼い安徳天皇に代わり院政を行なっていた高倉上皇は平安京を放棄せず、福原には離宮を建て、内裏や八省は必要ないとした。これに対して清盛は、内裏は移建せず、11月の新嘗祭までに私的に皇居を造営し、2年後には八省などの役所もつくるという方針で構えた。
そして11月には皇居に似せて造られた清盛の私邸が天皇に提供され、12月5日から8日新嘗祭の五節のみが行なわれると、11日には京都への還幸となった。京都への還幸は源氏の挙兵に対応するため清盛が決断したといわれている。


神戸市文書館 福原遷都
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/genpei/fukuhara/fukuhara.html

このように、当時の安徳天皇の福原での居住は5か月程度であり、明らかな準備不足により福原京は未完に終わった。
歴史上における日本の首都は、天皇の居住地を都として定められており、その観点からは福原京はこの期間日本の首都だったこととなるが、一方で福原には行宮が置かれたのみで平安京が従来の首都機能を失った様子は特になく、福原は京都の機能を軍事・貿易面で補完する事実上の副都に留まった、とする主張もある。

尚、このように短期間かつ未完で終わったために福原京の詳細は不明なまま歴史に埋もれてしまった。
福原京の計画も海に沿って東西方向につくられる予定であったという説と、南北のつくられる予定であったという説がある。東西説の想定図は以下のとおりだ。



同様に天皇の居住地を都と考えるのであれば、日清戦争中の1894年(明治27年)9月15日から1895年(明治28年)5月30日は、広島市に置かれた広島大本営において、明治天皇が直接争の指揮をされており、この期間は日本の首都は広島だったと主張できることとなる。 
実際に1894年10月の第7回帝国議会は広島市で開催されるなど、立法・行政・軍の統括が東京から広島に移転しており、この時期は広島が一時的に首都機能を担っていた。



広島大本営
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%96%B6

広島大本営は、1894年に勃発した日清戦争の戦争指揮のために広島県広島市の広島城(現中区基町)内に設置された、大日本帝国軍の最高統帥機関である大本営である。
大本営は1893年5月19日に勅令第52号戦時大本営条例によって法制化された制度であり、日清戦争において初めて設置された。このときの大本営は1894年6月5日に東京の参謀本部内に設置され、同年8月1日に皇居内に移った。
その後、当時広島駅が東京を起点とする鉄道網の西端であったこと、また大型船が運用出来る宇品港(現広島港)が有ったことで、前線に向かう兵站基地となった広島市に移ることとなった。
9月13日に大本営が宮中からこの地に移転し、2日後の15日には戦争指揮のために明治天皇が移った。このため、行宮の役割も果たした。明治天皇は日清講和条約調印後の1895年5月30日までの227日間この地で指揮を執った後、東京に還幸した。大本営はその後も台湾の統治機構整備など戦後処理のために広島に留まり、1896年4月1日に大本営解散の詔勅によって解散した。
この時期、1894年10月に招集された第7回帝国議会は広島の広島臨時仮議事堂で開会された。国の立法・行政・軍事の最高機関が一時的とはいえ広島市に集積したことで、広島市は臨時の首都の機能を担った。これは明治維新以降、首都機能が東京から離れた唯一の事例である。

解散後に「大本営址」は文化財として保護され、国の史跡にも指定されたが、残念ながら原爆投下により建物は全て崩壊したしてしまった。現在では建物の基礎および礎石と、一部文字が消された碑石が残っているのみとなっている。

寄る辺ない旅 広島大本営跡
http://www.geocities.jp/skegfirst/hirosimadaihonnei.html

こちらも期間としては7ヵ月半と短いが、天皇陛下が住まわれただけでなく執務をされ、また国家の首都機能が移ったことは事実である。
これらの事例を遷都と考えるか否かについては当然のように様々な見解がある。長い歴史を有する日本では、首都をめぐって様々な史実があり一概に捉えることはできないことは確かなようだ。



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現在の皇居の住所は「東京都千代田区千代田1番1号」だが、「千代田」は1967年4月1日に新設された町名でありその前は「一番(皇居内)」であった。そして遡ると皇居の住所は「東京府東京市麹町区宮城」となる。
皇居、そして皇居が所属した麹町区を中心に、東京の行政区分の変遷を見ていきたい。

明治維新を機に江戸が東京となったことは一般的に知られているが、もう少し詳しく見ると以下のような流れとなる。

東京都の歴史 明治維新から第二次世界大戦まで
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

1867年11月9日 (慶応3年旧暦10月14日) の徳川慶喜による大政奉還と1868年1月3日 (慶応3年旧暦12月9日) の王政復古のクーデターによって江戸幕府が崩壊し、同年5月3日 (慶応4年(明治元年)旧暦4月11日)の江戸城開城によって江戸は新政府の支配下に入った。7月1日 (旧暦5月12日)、新政府は江戸府を設置し、9月3日 (旧暦7月17日) に江戸が東亰 (後に東京) と改称されると、江戸府も東京府と改称された。1869年に明治天皇が皇居に入ると、東京は近代日本の事実上の首都となった。

このように2ヵ月のみの江戸府を経て"東亰"府が誕生した。これは「とうけいふ」と称されていた。「亰」の字は「京」の異体字だが、当時は「京」ではなく「亰」の字を用いることも一般的だったようだ。

尚、廃藩置県は1871年7月14日に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革だが、当初は藩をそのまま県に置き換えたため3府302県もあった。例えば現在の東京都足立区・葛飾区・江戸川区・荒川区(一部)は「小菅県 (こすげけん)」、現在の東京都練馬区・杉並区・中野区・新宿区・渋谷区・目黒区・品川区・大田区・世田谷区、その他多摩地区・埼玉県・神奈川県の一部は「品川県」だった。その後いずれも府県統合で東京府へと編入されている。

1878年7月22日に東京府は府下を区と郡に分け、府税収入の多い地域を選定して東京15区を設けた。そして1889年5月1日に東京府は府下に東京市を設け旧15区の区域をもって市域とした。東京市の市制は東京府知事および府書記官が市長を兼務しており、市役所も市職員も置かれなかった。その一方で15区はそれぞれ単独で区会(議会)を持ち、東京市の下位の自治体とされた。

東京府庁と東京市役所は合同庁舎であり、1894年に有楽町に建立されたドイツ・ルネサンス様式の鉄骨レンガ造2階建の建物である。この建物は戦災で焼失してしまった。その後東京都庁舎を経て、現在は東京国際フォーラムとなっている。



さて、東京15区は以下のとおりである。
 麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区



この中でも中心に位置するのは麹町区 (現在の千代田区の一部) である。区役所は隼町8番地 (現在の麹町一丁目、半蔵門交差点北西角側) に置かれていた。
そして皇居は「宮城 (きゅうじょう)」という町名であった。1888年以降「宮城」と称されており (皇居とは呼ばれていなかった)、それは1948年まで続いた。

さて、麹町区の時代に同区内には主に以下が開設された。
 1881年 明治法律学校 (現在の明治大学の前身)
 1890年 和仏法律学校(現在の法政大学の前身)
 1900年 女子英学塾(現在の津田塾大学の前身)
 1903年 日比谷公園
 1911年 帝国劇場
 1913年 上智大学
 1914年 東京駅
 1929年 総理大臣官邸
 1936年 国会議事堂
また1932年の五・一五事件、1936年の二・二六事件も舞台は麹町区であった。

1932年に近隣の5郡82町村を編入して新たに20区を置き東京は全体で35区となった。いわゆる大東京市である。それまでの15区を旧市域、新たな20区を新市域といって区別することもあった。
また1943年7月1日に東京都制が施行され、地方自治体としての東京市と東京府は廃止されて東京都が設置された。東京市役所の機能は東京都庁に移された。旧東京市35区は従来どおり議会をもつ自治体としての性格を保ちながらも東京都の直轄下の区とされた。これによって東京府東京市麹町区は東京都麹町区となった。

その後1946年12月27日に麹町区会および神田区会にて両区を統合し新区名を「千代田区」とすることが議決され、1947年3月15日に千代田区が誕生し、麹町区の歴史は幕を閉じた。東京全体も現在の23区に再編された。結果的に東京15区の名は、現在の23区の区名には全く引き継がれなかった。

尚、麹町区は多くの著名人を輩出している。今上天皇陛下や皇族の方々はもちろんだが、与謝野馨氏などの政治家も多い。また女優・歌手の越路吹雪氏、アナウンサーの露木茂氏なども、「麹町区」時代に出生している。
23区となって既に70年近くが経過しすっかり定着した感があるが、本来の地名を冠さない区名が多いことも事実である。行政区分の変更は時代に合わせて行われるべきものではあるが、地名はもっと大事にしなければならない。


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