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よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文94

2006-09-28 22:14:00 | ノンフィクション
『中国人強制連行の記録』(石飛仁 太平出版社)

『「戦後史」は、いうまでもなく1945年8月15日をもって始まった。だがその「戦後史」は、あの15年におよぶ戦争のリアクションであったにすぎない。したがって、その「戦後史」の内容が日本の「変革」にあるよりは「復興」であり「再建」であったことは歴史的事実が示すところとなっている。』
 はしがきでこう書いた本書は、戦後30年に刊行された。
 著者は危惧する。戦後史は総括なき“復興”に過ぎなかった、歴史を隠蔽する民族に明日はない、と。
 それから30年。歴史は総括されるどころか居直りに似た形で美化され、戦後生まれの首相は“美しい国”というアナクロニズムをうたう。
 われわれは忘却する。よくいわれる日本人の特性である。自らの痛みとしての戦争を想起できる人間が政界・財界からいなくなりつつあるだけで、こうも国の舵取りが変貌するとは、恐ろしい国民性であろう。

 本書では特に秋田県大館市で戦争末期に起きた花岡暴動事件を取材し、隠された歴史を暴きながら、生きながらえた“日帝”を鋭く糾弾する。
 私は恥ずかしいことに、秋田で生まれながら、花岡事件については詳しく知らなかった。また、強制連行が、まさしく“拉致”という形で、家畜以下の扱いで行われたことも、今では知る人は多くあるまい。いまでも4000人以上の遺骨が不明のまま、日本のどこかで朽ち果てているのだ。北朝鮮が拉致を居直るのも故なきことではない。
 花岡事件では、国策として採用されたアジア民衆に対する三光作戦(殺し尽くし奪い尽くし焼き尽くす)が、戦場でもない内地で行われ、500人以上が虐殺された。しかし、こういった政策を採用し運用した権力の中枢は戦後の復興の過程で復権し、罪は一部の戦犯になすりつけられた。
 現在、日本は九条を破棄しようとし、“美しい日本”と称する復古主義のもと、封建的な教育基本法へと改定を目論んでいる。
 花岡では脱走した中国人をまっさきに包囲し、捕らえ、刺し殺したのは、軍隊でも警察でもなく、在郷軍人に指揮された民間人であった。彼らは自らをアジアで唯一の優秀な民族であると信じ、中国人や朝鮮人を家畜のように扱ったのである。一般の国民がである。これを忘れてはならない。
“美しい日本”
 これを自称したとき、われわれはかつての醜い“東洋鬼”(戦時中に中国人が日本人をこう呼んだ)と化すのかもしれない。
 自らの胸の内に、問い続けていきたいと思う。日本の、アジアにおける妙な選民意識と差別意識は、頭では否定できても、心のどこかに擦りこまれている。忘却は許されない。


読書感想文93

2006-09-23 10:43:00 | 児童文学・童話
『注文の多い料理店』(宮沢賢治 角川文庫)

 再読しよう再読しようと思いながら、いつも後回しになっていた。だって童話じゃん?というバイアスがあったのは否定できないし、中高生のとき読んだ印象が、どうもかんばしくなかったのである。当時の私は観念的なハシカにかかっていて、太宰や安吾を表層的に読んで、死ぬことばかり考えていた。自然の美しさや動植物との対話など、どうでも良かったのである。
 再読してみて、少し驚いた。正直、難しいのである。文章を頭の中で映像に変換するのが、容易でないのだ。かなりの集中力を要する。
 解説で、宮沢賢治は自らこう書いている。
「卑怯な成人たちに畢竟不可解なだけである。」
 そうだ。年々、想像力の幅は狭まっていく。これは否定できない。悲しいことだ。それでも、めげずに私はイーハトーブに入っていこうと試みた。
 続けざま、二回目を読んだのは、ある過酷な状況下だった。森が、私をおどかすように、わさわさと揺れ、夜は震えて浅い眠りについた。翌朝の快晴だけを願って。
 太陽が、登った。しだいに、身体が暖まっていく。ありがたいと思った。木漏れ日を散らして、木々が柔らかく揺れた。鹿が喋りだした。風が話しかけてきた。私は疲労すら忘れて空を仰ぎ、ときどき活字を追った。
 

 私は卑怯な成人、かもしれない。しかし物語と情景がリンクしたとき、どうにか私もイーハトーブの住人になれたようである。
 この散文詩は、繰り返し読む価値がある。


読書感想文92

2006-09-17 12:01:00 | 純文学
『螢・納屋を焼く・その他の短編』(村上春樹 新潮文庫)

 村上春樹の小説には、ある危なっかしさを覚える。これは個人的な問題なのかもしれないが。
 というのも、先日、居酒屋で豆腐を食べていて、突飛なことに、「これだ!」と思いあたった。
“村上春樹の小説は豆腐である”
 もやもやしていたのがスッキリした感じである。

 豆腐には味がある。しかしそれは絵にとっての画用紙みたいなものであって、絵そのものではない。なくてはならないものだし、どんな画用紙を選ぶかによって、絵の仕上がりに違いは出る。しかし画用紙は主張しない。思想を語りはしない。
 豆腐もまた然り。醤油、鰹節、オクラ…味付けでその風味はいかようにも変わる。鍋に入れるにしても、きりたんぽとキムチ鍋では同じ豆腐がまるで違う食べ物になってしまう。
 つまり村上春樹は風景や気分や趣味や雰囲気やグレン・ミラーやローリングストーンズ、そういったものに伴う感情を切り取って見せてはくれる。しかしそれは豆腐であり画用紙であり趣味的な解釈であり、主張や思想は読書の手に委ねられるのだ。
 このとき、春樹作品は、読む者、特に若い、経験の浅い者に、おかしな錯覚を与えるようにみえる。
 例えば、彼女は村上春樹を好んで読む。彼女にとってそれは背骨のような作品世界になっている。人生ってこういうものかもね、なんて達観したつもりになっている。その豆腐に、自分の好みの味付けをしたことに気づきもせず。しかも、春樹特有の孤独を酔わせるムードが、彼女自身を、自ら特別な存在に思わせてしまう。
 私が言う危険とはこのことである。豆腐を豆腐として味わう、味覚の余裕がなければ、春樹のアイロニーも解けない。
 そんな春樹を最近、私は好んで読む。口直しに良い。ちょうど、濃いものを食べ過ぎたとき、冷奴を注文してしまうように。


読書感想文91

2006-09-12 17:35:00 | 外国文学
『武器よさらば』(ヘミングウェイ 大久保康雄訳 新潮文庫)

 仕事の合間に、一日で読んでしまった。良くも悪くも、すらすら読めてしまうのである。
 情景の描き方には過不足ないとしても、人物の心理描写や会話が、エンタメ系小説のように軽すぎ、ことによってはシナリオ的に、これらがだらだら続く。流し読みしても後悔すらしない、そんな文体である。
 また、反戦的な題名とは裏腹に、主人公は躊躇なく脱走兵を射殺し、そのくせ本人は恋人に会いたいがために戦線離脱する。
 恋愛小説として読めば、面白くはある(感情移入できればの話だが)。しかし、主人公は、もし恋人のためであるなら、すすんで武器をとるだろう。題名は、厭戦に由来こそすれ、反戦には通じない。この思想的貧弱さが、本書の魅力を削いでいるように思えた。
 恋人は出産後の経過が悪く、死んでしまう。戦争とは無関係なクライマックスであった。二人でスイスに亡命するところまでは面白かったのだが…


読書感想文90

2006-09-11 08:25:00 | 社会科学
『アパシー・シンドローム』(笠原嘉 岩波現代文庫)

 高校のころ、ひどい無気力に悩んだ。それでも本を読むのは苦にならなかったから、乱読ついでに“無気力”を扱ったものをいくつか読んだ。ショーペンハウアーやキルケゴールに出会うきっかけになった。
 同時に、“ステューデント・アパシー”を扱った書籍にも出くわした。これらは強く記憶に残った。
 本書は、日本におけるアパシー・退却症研究の第一人者が著した論文集である。以前、当ブログに感想を載せた『顔をなくした女』と一緒に、職場の上司に奨められて借りたものだ。
 いま、読めてよかったと思う。ひとごとではないのだ。読んで、なにごとかを研究するような気持ちにはなれなかった。たくさんの症例と著者の記述から、私は私自身をそこに見つけ、私自身を分析することしかできなかった。いいかえれば、本書が分析する手だてになった。
 混乱し、乖離し、収拾のつかなくなりがちな心情に、優しく整理の手助けをしてくれる、臨床家としての熱心さや人間味が伝わってきた。
 多くの症例が私に該当していて、不安を感じたのは事実だ。けれど、それらを認知するのは、どうしていくかを考える際の踏み台になりうる。
 ちなみに高校以来の、無気力は質を変え、程度を弱めこそすれ、終息は見えない。自己同一性の幻想的な距離感を、冷静に測定することはできるようになったし、本書はその一助となるだろう。