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よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文766

2021-02-12 09:09:00 | 戦争文学
菊村到戦記文学集(下) 沈黙の空』(菊村到 講談社)

 通読は3度目である。単身赴任に持参した既読書のひとつだ。
 収録作13のうち、純文学的なものは『ある戦いの手記』だけで、あとは読み物的なものばかり。面白くは読んだが、消費されて終わりの活字だなあという印象だった。
 それでも持参の約20冊に選んだのは、ひとえに菊村到という人の筆致に魅力を感じ続けてきたからだ。
 今回は、逆順に読んでみた。何度も読み返した同じ著者の『硫黄島・あゝ江田島』も、そのように読んだことがあり、少し違った印象を得ることができたので、何かしらの発見があるかもしれないと思った。以下、それぞれの所感。

『辻政信はどこにいる』
 前回より興味深く読めた。新聞のルポみたいな文章で、まさに大衆誌に載っているような作品だが、新聞記者だった著者にはお手のものの構成だったろう、気づくと集中して字面を追っていた。
 前回は読み物風な作品を幾つも経た上で、最後に付録みたいにして辻政信と相沢中佐の話が付け足されて、もう食傷気味だったのかもしれない。文学とは程遠い作風に、やや呆れた記憶があるのだが、読む順序で印象はだいぶ違うものだ。
 空腹時の一口目は、やはり美味いのである。

『悲しき暗殺者相沢中佐』
 こちらはルポというより伝記風な構えの中で、永田軍務局長暗殺事件に至る顛末を描く。文学というカテゴリーではないが、切り口は名作『ある戦いの手記』に似ていて、ドラマチックに話が展開する。
 大した工夫も作り込みもない作品だが、孤独な暗殺者の心理を描く筆致には、菊村到特有の観察眼が活きていて、ちょっと心惹かれた。

『沈黙の空』
 表題作である。戦中派のヒロイズムとストイチズムを、ハードボイルドに描いてみせる。
 戦争文学の書き手から、後に推理小説へ転じた菊村到の、得意分野が融合した作品といえるかもしれない。表題作に選ばれるくらいだから、評価も高かったのだろうか。
 世代間の断絶が救い難い深さで描かれている。その面でも読者の共感を得たのだろう。松本零士のマンガが纏っているものと同じ匂いがする。
 いまでは黴くさい匂いかもしれないが、私には捨てがたい香りである。

『後に続くものを信ず』
 ガタルカナルで戦死した若林中尉を、これも伝記またはルポ風に辿る。思えばこれは新聞の特集にも用いられる手法で、短編小説ならぬ短編伝記とでもいうべき表現手法だ。
 戦意高揚の標語みたいな遺言で有名になってしまった若林中尉の、素顔に迫ろうという筆遣いが、読み物や文学云々抜きにして悪くないと思った。
 武勇伝とは裏腹に伝わる文学青年ぶりも、戦陣におけるギャップのためか、儚さや美しさを際立たせる。
 戦争が彼らを詩人にしたのか、詩人を戦争が死なせたのか、後世の私らは、ただ遺された詩歌を前に言葉を失い考えこむばかりだ。

『ある戦いの手記』
 名作である。何度読んでも感心し、新たな気づきに触れることができる。
 今回は、語り手のいう“脱出”にフォーカスして読んでみた。
 序盤、伏線として“あれ”と称する状態の描写がなされている。天啓のように、それは彼に訪れる。
『一口に言うなら、自分が自分でないべつのものに、ふいに置きかえられてしまうような心の状態』
 幽体離脱的な、離人症に似た説明もされている。さらに、
『やがてぼくは、永続的にぼくを自身でない、別のものに置きかえたい、と考えるようになった』という。
 これは実存主義小説の影響を受けたものなのかもしれない。“あれ”に喚起され、自分の望みを意識し、それを語り手は、こう定義する。
『ぼくがぼく自身からぬけ出ることこそ、ほんとうの意味で、ぼく自身の本質を、回復することにほかならないのだから』
 戦争や、予備士官学校や、そこで出会う強烈なアンチテーゼ井田中尉も、こうなると題材の一つに過ぎなかったかと、これまでとは違う印象を得た。
 しかし未曾有の不条理を題材とすることで、戦記文学としても読めると同時に、自らを回復する実存主義的な小説にもなっており、さらに古典的な成長の物語も成しており、本作の意外な懐の深さに気づいた今回だった。

『グルカ兵の影』
 捕虜の処刑や人肉食といった重苦しいテーマを、男女の痴話に織り混ぜながら読み物にしてしまった、なんとも評価し難い短編。
 クライマックスにつながる伏線たるエピソードが見事に重なり合っていくのだが、話自体は軽薄なのである。
 ニューギニアで死線をさ迷った際の上官らに再会していく中、さまざまな誤魔化しや、こじつけが、さらっと描かれている。
 こういう形で、戦争の傷を麻痺させる、流し読みしてしまうことが、もしかしたら多くの戦中派に求められていたのかもしれない。生きる知恵として。

『たたかう男』
 いかにも消費され翌日には忘れ去られていく雑誌に掲載されているような読み物だ。
 過去と現在が交互に描写され、それぞれが次第に短時間に、瞬間のエピソードになり場面転換の速度を上げていく。ドラマの脚本のようでもあった。これを『戦記文学集』に撰んだ基準がよくわからない。

『インパール挽歌』
 悪名高いインパール作戦の軍司令官を追ったルポ風の短編。週刊誌の慰みものに掲載されたかのような軽さで、M氏を取り上げる。
 戦中派が社会の主流を占めた時代には、ことさら戦記文学に興味がない人からも、こうした読み物の需要があったのだろう。

『無名戦記』
 戦中派の需要、という観点からは、この作品のスタンスが興味深い。
 語り手は冒頭で述べる。
【私には、人間を見る場合、一つの基準のようなものが、いつのまにか出来上がってしまった。それはその人がどういう戦争体験を持っているか、ということによって決定されるのである。】
 そして戦争体験者の話を聞いてまわるうちに語り手は気づく。
【かれらは、例外なくそれを語る時にある生き生きとした表情を見せた。】
【いまよりあの時の方が、かれはもっと確実に生きていた、ということであるかもしれない】
 だからこその需要だったであろうし、語りたい体験者に事欠かないならば、書くほうはネタも尽きなかっただろう。
 読み物風に消費される文体に終始するのは、この短編も同様だが、体験談を語り終えた男の捨て台詞が印象に強く残った。語り手が、
【あなたは、戦争によって少しも傷ついていない、という感じがしますね】というと、男は答える。
【戦争によって傷つくというのは、深刻癖のある一部のインテリの幻影か、妄想でしょう。戦争は、ぼくにとって、青春であり、生活だった。その中で、ぼくは、ただ生きてきただけですよ】
 ちょっとハッとさせられた。
 深刻さ悲惨さは文学の格好のテーマになり得るのみならず、政治的にも活用されやすい。ことさらそこをクローズアップするきらいは否定できない。『きけわだつみのこえ』も、そういったフィルターで編まれてしまった反省から、第二集では好戦的な学生の手記が採用されている。
 それが青春であり生活だった、というような、後世の人の肩を透かすようなものにも着目したいと思った。ひょっとしたら、大衆誌で、こういった戦争読み物を消費していた大勢の戦中派は、そちら側の人だったのかもしれない。

『狙撃』
 この作品集を逆順に読み始めて10作目、そろそろ飽きたり読み疲れたりしそうだが、そうはさせないのが菊村到の筆力である。
 乾いた文体で、短い中に、緊張感がスパイラルしていき結末に向かう。
 価値判断の多くが、戦争体験に立脚しているさま、それが描かれる。材料として利活用したと言えてしまうのかもしれないが、それにしても上手いと思った。 

『天皇陛下万歳!』
 菊村到にはフィリピン戦を題材にした作品が多い。新聞記者時代の仕事と関連しているのだろう。
 本作は純文学的なものではないのだが、重いテーマを含んでいて、今回はそこに着目した。
 題名とは裏腹に、作中、間接的に、批判の矛が天皇に向けられる。かつての最高指揮官について、日本人の思うところは愛憎さまざまだろうが、この短編の切り口は、後から効いてくる上手さ、深さがある。

『屠殺者』
 本作品集で最も長く、中編小説または短めの長編に分類して良いだろう。語り手は新聞記者で、著者本人の体験記かと見紛うリアルな息づかいがある。戦記文学作者として名が知られるにつれ、原稿や体験談が持ち込まれることは、実際にあったのだろう。
 フィリピンにおける人肉食を題材に描く。タブーのように語られ難いが、この手の事件は案外多かったのだろうと思う。軽い小説でさらっと書いてほしくない気もするが、さらっと書くしか術がないともいえる。
 その是非を、犯人を、追及しようとする真摯な態度が、このことをタブーにし、暗黙の箝口令を敷かせたのならば、かえって本作のような文体で軽易に提起したほうが良かったのかもしれない。
 後の祭りだが、今回新たに得た感想である。

『捕虜をいじめたか』
 人違いで戦犯になった男が、本来逮捕されるべきだった男に復讐を果たしにくる・・・
 これも考えさせられ、かつ最後まで緊張感を強いる佳品だった。
 戦後と呼ばれた時代、戦争はある意味で続いていたのだと再認識した。
 さて戦後76年。戦争経験者が絶滅しつつある昨今、いまが“戦前”になっていないかどうか、警戒したいと思う。
 戦争が青春であり生活だったなど、言わなくて良いように。



読書感想文755

2020-10-29 23:34:00 | 戦争文学
『指の骨』(高橋弘希 新潮社)

 同年代が書いた戦争文学として注目し、新刊で入手した。新潮文学新人賞受賞作で、芥川賞候補にも挙がっている。
 長らく、戦争文学・戦記を読んできた私は『これは経験者にしか書けない聖域、なのかもしれない』と、無意識に特別視してきた。小説とはいえ、戦争を知らぬ人間が空想で書くことは、少なくとも純文学的な領域ではタブーのように捉えていた。
 だから、本作には、期待の大きさと同じくらいの疑念を抱きながら手にした。書けるのか? 書いたとして如何ほどのものか? と、批評眼のような色眼鏡で読み始めてしまった。
 端正で歯切れ良い文体は、まさしく純文学のそれだった。日本陸軍のことについても相当の知識を備えて書いており、この点で揚げ足を取られることはなさそうだ。
 しかし、違和感は否めなかった。語り手の視点や語り口が現代人なのである。
 このちょっとした肌触りの違いは、私が多くの戦中派による作品に触れてきたから感じるものだろう。
 もう戦中派はほとんど存命していない。戦争を想像で書いて、文句をつけてくる当事者がいなくなったことは、本作のような小説が生まれ始める新たな土壌を育む要因のひとつかもしれない。
 そして、私は私が感じた違和感を思い起こしながらこの感想文を書こうとして、もう一つのことに気づいた。いまや、大岡昇平や菊村到、梅崎春生等の愛読家も絶滅危惧種なのだろう、と。
 違和感を持たれる心配も必要なくなり、描き方に裁量の余地が拡がったといえる。
 と、ちょっと寂しいような感想が、読後10日くらいしてから沸いてきている。
 比較する色眼鏡なしに、新たな文学として読まないといけないのかもしれぬ。


読書感想文702

2020-01-05 06:17:00 | 戦争文学
『中尉』(古処誠二 角川文庫)

 戦争を題材にした小説は山ほどあるが、空想科学的なものを除けば、戦後生まれの現代人が(戦前生まれ=戦中派の視点で)戦争文学の体裁を採って描くものは、滅多にない。私が記憶しているところでは、小田実が書いた作品を幾つか読んだくらいである。
 著者は1970年生まれ。おそらく親の世代も戦争には行っていない。戦争に関する知識を、書籍、映像、経験者からの聞き取りに頼って得た世代が、いかにそれを文学として描くのか。という意味で、興味を抱いて本書を手にした。
 それは、世代を異にする者の想像力、その可能性に着目する読書となった。したがって、厳しい批評眼で読んでしまったようである。「書けるのか」「書けるとすれば、如何に書くのか」と。
 まずは語り手の、ものの捉え方、特に現代的な合理性に違和感を抱いた。兵隊上がりの軍曹にしては、妙に理屈っぽく、読んでいて面白くなかった。その面白みのなさは、語り手の描き方にも一因えお求めることができるだろう。いったいどんな人物なのか、見えてこないのである。真面目で理屈っぽくて・・・というのはその独白でわかる。しかし人間性というものが描かれない。これは文学というより、サスペンスの文体であろうと感じた。
 ただ、戦中におけるビルマの状況については、相当の学習が為されていると思われ、その雰囲気はよく伝わってきた。
 結果として、可能性はあると感じこそすれ、この違和感から、戦争“文学”は描き難いのかもしれないと思った。



読書感想文695

2019-10-29 22:06:00 | 戦争文学
『硫黄島・あゝ江田島』(菊村到 新潮文庫)

 15歳で初めて読んでから、ことあるごとに再読を繰り返した枕頭の書である。
ろ過を繰り返しても、味わい深い作品がある。あるいは、その度に気づかされる作品がある。しかし本書は、そういう理由で何度も紐解いているのではなさそうな気がする。
 特にこの作品集の中では『ある戦いの手記』が私の琴線に触れる。戦時という非常時、予備士官学校という、さらに不毛な環境の中で、候補生と区隊長の関係性を軸に、この物語は切り取られる。
 そう、この物語は、始まりもなく終わりもなく、切り取られるとしか言いようがない構成となっている。だから私はそのときどきで、桐島候補生や井田中尉に会いにいき、彼らの息遣いを身近に感じられるのかもしれない。
 描かれるのは、不条理の中の何かである。回答は、おそらく読む側が醸成するのだ。そのときそのときで。或いは読み終えて数か月、数年して。
 まだ読んでいない菊村到の戦争文学が幾らか残っている。探してみようと改めて思った。 
 



読書感想文684

2019-08-10 08:43:00 | 戦争文学
『フーコン戦記』(古山高麗雄 文春文庫)

 三部作の最終作。三作とも、ビルマ北部、あるいは雲南省南部と、日本軍が“援蒋ルート”を断とうとした一連の作戦に関する作品群だが、連続ものではない。
 インパール作戦はよく知られている。また、守備隊の玉砕した拉孟の戦いも著名だ。しかし恥ずかしながらフーコン谷地における18師団の闘いは知らなかった。遅滞作戦の一例として戦史上は有名らしいということを、この読書中に引いた関連資料の中で知った。
 自分の無知を恥じるとともに、あるギャップに、微かな苦痛のようなものを感じた。本書は、フーコンで闘い、重傷を負いながら生還した傷痍軍人の視点で描かれる。その戦記は敗残の記である。連隊は生存率2割くらいになりながら敗走し、それでも陣地を転換し、迎撃を繰り返そうとする。だが敵は、後方にも迂回していて、包囲され、日本軍は殲滅されていくのだ。
 しかし、戦史の資料上では、フーコン谷地での戦いは、わずか2個連隊が敵を誘引し数か月もの遅滞作戦を行い得た成功例のように描かれている。
 ビルマの防衛という戦略上の目的の中、2個連隊は捨て石に過ぎず、敵に出血を強いながら時間を稼ぐという要求は、大局的には成功したといえるのかもしれない。しかしそれは軍の参謀や司令官の視点であり、後世の人間が安全な場所で、これを戦史として紐解くときの視点でいうことだ。
 片腕を失った本書の語り手にとっては違う。このギャップに私は苦しんだ。
 ギャップといえば、語り手もまた種類の異なる断絶によって戦後を孤独に生きている。戦争の話を孫に求められ、語ってみると、
「自慢話のごたる」と敬遠されてしまう。そうして彼は口をつぐむようになり、ときどき自問自答するだけになっていくのだ。
 三部作は、いずれも記憶の曖昧さを隠さず描き、全般に戦記としてはボヤっとしていて、緊張感に欠けるが、文学としてはリアルだ。第一作『断作戦』は2人の元兵士の回想と現在が描かれることで、四重奏のように戦中及び戦後が立体化される。
 第二作は私小説風に、取材する著者本人があたふたとしている様が描かれて、もどかしいながらも、その自問自答が切実である。
 そして本作は、著者が取材した元兵士をモデルにしているのだろう、ある傷痍軍人による一人称の小説である。著者が従軍した戦場とは異なるため、相当の内容を取材に頼っており、本書の執筆には苦労した旨が、あとがきに記されていた。老人の淡い恋愛が織り交ぜられ、なかなか読ませる。この恋愛譚は回想を展開させるためのマテリアルなのだが、単調になりがちなこの長編に、良い意味でのアクセントを与えていて良かった。
 しかし、正直な感想として、曖昧な記憶を掘り返すことの繰り返しは読んでいて退屈だったことは否定できない。同じような感慨が何度も湧き上がってくる。外せないテーマだからなのだと思う。また戦後を生きながらえた戦中派には、共感するものだったのだろうとも類推する。
 だが、こういう文学が、必要だったのだと思う。多くの生き残りにとって、戦後は長く、それなりに大変で、記憶に苦しめられ、中にはPTSDのような症状に苦しめられもしたろうが、退屈であったのも一面の真実だったろうから。
 三部作を読書中、酒ばかり飲んでいた最晩年の祖父を、よく思い出した。