『菊村到戦記文学集(下) 沈黙の空』(菊村到 講談社)
通読は3度目である。単身赴任に持参した既読書のひとつだ。
収録作13のうち、純文学的なものは『ある戦いの手記』だけで、あとは読み物的なものばかり。面白くは読んだが、消費されて終わりの活字だなあという印象だった。
それでも持参の約20冊に選んだのは、ひとえに菊村到という人の筆致に魅力を感じ続けてきたからだ。
今回は、逆順に読んでみた。何度も読み返した同じ著者の『硫黄島・あゝ江田島』も、そのように読んだことがあり、少し違った印象を得ることができたので、何かしらの発見があるかもしれないと思った。以下、それぞれの所感。
『辻政信はどこにいる』
前回より興味深く読めた。新聞のルポみたいな文章で、まさに大衆誌に載っているような作品だが、新聞記者だった著者にはお手のものの構成だったろう、気づくと集中して字面を追っていた。
前回は読み物風な作品を幾つも経た上で、最後に付録みたいにして辻政信と相沢中佐の話が付け足されて、もう食傷気味だったのかもしれない。文学とは程遠い作風に、やや呆れた記憶があるのだが、読む順序で印象はだいぶ違うものだ。
空腹時の一口目は、やはり美味いのである。
『悲しき暗殺者相沢中佐』
こちらはルポというより伝記風な構えの中で、永田軍務局長暗殺事件に至る顛末を描く。文学というカテゴリーではないが、切り口は名作『ある戦いの手記』に似ていて、ドラマチックに話が展開する。
大した工夫も作り込みもない作品だが、孤独な暗殺者の心理を描く筆致には、菊村到特有の観察眼が活きていて、ちょっと心惹かれた。
『沈黙の空』
表題作である。戦中派のヒロイズムとストイチズムを、ハードボイルドに描いてみせる。
戦争文学の書き手から、後に推理小説へ転じた菊村到の、得意分野が融合した作品といえるかもしれない。表題作に選ばれるくらいだから、評価も高かったのだろうか。
世代間の断絶が救い難い深さで描かれている。その面でも読者の共感を得たのだろう。松本零士のマンガが纏っているものと同じ匂いがする。
いまでは黴くさい匂いかもしれないが、私には捨てがたい香りである。
『後に続くものを信ず』
ガタルカナルで戦死した若林中尉を、これも伝記またはルポ風に辿る。思えばこれは新聞の特集にも用いられる手法で、短編小説ならぬ短編伝記とでもいうべき表現手法だ。
戦意高揚の標語みたいな遺言で有名になってしまった若林中尉の、素顔に迫ろうという筆遣いが、読み物や文学云々抜きにして悪くないと思った。
武勇伝とは裏腹に伝わる文学青年ぶりも、戦陣におけるギャップのためか、儚さや美しさを際立たせる。
戦争が彼らを詩人にしたのか、詩人を戦争が死なせたのか、後世の私らは、ただ遺された詩歌を前に言葉を失い考えこむばかりだ。
『ある戦いの手記』
名作である。何度読んでも感心し、新たな気づきに触れることができる。
今回は、語り手のいう“脱出”にフォーカスして読んでみた。
序盤、伏線として“あれ”と称する状態の描写がなされている。天啓のように、それは彼に訪れる。
『一口に言うなら、自分が自分でないべつのものに、ふいに置きかえられてしまうような心の状態』
幽体離脱的な、離人症に似た説明もされている。さらに、
『やがてぼくは、永続的にぼくを自身でない、別のものに置きかえたい、と考えるようになった』という。
これは実存主義小説の影響を受けたものなのかもしれない。“あれ”に喚起され、自分の望みを意識し、それを語り手は、こう定義する。
『ぼくがぼく自身からぬけ出ることこそ、ほんとうの意味で、ぼく自身の本質を、回復することにほかならないのだから』
戦争や、予備士官学校や、そこで出会う強烈なアンチテーゼ井田中尉も、こうなると題材の一つに過ぎなかったかと、これまでとは違う印象を得た。
しかし未曾有の不条理を題材とすることで、戦記文学としても読めると同時に、自らを回復する実存主義的な小説にもなっており、さらに古典的な成長の物語も成しており、本作の意外な懐の深さに気づいた今回だった。
『グルカ兵の影』
捕虜の処刑や人肉食といった重苦しいテーマを、男女の痴話に織り混ぜながら読み物にしてしまった、なんとも評価し難い短編。
クライマックスにつながる伏線たるエピソードが見事に重なり合っていくのだが、話自体は軽薄なのである。
ニューギニアで死線をさ迷った際の上官らに再会していく中、さまざまな誤魔化しや、こじつけが、さらっと描かれている。
こういう形で、戦争の傷を麻痺させる、流し読みしてしまうことが、もしかしたら多くの戦中派に求められていたのかもしれない。生きる知恵として。
『たたかう男』
いかにも消費され翌日には忘れ去られていく雑誌に掲載されているような読み物だ。
過去と現在が交互に描写され、それぞれが次第に短時間に、瞬間のエピソードになり場面転換の速度を上げていく。ドラマの脚本のようでもあった。これを『戦記文学集』に撰んだ基準がよくわからない。
『インパール挽歌』
悪名高いインパール作戦の軍司令官を追ったルポ風の短編。週刊誌の慰みものに掲載されたかのような軽さで、M氏を取り上げる。
戦中派が社会の主流を占めた時代には、ことさら戦記文学に興味がない人からも、こうした読み物の需要があったのだろう。
『無名戦記』
戦中派の需要、という観点からは、この作品のスタンスが興味深い。
語り手は冒頭で述べる。
【私には、人間を見る場合、一つの基準のようなものが、いつのまにか出来上がってしまった。それはその人がどういう戦争体験を持っているか、ということによって決定されるのである。】
そして戦争体験者の話を聞いてまわるうちに語り手は気づく。
【かれらは、例外なくそれを語る時にある生き生きとした表情を見せた。】
【いまよりあの時の方が、かれはもっと確実に生きていた、ということであるかもしれない】
だからこその需要だったであろうし、語りたい体験者に事欠かないならば、書くほうはネタも尽きなかっただろう。
読み物風に消費される文体に終始するのは、この短編も同様だが、体験談を語り終えた男の捨て台詞が印象に強く残った。語り手が、
【あなたは、戦争によって少しも傷ついていない、という感じがしますね】というと、男は答える。
【戦争によって傷つくというのは、深刻癖のある一部のインテリの幻影か、妄想でしょう。戦争は、ぼくにとって、青春であり、生活だった。その中で、ぼくは、ただ生きてきただけですよ】
ちょっとハッとさせられた。
深刻さ悲惨さは文学の格好のテーマになり得るのみならず、政治的にも活用されやすい。ことさらそこをクローズアップするきらいは否定できない。『きけわだつみのこえ』も、そういったフィルターで編まれてしまった反省から、第二集では好戦的な学生の手記が採用されている。
それが青春であり生活だった、というような、後世の人の肩を透かすようなものにも着目したいと思った。ひょっとしたら、大衆誌で、こういった戦争読み物を消費していた大勢の戦中派は、そちら側の人だったのかもしれない。
『狙撃』
この作品集を逆順に読み始めて10作目、そろそろ飽きたり読み疲れたりしそうだが、そうはさせないのが菊村到の筆力である。
乾いた文体で、短い中に、緊張感がスパイラルしていき結末に向かう。
価値判断の多くが、戦争体験に立脚しているさま、それが描かれる。材料として利活用したと言えてしまうのかもしれないが、それにしても上手いと思った。
『天皇陛下万歳!』
菊村到にはフィリピン戦を題材にした作品が多い。新聞記者時代の仕事と関連しているのだろう。
本作は純文学的なものではないのだが、重いテーマを含んでいて、今回はそこに着目した。
題名とは裏腹に、作中、間接的に、批判の矛が天皇に向けられる。かつての最高指揮官について、日本人の思うところは愛憎さまざまだろうが、この短編の切り口は、後から効いてくる上手さ、深さがある。
『屠殺者』
本作品集で最も長く、中編小説または短めの長編に分類して良いだろう。語り手は新聞記者で、著者本人の体験記かと見紛うリアルな息づかいがある。戦記文学作者として名が知られるにつれ、原稿や体験談が持ち込まれることは、実際にあったのだろう。
フィリピンにおける人肉食を題材に描く。タブーのように語られ難いが、この手の事件は案外多かったのだろうと思う。軽い小説でさらっと書いてほしくない気もするが、さらっと書くしか術がないともいえる。
その是非を、犯人を、追及しようとする真摯な態度が、このことをタブーにし、暗黙の箝口令を敷かせたのならば、かえって本作のような文体で軽易に提起したほうが良かったのかもしれない。
後の祭りだが、今回新たに得た感想である。
『捕虜をいじめたか』
人違いで戦犯になった男が、本来逮捕されるべきだった男に復讐を果たしにくる・・・
これも考えさせられ、かつ最後まで緊張感を強いる佳品だった。
戦後と呼ばれた時代、戦争はある意味で続いていたのだと再認識した。
さて戦後76年。戦争経験者が絶滅しつつある昨今、いまが“戦前”になっていないかどうか、警戒したいと思う。
戦争が青春であり生活だったなど、言わなくて良いように。

通読は3度目である。単身赴任に持参した既読書のひとつだ。
収録作13のうち、純文学的なものは『ある戦いの手記』だけで、あとは読み物的なものばかり。面白くは読んだが、消費されて終わりの活字だなあという印象だった。
それでも持参の約20冊に選んだのは、ひとえに菊村到という人の筆致に魅力を感じ続けてきたからだ。
今回は、逆順に読んでみた。何度も読み返した同じ著者の『硫黄島・あゝ江田島』も、そのように読んだことがあり、少し違った印象を得ることができたので、何かしらの発見があるかもしれないと思った。以下、それぞれの所感。
『辻政信はどこにいる』
前回より興味深く読めた。新聞のルポみたいな文章で、まさに大衆誌に載っているような作品だが、新聞記者だった著者にはお手のものの構成だったろう、気づくと集中して字面を追っていた。
前回は読み物風な作品を幾つも経た上で、最後に付録みたいにして辻政信と相沢中佐の話が付け足されて、もう食傷気味だったのかもしれない。文学とは程遠い作風に、やや呆れた記憶があるのだが、読む順序で印象はだいぶ違うものだ。
空腹時の一口目は、やはり美味いのである。
『悲しき暗殺者相沢中佐』
こちらはルポというより伝記風な構えの中で、永田軍務局長暗殺事件に至る顛末を描く。文学というカテゴリーではないが、切り口は名作『ある戦いの手記』に似ていて、ドラマチックに話が展開する。
大した工夫も作り込みもない作品だが、孤独な暗殺者の心理を描く筆致には、菊村到特有の観察眼が活きていて、ちょっと心惹かれた。
『沈黙の空』
表題作である。戦中派のヒロイズムとストイチズムを、ハードボイルドに描いてみせる。
戦争文学の書き手から、後に推理小説へ転じた菊村到の、得意分野が融合した作品といえるかもしれない。表題作に選ばれるくらいだから、評価も高かったのだろうか。
世代間の断絶が救い難い深さで描かれている。その面でも読者の共感を得たのだろう。松本零士のマンガが纏っているものと同じ匂いがする。
いまでは黴くさい匂いかもしれないが、私には捨てがたい香りである。
『後に続くものを信ず』
ガタルカナルで戦死した若林中尉を、これも伝記またはルポ風に辿る。思えばこれは新聞の特集にも用いられる手法で、短編小説ならぬ短編伝記とでもいうべき表現手法だ。
戦意高揚の標語みたいな遺言で有名になってしまった若林中尉の、素顔に迫ろうという筆遣いが、読み物や文学云々抜きにして悪くないと思った。
武勇伝とは裏腹に伝わる文学青年ぶりも、戦陣におけるギャップのためか、儚さや美しさを際立たせる。
戦争が彼らを詩人にしたのか、詩人を戦争が死なせたのか、後世の私らは、ただ遺された詩歌を前に言葉を失い考えこむばかりだ。
『ある戦いの手記』
名作である。何度読んでも感心し、新たな気づきに触れることができる。
今回は、語り手のいう“脱出”にフォーカスして読んでみた。
序盤、伏線として“あれ”と称する状態の描写がなされている。天啓のように、それは彼に訪れる。
『一口に言うなら、自分が自分でないべつのものに、ふいに置きかえられてしまうような心の状態』
幽体離脱的な、離人症に似た説明もされている。さらに、
『やがてぼくは、永続的にぼくを自身でない、別のものに置きかえたい、と考えるようになった』という。
これは実存主義小説の影響を受けたものなのかもしれない。“あれ”に喚起され、自分の望みを意識し、それを語り手は、こう定義する。
『ぼくがぼく自身からぬけ出ることこそ、ほんとうの意味で、ぼく自身の本質を、回復することにほかならないのだから』
戦争や、予備士官学校や、そこで出会う強烈なアンチテーゼ井田中尉も、こうなると題材の一つに過ぎなかったかと、これまでとは違う印象を得た。
しかし未曾有の不条理を題材とすることで、戦記文学としても読めると同時に、自らを回復する実存主義的な小説にもなっており、さらに古典的な成長の物語も成しており、本作の意外な懐の深さに気づいた今回だった。
『グルカ兵の影』
捕虜の処刑や人肉食といった重苦しいテーマを、男女の痴話に織り混ぜながら読み物にしてしまった、なんとも評価し難い短編。
クライマックスにつながる伏線たるエピソードが見事に重なり合っていくのだが、話自体は軽薄なのである。
ニューギニアで死線をさ迷った際の上官らに再会していく中、さまざまな誤魔化しや、こじつけが、さらっと描かれている。
こういう形で、戦争の傷を麻痺させる、流し読みしてしまうことが、もしかしたら多くの戦中派に求められていたのかもしれない。生きる知恵として。
『たたかう男』
いかにも消費され翌日には忘れ去られていく雑誌に掲載されているような読み物だ。
過去と現在が交互に描写され、それぞれが次第に短時間に、瞬間のエピソードになり場面転換の速度を上げていく。ドラマの脚本のようでもあった。これを『戦記文学集』に撰んだ基準がよくわからない。
『インパール挽歌』
悪名高いインパール作戦の軍司令官を追ったルポ風の短編。週刊誌の慰みものに掲載されたかのような軽さで、M氏を取り上げる。
戦中派が社会の主流を占めた時代には、ことさら戦記文学に興味がない人からも、こうした読み物の需要があったのだろう。
『無名戦記』
戦中派の需要、という観点からは、この作品のスタンスが興味深い。
語り手は冒頭で述べる。
【私には、人間を見る場合、一つの基準のようなものが、いつのまにか出来上がってしまった。それはその人がどういう戦争体験を持っているか、ということによって決定されるのである。】
そして戦争体験者の話を聞いてまわるうちに語り手は気づく。
【かれらは、例外なくそれを語る時にある生き生きとした表情を見せた。】
【いまよりあの時の方が、かれはもっと確実に生きていた、ということであるかもしれない】
だからこその需要だったであろうし、語りたい体験者に事欠かないならば、書くほうはネタも尽きなかっただろう。
読み物風に消費される文体に終始するのは、この短編も同様だが、体験談を語り終えた男の捨て台詞が印象に強く残った。語り手が、
【あなたは、戦争によって少しも傷ついていない、という感じがしますね】というと、男は答える。
【戦争によって傷つくというのは、深刻癖のある一部のインテリの幻影か、妄想でしょう。戦争は、ぼくにとって、青春であり、生活だった。その中で、ぼくは、ただ生きてきただけですよ】
ちょっとハッとさせられた。
深刻さ悲惨さは文学の格好のテーマになり得るのみならず、政治的にも活用されやすい。ことさらそこをクローズアップするきらいは否定できない。『きけわだつみのこえ』も、そういったフィルターで編まれてしまった反省から、第二集では好戦的な学生の手記が採用されている。
それが青春であり生活だった、というような、後世の人の肩を透かすようなものにも着目したいと思った。ひょっとしたら、大衆誌で、こういった戦争読み物を消費していた大勢の戦中派は、そちら側の人だったのかもしれない。
『狙撃』
この作品集を逆順に読み始めて10作目、そろそろ飽きたり読み疲れたりしそうだが、そうはさせないのが菊村到の筆力である。
乾いた文体で、短い中に、緊張感がスパイラルしていき結末に向かう。
価値判断の多くが、戦争体験に立脚しているさま、それが描かれる。材料として利活用したと言えてしまうのかもしれないが、それにしても上手いと思った。
『天皇陛下万歳!』
菊村到にはフィリピン戦を題材にした作品が多い。新聞記者時代の仕事と関連しているのだろう。
本作は純文学的なものではないのだが、重いテーマを含んでいて、今回はそこに着目した。
題名とは裏腹に、作中、間接的に、批判の矛が天皇に向けられる。かつての最高指揮官について、日本人の思うところは愛憎さまざまだろうが、この短編の切り口は、後から効いてくる上手さ、深さがある。
『屠殺者』
本作品集で最も長く、中編小説または短めの長編に分類して良いだろう。語り手は新聞記者で、著者本人の体験記かと見紛うリアルな息づかいがある。戦記文学作者として名が知られるにつれ、原稿や体験談が持ち込まれることは、実際にあったのだろう。
フィリピンにおける人肉食を題材に描く。タブーのように語られ難いが、この手の事件は案外多かったのだろうと思う。軽い小説でさらっと書いてほしくない気もするが、さらっと書くしか術がないともいえる。
その是非を、犯人を、追及しようとする真摯な態度が、このことをタブーにし、暗黙の箝口令を敷かせたのならば、かえって本作のような文体で軽易に提起したほうが良かったのかもしれない。
後の祭りだが、今回新たに得た感想である。
『捕虜をいじめたか』
人違いで戦犯になった男が、本来逮捕されるべきだった男に復讐を果たしにくる・・・
これも考えさせられ、かつ最後まで緊張感を強いる佳品だった。
戦後と呼ばれた時代、戦争はある意味で続いていたのだと再認識した。
さて戦後76年。戦争経験者が絶滅しつつある昨今、いまが“戦前”になっていないかどうか、警戒したいと思う。
戦争が青春であり生活だったなど、言わなくて良いように。
