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よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文892

2024-06-15 18:29:02 | 評論・評伝
『僕らの社会主義』(國分功一郎・山崎亮 ちくま新書)

 東村山市「ゆるや」で見つけた。ここにある本で欲しくなって手にするものに外れはない。
 しかし本書は長らく自分の書棚に積読されてしまった。興味を持って買ったのだが、だんだんと食欲が薄れていったようなのである。
 その理由は、著者が冒頭で丁寧に説明してくれている。
〈いま「社会主義」と銘打った本を出すのは決して容易なことではない。前世紀におけるその壮大な実験に失敗の烙印が押されていることは否定しがたい事実であろう。〉
 そうだ。しかも、かつて社会主義を標榜した日本の政党は、四分五裂して衰退し、国政政党としてはもはや風前の灯である。
 共産党と対立したゆえにナチスの台頭を許したドイツの歴史に学ぶどころか、同じ社会主義の仲間らとも路線等の違いで空中分解し、自民党の天下を許した彼ら。
 さらに言えば、筋を通している共産党のほうが、まだ信用できそうな気もするし、それとは別に、瓦解したかに見える新左翼勢力やノンセクトあるいは無政府主義者の中から、真摯な見直し・復権の動きも見える。相変わらず「資本論」は多くの参考書・関連書籍が出続けている。著者はこうも書いている。
〈左翼の中でもとりわけラディカルな主張の持ち主たちの間では、現在、「来るべき共産主義」への強い期待が高まっていて、そこでは「社会主義」な生ぬるい思想と見なされている〉
 だよね。・・・積読してしまった理由を当の著者らが説明してくれた。ま、それをひっくり返す為の導入部分なわけで、つまり興味を枯れさせて知ったかぶりしていた私は、またも反省することになったわけなのだが。
 というのも、この手の本には珍しく、面白くていっき読みできたのである。異なる分野の2人がひょんなことで19世紀の社会主義思想への興味という共通項を見つけ、刺激し合っていく。
 2人のわくわく感が対談で迸り、読む側にも伝染してくる。
 社民党の凋落を見て即ち社会主義の、没落と見るのは誤りである、そんな当然のことに気づかされた。また、ボリシェビキのもたらしたイメージの弊害も、19世紀に英国で発展した社会主義の再評価を阻害していると知った。
 異なる分野から語る二人だが、そのスタンスがいい。より楽しく生きるためには? というのが最大の前提になっている。
 少子化、安い日本、政経軍事における米国追従、子供の貧困・・・暗い話題ばかりの昨今。私たちには、やっぱり変革への希望が必要なのだと思う。
 それが、人間性と、楽しさとを尊重するイズムであるなら、きっと社会変革は可能だと思う。本書はそれを教えてくれる。
 さあ、社民党よ、立憲民主党の心ある者たちよ、彼らの謂う社会主義に耳を傾けてくれ!

読書感想文887

2024-05-12 10:39:11 | 評論・評伝
『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ』(栗原康 岩波新書)

 東村山市「ゆるや」で見つけた。
 コミュニズムに関する書籍は、ぼちぼちと読んできたが、その親戚筋(?)のアナキズムは未知だった。型通り“無政府主義”と訳し、勝手にパリコミューンのようなものをイメージしていた。
 好意はあるが、実現は困難であろう、と早合点していたのだ。

 その立場を今の日本でも掲げ、訴えている人がいるとは知らず、興味本意で手にした。例によって、「ゆるや」がチョイスするなら・・・という安心感もあって。
 面白かった。いかに、自分が支配の体系に絡め取られ、それを無意識に自然なことと受け止めてきたかを気づかされた。
 文体もまたアナーキーを体現していて良かった。

「ただテメエがサイコーだぜっておもうことをやってりゃあよかったのに、カネをもらえることだけをやりましょう、まわりに評価されることだけをやりましょう、資本家にホメてもらえることだけをやりましょう、それができねえやつらはクソやろうだ、ろくでなしだ、死ね! ってなっちまうんだ。あげくのはてに、調子にのった資本家が、マジで労働者のことを奴隷だとおもいこんで、えらっそうに上からピイピイ、ピイピイと命令しはじめる。おまえはつかえる? おまえはつかえない? あなたの生産性はおいくらですか? ウントコショ、ドッコイショ。人間がカネではかりにかけられる。まるで家畜だ、コンチクショウ! ピイピイ、ブヒブヒ。ピイピイ、ブヒブヒ。」

「でも、そうやってみんなにとって唯一ただしい制度みたいのをたてちまうと、どうしてもそのためにひとにしたがえ、したがえっていいはじめて、あたらしい支配がうまれてしまう。だからそういうんじゃなくて、うたうんでもいい、おどるんでもいい、ストライキでもいい、サボタージュでもいい、暴動でもいい。現にあるものをブチこわしていこうとする。この世が主人と奴隷の関係でつくられているんだとしたら、そこからスルッとぬけだしていこうとする。この世のなかを離脱していこうとする。そういう欲望や願望をぜんぶひっくるめて、コミュニズムっていっていいんじゃないかとおもう。イヨーシッ、極楽がみえちまったぞ、いくぜ! ってね。なむあみだぶつ」

 この感想文を書こうとして、著者名と出版社を確認して、ちょっと驚いた。
「い・わ・な・み・しんしょ」
 岩波書店を見直した。ますます好きになった。
 職場で、頭は良いが教養のない上司が、定期購読雑誌のリストラを計ろうとして、
「『世界』なんて、いらねえだろ。こんなの、いまでも読むやついるのか? まっさきに滅ぶべき雑誌だろ」とほざいていた。 
 私はスッと挙手し、「私は読んでいます」と抗っておいた。きっと、『正論』なんかを愛読してるやつらにすれば、岩波の人文系リテラシーさえ左翼的言説に見えるんだろう。

読書感想文886

2024-05-08 17:38:16 | 評論・評伝
『ウクライナとロシアは情報戦をどう戦っているか』(樋口敬祐 並木書房)

 2022年2月のウクライナ侵略以来、露宇双方についてウォッチを続けている。その一端で手にした。
 防衛省でオシント分析の専門部署に長らく勤めた著者ならば、それなりのものを書くはずだと期待して。
 とはいえ、オシントゆえに大きな期待はしないで臨んだ。フェイクニュースだけでなく、ユーザーの反応を見るための観測気球的報道も飛び交う中、現在進行形の事象を的確に分析し、解を求めるのは困難極まりない。しかも、いわゆるハイブリッド戦争は、そういったフェイク、戦略的コミュニケーション、影響工作を、主要な戦争手段として積極的に活用する。かつての戦争とは、根本的に様相が異なっている。
 したがって、オシントには分析の材料になるものだけでなく、罠も多く含まれている。その諸刃の剣を扱うには、高い技術と経験値が必要だ。
 ということで、解は期待できないが、著者の経験値からくる手法を学ぶには好著だったといえる。
 
 本書は主として分析のノウハウを述べながら、露宇の情報戦を解説するのだが、特にフェイクの見破り方に力点が置かれているように感じた。
 防衛省を退官して発言に忖度が要らなくなったからか、ノルドストリーム爆破に関する分析は卓逸かつ歯に衣着せぬ物言いで、感心させられる。
 オシント分析ゆえ、取り上げられるものの多くが新聞やNHKの特集で知り得る内容で、著者の書きっぷりも「~だそうです」と聞いたふうで、当初はがっかりしたが、膨大な情報を濾過し、整理・分類し、分析して見せる手法は、さすがその道のプロだと唸らされもした。
 民間軍事会社だけでなく、民間の広告代理店もプロパガンダに活用されているという指摘に、立ち遅れている日本の現状を鑑み背筋が寒くなった。
 戦争は、次々と新しい形に変化している。せめてファクトチェックできるリテラシーを備えるべく、学習は続けねばと思う。あえて歴史も振り返り、軸足を定めながら、戦史の一端として客観視できるようにしたい。

 

読書感想文881

2024-04-05 18:45:03 | 評論・評伝
『シリア内戦』(安武塔馬 あっぷる出版社)

 「第2次大戦以後、最大の人道危機」と呼ばれるシリア内戦。概要をまとめた資料だけでは到底理解できない、複雑・重層的な要因の絡まり合った内戦である。
 少しでも背景を知ろうと本書を手にした。約400ページの大著であるが、職場で、休憩時間を駆使して、なんとか読了できた。
 しかし、頭の中は、益々混迷している。共感ストレスなのか、心も疲弊してしまった。
 これほどの無駄死にが、いまの時代にも続いている。そして、虐殺を主導した側が、生き残って復権してしまった。
 権威主義国家が度々引き起こす悲劇。著者の示唆は言外に響く。
『アサド政権中枢の人々が抱く恐怖心こそが、シリアのこの終わりのみえない悲劇の根源にあるのではないだろうか』
 ロシアも、そうなのかもしれない。

 ジハーディストが、次いでISILが加わり、更に複雑化する内戦。アメリカとロシアの代理戦争。サウジとイランの代理戦争。クルドが勢力を拡大すれば、トルコも武力介入する。他方で、カタール対サウジのような内ゲバも生起した。
 味方同士と思いきや、そうではなく、敵同士だったはずが、攻撃を控え合う。守護大名、守護代、国人衆、一向衆らが群雄割拠した戦国時代のようである。
 共感ストレスだけでなく、他の意味でも頭が痛くなってしまった。
 しかし私たちは、目を逸らしてはいけない。忘れてはいけないのだ。各地で、受け止めきれない悲劇が起き続けているとはいえ。

読書感想文878

2024-02-21 19:23:00 | 評論・評伝
『スターリンからフルシチョフへ』(ギウセッペ・ボッファ 石川善之訳 三一新書)

 ロシア・ソ連の指導者について調べている過程でみつけた。いわゆるスターリン批判が行われた、第20回党大会の前後5年間をモスクワに滞在したイタリア共産党員によるルポルタージュである。
 西側の人間でありながら、共産党員という絶妙な立ち位置の著者が見る激動の5年間。これは古本屋の片隅で忘れ去られるには惜しい記録である。
 スターリンの伝記、フルシチョフによるスターリン批判を読んだ上で手にしたので、大変面白く、話の辻褄が合っていくのを追うように読めた。
 著者は「個人崇拝」への批判に出くわした当初の驚きをこのように書いている。

“これらの慣習は、たしかに長い目で見れば有害であったにしても、ある時期には歴史的に必要なことだったのではないか”

 難しい問題だ。信じがたいほどの犠牲をもって、ナチス・ドイツから国土を守るために。あるいはかつての同盟国・ソ連を目の敵にする、共産主義の波及を恐れる各国との対立。国内を強く引き締め、これに対抗するには、独裁者が必要悪だった・・・これは否定できない。
 また、著者はスターリン批判の歴史的必要性をこう説明する。

“沈黙が守られているかぎり、1953年以後のもろもろの改革が、単なる思いつきの、その場限りのもののように思われる危険があったということである”

 つまりは、フルシチョフがソ連共産党で正当な権力を継承するのに、“スターリン批判”という手順が必要だったともいえる。
 以前、“批判”の全文を読んで、私はフルシチョフの民主主義的な、あるいはマルクス・レーニン主義に立ち返ろうとする純粋な革命家の良心を感じた。しかしそれは一つのパフォーマンスでもあったわけだ。上に引用したように、著者は手続き上の必要性には言及するが、しかし権力闘争上のパフォーマンスとまでは言わない。私の第一印象と同じく、著者は概ねフルシチョフを誉め、歓迎してしまっている。(皮肉にもその無批判性に、私は“個人崇拝”の慣例を感じてしまった)
 と、手厳しく書いてしまったが、「スターリン批判」は、冷静に受け止め得ないほど、共産党員には青天の霹靂だったようだ。以下、著者がソ連で聞き取ったエピソードがそれを如実に表している。

“会議か終って出てきた大抵の人の顔には、明らかに狼狽の色があった。あとできいたことだが、かれらのあるものは、家に走って帰り、スキー道具をかついで、市外に出かけ、夜中まで森の中をほっつきまわったということだ、疲労で、くたくたになり、何もかも忘れてしまいたかったのだ。そして翌日になってもまだ完全に自分をとりもどすことができなかったということである”

 とはいえ時間が経つにつれ、さまざまな冷静な意見が持ち上がった。
 著者の説明を引用しよう。

“どうしていっさいをスターリンの個人的欠点だけに帰することができるのか? 何故原因をもっと深くつきつめないのか? 今日の指導者の諸君は昨日までどこにいたのか? ”

 特に三つ目の疑問は辛辣である。フルシチョフの報告では、あたかも自分らが民主主義的な、人民の側を代表しているかのように見える。しかし、フルシチョフ本人がそもそもスターリンの下で出世を遂げてきた者である。
 著者は、これらの疑問に真摯に向き合い、本書で丁寧な分析を行う。けれどフルシチョフ自身に批判・疑問を向けることはない。西側の人間とはいえ、共産党員である著者の限界が露呈しているといっては、意地悪に過ぎるだろうか。
 とはいえ、著者の舌鋒は、過去の失政に対しては鋭く機能する。

“驚きにたえないことは、だれかが罪を宣告されると、しばしばその背後に凶悪な外国の敵の手の働いていることが証明されたことである。この敵は、当該第三国の「秘密機関」によって代表され、あらゆるところに網をはっていると考えられていた。あのようにしばしばくりかえされたこうした非難を当時の人々が、かくも容易に信ずることができたということは、嘘のように思われる”

・・・嘘のようなことが、今のロシアでも繰り返されている。反政府的活動は、外国のスパイとみなされ、投獄や暗殺の対象だ。ロシアという国の、普遍的な政治風土なのかと思ってしまう。
 と、鋭い見方をする一方で、著者のおめでたいような論述も散見された。

“ソ連における社会主義建設は、私的な資本家や銀行家もなく、外国からの借款もなく、植民地的利潤もない状態のもとで実現された。たしかにこれを軌道にのせるためには長期にわたる苦しいぎせいが必要だった。しかしこれらのぎせいは住民の大多数によって自由意志で受諾された”

 まだ、スターリン治世の悲劇が明るみになっていなかったからか。あるいは、党員たる著者の目は曇っていたのだろうか。ウクライナの飢饉は“大多数”の外に数えられる少数の犠牲に数えられているのか。
 最後に、どうしてフルシチョフが権力を握ったかの疑問に応えるフルシチョフ本人の寓話が紹介されている。これは単純に面白かった。

“四人の男がウクライナの監獄にくらしていた。四人とも自分たちの運命のことを余りくよくよしていない。一人は無政府主義者、一人は社会民主主義者、一人は共産主義者、それからチビのユダヤ人だった。小包がとどいて、なかみを仲よくわける段になると、最初の三人は、それぞれもっともらしい理由を見つけて、この仕事を敬遠した。それでいつもチビのユダヤ人が分配の役を引き受けさせられた。ある日、地下にトンネルを掘って、脱走することにきまった。しかし最初にトンネルを出たやつは、歩哨にみつかって、鉄砲のお見舞いを受けるかもしれない。ところでユダヤ人は一番チビだったので、彼が一番先に出ることになった”

 あるいは、私利私欲でなく、ソ連建て直しのために、フルシチョフは難しい役を買って出たのかもしれない。
 興味は尽きない。フルシチョフのウクライナ時代のことや、クリミア移管の経緯など、もっと調べてみたい。
 脇にそれたが、本書は歴史的限界を露呈しているとはいえ、資料的価値は小さくない。また一人の人間のルポルタージュとしても、読み甲斐があった。